中学二年のある教室。
休み時間から戻ってきて席に着いた少女は、次の授業の教科書を机の上に出した。
先生が来るまで、教室はまだ騒がしい。
少女は何もすることなく、ぼんやりと回りを見ていた。
その少女が見た先に、数人の男子生徒たちが一人のある男子生徒の机を囲んで、お喋りしていた。
少女は何気にその光景を目に映していた。
取り囲まれた席についている男の子だけは、周りの生徒たちの話を気にせず、シャーペンを持って真剣に何かを記入していた。
取り囲んでいた数人の生徒たちは、時々笑いを交えてそれを冷やかす。
「何が書いてあるんだよ。はあ? 『好きな食べ物は何ですか?』だって?」
鼻で笑う者、馬鹿にする者、傍観してる者と様々だが、それでも周りは少年が机の上で記入していたものに非常に興味を抱いていた。
「お前ら、うるさいんだよ」
記入していた少年は邪険にあしらった。
「ちょっとくらいいいじゃないか。それ女の子からもらう『質問レター』だろ。何が書いてあるか気になるじゃないか」
質問レター。
出す方もドキドキ、貰ってもドキドキと、少年少女たちの恋の遊び。
気になる人、好きな人への、ちょっとした質問を紙に書いて、それを友達に頼んで匿名で渡す。
ラブレターよりは手軽で、質問したら大抵本人から返事が返ってくる仕組み。
質問レターを貰うという事は誰かに気にいられているという証拠。
まだ告白まで勇気がないけども、好きな人の情報を得たり、直筆で返事が返ってくるだけで嬉しい。
少年もまた、律儀に返事を書いているところを見ると、内心嬉しいのかもしれない。
少女は遠い目でそれを見ていた。
先生が教室に入ってきて、みんな席についても、少年はまだシャーペンを動かしていた。
授業が始まっても暫くその作業をしていた。
少女も気になりながらチラチラその様子を見ていた。
授業が終わると、質問レターを貰った少年は友達に冷やかされないように、それを手にしていそいそとクラスの女の子に渡していた。
その質問レターを渡された女の子はクラスでも目立つグループにいる子だった。
あの子が出したのだろうか。
でも事務的にそっけなく受け取り、少年も何事もなかったかのようにすぐさま離れる。
その一部始終を目で追っていた少女は、その質問レターがその後どうなるのか気になって、暫く成り行きを見ていた。
質問レターは渡された女の子の手の中だ。
その女の子は周りを気にしながら、そっと教室を出て行く。
どこへいくのか、少女も追いかけてさりげなく廊下に出てみれば、女の子は隣のクラスへ入って行くところだった。
質問レターを出したのは、どうやら隣のクラスの女の子のようだ。
直接やり取りするところは見られなかったが、きっと質問レターを出した子は返事が貰えて喜んでいるに違いない。
それ以上追及する気になれずに、少女はまた教室へと戻った。
一度そういう行為が目に付くと、少女の周りで質問レターが飛び交っている事に気が付いた。
出す相手もいない、自分には縁がない。
少女は遠い世界の事のように思っていた。
まだ恋に目覚めていない少女は、男の子を意識することなく、気さくに喋る。
隣の席になった男の子は特に、身近なのでふざけ合ったりしていた。
少女の隣の席の男の子は最初、物静かで恥ずかしがり屋だったが、気さくに少女から話しかけられ、偶然好きな漫画やアニメが同じで、少女に親近感が湧いた。
それ以来、よく話すようになった。
「その漫画なら全巻もってる」
少し得意げに男の子は少女に言った。
「へぇ、すごい」
「もういらないから捨てようと思ってたけど、欲しいならやるよ」
つい気が大きくなって男の子は言ってしまった。
「えっ、そんなのもらえないよ。だったら貸して」
「ああ、いいよ。学校に持ってくるの大変だから、家まで取りにこいよ」
男の子の家は、どこにあるか少女も知っていた。
自分の家に帰る途中、回り道をするだけで簡単に行ける。
でも、家まで取りに来いは少し躊躇ってしまう。
少女は適当に返事した。
男の子は律儀に「早く取りに来い」と何度も言ってくるが、その時は女の子も感謝の気持ちを込めて乗り気なのだが、やはりいつ行っていいものかわからなかった。
そんな中、席替えの日にちが迫っていた。
席が変われば、その男の子とは話す機会もなくなって疎遠になってしまうだろう。
女の子はそれでも自分から男の子の家に行けそうもなかった。
その男の子はクラスでも目立つ訳でもなく、かっこいいという訳でもなかった。
でも優しく、勉強もそこそこできて、少女が先生にあてられてわからないときはいつも助けてくれた。
そんなある日の昼休み時間、その男の子が離れた場所で友達と一緒になって紙に何かを書いていた。
女の子はそれをちらっと目にした。
楽しそうに笑いながらそこで何かが起こっていた。
見てみぬふりをして、あまり気にしなかった。
ところが、その放課後、その隣の席の男の子の友達がいきなり少女の目の前にやってきて、折りたたんだ紙を突き出した。
「これ、隣のクラスから回ってきた質問レター」
「私に?」
少女は恐る恐るそれを手にした。
暫く紙を持ったまま突っ立っていた。
少女は昼休みに見た光景をふと思い出した。
紙を持ってきた男の子も隣の席の男の子も、その他の男の子たちも笑いながら紙を囲んで何かをしていた。
それが手にした紙と繋がった。
女の子はそれを書いたのが隣の席の男の子だと思った。
実際その男の子だけが、紙に向かってシャーペンを走らせていたからだった。
「これ、からかってるの?」
女の子はつい口から出てしまった。
そしてその後も続いた。
「私、書いてるところ見たよ」
少女はそういうのに慣れてなかった。
もらって嬉しいけども、もしかしたらからかわれてるかもしれない。
紙を渡しに来た男の子は、少女にそう言われるや否や、すぐさま少女の手にあった紙をひったくった。
「ごめん、間違い」
その男の子はすぐさま紙と一緒にどこかへ行ってしまった。
少女は暫く呆然としていた。
一体何が起こったのか。
もしかして、隣の席の男の子からの質問レターだったのだろうか。
書いてる所を見たと言ったら取り上げられた。
都合が悪くなったということは、やっぱり図星だったのだろう。
あの紙には何が書かれていたのか。
気になるのなら黙ってもらっておけばよかった。
今となっては遅すぎた。
それから席替えが行われ、あれだけ仲良くなった隣の席の男の子とは離れてしまい、その後一言も話さなかった。
漫画を貸してもらう約束もなかった事のように忘れられてしまった。
それから暫くした学校の帰り道。
用事があっていつもと違う道を通って帰宅していたとき、あの男の子の家の前に出くわした。
少女は男の子と同じ苗字の表札をじっと見つめてしまう。
「こんなに近くだったんだ」
今、インターフォンを押したらどうなるだろう。
『漫画借りにきたよ』
きっと何事もなかったように貸してくれることだろう。
でも少女は、その男の子の家の前を素通りしていく。
席が離れると、全てがリセットされてしまった。
男の子とは席が離れてから話す機会が全くなくなってしまった。
すれ違ってもどちらも見てみぬふり。
でもお互いぎこちない。
離れて初めて、少女は切なくなる。
それでもどうすることもできないまま、中学二年の日々は静かに思い出に変わろうとしていた──
質問レターを素直に受け取らなかったことを後悔して。
ドイツのデリカッセン。
そこはびっくりハム・ソーセージ博物館といいたくなるほどに、たくさんのハムやソーセージがショーケースの中でひしめき合っていた。
アメリカに住むドイツ人が経営する、限りなくドイツの味に近いハムとソーセージの店。
そこを訪れた、日本人妻とアメリカン夫。
その店の端から端まで広がった、ガラスのショーケースの中には様々な肉の塊やその加工品が乱雑に入り混じって入っているのを、ふたりは興味深く見つめる。
ハム、サラミ、ベーコン、ソーセージ、レバーペイスト、そして知らない種類もあり、店の天井からもドライなソーセージがぶら下がっていた。
塊ごとどさっと置いてあるそれらは、買う時その場で薄くスライスしてくれる。
変わった種類がいっぱいだと二人はどれを買うか迷っていた。
ドイツ語で書かれたハムやサラミの名前が、妻には読みにくい。
適当に指差して注文すれば、店員は最初にスライスした一枚を目の前で見せ、薄さの確認をする。
それでいいと言えば、それを惜しみなく試食として渡された。
スライスしたてのジャーマン仕様のハム──シンケン──を夫と半分こして妻は口にする。
文句なくおいしい。
「ドイツ語ではハムのこと『シンケン』っていうんだね。日本語みたい」
妻は夫に言った。
夫はショーケースを見つめながら適当に返事する。
サラミが気になって、いくつかの種類を見ていた。
サラミも、種類が豊富で、見た目だけでは何が何やらわからない。
夫は店の人と話し、お薦めを訊いていた。
そして後に妻にも説明する。
「これコンニャクで作ってるんだって」
「えっ、コンニャク?」
「うん」
「それ、食べたい。それ買って」
ドイツにもコンニャクがあることにびっくりした妻だが、それでサラミが作れることにも驚いた。
ショーケースの上を超えて差出された店員の手のひらに、紙を敷いて二枚にスライスされたサラミが乗ってあった。
また試食品を惜しげもなく与えられた。
「Is this made of コンニャク?」
コンニャクで作られているのか、はっきりと知りたかった妻は訊ねた。
ドイツ人っぽい店員は「イエス」と堂々と答える。
妻はコンニャクが英語で伝わる事にも驚いた。
トウフもシイタケもエダマメもミソも日本語で通じるようになったが、そこにコンニャクが加わってるとは思いもよらなかった。
カラオケとサケは有名どころだが、フトン、ヒバチ、ベント―、カイジュウ、ツナミなど、他にも多数の日本語が英語圏で通じる。
日本の物が、アメリカではそのまま英語でもその名前で使われるようになってきている。
そのコンニャクで作ったサラミ。
これも新しい日本の夜明けなのかもしれない。
見かけは普通のサラミだが、この中にコンニャクが隠れているのだろう。
妻は期待してそれを口に入れた。
それは普通に美味しかったが、コンニャクはあまり感じられなかった。
「コンニャクが入ってるって言われないとちょっとわからないね」
夫もそんな事をいう。
「でもカロリーが少なくなってるのかも」
コンニャクはカロリーがない。
それが入ってるのならきっと本来のサラミよりカロリーが少ないはず。
妻はウキウキして、コンニャクのサラミが気にいった様子だった。
「コンニャクか、ウフフ、こんにゃく」
あまりにもインパクトが強くて、しつこく妻がコンニャクと連呼した。
夫は不思議な顔をしていた。
「そんなにコンニャク好きなの? だったらリッカーショップに帰り寄ろうか?」
「えっ、リッカーショップ?」
「うん、コンニャク売ってるよ?」
妻は考えた。
何かが噛み合ってない。
リッカーショップはお酒が売ってる所だ。
コンニャク…… コンニャク……
あっ、もしかしてコニャック?
サラミにはコニャックがアクセントに入っていただけだった。
オーマーイガッ!
女には恋人がいた。
飛行機に乗らないと会いに行けないほど遠い所に。
遠距離恋愛だった。
その時代はまだインターネットがなく、連絡の手段は手紙や電話のみだった。
しかし、手紙はやり取りに時間がかかり、電話は費用が高くなってしまう。
会いに行くにも遠すぎて、まとめて取れる休みもお金もなかった。
頻繁に出していた手紙も、どんどん回数が減っていく。
そのうち女の前に、新しい男が現れた。
遠くに彼がいるとわかっていても、色々と世話を焼いてくる男が側に来ると、女は気持ちの迷いがでてしまった。
その男に優しくされるとあまりにも心苦しく、二股をかけてるようで罪悪感が芽生える。
自分には遠距離恋愛で彼がいると説明するが、その男はアプローチをやめなかった。
その男も本気で女に好意を抱いていた。
女は遠距離恋愛の彼からの手紙を待つも、返事がなかなか来なくなり、どんどん二人の間が離れていってるように感じだした。
その間に身近にいる男はどんどんと距離を縮めてきた。
そのうち女はその男に心が傾いてしまった。
そしてとうとう、遠距離恋愛の彼と別れる決心をするのだった。
女は手紙を出す。
これ以上は続けられない。
他に好きな人ができてしまった。
まさに遠距離恋愛のよくあるなれの果て。
振られるか、振るか、自然消滅かの違いだけで、結局は別れてしまう。
遠距離恋愛の彼は、女からその手紙を読むや否やすぐに電話をかけてきた。
「どういうことだ」
「ごめんなさい」
女は謝る事しかできない。
「俺は諦めない。お前が好きだ。結婚したい」
「だったら、どうしてすぐにそういってくれなかったの? もっと早く言ってくれたら、私もそっちへ行く覚悟がついた。でもあなたはそれを避け、時には私がどんなに手紙を書いても数か月も連絡をくれなかったじゃない」
男は黙り込む。
男にとっても、空白のあの時期は自分から遠距離恋愛をやめようかと悩んでいた時でもあった。
しかし、それを思い直してそろそろ結婚の事を考えた時だった。
その間に女は新しい男と出会ってしまった。
全てはタイミングがそうさせてしまった。
「お願いだ。もう一度考えてくれ。俺はお前しか見えない。お前はきっと俺の元に戻ってくる」
男の強気なその発言を女は冷ややかに聞いていた。
「ごめん。無理」
「愛してるんだ。だから……」
それでも女は考え直さなかった。
今更、彼の元へなど戻れないし、気持ちはアプローチしてきた男へ完全に向いてしまった。
そのアプローチしてきた彼にはすでに結婚を前提に付き合って欲しいと言われている。
そこで女は気持ちが固まった。
電話は、結局どちらも反発し合うまま後味の悪さを残して切った。
すっきりした別れ方ではなかったが、女にはすでに終わった事になり、新しい男との付き合いが始まった。
その数日後、すぐさま遠距離恋愛だった彼からの手紙が届いた。
出会った頃の思い出、ずっと好きだと思いを綴っている。
新しい男とは絶対に上手く行くはずがないとまで書いてあった。
『俺はいつまでも君を思い続ける。この先もずっと君が戻ってくるのを待ってる。だから君は俺の事をずっとずっと考え続けるだろう。そして必ず俺の所に戻ってくるはずだ。愛してる。いつまでも待っている』
熱く思いを語られ、女は心苦しくなってしまう。
ここまで愛されたら、女の思いは複雑だった。
ただ自分が他に好きな人が出来てしまった事で、良心の呵責が強くなるだけだった。
でも最後の追伸の一言で女は「ん?!」となった。
『PS あまり長くも待てないから返事は早くな』
その矛盾した追伸に思わず突っ込みを入れてしまう。
いつまでも待つのか、待てないのか、どっちやねん!
女は、便箋と封筒を取り出し、さようならの返事をすぐさま送った。
中学に上がったばかりのその少女は、友達の書く字を見てコンプレックスを抱いた。
友達の字は中学一年生が書くには達筆過ぎた。
なんて美しい字なんだろう。
友達のノートを見るとそう思わずにはいられなかった。
その後で、自分のノートに目をやれば、自分の字に失望してしまう。
自分の字は大小そろってなくて、バランスが悪く、全体的に見るととてもきたない字だった。
なんとか工夫して、せめて可愛く見えたらと、丸っこく書いてみたりするが、やはり基本がなってないと、ごまかしはきかなかった。
字がきたない事は自分の性格も悪く思えるし、女としても恥ずかしい。
字は人柄を表すなんていう。
この字では誰からも変な目で見られてしまう。
なぜ上手く整って書けないのだろう。
字を書く度に、悔しくやるせない気持ちを抱く。
友達の書くきれいな字が羨まし過ぎた。
クラスの女子の字は様々なタイプがあるけども、どれも全体的にパッと見た感じほとんど整っていて、どれも自分よりはるかにきれいに見えた。
だけど一人だけ、自分よりひどい字を書く女の子がいた。
少しほっとしてしまうのだけど、少女はその子が嫌いだった。
なぜなら平気で人をうらぎるようなずるい性格の持ち主だったから。
やはり字は性格や人柄を表す。
きたない字は人間性にも問題があると思われても仕方がない。
そう思いこんでしまった。
嫌われる人は字も汚いという公式が、その女の子の人柄と字を見て繋がると、少女は自分もそう思われてると感じて益々落ち込んだ。
なんとかきれいに書きたい。
手の力を抜き、意識して丁寧に書くも、それだと時間が掛かって、授業中、黒板に書かれたことをノートに写す時間がかなりかかってしまう。
これでは間に合わない。
悩みながら少女は黒板に書かれたことを、汚い字と思いながら素早くせっせと写した。
一時間目に国語がある日の朝、その授業の宿題のプリントを授業が始まる前に提出しなければならなかった。
数人の男子たちは、宿題をし忘れて慌てている。
二時間目の数学も同じように宿題のプリントを提出しなければならなかったので、それもやってない男子はもっと焦っていた。
「頼む、これやってくれ」
クラスでも人気者の男の子が少女の元へ来て、国語のプリントを渡した。
「私の答えは間違ってるよ」
「とにかく白紙よりはいい」
「でも、私、字がきたないよ」
「そんなの構わない。数学もやってないから、時間がないんだ。とにかくこれ頼む」
男の子は半ば押し付ける形で、女の子に自分のプリントを渡した。
迷惑でありながらも、頼まれた男の子に好意を少しばかり抱いていた女の子は、仕方がないと、自分のプリントと照らし合わせて男の子のプリントに書きこんだ。
それをやってるのは自分だけではなく、何人かの女子生徒たちも頼まれて書きこんでいた。
人気者の男の子は自分に頼んできた。
少し優越感を感じてしまう。
でもチャイムの音が鳴るや否や、そんな気分に浸ってられない。
とにかく答えを所々埋めるだけでいいだろう。
少女は急いでそれを仕上げた。
なんとか先生が来る前に、少女はギリギリで男の子にプリントを渡せた。
男の子は丁寧に礼を言ってくれた。
その笑顔が自分に向けられていると思うと、ちょっぴり嬉しかった。
そして一時間目が始まり、先生がやって来た。
少し神経質そうなヒステリー気味の中年のおばさんだ。
早速宿題のプリントを提出し、それらが教卓に集められると、先生はメガネの奥から鋭い目を光らせて、ざっとそれらに目を通した。
「人にやってもらって、自分で書いてない人がいる。字が違うじゃないの。先生はこんなのすぐに見分けられるのよ」
そうやって朝から怒りモードになり、怪しいプリントを束から抜き出して言った。
名前を呼んでは起立させ、叱る。
そして、少女に頼んだ男の子の名前も呼ばれた。
少女は、やっぱりバレたかと思ったその時だった。
「ん? あっ、これはお前の字だな。こんなに汚い字だし」
先生は男の子の名前を呼んだが、それを取り消した。
少女の席よりも斜め前の方にいた男の子は、少女に振り返って笑っている。
でもその笑い方はおかしくてたまらないのを我慢している様子だった。
それとは対照的に少女は、先生の言葉にショックを受けていた。
何せその字は自分が書いたものなのだから。
男の子が書いた字と勘違いされたとはいえ、はっきりと汚いと言われたのが相当衝撃だった。
授業が終わると、男の子はすぐさま少女の許へと一目散に駆けつけた。
少女は男の子がやってくるのを見ながらとても複雑な気分でいる。
男の子はにこにこしながら少女に近づく。
少女の前に立つと、とびっきりの笑顔をみせた。
「ありがとうな。バレないと思って君を選んだんだけど、本当に君の汚い字のお陰で助かったよ」
「…………」
とどめの言葉も添えられた。
アメリカンの夫と日本人の妻は猫を多数飼っていた。
そのうちの一匹をそのアメリカンの夫が動物病院へと連れてった。
もちろんそこはアメリカの動物病院だ。
連れて行かれた猫は非常に怯え、震えていた。
獣医の助手がケージから丁寧にその猫を出して、優しく抱きかかえた。
猫は怖さで体が強張り固まって動けなかった。
台の上に乗せ、体重を測る助手が、夫に問いかけた。
「猫の名前は?」
夫は恐怖に怯えている猫を心配そうに見ながら答えた。
「ハマチ」
それが猫の名前だった。
何も考えずに、妻が感性だけでそんな名前にしてしまった。
はっきり言って、魚のハマチだ。
アメリカ人の中には、寿司が好きな人もいて、「ハマチ」が通じる事があるが、大概は意味が良くわからず、また聞きなれないその音に訊き返す人が多い。
助手は猫の体重を夫にとりあえず知らせる。
「10 pound」
大体4.5kgというところだった。
猫の平均的重さとしてはそれくらいだった。
そして夫も相槌を打ったとき、また助手が質問した。
「それで、猫の名前は?」
やっぱり聞きなれないのだろう。
よくあることなので夫も気にせず言った。
「ハマチ」
その時、固まっていた猫の呪縛が解けたかのように、台から飛び降りようとして、助手は慌てた。
「おお、えっと、10 pound」
動いたせいでまた測り直した感じだった。
猫を押さえながら夫の顔を見てもう一度聞いた。
「猫の名前は?」
集中できないと聞き取りにくいのかもしれない。
「ハマチ」
夫は少しゆっくり目に言ってみた。
助手は不思議そうな顔をして夫を見つめていた。
「10 pound?」
自信なさげに助手が呟き、その後も困惑した表情を向けながら「猫の名は?」と聞く。
「ハマチ……」
「10 pound…… 猫の名は?」
「えっ? ハマチ……」
「10 pound…… 猫の名は?」
「? えっと、ハマチ?」
「? 10 pound…… 猫の名は?」
「?」
「?」
あまりにもしつこいそのやり取りに、お互い顔を見合わせ沈黙が続く。
でも夫は猫の名前を根気よく伝える。
「ハマチ……」
「?? 10 pound…… 猫の名は?」
助手も何度も繰り返す。
夫はその時やっと気が付いた。
猫の名前が助手には「ハウマッチ(体重はいくら?)」と聞こえていた。
州をいくつもまたいだ出張先の仕事が終わり、男はホテルに戻ろうとタクシーに乗り込んだ。
行き先を告げ、ぐったりと疲れて座席に座れば、腹がグルルと騒ぎ立てた。
腹が空いている事に、この時初めて気が付くように、男は自分の腹に手を置きながら夕食の事を考えた。
具体的に何が食べたいのかわからないが、とにかく美味しいものが食べたい。
そう思うや否や、男はタクシーの運転手にお薦めの店はないかと軽く訊いた。
「それならいい店がこの近くにありますよ」
タクシー運転手が答えると、男は具体的な事も訊かず行き先をそこに変えた。
喧騒な街を離れ、広大な乾いた大地が広がる中をタクシーは進む。
夕日がそろそろ落ちようとしていた。
セピア色に包まれた夕暮れ時。
トワイライトの微睡に男は穏やかな気持ちに身を包んでいた。
「着きましたよ、ここです」
そこにはウエスタンスタイルの建物が静かに佇んでいた。
まるで古き時代の西部劇を見ているようだ。
一日の終わりの黄昏時にその店は馴染み、癒されるように懐かしさがこみ上げる。
暫しの日常生活を忘れさせてくれる、どこか別の次元に来たようだと男は思った。
「バーベキューと美味しい地ビールが有名で、地元では人気の場所ですよ」
人懐こい笑顔でタクシー運転手は、自信たっぷりに言った。
男がタクシーから降りようとすると、運転手は運転席から身を乗り出して、慌てて付け加える。
「帰りもこの辺りを走っているから、電話をくれたら迎えに来ますよ。だからゆっくり食事を楽しんで下さい」
運転手はビジネスカードを差出した。
男はそれを受けとる。
ちらりとそれに目を通してから「ありがとう」と言ってタクシーを降りた。
「それじゃ、また後で」
ドアを閉め、去っていくタクシーに一度手を掲げて、男は店に向かった。
店の中はまだ客がまばらで、空いていた。
年季が入ったテーブルや椅子。
古くとも温かな親しみが感じられ、その店に合っていい雰囲気だった。
地元に愛されているのが伝わってくる。
好きな所に座っていいと、他のテーブル客の相手をしていたウエイトレスが男に簡単に伝えた。
男は敢えてカウンターのスツールに腰掛けた。
酒の扱いに手馴れてそうな貫録のあるバーテンダーが、明るく迎えてくれる。
「初めて見る顔だね。仕事でこの土地にきたのかい?」
「そうです」
「よそから来て、この店を見つけたのは、すごい幸運だ。ここはちょっと隠れた名店だからね」
「タクシー運転手が教えてくれました」
「もしかして、サムか?」
渡された名刺にそのような名前が書いてあったのを、男は思い出し頷いた。
「サムのタクシーに乗ったとならば、それは運命的に導かれたって事だ。あいつもここの常連だからな」
バーテンダーは太い声で笑った。
それは男をリラックスさせ、気分を良くした。
大らかさが感じられ、心をほぐしてくれる。
この店にいる誰もがいい笑顔で語らい、男も自然と顔が綻んでいた。
「何か飲むかい?」
バーテンダーに訊かれ、男はこの店の自慢のビールを注文する。
それが正解だと言わんばかりに、バーテンダーの粋なウインクが返ってきた。
バーテンダーの太い指先がグラスを掴み、カウンターの裏で並んでいたケグの一つを手前に引いて、ビールを注いでいく。
慣れた手つきで注がれる黄金色の液体と白い泡。
見るからに旨そうで、喉の渇きがたまらなくそれを欲する。
目の前にグラスを置かれ、それを男が手にしようとしたとき、腹がでっぷりと出た中年の男性が突然横から現れた。
「俺も、同じのを貰おう」
「あれ、珍しく今日はビールかい?」
バーテンダーは、それを言うやすぐさま、グラスを掴んでビールをグラスに注ぎだした。
「ああ、この客人を見てたら急に飲みたくなってね」
男のせいでもあるかのように、わざとらしい笑みを飛ばした。
バーテンダーは何も言わず、ビールが注がれたグラスをカウンターに置き、新たに注文が入った他の客の酒を作るためにどこかへと行った。
太った男は、男と向き合い、
「あんた一人だろ。ここ座っていいかい?」
と、無遠慮に言った。
「もちろんどうぞ」
男も歓迎した。
「ありがとな。俺はジムだ。よろしく」
自己紹介をされ、男も自分の名を言った。
そしてその後は挨拶代わりにお互いグラスを重ね、ビールを口にする。
男がビールを飲む様子をジムはじっと見つめていた。
「いい感じに飲むね。なんだかイーサンを思い出すよ」
「イーサン?」
「ああ、高校の時の友達だ。あんた俺の友達のイーサンに似てる」
「そうですか、それは光栄かも」
男は笑みを浮かべ、ジムに付き合う。
どうせ一人での食事。
話し相手がいるのは悪くなかった。
タクシー運転手がここを紹介し、その繋がりでバーテンダーも男を歓迎し、そこに常連のジムが自分を友達のイーサンに似てると言う。
その繋がりがとても楽しい。
これもまた不思議な気分だった。
旨いビールと一緒に名物のバーベキューを囲んで、暫しのジムとの語らい。
とにかくジムは良くしゃべった。
そして何かあるごとに、男がイーサンに似てるという。
ジムもそれが懐かしいのか、高校生に戻ったように調子に乗って楽しく語らう。
「その、笑い方、ほんとにイーサンだ」
「そのメガネもイーサンが掛けていたのとそっくりだ」
「その髪型もイーサンだ」
何かあるごとに『イーサン』を付け加えた。
アルコールが入ったせいもあるだろし、ジョークでもいうようなちょっとしたノリでもあったのだろう。
男を自分の友に似てると囃し立てた。
「あんた、ほんとはイーサンじゃないのか?」
ほんの少し期待した目でジムは言った。
「いえ、私は違います。そんなに似てるんですか」
ジムと比べたら男の方が年が若い。
年齢から考えれば、ジムの同級生であるイーサンのはずがなかった。
それでもジムの瞳はそうあって欲しいと物語っていた。
「イーサンとはちょっとした喧嘩をしてな、最後まで謝れずにそれっきり会ってないんだ」
ジムは宙に瞳を漂わせ、しんみりとしてしいまった。
どちらも若気の至りの衝突に違いない。
よくあることだ。
ジムは謝れなかったことをずっと後悔していたのだろう。
そこへ似ている男が現れて、箍が外れてつい声を掛けてしまった。
その気持ちはわからなくともない。
この店に入ったのも何かの縁だとしたら、男はイーサンに似てると思われても良かった。
「もう大丈夫ですよ。あの頃はどちらも若かった。私がイーサンだったら、気にしてませんよ」
「……そうか」
ジムは男を見て微笑んだ。
その後、視線を逸らし、遠い目つきで物悲しげに虚空を見ていた。
「さあ、もっとビールを飲みましょう。ジム」
「そうだな」
二人はまたグラスを重ね合せ乾杯する。
どちらも気分よく、それは気持ちいい酔い方だった。
一人で食事をしていたらこうはならなかった。
それにここのビールは本当に旨かった。
不意に時計を見れば結構な時間が過ぎていた。
そろそろホテルに戻らなければならない。
いつまでもここで飲んでる訳にはいかなかった。
「もう行くのかい?」
ジムも名残惜しそうに問いかける。
「明日、早いのでそろそろホテルに戻らないと」
男はビジネスカードを見ながらスマートフォーンで、タクシー運転手のサムに連絡した。
サムは5分で迎えに来ると、弾んだ声で言った。
男はさっさと、勘定を済ませ、バーテンダーにチップをはずんだ。
椅子から腰を上げれば、ジムは何か言いたそうに男を見つめていたが、男の方から潔く手を差し伸べる。
「ご一緒できてとても楽しかった」
「こちらこそ、ありがとうな」
ジムと固い握手を交わし、男は店を出た。
外の冷たい風が、酔って火照った体に気持ちいい。
暗い夜空の星を見上げ、いい夜だと思った時、後ろから自分を呼ぶ声がする。
振り向けばジムが追いかけて来ていた。
「お前さんをしつこくイーサンに似てるって言ってすまなかった。急に謝りたくなって」
「別にいいですよ。お陰で楽しかったですし。これを機会にイーサンと連絡でも取って下さいよ」
「できる事ならそうしたいんだが、イーサンは高校卒業後、事故で天国に行って以来、こっちに戻ってこられないみたいだ」
「えっ」
「だから、お前さんが今夜ここに来た時、ドキッとするくらい驚いたよ。やっと俺に会いに戻って来たんだって思ったくらいだった」
「……」
男は、言葉に詰まってしまった。
「あんたが気にすることじゃない。本当にすまなかったな。だけど今夜はありがとうな」
「いえ、そんな」
「あっ、タクシーが来たようだ。それじゃ気を付けてな」
ジムは踵を返す。
男はどうすることもできなく、ただジムの背中を見送った。
タクシーが目の前に停まり、男はドアを開けてそれに乗りこむ。
窓の外を見れば、店の明かりに照らされたジムが振り返り、手を上げて別れを告げていた。
「あっ、ジムと一緒に飲んだんですか? もしかして付き合わされてテキーラショット何杯もやりました?」
タクシー運転手のサムが訊いた。
「いや、ビールだ」
「えっ、ジムとビール飲んだんですか? へぇ、珍しいな」
「なぜだい?」
「地元なのにジムだけはここのビール絶対飲まなかったんですよ。地元にとって、ここのビールを飲んでこそ一人前って認められるだけあって、成人したら仲いい友達と集まって飲みあかすのがここのしきたりなんです。ジムだけはそれをしなかった人で有名だから」
男はその意味を考えた。
「……じゃあ、今夜は特別だったんだろう」
「そうですね。とにかく、ビールの美味しい、いい店だったでしょ」
「ああ、いい店だった。来てよかったよ」
男は深くシートに腰掛けた。
車は静かに動き出し、店を後にする。
最後に振り返れば、ジムはまだ店の前でじっと立ち、手で顔を拭ってるところだった。
ある日のこと。
夫の国であるアメリカに来て日本人妻は何をしていいのか思案していた。
永住権があるからここでは外国人であっても法的に働けるが、いまいちアメリカン社会に出るのが気乗りしない。
そんな時、アメリカン夫がコミュニティサービスの冊子を日本人妻に見せた。
「面白そうだよ」
「何々?」
日本人妻はそれを手に取りざっと目を通した。
この街に住んでる者なら受けられるクラス──習い事──が沢山書いてあった。
真面目に勉強できるものから、遊びで楽しく習えるものまで様々な種類があった。
地域の住民と関わるにはもってこいだった。
日本人妻はその中でも人工呼吸のクラスに興味を持った。
安くて、たった一度の受講。
しかも2時間程度で終わる。
受講後は、終了証明書まで発行してもらえるとあった。
資格になりうるかもしれないし、もしものときに役立ちそうではあるし、受講料も安いし、知っていて損はないと、暇を持て余していた日本人妻は申し込んだ。
そしてそのクラスがある当日、バスに揺られて10分。
下車すれば、すぐ目の前にコミュニティセンター。
ドキドキしながらそこに向かう。
見かけは古く、こじんまりとして小さいが、板張りの廊下がギシギシと音を立て、昔の小学校の校舎を思わせどこか懐かしい雰囲気がした。
アルファベットと数字が組み合わさった番号が各クラスの入り口に示されている。
指定された教室を見つけると、日本人妻は入るのに少し怖気ついてしまった。
ここはアメリカだ。
全てが英語。
ちゃんとできるのか、日本人妻は躊躇う。
しかし、負けてなるものか。
背筋を伸ばし気持ちを奮い起こして、教室に足を入れた。
すでに待機していたインストラクターが、明るく挨拶をする。
日本人妻も笑顔でそれに応えた。
インストラクターは、なかなか若くて優しそうな、いい男だ。
万が一、間違った事をしてもなんとかなるだろうと、日本人妻は覚悟を決めた。
受講生の中では一番のりではあったが、教室はすでに混み合ってる雰囲気がする。
なぜなら、その床には十数体の一般の人間と変わらない大きさの人形が寝かされていたからだった。
しかしそれは頭と胸の部分のみ。
簡素なマネキン──これが人工呼吸の相手だ。
「どれでもいいから人形の側に座って」
インストラクターに言われ、遠慮がちに端に向かい、直に床に腰を下ろす。
日本人妻は目の前の人形をじっと見下ろした。
練習とはいえ、これとキスをする。
なんだか変な気分だった。
ポツポツと人が教室に入って、その度にインストラクターとのやり取りが耳に入る。
やはり来る人は皆アメリカン、人種も様々。
参加者が全員集まると、インストラクターは陽気に話しだした。
「ようこそ、それでは今から始めます。まずは自己紹介から。名前と職業、そしてなぜ人工呼吸を学ぼうと思ったかその理由を聞かせてください」
大人しく見よう見まねで、黙って過ごそうとしていた日本人妻だったが、いきなりインストラクターに手を向けられて自己紹介を強制され、慌てた。
ドキドキとしながら、たどたどしく答える。
自分の名前、そして職業──主婦──を言った後、
「知っていたら、いつか誰かを助けられるかもしれない」
必死に答えた。
インストラクターは愛想よく「その通り」と肯定してくれたことが、日本人妻をほっとさせた。
お陰で、いきなりの山場を越えた後は、リラックスできた。
それぞれが自己紹介をしていく。
何をしている人なのか、どういう理由で受講したのか、聞いているとそれは面白かった。
皆、和気藹々として、和やかに事が進んで行ったその時、白いポロシャツを着たまじめそうなおじさんが自己紹介を始めた。
「私は医者です」
日本人妻はその人を二度見してしまい、周りも意外だと少しざわつく。
インストラクターもここに医者が来ている事が信じられない様子。
思わずインストラクターは言ってしまった。
「なんで医者がここに?」
教室に緊張が走った。
みんな固唾を飲む。
人工呼吸のやり方は医者が知っていて当たり前だと思い込んでいるから、ここに医者がいるのが不思議で仕方がない。
だが、医者だけが落ち着いていた。
そしてにっこりとして口を開いた。
「私は眼科医です」
皆、一様に体の力が抜けて「oh」と納得したように小さく声が漏れた。
日本人妻もなるほど、なんか笑けてきた。
インストラクターは自分の失礼な失態を、笑いに変えてごまかしていた。
まるでいたずらを仕掛けて楽しいと言わんばかりに、その眼医者は皆のやり取りに微笑んでいた。
毎日、毎日、色んな奴らがひっきりなしにここへやってくる。
昔ここは何かの工場、または大きな会社の施設だったらしい。
ちょっとした歴史のある建物で、それを改造して、今では科学博物館になっているが、さらにこの街で有名な観光スポットの一つになりやがった。
見て感心し、手で触れて体験し、最新テクノロジーの仕掛けで大いに遊び、飽きられないように、定期的にテーマが設けられる特別催しだってある。
だから休館日以外は、毎日人が訪れる。
ここは地元の学校の遠足の場所として大いに重宝し、黄色のスクールバスが何台も駐車場に停まることだってある。
休日は親子連れ、観光で訪ねてくる大人だってもちろん、それは世界各国からここへとやってくる。
おいらはそういう奴らを壁際に立って控えめにいつも眺めている。
別にぼーっと突っ立ているだけじゃない。
これでも必要とされ、そこに居て、仕事を与えられている。
しかも、この一つの体で、多様に仕事をこなすんだから、結構しんどいもんだ。
それも、ひっきりなしに、お客がやってきて、おいらを必要とするんだから、なくてはならない存在だ。
ここで働いている奴らだっておいらを利用する。
おいらを見かけると、ほっとけないというのか、ついつい手がでちまんだろうな。
夏の暑い日には冷たく、冬の寒い日には熱くだが、実際は季節に関係なくそれは極端に二つの温度をいつも調節している。
様々なボタンが一杯ついて種類だって豊富だ。
おいらはお金さえ貰ったら、素直に働くぜ。
それまでおいらはちょっとしたショータイムをあんたに見せてやる。
あんたはお金を入れて、好みのボタンを押すだけだ。
後はあんたがそれをどう受け取るかが問題だ、特に今日みたいなおいらの調子が悪い時は……
「なんか飲もうか」
「色々あるね」
「値段もそんなに高くないね」
おいらには何を言っているかわからないが、 三人の女たちがおいらの前で、話し合っている。
見掛けからして、多分日本人だろう。
これから何を飲むかの相談か。
やめとけ、今日はおいらは働きたくない気分だ。
「コーヒー飲もうかな」
「クリーム、砂糖は好みで選べるね」
「私は、冷たい物がいいな」
おいおい、鞄から財布を取り出そうとしているじゃないか。
だからやめろって。
「あっ、コインあまりないや」
「大丈夫だよ、紙幣もいける」
「おつりちゃんと出るのかな」
1ドル札を手に取りやがった。
それを差し込む気か。
やめろ、お金はいれるな。
といったところで、おいらの声は届かず、信じ切ってる奴らにはおいらはしっかりと仕事をこなすと思っているのだろう。
だったらその仕事を見せてやろうじゃないか。
そうだ、おいらは自動販売機だ。
客が欲しがる飲み物を提供するのがおいらの仕事。
キューンと音を立てて、差し込まれた1ドル札を吸い込む。
体のエネルギーが充満し、腹の底から湧きたつ力がみなぎって、グィーンと動き出す。
その端っこでチャリンチャリンとコインを落とす
先に釣りは返してやるぜ。
グォーと体の中で液体が巡回し、所定の位置に集まった。
さあ、ショータームの始まりだ。
もう誰にも止められはしない、これがおいらの課せられた道。
客が選んだ液体をおいらの体から出す。
おいらはお腹の小さな扉を開き、それを堂々と見せてやる。
さあ、見やがれ、おいらの腹の中を。
ようし、出すぞ。
ジョジョジョジョジョー
「あー」
「えっー」
「うそー」
やっぱり驚いてるな。
でも出てしまったものは仕方がない。
さて、最後にこれもくらえ。
ポン!
「……」
「……」
「……」
まあ、びっくりするわな。
先に液体が出て、最後にカップがでてくるんだから。
でもちょっとしたショータイムだっただろう。
だって、奴らは腹を抱えて笑い転げてる。
「ちょっとひどい、アハハハ」
「何、これ、液体出し切ってから最後にカップが出てくるなんて、笑える」
「なんか受ける」
だから、今日は調子が悪かったんだ。
すまなかったな。
それでも笑ってもらえるなんて光栄だ。
普通は怒るところだ。
スタッフに言えば、ちゃんと金は戻ってくるから安心しな。
今度は調子のいい時にきてくれよ。
また待ってるからな。
そして奴らが去って暫くした後、おいらはout of order(故障中)と書かれた紙を貼られちまった。
てへ、ぺろっ。
「あの家に誰かが引っ越ししてきたぞ」
「あの家ってポーチがあって、玄関が奥に引っ込んで雨や風が入りにくい家の事か」
「そうだ」
「どんな感じの奴らだ」
「なんとなく、ちょろい感じがする」
「うまくやれそうか」
「とりあえず、まだ引っ越しでバタバタしているから様子を見よう」
「そうだな」
虎視眈々とした目を向けて、秘密の話し合いがされていた。
今はまだ不穏さも表立ってないが、知らない所で確実にその家は狙われていた。
季節は春を迎える前の寒い日々が続くころ。
そろそろアクションを起こしたいと思っている輩が、確実にその近所に潜んでいた。
「結構広々としたポーチだ。ゆったりと過ごすにはもってこいの場所だ。そこにベンチを置きやがった」
「ご丁寧にクッションまであるじゃないか」
「外にまで家具を用意するなんて、ここは中々金には余裕がありそうだ」
「だが、まさか犬を飼ってないだろうな」
匂いに敏感ですぐさま怪しいものを感知し、大きな声で吼える犬は苦手どころか、殺意を感じる程自分達には不利な生き物だった。
懐いて上手く懐柔できるならまだしも、突然現れた見知らぬものにはそういう訳にもいかないだろう。
必ずしつこく吼えられて、敵意を持たれる。
追いかけられたら厄介だ。
最悪な場合、噛みつかれることだってある。
心配しながら、窓を通してそっと中の様子を見れば、家のものたちも外の異変に気が付いてしまった。
素早く姿を隠す。
「やばかった。もう少しで見つかるところだった」
「だが、今ので犬がいない事がわかった。奴らは猫を飼ってる」
「おっ、猫か。だが、気の荒いのはいないだろうな」
「さあ、犬よりはまだいい。それどころか、上手くやれそうだ」
その数日後。
「おい、空箱をポーチに置いたぜ」
「そろそろ家も片付いたんだろうか」
「あっ、玄関から出てきた。どこかへいくつもりだろう」
「それじゃ、行動を起こすか」
家に誰もいなくなった頃、そいつらはとうとう行動を起こした。
そして家の主が帰ってきたときが見ものだった。
「うわぁ、大変。箱に猫が入ってる。しかも、ベンチにもう一匹くつろいで座ってる」
「これ、この間家の周りをうろついていた野良猫じゃないのかな」
夫婦がお互い顔を見合わせそれぞれ言った。
どうしようかと夫婦の心が揺れている時、箱からつぶらな瞳を向けて、家の主に『にゃん』と鳴く。
ベンチにいる猫は、夫婦を見て喉をゴロゴロ鳴らした。
夫婦はすぐさまその猫たちをなぜ、うっとりしてしまった。
「かわいいね」
「いい猫たちだね」
猫好きな夫婦にはたまらなかった。
そして数日後、その猫たちはこの家の子になってしまった。
二匹は顔を見合わす。
「計画通り」