「ひかりは私のことが見えたのだから、お前はここに来る資格があったのだ。いくらコンに呼ばれても、私や屋敷が見えない者は〝気のせい〟で終わってしまうからな」
理由はどうであれ、私には雨天様が見えた。
だから、ここに招き入れてもらえたというのはわかるけれど、そもそもどうしてコンくんの声が聞こえたのだろう。
「声が聞こえる条件は色々あるが、まず〝このひがし茶屋街に深いゆかりがあること〟だ」
「だとしたら、私はその時点で条件に合ってない気もするんだけど……」
私の思考を読み取るように説明してくれた雨天様に、首を捻ってしまう。
考えていることを見透かされてしまうのは慣れてきたけれど、最初の条件からして腑に落ちなかったから。
確かに、ここはおばあちゃんとの思い出の場所だし、金沢に住んでいるわけでもないわりには何度も足を運んでいるとは思う。
だけど、それが〝深いゆかり〟と言えるほどかと考えれば、さすがにそこまでではないはず。
〝ゆかり〟はあるけれど、きっと〝深いゆかり〟じゃない。
おばあちゃんと何度も足を運んだ思い出深い街とはいえ、それならおばあちゃんの家とかの方がもっと思い入れがある。
「そうであろうな。私から見ても、お前はここにそれほど深いゆかりがあるとは思えない」
そんな風に考えていると、雨天様が頷いた。
私は、小さなため息を漏らしてしまう。
「神様って、なんでもお見通しなんですか?」
「お前がわかりやすいのだ、ひかり。心を読もうとしなくても、思考が簡単に流れてくる。ここにいれば、私の力で多少は読みやすいものだが、これほど素直に心を見せてくれる者は珍しい」
皮肉を込めるようにあえて敬語で尋ねてみると、雨天様は眉を下げて言い訳染みた言葉を並べ、小さな笑みを見せた。
貶されているような、褒められているような、とても微妙な気持ちになったけれど、不思議と嫌悪感はない。
「気分を害したのなら謝ろう。だが、心が素直というのは、それだけ心が美しいということだ。お前を愛する者に大切にされた証だろう」
「愛する者?」
「家族、恋人、友人……犬や猫も例外ではないが、そういう存在によって無償の愛を与えられると、魂と心が素直になるのだ」
なんだか宗教みたいだな、と少しだけ思うのに、雨天様の言葉はすんなりと耳に入ってくる。
そして、その穏やかな声音はとても心地好かった。
「ひかりにも、心当たりはあるだろう?」
優しい問いかけで脳裏に浮かんだのは、柔和な笑顔。
穏やかな瞳で見つめられていた日々のことが、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
「……っ」
次の瞬間、鼻の奥に鋭い痛みが走り、意図せずに熱を持った喉の奥から声にならない声が漏れた。
同時に、頬にもほのかな熱を感じた。
「なんだ、泣けるではないか」
「え?」
雨天様の言葉に目を見開いた直後、決壊を失くしたかのように涙が零れ始め、どんどん雫が落ちていった。
私の意思なんて関係なくポロポロと流れていく涙は、まるで大粒の雨のよう。
「ずっと泣きそうな顔をしているのに、泣こうとはしないから、てっきり泣き方を忘れたのかと思ったぞ」
困り顔になった雨天様が、私の傍にゆっくりと近づいてくる。
そのまま右隣に腰を下ろすと、私の頭をそっと撫でた。
「好きなだけ泣いてよい。明日の朝には、すべてが夢になっているから」
後半の言葉の意味はわからなかったけれど、髪に触れた優しい温もりにますます涙が溢れてくる。
その止め方がわからなくて戸惑いもあるのに、大きくて温かい手に甘えるように涙を止めようという努力はしなかった。
おばあちゃんが亡くなった時も、安らかな顔で眠るおばあちゃんと対面した時も、お通夜やお葬式の日も、誰よりもたくさん泣いた。
だけど、きっと、今が一番泣いていると思う。
気づけば左側にも温もりを感じ、狐の姿になったコンくんとギンくんも傍にいることを知った。
ふわふわの毛並みで私を包み込むように、ピタリと寄り添ってくれている。
優しくて、温かくて、どこか懐かしい。
そんな感覚を抱きながら、いつまでもずっと泣き続けていた――。
ふわふわとした、優しい温もり。
穏やかな声と、大きな手。
私は、たぶん知っている。
この温もりを感じたのは、きっと初めてじゃない。
あれは確か、まだ幼い頃のこと。
おばあちゃんと遊びに出かけた先でたくさんの人の波に飲み込まれ、迷子になって泣いていた時だった。
『どうした、迷子か?』
『うん……おばあちゃんがいないの……』
しくしく泣きながら歩き、すっかり疲れ切ってしまっていた私は、今の空の色とよく似た着物を着た人に話しかけられた。
直後、その優しい声に安堵したのか、さらに涙が止まらなくなった。
運悪く、晴れていたはずの空からは雨が降り始め、持っていた傘を差したけれど、あっという間に強まった雨足のせいで足元はびしょ濡れになっていた。
それが余計に心細さを強くし、私はお気に入りの傘の持ち手を一生懸命握っていた。
『泣くな。この道を真っ直ぐ歩いて行けば会える』
『え? 本当?』
『ああ、あちらもお前を探している。すぐに会えるから、なにも心配することはない。ほら、早く行け』
『うん! ありがとう!』
なぜか素直に信じ、お礼を言って駆け出した。
そして、本当に私を探していたおばあちゃんに会え、ホッとした私は大声を上げて泣いた――。
***
瞼を開けると最初に視界に入ってきたのは、見覚えのある天井。
おばあちゃん家の居間にいることはすぐにわかり、ゆっくりと体を起こした。
「いつの間に寝ちゃったんだろう……」
昨夜は、確かコンビニに出かけた。
だけど、なにを買ったのかはおろか、どうやって帰って来たのかも思い出せない。
「お酒とか飲んだっけ?」
サークルやゼミの飲み会には参加するけれど、ひとりで飲むほど好きなわけじゃない。
それでも、おばあちゃんの家に来たことで余計に悲しさを感じたのは事実で、その逃げ道としてアルコールを選んだというのなら頷ける。
ただ、布団から出て向かった食卓にも台所にも、お酒を買ったり飲んだりしたような形跡はなかった。
おばあちゃんは飲まない人だったから、ここには買い置きの酒類はないはず。
「うーん、なんか忘れてるような……。懐かしい夢とか見た気がするんだけど、思い出せないなぁ」
自然とひとり言が落ちていき、静かな部屋で昨夜のことを思い出そうとする。
それなのに、半日ほど前の自分の行動が思い出せなくて奇妙な感覚に陥り、不安を覚えて気持ち悪くなっただけだった。
反面、なんだか心はすっきりしている。
相変わらずおばあちゃんの雰囲気を感じる家にいると悲しくなるのに、なぜか昨日ここに来た時よりも心は落ち着いていた。
お腹の虫に急かされて台所に行き、すぐに肩を落とすことになったのは、起床してから三十分が経った頃だった。
冷蔵庫の中は空っぽで、昨日の自分が恨めしくなる。
昨夜、コンビニまで行ったはずなのに、どうして今朝のご飯くらい買っておかなかったのだろう。
もっとも、そもそもなにを買ったのかという記憶すらないのだけれど。
ため息混じりにダメ元で戸棚を開けると、ゼリーカップのようなものが目に入った。
昨日はここを確認しなかったけれど、どうやら両親も親戚もこの戸棚の中まではまだ整理していなかったらしい。
手を伸ばして取ったそれは、あんみつだった。
スーパーなんかでよく見かける安価なものだけれど、とりあえず少しくらいは空腹を満たしてくれるはず。
カップに記載された賞味期限まではまだ一ヶ月もあるし、なんとなく外出する気分にはなれない。
色々な条件が重なって、特に好きではないあんみつを朝食代わりにすることにした。
「いただきます」
物寂しい食卓の前で手を合わせ、銀色のスプーンであんみつを口に運ぶ。
その味に眉をわずかに寄せてしまったけれど、静かな部屋で黙々とスプーンを動かし続けた。
この間食べたあんみつ、おいしかったなぁ……。
半分ほど食べた時、ふと脳裏に過ったのはそんなこと。
ただ、その〝この間〟というのがいつのことなのかは、まったく思い出せなかった。
あれ? いつだっけ?
大学の友人とカフェに行った時でも、実家に帰省した時でもない。
ひとりであんみつなんて食べに行くほど好きなわけじゃないし、かと言って誰かと食べに行ったという記憶もない。
「えっと……いつだっけ……」
だけど、確かに食べた。
思い出せないのに確信があるなんておかしいけれど、舌と頭の奥底で燻っているような淡い記憶が『確かに食べた』と訴えてくる。
ふと見つめた窓の外は、雨。
今日も相変わらず降り注ぐ雫に苦笑した直後、子どもの声が頭に響いた。
『晴天や雨天――つまり、雨の天気と書いて雨天様です』
「雨天様……」
ぽつりと落ちた声が、やけにこだまする。
鼓膜を揺らしたその名前に、ぶわりと記憶が溢れ出し、昨夜の一部始終を呼び覚まされたような気がした。
感激したほどのあんみつと、香り豊かなお茶。
雨天様、コンくん、ギンくん、そして日本庭園のような庭と古くて大きなお屋敷。
ただの、夢。
そう思うにはすべてがあまりにも鮮明過ぎて、夢という言葉ひとつで片付けられないことを一瞬で悟っていた。
急いでシャワーを浴びて、お気に入りのワンピースに着替え、サッとメイクをした。
それから、最低限の荷物をバッグに詰め、玄関で出番を待っていた傘を持って、おばあちゃん家を出た。
大通りに出て最初に見える、コンビニの前。
そこにあるバス停が、最寄りの停留所だ。
おばあちゃん家に泊まりに来る時は、家の前かここでおばあちゃんが待っていてくれた。
滞在中に何度も利用するから、おばあちゃんの顔見知りの運転手さんに紹介されたこともある。
バスに揺られて、約十五分。
昨夜も降りたはずの『橋場町』の手前で降車ボタンを押し、料金を支払ってからバスを降りた。
昨日のことは、やっぱりよく思い出せない。
それなのに、確かに〝ここに来た〟という確信が消えない。
夜の街並みが、記憶に刻まれている。
楽しそうな声を聞きながら、路地裏に逃げたような気がする。
その時とは違って、今は外国人客や浴衣や着物を纏った観光客で賑わっているけれど……。
夜にここを訪れたことがないはずの私の記憶には、夜のひがし茶屋街の風景が残っていた。
ひがし茶屋街は、そんなに広いわけじゃない。
子どもの頃はとても広く感じたけれど、中学生になった頃にはそんなに苦になるような距離じゃなかった。
石畳も格子戸も、古い街並みならではの美しさを彩っている。
おばあちゃんとここに来ると、いつもワクワクしていた。
昨日も歩いたはずの道を進みながら、途中で狭い路地に入ってみる。
そんなことを何度も繰り返してみたけれど、記憶の中にあるようなお屋敷は現れなかった。
路地はたくさんあり、その中のどこを歩いたのかまでは上手く思い出せない。
悲しみのせいか、それとも別の理由があるのか。
私にはわからなかったけれど、どうしても自分の記憶を疑うことができなくて、諦められなかった。
あんみつをもう一度食べたいから、なんていう理由じゃない。
確かにあれはとてもおいしかったはずだけれど、求めているのはたぶんもっと別のもの。
それを明確に表現することはできなかったものの、私の中にはしっかりとした温もりが残っているような気がしていて……。
不思議なことに、きっと見つけられるという自信すらあった。
「たぁた、きまっし」
誰にも聞こえないような小さな声が口をついたのは、すっかり疲れ切ってしまった頃のこと。
足が棒になりそうだった私は、自然とそんなことを口にしていた。
その直後、どこからともなく甘い香りが漂ってきて、それに吸い寄せられるように再び足を踏み出した。
あんなに疲れていたはずなのに、そんなことは忘れてしまったかのように足取りが軽くなっていた。
ふわりと鼻先をくすぐるような、優しい香り。
微かな手がかりを見失わないように、無意識のうちに神経を研ぎ澄ませてしまう。