「……子狐か。人間にやられたか」
遠くの方で誰かの声が聞こえた。
優しくて温かくて、まるで私に初めて話しかけてきた神様のような声だった。
「二匹とも息絶えたか……。もう肉体と魂が離れているな」
私は助からないとわかっていた。
せめてギンだけは助かってほしかったのに、もう息がないと誰かが言う。
母との約束を守れなかった。
痛い体よりもずっと、心が痛かった。
「子狐、私の声が聞こえるか」
誰かが私に話しかけた。
優しくて温かくて、心地好い声だった。
「聞こえ……ます……」
「このまま消えてしまうか、私の神使となって仕えるか、どちらがよい?」
「ふたりで……いっしょでも、いいですか……」
大切なのは、ギンのこと。
ふたりで一緒でもいいか、確かめなくてはいけない。
私はギンの兄なのだから、弟を守らなくてはいけないのだ。
「もちろんだ。双子の子狐の神使とは、毎日が楽しくなりそうだ」
誰かの嬉しそうな声が聞こえると、霞む視界に大きな手が翳された。
私の体を撫でる手は温かく、まるで大好きな母に包み込まれているようだった。
「さぁ、お前たちは今夜から私の神使だ。このお茶屋敷のために、しっかりと仕えておくれ」
柔らかな光に包まれた体からは、みるみるうちに痛みが消えていく。
程なくして目を開けると、銀色の髪を靡かせる青年が立っていた。
「ギンは……?」
慌てて隣を見れば、知らない少年がこちらを見ていた。
けれど、私はこの匂いを知っている。
懐かしくて嗅ぎ慣れた、ずっとずっと一緒にいた匂い。
「コン……?」
「ギンッ……!」
着物を着た小さな少年も、すぐに私がコンだと気づいた。
生まれるずっとずっと前から一緒にいるのだ。
わからないはずがない。
ふたりで抱き合って声を上げて泣いた。
わんわんと叫ぶように泣いた。
「コンに、ギンか。よい名前だ」
程なくして、優しい声の青年が瞳をたわませた。
「あなたは……?」
「私の名は雨天。ひがし茶屋街のこの屋敷に棲む、雨の神様だよ」
銀髪の美しい青年が笑う。
初めて見た神様とは全然違ったけれど、私は一目でこの神様を気に入った。
母のような、温かくて優しい匂いがしたからに違いない。
「今日からよろしく、コン、ギン。お前たちと私はずっと一緒だ」
嬉しかった。とても嬉しかった。
ギンとずっと一緒にいられることも、雨天様にお仕えできることも。
神様は言った。
母も言った。
『ふたりで一緒なら大丈夫』と。
今日から三人になった。
ふたりで一緒なら大丈夫。
それなら、三人で一緒ならきっともっと大丈夫だ。
もうなにも怖くない。
今宵の空には、月も星も見えない。
雪が降る凍てつくような夜だけれど、雨天様の銀の髪は月よりもキラキラと輝いていた――。
番外編 一【完】
夏が終わり、秋が来て、冬を迎えた。
今年の夏はいつもと違い、毎日がとても目まぐるしかった。
振り返ればほんの数日間のことだったのに、何年もの月日を重ねた気さえした日々だった。
ある日突然、嵐のように現れたかと思うと、あっという間にこの屋敷に馴染み、優しい光のような温もりを残して去った人間の少女。
彼女は今日も、どこかでちゃんと笑えているだろうか――。
「雨天様―!」
「どうした、コン」
「今日のお掃除は終わりました。これから猪俣様のところに行ってまいります」
「ご苦労様。今日の甘味はみたらし団子だ。猪俣様によろしく伝えてくれ」
「承知いたしました。それにしても、よい香りですよねぇ。お団子のタレがピカピカのツヤツヤで、とってもおいしそうです」
「あとでみんなで食べよう。ほら、おつかいに行っておいで」
「はい。行ってまいります」
コンは元気よく返事をすると、いつも通りに出かけて行った。
「雨天様、お夕飯はいかがいたしますか」
「そうだな……今夜は鮭を焼こうか。確か、ちょうどよいものがあっただろう」
「では、私がお味噌汁を」
「ああ、頼む。ギンはすっかり出汁を取るのが上手くなったからな。安心して任せられる」
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑うギンに、瞳を緩める。
修業の成果が表れていることが自信に繋がっているのだろう。
ギンはコンよりも引っ込み思案なところがあったが、最近は以前にも増してよく笑顔を見せるようになった。
コンとギンが屋敷の前で息絶えたあの夜から、もう二百年。
先代であるこの屋敷の主を失った私は、いつか主と私のような別離の悲しさを味わうのなら、神使など必要はないと思っていた。
けれど、私ひとりで屋敷のすべてを担うには限界がある。
そんなときだった。
傷ついたコンとギンが現れたのは……。
双子の子狐の神使なんて、おもしろそうだと思った。
なによりも、ふたりが互いを想う絆の糸が私の心を動かした。
そうして、ひとりだった私の元に、賑やかで可愛い二匹の子狐が住み着いた。
三人でお客様をお迎えし、お見送りする。
そんな日々は、とても穏やかで、春の陽だまりのように優しくて。ときには予想外のことも起きたが、ひとりだったときよりもずっと楽しく、たくさんの幸せを知った。
コンとギンが現れてから二百年。
あの日から、私が笑わなかった日はないだろう。
ふたりは『雨天様に救っていただいた』とよく口にしているが、本当に救われていたのはきっと私の方だ。
主を失った私に、コンとギンはまた誰かと過ごすことの楽しさや幸福を教えてくれたのだから……。
「ああ、やっぱりみたらし団子はおいしいですねぇ」
おやつの時間に響いたのは、コンの明るい声。
ギンは大人しい性格で、私もコンとギンが神使になるまではあまり口数が多い方ではなかった。
そんな私たち三人の中でムードメーカーなのは食いしん坊のコンで、いつも笑いの中心にはコンがいる。
主を失ってひとりぼっちになったあの頃、こんな日々を送ることになろうとは想像もできなかった。
穏やかで、優しくて、温かい時間。
「コンはなんでもおいしいと言うであろう」
「もちろんでございます。雨天様がお作りになられる甘味もご飯も、どれも本当においしいですから」
「今朝の味噌汁はどうであった?」
私の問いに、コンがみたらし団子を持ったまま眉を小さく寄せる。
不本意そうではあるが、程なくして口を開いた。
「……大変おいしゅうございました」
コンは、今朝の味噌汁を作ったのがギンだとわかっていたのだろう。
最近は私とギンが作った味噌汁の違いがわかるようになったらしく、ギンを褒めるのが悔しいとでも言いたげな感情が見え隠れしている。
兄としてギンの料理の腕前が上達していくのは嬉しいが、ギンばかり褒められるのが悔しい……といったところだろうか。
「それはよかった。なぁ、ギン」
「はい。とても嬉しいです」
にこにこと笑うギンを見たコンが、喜びと嫉妬を同居させたような顔で両手に持ったみたらし団子を頬張る。
普段、料理以外の家事やおつかいは、ほとんどコンが担っている。
私とギンがふたりで台所にいる時間がとても長いため、三人でいてもコンだけ疎外感を抱くこともあるだろう。
そんなことがないように気をつけているつもりだが、この顔を見るにヤキモチが隠せないようだった。
「だが、その味噌汁を作るために必要なカツオや昆布、煮干しは、コンがおつかいに行ってくれるおかげで手に入る。みたらし団子のタレに必要な醤油はもちろん、隠し味の黒糖や水あめはコンが猪俣様のところでいただいてきたものだ」
私の言葉に、コンの顔がみるみるうちに綻んでいく。
「いつもありがとう、コン。コンとギンがいてくれて、私はとても助かっているよ」
満面の笑みになったコンは、頬張っていたみたらし団子を飲み込んで得意げに胸を張った。
「とんでもございません。コンもギンも雨天様の神使にございますから、雨天様のお役に立てることほど光栄なことはございません。家事もおつかいもコンの大切なお役目ですから、これからもなんなりとお申し付けください」
現金なコンの顔は、おかしくなるほど誇らしげだった。
しかし、コンのこういうところが屋敷を明るく照らしてくれる。
コンとギン。
双子といえども、ふたりそれぞれにまったく違った魅力があり、ふたりとも私にとっては可愛い。
唯一無二の、大切な神使なのだ。
「もうすぐ年が明けますねぇ」
年の瀬が近づいてきた頃、縁側で温かいほうじ茶を啜っていたコンがしんみりと呟いた。
数日前から降り続けている雪のせいで、今日はいっそう寒さが厳しい。
底冷えするような気候の中、抹茶ぜんざいとほうじ茶で体を温めたが、またすぐに体の芯が冷えていった。
「今年もあっという間でしたねぇ」
「そうですか? 私はなかなか長い一年に感じましたよ」
「ギンは修行に勤しんでいるからでしょう」
「コンだって、毎日忙しいではありませんか」
「忙しいからこそ、あっという間に感じるのです」
「私は、忙しいときこそ、振り返れば長い日々だったように思いますよ」
「前から思っていたのですが、私とギンは双子なのに感性は似ていませんねぇ。姿はそっくりなのに」
「双子でも、個々で特性がありましょう」
私の両隣に座るコンとギンの会話に、ふっと笑みが零れる。
確かに、コンとギンは外見こそそっくりではあるが、内面はあまり似ていない。
ひょうきんでお調子者のコンと、真面目で物静かなギン。
どちらが兄でどちらが弟なのか……と思うときも珍しくはない。
滅多にないが、喧嘩をしたときには双方譲らないところなんかはそっくりだと思うものの、双子とはいっても性格はまったく違っている。
「似ていないからこそ、おもしろいのではないか」
「ええ」
「さすがは雨天様! 素晴らしいお言葉にございます! 雨天様のおっしゃる通りですね! 似ていないからこそ、こうして楽しい時間が過ごせるのです」
大袈裟なくらい騒ぐコンに、ギンが「コン、お茶が零れますよ」とたしなめる。
「わかってますよ。ギンは母上みたいですねぇ」
仲のいいふたりのやり取りに、また笑みが零れる。
「そうだ、お前たち」
その姿を見ながら、「今年の褒美はなにがいい?」と尋ねた。
一年に一度、どこぞの国からやってきた〝クリスマス〟というイベントがある。
もう過ぎてしまったが、それに倣うように年の瀬にはコンとギンの一年の働きを労い、ひとつ願いを聞いてやることにしている。
ギンはたいてい料理に関すること。
昨年は『ひとりで夕飯を作らせてくださいませ』と願い、その前の年は『秘伝の味噌の作り方を教えていただきたいです』と言われた。
さらにその前の年には、『私が一からひとりで作った甘味を明日のおやつにしてください』だった。
真面目で修業熱心のギンらしい望みなのだ。
反して、コンは毎年必ず『好きな甘味をたらふく食べたいです』と言う。
選ぶ甘味もほぼ毎年変わることなく、食いしん坊のコンらしい願いなのだ。
「私にできることなら、なんでもしてやろう」
「では……今年もお言葉に甘えまして」
先に口を開いたのは、ギンだった。
いつもコンの方がいち早く願いを口にするが、どうやらギンの願いははっきりと固まっているようだ。
「ああ。ギン、なにを望む?」
「……私が考案した甘味を食べていただけませんでしょうか」
「考案?」
「は、はい」
「お前が一からすべて考えたということか」
「はい。以前よりずっと、作ってみたい甘味がございまして……。少し前から頭の中で考えておりました。雨天様のご許可をいただけましたら、ぜひそれを作ってみたいのです」
ギンが緊張の面持ちでいるのは、自分の役目をしっかりとわきまえているからだろう。
このお茶屋敷において、甘味を作るのは神様だと決まっている。
神使はあくまで神の補佐として働き、決して前に出ることは許されない。
私が先代からこの役割を引き継ぐずっとずっと前からあるらしい、この屋敷のしきたりなのだ。
しかし、それはあくまで〝お客様にお出しする甘味〟に対するしきたりである。
「……やはりいけませんよね。申し訳ございません」
ところが、ギンは聞き入れてもらえない願いだと思ったようで、肩を落としながらも笑った。
「今のは忘れてくださいませ。なにか他の願いを考え直します」
「待て待て」
勝手に思い込むギンに苦笑し、小さな頭を撫でる。
「私とコンが食べる分ならなにも問題はない。構わないよ」
「いいのですか?」
目を真ん丸にしたギンが、みるみるうちに満面に笑みを広げていく。
「ああ、もちろんだ。お前の考案したという甘味を食べられるのがとても楽しみだよ。早速、明日のおやつの甘味を作ってみるといい」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
今にも飛び跳ねそうなほど喜ぶギンに、もう一度「とても楽しみだ」と笑いかける。
「精一杯頑張ります! 今夜はお台所を使ってもよろしいでしょうか」
ギンの意気込みは相当で、どうやら徹夜する勢いのようだ。
「構わないよ。ただし、役目をきちんと果たすことを忘れないように」
「もちろんでございます!」
大きく頷いたギンは、珍しく落ち着きがなかったが、それだけ喜びが大きいのだと伝わってくる。
「さて、コンはどうする?」
一方、毎年我先にと願いを口にするコンが無言でいることを怪訝に思い、左隣にいるコンを見た。
すると、コンはなにか真剣に考え込んでいるようだった。