金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷

「ここに来てよかったよ」


心の底から漏れていた、本音。
それを口にすると、お父さんが『そうか』としみじみと零した。


『夏休みに余裕があれば、こっちにも帰ってこい。母さんも、兄ちゃんたちもひかりを心配してた』

「うん、わかった」


素直に頷けたのは、なんだかたくさん話がしたくなったから。
実家にいる時は息苦しく思うこともあったのに、今はその時の記憶が曖昧になっていく感覚さえある。


電話を終えたあと、荷造りをしようとしたけれど、荷物はすべて綺麗に片付いていた。
そういえば、昨日荷物を纏めたような気がしなくもない。


「やっぱり、寝惚けてるのかな」


自嘲混じりに笑って、着替えて顔を洗い、軽くメイクを施してから帰り支度を済ませた。
お父さんに言われた通りにすべての部屋の戸締りを確認し、さっき脱いだばかりの部屋着もキャリーケースに詰める。


荷物を持って玄関に向かう途中、軋む廊下の床板を何度か踏んだ。
静かな廊下に、ギシギシと音が響く。


お父さんたちはこの家を手放す方向で話し合いを進めていたから、これができるのは今日が最後になると思うと、自然と懐かしさとともに寂しさも抱いたけれど……。
不思議と、ちっともつらくはなかった。


玄関から見る家の中の風景には、さすがに名残惜しさを感じさせられたけれど、深呼吸をひとつしてから口角をキュッと上げた。
少し悩んで、おもむろに口を開く。


「ばいばい、おばあちゃん」


いつも笑顔で見送ってくれたおばあちゃんは、もういない。
金沢に来たばかりの頃はそれがつらくてたまらなかったのに、今はその頃とは違う気持ちでここに立っている私がいた。


外に出て玄関の鍵を掛け、振り返って足を踏み出そうとした時、地面に落ちている白い花が視界に入ってきた。


「スズラン?」


思わずしゃがんで手に取ったけれど、スズランの季節は確か春から初夏だったはず。
おばあちゃんから聞いた知識を思い出して不思議に思いながら辺りを見れば、五メートルほど先の右側に同じような花が落ちていた。


それも手に取ると、さらに先にもう一本。
誰かのイタズラかと思う反面、なにかの道しるべにも思えて、どうしても無視はできなかった。


全部で五本のスズランを見つけたあとで顔を上げると、庭の物置きの前まで来ていた。
私の背丈ほどしかないその扉が、なぜか少しだけ開いている。


きちんと閉じようとしたのに、中でなにかが引っかかっているようで上手く動かせなくて、仕方なく一度扉を開けた。
直後、中から棒のようなものが落ちてきて、私の足元でその身を横たわらせた。


「あれ? この傘って……」


今の私には明らかに小さいけれど、間違いなく見覚えがあった。
自分のものだと確信するまでに、三秒も必要なかったと思う。


青空のような色に、ちりばめられたスズランの花。
広げた小さなキャンバスを空に翳すようにすれば、まるで青空からスズランの花が降ってくるようだった。


「ここにあったんだ」


失くしたと思っていたのに、おばあちゃんが持っていたみたい。
それならそれで言ってくれればよかったのに、もしかしたらおばあちゃんも忘れていたんだろうか。


どちらにしても、帰る前に大切にしていた傘を見つけることができたのは嬉しい。
予想外の出来事に笑みを零し、ひとつ増えた荷物を大事に持ったままバス停に向かった。


新幹線の時間まではまだ余裕があるから、友達にお土産でも買おうかと思った時、目の前に停まったのは橋場町の方面に向かうバスだった。
それに構わずに横断歩道を渡って反対側のバス停に行くつもりだったのに、なんとなく足が向いてしまい、その城下町周遊バスに乗っていた。


どうせなら、おばあちゃんとよく行ったひがし茶屋街の景色を見てから帰るのも悪くない。
女子受けのいいお土産なら、あそこには色々とある。


水に浸したティッシュとバス停の手前でもらったチラシでスズランの花を包み、流れていく景色を見ながらおばあちゃんとの思い出を振り返っていた――。


ひがし茶屋街は、相変わらずたくさんの人で賑わっていた。
ちょうど夏休みシーズンだから、観光客らしき人たちがいつも以上に多い。


残念ながらゆっくり回れそうになくて、お土産もここで見るのは難しそうだとすぐに悟る。
仕方なく、金沢駅の構内にあるお土産屋さんで調達することにした。


何度も見た景色だけれど、今日は一段と懐かしさを感じる。
これからしばらくは、ここを訪れる機会はないからなのかもしれない。


けれど、就活が上手くいけば大学を卒業する頃にはまた来よう。
将来のことを考えた途端に不安も芽生えたものの、悩むくらいならなんでもいいから行動に移そうと思えた。


私って、こんなに前向きだったっけ?


ネガティブとまでは言わなくても、こんなにポジティブ思考でもなかったはず。
それなのに今は、なんでもいいから新しいことに挑戦してみたいという気持ちが強かった。


習い事や新しいバイトを始めてみるのもいいかもしれないし、英会話や留学なら高校生の時から興味があった。
バイトなら、和菓子屋さんで働いてみたい。


あれ? どうして和菓子屋さんなんだろう?


特に興味があったわけじゃないものが自然と浮かんだことに小首を傾げた時、頬にぽつりと冷たいものが当たった。
冷たい雫は、雨粒だと気づく。


傘を差し始めた周囲の人たちと同じように折り畳み傘を出そうとした瞬間、手に持っていた小さな傘と自分で作ったばかりのスズランの花束が視界に入ってきた。
一瞬だけ悩んだけれど、お気に入りの折り畳み傘と同じくらい大切な青い傘を広げてみた。


ひがし茶屋街からバス停までは、そう遠くはない。
子ども用の傘だけれど、道行く人たちは加賀百万石の美しい城下町に夢中で、私の傘なんてたいして眼中にないはず。


「まぁいっか」


微かな笑い声と誰にも聞こえないくらいのひとり言を零し、懐かしさを纏った小さな傘を差すことにした。
曇り空と雨を隠すように頭上で広げた傘は、まるで青空からスズランの花を降らせているみたい。


『ひかりちゃん、金沢を含む北陸地方の一部には〝弁当忘れても傘忘れるな〟って言い伝えがあるくらいなのよ。だから、とびきり可愛い傘を持っておく方がいいと思わない?』


この傘を買う時、私よりも真剣に選んでいたおばあちゃんは、確かそんなことを言っていた。
それを思い出して空を仰げば、おばあちゃんが嬉しそうにしているような気がして、自然と笑みが零れ落ちていた。


『ひかり、幸せであれ』


誰かがそう囁いたことにも、この雨が神様からの贈り物だということにも、私は気づいていなかったけれど……。
おばあちゃんが大好きだった雨に優しく見送られるように、たくさんの温かい思い出が詰まったひがし茶屋街を後にした――。


ここは金沢、加賀百万石の城下町。
バスを降りればたくさんの人々で賑わうのは、懐かしい街並みが残るお茶屋街。


いくつもの格子戸と、ひっそりと佇む柳の木。
そこからさらに、奥へ奥へと進みます。


小さな路地の、ずっとずっと向こう側。
大きなお屋敷が見えるでしょう。


この地に深いゆかりのあるあなたの心が傷ついているのならば、優しいお茶と神様が作るおいしい甘味で癒やしましょう。


さぁ、私の声が聞こえたあなた。
格子の門をそっと開きなさい。


人知れずこの地を守る雨の神様と、双子の狐の神使が、優しくお迎えいたします。


ここはひがし茶屋街、雨天様のお茶屋敷。
今宵も、我らが最高のおもてなしをいたしましょう――。






【完】

生まれる前から、ふたりで一緒だった。
母のお腹の中に宿ったときよりも、もっともっとずっと前のこと。


神様が私たちに言った。
『ふたり仲良く手を取り合って行きなさい』と。


どこに行けばいいのかわからないと言ったら、神様はにっこりと笑った。


『大丈夫ですよ。ふたりで一緒にいたら、きちんとたどりつけます』


やっぱりわからなかったけれど、隣にいる小さな命と一緒に手を取り合い、真っ直ぐに歩いた。
すると、不思議なことに暖かな場所にたどりついた。


知らない場所だったけれど、不安はなかった。
だって、ふたりで一緒だったから。


柔らかな場所で何日ものときを経て、私たちはこの世に生を受けた。
私はコンと、弟はギンと名付けられた。


私たちが生まれたのは、日本という場所だった。
金沢にあるひがし茶屋街と名付けられている場所から程近くの山の、ずっとずっと奥の方。


優しい母は、ふかふかの毛皮で私たちを包み、いつも一緒にいてくれた。
父は生まれたときからいなかったけれど、母と私と双子のギンがいてくれたからよかった。
ときには腹を空かせ、ひもじい思いをしたけれど、母はいつだっておいしいご飯を持ってきてくれた。


ところがある日、母が病に侵された。
まだ子どもの私やギンではなにもできず、泣くばかりだった。
なんとか一生懸命取ってきた食べ物も、母はとうとう食べられなくなり、私とギンを残してこの世を去った。


『ほら、泣かないで。お母さんがいなくても、ふたりで一緒にいたら大丈夫よ』


最後の力を振り絞るようにして、母は言った。


『コンはお兄ちゃんなんだから、ギンをよく見てあげてね。ギンはたくさんコンを助けてあげてね。ふたりでずっと一緒にいたら大丈夫よ』


嫌だ嫌だと泣いても、とうとう母の息は止まってしまった。

それから幾月の日が過ぎ去った。
寒かった冬が終わり、暖かな春が来て、厳しい夏と穏やかな秋。そして、また雪が降る冬がやって来た。
 

あるとき、ギンが風邪をひいた。
食欲もなくなり、まるで母の最期のときのように弱っていく。
ふたりで一緒なら大丈夫。けれど、ひとりになってしまったら、大丈夫ではない。


怖くて不安で、ギンが食べられるものを探しに行こうと街へ降りた。
母がいつも『絶対に街へ下りてはいけないよ』と言っていたけれど、雪が積もる山に食べるものはなく、仕方がなかったのだ。


小さな洞穴にギンを置いて走り、着いた先は城下町。
知らない場所は、怖くて怖くて仕方がなかった。


けれど、私が食べ物を持って帰らなければ、ギンの風邪が治らない。
人目を避けて川沿いを進み、ようやく見つけたのは果実の欠片。


もうずっと前に母が持って帰ってきてくれた果実は、とてもとてもおいしかった。
きっと、これを食べればギンは元気になるに違いない。


グーグーとなる腹に力を込め、たったひとかけらの果実をくわえた。
雪に埋もれた草むらに潜んでいると、たくさんの二本足の生き物が目の前を通りすぎていく。


大きなかごを持った者たちが、長い行列を為してぞろぞろと歩いている。
あれはきっと、母が話していた人間というものに違いない。
こっそり隠れて、じっとしていれば、いつか道の向こうに戻れるはず。


そう思って待っていると、どこからかギンの匂いが近づいてきた。
ハッとした私の視線の先には、フラフラと歩くギンがいる。

「なんだ、この狐! きったねぇなぁ!」

「こんなところに来るんじゃない! 山へ帰れ!」

「コンッ!」

「ギンッ……!」


ギンが私に気づいたのと、私が叫んだのは、ほとんど同時のことだった。


神様が言った。
母が言った。
『ふたりで一緒にいたら大丈夫』と。


だから、欠けてはいけないのだ。
ギンも私も、どちらも欠けてはいけないのだ。
走り出した私の体は刀で切りつけられ、次いでギン共々蹴り上げられて、高く高く宙を舞った。


今日は新月だと、このとき初めて気がついた。
星はなく、月もなく、空からしんしんと雪が降る静かな夜だった。


目を覚ますと、人間たちが私を見ていた。
すぐ傍にはギンがいてホッとしたけれど、ギンの体は真っ赤に染まってボロボロで、私も全身が痛かった。


ギンはもう虫の息で、ギンのために取っておいた果実はどこにも見当たらない。
私は心の中で唱えた。


(大丈夫。ふたりで一緒にいたら大丈夫)


震える四本の足で立ち上がり、自力で動けないギンをくわえて一生懸命歩いた。


山に戻ろう。洞穴は暖かいし、近くには川もある。
食べ物は、あとで私ひとりで獲りに行こう。
フラフラとした足取りで、目も霞んでいく。


「ギン……もう少しですよ……」


ギンの呼吸音がよく聞こえなくて、私の心臓の音も小さく小さくなっていく。


ひがし茶屋街はひっそりとしていて、狭い路地には誰もいなかった。
これなら怖くない。ふたり一緒だから怖くない。


けれど、とうとう力尽き、私はギンをくわえたまま倒れてしまった。
最後に見えたのは、ギンの姿と大きな大きなお屋敷だった。