金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷

「ひかり」

「あ、さっきのは忘れて! ちゃんとわかってるから」

「ああ。だが、明日は小豆を炊くところを見せてやろう」

「いいの?」

「作り方を教えてやることは叶えてやれないが、目の前で作るところでも見れば、少しは気が晴れるかもしれないだろう」

「うん。ありがとう」


気が晴れるかはわからないけれど、雨天様の気持ちは嬉しかった。
だけど、家事はきちんとこなしたかったし、コンくんに迷惑をかけたくもなかったから、明日は少しだけ早起きをして掃除をしておこう。


「よい心がけだな」

「また読んだの?」

「なにを言っておる。今のは声に出ておったぞ」

「え? 嘘……」

「嘘だ」

「……もうっ! 雨天様って、時々意地悪だよね」


からかわれたことに気づいて唇を尖らせたけれど、雨天様はなぜか楽しそうにしている。
クスクスと笑う姿は、普通の青年と変わらないような気がして、こうして話していると雨天様が神様だってことを忘れてしまいそうだった。


だけど……。
雨天様たちは、人間じゃない。


この地に棲む雨の神様と、双子の狐の神使。
人間である私は、ずっとここにいることはできない。

もし、雨天様たちのことが見えなくなったら、どんな風に感じるのかな……。


ふと浮かんだ疑問の答えは、すぐに出た。
だって、私はそのことに気づくことすらないのだ、とわかっていたから。


記憶を消されてしまうのなら、雨天様たちのことが見えていたことすら忘れてしまう。
そうなれば、見えなくなった時のことなんてわかるわけがない。


見えなくなる時はきっと、とても寂しくなる。
もしかしたら、傷ついてしまうかもしれない。


それを忘れてしまうというのは、傷つかなくても済むということなのかもしれないけれど……。
傷ついてもいいから忘れたくない、と確かに思ってしまった。


その気持ちを振り払うように頭を振り、顔を上げる。
晴れた空は気持ちよくて、雨よりも晴れている方が好きだったはずなのに、今はなんだか太陽よりも雨が見たい。


「ひかり。明日の小豆は、大福にしようか」

「うん。あんこはたっぷりにしてね」

「ああ」

「雨天様! コンは塩大福も食べたいです!」

「それなら、明日は特別に両方作ってやろう」


他愛もない会話に、優しい笑顔。
いつかこの時の思い出も忘れてしまうのなら、たとえどんなに些細な出来事であっても、今だけでも心にしっかりと刻んでおこうと思った。

雨天様のお屋敷でお世話になり始めてから、十日が過ぎた。
ここでの生活は規則正しく、毎日が驚きと戸惑いと笑顔の連続で慌ただしいけれど、まるで自分の家にいる時のように居心地はとても良かった。


おばあちゃんの家を手放す前にあそこで過ごしたいと思って、金沢を訪れたはずだったのに……。
その気持ちは変わっていないものの、このままここにいたいという気持ちも拭えない。


もちろん、そんなことは叶わないとわかっているからこそ、いつ来るのかわからない別れの時までの日々を楽しもうと決めた。
だって、記憶を失くすと知っていても、みんなと笑顔で過ごしたいから。


「雨天様、もち米が炊き上がりました」

「小豆もそろそろできるぞ」


縁側でお茶をして以来、私は時間が許す限り台所で過ごすようになった。
最初は小豆の作り方を見せてもらうだけだったのに、雨天様やギンくんの仕事を見ていると楽しくて、甘い香りに包まれるこの場所につい足が向くようになっていた。


「ああ、よい香りですねぇ。コンは、お腹と背中がくっつきそうです」

「なにを言っているのですか、コン。ついさきほど、お昼をいただいたばかりでしょう」

「バカですね、ギン。この世には、別腹というものがあるのですよ」


私と同じように台所に遊びに来ていたコンくんに、ギンくんは呆れたような視線を送っている。
ふたりのやり取りが微笑ましくて、もうすぐ炊き上がるであろう小豆を横目にクスクスと笑った。


台所で過ごすために掃除を急いで終わらせるようになったのは、実は私だけじゃない。
いつの間にか、コンくんまでここに入り浸るようになった。


雨天様は、最初の三日間こそ注意をしていたけれど……。
今までと同じように完璧に家事をこなした上でここに来るコンくんを、叱ったりすることはなかった。


「今日はおはぎだ」

「コンは、おはぎが大好きです!」


雨天様の言葉に、コンくんが歓喜の声を上げた。
ピョンと跳ねた姿に微笑んだけれど、そもそもコンくんが好き嫌いしているところなんて見たことがなくて、毎回同じようなセリフを聞いていることに気づいた。


「コンくんって、嫌いなものはないの?」

「雨天様がお作りになられるものは、どれも大好物にございます!」


得意げな声に、思わず小さく噴き出した。
そんな私たちを見る雨天様の瞳は、とても優しい。


「ひかり、お皿を取ってくれ。大皿と、小皿が何枚か欲しい」

「はーい」

「ああ、小皿は九谷焼がよいな」


台所に入り浸っている私は、よく使う食器や調味料の場所は覚えてしまった。
毎食後の片付けを、ギンくんと一緒にするようになったおかげだと思う。


充実した日々の中、私も何人かのお客様に会う機会があった。


老衰で亡くなった雑種の中型犬のお客様は、ひとりで暮らす飼い主を案じ、飼い主の最期の時まで傍にいられなかったことに深い自責の念を感じて、心に傷を負っていた。
ひがし茶屋街は、散歩コースだったらしい。


ある家の一室に座敷童として住み着いていた女の子は、家主が老人ホームに入ることで老朽化した家を取り壊すことになり、居場所を失くして泣きながらここに来た。
この街の外れが、その子がいた家だったのだとか。


他にも、何度も生まれ変わって百年以上も生きたと自称するまん丸の三毛猫や、妖となり森の奥に棲んでいたつがいのカラスたち、百歳の誕生日を迎えたばかりで天寿を全うしたという男性の幽霊も訪れた。
みんな、それぞれに心に深い傷を負い、そして揃って心を癒やされてあるべき場所に帰っていった。


最初のお客様が狛犬の神使だったから、誰が来ても驚かないかもしれない。
そんな風に思っていたこともあったけれど、客間に足を踏み入れるお客様の姿を見るたびに、毎回なにかしらに驚かされることになった。


それでも、こぞって笑顔であるべき場所に帰っていくお客様たちを見ていると、私も温かい気持ちになってしまう。
今のところ、ひとりも生きている人間のお客様が来たことはないから、どうやら人間のお客様の存在が珍しいということもコンくんから聞いていた通りなんだとわかった。


こんな日々を今ではすっかり受け入れてしまっている自分自身に不思議な気持ちにはなったけれど、いつの間にか私はこのお屋敷が大好きになっていた――。


「ねぇ、雨天様は神様なんだよね」

「なにを今さら……。最初から何度もそう言っておるだろう」

「そうなんだけど。でもね、妖とか幽霊とか……普通におもてなししてるけど、神様と妖って仲良くしてもいいものなの?」


訝しげな顔つきをした雨天様は、私の言葉で最初の質問の意味を理解したみたい。
一瞬目を見開いたあとで、眉を下げて微笑んだ。


「では訊くが、ひかりはあのお客様たちになにか悪いことをされたり、嫌な思いを感じさせられたりするようなことはあったのか?」

「……ううん」


少し考えて、しっかりと否定をした。
私は、そんな風に感じたことなんてないことに気づき、自身の質問が恥ずべきものだったのではないか、とすぐに思い至る。


「そういうことだ」


雨天様は優しく言うと、傘をほんの少しだけ後ろに倒して、私の方を真っ直ぐ見つめた。


「妖や幽霊が悪いという認識は、偏見から来る憶測に似たものだ」

「うん……」


きっぱりと言い切られて、雨天様の顔をまともに見ることができなくなってしまった。
雨天様は怒っていないけれど、数十秒前の自身の言動に気まずさを感じずにはいられなかったから。


「妖にも幽霊にも、いい者も悪い者もいる。だが、悪い者が根っからの悪かと言えば、私はそうではないと思っている」


まるで叱られた子どものような気持ちでいる私に耳には、雨天様の優しい声が雨音とともにしっかりと届く。
決して叱られているわけじゃないけれど、自然と反省の念を抱いていた。


「善か悪か、根っからの悪か。人間にも色々な者がいるように、妖や幽霊も同じなのだ。ついでに言えば、神様もな」


そう言っておどけたように笑った雨天様に、思わず視線を上げていた。
雨天様は、場の空気を和ませようとしてくれたのかもしれないけれど、悪い神様なんているのだろうか。


その真意が気になったけれど、今はその疑問を解消するよりも、言わなければいけないことがある。
少し緊張していることを隠すように息を小さく吐き、視線を逸らさないように努めて、おもむろに開いた唇で謝罪を紡いだ。


「ごめんなさい……」

「なぜ謝る?」

「だって……」


そのあとに続くセリフを、上手く声にすることができなかった。
なにが悪かったのかも、自身の浅慮さもわかっているのに、どれからどんな風に説明すればいいのか思考が働いてくれなかったから。


それなのに、程なくしてフッと小さく笑った雨天様は、私の頭をポンポンと撫でた。


「別に、謝ることはない。ひかりは、ただ知らなかっただけなのだから」

「でも……」


優しくされてしまうと、自分の情けなさが浮き彫りになっていくようで、いたたまれないような気さえして来る。


「誰だって知らないことも、知らないことで感じる不安もある。だが、知ったあとにどうするかによっては、私は必ずしも謝罪が必要だとは思わない」

「どういうこと?」

「〝知らないことは罪ではない〟ということだ。反省して次に活かせるのなら、なおのことな」


小首を傾げていた私は、少し回りくどいような言い方にますます首を捻ってしまう。
つまり、怒っていないし謝る必要もない、ということなのかもしれないけれど、普通は謝罪が必要な場面だと思うから。


「仮に、ひかりが今の疑問を本人……つまり、お客様たちの前で口にしていたら私は叱ったし、お客様への謝罪を求めただろう」


それは、わかる。
だからこそ、私は数日前にお客様がいる時に感じた疑問を、今日まで口にすることを悩んでいた。


「だが、ひかりはこうして私だけに尋ね、その答えを聞いてすぐに自身の言動を詫びた。そうして真っ先に反省しているとわかる者に、私はわざわざ謝罪が必要だとは思わないのだ」


雨天様の言葉は、相変わらずとても優しくて、湿った空気すらも柔らかなものに変える力がある。


「自身の非を認め、すぐに素直に謝罪ができた者は、同じことを繰り返さない努力ができるものなのだ」


きっぱりと断言し、穏やかな笑みを浮かべる。
その瞳は、優しさで満ちていた。


「ひかりは今日、これまでに知らなかったことを知り、反省している。だから、私から学んだことを次に活かしてくれればよいのだ」


間違いを叱ることなく教え、そっと導いてくれる。
ここに来る人たちは、雨天様のこういう優しさにも救われているに違いない。


最初に紡いだ疑問は、あくまで本題への布石のつもりだったけれど……。
雨天様はやっぱり神様なんだと、改めて感じた。


「私の言っていることがわかるか?」

「うん」

「それなら、ひかりはもう同じ間違い繰り返すことはないだろう」


ふわりと破顔されて、ふとおばあちゃんの笑顔が脳裏に過った。
前にも、確かこんなことがあったような気がすると感じ、記憶の糸を辿る。


「あ、そっか……。あの時だ」

「どうかしたのか?」


思わず零れたひとり言に、雨天様が首を傾げている。
私は、そろそろ雨粒を落とし切りそうな空を見上げ、ニッコリと笑った。


「あのね、おばあちゃんが雨の日が好きだった理由を聞いた時のことを思い出したの」

「その話は私も聞いてみたい。詳しく教えてくれないか?」


少し悩んだけれど、きっとおばあちゃんなら雨天様には話してもいいと思うような気がする。
根拠はないのに、不思議とそう感じた。