ロボ彼がしたい10のこと

 水道から水滴が滴り落ちる音で、星奈(せな)は目が覚めた。
 まどろみと覚醒を繰り返し、深くは眠れていない。そんな日々を過ごしているから、疲れが取れなくて些細な物音でも目が覚めてしまうのだ。
 もう何日も、まともに眠っていない。食事もほとんど摂っていない。
 今日が何曜日で、今がいつなのかも、あまりわかっていない。
 電気はつけず、カーテンを閉め切っていて、外界の変化をあまり感じないからだ。
 朝起きて、カーテンを開けて一日を始めて、三食きちんと食べてまた眠るという健康的で当たり前な生活は、星奈の世界から失われてしまったかのようだ。恋人の瑛一と一緒に。
 恋人の瑛一(えいいち)が死んだ。
 そのことが星奈を蝕み、立ち上がれなくさせている。
 事故の知らせを受けて病院にかけつけて、通夜と葬式に出てから数日の間は、泣き暮らしていてもまだ人間らしい生活ができていた。周囲の人間たちが、星奈がどうにかなってしまわないようにと気を配り、何くれと世話をしてくれていたから。
 けれども、ひと度もとの生活を始めようとするとだめだった。
 日常に帰ってくると彼の不在を生活のあちらこちらでまざまざと実感し、それがひとつひとつ、星奈を打ちのめした。
 おはようやおやすみといった、ささいなメッセージが届かないこと。ふとしたときに視界に入る、彼が部屋に置き忘れていった雑誌やちょっとした衣服。夕飯の支度をしようとして、彼も食べるだろうかと考えてしまう瞬間。
 ささやかな、それでいてこれまで降り積もるように星奈の世界を少しずつ彩り幸福に変えていったものたちが、彼の不在によってごっそりと消え去ったのだ。
 そのことに気づいたとき、星奈は一歩も部屋から出ることができなくなった。
 部屋から出れば、そこはひとり暮らしの学生たちが多く暮らす街だ。十分も歩けば、大学にもたどり着く。
 星奈も瑛一も県外からやって来たひとり暮らし組で、わりと近いところに住んでいた。だから同棲はしないまでもよく互いの部屋を行き来していて、周辺の景色にはすべて思い出がある。
 生きていた頃は当たり前の日常の風景で、それが思い出になるなんて思っていなかった。死んだときから思い出に変わってしまって、そしてその中にどれだけ瑛一を探しても、彼はもういない。この世界の、どこにも。
 彼と似たような姿をした大学生は、たくさん歩いているのに。彼が暮らしていたアパートは、変わらない姿で存在しているのに。
 そのことに気づいた瞬間、星奈はもう立っていられなくなった。
 亡くなってから少し時間が経ったからこそ、はっきりと瑛一の不在を感じてしまった。彼がもう二度と帰って来ないことも、悲しいくらい理解できてしまった。
 それから星奈は今のように、眠らず食事も摂らず、ただ息をしてわずかな水分を摂取するだけで生きていた。
 生きているというよりも、死なずに、ただ過ごしているだけとも言える。

「……なに?」

 ぼんやりとした頭でインターホンの音を聞いて、星奈は突っ伏していた身体を起こした。しっかりと横になる気力もなく、最近はこうしてベッドにもたれかかるようにして眠っている。あまりそういった欲求はわかないけれど、水を飲みたいときやトイレに行きたいとき、この姿勢から立ち上がるほうが楽なのだ。
 インターホンは何度も繰り返し鳴らされ、しまいには「お荷物でーす」という声まで聞こえたから、仕方なく星奈は立ち上がった。踏み込む足に力が入らなくてよろよろとしてしまったけれど、1Kのアパートだから寝室から出れば数歩で玄関だ。

「……はい」
「すみませーん。わたくしたち、こういう者なのですが」

 玄関のドアを開けてそこに立っていたのは、白衣を着た二人組の男とその後ろに隠れるようにしている私服の青年だった。
 しまったと思ったときには、白衣の男のひとりがドアの内側に足を滑り込ませていた。これではドアが閉められない。
 いつもなら、ドアスコープからきちんと外を確認してからドアを開けるようにしていたのに、迂闊(うかつ)だった。
 本来なら予定にない宅配便は受け取りたくないのだけれど、実家が突然何の連絡もなく物を送ってくることがあるから、宅配便業者が来たら応対せざるを得ないのだ。
 それにしても、今日はあまりにも迂闊(うかつ)だったと星奈は恨めしく思う。
 こんな見るからに怪しい人間が立っていると確認していれば、決してドアを開けることはなかったのに。

「人工知能及び人型ロボット研究所……?」

 セールスなら少し話を聞いてから追い払ってしまおうと思い差し出された名刺を確認すると、そこにはそんな胡散臭い文字が並んでいた。でも、名刺と白衣の男たちを見比べると、妙に腑に落ちる気もしてしまう。
 どちらの男も、どことなくおどおどしていて、あまり視線が合わない。髪の毛もとりあえず梳かしてはいるようでも、手入れが行き届いているとはいえない。
 偏見や間違ったイメージだとはわかりつつも、その二人組の様子や姿は、星奈の中の、研究に没頭して俗世から離れてしまっている研究者というもののイメージと一致した。 

「我々は、昨今話題になっている人工知能の研究をしておりまして、その人工知能を載せた人型ロボットの開発も進めております。工場や介護の現場では少しずつロボットが参入しておりますし、家庭用の比較的安価な感情認識ヒューマノイドロボットも発売されたのは記憶に新しいと思います。ロボットと人が生活する時代というのが、もうすぐそこまで来ているということなんですよ!」

 真野と書かれた名刺を差し出してきた男は、星奈が話を聞く姿勢を見せると途端に話し始めた。
 早口で、よく舌が回る。けれどもそれは用意して覚えてきた文章をそのまま吐き出しているという感じで、星奈の頭にはまるで入って来なかった。

「あの、あなた方がロボットの開発に携わっていることはわかりました。それで、ここへ来たのはどのようなご用件ですか……?」

 真野が息継ぎをした合間にようやく星奈がそうして口を挟むと、彼の背後で控えていたもうひとりの男が大きく頷いた。

「それはですね、牧村様にぜひ我が社で開発中の人型ロボットのモニターになっていただきたいということなんですよ!」

 長谷川と書かれた名刺を差し出してきた男は真野のように早口ではなかったけれど、その代わりにものすごく声が大きかった。
 星奈は一瞬驚いてから冷静になって、すぐに青くなった。

「あの、声の大きさを抑えて」
「いえいえ! これは声を大にして言いたいことなのですが! 我が社のロボットは素晴らしいので、ぜひとも一緒に生活して、できればあと一歩及ばない人間らしさの部分について、情報収集させていただければと!」
「……入って!」

 星奈の頭にはこの長谷川という声の大きすぎる男を黙らせなければという考えしかなかった。
 星奈が暮らしているのは、三階建のこじんまりとしたアパートだ。築年数が周囲のアパートと比べて浅く、その上よく手入れさせているのがポイントで選んだのだけれど、一緒に選んでくれた両親が気に入ったのは別のことだった。
 それは、今どき珍しく大家さんがすぐ隣に暮らしていて、直接この物件を管理していることだ。
 入居している学生たちによく気を配り、住み心地がいいようにいろいろ整えてくれる良心的な大家さんだ。
 けれども、うるさくすることにはとにかく厳しく、騒音問題で一度目をつけられると、その後は些細な物音でも許されず、暮らしていけなくなるというのが先に住んでいる住人からの情報だった。

「ここ、大家さんが厳しいので、声の大きさに気をつけてください。それと、話は聞きますけど何も買いませんから、ひと通り話したら帰ってください」

 ドアを開け放ち、気力を振り絞って星奈は言う。
 本当なら一刻も早くこんな変な人たちには帰ってほしいのだけれど、騒がれて大家さんの耳に届いてしまうほうが困ったことになるから耐えることにした。

「どうぞ。狭いですけど、座ってください。……玄関開け放ってるんで、変なことしようとか考えないでくださいね」

 変な人たちの前で弱気なところは見せられないと、星奈は毅然とした。もともとは、気の強い性格なのだ。ここ最近、めそめそしていただけで。
 星奈が鋭い視線を向けると、真野と長谷川は滅相もないという顔をしてブンブンと首を振りながら部屋の中に入ってきた。その後ろを、私服の若い男がのっそりと続く。

「あの、何か誤解をなさっているようですが、我々は牧村様に何かを売りつけようというわけではないのですよ。あくまで本日は、モニターのお願いに来た次第でして」

 食事を摂るときなんかに使っている小さなテーブルの前に腰を下ろすと、真野は機嫌を取るかのように両手をすり合わせつつ言う。その横で、長谷川も笑顔を貼りつけて頷いている。
 真野はひょろりとしたマッチ棒のような男で、それとは対称的に長谷川は小柄で丸々としている。その並びはまるで凸凹(デコボコ)で、漫画やアニメに出てくる間抜けなコンビのように見える。そういった奴らは悪役でも、大抵小物だ。 
 そんな凸凹コンビの横で、ぼんやり座っている私服の若い男は異質だった。

「モニターって、どんなことをするんですか?」

 その若い男性につい視線を向けつつ、星奈は尋ねた。それが前向きな姿勢に見えたのか、真野と長谷川は前のめりになる。

「簡単に言えば、一緒に暮らした際の感想を定期的に報告していただくことですね。商品として売り出した際には、使用者のご家族として受け入れていただくのがコンセプトですので」
「我々と一緒にいるときは完璧に思えるんですがね、やはり実際に暮らしてみるとまだまだ情緒の欠如があるでしょうから、そのあたりの感想を教えていただきたいのです! 言ってみれば、外国人のホームステイのホストファミリーになっていただく感じですね!」
「はあ……」

 真野と長谷川は気の早いことにカバンの中から書類を取り出して、それを星奈の前に差し出した。仕方なく、星奈はそれに目を通す。

「どうして私がモニターなんですか? 使い勝手を見るなら、単身者よりも家族のいる人たちのほうがいいんじゃないですか? それと、私の名前をどこで知ったかも気になるんですけど」

 何日もまともに眠らず食事も摂っていない頭では、書類の文章はあまり入ってこなかった。それでも、星奈は気力だけで目を通していき、気になることも尋ねてみた。

「牧村様のことは、まあそういった個人情報を取り扱うところから。学生街ですからね、こう、情報は比較的手に入りやすいのですよ」
「牧村様をモニターに選んだ理由としましては、我々がこの人型ロボットに想定している精神年齢や思考力というのが大学生くらいでして、そのー、同じくらいの歳の頃の方と過ごしたほうが感情の変化などの情報も収集しやすいのではという仮定に基づいての選出です!」
「そうなんですね」

 質問をすると途端に歯切れが悪くなったのが気になるけれど、コミュニケーションがあまり得意でない人はこんなものかと星奈は受け流す。
 ひとり暮らしの学生の情報がどこかでやりとりされているのなんて珍しくない話だし、ロボットの年齢設定に近いモニターを選ぶというのも納得はいく。

「もちろん、お引き受けいただいた場合はただでとは申しません。それなりの謝礼はご用意させていただいておりますので」

 そう言って、真野は星奈の手元の書類を覗き込んで、ある一文を指さした。そこには確かに、「謝礼 三十万円(税込み)」と書いてあった。
 三十万円といえば、大学生のバイト代としてはかなりおいしい額だ。ここ最近バイトに行けていなかったことを考えると、欲しい金額ではある。
 問題は、モニターの期間だ。

「あの、この『期間 三ヶ月から半年』というのは?」

 謝礼について書かれた文の下にあった文言に、星奈は首を傾げた。

「ああ。それは最長でも半年ということで、それより前に情報の収集が完了すれば回収するということです」
「それなら、この三ヶ月は最短期間ということですね」

 三ヶ月で三十万円か、半年で三十万円か。これはずいぶん違ってくる。どちらにしても、おいしい金額ではあるけれど。

「情報の収集という目的はわかりました。でも、私は具体的に彼に何をしてあげたらいいんでしょうか?」

 目を伏せ気味にボーッとしている私服の青年に、星奈は目をやる。話の流れとしては、その人型ロボットとは彼のことだろう。そうでなければ、なぜここにいるのかわからない。
 星奈に見られているとわかって、私服の青年は顔を上げた。それから、自分の手元と星奈の顔を交互に見る。

「基本的には牧村様のところにおいていただいて、人間の生活を間近で見せてもらえればいいです。ただ、ロボットには“やりたいことリスト”を自分で設定させているので、それを期間内にできる限り叶えてやって欲しいというのが、我々の願いではあります」

 真野は困ったように笑って、なかなか離したがらない青年から何とかそのリストを受け取って星奈に渡した。何が書かれているのか星奈は身構えたけれど、リストに目を落として拍子抜けした。

「お好み焼きが食べてみたい、買い物に行ってみたい、バイトをしてみたいって……こんな簡単なことでいいんですか?」

 リストにあったのは、どれも願い事とも呼べない、ささやかなものだった。三十万円の謝礼に見合わない無理難題を吹っかけられたらどうしようと思っていただけに、それはあまりにも可愛らしいものに思えた。

「人間にとっては些細なことでも、ロボットの彼にはひとつひとつが大いなる一歩で、重要なんですよ」

 長谷川がそう言って、ポンポンと青年の肩を叩いた。肩を叩かれた青年は、星奈の顔をじっと見た。

「……あ」

 青年に、表情の変化はほとんどない。だからこそ、何かを訴えられている気がする。
 そして、その青年の顔が一瞬だけ瑛一の顔に見えて、星奈は言葉を失った。

「牧村様、どうしたんですか?」

 言葉を失った拍子に、星奈の脆くなっていた涙腺は刺激されてしまった。泣くまいと思ったときには涙は溢れていて、止めようがない。
 変な来客に対して気を張っていただけで、情緒は不安定なままだ。ここ最近、呼吸をするように涙を流す日々を送っていたから、やはりすぐに普通に振る舞うのは無理だったのだ。

「……大丈夫です。彼の顔が付き合っていた人に似ているような気がして、それでいろいろ思い出してしまって……」
 
 心配そうにしてくれた真野に星奈がそう取りつくろうと、長谷川が軽快に笑った。

「そう感じるのも、無理はありません。ごく平均的な今どきの男子学生の顔を意識して作りましたからね! 髪型も服装も、いい雰囲気でしょう?」

 平均的な今どきの男子学生の顔だと言われれば、確かにそんな気がして、星奈はおかしくなって笑いながら涙を拭った。でも、一度ロボットの彼の中に瑛一を見てしまうと、もうだめだった。

「……この、ロボットの彼の名前って、何なんですか?」

 青年から目をそらせないまま、星奈は尋ねた。ハッと気がついたように、真野と長谷川は顔を見合わせる。

「モニターを引き受けていただけるのですか!?」
「そう、ですね。悪い話ではないと思いますし、お話を聞く限り断る理由もありませんから。先々のことを考えて、貯金もしておきたいですし」

 言いながら、少し言い訳じみているなと星奈は自分で思う。
 何ひとつ、嘘は言っていない。来年になれば始まる就活のことを思えば、少しでも貯えておきたいというのは本音だ。
 でも、モニターを引き受けてもいいかもという気持ちになったのは、別の理由だ。

「彼のことは、我々の間ではただ“ドール”と呼んでいました。開発している個体が増えれば、識別番号をつけねばの思っていましたが」
「ですから、牧村様がお好きな名前をつけて呼んでやってください! いずれ製品化されれば、ドールは各ご家庭でそれぞれの名前をもらうわけですから」

 真野と長谷川は、あきらかにほっとして、嬉しそうにしていた。ドールと呼ばれた青年ロボットも、どことなく安心しているように見える。
 ロボットなのだから表情の変化はないはずなのに、ちょっとした角度の変化なんかで表情があるように見えるのが不思議だ。
 その表情ほ変化にいちいち瑛一を探してしまっているのに気づいて、星奈は苦笑した。
 恋人の死から立ち直れていない自分のところに、その恋人にどことなく似ているロボットがやって来るなんて、どれだけ都合がいい話なのだろう。
 もしかしたら、この怪しげな研究員二人は、そういったことも想定して来ているのではないだろうか。ここは学生街だ。少し聞き込めば、そのくらいの情報は簡単に出てくるに違いない。
 そんなふうに考えても、星奈はこの話を断ろうなどとは微塵も思っていなかった。
 いつまでも泣いているわけにはいかないとわかっている。そのためには、何か気分の晴れることが必要だ。
 それなら、これほどちょうどいい気晴らしはきっとない。

「エイジ。このロボットの彼の名前は、エイジにします」

 青年ロボットの顔を見て、星奈は言った。
 この青年を瑛一の代わりにしようという気持ちはない。そもそも、代わりになどなり得ない。
 けれども、ほんのわずかにでも瑛一の面影を感じさせるこの青年ロボットには、彼の名前の響きに似たものを与えたかった。

「エイ、ジ。エイジ」

 青年ロボットは、噛みしめるように言った。無機質な、無感動な声だ。巷で話題になった、あのヒューマノイドロボットのおしゃべりが上手だと感じるほど。それでも今、彼の中で何らかの感情が動いたように星奈には感じられた。

「エイジか……うん。いい名前だ! よかったな、エイジ」

 長谷川が感激したように、青年ロボット――エイジの背中を叩いた。真野も感慨深そうに頷いてから、書類を星奈へと差し出した。

「こちらが、モニターを承諾いただく際の誓約書です。といっても、牧村様に不利益になる項目は一切なく、あくまで故障や不具合の責任は我々にあり、牧村様に負わせるものではないという証明であり、我々の宣誓です」

 真野に言われてその書類に目を通すと、本当にそんなことが書いてあった。しかも法律的な独特の回りくどい言い回しではなく、噛み砕かれた文章で書かれていてわかりやすい。

「わかりました。これにサインすればいいんですね。……あの、もし壊れたり調子が悪いなと思ったらどうすればいいんですか?」
「名刺のアドレスにメールをください。もちろん、電話でも。一日一回のレポートも、そのアドレスに送ってくだされば大丈夫ですので。どんな些細なことでも、気になれば知らせてください」
「週に一度、定期メンテナンスにも来ますんで!」

 真野と長谷川は、星奈の不安がなくなるように言ったのだろう。それなのに、一日一回レポートを送らなければならないのかということと、週に一回この凸凹コンビに会わなければならないのかということが、星奈をためらわせた。
 それでもやはりエイジの顔を見ると、断るという選択肢は消え去った。星奈が断れば、凸凹コンビは他のモニター候補のところへ行くのだろう。エイジが他の誰かのところに行くなんて、星奈は嫌だった。
 書類にサインする理由なんて、それだけで十分だ。

「……書きました。これで、大丈夫ですか?」

 署名と押印をして、星奈は書類を真野へ渡した。

「エイジ。頑張れよ」

 真野は背を撫で、長谷川は肩を叩き、それに対してエイジは無表情のまま頷いた。
 それから、凸凹な二人は一礼して玄関から出ていった。

「よろしくね、エイジ」

 エイジと二人で残された部屋で、星奈は言った。
 よくよく見るとエイジは本当によくできていて、こうして対峙してみるとまるで男性と二人きりでいるみたいで、星奈はどぎまぎしてしまう。
 その感覚は、初めて彼氏を家に呼んだときのドキドキに似ている。そんな星奈を、エイジはじっと見ていた。

「何て、呼べばいい? マキムラさん?」
「……星奈でいい。星奈って呼んで」
「わかった。セナ」

 初対面の、ごくありふれたやりとり。それなのに、姿が似ているから、出会ったばかりの頃の瑛一とのやりとりを思い出させられた。こんなことで泣いてはいけないと、星奈はお腹に力を入れてぐっとこらえる。

「じゃあ、とりあえず、“やりたいことリスト”の中から、消化できそうなことをやってみようね」

 星奈は笑顔を作って、小さなテーブルの上に残されたリストに目を向けた。
 「お好み焼きを食べてみたい」から始まるリストは、全部で十項目。そのどれもささやかなものだけれど、中には「お花見で宴会をしてみたい」や「釣りに行ってみたい」など、まだ時期でなかったり準備が必要だったりするものもあった。そう考えると、やはりひとつめの項目が最も手頃で、現実的かもしれない。

「……そっか。冷蔵庫、空だったんだ」

 お好み焼きならすぐ作れると思っていたのに、冷蔵庫を開けて星奈は愕然(がくぜん)とした。そこには、ほとんど何も入っていなかった。
 かろうじてそこにあったのはマヨネーズやドレッシングといった調味料類と、残り少なくなった小麦粉、実家から送られてきてそのままになっている缶詰類だけだ。これでは、何も作れない。

「ちょっと食材を切らしちゃってるから、買い物に行ってくるね!」

 冷蔵庫の状況を見ることで、ろくに眠らず、何も食べず、自らの命を削るようにして過ごしてきたここ最近の生活をようやく客観視することができた。客観視して怖くなって、星奈は財布だけ持って家を飛び出した。
 きっとひどい顔をしているだろう。服だって、パジャマとそう変わらない部屋着だ。それでも、そんなことに構うよりも食材を確保するほうが先だと、あまり力の入らない足を動かす。
 夕方のスーパーは、それなりに混み合っていた。久々に感じる、生きた人間たちの活気。その活気にあてられ、かつてここにも瑛一と来たことがあったのだと思いだしてしまって、星奈はまた泣きそうになる。
 ギリギリのところで涙を零さないようにしながら、星奈は必要なものをカゴに放り込んでいく。朝食のためのパンや飲み物も必要だろうかと思って、六枚切りの食パンや牛乳、オレンジジュースもカゴに入れた。
 そのあと、星奈は自分が本当に久しぶりに“明日”のことを考えられたのに気がついた。
 思いだしたのだ。どんなに悲しくても、何をなくしても、不幸なその日が続いていくのではなく、必ず明日が来ることを。
 自分が食べるためのパンではなく、エイジが食べるだろうかと考えただけだったけれど、それでも星奈は明日のことを考えられたのだ。
 それは、星奈にとって大きな一歩だった。
 涙がこぼれてしまう前に帰り着こうと、会計を済ませると星奈はできる限り足早に家へと戻った。
 よろよろだった。思うように身体は動いてくれなかった。それでも、何とか倒れずに帰り着くことができた。

「ただいま。すぐに、作るからね」

 玄関のドアを開けると、そこには出かける前とまったく変わらない姿勢でエイジがいた。グレーのフードつきのトレーナーに、いい具合にくたびれたインディゴブルーのジーンズ。どこにでもいる大学生っぽい服装をしたエイジは、薄暗い部屋の中で見るとやはり瑛一に見えた。
 それは幻だと、わかっている。だからその幻を振り払うために、星奈は本当に久しぶりに部屋の電気をつけた。
 台所に立って、まずキャベツの外葉を剥がしてからジャブジャブ洗った。それから、必要なぶんだけ剥がしてキャベツを細かく刻んで、ベーコンを刻んで、それらをボールに入れて小麦粉をまぶして、卵を混ぜて、顆粒のカツオ出汁を溶かした水を注いで混ぜていく。
 さほど料理は得意ではなくてレパートリーが少ないぶん、お好み焼きはよく作った。それに星奈のバイト先はお好み焼き屋だ。だから、瑛一にも得意料理だと言ってよく振る舞った。
 エビ玉や豚玉よりも、瑛一はこのベーコンが入ったものを喜んでくれた。そのため、いつしか星奈が家でお好み焼きを作るといえば、このベーコン入りのものになっていた。
 そんなことを思いだして、また涙が溢れてきた。
 けれども、星奈は涙を拭うために手を止めたりせず、溢れるままにしてお好み焼きを焼き始めた。
 フライパンに油をひき、その上にスプーンで生地を丸く広げる。厚さは二センチほど。それから中火で三分ほど焼き、ひっくり返して蓋をして五分ほど蒸し焼きにする。そしてまたひっくり返して、二分ほど焼く。
 ソースと青のりとかつお節をかけたら、完成だ。

「できたよ」

 お好み焼きの乗った皿と箸をエイジの前に置くと、興味深そうにかすかに目を見開いた。

(表情が変わった!)

 星奈が喜んだのも束の間。エイジに食べ始める様子はない。ただじっと、皿を見ている。

「どうしたの? フォークのほうがよかった?」

 もしかして箸が使えないのだろうかと思って尋ねたけれど、エイジは首を振る。

「俺は食べられない。だから、セナが食べる所を見せて欲しい」
「え……そっか」

 淡々と言われ、それもそうかと星奈は思い至る。
 エイジはよくできていて口もかすかに動くけれど、その口を大きく開けて何かを食べるのは無理そうだ。それに何より、エイジはロボットだ。
 どれだけ精巧に作られていても、ロボットは人間と同じ食事は摂れないだろう。
 そんな当たり前のことに気づいて、星奈は力が抜けた。エイジに食べさせてあげたい、食べさせなければという一心で買い物へ行って、作ったのに。

「人間には、食べ物が必要だ。でも、俺はロボットだからいらない。食べられない。だから、セナに食べて欲しい」

 星奈をじっと見つめて、エイジは言う。彼は人工知能だから、おそらくこれまで蓄積した情報をもとに言葉を発しているだけなのだろう。それでも、それらの言葉は星奈に対して発せられている意味のあるもののように思えて、胸が詰まった。

「そっか。私が食べるんだね。そうだね。人間には、食べ物が必要だもんね。でも、食べられるかな……」
「どうして? セナは、お好み焼きが嫌い?」
「ううん。そうじゃなくて、食事を摂るのが久しぶりだから、食べられらかなって」
「どうして? 人間は毎日食事を摂る必要があるのに」
「……食べられなかったの。つらくて、悲しくて」
「どうして?」

 星奈の今の状況はエイジの興味を引いたらしく、立て続けに疑問をぶつけられた。これが人間にされたとしたら、責められているように感じただろう。
 でも、相手はロボットだ。亡くなった恋人の瑛一にどことなく似ているエイジに尋ねられると、責められているは感じず、ただただ言葉が胸に刺さった。

「……恋人がね、死んだの。二週間前に。バイク事故だった。雨の日で、道路の状況があまりよくなくて……。それで悲しくて、苦しくて、気がついたらご飯が食べられなくなったの……」

 涙を流し、言葉に詰りながら星奈は言った。
 まだ悲しみの只中(ただなか)にいる。簡単には抜け出せない。それなら、ロボット相手とはいえ、話しておくべきだと思ったのだ。むしろ、ロボット相手だからこそ、きちんと話しておくべきなのかもしれない。

「恋人が死んだ。それで、悲しくて食事が摂れない。……でも、セナは生きてる。それなら、食事は摂らなくちゃ」

 しばらく考え込んでいた様子のエイジが、顔を上げて星奈を見る。その言葉に、まっすぐな視線に、星奈はハッとした。

「……そう、だね。生きていくなら、食べなくちゃね」
「そうだ。恋人が死んでも、セナの命は続いていく。明日も、明後日も、それからも。それなら、毎日食べる必要がある」
「うん」

 星奈は、箸を手にお好み焼きをひと切れつまんでみた。焼きたてのお好み焼きは、ソースとかつお節の香りが芳ばしくて、空腹の身体は素直な反応を示した。
 本当はスープやお粥などの消化にいいものから身体を慣らしたほうがいいのだろう。でも、星奈は箸でつまんだそのひと切れを口に運んだ。
 瑛一に、生きろと言われた気がしたから。

「おいしい」

 ひと口食べて、星奈は嗚咽と共に呟いた。
 恋人が死んでも、それがどれだけつらくても苦しくても、お好み焼きはおいしかった。
 星奈は久しぶりに幸福な夢を見た。
 瑛一が泊まりに来ていて、朝に弱い星奈より早く起きだして朝食を作ってくれている夢だ。
 物静かでクール系に見えるけれど、瑛一はかなりの甘党だ。だから、作る朝食もフレンチトーストやお砂糖たっぷりのスクランブルエッグなど、甘いものばかりだった。
 夢の中、甘い香りをまとった瑛一が起こしに来てくれる。低く穏やかな声で名前を呼んで、優しく身体を揺さぶって。
 それがあまりにも幸せな夢だったから、目覚めてすぐに、星奈は落胆した。
 瑛一はどこにもいないし、甘い香りもしない。
 けれども、絶望して泣かずにいられたのは、代わりにキッチンに立つエイジの姿が見え、卵の焼けるいい匂いがしていたからだ。

「おはよう、セナ。もう起きて、問題はない?」

 星奈がベッドの上に起き上がったのに気づいて、キッチンからエイジが顔を覗かせた。問題はないかと聞かれて、星奈は昨夜のことを思いだした。

「そっか……昨日はお好み焼きを少し食べて、泣き疲れて眠っちゃったんだった」

 星奈はあのまま、泣いて食事どころではなくなって、食べ残したお好み焼きにラップをかけて冷蔵庫にしまってから力尽きたのだ。何とかベッドに入ったけれど、その直後から記憶がない。

「すごくたくさん泣いて水分が抜けたはずだ。だから、補給しないと」
「ありがとう」

 エイジから水の入ったコップを受け取り、それを飲み干した。ただの水道水なのにそれがひどくおいしく感じられるほど、エイジの言う通り喉が渇いていたらしい。

「そういえば、エイジはずっと起きてたの? ちゃんと休んだ?」

 星奈は今頃になって、エイジには休息は必要なのか、休むとしたらどうすればいいのかを真野たちに確認していなかったことに気がついた。

「休んだ。そこで。基本的にセナが眠っているときや留守のときは、休眠(スリープ)モードになってる」
「そうなんだ」

 まるでパソコンみたいだなと思ったけれど、それは言わずにおいた。「そこで」とエイジが指さしたのが部屋の隅で、小さくなって休んでいる姿を想像するといじらしくて、そういった気遣いは間違いなく彼の“人間らしさ”だと思ったからだ。

「そんなに隅っこにいかなくていいからね。もっとくつろいで大丈夫だから」
「わかった」

 星奈の体調を確認すると、エイジはまたひょいとキッチンに戻ってしまった。それから少しして、皿を片手に戻ってきた。

「目玉焼きを、作ってみた。食べられそうか?」
「朝食を作ってくれたんだ……ありがとう」

 エイジが持ってきた皿には、おいしそうな目玉焼きが乗っていた。どうやら卵が焼ける匂いは夢ではなく、現実だったようだ。

「卵は焼くのと茹でるのはあの人たちから教わった。パンも焼けるけど、何枚食べる?」
「パンはいいや。ありがとう」
「飲み物は?」
「じゃあ、牛乳を」

 星奈の注文を受け、エイジはキッチンへ行くと、牛乳の入ったグラスを手に戻ってきた。甲斐甲斐しいなと思いつつ、これが家庭にロボットがいる感覚かと星奈は感動した。
 働きぶりに感心しつつも、ヒューマノイドロボットがここまで人間に近い姿をしている必要があるのかとふと思ってしまう。今の星奈にとっては、エイジのこの見た目や存在はちょうどいいのだけれど。

「セナの今日の予定はどうなってる?」

 塩を振った目玉焼きをつついていると、エイジが隣に座って神妙に尋ねてきた。

「予定? 予定っていう予定はないかな。大学は春休みだし、バイトはまだ、お休みをもらってるし……」

 カレンダーを見て、星奈の心は少し陰鬱になった。
 今は三月。二月の初旬に後期課程の試験が終わり、春休みが始まっている。本来ならたくさんバイトのシフトを入れて、友達と遊びに行く約束をして、瑛一ともいろいろなところに出かけるはずだった。
 それが、春休みが始まってすぐに瑛一が亡くなって、気がつけば二月は終わり、三月になっている。
 四月になれば大学が始まるし、店長の厚意で休ませてもらっているとはいえ、いつまでもバイトを休んでいるわけにはいかない。カレンダーを見て冷静になると、自分がいかに甘え、甘やかされていたかわかる。
 いくら親しい人が亡くなったとしても、二週間も塞ぎ込んでいる社会人はいない。どれだけ心の中につらい思いを抱えていても、それを押し隠して仕事をするのが当たり前なのだろう。

「予定を聞いたってことは、“やりたいことリスト”を消化したいってことだよね? どれにしようか?」

 話しながら目玉焼きを食べ終えて、星奈はリストに視線を落とす。すると横からエイジの指が伸びてきて、あるひとつの項目を指差す。

「買い物に行こう」
「買い物、かあ……」

 どうやらエイジは買い物に行きたいらしい。市街地にでも興味があるのだろうか。
 星奈も買い物は好きだ。これが元気なときなら、嬉しい誘いだったと思う。
 でも、今は市街地の人混みや熱気を思うと、足がすくむような気がした。

「……今日は買い物じゃなくて、こっちにしない?」

 代わりに星奈が指差したのは、リストの「泣ける映画を見る」という項目だった。ロボットが泣くという感情に興味があるのが面白いし、映画を見て泣くのなら、苦もなく付き合えそうだと思ったのだ。

「うん。それなら、映画館に行くのか? それとも、レンタルショップか?」
「ううん。どっちでもないよ」

 言いながら、星奈はノートパソコンの電源をつける。そして、動画サイトにアクセスした。

「映画は好きだから、月額で好きなだけ見られるサービスに入ってるんだ」

 大学の講義では、たまに教授が勧める古典作品や芸術性の高いものを見ておく必要がある。図書館の視聴覚コーナーにあることも多いのだけれど、他の学生と競うようにして借りなければいけないのは面倒なため、この月額サービスに入会したのだ。
 それに、星奈も瑛一も映画を見るのがわりと好きだった。邦画洋画アニメ映画こだわらず、これまでに様々なものを見てきた。
 “泣ける映画”と検索しようとして、星奈はお気に入りを開いた。いずれ見たいものをワンクリックで登録しておける便利な機能だ。そこから、瑛一と一緒に見ようと思っていた作品をピックアップする。

「人が死んじゃうのは、嫌だよね……そんなの、わざわざ見なくたっていい。人が死んだら悲しいのは、当たり前なんだから」

 瑛一と見たかった映画の一覧には、いわゆる“泣ける映画”があまりにも多かった。
 余命が短い恋人と過ごす話。恋人の死後、その人が残したメッセージを探す話。幸せに愛し合った恋人たちの物語の結末が死の話。
 そんな不幸が自分に降りかかるとは思ってもみなかったときは、それらの安易な泣けるモノが関心の対象だったのだ。
 すれ違いや葛藤を描くよりも、より安直に“泣かせる”ことを目的に死を扱った作品が。
 そういう作品を好む人たちや、その作品が存在していることを否定しようとは思わない。けれども、その不幸が絶対に自分に降りかからないと達観していた立場からその只中へと移り変わった今、進んで見ようとは思えない。

「人がただ死ぬだけでは、きっと見る者を涙させることはできないと思う。物語の中でその命に価値があって、意味があるから、それが喪われたとき悲しくなるんだと俺は思う」

 お気に入りリストの中からあれも違うこれも違うと除外していく隣で、エイジがそうポツリと言った。
 妙に理屈っぽい。ロボットだから仕方がないのかなと思いつつ、そういえば瑛一もこんなことを言っていた気がすると思い出した。

「そうだよね。それがたとえ作られた物語とはいえ『はい、登場人物が死んだぞ。泣け!』じゃ、泣けないもんね。その死を受け止めて、主人公たちがどんなふうに感じたのか、何を辛く思っているのか伝わるからこそ、視聴者は泣かされるわけだしね」

 瑛一と二人でかつて、なぜ映画を見ると泣けてしまうのかという話をした。死を扱ったものだけでなく、登場人物たちの成功や挫折、苦悩を描いたものでも泣いてしまうのはなぜなのか、と。
 たとえばサスペンス映画を見て、被害者が殺されたシーンには一切感情が動かなかったのに、犯人が追いつめられていき、殺人に至った事情や背景が暴かれたときには泣けてしまうということもある。
 それはきっと、画面を通してその登場人物に感情移入したり、その人の体験を自分のことのように感じるからだろうというのが、二人が出した結論だった。
 誰にでもわかる、ごくありふれた答え。でもそれを瑛一と二人で導き出せたことが、星奈にとっては大切で尊いことだったのだ。

「人間は娯楽を通して、自分の人生に起こり得ること、あるいは起こり得ないことを追体験する必要があるって真野が言ってた。それはロボットにも同様に必要だと」
「追体験、かあ。確かに、必要かもね」

 だからといってやはり人が死ぬ映画はごめんだと思い、星奈は動物がメインの映画を二本、音楽に関する青春映画を一本見ることにした。
 動物の映画は、評判やサムネイルの写真から泣けることは必至だ。もしかしたらエイジはこの二本で満足するかもしれない。だから、あとのもう一本は予備だ。面白そうだけれど、もしかしたら今は見たくないものかもしれない。
 パソコンをテレビにつないで、星奈は一本目の映画を流し始めた。
 一本目は、少女と犬が共に成長する物語だった。
 ある日少女の家の庭に一匹の子犬が迷い込んでくる。少女はその犬を飼うことになり、余命幾ばくもない少女の母親が犬と暮らすにあたっての大切な十個の約束を少女にさせるのだ。
 少女と子犬は途中で離れ離れになったり、また一緒に暮らすようになったり、長い時間、苦楽を共にする。それでもやはり、犬のほうが先に老いる。
 けれどもこの物語の主題は愛犬の死ではなく、共に暮らした犬が飼い主に何をもたらし、どのように幸せをくれるかというものだった。
 ラストで泣かされるだろうという予想に反して、星奈は序盤から泣いた。少女の母親の死が迫っているのを悟らせられるシーンですでに涙ぐみ、十個の約束をさせるところではボロボロ涙をこぼした。
 犬と離れ離れになるところでも、再会するところでも、大きくなって幼馴染の少年と再会するところでも。とにかく、主人公の気持ちが揺れ動くところでは泣いた。
 ここに今、瑛一がいたなら、「星奈はよく泣くなあ」と自分も鼻の頭と目を赤くして笑っただろう。
 でも今は、隣に瑛一はいない。代わりにいるエイジはあまり表情のない顔でじっと見て、部屋の隅にいってしまっていたティッシュ箱を取ってきてくれた。
 星奈はそれを受け取って、ありがたく涙と鼻水を拭った。
 二本目の映画は、実際に起こったことをもとにした作品だった。
 ある一家が地震で被災し、そこで飼われていた犬が自分の子犬たちや飼い主一家を守るために奮闘する。心配そうに鳴いてみたり、瓦礫から掘り出そうとしてみたり。その後、飼い主たちは救助ヘリに助けられるのだけれど、ペットはヘリに同乗できないため、犬たちは被災地に取り残されるのだ。
 それから、犬はまだ小さな子犬たちを守りながら、飼い主と離れて二週間以上も生き延びなければならなくなる。
 犬の健気な姿に、家族の繋がりに、被災地の人々の助け合いに、星奈はまたも涙した。飼い主たちと犬が再会できるのかわかるまで、不安でたまらなくて何度も嗚咽を漏らした。
 終盤になるとずっと目元をティッシュで覆っていたから、犬の無事はエイジに、「犬、大丈夫。生きてる」と教えてもらって気づいたほどだ。
 動物の映画を二本見て、泣きに泣いて星奈はまたカラカラになった。泣くことは体力を使うからか、久しぶりに心底お腹が空いたと思って、昨日の残りのお好み焼きを食べた。水もたくさん飲んだ。でも、映画の内容を思い出しながらエイジと話してまた泣くから、その水分補給が意味のあるものなのかわからなかった。
 お昼すぎまでそうして泣ける映画を見てエイジは満足するかと思ったのに、まだ見たいという。これ以上泣かされるのかと星奈はためらったけれど、もう一本見つくろっていたものは青春映画だから大丈夫かと思って、結局は見ることにした。
 それなのに、その日一番泣かされたのはその映画だった。
 OL生活に希望もやりがいも見出だせないまま過ごしている主人公は、同棲しているバンドマンの恋人に背中を押される形で仕事を辞める。それなのに恋人は本気で音楽に打ち込む様子はなく、そのことに苛立った主人公は恋人と衝突してしまう。
 そのときの喧嘩がきっかけで、恋人はバイトを辞めて退路を断って音楽活動に打ち込むものの、うまくいかない現実に打ちのめされて結局は主人公と別れることを決意する。
 その後、恋人は主人公とよりを戻すことを決意して連絡してくるのだけれど、主人公のところへ向かう途中で事故に会い、死んでしまう。
 その後主人公は自暴自棄になりながらも、最後は恋人が残した歌を彼がいたバンドのメンバーとライブで歌い上げるのだ。
 星奈は途中までは、主人公たちの抱えるモヤモヤや葛藤に共感し、感情移入しながら見ていた。年齢が近いぶん、主人公たちの何者にもなれない焦燥感や、つまらない大人にはなりたくはないという苛立ちみたいなものがよく理解できた。
 だからこそ、主人公が恋人と死別するという筋書きがきつかった。恋人はやっと何を選ぶのが幸せなのかを摑んだのに、それをなす前に、主人公に直接伝える前に死んでしまったということが。
 恋人がバイク事故で死んでしまうというのも、星奈にはかなり堪(こた)えることだった。画面の向こうの作り事なのに、まるでそれが自分の身に起きたことのように感じられ、苦しくて悲しくて、しゃくりあげすぎて呼吸ができなくなるかと思ったほどだ。
 朝から泣ける映画を見て涙と鼻水を拭い続けた結果、家にあるティッシュをすべて使い切ってしまった。
 嗚咽を漏らし、拭くものもなく涙と鼻水を流し続ける星奈を見かねたのか、エイジは「ここで拭いたらいい」と自分のトレーナーを指し示した。判断力を欠いていた星奈は、促されるままそこに顔を埋めた。エイジは、何も言わずじっと動かずにいてくれた。
 これが瑛一なら、抱きしめて背中を撫でてくれただろう。エイジは、震える星奈の背中にそっと手を添えただけだった。けれど、それだけでもひとりきりで泣くよりもずっとよかった。
 恋人が死んでしまうシーンを見たときは、なぜこの映画を選んでしまったのだろうと、正直言って後悔した。でも、終盤で主人公がライブのステージに立って恋人が遺した歌を歌うシーンを見て、その後悔はかなり薄れた。
 主人公を演じた女優は、決して歌は上手ではなかった。それだけに、魂を込めて歌い上げるシーンは圧巻で、星奈は泣くのをやめて見入った。
 恋人がこの世に存在したことを証明するために歌う主人公。恋人の死後、自暴自棄になっていたのに、その歌を歌おうと決めてからはがむしゃらにギターの練習をしていた。
 その姿に、星奈はひどく心を動かされた。
 どれだけ大切な人を喪ったとしても、自分の人生は続いていく。そこで突然ぷっつりと途切れたりしない。
 そんな当たり前のことが、その映画を見たことで理解できたのだ。
 簡単には乗り越えられない。涙も、枯れそうにない。
 それでも星奈は、自分がまだ生きていて、人生が続いていくのだということを受け入れられる気がした。


「……いい映画だったね。見てよかった。途中で見るのやめなくて、よかった」

 グスグスと、エイジにしがみつくようにしてから星奈は言った。涙と鼻水ですっかり汚れてしまった顔を、上げられそうになかったのだ。
 エイジはただ黙って、星奈が泣くままにしておいてくれた。もしかしたら、慰めるという機能がついていないせいかもしれないけれど、今の星奈にはそれがちょうどよかった。

(冷たくはないけど、あったかくはない。身体も、少し硬い。人間に似せて作られてるだけで、エイジは人間じゃないんだなあ……) 

 ただ見ているだけではわからなかったことだ。そうして触れることで初めて、エイジがロボットなのだと実感した気がする。
 そこにいるのは瑛一ではないのだと改めて確認するために、星奈は顔を上げた。

「落ち着いたか?」

 透き通る茶色の双眸(そうぼう)と目が合った。ガラスか、アクリルか。曇りのない、人間の目とは異なる美しい目と。
 表情の変化はあまりないはずなのに、星奈を見つめるその目は思いやりに満ちていて、心配しているように感じられた。

「うん。落ち着いた、かも」 
「たくさん泣いて、ストレスが発散されたんだろう。感動の涙を流すとセトロニンという神経伝達物質が分泌される。セトロニンは精神の安定につながる物質だ。だから、泣いてもいい場面で思いきり涙を流すのはいいことらしい」
「そうなんだ……何か、聞いたことあるかも」
 
 理屈っぽいなと思って、星奈は笑った。慰めているのではなく、蓄積している知識を場面に応じて吐き出しているだけなのかもしれない。でも、星奈の涙を肯定したエイジのその言葉を、星奈は慰めとして受け取った。

「うわ……どうしよう。服、汚れちゃったね」

 冷静になってエイジの服をまじまじと眺めて、星奈は恥ずかしくなった。思った以上に涙と鼻水でぐっしょり濡れてしまっている。ライトグレーの生地が、そこだけダークグレーになっているのだ。他に拭くものがなかったとはいえ、これはあまりにひどい。

「洗濯してくれればいい。気にするな」
「わっ……」

 エイジは星奈から少し離れると、おもむろにトレーナーを脱いだ。
 ロボットとわかってはいるものの、異性の姿をしたものがそうして目の前で裸になるというのが恥ずかしくてびっくりしてしまった。でも、はっきりと裸体を見てしまってからは別の驚きが星奈を襲った。

「……これ、着てて。亡くなった彼氏が着てたもので申し訳ないんだけど」

 星奈は急いでクローゼットの下のほうに置いてある衣装ケースを漁って、長袖Tシャツを引っ張り出してきた。これはいつか星奈が瑛一に借りてそのままになっていたものだったか、瑛一が泊まりに来たときに置いて帰ったものだったか。とにかく、瑛一のものだ。エイジも問題なく着られるだろう。

「俺は風邪をひかないからこのままでいい。……そうか。この身体が見慣れないから、不快だったんだな」

 不自然にそらされた星奈の視線の意図に気づいたのか、エイジは自身の身体をまじまじと見つめた。

「不快とかじゃないよ。ただ、びっくりしちゃっただけ」
「無理もない。俺の身体は球体関節人形というものと同じ技法で作られていて、顔や手なんかの目立つ部位は特殊な皮膚が被せられているからな。この手の人形の体に嫌悪感を示す人間は多いらしい。でも、メンテナンスをする関係で、どうしても胴部分に皮膚は被せられないんだ」
「そうなんだ……」

 エイジの上半身は肋骨と下腹のあたりに継ぎ目のようなものがあった。球体関節人形なのだと聞いて、その継ぎ目の意味が理解できた気がした。
 視線をそらすとエイジを傷つけてしまうのではないかと思って、星奈はどんなふうに人と違うのだろうとしばらくその身体を見つめていた。すると今度はエイジが落ち着かなくなったのか、いそいそとTシャツを着てしまった。

「じっと見ちゃって、ごめん。これ、洗濯してくるね。ついでにお風呂に入ってくる」

 そう言ってから、星奈はバスルームに駆け込んだ。
 あわてていたのは、涙を見られたくなかったからだ。
 雰囲気や背格好が瑛一に似ているからあのTシャツはちょうどいいだろうと思ったのに、袖がわずかに短かった。それを見て、なぜかはわからないけれどまた泣けてしまったのだ。

(勝手に似てる部分を見つけて喜ぶのはやめよう。違う部分を見つけて落胆するのも。瑛一とエイジを同一視するのは、いけないことだ。そんなことをして勝手に傷ついたりするのは、エイジに失礼だ)

 熱めのシャワーを頭から浴びながら、星奈はそんなふうに涙と一緒に迷いを洗い流した。
 立ち直るためにエイジのモニターを引き受けたのだ。自ら傷を深くして閉じこもるようなことは、やめにしなければ。  
 そう決意して、バスルームを出る。

「明日、買い物に行こうか。エイジの服を買おう」

 休眠モードに入ろうとしていたのか、エイジは体育座りで虚空を見つめていた。けれど、湯上がりのさっぱりした星奈のほうを見てぱっちりと目を開けた。そして、微笑みに見える表情を浮かべた。

「それなら、ティッシュも買おう。大量に。今日みたいにティッシュが必要になることが、またあるかもしれない」
「これ、変じゃないかな?」

 姿見で確認してから、星奈は背後に控えていたエイジに尋ねてみた。
 二週間ぶりにきちんと服を着て、二週間ぶりにきちんとメイクをした。
 引きこもっている間に季節は移ろい、着るべきものも変わっている。毎日外出していればそれが感覚でわかるのだけれど、閉じこもっていたから星奈はまるで浦島太郎にでもなった気分がしている。だから、不安だった。

「色彩感覚やファッションの流行というものはわからないが、この時季の服装としては問題ないように思う」
「……それならよかった」

 エイジの口から「可愛い」とか「似合ってる」とかいう言葉が出るのを期待していたわけではないものの、あまりにも理屈っぽいことを言われて苦笑してしまった。
 こういう場合の望ましい受け答えを情報として収集させておくべきかと思うものの、面白いからやめておくことにした。それに率直な意見というものも、必要なときがあるかもしれない。

「じゃあ、行こうか」

 星奈はエイジを伴って家を出た。
 二週間ぶりの外の世界だ。
 そんなに長い時間、家に閉じこもっていることなど、これまでの人生ではなかったことだ。だから、感覚としては風邪をひいて何日も休んでしまって学校に行くときに似ている。不在の間に自分の居場所がなくなっていないだろうかと恐れるような、そんな気分が。
 けれども、風の匂いが少し春めいているくらいで、外の世界に大きな変化はなかった。
 瑛一を喪っても、星奈がいなくても、世界は変わることなどなかったのだ。
 当たり前のことだけれど、そのことは星奈をひどくほっとさせた。変わらずにいる場所があるというのは、すごくいい。簡単に世界が揺らがないというのは、救いだ。

「今からモノレールに乗って市街地まで行くからね」
「わかった」

 学生街からモノレールで数駅離れたところに市街地はある。日用品なら近所の店で事足りるのだけれど、おしゃれなものを買うなら絶対に市街地に出たほうがいい。デートをするときも。

「モノレールには乗ったことあるの?」

 いつもはIC乗車券にお金をチャージしてからモノレールや電車に乗るところを、今日はエイジがいるから切符を買った。

「いや……初めてだと思う」

 券売機に向かうのも改札を通り抜けるのもおぼつかないところはなかったから、てっきり研究所の真野や長谷川と練習しているのかと思った。それなのに、エイジから返ってきたのはそんな曖昧な返事だった。

「何それ。初めてかどうか、はっきりしないんだ?」

 エイジの答えが人間っぽい気がして、星奈はつい茶化すように笑ってしまった。でも、本人にとっては笑い事ではないらしい。考え込むようにうつむいてしまった。

「うん。……何だろ、わからない」
「そういうこともあるよね、きっと」

 表情が陰ったような気がして、星奈はあわてて話題を打ち切った。ロボットにも記憶が曖昧になるということだろう。特にエイジはいろんなことを覚えている最中だ。記憶が混濁することもあるに違いない。
 何となく触れてはいけないことだと感じて、星奈はハッと気がついた。まだ真野たちに一度もレポートを送っていないことに。
 エイジが来て三日目。一日一回と言われていたレポートをまだ一度も送っていないのはさすがにまずい。
 エイジのこの気になる様子も含めて今日はきちんと報告しようと心に決めたところで、モノレールは目的の駅についてしまった。
 モノレールの駅を降りてすぐ、にぎわっている通りに出る。その通り沿いにもオシャレな店はあるけれど、星奈が目指すのはその先の大型ショッピングモールだ。
 そこならメンズファッションの店が多く入っているし、何より常に人がたくさんいて店員に張りついて接客される可能性が低い。エイジはボディの継ぎ目を見なければ表情のあまりない人間に見えるけれど、やはりしげしげ眺められるのは避けたい。
 ショッピングモールに入ると、そこは大勢の人でにぎわっていた。とはいえ平日だし、中高生がまだ春休みに入っていないから人の出は少ないほうだ。

「もうすっかり春なんだね」

 メンズのフロアはレディースのフロアの上にある。エスカレーターで上階に行く途中に春物のコーディネートのディスプレイが目に入って、星奈は少し興味をひかれた。
 これが以前ならすぐにそのフロアに降り立って、マネキンが着ているものをチェックしただろう。どこのショップのものなのか確かめて、その店に足を運んだだろう。
 でも、今日はそんな気分になれない。何より今日の目的はエイジの服を買うことだ。
 少し悩んでから、星奈はメンズ向けのファストファッションの店に入った。カジュアルからきれいめまで揃う店といえば、やはりこういうところに限る。あまりメンズの店での買い物に慣れていないから、星奈にとってはこういう店のほうが入りやすい。

「エイジ、こういうの似合いそうだね」

 店に入ってすぐ、マネキンが着ていたTシャツとストレートジーンズにジャケットを合わせたきれいめなコーディネートに目が引かれた。
 こういった清潔感のあるこなれたコーディネートというのは、スラッとして整った男の子の特権だと星奈は思っていたのだけれど、瑛一は決してしてくれなかった。
 彼がファッションにおいてこだわっていたのは、バイクに乗っていて安全かどうかだけだ。
 一緒に買い物に行って星奈が手頃な値段でオシャレなものを見つけて勧めても、瑛一はそれを少し見るだけで「転けたらすぐ破ける」とか「何回か着たら風で縫い目が解けそう」などと言って買わないのだ。そして何万円もする古着のライダースジャケットなんかやそれに合わせたジーンズを、吟味に吟味を重ねてたまに購入していた。だから彼のワードローブは、なかなか増えることはなかった。

「セナは、こういう服装が好きなのか?」
「うん、好き。それに値段も手頃だしね」

 エイジが興味を示したようだったから、星奈は改めて値札を確認してみた。マネキンが着ている三点すべて購入しても、一万円で少しお釣りがくる。さすが学生たちに人気のファストファッションだ。

「ジーンズとTシャツは買いかな。でも、最近って春が短くてすぐに夏が来ちゃうから、とりあえずジャケットは見送りで。代わりに買うのはカーディガンかなあ」

 店内をグルッと見回すと、シンプルな柄の入ったTシャツに鮮やかな色のカーディガンを合わせたコーディネートも展示してあった。星奈は無難に白のTシャツを購入しようと考えていたけれど、胸のあたりに三本だけ細いボーダーが入ったTシャツが気になってしまった。マネキンはそのTシャツに黒のカーディガンを合わせているけれど、星奈の手はサックスブルーのものに伸びる。

「……やっぱり、似合う」

 サックスブルーのカーディガンを手にとって顔映りを確認してみると、それは驚くほどエイジに似合った。少し目の色素が薄いし肌も白めできれいだからか、明るい色がよく映える。

「今履いてるインディゴブルーのジーンズにも合うし、黒のチノパンかジーンズがあれば合わせやすいよね。それとオックスフォードシャツとTシャツが二枚くらいあれば、しばらく着回せるかな」

 ああでもないこうでもないと言いながら、星奈は選んだ服がエイジに似合うか確認していく。そしてカゴを取ってきて、気に入ったものを放り込んでいった。
 傍目からは、彼氏の服選びが楽しくて仕方がない彼女に見えるだろう。実際に、星奈は楽しんでいた。この二週間ずっと塞ぎ込んでいた反動かのように、とてもはしゃいでいた。
 
「セナ、楽しそうだな」

 そろそろ星奈が会計をしようかと考え始めた頃、ずっと黙って店の中を連れ回されていたエイジが言った。言葉の調子か光の当たり具合か、エイジの顔には微笑みが浮かんでいるように見える。

「私ばっかりはしゃいじゃって、ごめん。エイジの買い物なのにね」
「セナが楽しそうだからいい。それに買い物に興味があって、何か買いたいものがあったわけじゃないんだ。だから服でもティッシュでも、セナが買い物するところが見られればそれでいい」
「もう……ティッシュのことはひとまず忘れてよ。じゃあ、これ買ってくるからね」

 ロボットゆえなのか、寛大にプログラムされているのか、エイジの言葉は優しい。それが胸に刺さったのとティッシュのことを冷やかされたのが恥ずかしくて、カゴを手に星奈はさっさとレジへ向かった。
 でもその途中であることに気がついて、くるっと振り返る。

「この代金は、気にしなくていいからね。私がやりたくてやってることだし、エイジのことで報酬ももらえることになってるし」

 エイジに気にしないで欲しかったのと、本音が半々だった。
 言葉にしてみて、自身で妙に納得した。
 星奈はこうして男物の服を選んでみたかったのだ。バイク乗りの瑛一は星奈の選んだ服を着てはくれなかっただろうけれど、こうして一緒に選んで、それを贈ってみたかったのだ。あわよくばその選んだ服を着てもらって、デートがしてみたかったのだ。
 瑛一といるときにはさして意識しなかった願望が、いなくなって初めて表に出てくるなんて……。気づいてしまって、鼻の奥がツンと痛くなった。
 でも、涙は出てこなかったのは、昨日泣ける映画を見て散々泣いておいたのがよかったのかもしれない。閉じこもっていた二週間と昨日だけで、星奈はもう一生分涙を流した気がする。

「セナ、疲れてないか? 見てると、ここに来てからずっと興奮してるように見える。そろそろどこかに座って休んだらどうだ?」

 会計を済ませて店を出ると、エイジにそっと上着の袖をつままれ、そう提案された。数歩先を歩く星奈を呼びとめる方法がそれしか思いつかなかったのかと思うと、何だか可愛くて少し笑ってしまう。

「休憩かあ。そうだね。久しぶりに歩いたし、ヒールで足ちょっと痛いから、どこかで休もうかな」
「それなら、クレープ屋やアイスクリーム屋に行ったらいいと思う。女性は甘いものが好きだろう? それに、甘いものを食べるとドーパミンというやる気を出す神経伝達物質やセトロニンが分泌されていいらしい」

 どこかで軽くお昼ご飯を食べようかと思っていたのに、エイジが熱心にスイーツを勧めてくるのがおかしい。理屈っぽいことを言いつつも、本当は自分が興味があるだけなのだろう。
 そう思って、星奈は瑛一に初めてデートに誘われたときのことを思い出して笑った。そういえば瑛一も、何やら理屈っぽいことを言っていた。
 
「何で笑ってるんだ?」
「瑛一が……彼氏がね、初めて私をデートに誘ったときも、そんなこと言ってたなって。『今度、甘いものでも食べに行かない? 女の子って、甘いもの好きだろ』とか言ってきたから、何だろうなこの人って思いつつとりあえずデートしてみたんだけど、あとからわかったのは彼氏自身が甘党だったの」

 大学に入ってまだそんなに経っていない頃、一般教養などの講義で顔を合わせる程度の知り合いだった瑛一が、突然甘いものを食べに行こうと誘ってきたのだ。オシャレなケーキ屋さんがあるから、一緒に行こうと。
 最初は、“女なんてみんな甘いもの好き”と決めつけて誘ってきたのだろうと思っていた。でも、あまりに熱心に誘ってくるし、話を聞いているとどうにも詳しすぎるから、星奈は興味を持ったし、瑛一自身が甘党なのではないかど推測したのだ。
 そして実際に一緒に行ってみると瑛一が甘いもの好きだとはっきりわかった。
 一見するとクールで硬派でバイクにしか興味がない瑛一が、実はかなりの甘いもの好き――そのギャップに、星奈はやられてしまった。
 それに、カムフラージュのためとはいえ星奈を誘った理由が「牧村さんなら、俺が甘党ってわかっても面白がって言いふらしたりしないかなって」というものだったのも、星奈としては好感度アップのポイントだったのだ。
 
「男が甘いものに興味があると、おかしいか?」

 少しぶっきらぼうにエイジが問う。ロボットなのに、気を悪くしたらしい。

「おかしいとかじゃないよ。おかしくて笑ったんじゃなくて、何ていうのかな……いいなって思ったから笑ったんだよ」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ」

 星奈はこの胸の内にある感情を、うまく言語化できない。でも、別にしなくてもいいかなとも思っている。
 瑛一に初めてデートに誘われたときのドキドキする気持ちも、クールな見た目で実は甘党だとわかったときの何だかくすぐったくなるような気持ちも、すべて星奈だけのものだ。
 モニターとしては、それをきちんと言語化してエイジに教えてやるべきなのだと思う。
 でも、瑛一とも共有しなかったことをエイジに差し出すのは、何だかまだ嫌だ。

「一階にカラフルなドーナツとイタリアンソーダが楽しめる店があるから、そこに行くね」

 気を取り直して、星奈は下りのエスカレーターに向かって歩きだした。


 ドーナツ屋はそこそこの混み具合で、星奈の狙い通りだった。
 こういったカラフルでフォトジェニックな食べ物を扱う店に来るのは、大抵が写真を撮るのに夢中な若い女の子たちだ。そういう子たちは自分たちにしか関心がない。少なくとも、写真を撮っている間だけは。
 だから、星奈しか注文せずエイジが何も口にしていなくても、気づく者などいないだろう。これが牛丼屋なんかだとそうはいかないと思う。

「“甘党な彼女とか女友達に付き合う、甘いものに興味がない男子”って感じだね」

 先に席を取っていてくれたエイジのところへ戻って、星奈はほっとして笑った。遠目から見ても、エイジの姿に違和感はない。誰もここにロボットが座っているとは思わないに違いない。

「何を頼んだんだ?」
「チョコナッツのドーナツと、ラズベリーシロップのソーダ。……ん、甘い」

 席についてドーナツをひと口かじり、星奈は目を細めた。それは甘いものを食べて幸せという顔ではなく、甘さに耐えているという顔だ。すかさずソーダを飲むも、そちらも当然甘い。ラズベリーなのは色だけで、期待した酸味はなかった。

「セナはもしかして、甘いものが嫌いなのか?」

 向かいの席から、エイジが訝(いぶか)るように見ている。

「嫌い、ではないよ。友達とかと出かけたときとか、たしなむ程度に食べられるし。でも、どちらかといえば私は辛党かな」

 言いながら、星奈の頭の中に浮かぶのは大学の近くにあるラーメン屋の担々麺だ。甘党で辛いものが苦手な瑛一は麺をひと口啜るだけで顔をしかめるそれを、星奈はスープ一滴残さず完食する。

「じゃあ今度、辛いものも食べに行こう」

 担々麺を思い浮かべたのが伝わったのか、エイジが言う。その顔には苦笑いに近い表情が浮かんでいる気がする。でも、星奈が頷くとそれは微笑に変わる。口元の変化だけで、表情というのはずいぶん変わるらしい。

「それと、今度はセナの買い物もしよう。エスカレーターのところのディスプレイを見てただろう?」
「見てたんだ……うん。ちょっと春物が気になって。今日は疲れちゃったから、もういいけどね」
「そうか」

 ロボットなのにこんな気遣いができるのかと驚くと同時に、何だか星奈は照れてしまった。

(今のはちょっと、彼氏と会話するっぽかったな。もしかしてヒューマノイドロボットって“家族”としての需要より、恋人としての需要のほうがあるんじゃないの?)

 そんなことを考えて恥ずかしくなって、星奈は残りのドーナツとソーダをお腹に収めることに集中した。
 エイジは食べる星奈を見つめたり、店内を見回している。もしかしたら大勢の人間をまじまじと見るのは初めてなのかもしれない。興味深げなエイジを見るのは楽しかったから、星奈は沈黙も気にならなかった。

「星奈?」

 食べ終えて、さて帰ろうかと席を立とうとしたとき、不意にそう声をかけられた。
 振り返ると、そこには友達の幸香(さちか)がいた。

「あ、サチ」
「『あ』じゃないよ! ……星奈、もう大丈夫になったの? こんなところで何してんの? 大丈夫になったんなら連絡してよ……!」

 幸香は驚きに目を見開いたものの、すぐにその目を涙でいっぱいにする。顔をくしゃくしゃにして、エクステとマスカラでたっぷり盛った自慢の睫毛が濡れるのも気にせず泣く幸香を見て、星奈はこの高校からの友人をひどく心配させていたことを思い出した。

「サチ、ごめん。いろいろあって、なし崩し的に今日、二週間ぶりに外に出てきて……本当なら、まず一番にサチに連絡すべきだったね」
「本当だよ! 星奈がどうにかなっちゃうんじゃなくて心配でたまらなかったのに、『少しの間そっとしておいて』なんて言うから仕方なく待ってたのに! でも店長がさ、構いすぎて苦しめるかもしれないのもよくないって言うから……」
「ごめんね……」

 ボロボロ泣く幸香を見て、星奈は自分の不義理を思い知った。
 心配して構ってくれるのがわかったのに、無気力になって自暴自棄になっていた星奈は、幸香の親切すら拒んだのだ。そんなふうにして閉じこもっていたくせに、こうして外に出られるようになっても連絡せずにいたなんて薄情すぎる。
 そんな感覚すらなくなるほど、星奈は世間から遠ざかっていたのだと自覚した。
 抱きついてきた幸香の背を撫でながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 
「……で、その人は誰なわけ?」

 しばらくしゃくりあげていた幸香が、顔を上げて星奈の肩越しを見ていた。その視線の先にあるのは、エイジだ。

「えっと、この人はエイ……」

 言いかけて、星奈はやめた。幸香の目にどう見えているかわからないけれど、この見た目で“エイジ”という名はまずいだろう。
 そう思って口ごもったのだけれど、幸香はすでに鋭い視線を向けている。

「瑛一って、お兄さんとか弟っていたっけ?」
「いない。ていうか、違うの。この人は……」

 何と説明すればいいのだろうか。開発中のロボットです、だなんて言って通用するのだろうか。そのモニターをしています、なんて言って信じてもらえるのだろうか。
 それに、真野たちには口止めされていないものの、こういうことはむやみに口外しないのが常識だろう。
 とはいえ、幸香は適当なことを言ってごまかせる相手ではない。
 状況が読めず無表情で様子をうかがっているエイジを睨みつけていることから考えても、逃げ切らせてはもらえないだろう。
 それにきっと、これから三ヶ月から半年、エイジのモニターを務めるのなら、協力者がいたほうがいい。

「これにはいろいろとわけがありまして……詳しく話すから、場所を移そうか」

 観念して、星奈はそう言って幸香の手を引いた。
 人目を避けて込み入った話をできる場所など限られている。ましてや、本当に人に聞かれてはいけない話をできる場所なんて、外にはないと思ったほうがいい。
 というわけで結局、星奈はエイジと幸香を連れて自宅アパートに戻るしかなかった。

「は? ちょっと待って……ちょっと待って、わかんない!」

 星奈の部屋に上がって、出されたお茶を飲みながら幸香は黙って星奈の話を聞いていた。そして放った第一声が、これだった。
 ちなみに、ショッピングモールから駅への移動中もモノレールに乗っているときも一切口を聞かなかったから、かなり久しぶりに発した言葉がこれだったということになる。
 「ちょっと待って」を二回繰り返すあたりに彼女の動揺がよく現れていて、星奈は何だか申し訳なくなった。

「あのさ、星奈……あたし別に、怒ってるわけじゃないんだよね。意気消沈して二週間も連絡取れなくて、久しぶりに会ったと思ったら親友のあたしを差し置いて知らん男と一緒だったのは正直モヤッとした。でも別に怒んない。……怒んないからさぁ、『この人は開発中のロボットで、私は彼のモニターのバイトを引き受けたの』とかよくわかんない嘘をつかないでくれる!?」

 怒らないからと言いつつ、幸香の口調は激怒そのものだ。でも、無理もないと思う。星奈も幸香と同じ立場だったら、怒らなくとも盛大に呆れると思う。

「……で、本当は何なの? 出会い系? それともレンタル彼氏? よくこんなに瑛一に似てる人を見つけたよね」

 大きな溜息をついたあと、幸香の鋭い視線は再びエイジに注がれる。
 三人で囲むには小さすぎるテーブルに向き合っているため、エイジはその視線から逃れることができない。ドーナツ屋にいたときは無表情だったものの、さすがにこの距離で睨まれると居心地が悪いのか、居たたまれない様子でやや目を伏せている。

「信じてもらえないのは仕方がないけど、本当にロボットなんだよ。出会い系とかレンタル彼氏とか、そんなんじゃないんだよ……」

 どうやったら信じてもらえるだろうかと悩んで、星奈は真野たちと交わした書類を見せることにした。口外についてエイジに確認を取ると、「セナに任せる」と言われてしまっている。どのみち幸香をどうにかしなければ、モニターを続けることも難しい。
 高校からの親友で、大学もバイト先も同じ幸香。
 瑛一が事故に遭ったと聞いたとき、真っ先に助けを求めたのは彼女だった。すぐに駆けつけてくれた幸香は、星奈が落ち着くまでずっとそばにいてくれた。一緒に泣きたいのを我慢して、ずっと星奈の面倒を見てくれた。
 そんな大切な親友を欺(あざむ)くことは、到底できはしない。それなら、ありのままを話すしかないのだ。

「嘘でもなくて、おかしな話でもなくて、本当にエイジはロボットなの。これがモニターを引き受けたときの説明と、私に不利益がないように研究所が保証してくれてる書類ね」
「……本当に大丈夫なの?」

 まさか書類が出てくるとは思わなかったのだろう。にわかに信憑性が増したのを感じたのか、幸香は恐る恐る星奈から書類を受け取った。

「これを見る限り、確かに星奈に不利益はないと思う。おまけに、最先端のめずらしい体験ができる上にお金までもらえるなんて……まあ、面白いよね」
「でしょ。でね、エイジがロボットだっていうのは、これを見てもらったらわかると思うんだけど」
「えっ!? は? ……はあ?」

 人間ではない証を見せようと、星奈はぺろんとエイジのトレーナーをめくってみせた。
 突然見知らぬ男の上半身裸を見せられて幸香は混乱して目をそらそうとしたものの、そこにあったのがただの裸体ではないと気がつくと、今度はまじまじと凝視した。

「何これ? 継ぎ目? ……ロボットって、マジだったんだ」
「マジだよ、マジ。そんなことマジじゃなくて言ってたら、私、頭おかしいみたいじゃん」
「いや……だって、おかしくなっても仕方ない状況でしょ。だから、てっきりおかしくなったのかと……」

 幸香はどうやら、信じてくれたらしい。でも、まだ受け入れることは難しいようで、今度はエイジのことを様々な角度から見つめている。

「でもさ、これって都合がよすぎない? 恋人を亡くして傷心してるところに、その恋人にどことなく似たロボットが現れるなんて……」

 エイジのことをロボットと認めるしかなくなっても、幸香はそこが気になって仕方がないようだ。それは星奈も思ったから、気持ちはよくわかる。

「都合がいい気がするよね。仕組まれてる気がするっていうか……。でも、私はたとえそうであってもいいと思ってるんだ。エイジが来たおかげで食事も摂れるようになったし、外にも出られたわけだし。全部、なし崩し的にだけど」

 言いながら、星奈はエイジを見た。エイジも、星奈を見ていた。
 心なしか不安そうに見えて、安心させるように微笑んでみる。本当は、自分だって不安なのだ。だからこそ、エイジを見つめて笑ってみせた。

「ちょっと、やめてよ……あたしは別に、二人を引き離そうとか思ってないから。ただ、まだ警戒するし、星奈のことを心配してるだけ。でも、感謝はしてるよ。星奈が元気になるきっかけだったみたいだし……」

 見つめ合う星奈とエイジを見て、幸香は脱力するように言う。

「にしてもさあ、本当に瑛一に似てるよね」
「そんなに似てる? あ、研究所の人が言うには、平均的な男子学生っぽさは意識したって言ってた。だから似てるって感じるだけで、たぶんそんなに似てないよ」
「いやいやいや。何ていうか、そっくりってわけじゃないけど、希釈された瑛一、みたいな。ほら、カルピスの原液も水で割ったカルピスも、どっちもカルピスでしょ?」
「確かに、薄めてもカルピスはカルピスだけど……」

 幸香に言われて、星奈は薄めたカルピスもといエイジを見た。
 エイジの中に瑛一っぽさを見出そうとしていたからそう見えていたのかと思っていたのだけれど、幸香も似ていると感じるのなら、きっとそういうことなのだろう。
 何となく不本意だけれど、星奈はそう納得することにした。
 
「ドーナツ屋で見かけたときはさ、瑛一の幽霊かと思ったくらいだもん。かつて瑛一だったものが薄まってそこにいる、みたいな。あんたたち、何の会話もしてなかったしね」
「幽霊……」

 幸香は何気なく言ったつもりだったのだろう。でも、その言葉に星奈はハッとなった。 
 亡くなって四十九日の間は、魂は現世に留まってさまよっていることがあるという。
 それなら、瑛一の魂は今どこにあるのだろうか。バイク事故によって、突然命を奪われた瑛一の魂は。
 迷いなくあの世に行くことができたのだろうか。もし行けていなかったとしたら、どこをさまようのだろうか。
 そんなことを考えると、星奈は体温がスッと下がる気がした。
 唐突に、今自分がしていることが馬鹿らしくて、おかしなことのように思えてくる。瑛一が見たら何と思うだろうか、なんて考えると、もうだめだった。

「ごめん、星奈。幽霊とか言ったら怖がらせちゃった? てか、不謹慎だよね。ごめん……」
「幽霊なんていない」

 星奈の様子の変化に幸香があわてて言い繕おうとすると、エイジがやや語気を強めて言った。そのきっぱりとした物言いに、星奈も幸香も驚く。

「だ、だよね。さすがロボットが言うと違うね。説得力があるー。うん、いるわけない。大丈夫だよ、星奈」

 渡りに船とばかりに、エイジの言葉に乗っかって幸香はこの場を収めようとした。

「そうだね」

 雰囲気を悪くしたかったわけではないから、星奈もとりあえず笑ってみせた。エイジがなぜ強く言葉を発したのか気になったけれど、表情がないからわからなかった。

「それにしても家庭用ロボットのモニターかあ。使い心地を確かめるって、あれ? 『エイジ、○○って検索して』みたいなのをさせてみるの?
エイジ、明日の天気は?」

 幸香はエイジのことを何とか受け入れようとしているのか、唐突にそんなことを言い出した。
 何か違うのではないかと星奈は思ったのだけれど、案の定エイジも首を傾げていた。おまけに心なしか口元は歪んでいる。

「自分のスマホで調べたらいいだろ。俺はスマートスピーカーじゃないんだぞ」
「何よその言い方! あー何かめっちゃ今の瑛一っぽいわー」
「ぽいとかぽくないとかよくわからないけど、とにかく俺はスマートスピーカーじゃないからな」

 幸香に言われたことがよほど嫌だったらしく、エイジはあからさまに嫌悪感を示していた。研究所からやってきて三日目で、初めてのことだ。

「気分的には、外国人留学生を受け入れるホストファミリーみたいな感じでいいって。異文化交流の中で人間的な感情の変化が生まれるのが目的らしいんだ。あと、情緒の面で欠けてるなって部分を感じたら報告して欲しいって」

 幸香とのやりとりを見て、まさに異文化交流だなと星奈は思った。エイジの変化を見ると、幸香と会わせたのはよかったのかもしれない。

「ホストファミリーかあ。そういうことなら、何か理解できた気がする」
「あとね、エイジは自分で“やりたいことリスト”を作ってるから、それを実現するための手伝いをするのが、このモニターのバイトの主な内容だと思う」

 星奈は冷蔵庫にマグネットで貼っておいたリストを取ってきて、幸香に渡した。

「何これ。一個目からして変なの。『お好み焼きを食べてみたい』って、外国人かよ」

 リストを目にした幸香が、早速つっこんだ。
 二人のバイト先であるお好み焼き屋さんには、わりと外国人観光客が来る。留学生も来る。お好み焼きが食べたい外国人の気持ちがよくわからないから、つっこみを入れた幸香の思いは理解できる。

「食べてみたいものがお好み焼きでよかったよ。天ぷらとか食べたいって言われても、私作れないもん」
「だよね。てかエイジのやりたいことってさ……何か可愛いね」
「でしょ」

 リストを見て、幸香も星奈と同じことを思ったらしい。エイジのやりたいことは、どれもささやかで、そして何だか可愛らしい。
 これがロボットのやりたいことだというのが、心をくすぐるのだ。研究所から出るに当たって、エイジがこのリストを真野や長谷川と相談しながら考えたのだと想像すると、優しい気持ちになる。
 
「なるほどねえ。だったら全部、叶えてあげたいよね。で、星奈だけじゃなく協力者が増えれば、それだけうまくいきやすくなるってことでしょ?」

 俄然やる気になったらしい幸香が、そう言ってニカッと笑った。それを見て、エイジはキョトンとする。
 それはキョトンとしか表現できない顔だ。目を軽く見開き、口も半開きになっている。顔を合わせてしばらくはずっと睨まれていたのだから、そうして驚くのも無理はないだろう。

「じゃあ、今から作戦会議といきますか! その前に、腹ごしらえね! 何か作るから」
「やったー!」

 やる気になった幸香の宣言に、星奈は歓喜した。
 幸香は星奈と違い、かなりの料理上手だ。その派手な見た目には釣り合わないほどマメで、研究熱心で、凝り性なのだ。
 そんな幸香の手料理を食べられるとあって、星奈は嬉しくて小躍りした。協力を申し出てくれたのが嬉しいのもあって、気分はぐっと上向きになる。

「泣いたり笑ったり……セナは忙しいな」

 この喜びぶりの理由がわからないエイジは、星奈を見てそう言った。


「米が炊けるのも諸々合わせて、四十五分くらい待ってねー」
「はーい」

 スーパーで必要なものを買い揃えてきてから、幸香は改めてキッチンに立った。バターチキンカレーを作ってくれるのだという。慣れた様子の頼もしい背中に期待しつつ、星奈は真野たちからもらった名刺を手にスマホでメールを打ち始める。

「モニターとしてレポート書くのって、難しいねえ。大学の課題もそうなんだけど、書き出しでまずつまずくんだよね」

 エイジのことをレポートにしようとするも、こういったことに慣れていないため、星奈は早速頭を抱えた。

「大学の課題はあれだけどさ、商品としての使い心地をレポートするんなら、コスメのレビューとか参考にしたらいいんじゃない? コスメのモニターは何回かやったことあるけど、気になることと改善して欲しいところ、それから気に入ったところを書けば大丈夫な感じだよ」
「そんなもんか」

 幸香に言われた通り、星奈は有名なコスメのレビューサイトを検索した。星の数による評価と簡単な文章によるレビューが並んでいて、パッと見てわかりやすい。中の文章は、わりと言いたい放題だ。褒める文章ばかり並んでいるのではないのが、信用できるということだろうか。

「エイジは、こんな感じでいいと思う?」
「うん。というより『お好み焼き食べた。映画見た。買い物行った。エイジ異常なし』でいいと思う」
「そ、そっか」

 なにもすることがないから虚空を見ていたっぽいエイジに声をかければ、そんな返事が返ってくる。
 それでは夏休み最終日にあわてて書いた日記帳みたいであまりにひどいから、もう少し丁寧に書こうと星奈は思った。

(モノレールに乗ったときの反応も変だったから、それも報告しておこう。あれはたぶん、様子が変だった)

 三日分の行動の報告と、気になることについて星奈はメールに書いた。どうすればわかりやすいか考えて、「行動」とそれに対するエイジの「反応」とその他の気になったことを記しておく「備考」にわけることにした。
 これを最長でも半年間続けるのなら、きちんとパソコンでテンプレートを作っておくのもありなのかもしれないなどと考えているうちに、幸香が食器を手にテーブルを拭きにきた。

「もうすぐできるからね。てか気になったんだけど、エイジって食べられるの?」
「ううん」
「ちぇっ。ドラえもんみたいに食べるなら、トイレも行くのか聞こうと思ってたのにぃ」
「そういうことか……でも、ごめん。言っとくべきだったね」
「いいのいいの。タッパーに入れとくから、明日食べるか冷凍しといてー」
「ありがとう」

 しょうもないことを気にしつつも、幸香はてきぱきと準備を進めていく。部屋の中にはすっかりカレーのいい香りが満ちていて、否応なしに期待が高まった。
 何かを食べたいと欲する健康的な感覚が戻ってきたことに、星奈は自分でほっとする。そして幸香の存在に、改めて感謝した。まだ自分のために手間暇かけて何か料理をしたいという感覚は戻ってきていないから。

「……おいしい。こんなにおいしいもの食べたの、本当に久々だよ」

 いただきますと手を合わせてからひと口食べて、星奈はそのおいしさに目を見開いた。
 バターの匂いとスパイスの香り、よく炒められたタマネギのコクが混ざり合って、とびきりのおいしさになっている。ただ具材を炒めて市販のルゥを入れて煮込むだけではできない、特別な味わいだ。

「鶏肉をタレに漬け込んどく時間がなかったから若干深みがないだろうけど、喜んでもらえたみたいでよかった」
「全然気にならない。すごくおいしい。……身体が喜んでるみたい!」

 スプーンを口へ運ぶ手が止まらないことに、星奈は自分で驚いていた。そんな星奈の食べっぷりを見て、幸香は得意げな顔になる。

「当然でしょ。ちゃんと手間かけて作ったものって、身体に響くんだよ。自分の身体を作り上げる食べ物をおろそかにしちゃいけないって、よくわかったでしょ?」
「……本当にね。どうかしてたんだよ、私。いくらショックだったからって、何日も食べずにいたなんて」
「ショック受けてたのは仕方ないことだよ。でもさ、そういうときこそもっとあたしのこと頼って欲しかったの。友達でしょ?」
「うん」

 星奈が心から反省しているのがわかったからか、安心したように幸香も食べ始めた。でもすぐに、スプーンを置く。

「……星奈の好みに合わせて作ったから、辛い! 水、水!」
「そういうときは牛乳のほうがいいよ。待ってて」

 星奈が平然と食べ進めていたものでも、辛党ではない幸香にはかなり辛かったらしい。悶絶する幸香のために、星奈はあわてて牛乳を取りに行った。

「二人は、本当に仲がいいんだな」

 牛乳の入ったグラスの受け渡しをする星奈と幸香を見て、エイジが言う。しみじみと言われて、二人は何だか照れてしまった。

「まあね。何せ高校からの付き合いですから。やきもち焼いても無駄だよーだ」

 照れた幸香が、そう言って挑発する。そんな子供じみた仕草に、エイジは目を丸くした。

「そうか。これがやきもちか。セナの態度や行動が俺に対するものとあきらかに違っていて、それを見ていたら説明しがたい感覚がしてきたんだ」
「……えー。エイジって素直ー。ここは『やいてねえよ』とか言うところじゃないんだ」

 やきもちを焼いていると素直に認めたエイジに、今度は幸香が驚く番だった。
 確かずっと前にも幸香と瑛一が同じようなやりとりをして、そのとき瑛一は「やきもちなんて焼くわけないだろ」などと言っていたのだ。そのことを星奈は思い出した。

「さてさて。作戦会議を前にあたしからひとつ提案なんだけどさ、エイジのことを店長に話して協力してもらわない?」

 食事と後片付けを済ませてしまってから、改めて幸香が言った。

「店長? 何で?」

 店長というのは、星奈と幸香が働いているお好み焼き屋の店長のことだ。そのことはわかるけれど、今その人の話題が出ることが星奈にはわからなかった。

「何でって、そりゃ協力者が多いほうがいいからに決まってるでしょ。それにさ、店長が協力してくれたら、このリストの『バイトをしてみたい』とか『釣りに行ってみたい』とかが叶えられるわけじゃん」
「それは、そうだけど……話してみて、協力してくれるかな?」

 いい話だとは思うけれど、そんなにうまくいくものだろうかと星奈は首を傾げた。幸香とはある程度長い付き合いだから受け入れてもらえただけで、そうではない相手に同じことを望めるだろうか。いくら店長がいい人とはいえ、期待できないと星奈は考えてしまった。
 でもなぜか、幸香は自信満々の笑顔を浮かべている。

「それはさ、絶対大丈夫」
「何で?」
「店長さ、あたしの彼氏になったから」
「……えー!?」

 顔を赤くして言う幸香に、星奈は後ろにひっくり返えはんばかりに驚いた。
 幸香がずっと店長に片思いしていたことは知っていた。店長がまるで相手にしていなかったことも。大学入学とともにバイトを始めてすぐに恋に落ちたから、かれこれ二年以上の片思いだ。

「ついに?」
「そう! ついになんだ!」
「店長、ガキとは付き合えんって言ってたのに?」
「あたしも二十歳になったからねー」
「きゃー! おめでとー!」
「ありがとー!」

 喜びのあまり、星奈は立ち上がった。それにつられて、幸香も立ち上がる。それから二人は抱き合って、その場でクルクル回った。

「知らなかった……私が引きこもってる間に、そんなことがあったんだ」
「星奈が落ち込んでるときに、店長といろいろ話したんだ。あんたのために何をしてあげられるかなとか、どうしたらいいのかなとか、たくさんたくさん。そのおかげで付き合えるようになったから、星奈がキューピットってことになるのかな」
「そっか。よかった。ずっと応援してたから嬉しい。周りの人たちが『そんなんじゃ永遠に彼氏できない』って言ってたのに対して『彼氏が欲しくて恋したわけじゃない』って返したの、最高にかっこいいって思ってたよ」

 星奈が心から祝福して言うと、幸香は顔を赤らめたまま泣き笑いみたいな表情を浮かべた。幸香の心の中に葛藤があるのがわかったから、星奈はもう一度彼女を抱きしめる。

「店長もね、星奈のことめっちゃ心配してたよ。心配して、早く元気になって欲しいけど、自分たちのそういう気持ちが星奈のプレッシャーになったら嫌だって気にしてた。だから、絶対にエイジのことを話したら協力してくれるよ」
「……大丈夫かな」
「大丈夫だよ。エイジがいたら星奈が元気になるって言ったら、反対するわけにいかないもん」

 幸香は幸せそうに、自信満々に言う。
 だから星奈も、信じてみることにした。