梅雨だから仕方ないものの、六月はほとんど雨ばかりだった。
 当然のごとく七月になっても雨は降り続き、世界は雨に閉ざされてしまったのかと思ったほどだ。
 梅雨の間、エイジのことで研究所の二人はかなりやきもきしていた。主にボディ担当の真野が気が気ではなかったようで、ある日突然メンテナンスの日でもないのに大量の除湿剤を持ってやって来たこともある。
 真野が気にしていたのは、カビだ。「人形にカビは大敵ですからね! エイジは言ってみれば人形なんですから、それを忘れずに過ごしてくださいよ!」ときつめに注意されてしまった。
 真野に厳命されエアコンを常に除湿モードで稼働させ、電気代が気になりつつも快適に過ごすうちに曇りの日が増えていき、いつの間にか梅雨は明けていた。
 梅雨が明けると、あっという間に夏になった。
 湿度に悩まされ続けた日々が終わると、今度はその湿度に加えて高温に耐えなければならない。

 そんな高温多湿に耐えるある日、いつもよりエアコンの設定温度を低くした部屋で星奈は格闘していた。

「うえー。そんなにきつく締めないでくださいー」
「だめ。ここをしっかりしとかないと着崩れてみっともないよ」
「そんなにきつくしてないからねー」

 幸香と二人でなだめながら、星奈はうめく夏目に浴衣を着せていた。腰紐を結んだくらいでこんなに大騒ぎするなんて、これから浴衣を着て歩けるのかと心配になる。

「よし。おはしょり、きれいにできた。襟の抜き加減はこのくらい?」
「夏目ちゃんは可愛い系でいくんだから、それは抜き過ぎじゃない?」
「了解ー」

 幸香は星奈に確認しながら、手早く襟を調整していく。浴衣をきちんと着られている印象になるかどうかは、襟とおはしょりで決まると教えられているから、気が抜けないのだ。
 その隙に、星奈は兵児帯(へこおび)に前板を仕込んで、結びやすいように形を整える。

「はい、夏目ちゃん。仕上げだよ。本当なら帯を締める前に伊達締めっていうものを巻くんだけど、夏目ちゃんは柔らかい帯にしたから締めません。で、今日教えるのは一番簡単なリボン結びだから、ちゃんと覚えるんだよ」
「はーい」

 星奈は姿見で夏目に背後を確認させながら、ちゃっちゃのリボン結びを作って見せた。

「すごい! 簡単だった! 可愛い!」

 着付けが完了すると、夏目はその場で何度も回転し、前から後ろから自分の姿を確認して大喜びしている。
 夏目が着ているのは、白地に黒と赤のドットが散りばめられた浴衣だ。それに鮮やかな透け感のある赤の兵児帯を結んでいるから、腰で金魚が揺れているようで可愛い。

「さあ、今度はあたしたちの番だよ!」
「気合い入れてこう」

 ザッと全身の汗を拭って、幸香と星奈は今度は自分たちの着付けを始めた。
 二人は慣れたもので、浴衣を羽織り、襟を合わせ、腰紐を結び、おはしょりを作るところまでは自力であっという間だった。そこまで仕上げると、次は互いの帯を結びあいこする。

「サチ、蝶結び、リボン返し、文庫だったらどれがいい?」
「えー……一番大人っぽいやつにして」
「わかった」

 星奈は幸香の山吹色の半幅帯を手に少し悩んでから、結び始める。昨夜、忘れていないだろうかと復習がてら結んでみていたから、淀みなく結ぶことができた。

「はい、できたよ。リボン返し。可愛さもありつつ、帯の端が外にこうして出てるのが、ちょっと大人っぽいんじゃないかと」
「うん! すごくいい! 今日のは浴衣がシックだから、こういう結び方がいいね」

 紺地に白の麻の葉模様の浴衣は、幸香のこれまでの趣味ではない。でも前川の隣に並ぶ大人っぽい雰囲気になりたいと、ちょっと背伸びして買ったのだ。帯が山吹色だから、地味になりすぎず、よく似合っている。

「じゃあ、次は星奈ね。結び方はあたしにお任せでいい? 今日のためにとっておきの結び方を会得してきたんだ」
「それなら、おまかせで」

 幸香はウキウキしながら、一生懸命帯を結んでいく。でも、会得したばかりというだけあって、何度も結び直したりスマホでお手本を探したりと苦戦している様子だった。

「よし、完成! 後ろ、見てみて」
「わあ……可愛い!」
「花文庫って結び方だよ」

 姿見で確認すると、帯は蝶がふたつ重なったように結ばれていた。蝶結びと文庫結び方が合わさったような、可愛らしくありながらもかっちりしている。

「初心者向けの結び方らしいから、練習したら簡単に結べるようになると思うよ」
「うん。頑張ってみる」
「それにしても、星奈は去年と同じ浴衣でよかったわけ?」

 浅葱色に白い風車柄の浴衣とレモンイエローの帯は、去年着たものと全く同じものだ。

「うん、いいんだ。見せるの初めてだから」

 そう言って、星奈は笑う。この姿を見て彼がどんな顔をしてけれるのか、何を言ってくれるのか、そう考えるだけで心が浮き立つ。

「あー、すごい。幸香さんも星奈さんも、自分で浴衣着られてかっこいいなあ。やっぱり、めっちゃ練習したんですか?」

 全員無事に浴衣に着替え終え、姿見に映した自分の姿や星奈たちを見て夏目は感嘆の声をもらした。夏目は待っている間に編み込みと花の飾りで髪をアレンジしていて、さらに可愛くなっている。

「そうだよ。めちゃくちゃ練習したよー。確か、高ニの夏に初めて自分で着たんだよね?」
「そうそう。幸香の家に何日か泊まって、幸香のお母さんとおばあちゃんにみっちり教えてもらったの」
「女の子は、ひとりで浴衣を着られなきゃ困るだろうからって」

 幸香と星奈は、当時のことを思い出して顔を見合わせて笑った。
 幸香の母も祖母もスパルタで、数日間のうちにかなりしごかれたものだ。
 初心者が見様見真似で着ても浴衣の形にはなるけれど、すぐに形が崩れたり、歩くと足元が大きくはだけたりするものだ。
 そんなみっともないことがあってはならないと、幸香の母と祖母は星奈たちに徹底して着付けを仕込んでくれた。
 きっかけは祭りに浴衣で行きたいから着付けをしてくれと頼んだことだったため、なぜこんなスパルタを……と思ったけれど、今となっては感謝しかない。

「さて。そろそろ待ち合わせ場所に向かおうか。金子くんが何て言うか楽しみだね」
「はい! 幸香さんもですね」

 幸香と夏目は嬉しそうに笑ってから、連れ立って狭い玄関で下駄を履いて外へ出た。幸香と前川の交際は、いつの間にか公認の事実になった。だから、堂々と恋バナもできる。 
 彼氏が待つ場所へ向かう華やぐ二人の後ろに、星奈も続いた。
 下駄をカランコロンと鳴らしながら三人が向かったのは、神社だ。
 今日は夏祭りで、神社が近づいてくると通りには提灯が吊るされ、様々な屋台が並んでいる。
 待ち合わせたのは神社の裏手で、そこにはすでに待ち合わせのメンバーが来ていた。浴衣姿の前川とエイジと、それから篤志と金子が。

「わあ……かっこいい!」

 幸香は浴衣を着た前川が目に入った途端、感激して駆けていった。前川も、笑顔でそれを受け止める。
 そんな二人を横目に、星奈はエイジと対峙していた。
 何だか照れてしまって、どちらもはにかむだけでなかなか言葉が出ない。

「セナ、可愛い。すごくきれいだ」
「エイジも、すごくかっこいい。似合うね」

 やっと言葉にできたのに、今度はそれがくすぐったくて二人は笑う。

「私たちの準備の間、店長のところにいるって言ってたのは、浴衣を着せてもらうためだったんだね」
「ううん。そういうわけじゃなかったんだけど、話の流れで着せてもらえることになって。最後に、いい思い出になるだろうって」
「そっか。……うん、すごくいい」

 こうして外で待ち合わせるのも、浴衣姿も、とても新鮮でドキドキしてしまう。
 星奈はその胸を高鳴らせる感情にだけ集中して、軋むような痛みは意識しないようにした。
 意識しても、終わりは来る。それなら、できるだけ楽しいことにだけ集中して、残りの時間を幸せに過ごしたいと思ったのだ。

「もうっ! 何で金子は普通の服なの!? 今日は祭りだよ! もっと気合い入れて来てよ!」

 夏目は、いつも通りの格好で来た金子に腹を立てていた。せっかく可愛い浴衣を着ているのに、プリプリしている。

「まあまあ、夏目ちゃん。金子くんが着てなくても、夏目ちゃんが浴衣なんだからいいじゃん」
「篤志さんは黙っててください! てか、何で甚平なんですか!?」
「えー……」

 甚平姿の篤志が、仲裁に入って八つ当たりされている。
 どうなることかと星奈たちが見守っていると、それまでずっと眠そうに黙っていた金子がおもむろにスマホを取り出して、プリプリ怒る夏目の写真を撮り始めた。

「夏目、俺は自分の可愛い彼女の浴衣姿を撮りたいんだけど。できたら笑って欲しい」
「なっ……」

 金子の言葉によって、夏目は一瞬にして固まった。こんなことを言われて、怒り続けるのは難しい。夏目の機嫌は、あっという間に治ってしまった。
 金子の巧みな夏目の扱いにみんなで感心しつつ、一同は縁日の屋台巡りに出発した。
 まずは腹ごしらえと思っていろいろ見てみるけれど、目移りしてしまってなかなか決まらない。
 様々な屋台の中でもたこ焼きや箸巻き、お好み焼きなどの粉物のソースの香りが気になりはしたものの、日頃「トントン」でおいしいお好み焼きを食べているため、誰も買おうとはしなかった。
 粉物を外してその他の定番といえば焼き鳥やイカ焼きということになったけれど、それらを買って食べると今度は大人たちはアルコールが恋しくて仕方なくなった。
 夏目と金子の未成年カップルにならって大人たちもラムネを飲みながら屋台を巡り、お腹が少し膨れると今度は食べ物以外を見て回ることにした。

「エイジ、俺と一緒に射的やろうぜ」
「うん、いいよ」

 篤志は、ずっとエイジにくっついている。今も肩を組んで、射的の屋台へと向かっていってしまった。

「篤志さん、エイジさんの帰国が相当寂しいんですね。仲良くなりたくてべったりでしたし、最近本当に打ち解けてきたのに」

 射的の屋台に並ぶ二人を見て、金子が言った。
 今日お祭りに来たのは、エイジのお別れ会も兼ねている。エイジは七月いっぱいまで「トントン」で働いて、八月に帰国することになっている。
 最後まで“謎の多い留学生”で通すことができたのだ。
 星奈は、このおおらかな人々に心の中で感謝した。

「ねえー星奈さん、どれが欲しいー?」

 射的のコルク銃を手にした篤志が、手招きしながら尋ねてきた。その横でエイジも、ニコニコして星奈を見ていた。
 射的の的となる景品は、子供が喜びそうなオモチャやぬいぐるみだ。そのどちらもどこかで見たことがあるものを模した見た目をしていて、星奈は思わず笑ってしまった。

「ぬいぐるみが欲しいな。あの黄色い、眉毛が生えたクマさん」

 どのぬいぐるみも憎めない顔をしていて気になるのだけれど、星奈は特に太眉の生えた黄色いクマが気になっていた。

「よし! じゃあエイジ、二人であの黄色いクマを狙うぞ」
「わかった」

 篤志とエイジは声をかけあって、銃を構えた。
 ぬいぐるみはわりと重さがあるのか、篤志とエイジがそれぞれ五発ずつ撃ち込んでも体が大きく傾くだけで、落ちてこなかった。篤志が店主から追加で弾をもう五発買って、そのうち三発を撃ち込むとようやく黄色いクマは落下した。

「はい、星奈さん」
「ありがとう、篤志くん。エイジも」

 篤志に差し出されたクマに、星奈はギュッと抱きついた。二人が苦労して取ってくれたのだと思うと嬉しくてたまらなかったのだ。

「そんなに喜んでもらえるなら、頑張った甲斐があるよ。な、エイジ」
「うん、よかった」

 篤志がニッと歯を見せて笑うと、エイジも微笑んだ。

「エイジ、次は何したい?」
「ヨーヨー釣り。あの、風船のやつ」
「いいな! じゃあ、どっちが多く取れるか競争な!」

 ぬいぐるみをゲットしたことでテンションが上がった篤志は、エイジを伴ってヨーヨー釣りの屋台めがけて行ってしまった。
 星奈たちはそばまで行って、それを見守った。どちらにもそれぞれ応援がついたけれど、結局篤志は力みすぎて早々にこよりが切れてしまい、最後の最後まで丁寧に釣り続けたエイジの圧勝だった。

「せっかくだから、みんなに一個ずつあげる」

 そう言って、エイジは星奈たちにヨーヨーをひとつずつくれた。
 それからみんなでヨーヨーをペチペチさせながら、前川おすすめの花火鑑賞スポットに向かった。

「花火ってきれいだから好きなんですけど、打ち上がり始めると、お祭りが終わっちゃうんだなあって思って寂しくなるんです」

 この祭りの花火は、最初のほうは雰囲気を盛り上げるためにハートやスマイルマークの花火が打ち上がる。それらを見上げて、夏目がポツリと言った。

「盛り上がるにつれてどんどん気分は上がるけど、それと同時に切ない感じもするよね」

 そう言う幸香の声は、早くも湿っぽくなっている。
 可愛らしい形の花火がひと通り上がると、次はスターマインと呼ばれる短時間にたくさんの玉が連続で打ち上がる花火が夜空を鮮やかに彩る。
 それからは大輪の菊花火、牡丹花火、色とりどりの小さな菊が集まって咲く彩色千輪菊、光の帯がしだれるように下へ流れる柳と、次々に見応えある花火が打ち上げられた。
 みんな一様に空を見上げているけれど、意識しているのは別のことだ。

「……エイジ! 国に帰っても、俺たちのことを忘れないでくれよ!」

 ずっと我慢していた様子だったのに、ついにこらえきれなくなった篤志がエイジに抱きついた。

「エイジさん! 俺、いつか世界旅行に行くんで、そのときに絶対にエイジさんの国に行きます! そしたら、一緒にキャンプしましょうね……!」

 篤志に触発されたのか、金子まで感傷的になってしまったようでエイジに抱きついていた。それを見て、幸香がしゃくり上げる。

「……もうっ。泣かないって決めてたのに、そんなの見せられたらだめだ……。エイジ、ありがとね。いっぱいいっぱいありがとう!」

 抱きつきはしないものの、篤志と金子にしがみつかれているエイジの肩に手をおいて、幸香は鼻をぐすぐす言われた。
 幸香の“ありがとう”に込められている意味がわかるから、星奈も胸が熱くなった。

「みんな泣いたら、私も泣いちゃいますよー。うわー寂しいー」

 最後は夏目まで走っていって、エイジは四人にもみくちゃにされていた。
 みんな泣いているのに、エイジは笑顔だ。どこまでも晴れやかで、満足げな顔だ。

「牧村さんは、もう平気? いろいろと」

 団子のようにくっついているエイジたちを微笑ましく見守っていた前川が、不意に星奈に尋ねた。
 前川が何を尋ねようとしているのか考えてから、星奈は頷いた。

「はい。エイジがたくさんのものをくれたので」
「じゃあきっともう、思い残すことはないね」
「そうですね……そうだといいな。エイジにとって、いいモニター体験だったなら、私も本当に嬉しいです」
「君が嬉しいなら、きっと彼も嬉しいよ」

 前川は、本当にそう信じているというように言った。
 だから星奈も、そうなのだと信じることにした。
 星奈に悔いはない。だから、エイジもこの半年が幸せだったのだ。
 
「ほらほら。みんな、泣きやんで。花火見なきゃ、もったいないよ。そろそろ、終わりそう」

 星奈はエイジたちに駆け寄っていって、団子になるのに参加した。そして、空を見るよう促す。
 クライマックスに向けて夜空には、連続して大玉が上がっている。
 赤が、黄色が、ピンクが、まばゆい光の花となって空に浮かぶ。ひとつが消えるより先に次が打ち上げられるから、目もくらむほどの眩しさだ。
 その一瞬の眩しさを目に焼き付けるために、星奈は瞬きもせずに空を見つめ続けた。
 五年後も十年後も、エイジと見たこの空を思い出せるように。