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連休明けの日曜日、「トントン」の店休日に星奈たちは海へ来ていた。
わざわざ店休日に行くことになったのはバイトの主要メンバーが抜けることになるからだけれど、店主の前川が行きたがったからでもある。
というわけで結局、花見のときとほとんど変わらないメンバーで釣りにやって来ている。
「今日はサビキでアジを釣ります」
車を近くの駐車場に止めて波止場にやって来ると、釣り竿を手に金子が説明を始めた。
「撒き餌をこの一番下のカゴに入れて海に投入すると、魚が寄ってくる。で、その撒き餌と針についた擬餌を食べると、魚が引っかかる。そしたら竿がしなるからリールを巻き上げて……って感じで釣り上げます。ちなみに、この擬餌のついた仕掛けをサビキ仕掛けっていうんです」
金子は淡々と説明していたけれど、やってみたほうが早いと思ったのか、一同に背を向けるとヒョイっと竿を振って仕掛けを海へ放り込んだ。
それは無駄のないフォームで、金子がいかに釣りに慣れているかわかる。
星奈たちは歓声を上げてから、竿を握り真剣に海を睨む金子の背中を見守る。すると、そう経たないうちに竿の先端がグッと引き込まれるようにしなった。金子は慌てることなく竿を持ち上げ、リールを巻いていく。
「すごい!」
海から上げられた釣り糸を見て、星奈は思わず感嘆の声をもらした。
八つある針のうち、六つに魚がかかっていた。
「あー……本当は全部の針に魚がかかるのを見せたかったんだけど。まあ、そういうことにこだわると逃げられるから、ほどほどに引いたらリールを巻いて引き上げてください」
言いながら、金子は針から魚を華麗に外し、海水を入れておいたバケツに放った。
「これ、浮きはついてないんだな。俺、釣りってあんまりやったことなくて、仕掛けの違いとかわからないんだけど」
「浮きをつけたほうがより初心者向けになるとは思ったんですけど、そうすると浮きの動きばっかり見て引いたときの感触を覚えないかなって」
「なるほどね。あ、これは錘(おもり)を糸の先につけてるんじゃなくて、カゴの底に錘がついてるんだ」
「そうです。こっちのほうがたぶん、慣れてない人でも投げやすいですから」
あんまりやったことがないというわりに、前川は金子が用意してきた竿にずいぶん食いついている。尋ねられるとやはり嬉しいのか、金子も熱心に答えている。
金子が華麗に釣り上げるのを見せられている星奈たちは、早くやってみたくてうずうずしていた。だから、二人の話が長引いたらどうしようと思って、みんなで顔を見合わせた。
「金子ー! 早くしようよ。みんな退屈しちゃうよ」
「そうだった」
見かねた夏目が声をあげてくれたことで、ようやく金子は今日の本来の目的を思い出したらしい。
「竿は人数分ないんで、うまく交代しながら釣ってください。時々引き上げて、カゴに撒き餌を補充するのを忘れずに」
「はーい」
「七人に対して竿が四本だから、まずは女子三人にやってもらって、残り一本は……エイジさん、やってみる?」
竿を配りながら、金子がエイジに尋ねた。金子も何かとエイジを気にかけてくれていて、どうやら気が合うらしい。
「俺はいいよ。最初は見てる。アツシは?」
「いいの? やるやるー!」
星奈、幸香、夏目、それから篤志に竿が配られ、四人は並んで釣ることになった。当たり前のようにエイジと前川と金子が女子三人の補助のように背後に立つのを見て、篤志はしまったという顔をした。
「こうなったら、俺は誰より多くアジを釣ってやるぞー」
気合いたっぷりのかけ声と共に、篤志は竿を振って仕掛けの部分を海へ放った。それにならって、星奈たちも竿を振る。
「どうしよう……あんまり遠くに飛ばなかった」
思いきり投げたつもりだったのに、星奈の糸はわりと手前のところに落ちてしまった。
「大丈夫。魚が気づいて来てくれるよ」
「うん。……あ! これ、引いてる?」
エイジに励まされてすぐ、星奈の釣り竿の先端はしなった。
「引いてるよ。落ち着いてリールを巻いたらいいから」
初めての感覚に驚く星奈に、エイジは優しく声をかけてくれた。戸惑いながらもリールを巻いていくと、引き上げた仕掛け部分にはアジが四匹かかっていた。
「すごい! 釣れたよ! 初めてで四匹も釣れた!」
「セナ、やったね。じゃあ、魚を針から外さないと」
「うん。……あれ?」
喜び勇んで魚の口から針を外そうとするも、それはなかなかうまくいかなかった。星奈にとって初めてなのは釣りだけではなく、生魚を触ることもだった。ましてやビチビチとまだ動く魚なんて近くで見たことも初めてで、怖気づいてしまっていた。
「貸して。噛んだりしないから、怖がらなくていいよ」
見かねたエイジが横から手を伸ばして、一匹一匹丁寧に針から外してくれた。金子ほど華麗な手つきではないものの、星奈のようなおっかなびっくりといった覚束なさはない。
「エイジ、上手だね」
「カネコくんほどじゃないけど」
「次、釣る?」
「うん、やってみる」
四匹釣ってちょっとした達成感を味わった星奈は、エイジに釣り竿を渡す。エイジはそれを目をキラキラさせて受け取って、早速きれいなフォームで仕掛けを投げた。
「星奈さん、見て見て! 俺、いきなり八匹釣ったよ」
少し離れたところで釣っていた篤志が、そう言って釣り上げた魚を掲げて見せてきた。
「すごいね! いきなり? 私はまだ四匹」
「俺がもっと釣るからいい。負けない」
「チーム戦なの?」
「うん」
星奈が篤志の釣果(ちょうか)に感心すると、横でエイジがボソッと言った。その対抗心むき出しの発言に星奈は笑ったけれど、男性陣にとっては聞き捨てならなかったようだ。
「ちょっと、幸香。次は代わって」
「俺、夏目と組んでる時点で負け確定じゃん。夏目、早く釣り上げろ。魚に餌やりに来たんじゃないぞ」
「何だこれ! 俺、寂しい! 寂しいから絶対勝つ!」
男性たちはそれぞれに闘志を燃やし、猛然と釣り竿を振った。女性陣が竿を握っていたときから一転、雰囲気はのんびりしたものから真剣なものになった。
潮の流れがよかったのか、それからは面白いほど魚が釣れた。星奈も入れ食い状態だったけれど、男性たちにバトンタッチしてからはそれ以上だ。
だからこそ、勝負はどんどん白熱していく。
「店長も金子くんも、勝負事にムキになるんだね。何か、意外だった」
エイジも篤志もよく釣れているようだけれど、今のところ競っているのは前川と金子のようだ。双方いかに相手より多く釣るかに必死になって、魚を外しては竿を振り、また釣り上げては竿を振りを繰り返している。
「いやいや。金子はあれでもこだわりの強い奴なんで、自宅で竿の準備してるときから『みんな釣れるといいな。俺が一番釣るけど』とか言ってたんですから」
「へぇ。クールなだけじゃないんだね」
「全然! クールというか静かなのはよそ行きの顔です」
「うまくいってるみたいで、よかった」
金子のことをいろいろと話す夏目は幸せな女の子そのもので、二人の関係が順調なことを物語っている。この前の合コンがいい転機になったようで、よかったなと星奈は思う。
「それにしてもよく釣れるねえ。あたしは、夕飯がアジ尽くしになるなら誰が勝ってもいいけど」
白熱する男性陣を冷ややかな目で見つめて、幸香が言った。
「どうしたの? すねてる?」
「すねてる。だってあたし、まだそんなに釣ってなかったもん」
「えー。じゃああとで釣り竿、取り返さなきゃ。でも、やっぱり店長が勝って欲しいから応援するでしょ?」
「まあね」
あまり釣り竿を持たせてもらえなかったことにすねつつも、幸香も前川の話になると嬉しそうだ。
「星奈さんはどっちを応援するんですか? 篤志さんとエイジさん」
何も知らない夏目が、無邪気に尋ねてきた。
確かにこの流れだと、星奈はどちらかを応援しなくちゃいけないのだろうと思う。でも、星奈の目は自然とエイジを見つめてしまっていた。
「やっぱりエイジさんですか? 何か、星奈さんに懐いてて可愛いですもんね」
「そ、そうかな……?」
「じゃあ、私は篤志さんを応援してあげようかな。金子は応援しなくても勝つし」
夏目はあくまで無邪気に言い放ってから、篤志のもとへ走っていった。「イェーイ篤志さん、釣れてますー?」というのは応援ではなく、煽りではないかと思うのだけれど。
「何かさ、最近の星奈を見てると心配だよ」
幸香は、海から星奈に視線を移して言う。そこに咎めるような空気を感じ取って、星奈は身構えた。
「……心配って、何が?」
「何がって、エイジのことだよ。星奈、エイジがずっとそばにいるわけじゃないってこと、忘れてない?」
「忘れてないよ。モニターは長くても八月まで。ちゃんとわかってる」
「……ならいいけど。ちゃんと割り切ってないと、辛くなるのは星奈だからね」
ただ当たり前の事実を確認しただけなのに、二人の間には気まずい空気が流れてしまう。幸香が悪いわけではないとわかっているし、言いたいこともわかるけれど、星奈の気持ちは沈んだ。
「あー、だめだ。流れが変わった。これは、もう釣れないかも」
不意に金子が言って、竿を持ったまま“お手上げ”みたいなポーズをとる。
そういえば、少し前からひっきりなしに釣り上げて魚を外す様子が見られなくなっていた。
金子が見切りをつけたのを合図に、みんな糸を海から上げた。
「セナ、たくさん釣ったよ。それぞれ四十匹以上は釣ったかも」
最後に釣り上げた魚を針から外しながら、エイジがにこやかに言ってきた。その楽しげな表情を見て、星奈の気持ちは上向いた。
「セナにあまり釣らせてあげられなくてごめん」
「いいよ。エイジが楽しめたなら」
「うん、楽しかった。ありが……」
「エイジ!?」
嬉しそうに星奈のそばに来ようとしていたエイジの身体が、突然ぐらついた。そして足をもつれさせるように前のめりになった。
「大丈夫?」
倒れる寸前のところで、駆け寄った星奈が受け止めることができた。でも、なかなか返答がない。
「……うん。何か、急に目の前が真っ暗になって、ずっと暗い下り坂に吸い込まれていくような感覚がして……」
「下り坂? きっと、悪い夢を見たんだよ」
やっと返事があったと思ったのに、それは要領を得ない。ロボットは夢を見るのだろうかと思いつつも、星奈はそんな言葉しかかけられなかった。
「エイジくん、暑さのせいで立ちくらみかな。これで首元を冷やしてみて」
前川がクーラーボックスから取ってきてくれたらしく、冷たいペットボトルをエイジに差し出した。
「すみません。ありがとうございます、前川さん」
「……うん。こっち、日陰に行って休もうか」
一瞬、エイジの様子に星奈は違和感を覚えた。それは前川も同じだったようだけれど、それどころではない。
まだ足に力が入り切らないエイジの両脇を二人で抱え、陰になっているところまで運んだ。
「真野さんたちに連絡しようか?」
前川たちがそろそろ帰ろうかとかどこか涼めるところへ寄ろうかと話し合っているのに聞き耳を立てながら、星奈は座り込んでいるエイジに声をかけた。
エイジは意識はあるものの、ぐったりしている。周りは暑気あたりだと思っているけれど、ロボットは暑気あたりにならないことを知っている星奈は不安だった。
「いい、帰ってからで。もう元気だし」
「本当? 何か欲しいものある?」
「今はそばにいて、セナ」
不安な子供がするように、エイジは星奈の指先を摑んだ。手をつなぐほどしっかりしたものではなく、ためらいながらも思わず摑んだという感じだ。
見上げる視線もどこかすがるようで、星奈の胸は締めつけられる。
星奈は唐突に、自分が今どこで、誰と向き合っているのかわからなくなった。正確に言えば、瑛一と対峙しているような錯覚を起こしそうになったのだ。
そのことを自覚して、幸香が何をしていたのかが身にしみてわかった。
(瑛一は、もういない。エイジとだって、永遠に一緒にいられるわけじゃない。そのことを、そろそろ私は受け入れなくちゃいけないんだ)
みんなが呼びに来るまでの間、星奈は何度も何度も、そのことを噛みしめていた。
釣りに行った次の日、月曜の朝に真野と長谷川は星奈の部屋にやって来ていた。
真野はのんきにエプロン持参で、長谷川は緊迫して深刻そうな顔で。
日曜の夜にメールで連絡すると、すぐに電話がかかってきた。長谷川はずいぶん慌てた様子で星奈からの報告を聞くのもそこそこに、エイジと電話で話したがった。
星奈からスマホを受け取ると、エイジはしばらく声をひそめて話し込んでいた。何となく聞いてはいけないかと思い、星奈はキッチンに退避していたのだけれど、電話を終えたエイジはケロッとした顔でやってきて、「あの二人、明日来るって。それと、アジを冷蔵庫のチルドに入れときなって」と言っただけだった。
「今からメンテナンスをするから、牧村様は真野にアジのさばき方でも教わっていてください」
到着するなり長谷川はエイジの肩を摑んで、居室にこもる意思表示をした。
真野のほうを見れば、エプロンを身に着けてやる気満々だ。
「……よろしくお願いします」
こうなれば星奈に選択肢はない。エイジのことは気になるけれど星奈にできることはないから、アジをさばいていたほうが有意義だ。
「ずいぶん釣ったんですね」
チルドから取ってきたアジの入った袋をのぞくと、真野は目を丸くした。
「みんなで山分けしたんですけどね。エイジは四十匹くらい釣りました」
「すごいな。エイジは楽しんでましたか?」
「はい、すごく。初めてなのに、筋がいいっていうか」
「それはよかった」
真野は話しながら、次々とアジの鱗を落としていく。包丁の背で表面を撫でていくと、ポロポロと鱗は取れた。
「アジには独特の硬い鱗があるので、それも忘れずに取るんですよ」
「この、外に出てる骨みたいなのですか?」
「そうです。尾のほうから包丁を入れて、削ぎ落としていくイメージで。ちなみにこれ、ゼイゴっていうんですよ」
説明しながら、真野はすべてのアジのゼイゴを削いでいった。ゼイゴを削いだあとは胸びれを切り落とし、頭を落とし、腹を開いて、それを水を張ったボールの中で洗っていく。
「鱗を落とす、頭を落とす、腹を開いて中の血や臓物をきちんと洗う、ができれば大抵の魚の処理はできますよ。あとは開いて塩焼きにしてもよし、小麦粉つけて唐揚げにするもよし、フライにするもよしです」
「すごい……ありがとうございます」
こうして魚を持って帰ってきたものの、どうしようかというのが本音だった。さばいたことなど当然なく、動画サイトで指南動画でも探そうかと思っていたほどだ。
だから、真野に教えてもらえて星奈はすごく助かった。
「まさか、真野さんに魚のさばき方を教えてもらうとは思ってなかったです。真野さんがさばけるっていうのも、意外でした」
「ただ単に、若い頃貧乏したときに、魚を釣って食べてたってだけです。でも、こうしてそのときの経験が役立つときが来てよかった。牧村様も、いつかきっと役に立つときが来ますよ」
「そうですね。これからは、肉が高いときは魚を買うっていう選択肢ができました。ありがとうございます」
星奈が心から感謝すると、真野は歯を見せて嬉しそうに笑った。
この変な男たちとの付き合いも、もう三ヶ月になる。
あいかわらず胡散臭いと思うし、怪しいと思う。エイジのことがなければ、きっと一生関わることがなかった人種だ。
でも、今は彼らが悪人ではないと感じているし、毎日のメールのやりとりも、週に一度のメンテナンスで顔を合わせるのも、悪くないと思っている。
「真野さんの見立てでは、エイジはどこか悪そうですか?」
下処理した魚を冷蔵庫に片づけ、真野がきれいに手を洗い終わるのを見計らって星奈は尋ねた。
本当はもっと早くに尋ねたかったのだけれど、せっかくさばき方を教えてくれているのに水を差したくなかったのだ。
「悪いか悪くないかは、私は答えかねますね。私はあくまでボディ担当なので」
「昨日の電話のあと、長谷川さんは何か言ってましたか?」
「んー、あいつにとってはエイジの今の状況はなかなか心配みたいで、いろいろ言ってましたけど」
真野はその見た目通りの飄々とした言い回しで、たくみに星奈の質問をかわした。
こうして待つのがもどかしく、せめて真野から何か聞ければと思ったのだけれど、どうやらそれもさせてもらえないらしい。
キッチンと居室を隔てる戸の向こうからは、ボソボソと会話が聞こえてくる。まだメンテナンスは続いているようだ。
「ヨモツヒラサカ」
「え?」
不意に、真野が何かよくわからない単語を耳にした。
居室のほうに神経を集中させていた星奈は慌てて真野のほうを見たけれど、彼は星奈を見ていなかった。
「今のって、ロボットの専門用語か何かですか?」
「ご存知ありませんか。人文系の学生さんなら、もしかするとと思ったのですが。……それなら、忘れてください。本当はたぶん、教えてはいけないことだった」
今のはきっと、何か重大なヒントだったのだ。でも、星奈がそれが何なのかを考えるより前に、真野は話を打ち切ってしまった。
おそらくは、長谷川の意思に反して何かを教えようとしてくれたのに。
もう一度聞き直すべきかどうか星奈が迷っていると、スパーンと引き戸が開き、長谷川が出てきた。
「終わりましたよ! とりあえず、エイジにはよく説教しときましたから。……何というか、こう、よくないことが起きてたんですよ。エイジ、意思を強く持て。まだここにいたいならな」
「わかった。気をつける」
長谷川はプリプリとした雰囲気を漂わせていて、その背後から顔をのぞかせているエイジは何だかしょんぼりしている。長谷川の言う通り、メンテナンスというより説教されていたのだろう。
「あの、エイジはどこが悪かったんですか? もう大丈夫なんですか?」
心配で、不安で、星奈は長谷川にすがるように尋ねた。
星奈の視線を受けて長谷川は困った顔をして、目を伏せて小さくうなって、それから口を開いた。
「バグです。人格データのバグ。そのせいで不調をきたしていたってわけです。状況は悪いとしか言えないんですが、あとはもう、エイジの気合い次第です」
「人格データのバグ……気合い……」
長谷川の言葉は歯切れが悪く、星奈はわかったようなわからないような、微妙な気分になった。でも、エイジがすぐに回収されないとわかってほっとした。
「今日は、急な連絡だったのに来てくださってありがとうございました。今後も気になることがあれば、来ていただけますか?」
帰る二人を見送るとき、星奈は念押しするように尋ねた。いつでも連絡していいと言われている。駆けつけてくれると言われている。それでも、確かめておきたかったのだ。
「もちろん。緊急事態がないのが望ましいですがね」
「我々としても、最後までモニターをしていただきたいですから」
真野も長谷川も笑顔で頷いてくれた。長谷川の笑顔は、どこか困っていたけれど。
「エイジ、もう平気?」
二人が帰ったのを見届けてから、エイジはへたり込むように床に座った。その様子からエイジのただならぬ疲労を感じ取って、星奈は駆け寄った。
「うん、平気。すごい怒られたから、ちょっと凹んだだけ。まあ、俺が大事なことを忘れたらいけないんだけどさ」
「大事なこと?」
「そう。もう思い出したし、もう忘れないから大丈夫」
「……そっか」
エイジはにこやかな表情を浮かべつつも、何を言われたのかを話す気はなさそうだった。それがわかったし、エイジの言葉で星奈も重要な言葉を思い出した。
「……ヨモツヒラサカ」
真野が言っていた言葉を思い出しながら、星奈はこっそりスマホで検索する。
そしてそれは、驚くほど簡単に検索に引っかかった。
「黄泉比良坂(よもつひらさか)って……」
真野が口にしたのはロボットの専門用語でもなんでもなく、神話の時代から日本に存在している言葉だった。
漢字になると字面だけでおおよその意味は理解できる。
黄泉、つまりあの世。黄泉比良坂はあの世へと続く坂の名前だ。
そんな言葉を真野が呟いたということは、エイジは昨日、命の危険があったということだろうか。立ちくらみを起こしたときに、暗い下り坂に吸い込まれるような感覚があったと言っていたのも気になる。
「ねえ、エイジ。もしかして昨日、死にかけたの? 真野さんがね、黄泉比良坂って言ったの。黄泉比良坂って、あの世の入り口でしょ? だから、もしかしてエイジは昨日、死ぬような思いをしたんじゃないかと思って……」
星奈が言うと、エイジは笑顔で首を振った。星奈をなだめようとするかのような、穏やかな笑顔だ。
「俺はロボットだ。ロボットは死なない。真野さんは、たとえで言ったんだよ」
「……本当?」
「本当だよ。だから、期間いっぱいセナのそばにいる」
不安そうな星奈の顔を下から覗き込むように、エイジは優しく見つめてくる。握り拳ふたつ分を超えた、とても近い距離で。
その距離感に、優しい視線に、星奈は何かを思い出そうとする。でも、はっきりしたものを感じるより先に、エイジは身体を離してしまった。
「残り三ヶ月、セナからもらうばかりじゃなくて、俺も返したいって思うんだ。だから、セナがたくさん楽しくなれることをしよう」
何かを決意するようにエイジは言った。
いつの間にこんなにはっきり意思表示ができるようになっていたのかと、星奈は驚く。
出会ったばかりの頃は、もっとぼんやりして、淡々としていたのに。表情も豊かになったし、言葉に感情が乗るようになった。
そう改めて感じて、確かに三ヶ月一緒に過ごしたし、残りの期間も三ヶ月なのだと思い知らされる。
「返すなんて、そんな……私だって、エイジにたくさんもらってるよ。いてくれるだけで、充分」
「ううん。ずっとそばにいられるわけじゃないから、“いるだけで”は充分じゃないんだ。俺がいなくなったあともセナが笑っていられるように、いろんなことをしたい」
「いなくなったあとも……」
わかっていたはずのことなのに、エイジの口から聞かされると、それはなかなかに衝撃的だった。
でも、エイジもいろいろ考えて口にしたのだとわかるから、星奈はショックを受けたのを隠して、努めて笑顔を浮かべてみせた。
「そうだね。いつまでもメソメソしてたら、エイジが研究所に帰りにくくなっちゃうしね。私だって、最後は笑顔で見送りたいもん。楽しいこと、いっぱいしなくちゃね」
心の整理をしなくてはと、星奈は思う。
エイジがやって来るあの日までは、絶対にもう二度と立ち上がれないと思っていた。エイジが来てからは、なし崩し的に生活が立て直されていき、このまま時間が解決してくれるのではと思えるようになっていた。
でも、時薬(ときぐすり)なんて曖昧なものに任せていられないものもあると、三ヶ月経った今では感じている。
意識して乗り越えなければずっと乗り越えられないものもあると。
「私がモニターでよかったって思ってもらいたいから、残りの三ヶ月、うんと楽しく過ごそうね」
***
それから星奈とエイジは、様々なことをした。
日常の細々とした買い物も一緒に行ったし、服も買いに行った。星奈は夏に向けてエイジの夏服を買ったし、エイジは星奈に似合いそうな服を選んだ。
バイト先のメンバーたちからのお誘いもあったけれど、基本的には二人で過ごした。
たくさんの人たちの中で過ごすと寂しさはまぎれるけれど、それが根本的な解決にならないことに星奈は気がついたのだ。
だから、ピクニックと星を見に行く計画も二人で立てた。
「ピクニックって耳馴染みのある言葉だけど、具体的には何をするのかいまいちわかってなかったんだよね。意味を調べてみたら、『野外に出かけ、食べたり遊んだりすること』だって」
ピクニックといえばお弁当、お弁当を外で食べるならレジャーシート……などと連想ゲームのように必要なものを準備しようとしたとき、ふと気になって星奈は調べてみた。
「そっか。じゃあ“花見で宴会”をしたときに“ピクニックをしたい”ってリストの項目も達成できてたのか」
エイジは、冷蔵庫に貼られたリストに視線をやって言う。その顔に浮かぶのは、失敗したことに気がついたときのような、バツの悪そうか表情だ。
「じゃあ、リストは十項目じゃなくて九項目だったんだな」
「そんなこと、気にしなくていいよ。本当はリストが何項目だっていいと思ってるんだから」
言いながら、星奈は自分がものすごくわがままなことを考えているのに気づいてしまった。
リストの項目は、あと三つ。項目の数が増えてもエイジといられる時間が伸びるわけではないとわかっているのに、もっとたくさんいろんなことを望んでくれたらと思ってしまうのだ。
「いいこと思いついた。ピクニックと星を見るのを一緒にしたらどうかな?」
わがままを本当に言ってしまう前に、星奈は別のことを口にした。
「レンタカーを借りて、どこか景色のいいところへ行ってピクニックをして、夜になったら車の中から星を見るの。車の中でシートを倒して寝泊まりをしたら、ちょっとしたキャンプ気分だよ」
ほんの思いつきに過ぎなかったのに、話しているうちに星奈はそれがすごくいい考えのように思えてきた。
確か、昼間にバーベキューだけの利用もできるような、気軽に使えるキャンプ場がそこそこ近くにあると夏目から聞いている。
本当はずっと、そういったことを星奈はしてみたかったのだ。バイクで行きたかったのが車に変わるけれど、実現できそうだ。
「いいね。すごく楽しそうだ。天気がよくて環境もいいなら、夜のピクニックもできる」
星奈の思いつきを後押しするように、エイジは笑って言ってくれた。その笑顔のおかげで、星奈は自分の思いつきがとても素敵なものだと思うことができた。
少しずつ必要なものをそろえていき、日程も調整して、星奈たちはある土曜日の朝にキャンプ場へと出発した。
六月の、梅雨の真っ只中で、いつ晴れるのかも、その晴れがどのくらい続くのかもわからないような状態だったから、バイトのシフトの休み希望を出してからは、星奈もエイジも祈るように過ごしていた。
だから、その日が晴れだったのがすごく嬉しかった。
「車の免許、持っててよかった。幸香に誘われたときは、別にいらないって思ってたんだけど」
レンタルしたコンパクトカーを無事にキャンプ場へ乗り入れて、星奈は心底安堵したように言う。
大学に入ってすぐ幸香に誘われて教習所に通って免許証を取得して以降、それが身分証明書以上の役割を果たすことはほとんどなかった。
つまり、星奈は典型的なペーパードライバーだったわけだけれど、何とか目的地までたどり着くことができた。
「セナはもう少し練習するか、もう二度と車を運転しないって決意したほうがいいと思う」
「……ごめん」
助手席のドアを開け、よろよろと外へ出るエイジを見ると、星奈は素直に申し訳なく思う。
ロボットなのにげっそりしている姿を見れば、事故に遭わなかったことと命を落とさずに済んだことだけを無事と言ってはいけないなと反省した。
「すぐにタープを張って、お弁当にしようね」
「うん、そうしよう」
気を取り直して、星奈とエイジは後部座席に積んでいた道具を下ろして、せっせと準備をしていく。
最初に準備するのは、バーベキューやデイキャンプには欠かせないと言われているタープという布製の屋根だ。
これがあれば日除けになるし、少しの雨ならしのげると聞いてエイジが購入したのだ。
星奈とエイジは手分けしてペグを打ち、ロープを張り、ポールを立てていった。二人がかりでもなかなか骨が折れたし、結構時間がかかった。初心者でも簡単に張れると聞いて六角形タイプのものを購入したし、張り方を解説している動画も何度も見たのに。
「これ、ひとりでやれるようにならなきゃなんだよね」
「うん。でもまあ、ソロキャンプじゃなくて、またバイトのメンバーと来るのもありだと思うけど」
「それでもやっぱり、ひとりで張れたほうがかっこいいよね。……頑張る」
折れそうになる心を鼓舞してどうにかタープを張ると、次のレジャーシートは手早く敷くことができた。ペグを打ち込む手つきも、手慣れたものになっている。
「すごいね。タープとレジャーシートだけで、こんなに雰囲気が出るなんて」
「今から焚き火グリルで肉を焼くから、もっと雰囲気が出るよ」
レジャーシートの上で弁当を広げてくつろぐ星奈を横目に、エイジは楽しそうに焚き火グリルの用意をしていく。
簡単に火を点けられる炭を買ったから、すぐに火は起こせた。炭を並べ替えたり減らしたりして火を安定させてからは、エイジは黙々と肉を焼いていく。
「セナ、先にお弁当を食べててもいいよ」
「ううん。せっかくエイジがお肉を焼いてくれるんだもん。待ってるよ」
「牛肉だから、早いはず」
「楽しみにしてる」
今日のための肉を買いにスーパーに行ったとき、エイジは栄養価の話ばかりしていた。どうやら星奈の栄養状態が気になったらしい。あまり自炊をしないし、しても肉をほとんど食べないからと。
そして散々迷った結果、最も星奈が自分で買って食べることがないだろうということで牛肉が選ばれた。
「ほら、焼けたよ。食べて」
「いただきます」
星奈は焼けた肉を乗せた紙皿を受け取り、持参したレモン果汁をかけて食べる。
エイジは次の肉を焼きながら、はふはふ言って食べる星奈を見守った。自分は一切食べられないというのに、とても満足そうだ。
「セナ、おいしい?」
「うん、すっごくおいしい」
「焼き肉のタレじゃなくてよかったの?」
「レモンと塩コショウで食べるのが好きなんだ」
「そっか。……そいつ、地味にうるさいな」
機嫌よく星奈を見つめていたエイジは、ふと音が気になったようで眉間に皺を寄せた。エイジが“そいつ”と言ったのは、星奈の手首に装着されている腕時計型の虫除けだ。どうやら、それから発せられる音が気になるらしい。
「これがないと蚊に刺されちゃうから、我慢してね。あと、虫も来ちゃうし」
「まあ、仕方ないか。虫が嫌いなのはどうしようもない」
「うん、どうしようもない」
星奈はこれからの人生で、虫嫌いが治ることはないだろうと思っている。たとえ、ソロキャンプにはまったとしても。
瑛一には都会っ子と笑われたけれど、嫌いなのは不慣れながらではないとも思っている。
「そういえばね、瑛一のことを好きだなって再確認するエピソードはたくさんあるんだけど、私の中ですごく思い出深い話があるんだ」
虫の話つながりで、星奈は瑛一と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出していた。
「ある夜、バイトから帰ったらね、ものすごく大きいゴキブリがいたの。もう半端なく、冗談にもならないくらいの大きさで、怖くて絶望して、それで半狂乱になって瑛一に電話しちゃったの。瑛一は私が電話口で怖がって泣いて要領を得ないから、変質者でも出たんだと思って慌てて来てくれたんだよ。夜中に、バイクを飛ばして」
思い出しながら、星奈はあのとき本当に瑛一に申し訳ないことをしたなと改めて思っていた。
夜中に泣きながら恋人が電話をかけてくるなんて、何事かと思っただろう。それなのに彼は、とりあえず駆けつけてくれたのだ。
「瑛一ね、私が無事だってわかったら、すごくほっとした顔をしたんだ。それで、ゴキブリが出てパニックになってただけだってわかっても、全然怒ったりしなかったの。むしろすごく心配してくれて、しっかり退治までしてくれたんだよ。そのときに私、思ったんだ。こんなに優しい人、ほかにいないって。この人が恋人でよかったって」
きっと他の人にとっては何でもない、ありきたりな話だ。特段感激する要素なんてない、心に残らない話だろう。
でも、星奈にとってはそうではなかった。このことがあって、星奈はより一層、瑛一のことが好きになったのだから。
「こういうささやかなことを積み重ねて、ずっとずっと、私たちの関係は続いていくんだって思ってたんだ……」
ずっと続くものなどないと、永遠などないと、星奈は身を持って知った。
だからこそ、特別ではない、あのささやかなものの積み重ねの日々が尊いと理解できたのだ。
「セナは、ひとりでゴキブリ退治もできるようにならなきゃな」
星奈の話を聞いて、エイジはしみじみと噛みしめるように言う。
茶化しているわけではなく、真剣に言っているのがわかって、それが逆におかしくて星奈は笑ってしまった。
「そうだね。ゴキブリが出るたびに誰かに泣いて助けを求めるわけにはいかないしね。殺虫剤とか寄せつけない対策とか、いろいろ考えてみるよ」
「そうして。これから、いろんなことをひとりでやっていかなくちゃいけないんだから」
そんなことを言うエイジは、まるで兄か親のようだ。
そう感じて、星奈はいつの間にかエイジが自分の精神年齢に追いついたのだと気がついた。来たばかりの頃の、無垢で無機質な感じはもうない。
「雨、止まないね」
サンルーフに雨粒が落ちるのを、星奈とエイジはもう長いこと見つめていた。
昼食を済ませて、二人がキャンプ場内を散策していると突然雲行きが怪しくなり、そこから一気に天気は崩れた。
慌ててタープを片づけ、レジャーシートを畳んで逃げ込んでからは、ずっと車の中に閉じ込められている。
「……せっかく車の中から見られるようにと思って、サンルーフの車にしたのにな」
キャンプ場は暗くなるのも早い。そのうちに真っ暗になって、この雨粒すら見えなくなるだろう。
「梅雨だから、天気が崩れるのは覚悟してきただろ」
「うん」
「セナは、本当に星が見たかったんだな」
「……うん」
エイジは特に残念がるでもなく、しょんぼりしている星奈をなだめようとしていた。
それがまた、星奈にとっては気がかりだった。
他の人との約束なら、こんな残念なことになっても「またの機会にね」と言うことができる。
でも、エイジとは“またの機会”がないかもしれないのだ。あるかもしれないけれど、ない可能性も高いのだ。
ずっとこうして、一緒にいられるわけではないから。
そう考えると、どうしても気持ちは沈む。
それに、雨というものが星奈の気を滅入らせるのだ。
あの日以来、大雨の事故で瑛一が亡くなって以来、星奈にとって雨は憂鬱なものだ。嬉しいことも楽しいことも、すべて星奈から遠ざけてしまう気がする。
「俺は、星が見られなくても、ずっと雨でも、別にいいけどね」
落ち込む星奈の頭にポンと手を乗せ、エイジは言う。その声に取りつくろう様子はなく、明るい。
「……何で? “星が見たい”ってリストが達成できないよ?」
「いいんだよ。代わりに別の体験ができてるから。こうしてセナと二人で車の中で雨の音を聞くっていうのも、俺にとっては大事な体験だ。いつかまたこんなふうに雨が降ったときに、セナが俺と雨音を聞いたことを、少しでも楽しい気持ちで思い出してくれたら嬉しい」
「エイジ……」
エイジの言っていた「楽しいことをしよう」というのがそういう意味だったのだとわかって、星奈は泣きそうになった。
楽しいことは、こんなにもすぐそばにあるのに、自分は一体何をすねていたのなろうと。
楽しいか楽しくないかなんて、きっと自分の気持ち次第の部分が大きいのだと、エイジの言葉によって気づかされた。
「そうだね。こうしてエイジと一緒に雨音を聞いたことを思い出せば、雨の日も嫌なことばかりじゃないかも」
涙がにじんでくるのをこらえて、星奈はにっこりしてみせた。すると、エイジも優しい笑顔で応じてくれる。
「一晩待って雨が止まなかったら、朝すぐにキャンプ場を出よう。それでさ、ちょっと遠くではあるんだけど県内にプラネタリウムがあるから、そこに行って星を見てみない? せっかく明日も休みだし」
星奈は、スマホで検索しながら言う。気持ちが上向きになったことで、そういう発想の転換ができたのだ。
「いいな、プラネタリウム。明日そこに行って星のことを知っておけば、本物の星空を見上げるのも楽しくなりそうだ」
「本当だね。……私、もっと早くにこうやって気持ちの切り替えができてればよかったのにな」
星奈は、これまでの自分を振り返って嫌になった。
楽しいことが好きで、いろんな計画を立てるのが好きで、でもその計画が思い通りにならないとすぐに不機嫌になっていた。
だからあの雨の日の喧嘩も、すごくくだらない、ささいなことが原因だったのだ。
あのとき、星奈が不機嫌になって喧嘩にならなければ、気持ちを切り替えて笑顔で送り出すことができていれば……そんなことを考えると、やるせなくなる。
「大丈夫だよ、セナ。雨音を聞きながら眠るのも悪くないし、明日のプラネタリウムはきっと楽しいよ」
「うん、そうだね」
また塞ぎ込みそうになる星奈の気持ちを、エイジがそっとつなぎとめてくれた。
ポンポンと頭を撫でてくれるだけで、前向きな言葉をかけてくれるだけで、星奈は泣きたい気持ちを抑えることができた。
「すごいね。エイジといると、何でも楽しい気がしてくる」
「そうか。だったら、その気持ちをずっと忘れないでいて。セナは何でも楽しむことができる能力を手に入れたんだよ」
「そっか。……うん、忘れない」
魔法のように胸に響くエイジの言葉を、星奈はしっかりと噛みしめた。
これは、エイジがくれたものだ。絶対に絶対に、なくしたりしない。
梅雨だから仕方ないものの、六月はほとんど雨ばかりだった。
当然のごとく七月になっても雨は降り続き、世界は雨に閉ざされてしまったのかと思ったほどだ。
梅雨の間、エイジのことで研究所の二人はかなりやきもきしていた。主にボディ担当の真野が気が気ではなかったようで、ある日突然メンテナンスの日でもないのに大量の除湿剤を持ってやって来たこともある。
真野が気にしていたのは、カビだ。「人形にカビは大敵ですからね! エイジは言ってみれば人形なんですから、それを忘れずに過ごしてくださいよ!」ときつめに注意されてしまった。
真野に厳命されエアコンを常に除湿モードで稼働させ、電気代が気になりつつも快適に過ごすうちに曇りの日が増えていき、いつの間にか梅雨は明けていた。
梅雨が明けると、あっという間に夏になった。
湿度に悩まされ続けた日々が終わると、今度はその湿度に加えて高温に耐えなければならない。
そんな高温多湿に耐えるある日、いつもよりエアコンの設定温度を低くした部屋で星奈は格闘していた。
「うえー。そんなにきつく締めないでくださいー」
「だめ。ここをしっかりしとかないと着崩れてみっともないよ」
「そんなにきつくしてないからねー」
幸香と二人でなだめながら、星奈はうめく夏目に浴衣を着せていた。腰紐を結んだくらいでこんなに大騒ぎするなんて、これから浴衣を着て歩けるのかと心配になる。
「よし。おはしょり、きれいにできた。襟の抜き加減はこのくらい?」
「夏目ちゃんは可愛い系でいくんだから、それは抜き過ぎじゃない?」
「了解ー」
幸香は星奈に確認しながら、手早く襟を調整していく。浴衣をきちんと着られている印象になるかどうかは、襟とおはしょりで決まると教えられているから、気が抜けないのだ。
その隙に、星奈は兵児帯(へこおび)に前板を仕込んで、結びやすいように形を整える。
「はい、夏目ちゃん。仕上げだよ。本当なら帯を締める前に伊達締めっていうものを巻くんだけど、夏目ちゃんは柔らかい帯にしたから締めません。で、今日教えるのは一番簡単なリボン結びだから、ちゃんと覚えるんだよ」
「はーい」
星奈は姿見で夏目に背後を確認させながら、ちゃっちゃのリボン結びを作って見せた。
「すごい! 簡単だった! 可愛い!」
着付けが完了すると、夏目はその場で何度も回転し、前から後ろから自分の姿を確認して大喜びしている。
夏目が着ているのは、白地に黒と赤のドットが散りばめられた浴衣だ。それに鮮やかな透け感のある赤の兵児帯を結んでいるから、腰で金魚が揺れているようで可愛い。
「さあ、今度はあたしたちの番だよ!」
「気合い入れてこう」
ザッと全身の汗を拭って、幸香と星奈は今度は自分たちの着付けを始めた。
二人は慣れたもので、浴衣を羽織り、襟を合わせ、腰紐を結び、おはしょりを作るところまでは自力であっという間だった。そこまで仕上げると、次は互いの帯を結びあいこする。
「サチ、蝶結び、リボン返し、文庫だったらどれがいい?」
「えー……一番大人っぽいやつにして」
「わかった」
星奈は幸香の山吹色の半幅帯を手に少し悩んでから、結び始める。昨夜、忘れていないだろうかと復習がてら結んでみていたから、淀みなく結ぶことができた。
「はい、できたよ。リボン返し。可愛さもありつつ、帯の端が外にこうして出てるのが、ちょっと大人っぽいんじゃないかと」
「うん! すごくいい! 今日のは浴衣がシックだから、こういう結び方がいいね」
紺地に白の麻の葉模様の浴衣は、幸香のこれまでの趣味ではない。でも前川の隣に並ぶ大人っぽい雰囲気になりたいと、ちょっと背伸びして買ったのだ。帯が山吹色だから、地味になりすぎず、よく似合っている。
「じゃあ、次は星奈ね。結び方はあたしにお任せでいい? 今日のためにとっておきの結び方を会得してきたんだ」
「それなら、おまかせで」
幸香はウキウキしながら、一生懸命帯を結んでいく。でも、会得したばかりというだけあって、何度も結び直したりスマホでお手本を探したりと苦戦している様子だった。
「よし、完成! 後ろ、見てみて」
「わあ……可愛い!」
「花文庫って結び方だよ」
姿見で確認すると、帯は蝶がふたつ重なったように結ばれていた。蝶結びと文庫結び方が合わさったような、可愛らしくありながらもかっちりしている。
「初心者向けの結び方らしいから、練習したら簡単に結べるようになると思うよ」
「うん。頑張ってみる」
「それにしても、星奈は去年と同じ浴衣でよかったわけ?」
浅葱色に白い風車柄の浴衣とレモンイエローの帯は、去年着たものと全く同じものだ。
「うん、いいんだ。見せるの初めてだから」
そう言って、星奈は笑う。この姿を見て彼がどんな顔をしてけれるのか、何を言ってくれるのか、そう考えるだけで心が浮き立つ。
「あー、すごい。幸香さんも星奈さんも、自分で浴衣着られてかっこいいなあ。やっぱり、めっちゃ練習したんですか?」
全員無事に浴衣に着替え終え、姿見に映した自分の姿や星奈たちを見て夏目は感嘆の声をもらした。夏目は待っている間に編み込みと花の飾りで髪をアレンジしていて、さらに可愛くなっている。
「そうだよ。めちゃくちゃ練習したよー。確か、高ニの夏に初めて自分で着たんだよね?」
「そうそう。幸香の家に何日か泊まって、幸香のお母さんとおばあちゃんにみっちり教えてもらったの」
「女の子は、ひとりで浴衣を着られなきゃ困るだろうからって」
幸香と星奈は、当時のことを思い出して顔を見合わせて笑った。
幸香の母も祖母もスパルタで、数日間のうちにかなりしごかれたものだ。
初心者が見様見真似で着ても浴衣の形にはなるけれど、すぐに形が崩れたり、歩くと足元が大きくはだけたりするものだ。
そんなみっともないことがあってはならないと、幸香の母と祖母は星奈たちに徹底して着付けを仕込んでくれた。
きっかけは祭りに浴衣で行きたいから着付けをしてくれと頼んだことだったため、なぜこんなスパルタを……と思ったけれど、今となっては感謝しかない。
「さて。そろそろ待ち合わせ場所に向かおうか。金子くんが何て言うか楽しみだね」
「はい! 幸香さんもですね」
幸香と夏目は嬉しそうに笑ってから、連れ立って狭い玄関で下駄を履いて外へ出た。幸香と前川の交際は、いつの間にか公認の事実になった。だから、堂々と恋バナもできる。
彼氏が待つ場所へ向かう華やぐ二人の後ろに、星奈も続いた。
下駄をカランコロンと鳴らしながら三人が向かったのは、神社だ。
今日は夏祭りで、神社が近づいてくると通りには提灯が吊るされ、様々な屋台が並んでいる。
待ち合わせたのは神社の裏手で、そこにはすでに待ち合わせのメンバーが来ていた。浴衣姿の前川とエイジと、それから篤志と金子が。
「わあ……かっこいい!」
幸香は浴衣を着た前川が目に入った途端、感激して駆けていった。前川も、笑顔でそれを受け止める。
そんな二人を横目に、星奈はエイジと対峙していた。
何だか照れてしまって、どちらもはにかむだけでなかなか言葉が出ない。
「セナ、可愛い。すごくきれいだ」
「エイジも、すごくかっこいい。似合うね」
やっと言葉にできたのに、今度はそれがくすぐったくて二人は笑う。
「私たちの準備の間、店長のところにいるって言ってたのは、浴衣を着せてもらうためだったんだね」
「ううん。そういうわけじゃなかったんだけど、話の流れで着せてもらえることになって。最後に、いい思い出になるだろうって」
「そっか。……うん、すごくいい」
こうして外で待ち合わせるのも、浴衣姿も、とても新鮮でドキドキしてしまう。
星奈はその胸を高鳴らせる感情にだけ集中して、軋むような痛みは意識しないようにした。
意識しても、終わりは来る。それなら、できるだけ楽しいことにだけ集中して、残りの時間を幸せに過ごしたいと思ったのだ。
「もうっ! 何で金子は普通の服なの!? 今日は祭りだよ! もっと気合い入れて来てよ!」
夏目は、いつも通りの格好で来た金子に腹を立てていた。せっかく可愛い浴衣を着ているのに、プリプリしている。
「まあまあ、夏目ちゃん。金子くんが着てなくても、夏目ちゃんが浴衣なんだからいいじゃん」
「篤志さんは黙っててください! てか、何で甚平なんですか!?」
「えー……」
甚平姿の篤志が、仲裁に入って八つ当たりされている。
どうなることかと星奈たちが見守っていると、それまでずっと眠そうに黙っていた金子がおもむろにスマホを取り出して、プリプリ怒る夏目の写真を撮り始めた。
「夏目、俺は自分の可愛い彼女の浴衣姿を撮りたいんだけど。できたら笑って欲しい」
「なっ……」
金子の言葉によって、夏目は一瞬にして固まった。こんなことを言われて、怒り続けるのは難しい。夏目の機嫌は、あっという間に治ってしまった。
金子の巧みな夏目の扱いにみんなで感心しつつ、一同は縁日の屋台巡りに出発した。
まずは腹ごしらえと思っていろいろ見てみるけれど、目移りしてしまってなかなか決まらない。
様々な屋台の中でもたこ焼きや箸巻き、お好み焼きなどの粉物のソースの香りが気になりはしたものの、日頃「トントン」でおいしいお好み焼きを食べているため、誰も買おうとはしなかった。
粉物を外してその他の定番といえば焼き鳥やイカ焼きということになったけれど、それらを買って食べると今度は大人たちはアルコールが恋しくて仕方なくなった。
夏目と金子の未成年カップルにならって大人たちもラムネを飲みながら屋台を巡り、お腹が少し膨れると今度は食べ物以外を見て回ることにした。
「エイジ、俺と一緒に射的やろうぜ」
「うん、いいよ」
篤志は、ずっとエイジにくっついている。今も肩を組んで、射的の屋台へと向かっていってしまった。
「篤志さん、エイジさんの帰国が相当寂しいんですね。仲良くなりたくてべったりでしたし、最近本当に打ち解けてきたのに」
射的の屋台に並ぶ二人を見て、金子が言った。
今日お祭りに来たのは、エイジのお別れ会も兼ねている。エイジは七月いっぱいまで「トントン」で働いて、八月に帰国することになっている。
最後まで“謎の多い留学生”で通すことができたのだ。
星奈は、このおおらかな人々に心の中で感謝した。
「ねえー星奈さん、どれが欲しいー?」
射的のコルク銃を手にした篤志が、手招きしながら尋ねてきた。その横でエイジも、ニコニコして星奈を見ていた。
射的の的となる景品は、子供が喜びそうなオモチャやぬいぐるみだ。そのどちらもどこかで見たことがあるものを模した見た目をしていて、星奈は思わず笑ってしまった。
「ぬいぐるみが欲しいな。あの黄色い、眉毛が生えたクマさん」
どのぬいぐるみも憎めない顔をしていて気になるのだけれど、星奈は特に太眉の生えた黄色いクマが気になっていた。
「よし! じゃあエイジ、二人であの黄色いクマを狙うぞ」
「わかった」
篤志とエイジは声をかけあって、銃を構えた。
ぬいぐるみはわりと重さがあるのか、篤志とエイジがそれぞれ五発ずつ撃ち込んでも体が大きく傾くだけで、落ちてこなかった。篤志が店主から追加で弾をもう五発買って、そのうち三発を撃ち込むとようやく黄色いクマは落下した。
「はい、星奈さん」
「ありがとう、篤志くん。エイジも」
篤志に差し出されたクマに、星奈はギュッと抱きついた。二人が苦労して取ってくれたのだと思うと嬉しくてたまらなかったのだ。
「そんなに喜んでもらえるなら、頑張った甲斐があるよ。な、エイジ」
「うん、よかった」
篤志がニッと歯を見せて笑うと、エイジも微笑んだ。
「エイジ、次は何したい?」
「ヨーヨー釣り。あの、風船のやつ」
「いいな! じゃあ、どっちが多く取れるか競争な!」
ぬいぐるみをゲットしたことでテンションが上がった篤志は、エイジを伴ってヨーヨー釣りの屋台めがけて行ってしまった。
星奈たちはそばまで行って、それを見守った。どちらにもそれぞれ応援がついたけれど、結局篤志は力みすぎて早々にこよりが切れてしまい、最後の最後まで丁寧に釣り続けたエイジの圧勝だった。
「せっかくだから、みんなに一個ずつあげる」
そう言って、エイジは星奈たちにヨーヨーをひとつずつくれた。
それからみんなでヨーヨーをペチペチさせながら、前川おすすめの花火鑑賞スポットに向かった。
「花火ってきれいだから好きなんですけど、打ち上がり始めると、お祭りが終わっちゃうんだなあって思って寂しくなるんです」
この祭りの花火は、最初のほうは雰囲気を盛り上げるためにハートやスマイルマークの花火が打ち上がる。それらを見上げて、夏目がポツリと言った。
「盛り上がるにつれてどんどん気分は上がるけど、それと同時に切ない感じもするよね」
そう言う幸香の声は、早くも湿っぽくなっている。
可愛らしい形の花火がひと通り上がると、次はスターマインと呼ばれる短時間にたくさんの玉が連続で打ち上がる花火が夜空を鮮やかに彩る。
それからは大輪の菊花火、牡丹花火、色とりどりの小さな菊が集まって咲く彩色千輪菊、光の帯がしだれるように下へ流れる柳と、次々に見応えある花火が打ち上げられた。
みんな一様に空を見上げているけれど、意識しているのは別のことだ。
「……エイジ! 国に帰っても、俺たちのことを忘れないでくれよ!」
ずっと我慢していた様子だったのに、ついにこらえきれなくなった篤志がエイジに抱きついた。
「エイジさん! 俺、いつか世界旅行に行くんで、そのときに絶対にエイジさんの国に行きます! そしたら、一緒にキャンプしましょうね……!」
篤志に触発されたのか、金子まで感傷的になってしまったようでエイジに抱きついていた。それを見て、幸香がしゃくり上げる。
「……もうっ。泣かないって決めてたのに、そんなの見せられたらだめだ……。エイジ、ありがとね。いっぱいいっぱいありがとう!」
抱きつきはしないものの、篤志と金子にしがみつかれているエイジの肩に手をおいて、幸香は鼻をぐすぐす言われた。
幸香の“ありがとう”に込められている意味がわかるから、星奈も胸が熱くなった。
「みんな泣いたら、私も泣いちゃいますよー。うわー寂しいー」
最後は夏目まで走っていって、エイジは四人にもみくちゃにされていた。
みんな泣いているのに、エイジは笑顔だ。どこまでも晴れやかで、満足げな顔だ。
「牧村さんは、もう平気? いろいろと」
団子のようにくっついているエイジたちを微笑ましく見守っていた前川が、不意に星奈に尋ねた。
前川が何を尋ねようとしているのか考えてから、星奈は頷いた。
「はい。エイジがたくさんのものをくれたので」
「じゃあきっともう、思い残すことはないね」
「そうですね……そうだといいな。エイジにとって、いいモニター体験だったなら、私も本当に嬉しいです」
「君が嬉しいなら、きっと彼も嬉しいよ」
前川は、本当にそう信じているというように言った。
だから星奈も、そうなのだと信じることにした。
星奈に悔いはない。だから、エイジもこの半年が幸せだったのだ。
「ほらほら。みんな、泣きやんで。花火見なきゃ、もったいないよ。そろそろ、終わりそう」
星奈はエイジたちに駆け寄っていって、団子になるのに参加した。そして、空を見るよう促す。
クライマックスに向けて夜空には、連続して大玉が上がっている。
赤が、黄色が、ピンクが、まばゆい光の花となって空に浮かぶ。ひとつが消えるより先に次が打ち上げられるから、目もくらむほどの眩しさだ。
その一瞬の眩しさを目に焼き付けるために、星奈は瞬きもせずに空を見つめ続けた。
五年後も十年後も、エイジと見たこの空を思い出せるように。
海沿いの美しくのどかな景色の中を、電車は走っている。
その車窓から、星奈は景色を眺めていた。
窓を開けられる仕様にはなっていないけれど、もし開けられたなら潮騒と海風を感じられそうだなと思った。
濃密な海と緑の気配が、窓越しにも伝わってくる気がしたのだ。
「セナ、大丈夫? 疲れてない?」
窓の外をじっと見つめる星奈を、エイジが心配そうに見ていた。安心させようと、星奈は微笑む。
「大丈夫よ。海がきれいだなあって思って見てたの。瑛一は、こんな景色の中で育ったんだなって」
星奈たちが向かっているのは、瑛一の生まれ育った町だ。前回は前川の車で送ってもらったけれど、今日は新幹線と電車を乗り継いできている。
時間はかかるけれど、少しずつ瑛一の思い出のある場所に近づいているのだと思うと、感慨深いものがある。
というよりも、前回来たときは瑛一の葬儀のためだったため、景色を見るどころではなかったのだ。
どのくらい時間がかかったとか、どのようなところを走って辿り着いたのかとか、そんなことは頭の中からすっぽ抜けてしまっている。
覚えているのは、悲しくて苦しくて、ろくに送るという気持ちすら持てなかったということだけだ。
「お墓参り、ついてきてもらっちゃってごめんね」
星奈の代わりに花束を持ってくれているエイジを見ると、気にした様子はなく笑ってくれた。体温が高い星奈よりも花の保ちがいいだろうということで持ってくれているけれど、エイジが墓参り用の花束を持っているのは何だか変だなと思ってしまう。
「俺がついてきてやりたかったから、いいんだ」
「そうだったね。ありがとう」
今日の墓参りは、エイジが言い出したことだった。
“やりたいことリスト”を達成した今、エイジとの時間はすべて自由時間だ。
その中で、エイジが自らやりたいと言ったことのひとつが、瑛一の墓参りだったのだ。
まだ墓参りに行けていないことを星奈は気にしていたし、そのことをエイジは気にしてくれた。だから、自分がいる間にその気がかりなことを解消してくれようとしているらしい。
真野たちから、次にエイジに何かあったときが回収のときだと言われている。リストも達成できているし、モニターの目的も成されたと言えるから当然のことだろう。
それに、来たときと比べて随分と様子が違っている。星奈の目にそれは成長として映るのだけれど、二人の研究者には不具合かどうかギリギリという感じのようだ。
だからおそらく、これが最後の遠出となる。
「もっとこうして、遠出しておけばよかったね」
プラネタリウムには行ったけれど、結局本物の星空を見ることはなかった。行こうと思えばもう何回かくらい、キャンプに行けただろうに。キャンプでなくても、夜にレンタカーを借りて星を見に行くことくらいできたはずだ。
星だけではない。
釣りだって、ピクニックだって、できたはずなのに。
でも、あの雨の夜以降、星奈はエイジと普通の日々を送っていた。
何か特別なことをすると、エイジとの時間が少なくなってしまう気がしたのだ。何か不具合が起きて、エイジが回収されてしまうことを恐れたのだ。
「今してるから、いいじゃん。それに俺、家の中で星奈とぼんやり過ごすのも好きだからいいんだ」
「……そうだったね」
エイジの言う通り、星奈たちは特に何をすることもなく過ごした。
近所のスーパーに行ったり、映画を見たり、試験勉強をする星奈をエイジがジッと見守ったりと、何でもない日々を過ごした。
永遠などないと知っている星奈にとっては、そんな何気ない日々こそ尊くて愛おしい。
「もうすぐ着くからね」
到着を告げるアナウンスに星奈が立ち上がると、すかさずエイジも立ち上がり、網棚からカバンを取ってくれた。
カバンを持ってくれたエイジに代わって、星奈が花束を持つ。
白い地に濃い紫の縁取りのリンドウを中心に、仏花として供えられる花束にしてもらった。瑛一に花を贈ることなどなかったから不思議な感じがしたけれど、亡くなった彼にあげられるものなど他にないから、花を選ぶのにもずいぶん熱が入ってしまった。
「お花、派手じゃないかな」
「大丈夫。セナが一生懸命選んだんだから」
「そっか。地図の通りだと、十分くらい歩けば着くはずだからね」
「うん」
特に話すこともなく、そこから二人は黙って歩いた。
目指す場所は、瑛一が眠る五島家の墓地だ。
瑛一の実家に連絡すると、快く墓地の場所や行き方を教えてくれた。大学の友人を名乗る女性から連絡があればいろいろ思うところはあっただろうに、電話に出た瑛一の母はただ「瑛一のためにわざわざありがとう」と言っただけだった。
それを聞いて星奈も胸にこみ上げるものがあったものの、何とか泣かずに済んだ。
半年という月日が経ったというのもあるだろうけれど、エイジの存在がやはり大きい。
エイジがいたから立ち直れたし、何より楽しかった。楽しむことや喜ぶことを取り戻せたことで、星奈は瑛一の死を受け止めることができたのだ。
「お寺、駅から近くてよかったね」
「そうだな」
墓地のある寺院に到着すると、星奈は手桶と柄杓を借りて五島家の墓を簡単に清めていく。
墓に来たら何をすればいいのかは、両親に連れられて実家の墓参りをしていたからある程度知っていた。でも、それを自分と歳の変わらない、恋人の眠る墓に対してしなければならないなんて思ってもみなかったことだ。
「あの、お掃除が終わったから、今からお線香を供えて瑛一にいろいろ報告をするんだけど……エイジはどこかに座って休んでおく?」
慣れない手つきで柄杓で水をかけたり簡単にゴミを拾ったりしているうちに、ずいぶんと暑くなっていたことに気がついた。
人間の星奈でも八月の日射しはあまりに暑すぎる。ロボットのエイジにはなおのこと酷だろうし、何より釣りに行ったときのような不具合が起きないとも限らない。
そう思って尋ねたのだけれど、エイジは笑顔で首を振った。
「大丈夫、そばにいるよ。俺にも、聞かせて」
「……わかった」
エイジの笑顔は、星奈のよく見知ったものに変わっていた。そう感じるだけなのか、本当にそうなのか――わからないからあまり考えないようにと努めて、星奈は線香を供えて手を合わせた。
「まず最初に、来るのが遅くなってごめんなさい。本当は早くに来るべきだったんだけど、ここに来る勇気が持てるまで、半年もかかっちゃった。……瑛一が死んでしまったって認められなくて、お墓に来たらそれを認めるしかなくなると思って。同じ理由で、あなたが事故に遭った場所にも一度しか行けてないの。きれいなお花が供えてあるのを見るのがつらくて、それを見てあなたが死んでしまったのを確かめるのが嫌で……ごめんなさい」
星奈の瑛一への報告は、まず謝罪から始まった。
瑛一に対して抱いているのは、たくさんの「ごめんなさい」だ。何度その言葉を口にしても足りないほど、彼に対して申し訳ないと思っている。
「半年経った今でも、あの日のことを何度も何度も思い出して、考えてしまうの。あの日、くだらないことで喧嘩なんかしなければって。怒って私の家を出て行く瑛一を引き止めて、せめて雨が止むまでは、明るくなるまでは、ここにいてって言えばよかったって。そう考えて、時間が戻せるならって思って、どうか悪い夢なら早く覚めてって思いながら過ごしてたんだ」
葬儀を終えてからの日々は、ずっと後悔に苛まれていた。
詳しい理由を覚えていないほどの些細な喧嘩が原因で、あの日二人は互いに傷つけて傷ついた。瑛一は口下手で、気が強いのも弁が立つこの星奈のほうだったから、怒りに任せてずいぶん酷いことを言ってしまったように思う。
「うんと大好きだったのに、最後に瑛一にかけた言葉がそれとは真逆だったのが、今でも自分で許せないの。……本当に、ごめんなさい」
いつもは、「大好き。おやすみなさい」と言って別れていたのに。離れたくなくて、もっと一緒にいたくて、すがるように見つめる星奈の頭を、瑛一が困った顔で撫でるのまでがセットだ。
時折、瑛一がほだされて泊まっていくこともある。でも大抵は「また明日、大学で」と言って帰っていくのだ。
あの日は、その「また明日」を聞くことすら叶わなかった。瑛一との“明日”も、二度と来ないものになってしまった。
「明日ごめんなさいって言えばいいと思ってたの。明日が来るのが、当たり前だと思ってたの……」
泣くまいと思ってたのに、後悔の念が胸にあふれて止まらなくなると、もう堪(こら)えることができなくなった。
この半年で平気なふりができるようになっただけで、後悔がなくなったわけではない。むしろ、日常を取り戻していくごとに、「ここに瑛一がいれば」という思いは強くなっていった。
「セナ、そんなに謝らなくていい。『ごめんなさい』って言葉に、押しつぶされてしまう」
手を合わせたまま泣きじゃくる星奈の身体を、エイジが背中から抱きしめた。
「『ごめんなさい』よりも、今のセナのことを聞かせて。セナの周りの人たちの話とか、セナがどんなふうに楽しく過ごしてるかとか。きっと、そっちのほうがいいと思う」
エイジほ無機質な手が、優しく星奈の頭を撫でる。
最初の頃はぎこちなかった手の動きも、今ではすっかり自然なものになっている。
その優しい手つきは、星奈の幸福な記憶を呼び起こさせる。あるいは、本物を忘れてしまっただけかもしれないけれど。
「……そうだね。せっかく来たのに泣いてばっかりだと、瑛一も困っちゃうもんね。それに今日は、ちゃんといろいろ報告しようと思ってきたわけだし」
エイジに撫でられて少し落ち着きを取り戻し、星奈は涙を拭った。そして、キュッと口角を上げてみる。無理にでも笑ってみるとちょっぴり気持ちが明るくなるというのは、この半年で知ったことだ。
それから星奈は、半年の間に自分の周りで起きたことを話し始めた。
幸香が大学入学当初からの片思いを実らせて、前川と付き合い始めたこと。
バイト先の後輩である金子と夏目という子たちが、すれ違いを乗り越えて恋人同士になったこと。
バイト先のみんなで、花見や釣りや夏祭りに行ったことも話した。星を見たくてキャンプ場に行ったのに、雨に降られてしまったことも。
「プラネタリウムね、子供のとき以来だったんだけど、すごくよかったよ。むしろあの頃より解説の意味とかわかって、楽しかった。そうやって、大人になるにつれて楽しいこととか面白いことって増えていくんだと思う。……一緒に、もっといろんなことしたかったね」
唇を噛みしめて、星奈は何とか泣くのを堪えた。
今でも思ってしまうことだ。これからも、ずっと考えてしまうだろう。瑛一が、もし生きていてくれたなら――と。
でも、星奈が伝えたいのは、その先の思いだ。
だから、再び泣いてしまうのを我慢して、瑛一の眠る墓に向き直った。
「瑛一、大好きだったよ。これからも、ずっと好き。だから、私はこれから先も頑張って生きていくね。生きて、瑛一が見たことないものを見たり、行ったことないところへ行ったり、やったことないことをやったりするの。そうやって、たくさんたくさん楽しく生きる。……あなたがいたら、そうしただろうから。瑛一と一緒にいて楽しかったときと同じように、生きていくね!」
半分以上、虚勢だった。でも、半分は本当だった。
瑛一を失ってから半年、ずっとつらかった。後悔と喪失感に苛まれ続けることはなくなったけれど、唐突に物凄い悲しみが襲ってくることがある。頻度が低くなったとしても、この悲しみに襲われることはずっと続いていくのだと星奈は覚悟している。
それでも、星奈は世界が色を失ったわけではないと知ったのだ。自分の命と人生が続いていくということも。
「セナ、よく言えたね。……これが聞けて、本当によかった」
言いたいことを言い終えて震える星奈を、エイジは後ろから抱きしめた。これまでにないその腕の強さに、星奈は身をよじって振り返る。
「エイ……イチ?」
名前を呼べば、星奈を抱きしめるその人は困った顔で笑った。帰って欲しくなくて服を摑む星奈を優しくなだめるときの顔で。
今まで何度もそんな気がしていたのを、気のせいだ、思い込みだとなだめてきたけれど、もうごまかしようがなかった。
「……ずっと、そばにいてくれたの?」
星奈が問うと、エイジは頷いた。
「何で言ってくれなかったの?」
「約束だったから。真野さんと長谷川さんとの。この体に留まるためには、瑛一であることは忘れなくちゃいけないし、名乗ってもいけない。そうじゃなきゃ、星奈のそばにいられないからって」
エイジの、瑛一の言葉に星奈はハッとした。これではまるで、最後のネタバラシのようだ。
「……やだ、瑛一。今の、聞かなかったふりするから。忘れるから。まだそばにいてよ。モニター期間、もう少しあるのに」
子供が駄々をこねるように、首を激しく振って星奈は言う。
まだ一緒にいたい。まだ心の準備ができていない。
そう思うのに、瑛一は困った顔をするだけだ。
「だめだよ。前川さんには、もうバレてる。あの人、すごく勘がいいからさ」
「じゃあ、店長に会わなければいい。モニター期間が終わるまで、私の部屋にいたらいいよ。夏休みだから、ずっと一緒にいられるよ。外に出なきゃいいんだよ。……ねえ、帰っちゃやだ」
服にしがみつき、必死になって言うのに、瑛一は頷いてくれなかった。ただただ、星奈の髪を優しく撫でる。
「セナのそばにいるには、俺の思いは強すぎるんだって。死んだ者の強すぎる思いは、生きてる者に悪影響を及ぼすんだって。だから、俺はその強すぎる思いを薄めて薄めて、やっとこの体に留められるようにしてもらったんだ。でも、一緒にいるとやっぱり思いは強くなる。薄まった俺である“エイジ”でいられなくなったら、セナのそばにはいられないんだ」
「それが許される期間が、三ヶ月から半年だったの?」
「そういうこと」
柔らかく微笑むと、突然瑛一の体は淡い光に包まれた。
そこから小さな光の球が立ち上っていき、瞬きながら消えていく。まるで、蛍の光のように。
終わりのときが来たのだとわかって、星奈は瑛一にしがみつきた。
「この半年間、一緒にいられてよかったよ。セナのこといっぱい泣かせたし、いい彼氏じゃなかったなって後悔してたから。彼氏としてじゃなくても、そばにいられて本当に幸せだった」
「そんなことない! 瑛一は、いい彼氏だったもん」
「セナは、彼女じゃなくても良い子だったな。“エイジ”にすごくよくしてくれた。こんな良い子は、これからもっと幸せに生きるべきだ」
光になっていく瑛一は、そう言って満足そうに微笑む。
「喧嘩したまま別れずに済んでよかった。セナ、ごめんな。それから、ありがとう」
「待って、瑛一……!」
「笑って、セナ。幸せに生きて。大好きだよ」
「私も、瑛一が大好きだよ! ありがとう」
「うん、またね……」
たくさんの光が空へと上っていき、最後の光が瞬くと、エイジの体は力を失った。星奈は、もたれかかってくるその体を、しっかり抱き留める。
腕の中にいるのは、からっぽになった人形だ。何の気配もなくなっている。
そうして気配がなくなっているのを感じて初めて、これまでずっと瑛一がエイジとしてそばにいてくれたことを実感して、星奈は泣いた。
「バイバイ。エイジ、瑛一」
***
瑛一とお別れした数日後、星奈は真野と長谷川を訪ねていた。
彼らが指定してきたのは、市内にあるマンションの一室。よくよく考えると、それは彼らの研究所として名刺に記されている住所と同じだった。
「よく来てくださいました、牧村様。どうぞ中へ」
インターホンを鳴らすと、すぐに真野が出てきた。まだ慇懃な研究者のふりを続けるのかと思いつつも、星奈は促されるままその部屋に足を踏み入れた。
「お、お茶、飲みますか?」
「いえ、お気遣いなく」
リビングに通されると、キッチンスペースから長谷川が様子をうかがうように声をかけてきた。そのおどおどした姿が何だかおかしくて、星奈は笑って首を振った。
「今日は、お二人にお礼を言いに来たんです」
長いこと身構えさせては気の毒だと思い、星奈は単刀直入に切り出した。それなのに、真野も長谷川もビクッと身体を強張らせた。
「まず、先日は遠方までエイジを迎えに来てくださってありがとうございました。お二人が来てくれなかったら、私だけではエイジを動かしてやることもできませんでしたから」
あの日、エイジの体から魂が抜けて動かなくなったあと、少しの間途方に暮れてから、星奈は真野たちに連絡をした。連絡が来ることも助けが必要になることも予め予想できていたらしく、二人は星奈たちがいた墓地に近いところに待機していて、すぐに車で駆けつけてくれた。
家まで送るという二人の申し出を断り、気持ちの整理をするために星奈は電車と新幹線を乗り継いで帰った。そのときに、「いろいろ落ち着いたら連絡してください」と言われていて、今日の訪問になったというわけだ。
「そんな……お礼を言われるようなことは何も」
「でも、本当に助かりましたから」
謙遜する真野に、星奈はさらにお礼を言おうとした。ところが、それを長谷川が頭を床に叩きつける音で遮る。
「……すいませんでしたっ!!」
勢いのある謝罪の言葉で、その頭を床に叩きつける行為が土下座なのだと星奈は気がついた。
初めて見る土下座に、星奈は面食らった。
「あの、謝られるようなことなんて何も……」
「ずっと騙してたんだ! すいません、本当に……」
訳がわからなくなっている星奈に、長谷川は必死だった。それを見て、星奈は合点がいく。
「ロボットじゃないのに、ロボットだって言ってたことですか?」
星奈には、それしか思い浮かばなかった。
エイジはロボットではなく、瑛一の魂が入った人形だったのだ。だから、ロボットの研究者を名乗っていたのも、開発中のロボットのモニターを探していたというのも、嘘ということになる。
でも、それがどうしたと星奈は思っている。そんなことはあの日に気づいて、承知でここへ来ている。
「それもあるけど、違うんだ……我々はずっと、君を騙していたんだ。我々は、瑛一くんの魂を使って金儲けをするつもりだったんだ!」
それは長谷川にとって、ものすごく大きな罪の告白だったのだろう。震えて、すぐに次の言葉が出てこなかった。
そんな長谷川の肩を叩いて、真野が口を開いた。
「詳しくは、私から話します。私たちのことを、瑛一くんとの出会いと彼とどんな契約をしていたかを」
そう言って、真野は語り始めた。
「私はしがない人形職人で、こちらの長谷川は簡単に言うと死霊使いです。死んだ者の魂を捕まえて使役したり、何かに封じ込めて操ったり、そういうことができる能力があると思ってもらえれば。聞いてすぐわかったかもしれませんが、人形と長谷川の能力というのは、非常に相性がいいんです。だから、出会ってすぐに思いついてしまったんですよ。私たちが組めば、いい金儲けができると」
「そうなんですね」
半信半疑のまま、ひとまず星奈は相槌を打った。
死んだ瑛一と半年も一緒にいたというのに、星奈はまだ魂とか霊というものを信じきれていなかった。だから、長谷川が死霊使いだというのも、いまいち理解が追いついていない。
「それで私たちは最初は、私が作った人形に長谷川が適当に捕まえた動物の魂なんかを入れて人形劇なんてものをやっていたんですよ。それとか酔狂な人間に売りつける、動く呪いの人形とかを作ったりね。ま、全然金になりゃしなかったんですけど」
恥じているのか何なのか、真野は自嘲するみたいに笑った。
「あるとき、テレビで人型ロボットが出ているのを見て思いついたんですよ。人間の魂を捕まえて人形の中に入れて、それをヒューマノイドロボットとして売り出したらボロ儲けできるんじゃないかって。人間の魂を入れてあるから高度なプログラムも学習も必要ない。つまり、人形を作る金だけで何倍も何十倍もの金が儲かるぞと」
「それで手頃な魂を探してるときに出会ったのが、瑛一くんだったってわけです」
真野の言葉を長谷川が引き継いだ。ここからは、彼の領分ということだろう。
「瑛一くんがいたのは、彼が亡くなった事故現場でした。我々が通りかかったのはちょうど警察による事後処理なんかが済んだあとでした。死んで間もない彼の魂はその場所にがっちり縛られているのに、ずっと『戻らなきゃ。戻らなきゃ』って言ってたんです。周囲をさまよう他の霊に取り込まれることなく、それだけ自我を保てるなんてちょうどいいなと思って、声をかけたんですよ。『このままそこにいたら悪霊になるぞ。俺たちと一緒に来るか』って」
そこで長谷川は言葉を切って、星奈の様子を確認した。瑛一が死んだばかりのときのことを話しているから、大丈夫かどうか心配したようだ。
少し胸が苦しい気がしたけれど、星奈は先を話すよう手振りで促す。
「そしたら、瑛一くんは言ったんです。『戻らなきゃ。連れてってくれ』って。このマンションに連れ帰ってからも、そればっかりですよ。だからどこになのか尋ねたら、『彼女のところに。泣かせたから、戻らなきゃ』って言うんです。その意志だけでこの世に留まってるようなもんだったんで、そこから話をするのも事情を聞き出すのも大変だったんですよ」
そう言って、長谷川は苦笑する。そこに、不快感はない。あるのは親しい者に対する、仕方がないなというような感情だ。
「瑛一くんに残っていたのは、悪霊になりかねない強い強い思いでした。だからそれを鎮めて、薄めて、話ができるようにしてから、我々は彼を説得したんです。我々と組んでロボットビジネスでひと儲けしないかと。そしたら彼、言ったんですよ。『この未練をどうにかしてくれたら、いくらでも言うことを聞いてやる。もう死んでるからお金には興味はない。ただ、彼女のことが心配だからそばに行ってやりたい』と」
そこまで言って、長谷川は顔を伏せた。星奈が涙を堪えきれなくなったのを見たからだ。
もう泣くことはないだろうと思っていたのに、そんな話を聞かされたら泣かずにはいられなかった。
死んでもなお、瑛一が自分のことをそんなに思ってくれていたのだということが、嬉しいけれど胸が苦しかった。
「我々はそれを聞いて、してやったりと思ったんですよ。願いさえ叶えてやったら、あとは言うことを聞くと言うんですからね。でもまあ、そのまま好きにさせたんじゃ、その彼女とやらを取り殺してしまいかねないと思って、制限をつけたんです。それが、あの“やりたいことリスト”でした。そのリストをこなしたら気も済むだろうなと。でも、リストを作らせてみたら我々の思っていたものとは全然違っていて……考えを改めさせられたんですよ」
長谷川が言うと、真野が目頭を押さえた。
「やりたいことリスト、すべて彼女の……牧村さんのためのものでしたからね。全部、どうすれば牧村さんが立ち直れるかを考えて、作られたリストだったんです」
そう言って、真野はリストについて詳しく話し始めた。
まずひとつめの【お好み焼きが食べてみたい】は、星奈に食事を食べさせるためのものだった。瑛一が死んでショックを受けて、きっと食事が摂れていないだろうからと。でも星奈は料理が得意ではないから、唯一まともに作れるお好み焼きにしようと瑛一は考えたのだという。
二つめの【泣ける映画を見たい】というのは、もしかしたら星奈がうまく泣けていないかもしれないから、無理にでも泣かせてストレスを発散させようと考えたらしい。
三つめの【買い物に行ってみたい】は、星奈の好きなことで気晴らしさせようという考えだったのだ。おそらく瑛一の死後、外出していないだろうし、人の多いにぎやかな場所には出られていないだろうと。だから、連れ出すための口実に、この項目だったのだ。
四つめの【バイトをしてみたい】は、星奈がもし家にこもりきりになって働けていなかったらいけないからと、バイトに復帰させるにはどうすればいいかと考えての項目だったらしい。狙い通り、エイジのこの願いを叶えるために星奈はバイトに復帰した。
五つめの【花見で宴会をしてみたい】は、星奈を楽しいところに連れ出すことと、周囲の人とより親しくなることを望んでのことだったらしい。塞ぎ込んでいないで楽しいことをして欲しいと、瑛一は考えたのだろう。
六つめの【合コンに参加してみたい】は、星奈が早く次の恋をして、瑛一のことを忘れて、楽しいことや嬉しいことを取り戻して欲しかったからだという。
「【釣りに行ってみたい】も【ピクニックに行きたい】も【星を見たい】も【夏祭りに行ってみたい】も、すべて彼女と約束していたことだと言っていました。すごく楽しみにしていたから、何とか叶えてやりたいと」
「……おかしいなとは、思ってたんですよ。どれもささやかすぎる願いだなと思ってたんです。釣りや星を見たいっていうのも、私が瑛一にせがんでいたことでしたし。瑛一の、私の、願いを叶えてくださってありがとうございます」
星奈は泣きながら、真野と長谷川に頭を下げた。彼らには感謝しかない。
それなのに二人は沈痛な面持ちで、その感謝を受け取ろうとしない。
「お礼を言われるようなことは、本当にしてないんですよ。我々は、瑛一くんの魂を使って金儲けをしようとしていたんですから。魂を人形などの器に定着させるということは、輪廻の輪から引き剥がし、未来永劫転生させないということだったんです。……瑛一くんの願いや未練を知るまで、我々はそれを悪いことだとも思ってなかったんですよ」
長谷川は深く後悔しているのだろう。沈んだ声やうなだれた丸い背中から、それが伝わってきた。
話を聞くと、星奈にもそれがどれだけ恐ろしいことかわかった。けれども、墓参りのときの瑛一の最後を思い出すと、でも……と思ってしまうのだ。
「瑛一の魂は、まだこの世にいるんですか? あの墓参りの日に光になってしまったんですけど……」
「そうなんですよ。あれは本来、あり得ないことでした。瑛一くんは、輪廻の輪へ還りました。牧村さんが、戻してあげたんですよ、おそらく」
「成仏した、ということですか?」
「そうですね」
長谷川に代わって変わる真野の言葉に、星奈は安堵した。
この世のどこにももう瑛一がいないというのはやはり寂しいけれど、成仏できたのはいいことだ。さまよわず、縛られず、しかるべきところへ行けたのはいいことだ。
「それなら、やっぱり真野さんと長谷川さんは恩人です。瑛一と私の。瑛一は悪霊にならずに済んだし、私は立ち直ることができました。本当に、ありがとうございました」
星奈は再び、深く頭を下げた。そして顔を上げ、涙を拭う。
すると今度は、長谷川と真野が泣きだした。
「け、結果オーライだっただけじゃないか! 本当に、本当に、ひどいことをしてしまうところだったのに……」
「でも、よかったですね。輪に還ったのなら、またいつか巡り巡って会えるかもしれません」
涙と鼻水を流しながら、長谷川と真野は言う。
胡散臭くて怪しい、人の良い二人のその間抜けな姿を見て、星奈は笑った。
「真野さんも長谷川さんも、絶対に悪いことに向いてませんよ。だからこれからは、真っ当に生きてくださいね。お二人の技術は、人を救える素晴らしいものなので。それでこれ、活動の足しにしてください」
そう言って、星奈はカバンから封筒を取り出し、持ってきていた紙袋と共に二人に差し出した。
「エイジが稼いだバイト代と、着てた服です。服は、エイジ……瑛一の魂が入っていたお人形に着せてあげてください。お金も、お二人が使うことを瑛一も望むはずですので」
「……いいんですか?」
「はい。それから、モニターの報酬もいりません。本当なら、私がお二人に払わなくてはいけないくらいでしょうし」
星奈の申し出に、真野も長谷川も目を丸くしていた。
これで今日の目的は果たせたから、星奈は一礼して立ち上がる。
「あの……牧村さん。お幸せに!」
玄関で靴を履いた星奈に、長谷川が慌てて声をかける。
「長谷川さんも」
笑顔で手を振れば、また長谷川は鼻をぐすんと鳴らした。
「しっかり食べて、しっかり生きていってくださいね!」
実家の親のようなことを言う真野には、「もしお金に困ったら釣った魚をさばいて食べます」の答えた。
そしてもう一度礼をして、“人工知能及び人型ロボット研究所”を後にした。
〈了〉
青春恋愛部門
【あらすじ】
恋人の瑛一を亡くして失意のどん底で過ごす星奈のもとに、ある日怪しげな男二人が現れる。
その二人組はある人工知能およびロボット制御の研究員を名乗り、星奈に人型ロボットのモニターになってくれないかと言い出す。
人間の様々な感情や経験のサンプルを採らせるのがモニターの仕事で、謝礼は弾むという。
高額の謝礼と、その精巧な人形に見える人型ロボットが亡くなった瑛一にどことなく似ていることに心惹かれ、星奈はモニターを引き受けることに。
モニターの期間は三ヶ月から半年。
買い物に行ったり、映画を見たり、バイトをしたり……
星奈とロボットの彼・エイジの、【したいことリスト】をひとつひとつ叶えていく日々が始まった。
したいことリストをすべて消化したあと、最後のわがままとして星奈は、エイジとともに瑛一の墓を訪れる。
そこで星奈は、エイジの秘密を知るのだった。