水道から水滴が滴り落ちる音で、星奈(せな)は目が覚めた。
 まどろみと覚醒を繰り返し、深くは眠れていない。そんな日々を過ごしているから、疲れが取れなくて些細な物音でも目が覚めてしまうのだ。
 もう何日も、まともに眠っていない。食事もほとんど摂っていない。
 今日が何曜日で、今がいつなのかも、あまりわかっていない。
 電気はつけず、カーテンを閉め切っていて、外界の変化をあまり感じないからだ。
 朝起きて、カーテンを開けて一日を始めて、三食きちんと食べてまた眠るという健康的で当たり前な生活は、星奈の世界から失われてしまったかのようだ。恋人の瑛一と一緒に。
 恋人の瑛一(えいいち)が死んだ。
 そのことが星奈を蝕み、立ち上がれなくさせている。
 事故の知らせを受けて病院にかけつけて、通夜と葬式に出てから数日の間は、泣き暮らしていてもまだ人間らしい生活ができていた。周囲の人間たちが、星奈がどうにかなってしまわないようにと気を配り、何くれと世話をしてくれていたから。
 けれども、ひと度もとの生活を始めようとするとだめだった。
 日常に帰ってくると彼の不在を生活のあちらこちらでまざまざと実感し、それがひとつひとつ、星奈を打ちのめした。
 おはようやおやすみといった、ささいなメッセージが届かないこと。ふとしたときに視界に入る、彼が部屋に置き忘れていった雑誌やちょっとした衣服。夕飯の支度をしようとして、彼も食べるだろうかと考えてしまう瞬間。
 ささやかな、それでいてこれまで降り積もるように星奈の世界を少しずつ彩り幸福に変えていったものたちが、彼の不在によってごっそりと消え去ったのだ。
 そのことに気づいたとき、星奈は一歩も部屋から出ることができなくなった。
 部屋から出れば、そこはひとり暮らしの学生たちが多く暮らす街だ。十分も歩けば、大学にもたどり着く。
 星奈も瑛一も県外からやって来たひとり暮らし組で、わりと近いところに住んでいた。だから同棲はしないまでもよく互いの部屋を行き来していて、周辺の景色にはすべて思い出がある。
 生きていた頃は当たり前の日常の風景で、それが思い出になるなんて思っていなかった。死んだときから思い出に変わってしまって、そしてその中にどれだけ瑛一を探しても、彼はもういない。この世界の、どこにも。
 彼と似たような姿をした大学生は、たくさん歩いているのに。彼が暮らしていたアパートは、変わらない姿で存在しているのに。
 そのことに気づいた瞬間、星奈はもう立っていられなくなった。
 亡くなってから少し時間が経ったからこそ、はっきりと瑛一の不在を感じてしまった。彼がもう二度と帰って来ないことも、悲しいくらい理解できてしまった。
 それから星奈は今のように、眠らず食事も摂らず、ただ息をしてわずかな水分を摂取するだけで生きていた。
 生きているというよりも、死なずに、ただ過ごしているだけとも言える。

「……なに?」

 ぼんやりとした頭でインターホンの音を聞いて、星奈は突っ伏していた身体を起こした。しっかりと横になる気力もなく、最近はこうしてベッドにもたれかかるようにして眠っている。あまりそういった欲求はわかないけれど、水を飲みたいときやトイレに行きたいとき、この姿勢から立ち上がるほうが楽なのだ。
 インターホンは何度も繰り返し鳴らされ、しまいには「お荷物でーす」という声まで聞こえたから、仕方なく星奈は立ち上がった。踏み込む足に力が入らなくてよろよろとしてしまったけれど、1Kのアパートだから寝室から出れば数歩で玄関だ。

「……はい」
「すみませーん。わたくしたち、こういう者なのですが」

 玄関のドアを開けてそこに立っていたのは、白衣を着た二人組の男とその後ろに隠れるようにしている私服の青年だった。
 しまったと思ったときには、白衣の男のひとりがドアの内側に足を滑り込ませていた。これではドアが閉められない。
 いつもなら、ドアスコープからきちんと外を確認してからドアを開けるようにしていたのに、迂闊(うかつ)だった。
 本来なら予定にない宅配便は受け取りたくないのだけれど、実家が突然何の連絡もなく物を送ってくることがあるから、宅配便業者が来たら応対せざるを得ないのだ。
 それにしても、今日はあまりにも迂闊(うかつ)だったと星奈は恨めしく思う。
 こんな見るからに怪しい人間が立っていると確認していれば、決してドアを開けることはなかったのに。

「人工知能及び人型ロボット研究所……?」

 セールスなら少し話を聞いてから追い払ってしまおうと思い差し出された名刺を確認すると、そこにはそんな胡散臭い文字が並んでいた。でも、名刺と白衣の男たちを見比べると、妙に腑に落ちる気もしてしまう。
 どちらの男も、どことなくおどおどしていて、あまり視線が合わない。髪の毛もとりあえず梳かしてはいるようでも、手入れが行き届いているとはいえない。
 偏見や間違ったイメージだとはわかりつつも、その二人組の様子や姿は、星奈の中の、研究に没頭して俗世から離れてしまっている研究者というもののイメージと一致した。 

「我々は、昨今話題になっている人工知能の研究をしておりまして、その人工知能を載せた人型ロボットの開発も進めております。工場や介護の現場では少しずつロボットが参入しておりますし、家庭用の比較的安価な感情認識ヒューマノイドロボットも発売されたのは記憶に新しいと思います。ロボットと人が生活する時代というのが、もうすぐそこまで来ているということなんですよ!」

 真野と書かれた名刺を差し出してきた男は、星奈が話を聞く姿勢を見せると途端に話し始めた。
 早口で、よく舌が回る。けれどもそれは用意して覚えてきた文章をそのまま吐き出しているという感じで、星奈の頭にはまるで入って来なかった。

「あの、あなた方がロボットの開発に携わっていることはわかりました。それで、ここへ来たのはどのようなご用件ですか……?」

 真野が息継ぎをした合間にようやく星奈がそうして口を挟むと、彼の背後で控えていたもうひとりの男が大きく頷いた。

「それはですね、牧村様にぜひ我が社で開発中の人型ロボットのモニターになっていただきたいということなんですよ!」

 長谷川と書かれた名刺を差し出してきた男は真野のように早口ではなかったけれど、その代わりにものすごく声が大きかった。
 星奈は一瞬驚いてから冷静になって、すぐに青くなった。

「あの、声の大きさを抑えて」
「いえいえ! これは声を大にして言いたいことなのですが! 我が社のロボットは素晴らしいので、ぜひとも一緒に生活して、できればあと一歩及ばない人間らしさの部分について、情報収集させていただければと!」
「……入って!」

 星奈の頭にはこの長谷川という声の大きすぎる男を黙らせなければという考えしかなかった。
 星奈が暮らしているのは、三階建のこじんまりとしたアパートだ。築年数が周囲のアパートと比べて浅く、その上よく手入れさせているのがポイントで選んだのだけれど、一緒に選んでくれた両親が気に入ったのは別のことだった。
 それは、今どき珍しく大家さんがすぐ隣に暮らしていて、直接この物件を管理していることだ。
 入居している学生たちによく気を配り、住み心地がいいようにいろいろ整えてくれる良心的な大家さんだ。
 けれども、うるさくすることにはとにかく厳しく、騒音問題で一度目をつけられると、その後は些細な物音でも許されず、暮らしていけなくなるというのが先に住んでいる住人からの情報だった。

「ここ、大家さんが厳しいので、声の大きさに気をつけてください。それと、話は聞きますけど何も買いませんから、ひと通り話したら帰ってください」

 ドアを開け放ち、気力を振り絞って星奈は言う。
 本当なら一刻も早くこんな変な人たちには帰ってほしいのだけれど、騒がれて大家さんの耳に届いてしまうほうが困ったことになるから耐えることにした。

「どうぞ。狭いですけど、座ってください。……玄関開け放ってるんで、変なことしようとか考えないでくださいね」

 変な人たちの前で弱気なところは見せられないと、星奈は毅然とした。もともとは、気の強い性格なのだ。ここ最近、めそめそしていただけで。
 星奈が鋭い視線を向けると、真野と長谷川は滅相もないという顔をしてブンブンと首を振りながら部屋の中に入ってきた。その後ろを、私服の若い男がのっそりと続く。

「あの、何か誤解をなさっているようですが、我々は牧村様に何かを売りつけようというわけではないのですよ。あくまで本日は、モニターのお願いに来た次第でして」

 食事を摂るときなんかに使っている小さなテーブルの前に腰を下ろすと、真野は機嫌を取るかのように両手をすり合わせつつ言う。その横で、長谷川も笑顔を貼りつけて頷いている。
 真野はひょろりとしたマッチ棒のような男で、それとは対称的に長谷川は小柄で丸々としている。その並びはまるで凸凹(デコボコ)で、漫画やアニメに出てくる間抜けなコンビのように見える。そういった奴らは悪役でも、大抵小物だ。 
 そんな凸凹コンビの横で、ぼんやり座っている私服の若い男は異質だった。

「モニターって、どんなことをするんですか?」

 その若い男性につい視線を向けつつ、星奈は尋ねた。それが前向きな姿勢に見えたのか、真野と長谷川は前のめりになる。

「簡単に言えば、一緒に暮らした際の感想を定期的に報告していただくことですね。商品として売り出した際には、使用者のご家族として受け入れていただくのがコンセプトですので」
「我々と一緒にいるときは完璧に思えるんですがね、やはり実際に暮らしてみるとまだまだ情緒の欠如があるでしょうから、そのあたりの感想を教えていただきたいのです! 言ってみれば、外国人のホームステイのホストファミリーになっていただく感じですね!」
「はあ……」

 真野と長谷川は気の早いことにカバンの中から書類を取り出して、それを星奈の前に差し出した。仕方なく、星奈はそれに目を通す。

「どうして私がモニターなんですか? 使い勝手を見るなら、単身者よりも家族のいる人たちのほうがいいんじゃないですか? それと、私の名前をどこで知ったかも気になるんですけど」

 何日もまともに眠らず食事も摂っていない頭では、書類の文章はあまり入ってこなかった。それでも、星奈は気力だけで目を通していき、気になることも尋ねてみた。

「牧村様のことは、まあそういった個人情報を取り扱うところから。学生街ですからね、こう、情報は比較的手に入りやすいのですよ」
「牧村様をモニターに選んだ理由としましては、我々がこの人型ロボットに想定している精神年齢や思考力というのが大学生くらいでして、そのー、同じくらいの歳の頃の方と過ごしたほうが感情の変化などの情報も収集しやすいのではという仮定に基づいての選出です!」
「そうなんですね」

 質問をすると途端に歯切れが悪くなったのが気になるけれど、コミュニケーションがあまり得意でない人はこんなものかと星奈は受け流す。
 ひとり暮らしの学生の情報がどこかでやりとりされているのなんて珍しくない話だし、ロボットの年齢設定に近いモニターを選ぶというのも納得はいく。

「もちろん、お引き受けいただいた場合はただでとは申しません。それなりの謝礼はご用意させていただいておりますので」

 そう言って、真野は星奈の手元の書類を覗き込んで、ある一文を指さした。そこには確かに、「謝礼 三十万円(税込み)」と書いてあった。
 三十万円といえば、大学生のバイト代としてはかなりおいしい額だ。ここ最近バイトに行けていなかったことを考えると、欲しい金額ではある。
 問題は、モニターの期間だ。

「あの、この『期間 三ヶ月から半年』というのは?」

 謝礼について書かれた文の下にあった文言に、星奈は首を傾げた。

「ああ。それは最長でも半年ということで、それより前に情報の収集が完了すれば回収するということです」
「それなら、この三ヶ月は最短期間ということですね」

 三ヶ月で三十万円か、半年で三十万円か。これはずいぶん違ってくる。どちらにしても、おいしい金額ではあるけれど。

「情報の収集という目的はわかりました。でも、私は具体的に彼に何をしてあげたらいいんでしょうか?」

 目を伏せ気味にボーッとしている私服の青年に、星奈は目をやる。話の流れとしては、その人型ロボットとは彼のことだろう。そうでなければ、なぜここにいるのかわからない。
 星奈に見られているとわかって、私服の青年は顔を上げた。それから、自分の手元と星奈の顔を交互に見る。

「基本的には牧村様のところにおいていただいて、人間の生活を間近で見せてもらえればいいです。ただ、ロボットには“やりたいことリスト”を自分で設定させているので、それを期間内にできる限り叶えてやって欲しいというのが、我々の願いではあります」

 真野は困ったように笑って、なかなか離したがらない青年から何とかそのリストを受け取って星奈に渡した。何が書かれているのか星奈は身構えたけれど、リストに目を落として拍子抜けした。

「お好み焼きが食べてみたい、買い物に行ってみたい、バイトをしてみたいって……こんな簡単なことでいいんですか?」

 リストにあったのは、どれも願い事とも呼べない、ささやかなものだった。三十万円の謝礼に見合わない無理難題を吹っかけられたらどうしようと思っていただけに、それはあまりにも可愛らしいものに思えた。

「人間にとっては些細なことでも、ロボットの彼にはひとつひとつが大いなる一歩で、重要なんですよ」

 長谷川がそう言って、ポンポンと青年の肩を叩いた。肩を叩かれた青年は、星奈の顔をじっと見た。

「……あ」

 青年に、表情の変化はほとんどない。だからこそ、何かを訴えられている気がする。
 そして、その青年の顔が一瞬だけ瑛一の顔に見えて、星奈は言葉を失った。

「牧村様、どうしたんですか?」

 言葉を失った拍子に、星奈の脆くなっていた涙腺は刺激されてしまった。泣くまいと思ったときには涙は溢れていて、止めようがない。
 変な来客に対して気を張っていただけで、情緒は不安定なままだ。ここ最近、呼吸をするように涙を流す日々を送っていたから、やはりすぐに普通に振る舞うのは無理だったのだ。

「……大丈夫です。彼の顔が付き合っていた人に似ているような気がして、それでいろいろ思い出してしまって……」
 
 心配そうにしてくれた真野に星奈がそう取りつくろうと、長谷川が軽快に笑った。

「そう感じるのも、無理はありません。ごく平均的な今どきの男子学生の顔を意識して作りましたからね! 髪型も服装も、いい雰囲気でしょう?」

 平均的な今どきの男子学生の顔だと言われれば、確かにそんな気がして、星奈はおかしくなって笑いながら涙を拭った。でも、一度ロボットの彼の中に瑛一を見てしまうと、もうだめだった。

「……この、ロボットの彼の名前って、何なんですか?」

 青年から目をそらせないまま、星奈は尋ねた。ハッと気がついたように、真野と長谷川は顔を見合わせる。

「モニターを引き受けていただけるのですか!?」
「そう、ですね。悪い話ではないと思いますし、お話を聞く限り断る理由もありませんから。先々のことを考えて、貯金もしておきたいですし」

 言いながら、少し言い訳じみているなと星奈は自分で思う。
 何ひとつ、嘘は言っていない。来年になれば始まる就活のことを思えば、少しでも貯えておきたいというのは本音だ。
 でも、モニターを引き受けてもいいかもという気持ちになったのは、別の理由だ。

「彼のことは、我々の間ではただ“ドール”と呼んでいました。開発している個体が増えれば、識別番号をつけねばの思っていましたが」
「ですから、牧村様がお好きな名前をつけて呼んでやってください! いずれ製品化されれば、ドールは各ご家庭でそれぞれの名前をもらうわけですから」

 真野と長谷川は、あきらかにほっとして、嬉しそうにしていた。ドールと呼ばれた青年ロボットも、どことなく安心しているように見える。
 ロボットなのだから表情の変化はないはずなのに、ちょっとした角度の変化なんかで表情があるように見えるのが不思議だ。
 その表情ほ変化にいちいち瑛一を探してしまっているのに気づいて、星奈は苦笑した。
 恋人の死から立ち直れていない自分のところに、その恋人にどことなく似ているロボットがやって来るなんて、どれだけ都合がいい話なのだろう。
 もしかしたら、この怪しげな研究員二人は、そういったことも想定して来ているのではないだろうか。ここは学生街だ。少し聞き込めば、そのくらいの情報は簡単に出てくるに違いない。
 そんなふうに考えても、星奈はこの話を断ろうなどとは微塵も思っていなかった。
 いつまでも泣いているわけにはいかないとわかっている。そのためには、何か気分の晴れることが必要だ。
 それなら、これほどちょうどいい気晴らしはきっとない。

「エイジ。このロボットの彼の名前は、エイジにします」

 青年ロボットの顔を見て、星奈は言った。
 この青年を瑛一の代わりにしようという気持ちはない。そもそも、代わりになどなり得ない。
 けれども、ほんのわずかにでも瑛一の面影を感じさせるこの青年ロボットには、彼の名前の響きに似たものを与えたかった。

「エイ、ジ。エイジ」

 青年ロボットは、噛みしめるように言った。無機質な、無感動な声だ。巷で話題になった、あのヒューマノイドロボットのおしゃべりが上手だと感じるほど。それでも今、彼の中で何らかの感情が動いたように星奈には感じられた。

「エイジか……うん。いい名前だ! よかったな、エイジ」

 長谷川が感激したように、青年ロボット――エイジの背中を叩いた。真野も感慨深そうに頷いてから、書類を星奈へと差し出した。

「こちらが、モニターを承諾いただく際の誓約書です。といっても、牧村様に不利益になる項目は一切なく、あくまで故障や不具合の責任は我々にあり、牧村様に負わせるものではないという証明であり、我々の宣誓です」

 真野に言われてその書類に目を通すと、本当にそんなことが書いてあった。しかも法律的な独特の回りくどい言い回しではなく、噛み砕かれた文章で書かれていてわかりやすい。

「わかりました。これにサインすればいいんですね。……あの、もし壊れたり調子が悪いなと思ったらどうすればいいんですか?」
「名刺のアドレスにメールをください。もちろん、電話でも。一日一回のレポートも、そのアドレスに送ってくだされば大丈夫ですので。どんな些細なことでも、気になれば知らせてください」
「週に一度、定期メンテナンスにも来ますんで!」

 真野と長谷川は、星奈の不安がなくなるように言ったのだろう。それなのに、一日一回レポートを送らなければならないのかということと、週に一回この凸凹コンビに会わなければならないのかということが、星奈をためらわせた。
 それでもやはりエイジの顔を見ると、断るという選択肢は消え去った。星奈が断れば、凸凹コンビは他のモニター候補のところへ行くのだろう。エイジが他の誰かのところに行くなんて、星奈は嫌だった。
 書類にサインする理由なんて、それだけで十分だ。

「……書きました。これで、大丈夫ですか?」

 署名と押印をして、星奈は書類を真野へ渡した。

「エイジ。頑張れよ」

 真野は背を撫で、長谷川は肩を叩き、それに対してエイジは無表情のまま頷いた。
 それから、凸凹な二人は一礼して玄関から出ていった。

「よろしくね、エイジ」

 エイジと二人で残された部屋で、星奈は言った。
 よくよく見るとエイジは本当によくできていて、こうして対峙してみるとまるで男性と二人きりでいるみたいで、星奈はどぎまぎしてしまう。
 その感覚は、初めて彼氏を家に呼んだときのドキドキに似ている。そんな星奈を、エイジはじっと見ていた。

「何て、呼べばいい? マキムラさん?」
「……星奈でいい。星奈って呼んで」
「わかった。セナ」

 初対面の、ごくありふれたやりとり。それなのに、姿が似ているから、出会ったばかりの頃の瑛一とのやりとりを思い出させられた。こんなことで泣いてはいけないと、星奈はお腹に力を入れてぐっとこらえる。

「じゃあ、とりあえず、“やりたいことリスト”の中から、消化できそうなことをやってみようね」

 星奈は笑顔を作って、小さなテーブルの上に残されたリストに目を向けた。
 「お好み焼きを食べてみたい」から始まるリストは、全部で十項目。そのどれもささやかなものだけれど、中には「お花見で宴会をしてみたい」や「釣りに行ってみたい」など、まだ時期でなかったり準備が必要だったりするものもあった。そう考えると、やはりひとつめの項目が最も手頃で、現実的かもしれない。

「……そっか。冷蔵庫、空だったんだ」

 お好み焼きならすぐ作れると思っていたのに、冷蔵庫を開けて星奈は愕然(がくぜん)とした。そこには、ほとんど何も入っていなかった。
 かろうじてそこにあったのはマヨネーズやドレッシングといった調味料類と、残り少なくなった小麦粉、実家から送られてきてそのままになっている缶詰類だけだ。これでは、何も作れない。

「ちょっと食材を切らしちゃってるから、買い物に行ってくるね!」

 冷蔵庫の状況を見ることで、ろくに眠らず、何も食べず、自らの命を削るようにして過ごしてきたここ最近の生活をようやく客観視することができた。客観視して怖くなって、星奈は財布だけ持って家を飛び出した。
 きっとひどい顔をしているだろう。服だって、パジャマとそう変わらない部屋着だ。それでも、そんなことに構うよりも食材を確保するほうが先だと、あまり力の入らない足を動かす。
 夕方のスーパーは、それなりに混み合っていた。久々に感じる、生きた人間たちの活気。その活気にあてられ、かつてここにも瑛一と来たことがあったのだと思いだしてしまって、星奈はまた泣きそうになる。
 ギリギリのところで涙を零さないようにしながら、星奈は必要なものをカゴに放り込んでいく。朝食のためのパンや飲み物も必要だろうかと思って、六枚切りの食パンや牛乳、オレンジジュースもカゴに入れた。
 そのあと、星奈は自分が本当に久しぶりに“明日”のことを考えられたのに気がついた。
 思いだしたのだ。どんなに悲しくても、何をなくしても、不幸なその日が続いていくのではなく、必ず明日が来ることを。
 自分が食べるためのパンではなく、エイジが食べるだろうかと考えただけだったけれど、それでも星奈は明日のことを考えられたのだ。
 それは、星奈にとって大きな一歩だった。
 涙がこぼれてしまう前に帰り着こうと、会計を済ませると星奈はできる限り足早に家へと戻った。
 よろよろだった。思うように身体は動いてくれなかった。それでも、何とか倒れずに帰り着くことができた。

「ただいま。すぐに、作るからね」

 玄関のドアを開けると、そこには出かける前とまったく変わらない姿勢でエイジがいた。グレーのフードつきのトレーナーに、いい具合にくたびれたインディゴブルーのジーンズ。どこにでもいる大学生っぽい服装をしたエイジは、薄暗い部屋の中で見るとやはり瑛一に見えた。
 それは幻だと、わかっている。だからその幻を振り払うために、星奈は本当に久しぶりに部屋の電気をつけた。
 台所に立って、まずキャベツの外葉を剥がしてからジャブジャブ洗った。それから、必要なぶんだけ剥がしてキャベツを細かく刻んで、ベーコンを刻んで、それらをボールに入れて小麦粉をまぶして、卵を混ぜて、顆粒のカツオ出汁を溶かした水を注いで混ぜていく。
 さほど料理は得意ではなくてレパートリーが少ないぶん、お好み焼きはよく作った。それに星奈のバイト先はお好み焼き屋だ。だから、瑛一にも得意料理だと言ってよく振る舞った。
 エビ玉や豚玉よりも、瑛一はこのベーコンが入ったものを喜んでくれた。そのため、いつしか星奈が家でお好み焼きを作るといえば、このベーコン入りのものになっていた。
 そんなことを思いだして、また涙が溢れてきた。
 けれども、星奈は涙を拭うために手を止めたりせず、溢れるままにしてお好み焼きを焼き始めた。
 フライパンに油をひき、その上にスプーンで生地を丸く広げる。厚さは二センチほど。それから中火で三分ほど焼き、ひっくり返して蓋をして五分ほど蒸し焼きにする。そしてまたひっくり返して、二分ほど焼く。
 ソースと青のりとかつお節をかけたら、完成だ。

「できたよ」

 お好み焼きの乗った皿と箸をエイジの前に置くと、興味深そうにかすかに目を見開いた。

(表情が変わった!)

 星奈が喜んだのも束の間。エイジに食べ始める様子はない。ただじっと、皿を見ている。

「どうしたの? フォークのほうがよかった?」

 もしかして箸が使えないのだろうかと思って尋ねたけれど、エイジは首を振る。

「俺は食べられない。だから、セナが食べる所を見せて欲しい」
「え……そっか」

 淡々と言われ、それもそうかと星奈は思い至る。
 エイジはよくできていて口もかすかに動くけれど、その口を大きく開けて何かを食べるのは無理そうだ。それに何より、エイジはロボットだ。
 どれだけ精巧に作られていても、ロボットは人間と同じ食事は摂れないだろう。
 そんな当たり前のことに気づいて、星奈は力が抜けた。エイジに食べさせてあげたい、食べさせなければという一心で買い物へ行って、作ったのに。

「人間には、食べ物が必要だ。でも、俺はロボットだからいらない。食べられない。だから、セナに食べて欲しい」

 星奈をじっと見つめて、エイジは言う。彼は人工知能だから、おそらくこれまで蓄積した情報をもとに言葉を発しているだけなのだろう。それでも、それらの言葉は星奈に対して発せられている意味のあるもののように思えて、胸が詰まった。

「そっか。私が食べるんだね。そうだね。人間には、食べ物が必要だもんね。でも、食べられるかな……」
「どうして? セナは、お好み焼きが嫌い?」
「ううん。そうじゃなくて、食事を摂るのが久しぶりだから、食べられらかなって」
「どうして? 人間は毎日食事を摂る必要があるのに」
「……食べられなかったの。つらくて、悲しくて」
「どうして?」

 星奈の今の状況はエイジの興味を引いたらしく、立て続けに疑問をぶつけられた。これが人間にされたとしたら、責められているように感じただろう。
 でも、相手はロボットだ。亡くなった恋人の瑛一にどことなく似ているエイジに尋ねられると、責められているは感じず、ただただ言葉が胸に刺さった。

「……恋人がね、死んだの。二週間前に。バイク事故だった。雨の日で、道路の状況があまりよくなくて……。それで悲しくて、苦しくて、気がついたらご飯が食べられなくなったの……」

 涙を流し、言葉に詰りながら星奈は言った。
 まだ悲しみの只中(ただなか)にいる。簡単には抜け出せない。それなら、ロボット相手とはいえ、話しておくべきだと思ったのだ。むしろ、ロボット相手だからこそ、きちんと話しておくべきなのかもしれない。

「恋人が死んだ。それで、悲しくて食事が摂れない。……でも、セナは生きてる。それなら、食事は摂らなくちゃ」

 しばらく考え込んでいた様子のエイジが、顔を上げて星奈を見る。その言葉に、まっすぐな視線に、星奈はハッとした。

「……そう、だね。生きていくなら、食べなくちゃね」
「そうだ。恋人が死んでも、セナの命は続いていく。明日も、明後日も、それからも。それなら、毎日食べる必要がある」
「うん」

 星奈は、箸を手にお好み焼きをひと切れつまんでみた。焼きたてのお好み焼きは、ソースとかつお節の香りが芳ばしくて、空腹の身体は素直な反応を示した。
 本当はスープやお粥などの消化にいいものから身体を慣らしたほうがいいのだろう。でも、星奈は箸でつまんだそのひと切れを口に運んだ。
 瑛一に、生きろと言われた気がしたから。

「おいしい」

 ひと口食べて、星奈は嗚咽と共に呟いた。
 恋人が死んでも、それがどれだけつらくても苦しくても、お好み焼きはおいしかった。