八月、ぼくらの後悔にさよならを

 真彩は頬杖をついて、数学のプリントを眺めていた。問題に答える気はなく、昼間の話し合いについて考えている。
 サトルの死因を調べるには、他にもいろいろと効率のいいやり方があるはずだ。スマートフォンでインターネットを開き、それらしいキーワードで検索をかければ分かるかもしれない。図書館で新聞のバックナンバーを探すのも頭に入れておこう。最後の手段として、サトルの家に行くことも考えた。手間はかかるが、来週くらいまでには調べがつくだろう。思わぬ夏休みの課題だと考えればいい。
 ただ、ノートに走り書きしたあのメモは、どれも不正解だからそれ以外で考えるしかない。自殺や他殺はやはり考えられなかった。溺死と遭難はもしかしたらあるかもしれない。だが、当の本人は「海に行きたい」と言っていた。これも考えにくい。
 では、交通事故の可能性が高いだろうか――
 真彩は目を閉じた。人が死んでしまうほどの交通事故とは、相当に悲惨だろう。
 ぶつかった瞬間、耐えきれない衝撃に体が押しつぶされる。思考は飛び、何が起きたのかさえ分からないまま、意識が消える。そうすると、記憶がなくなってもおかしくないかもしれない。
 ぼんやり考えていると、頭の奥が鈍く痛んだ。額を揉んで和らげようとするも、それは徐々に痛みを自覚させる。
 ――あぁ、もう。やだなぁ……
 無意識に記憶が引っ掻き回される感覚が不快だ。ぐるぐると渦巻く記憶の中、車の急ブレーキ音と母の叫びが不協和音となって思い起こされた。
 交通事故には一度だけあったことがある。だが、記憶は曖昧で、その映像がたまによみがえる程度だ。嫌な記憶ほど抹消してくれればいいのに、暗い気持ちに陥って、戻れなくなりそうで怖い。
 その恐怖心が目の感度を異常に発達させているのかもしれない。幽霊が視えるようになったのは、事故の後だったから。
 真彩は眉間にシワを寄せて、窓の外を見やった。教室の窓からはあの黒い影が視える。どうしてあの影が無性に怖いのか、いくら考えても分からない。ただ、あの影が事故の記憶やそれからの生活のように冷たく暗いものを呼び寄せているのには気がついている。
「――……真彩……真彩」
 誰かが呼んでいる。暗い水底から顔を上げると、明るい光のような声が降ってきた。
「真彩!」
 冷たい風が顔を直撃する。真彩は身震いして顔を上げた。サトルが目の前で顔を覗き込んでいる。その背後では岩蕗先生の冷めた視線があった。
「……一ノ瀬さん」
 うんざりとした先生の声。思わず視線をずらすと、サトルが苦笑を浮かべていた。
「補習で寝るなんて、信じられないわ」
 先生は教壇から下りず、呆れの息を吐く。それが怒っているように見えて、真彩は萎縮した。
「すいません……」
 これには反省する。言い訳も思いつかず、それに心臓はまだ早鐘を打っている。頭痛も治っていない。いつの間に眠っていたのだろう。体がいつにも増して重く感じる。そして、サトルの冷気に当たって寒気も感じた。
「はっ……ぶしゅっ」
 くしゃみが飛び出し、鼻をすする。岩蕗先生が振り返った。
「風邪でもひいたの?」
「え、いや、多分、違うと思います……」
 バツが悪いので今日はもう大人しくしておきたい。素っ気なく答えてしまい、先生は怪しむようにうなった。
「あなたがいつも気だるいのは知ってるけれど、今日はいつも以上に調子が悪そうね」
 そう言って、教壇を下りてくる。涼し気な表情には若干の心配が浮かんでいた。
「今日はもう終わりにしましょうか。ちょっと早いけれど」
 時刻は十四時半。日差しは強いが、今はその熱が欲しかった。

 ***

「いやぁ……真彩の集中力のなさはかなりヤバイよね」
 先生が教室を出ていってすぐにサトルが言った。
「ノート全然とってないじゃん。俺だってもう少し真面目にノート書いてたぜ。どんだけやる気ないんだよ」
 開いていたまっさらなノートを指して笑うサトルに、真彩は不機嫌を向けた。
「ちょっと、今日は調子が悪かったんだよ」
「先生が言うにはいつもって感じだったけど?」
「まぁ……」
 本当に調子が悪いのか、思うように言葉が出てこない。サトルも真彩の暴言を身構えていたらしく、丸い目を瞬かせる。
「……大丈夫?」
「大丈夫。サトルくんが冷たいから、外に出れば温まると思う」
「俺のせいかよ!」
 不意打ちの攻撃に当たり、サトルは平手打ちを食らったような顔をした。肩を落として落ち込む。
「……じゃ、帰ろっか、サトルくん」
 ノロノロと帰り支度をし、廊下に出る。鍵を閉めて職員室へ行く間にもサトルはぴったり後ろをくっついていた。これでは本当に取り憑かれてるみたいだ。少し離れる。ちょっと足を速めて職員室まで鍵を返し、強すぎる太陽の下に出るまで話はしなかった。
 グラウンドでは野球部が練習をしている。反対側にある体育館からけたたましいブザーが鳴る。バスケ部の練習だろうか。学校の最奥にある渡り廊下からはトランペットの、地味に調子を外した音がふわんと熱気に溶けていく。
 そんな賑やかな矢菱高校の校門には、似つかわしくないあの影があった。腕だけを伸ばして、手首をこちらに向けている。
「サトルくん」
 呼ぶと彼はすぐさま影を遮ってくれる。こなれた感じで来られると、昨日は意識してなかったものが熱とともに浮き上がってくる。
「なぁ、真彩」
 校門を越えるちょうど、サトルが静かに言った。
「せっかく早く終わったんだし、どっか寄ってかない?」
「え?」
 その意外な誘いのおかげか、影に引っ張られることはなかった。
「どっかって……?」
「んー、そう言われるとちょっと困るんだけど」
 考えなしに発言したらしい。サトルらしいといえばそうなのだが、なんとなく熱が傾いていたのにすぐ冷めてしまう。
「……公園行く?」
 その提案が頼りなく小さい。
「この炎天下に公園? バカなの?」
「うっ……えー、じゃあ……どこがいいかな」
 必死に考えるが、のどかなこの町では寄り道できる場所は限られている。
 真彩はふと、昼間のことを思い出した。
「……海、とか?」
「あ! 海! 行きたい!」
 人懐っこい彼の顔がくしゃりと音をたてるように笑う。それを見ると恥ずかしくなり、真彩は前髪を触ってうつむいた。


 私鉄矢菱町駅までは少し遠回りだが、方向は同じなので有意義な寄り道だろう。
 歩道のない道をゆっくり進む。だんだん堤防が見えてきて、潮騒が耳に流れてくる。この時間、平べったい町の上にある太陽はなかなか傾かない。この場所だけ時間の流れが遅いのかと、そんな錯覚をしてしまいそう。海を区切ったような防波堤には、釣り竿を持つ人がぽつんと立っているだけ。のどかで静かで、潮のにおいがきつい。
「……海って、やっぱり臭いね」
 真彩はげんなりと言った。高く固い堤防の上を歩くサトルを見上げる。
「そうかな?」
 サトルは海を見渡しながら言った。微かな波の音が聴こえるほど車の通りは少ない。壁を越えなければ海を見ることはできないから、真彩は少し切なかった。
「真彩、あっちに階段があるよ。もうすぐ降りられる」
 ペタペタ走り、サトルが真正面を指差す。目を細めて見ると、あと数メートルは歩かなければ海を見ることができないようだ。真彩は肩を落とした。
 ――暑い。
 こんなことならお茶を買っておけば良かったと後悔する。
「早く! ほら、真彩!」
「うっさい。ちょっと休憩させてよ」
 熱を吸った壁にもたれる。直射日光はしのげても、暑さまでは遮ってくれない。頭がゆだってきそう。それでも太陽とサトルは容赦しない。
「車が来たら危ないだろ。ほら、急げ!」
 確かに、白線が引かれた道路である。車通りが少ないにしても、人が通るには危ない道。真彩はむくれ顔を向けて動いた。
「なんであんなに元気なの……」
 ぶつくさと文句を垂れ、サトルを追いかける。彼は一応、真彩がたどり着くまで待っていた。追いついたらすぐに駆け出す。
「真彩って、足は速いけどスタミナがないな」
 追いついたと思ったら憎まれ口を叩かれる。まったくそんなつもりはないのだろうが、このタイミングで言われたら嫌味にしか聞こえない。
「基本、歩いたり走ったりが嫌いだからね」
「ふーん。それで陸上部の勧誘を断ってるんだ?」
「いや……まぁ、それもだけど。別に、好きで足が速くなったわけじゃないから」
 好きで足が速くなったわけではない。いつの間にかそうなっていた。逃げなくてはいけないから。
 サトルは「ふうん」と不審に思う素振りがなく、また置いていってしまう。
「まーあーさー!」
 大きな声で呼ばれるが、これが誰にも聞かれなくて良かったと思う。
 真彩は額の汗を拭って進んだ。サトルはもう海岸へつながる階段に到着している。子犬のように好奇心旺盛で、真彩の到着を待っている。
 校門を抜けた時よりも重くなった足でサトルのところまで進む。堤防の切れ目が見えてきた。暗く陰っていた視界がようやく明るさを帯び、激しい明滅に思わず目をつぶる。
 ゆっくり開くと、そこには碧い水平線が現れた。陽の光がキラキラとまばゆい。強い光に驚いて、思わず階段を踏み外しかけた。
「あぶなっ!」
 すぐに透明の手が伸びてくる。真彩はその手を掴もうとはせず、錆びた手すりを握った。
 風でたゆたうサトルの手が行き場をなくして上へ逸れる。そのまま腕を回して海を指した。
「気をつけろよー」
「うん……」
 真彩は取り繕うように頷いて階段を駆け下りた。
 足跡のつかないサトルの後をたどりながら、おぼつかない足取りで砂を踏む。重くて不安定な浜に怯えているとサトルがこちらを気にしながら海を目指していた。
「そんな警戒しなくても大丈夫だって。てか、海に来たことないの?」
「ないよ」
「珍しいなぁ」
「そうでもないよ。多分」
 素っ気なく言えば彼は「ふうん」と、的はずれな返事をした。
 砂浜はわずかに盛り上がっていて、足場が不安定なくせに山だけはしっかりと形がある。砂粒一つ一つが吸いつき、疲れた足を早く動かさなくては前に進めなかった。日差しは強いのに潮風が冷たい。白砂を下ると、そこから先は濡れて固い砂と透明な波が現れる。
 サトルはすでに靴を脱ぎ散らし、靴下も取ってズボンの裾を折り曲げ、波に向かって駆け出した。
「よっしゃぁーっ!」
 その歓声があまりにも楽しげで、真彩は苦笑した。
 広くて遠い碧の景色は、実は肉眼できちんと見たことがない。潮のにおいも、風の音も、波の模様も、全部が初めてだ。こんなに近くで海を見たことはない。
 そして、海は透明なのだと知った。ずっと先は淡い青なのに、波打ち際は透き通っている。
「うわぁ……ははっ」
 これがサトルが好きな海。水に捕まらないよう、波を避けてみる。
 一方、サトルは波に向かって走り、海の中へ足をつけた。透明な彼が水に浸かれば、その境界が分からなくなる。
「うーん……なんか浸かってる感がない」
 近づいてみると、彼は不満そうに言った。
「やっぱり幽霊なんだなぁ……」
 寂しそうな声で言われたらなんと言葉をかけたらいいのか分からない。真彩は黙り込み、少しだけ波から離れた。
「真彩、せっかくだから足だけでも浸かればいいよ。暑いだろ」
「いやぁ……」
「遠慮すんなって。ほら、おいで」
 今度は手を差し出されたままだ。その手を取ることはなく、真彩は渋々、靴を脱いだ。靴下を脱げば指が息を吸う。熱した砂浜に足を置くと、ザラザラの砂がすぐにまとわりついた。波がくる。
「わ、つめたっ」
 空はカンカン照りで汗が止まらない気温なのに、海は別世界のように冷たかった。でも、荒々しくひりつくような冷たさじゃなく、柔らかで心地よい透き通った冷感だ。波が立ち、岸へ押し戻される。波が引き、もう一度水に浸かる。それを繰り返せば、すぐに慣れてきた。水の中にキラキラと金色の砂が瞬き、それが綺麗で呆けてしまう。スカートが濡れても気にしない。
 顔を上げるとサトルが水の中に仰向けで倒れた。碧色に染まった彼の体が水に溶けていく。本当に楽しそうで、その自由さがうらやましい。
「いいだろ、海」
 腰まで浸かって、得意満面に笑う。
「まぁ、悪くないね」
「素直じゃないなぁー」
「汗だらだらでヘトヘトのあとなら悪くない」
 見下ろして言ってやると、サトルは人差し指を突きつけた。
「顔!」
「え?」
「顔、笑ってる」
 言われるまで気づかなかった。確かに頰が軽い。水面に映すと、向こう側の真彩は自由だった。
「そんな風に笑う真彩の顔、初めて見たなあ」
「わたしも久しぶりに笑ったなあ」
 照れくさくて、ふざけた。すると、サトルは波に揺られながら言った。
「笑えよ、いつでも」
 水を蹴り、しぶきを飛ばして二人ははしゃいだ。真彩が「つかれた!」と砂浜に身を投げるまで、ずっと水に浸かっていた。冷えてふやけた体に熱い砂が妙に落ち着く。時間は波のように緩やかで、粘りつくような暑さはまったくなく、柔らかに心地いい。
「あー、楽しいー」
 サトルは屈託ない笑顔を太陽に向けた。
「やっぱ海は一人で来るもんじゃないなぁー」
 空を見上げる声がケラケラ笑う。口ぶりから、何度か一人で海に来ているようだった。
「海くらい、一人でも行けるんじゃないの?」
「いやいや。誰かと一緒に行くほうが楽しいに決まってんじゃん」
「ふうん……?」
 確かに楽しかった。子供のように声を上げてはしゃいだ。もう動きたくないくらいに疲れた。
 思い返せば羽目を外すことが今までになく、我を忘れて楽しんだことがない。
「とくに夏はさ、家族と行って、小学校上がってからは友達と行って、夏休みは家族ぐるみで遊びに行くだろ。中学上がってからは先輩に誘われてバーベキューしたり。あとは、デートとか? やっぱ一人で行くことはないよ」
 サトルは得意げに例を挙げた。そのどれもが自分とは無縁で落ち込む。
「はぁぁぁ……なんか幸せそーで眩しい……」
「真彩もさっきは楽しかっただろ? そんなに特別なことじゃないよ」
 簡単に言ってくれる。チカチカと光に目がくらみかけ、真彩は考えるのをやめた。
「まぁ、海来るの初めてって言うくらいだから、そういうのはこれからやってけばいいんじゃない?」
 これから――
 またも簡単に言ってくれるが、これからも状況は変わらないと思うし、今さらそんなことをする気力はない。暗い思考がもやもや渦巻く。
 それをはねのけるように、サトルが聞いてきた。
「そういや、なんで海を選んだんだよ?」
「サトルくんが海に行きたそうだったから」
「え? 俺のため!?」
 その反応が嬉しそうだったので、すぐに後悔した。なんだか背中が焦げる。耳も熱い。真彩は前髪をなでて顔を隠した。
「うるさい。今のナシ!」
「ナシは受け付けませーん!」
 腹がよじれるほど笑い、サトルは砂浜に仰向けで寝転んだ。両腕と両脚を突き上げて透かしたら光で見えなくなる。
「……あ。なぁ、真彩」
「ん?」
「今ふと思ったんだけど、俺、溺死じゃないわ」
 彼は暗さをおくびにも出さず言った。一瞬、なんの話だか分からなくなり、反応が遅れてしまう。
「……あぁー、その話ね」
 場違いな話題に気分が白けた。そんな真彩に構わず、サトルは自分なりに考えたことを自信たっぷりに言った。
「溺死だったら、水に近寄りたくないもんだろ? だから海は関係なし!」
「それ、今までに考えたことなかったの?」
「なかった。成仏しろって言われて初めて気づいた」
 能天気に笑うが、死んだ理由を探すにはまだ材料が足りない。むしろまったく前進しておらず、先行きが不安になる。これは長丁場を覚悟しなくてはいけない。
「本当に何も覚えてないわけ?」
「うん。気づいたらこうなってた」
「いつ頃かも分からないの?」
 彼は同い年だ。高校一年生。同級生が亡くなったとなれば、いくら不登校がちな真彩でも知らないわけがない。彼は同い年であっても、生きていた時間が違うのだろう。
 サトルは深く考え込んでいた。一向に言葉が出ないので、真彩が先に諦めた。
「じゃあ、成仏しろって言ってきたのは誰なの?」
「死神だよ。白いパーカー着た変なヤツ」
 死神――そう言えば、初めて会ったときも「死神」の存在をほのめかしていたが、それは一体なんなのだろう。人なのか、それとも人ならざるものか。サトルは言葉のあやとして使っているらしいが。
「中途半端に生きたフリをするなってさ。まったく、しつれーなヤツだよなぁ。真彩も気をつけろよ」
「うーん……死神ねぇ……幽霊とは無縁そうなんだけど」
「え? そう?」
「だって、死神って生きてる人の魂を奪っちゃう存在でしょ」
 言ってみるも、確証がないので声は自信をなくしていく。すると、サトルは感心げに納得した。
「確かにあいつ、生きてる人間だったし。真彩と同じで『視える人』じゃないかなぁ?」
 こちらも確信はないようで、自信なく苦笑いする。
 視える人なんてそうそういない。自分を棚に上げても現実味がない。真彩は曖昧に唸った。
 だんだんと陽が暮れはじめ、風も激しくなってくる。会話もそぞろになり、二人はゆるやかに息を吐いた。
「――真彩、帰ろう。送ってくよ」
「ううん。一人で帰るようなもんだし、別にいいよ」
 渇いた砂を落として、汚れた足のまま靴下を履く。
「そこは素直に甘えてくれよ」
「幽霊に甘えてもねぇ」
 冗談めかして言うと、サトルは困ったように笑い「それもそーだ」と立ち上がった。砂の心配をしなくていいのに、彼はズボンをはたいて目の前の海を見渡す。
「んじゃあ、帰るか」
 真彩も立ち上がり、カバンを拾い上げて砂を踏む。固い石段を上がると、足の感覚がおかしかった。海でふやけた足が驚いている。サンダルを履いた後に床板を触るような奇妙さだ。
 誰もいない道路に出ると、サトルは行きと同じく堤防の上にのぼり、真彩を見下ろした。
「今日はいろいろありがとう。また明日な」
「うん。また明日」
 透明な彼が夕陽色に染まっている。まるで、サトルの感情がそのまま現れているみたいできれいだ。
「気をつけて帰れよ」
 少し名残惜しそうに言う彼の気持ちを全部は理解できない。なんとなく、手を振る。足はもう駅の方角を進んでいた。彼も来た道を戻っていく。
 昨日まではわずらわしいと思っていたのに。波にさらわれたのか、わだかまった何かが今はなく、真彩は思わず喉の奥で笑った。
 渇いた地面を叩くように歩き、機嫌よく前を向く。道路はもうすぐT字路にぶつかり、右に曲がる。信号は赤。右折車がゆっくりと前を進んでいく。
 すると、信号の向かい側に白いパーカーのフードをかぶった少年が現れた。顔は見えない。小柄だが、真彩よりは身長がある。高校の制服のようなスラックス。制服の上からパーカーを着ているのも非常識だが、フードを目深にかぶっていることが奇妙で仕方ない。
 真彩は何食わぬ顔で信号を待った。車は走っていないが、足は青にならなければ絶対に動かない。
 赤から青へ変わる瞬間、信号機が音楽を鳴らす。曲が終わる前には渡りきれる。はずだったが、すれ違った瞬間にパーカー男が真彩の腕を握った。
「――一ノ瀬真彩ちゃん、だっけ」
 かすれたハイトーンの声が耳に入り込む。白線の上で真彩は固まった。
「ちょっとだけ、時間もらえないかな? いやなに、君が親しくしてる幽霊について話があるんだ」
 涼やかな口調には有無を言わさない空気がある。何より「幽霊」という言葉が引っかかり、真彩はおそるおそる顔を上げた。フードの中で陰った目が光っている。
 不吉。そんな言葉が似合う、胡散臭い人だった。
「離して」
「先輩にタメ口とは、ますますふてぶてしいね」
 ――先輩?
 真彩は彼の全身を見たが、「先輩」だと言えるものは見当たらない。分かりようがない。それに道路の真ん中で止められれば焦りを覚える。ほどなくして信号が点滅し、曲がぶつ切りに音を消した。車のない殺風景な道路なのに、血の巡りが早くて落ち着かない。
「いいから、離してよ」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「分かったから。だから、早く渡らせて」
 早口に言って、目をつぶる。すると、いつの間にか道路を渡りきっていた。歩道の上で、男は真彩の腕を掴んだまま。
「手荒にしちゃってすまないね。でも、こうしてくれないと話を聞いてもらえなさそうだったし、君はなんだか人間に興味がないようだから」
 真彩は不審を浮かべて男を睨んだ。失礼な人間には相応の態度でもいいはずだ。真彩は不機嫌いっぱいに声を低めた。
「あなた、誰?」
「誰でもないさ。これまではね」
「そういう自己紹介はフェアじゃない」
 名前が知られている以上、はぐらかされるのは気分が悪い。
「じゃあ、カナト先輩って呼ぶといいよ」
 パーカー男は肩をすくめて笑った。
「ともかく、まずは順序よく話を進めていこう。こうして僕が君に干渉するのも、いくつか理由があるわけでね。ひとまず、お茶でも飲みながらどうかな」
 そう言って彼が指したのは、目の前にあるファミリーレストラン。あまり安心はできないが、人の目があるならまだマシか。
 黙り込めば肯定にとられたのか、カナトと名乗る男は真彩の腕を引っ張った。

 ***

 四人がけの席に通されてすぐ、メニューを見る前にアイスコーヒーとチョコレートパフェを注文され、真彩は口を開くのも億劫なくらい気分が悪かった。勝手に行動を制限されるのは苦手だ。それに目の前の男――カナトの振る舞いは非常識だと思う。
 カナトはフードをかぶったままだった。陰った目を笑わせている。
「……あなた、もしかして死神?」
 向こうが口を開く前に、真彩は先に結論を急いだ。カナトの口が不満そうに下がっる。
「別に、あなたが本当の死神だなんて言ってるわけじゃないけど」
「いや、僕は君のことならなんでも知ってるからね、分かってるんだよ」
 サラサラと変質的な発言をするカナトに、真彩は呆れて何も言えなくなった。それをいいことに、カナトの口が調子づく。
「君は幽霊が視える。だからあの子とつるんでる。死んだ理由を探すかわりに、あの校門の影から守ってもらっている。違うかな?」
「あの子」とは、サトルのことだろう。言い当てられれば強気に出られず、真彩は気まずく水を飲んだ。この様子を、カナトは楽しげに見ている。
「そもそも、僕は君に会う前からあの子に警告していたんだよ。幽霊っていうのは消費期限があるからね、早いとこ成仏しないとダメなんだ」
「消費期限って何よ」
 変な言い方をするので、思わずふき出しそうになる。真彩は口をおさえて、顔をしかめたままにした。
「そのまんまだよ。幽霊は現世にとどまる期間が決まっている。しかし、ほとんどの場合はその期限までに自我を保っていられなくなるんだ。姿形、思念なんかもね。負の感情が溜まりに溜まって、どんどん蓄積されて濃厚に濃密に、刻々と魔に近づいてしまう。すると、どうなると思う?」
 一息に言い、彼は水を一口飲んだ。ごくりとゆっくり喉を鳴らして。それは、真彩に考える時間を与えているようだったが、脳内では十分に処理ができず、言葉の意味を考えるだけしか有効ではない。
 その時、「お待たせしましたー」と、はつらつな女性店員がアイスコーヒーを二つ持ってきた。一つをカナトに。もう一つを真彩に。
「失礼いたしましたー」
 こちらの憂さをまったく感知しない店員の明るい声がミスマッチだ。
 真彩は逃げるようにアイスコーヒーに手を伸ばした。水滴がじっとりと手にまとわりつく。慌ててストローで吸い上げると、その苦さに驚いた。
「慌てなくていいのに。シュガースティックかシロップ、どっちがいい?」
 真彩は差し出されたシロップをもぎ取った。フィルムを剥がして、乱暴にコーヒーの中へ流す。
 カナトはミルクを流し、ストローで混ぜ合わせていた。もやもやとした濁色の茶色がなんとなく泥水に見えてくる。
「さて、なんの話だったっけ……あぁ、そうだ。幽霊の末路だ。真彩ちゃん、少しは見当がついたかな?」
 甘さに舌が馴染んできた頃合いにカナトが聞く。真彩はごくんと飲み込み、眉間にシワを寄せた。考えても分からないものは分からない。黙って首をかしげると、カナトが思い切りふき出した。
「ぶっ! あっはははは! おいおい、頼むよ。君、仮にも霊感があるんだろう? ここまで言ってもまだ分からないのか?」
「そこまで霊感に頼って生きてないので」
「あぁ、そうか。毎日、死んだように生きてるからねぇ。自分にも幽霊にも関心がないんじゃ、元も子もないね。ふふっ、くくくっ」
 笑いをこらえきれていない。こうも笑われちゃ怒る気も失せてしまう。そもそも感情を動かすのは苦手だ。今日一日、散々振り回されて疲れている。真彩は気だるげにストローをくわえた。
 するとまた女性店員が颯爽と現れ、大きなグラスに入った甘味をテーブルの真中に置いた。
「お待たせしました。チョコレートパフェです」
「ありがとうございます。さぁ、どうぞ、真彩ちゃん。僕のおごりだ。強引に誘った以上、それくらいはするよ。なんなら夕飯も食べていけばいい」
 大盤振る舞いなカナトだが、彼のどこにそんな資金があるのか分からない。だが、これで少しは視界が隔てられるだろう。不快な男の話も甘味で軽減してやる。
 チョコレートパフェはてっぺんの生クリームに、濃厚そうなチョコレートシロップがかけられている。真彩は白くてふわふわなクリームをつついた。
「おいおい、真彩ちゃんよ」
「え、何?」
「……君はパフェの食べ方を知らないのか」
 カナトが初めて不審な声を上げた。視線を上げる。
「食べ方?」
 パフェを食べるのに順序があるのだろうか。思えば、こんなに大きなパフェを一人で食べるのも初めてだ。クリームだけを食べるのはマナー違反なのかもしれない。
「まずは、ここに突き刺さったウエハースでクリームをすくって食べるんだよ」
「そうなの?」
「あぁ、そのほうが美味い」
 信用はないが、自分にも自信がないので、真彩は周囲を見渡しながらウエハースをつまんだ。意外にも重い。突き刺さったウエハースは下の層にあるチョコレートアイスにまで及んでいた。アイスと生クリームが混ざる。山のてっぺんにある生クリームとチョコレートシロップをすくった。
「そのままかじるんだよ」
「それくらい分かる」
 余計な横槍が面倒だが、うるさく追い払うとカナトは大人しくコーヒーを飲んでいた。その隙にウエハースを一口かじる。敏感な冷たさと、そのあとにくるまったりと柔らかい甘みがサクサクのウエハースと混ざる。確かに美味しい。
「このサクサクと甘々が相乗効果をもたらすんだよねぇ。一口目はやっぱりそうじゃないと」
 カナトは満足そうにうなずいた。おそらく、カナトの言うパフェの食べ方とは彼独自のものに違いない。
「次はバナナとチョコアイス、そして生クリームだね。これをうまいこと一緒に食べるのがいい」
「はいはい」
 パフェの一口目だけでなく、二口目まで指摘が入るとは思わない。真彩は残ったウエハースで生クリームをすくって口の中に押し込んだ。
 なんだか論点をずらされている気がする。
「……それで、幽霊の末路はなんなの」
 話を戻さなければ、食べ終わるまでパフェの食べ方指南が続きそうだ。
 カナトは思い出したように口を開けた。
「そうそう。幽霊の話だったね。あの子が怪物になるかもしれないってときに、のんきにパフェの食べ方なんて」
「え? ちょっと待って」
 口が先走る。ウエハースが喉に引っかかりそうになったが、こらえて飲み込んだ。
「なんて言った?」
 落ち着こうと、あえてゆっくりと舌を動かす。対して、カナトは嫌味たらしく鼻で笑った。
「幽霊の末路は怪物だよ。実際、肉体を失った魂ってのは器をなくした水のように危うい。つまり、成仏できない時点で、自分の死に納得していないんだから負の感情は溜まりやすいわけだ。悔やんで責めて、不満や不安が溜まっていく。後悔の怪物になってしまうんだよ」
 彼はパフェの脇から顔を出し、グラスの下層を指した。
「ちょうど、このパフェみたいにね。一番下のチョコソースくらいの小さな負があったとしよう。その上から順々に上へ上へと積み重なる。で、消費しきれなくなってこぼれてしまうわけだ。塵も積もれば山となるって言うだろう。幽霊にはこの器がない。すると、どうなる?」
「それって……」
 真彩は校門にある黒い影を思い出した。それを見透かして、カナトが頷く。
「うん。あれは確かに後悔の怪物だ。消費できずに、ただただ自分の死に納得していない後悔の塊。あれはまだ成長段階だから、じきに大きくなるよ」
 そう言い、彼は顔を引っ込めた。コーヒーを吸い上げる。グラスの中はそろそろ空になりそうだ。
「食べないの? アイスが溶けるからさっさと食べたほうがいい」
「いらない」
 真彩はスプーンをカナトに突きつけた。
「せっかくタダで食べられるのに? もったいない」
「そんな話聞かされて、食べられるわけないじゃない」
 気が逸っていく。実感はないが、血の気が引いている。
 幽霊の末路が後悔の怪物だなんて――
「へぇぇ? 随分とご執心みたいだねぇ。たった数日、話をしただけでそこまで肩入れできるんだ?」
「……あのさ、このパフェ、ひっくり返してもいいんだけど。それだけはしたくないの。分かるでしょ」
 バカにした嘲笑が鬱陶しい。感情が先走りそうで怖くなる。頭の中はなんだか真っ赤で、感情がかき乱される。
 こんなことなら、海に行かなければよかった。こんな感情を知ることも、自分がこんなにも怒りっぽいことにも気がつかなかっただろう。
「うーん……せっかくのパフェが台無しになるのは放っておけないな」
「そんなに大事なこと?」
「そりゃあ、僕のお金で買っているものだからね。それに、このパフェ一つはこの店の店員がきちんと丁寧に作ったものだ。それを無下にしてしまうのは人として良くない」
 これだけ煽っておきながら、人としてなどと説くとは思いもしない。
 真彩はゆっくりとスプーンを降ろした。消化できない怒りは向けたままにする。
「……このこと、サトルくんに言ってないの?」
「そりゃあね。聞かれても僕は答えないさ。だって、残酷だろう? 成仏出来なかったら君は怪物になるんだよって。そんな現実を突きつけるのは、かわいそうだ」
 サラリと薄情に言われ、真彩は目を開いた。ソファにもたれ、投げやりにパフェを見やれば、かじっただけの生クリームがチョコレートと溶け合っていく様子がゆっくり動いていた。
「……それ、本当なのね?」
「あぁ、もちろん」
 慎重に聞いても手軽く返される。一切の迷いがなく、曇りもなく明白に言い切ってくれる。
「君って本当に警戒心がないんだね。素直で傷つきやすい。僕的にはあまり好きじゃないけれど、かわいそうな子には味方したいし……さて、どうしようかな」
「かわいそう? わたしが?」
「君もだし、あの子もだよ。かわいそうで不運だね」
 カナトもソファにもたれた。なんだか投げやりに言うが、軽快な口調は変わらない。
 一体、彼はどこまでを知っているのだろう。何を知っているのだろう。
「……あなたって、何者なの?」
 結局、流されるまま流され、ここまで辿り着いてようやく気がついたくらいには起承転結がバラバラだ。真彩はじっと目を細めて答えを待った。
 彼は口角を上げ、自信に満ち溢れた表情をつくる。
「正義の味方。つまり、悪を憎むもの。悪霊を専門にした祓い屋だ」
 能弁な口は恥を知らないらしい。
 真彩と別れた後、サトルは堤防の上をひたすらに歩き続けた。夕焼けから背を向けて、ペタペタと固いコンクリートを歩いていく。
 このままバランスを崩せば、赤いあの海の中へ沈んでいけるだろう。透き通った潮風と水。塩辛い水を飲み干した夏。肌を焼く陽の光が目に焼き付いている。網膜から剥がれない記憶が蘇ってきそうで、その膨大な幸福が懐かしい。
「……はぁー」
 堤防の中腹。もう少し行けば矢菱高校の校舎が見えてくる。とぷんと濃い夜に染まっていて、その暗さが寂しく思えた。
「死んだ理由かー……なんでそんなものがいるんだよ」
 面倒なシステムだ。いちいち理由をつけなくては、好きに生きることも終えることもできないなんて。
 ただ、こんなに寂しくなるくらいなら、楽しさなんて思い出さないほうが良かった。真彩の顔が見たくなる。海に目を輝かせる彼女が頭から離れない。
「――お、一番星」
 沈む太陽と、濃い夜の間に瞬く光を見つける。一際大きく強い光は金星だろう。幼い頃、父からそう教わったのを思い出す。あの頃は夏が無限に続けばいいのにと惜しんでいたのに、十六歳の夏で止まったまま。これからもずっと九月はこないんだろう。
 両親は元気だろうか。友達は今、何をしているだろうか。幸せにやってるだろうか。
 サトルは大きく息を吸った。ついでに口角を持ち上げる。止まっていた足を伸ばし、地面を踏むと輪郭がぼやけた。
「……あーあ」
 後悔したら負けだ。今まで気にしなかったくせに、今日はやけに気持ちが沈んでいく。
「――真彩のやつ、ちゃんと家に帰ったかなぁ」
 ふいに飛び出した独り言がおかしくて笑いたくなる。誰にも聞かれていなくて良かった。
 透明な手のひらを空にかざせば暗い色に染まりそう。夜は寂しい。ぼうっと見つめていると、半透明の指先がわずかに濁った。
 八月六日は、昨日の青さとは対称にどんよりと重たい曇り空が広がっていた。
 矢菱町駅に今朝はサトルの出迎えがなく、改札はなんだか殺伐とした風が流れている。真彩はざわめく人混みの中にぽつんと一人だけ取り残される気分だった。黙々と考える時間が増えてしまい、その中でカナトの言葉がよみがえってくる。
 ――だって、残酷だろう? 成仏出来なかったら君は怪物になるんだよって。
 幽霊の末路が後悔の怪物だなんて。あの黒い影が幽霊だったなんて。
 負の感情が溜まりに溜まり、濁っていく。透明が黒へと染まる。そうして自分が何者かでさえも分からなくなり怪物と成り果てる。そんなものだったなんて。にわかには信じられない。
 サトルのあの底抜けな笑顔に、この事実を告げるのは確かに残酷だと思う。だが、知っていれば未然に防ぐこともできるんじゃないか。知らないままのほうが良くないのでは。でも、そのことをどうやって伝えたらいい――
 真彩は頬をつねった。力は入れずにもっちりと伸ばす。考えがまとまらない。悩みが膨れるごとに頬をつねる回数が増えていく。そうしてトボトボと寂しく小路を抜けると、半透明の体にぶつかりかけた。
「うわぁ! びっくりしたぁ!」
 声が驚き、大きくのけぞる。鼻先に冷たい風が当たり、真彩も思わず目を見開く。サトルだった。
「お、おはよう」
 頬をつねった手のままで言うと、彼も「おはよう」とぎこちなく返す。
「あはは。何その顔」
 冷やかしたっぷりな指摘に真彩は開いたまぶたを落とした。引っ張っていた頬を離し、後ろ手を組む。
「元気だね……」
 こちらの悩みなど、まったく感じ取っていないサトルに皮肉っぽく返す。しかし、それすらも彼には通じていないようだった。
「ん? なんか言った?」
「なんでもない」
 うんざりと言い、真彩はしぼんだ群青の朝顔を見やりながら校門を目指した。
 すると、あの影がこちらを向く。真彩に気がついたように。ぞくりと背筋が凍るような黒い影。今や足も飛び出していて、気味の悪さが増していた。これも誰かの影であり、後悔の怪物だ。こんなものになってしまうのだろうか、サトルも。それは絶対に嫌だ。
「うわぁ……」
 横でサトルが嫌そうに顔をしかめた。
「こいつ、なんでこんなキモい生え方なんだろうな」
 聞かれても分かるはずがない。幽霊は漂流しているものだが、影はこんな風にどこかしらにへばりついているのかもしれない。駅前に浮遊する幽霊や、電柱にくっついていた幽霊も放っておけばいずれは黒い影となり、後悔の怪物になってしまう。
 校門の影は誰かが埋めて置き去りにした寂しさを感じた。そして、近づけば近づくほど不安や恐怖が煽られる。怖い。吸い込まれそうになる。もう二度と戻ってこられない――
「なぁ、真彩」
 呼びかけられ、真彩はハッと我に返った。
「何?」
「いや、この黒い影ってさ、他の場所でも視るのか?」
 彼の顔は少し暗い。心配の色が見え、真彩は慌てて頭を振った。
「ううん。影はここだけ」
「幽霊は?」
「……幽霊は、よく視るよ」
 サトルは怪訝な顔をしていた。詰問気味な言い方に違和感を覚える。
「線路に、たまにいるんだよね」
 思い当たるものをとつとつと話した。
「あと、電柱とか。道路にも。いるよ、いっぱい。どこにでも」
 サトルは真顔で聞いていた。そんな彼に、真彩も真剣な目を向ける。
「ああいうのはあちこちにいるし、とくに天気が悪い日は視えやすいから避けるのに精一杯」
 サトルの目がだんだん遠くなっていく。彼は肩を落としてため息を吐いた。
「マジかぁ……やっぱりつらいだろ、それ。ほんと、どうにかならねーの?」
 真彩は咄嗟に鼻の奥が痛んだ。つんと張り詰める。それをこらえるようにすぐ口を開いた。
「ならないねぇ……でも、」
 やっぱり言葉を切る。もごもごと舌を丸めながら、うつむいた。
「でも、つらいだろって言ってくれたのはサトルくんだけだよ」
 今までそう言ってくれたのは、サトルただ一人だ。彼が幽霊だからということもあり、話しやすくなったのは明らかで、真彩は気恥ずかしく熱が上がりそうだった。一方、サトルは不審な声を浮かべる。
「え、そうなの? それもどうなんだよ……ってか、真彩の家ってあんまりいいイメージがないんだけど、大丈夫なのか?」
「……うーん」
 言いたくない。イメージが悪いのは間違いないが、明るく幸せそうな彼に事情を話すのは気が引けた。こちらの不幸をあえて伝える必要はない。心配されているのが分かっているからなおさらだ。
 真彩は顔を上げ、校門へ足を踏み出した。サトルが影を遮って横に並ぶ。その時、黒い腕が風に煽られて大きく伸び上がった。
「えっ!?」
「うわっ、なんだ!?」
 二人同時に声を上げる。黒い影はただ煽られただけなのか、こちらへの攻撃はない。ザワザワと砂嵐のごとく音を立てていた。すぐに校門から離れる。
「なんだったんだ、あれ」
「さぁ……でも、すごく怖かった……」
 答えると、手が震えていることに気がついた。冬の寒空に放り出されたかのように、体の奥がきしんでいる。
「真彩、」
 サトルは言いかけてやめた。自分の手を見つめ、顔をしかめる。そして、影を睨みつけた。
「俺がなんとかしてやれたらいいのに……」
 そのつぶやきが暗さを帯びている。真彩は彼の足元を見た。黒いアスファルトに溶けている足。それがなんだか黒く濁っている気がする。彼の眉間にも黒いものがざわめいており、真彩は目を見張った。
「サトルくん、大丈夫だよ。行こう」
「え? あ、あぁ。うん……行こうか」
 黒い靄がパッと散る。元の半透明な色を取り戻したサトルに、少し安心する。
 ――時間がない。
 すぐに感じた。彼の中にも影が潜んでいる。


 昇降口に入ると、すぐに白いパーカーが目に留まった。
「やぁ。おはよ、真彩ちゃん」
 自称祓い屋のカナトが片手を振って出迎える。彼の上履きを見れば、確かに一学年上のカラーである青いラインが入っており、ようやく先輩なのだと認識する。しかし、怪しいことには変わりない。
「うわーっ、死神じゃん! 真彩、こいつだよ、死神!」
 サトルが大げさに指をさした。こっちの事情を知らないので騒ぐのは仕方ないが、今は黙っていてほしい。話がこじれそうだ。真彩は素早く言った。
「うん、知ってる」
「え? 真彩、こいつのこと知ってたの? 霊感だけじゃなくエスパーも持ってるのか?」
「いいからちょっと黙っててよ」
「えぇ? ハイ……」
 強く言い過ぎたかも。真彩は反省しつつ、カナトに目をやった。
 彼はスラックスのポケットに手を入れ、フードから冷めた目を覗かせる。口は軽薄さを残したまま。
「あれ、おかしいな? 仲がいいと思ってたんだけど、そうじゃないみたい?」
 カナトはわざとらしく首を傾げた。
「なんの用ですか、カナト先輩」
「おぉ、なんだか敵意をビシバシ感じる言い方をするじゃないか。助言をしてあげようと、わざわざ朝から待ってるのに」
「助言?」
「そう。君たちが危ないことをしないように、祓い屋の僕が手伝ってあげようとしているんだ」
 カナトは上履きをペラペラ鳴らして後ろに下がった。
「はぁ……?」
 昨日も聞いたが、祓い屋とは具体的に何をするのか。イメージするのは奇っ怪な霊能者だが、彼もそれに通じるものがある。怪しい御札を持ち歩いてそうだ。
「お前、死神じゃなかったのか」
 サトルが横で驚くが、問うべきはそこじゃない。
「だから死神じゃないって言ってるだろう。まったく、君たちは僕をなんだと思っているんだ」
「不審者でしょ」
 即答を投げ込むと、サトルも大きくうなずく。カナトは悲しげに口を曲げた。
「僕はいつも誰に対しても誠実に対応しているのに……」
「いつもが分からないからなんとも言えないんですけど」
 ぶっきらぼうに言い放つ。カナトは肩をすくめて諦めた。
「……あのさ、話が見えないんだけど。この怪しさ満点の死神が手伝ってくれるって何、どういうこと?」
 サトルがおずおずと間に入ってくる。その質問にはカナトが素早く反応した。
「どういうことも何も、僕は昨日、彼女に会いに行ったんだよ。君がのろまだから僕が介入しないといけない気がしてね、満を持して表に出てきたんだ」
「怪しいお前に言われてもなぁ……今んとこ、俺も真彩もお前への信用ゼロだぜ? なぁ、真彩」
「うん」
「怪しいのはこの場にいる全員だよ」
 カナトが鼻から嘲笑を飛ばす。二人の不信感をもろともしない。
「怪しいもの同士、仲良くしようよ。成仏できない幽霊に、死にそうな霊感少女、おまけに頼れる祓い屋の先輩だ。不足はないだろう?」
 これにはサトルも丸い目を困らせた。
「……真彩、こいつ絶対やばいって。関わらないほうがいいよ」
「えぇ? うーん……まぁ、そうなんだけど」
 どうしたらいい。断るための言葉をひねり出そうとするが、全然浮かんでこない。真彩も、カナトから手伝ってもらうことには気が進まなかった。でも、この自称祓い屋がいればサトルの影を止められるかもしれない。霊感はあっても自分が力不足なことは十分に分かっている。
「あれ? 真彩? どうした?」
 むくれ顔を見るなり、サトルが驚いた。黙っておく。考えがまとまらないから何とも言えない。
「ほら見ろ。お前が嫌すぎて真彩がムカついてるぞ」
「えぇ? 僕のせいか? むしろ、真彩ちゃんを困らせてるのは君だろう」
 放っておくと口論が始まった。
「死んだ理由を探してくれなんて、普通、生者に頼まないし、非常識だよ」
「非常識なのはお前だろ」
「いいや、君のほうだ」
「お前が断然怪しい!」
「はー……まったく、これだから幽霊は」
 カナトも面倒になってきたのか、声の端々に棘を含ませた。両手を伸ばし、サトルの頭をがっしり掴む。
「君たち幽霊は自覚がないから救いようがない。いい加減に成仏しろ」
「それができねぇって言ってんだろ! つーか、お前、なんで俺のこと触れるんだよ」
「僕は干渉できる体質なんだ」
「え、どういうこと?」
 思わず口を挟んだ。カナトはサトルの頭を掴んだまま止まる。
「幽霊に触れるの?」
「触れるし、祓えるよ。僕にはそういう力があるんだ」
 カナトは当然のように言った。そのついでにサトルの髪をくしゃくしゃにする。
「ご覧の通りだ。真彩ちゃん、僕が加わることで効率が良くなるっていうのは明白だろう? 何を迷うっていうんだよ」
「お前が入ることでめちゃくちゃになりそうなのを危惧してるってことだろ」
 すかさずサトルがつっこむが、その通りである。だが、カナトの言っていることも間違いではない。
 ――そうだ。
 真彩は目を細めて二人を見やった。
「……一つ条件があります」
「いやいやいや、真彩、こんなの仲間にしちゃダメだって。面倒なだけだって。いちいち条件付けて相手にするのはやめたほうがいいって」
「ちょっと黙ってくれない?」
 話が進まない。サトルの余計な茶々をピシャリと鎮め、真彩は息を吸った。
「まずは、祓い屋っていう証拠を見せてください。話はそれからです」
 挑戦的に言う。すると、サトルが先に口を開いた。が、言葉にならずにパクパクするだけ。
 一方、カナトはしたり顔で口の端を伸ばして笑った。
「なるほど。要は何か祓えってことか。確かに見た方が話は早いね」
 物分かりはいいらしい。こちらの意図も読むようにカナトは自信たっぷりに言った。
「OK。それじゃあ見せてやろう。僕の力をとくとご覧あれ!」
 そして、サトルを見る。大仰に手を振り上げ、サトルの心臓部に手をかざす。
「手始めに、この幽霊を払えばいいのかな」
「ダメに決まってるでしょ! 何ふざけてんですか!」
 真彩は慌ててカナトの手を叩いた。サトルがすぐに後ずさって逃げ、情けなく真彩の背後に隠れる。
「あはは、冗談だよ、冗談」
「冗談に聞こえねーよ!」
 サトルの主張は正しい。真彩もカナトをじっと睨み、サトルを守るように両手を広げる。カナトはそれを笑い飛ばす。しかし、みるみるうちに口角が下がり、彼は一歩ずつ後ずさった。
「……先輩?」
 怪訝に聞くと、カナトは真っ直ぐに前を指差した。それを真彩とサトルは揃ってたどる。
 視界の先にいたのは、顔をしかめた岩蕗先生。
「一ノ瀬さん、何をしているの?」
 何をしているか、なんて聞かれてすぐに気の利いた言葉は返せない。
「さて。面倒なことになる前に、僕は一旦退場するよ。あの人のことは大好きなんだけど、会えばお説教ばっかりだからさ。それじゃ、うまくごまかしといてね」
 カナトは真彩の脇をすり抜けて、階段を駆け下りていった。
「……真彩。あいつ、ぶん殴ってきていい?」
 サトルはカナトが消えた場所を不機嫌に見ていた。ふと、彼の指先を見る。透明の指が鈍く濁っている。暗い色に。
「サトルくん! 悪い気持ちに引っ張られちゃダメ!」
 思わず言うと、近くに来ていた岩蕗先生の足が止まった。恐ろしいものを見るような目をこちらに向けている。先生の視線が怖い。真彩はサトルの指先だけを見つめていた。
 一方、サトルは面食らったのか、丸い目を丸くさせて真彩と先生を交互に見る。
「……一ノ瀬さん、あなた、大丈夫?」
 サトルの手よりも先に、先生が彼女の肩に手を置いた。ふっくらと温もりのある手だった。思ったよりも優しくて、同時に血の気が引くような寒気が走る。
「なんでも、ないです。大丈夫です。心配、しないでください」
 真彩は視線を落としたまま、ボソボソとごまかしの言葉を返した。あまりにも下手で気休めにもならない。
 嘘つき。おかしな子。怖い。不気味。
 周囲が遠巻きに見るから、自分から離れることにした。それがいいことだとは思ってないが、悪いことでもないだろう。
 他人に合わせていたら傷つくから。そして、心配されたくないから、わざと怖がらせてみたり困らせたりする。不幸は慣れている。はずなのに。
 サトルの指先みたいに、体の中が鈍く濁っていくような気がした。気持ちが悪い。思い出すと頭が痛くなる。
「何があったか、なんて聞かないわ。言いたくないなら言わなくていいんだから」
 授業が始まる前に、岩蕗先生は静かに優しく突き放した。
「すいません」
「……まぁ、でも、廊下で騒ぐのは良くないわね。それに、深影(みかげ)くんに何か嫌なことでも言われたんでしょう? 怒るのは仕方ないわ」
「深影?」
 思わず顔を上げると、先生はうんざりといった表情を見せた。
「そう。二年の深影銀人くん。あの子、授業に出ないしあなたと同じくサボり常習犯なんだけれど、テストだけは受けにくるのよね……で、満点をとっていくの」
 先生は遠い目をして言った。どうやらカナトは教師の間でも問題児扱いされているらしい。
「少しは落ち着いてくれたかしら。授業を始めたいのだけれど」
 先生の言葉はせっかちだ。しかし、不自然な行動をとった直後に、大人しく授業を受けられるわけがない。真彩は甘えるように首を横に振った。
「……困ったわね」
 先生は教壇から降り、真彩の前席に座った。不必要にびくついて顔を落とせば、先生の細い指だけが視界に入る。
 いつものように飄々としていればいい。むしろ困らせる勢いで、全然落ち込んでない風を装えばいい。どうしてそれができないのか自分でもよく分からない。真彩は息を止めて言った。
「――先生は、不幸だと思うこと、ある?」
「不幸?」
 すぐさまきつく返される。
「……そうね。不幸と言うよりも、基本的に幸福ではないわね」
 真彩はしかめっ面を持ち上げた。先生の顔も変わらず真顔で、感情の起伏がない。
「私は変な子だったのよ。マイペースで生意気で、自分の世界に浸りがち。そのくせ私のことを分かってくれる人は世界に誰一人としていない――なんて、考えてたら孤独を感じて勝手に不幸になっていたの」
 まるで自分の心を見透かすような話で、まぶたの裏側が熱くなった。目が潤んでしまい、慌ててうつむく。すると、先生が冷やかすように小さく笑った。
「それは今も癖になっていて、でも考えることもバカらしくなってきて、自分のやることを見つけたらこうなった。結果、私は幸せじゃないし、不幸でもないわ」
「そうなんだ……」
「人間って幸せになっても満たされないんだと思う。欲が果てしないから。でもね、それを調整することができる」
 先生は組んだ指を解いた。人差し指で弾くように叩く。
「不安やつらいことは避けられない。それなら、自分の中にある幸福のレベルを設定するの。最上の幸せから何段階かに分けて、自分を客観視してみる。そうすると今、自分がどの位置にいるのか冷静に分析できるわ」
「う……ん? うーん……よく分からない……」
 先生の話が難しくなっていき、真彩は考えるのに必死だった。いつのまにか涙は引っ込んでいる。
「まぁ、分からないでしょうね。これは自分でたどり着かないと実感できないんだから。いくら他人にあれこれ言われても、納得なんてできないのよ」
 先生はほどよく冷たい。優しいものも怖いから、これくらいがちょうどいい。
 不思議だ。両親にでさえ疎まれているのに、遠い存在のはずの先生に親近感を覚える。サトルとはまた違う信頼だ。
 真彩は背後のロッカーに座るサトルを意識した。彼はこちらに遠慮しているらしく、ずっと大人しい。何を考えているのか分からない。
「あなたが何に悩んでいるかは分からないわ」
 先生の声が続く。ハッとなり、重たいまぶたを開いた。対して先生は淡々と、真っ直ぐに見ていた。
「あなたが見ているものがなんなのかも分からない。でも、力になりたいとは思ってるのよ、私は」
「そんなの……」
「でなきゃ、あなたと毎日毎日顔を付き合わせるわけないじゃない。私だって夏休みにはやることが多いのよ。部活もコーチに任せっきりだし。あなたが陸上部に入ってくれるなら話は別なのに」
「急に勧誘するのやめてください」
 油断も隙もない。しかし、先生の目は真剣で、冗談を言っている節はまったくなかった。
「ま、ゆっくりでいいわ。でも、溜め込むとそれこそ不幸の思うツボだから、悩むのもほどほどにしなさいね。私はあなたの味方だから、愚痴や身の上話のはけ口にしていい。情けなくてできないなら、こっそり手紙にしてもいい。ここまできたらとことん付き合うわよ」
 言動は冷たいが、その熱量は分厚い。真彩は言いよどみ、机を見た。先生は歩み寄ろうとしている。それは最初から感じていたが、改めて真面目に向き合うとむずがゆくて調子が悪い。
「わたしが見ているのは……視えてるのは……」
 説明が難しい。先生なら分かってくれると信じても、植えつけられた不安はそう簡単に消えてくれない。
「影のお化け?」
 先に言われるとは思わない。確認するように言われ、真彩は苦笑で歪んだ口をぱっくり開けた。
「影のお化けっていうか……ニュアンスで言えばそうなんですけど。なんていうか」
 どう説明をしたらいいのだろう。後悔の怪物と幽霊なんて。
 その時、最初の授業で話したことを思い出した。
「先生って……」
 思わず口にしてしまう。
「先生って、怪談とか都市伝説、好きなの?」
「好きじゃない。むしろ、大嫌いよ」
 素早い即答がはね返り、それが冷ややかで鋭かったので固まった。先生の目が初めて揺らぐ。
「そういうのはね、やっぱり平等じゃないもの。だから、探求して突き止めて暴いて、この世から消滅させたい……っていう願望はある。そこで選んだのが物理だったの」
「嫌いなものを調べるために? そういう理由なの?」
「そうよ」
 真彩は呆れた。自分も相当変だが、先生も変わっている。本人もそう言っているので納得だ。
「ま、説明がつかないものっていうのはまだまだあるものよ。自然にそのまま存在し続けるものはあるにはあるし、ないと言えばない。はっきりとは言えないわ、だって、」
「この世に当然はない?」
「そう」
 うなずく先生は嬉しそうに少しだけ頰を震わせていた。

 ***

 補習はそれから二時間遅れて始まったが、調子を取り戻した真彩は例のごとく、授業の内容は頭に入らなかった。それもお約束だと諦めている岩蕗先生も淡々と授業を進めていく。時折、真彩のノートを気にしながら。そんな風に時間が過ぎ、十五時になれば自動的に授業が終わった。
 あんなに熱く冷たい話をしたのに、帰り際は呆気なく、余韻も何もない。先生が先に出て行き、するとようやく後ろのサトルが動いた。
「今日は家まで送ってくよ」
 強い口調できっぱりと言われる。そんな提案は予想していなかった。


 まだ陽が明るいうちは電車内が空いている。真彩は迷いなく端の席に座り、サトルはその脇に立つ。「幽霊が席を独占するわけにはいかない」という謎の持論で真彩を言いくるめた。
「あ、海が見える」
 ポールにもたれていた彼が、扉の窓から外を眺めて言った。
「え? 海?」
 何度も電車に乗っているが、窓から海が見えるなんて知らない。サトルが指差す方向を見やった。鬱蒼とした薮が過ぎるだけで、海の水色は影も形もない。
「いや、地形的に向こう側は海だし。あんまり見えないだけで……あぁ、ほら、見えた! 一瞬!」
「………」
 空いていると言えども、まばらに乗客がいるので、真彩は曖昧に笑うしか反応ができなかった。それを悟ったのか、彼もようやく大人しくなる。その顔は少しだけ拗ねていた。
「ふーん。海ねぇ……あ、ほんとだ」
 誰にも聞こえないくらいにボソボソと返す。すると、サトルの拗ねた口が笑った。
 赤月海岸は入り江状の海岸らしく、浜の白が鮮やかに見える。
「あそこが赤月海岸だよ。こうやって見ると、真彩って遠いとこからわざわざ来てんだなぁー」
「うん」
「面倒じゃない?」
「うん。面倒くさい。朝は早く起きなきゃだし、通勤ラッシュでかぶるし、おまけに町には影がいるし」
「それでも、こっちに来たかったんだ」
「うん」
 海はもう見えない。トンネルに入ってしまい、サトルの姿が日向よりもくっきりと浮かび上がって見える。彼は申し訳なさそうにも、無邪気に真彩のことを知りたがっていた。
 面倒くさくても、遠くの学校に行きたかったのには理由がある。
「……知らない人だらけの学校に行きたかったの。別に、高校は行かなくても良かったんだけど、お母さんが行けって言うから。だから、仕方なく。それなら遠い場所がいいなって。誰も私を知らない場所が良かった」
 そうして自分で選んだのがあの学校だった。結局、成績は悪く、素行もまぁまぁ悪いので教師からは諦められているが。
「お母さんのために学校に行ってんの?」
 サトルの問いは遠慮がちだった。しかし、言葉は無遠慮だった。真彩は小さく、くはっと笑った。笑うところじゃないだろうが、なんとなく口をついて出てきてしまった。
「そうかもね」
 自分のためじゃないのだと気がついた。母が喜んでくれるかもしれないと淡い期待を寄せて、乗り気じゃない受験をしたんだろう。母が元気になるならと純粋に思っていた。でも――
「それでお母さんは、喜んだ?」
 無遠慮ついでにさらに深く切り込んでくる。そんな彼に、真彩は眉をしかめて笑った。
「分かんない」
「分かんない?」
「うん。だって、お母さんには、しばらく会えてないから」
 しばらく会っていない。会えずにいる。中学卒業までは足繁く通っていたのに、母の病室を訪ねるのが今では怖い。どうしてそんなことになったのかは、自分でもよく分からない。病室から飛び降りようとした母の気持ちをいくら考えたところで分かるわけがない。
 幽霊も死も、不幸も日常だ。
「そっか……」
 サトルは何を思ったのか、もうそれきり何も聞いてこず、話題を変えてきた。
「そういや、あいつ、あれから出てこなかったな」
 あいつというのはカナトだろうか。
「俺、あいつから嫌なこと言われてさ。で、今朝のあれだろ。本当に信用できない」
 確かに。出会い頭から毛嫌いしている相手の話を迂闊に信じこみすぎていた。後悔の怪物の話だってどこまで信じていいのか。
「ま。真彩の言っていた条件をクリアしたら、あいつに手伝ってもらうことも悪くないか……うーん、でも微妙だなぁ」
 言いながら、サトルは眉を頼りなく下げた。いつものからっとしたサトルの表情だ。真彩もようやく安心し、ホッと息をつく。電車が揺れ、トンネルの終わりが見えてきた。


 駅を降りると、ロータリーには買い物帰りの親子やプール帰りの小学生が賑わっている。商店街は改装したばかりで、入り口がモノトーンの小洒落た雰囲気だ。見やすいゴシック体の「くぼ商店街」を読み上げるサトルの目は好奇心でいっぱいだった。
「おぉ……」
 商店街の次は、ぼってりと丸いモニュメントがある公園、人工的に揃えられた街路樹に目を移して、しきりに「おぉ」と声を漏らしている。それがうるさいので、真彩は思わず口を開いた。
「もしかして、窪に来たことない?」
「え? い、いや、来たことくらいはあるし。本屋とか、あと、駅のホームまでならあるし。てか、窪ってあんまり行くとこないし。ハンバーガー食いに来たことくらいしかないし」
 言い訳の口が早い。要するにあまり来たことがないのだろう。強がったセリフの端々には負け惜しみとワクワクが隠しきれていない。知らない場所にはしゃぐ小学生のようだ。
「つーか、おしゃれすぎない? 落ち着かないんだけど」
「そりゃあ、毎日海で遊んでる野生児には刺激が強いよね」
「海にも来たことない都会っ子に言われたくない」
 ふざけて尖った言葉を出せば、サトルも負けじと言い返してくる。それ以上にけなす言葉が見つからなかったので、真彩は口を結んで鼻を鳴らした。さっさと公園を横切り、煉瓦が敷き詰められた道路に入る。
 まっすぐ家路に向かうと、その後ろをすいっと滑るように走って追いかけるサトル。街路樹を物珍しそうに見送る彼の目は日向色。真彩はちらりと彼の指先に目を落とした。
「あれ?」
 黒く濁っていたはずが、今はまっさらだ。
「ん? どした、真彩」
 こういう微細な反応には目ざとい。
「え、あ、いや……なんでもない」
 真彩はすぐに指先から目を逸らした。
 自宅はコの字型をした壁のようなマンションだ。セキュリティはしっかりしており、カードキーでマンション内に入ることができる。その動作を唖然と眺めるサトルに、真彩は得意げに笑った。
「要塞みたいだな。こんなの生で見たことない」
 彼の感想が予想と違って拍子抜けする。
「そこまで珍しくないでしょ。まぁ、矢菱町はこういうマンションないけどさ」
「あ、待てよ……もしかして、CMでやってたニュータウンのでっかいマンションか」
 サトルが指をパチンと鳴らして閃いた。ローカルCMのことだろう。確かに、ひと昔前は開発中のニュータウンとしてテレビコマーシャルや広告が市内あちこちで垂れ流されていたような。ここに引っ越して十年ほどは経つので、ニュータウンとは言えないが。
「なるほどねぇ。こんなにでかいマンションだったんだ……」
 感慨深く言うサトル。真彩は反応に困り、やはり首をかしげるしかなかった。
「とりあえず、もうここでいいよ」
 いつまでもエントランスに突っ立っているわけにもいかない。真彩が切り出すと、サトルは名残惜しそうな目をした。
「また明日」
 小さく手を振ると、彼も顔の横で手を振る。
「また明日も、送ってくからな」
「うん。じゃあね」
 ガラス戸が閉まる。サトルの色と重なっていき、輪郭が分からなくなる。彼がいつまでも離れないので、真彩はエレベーター乗り場へ先に引っ込むことにした。
 その夜、海岸沿いの道路に白いパーカーを着た少年が歩いていた。暗くよどんだ空は雨足を連れている。雲行きが怪しいその真下、カナトは白線の上にある微かな痕跡をたどっていた。
「ふーんふんふん、ふーふふんー」
 機嫌よく鼻歌を鳴らして、車のない道路をゆったり歩く。
 彼の瞳には、幼い血と影が引きずられた痕が映されている。夜道でもはっきり浮かぶそれには、たっぷりの悲哀が刻まれていた。
 影の轍に自我はない。ただ、のこり続けている。たどればたどるほど色濃く浮かぶ。
「ほうほう。こりゃあ、とんでもないものに出くわしたみたいだ」
 T字路に差し掛かると、左の道に影が続いていた。次第に足が速まる。小走りで道を行けば、後方からライトに照らされた。振り向けば、闇に慣れた目には眩しい刺激。
 カナトはフードを目深にかぶりなおした。車をやり過ごす。しかし、軽自動車は数メートル離れた位置で停車した。ハザードランプが点滅し、窓から誰かが顔を出す。
「深影くん」
 その涼やかな声にはすぐ反応した。走って向かう。
「岩蕗センセー!」
「こんばんは。やっと見つけたわ」
 その口ぶりからして、先生はカナトに用事があるらしい。無情な口が淡々と開いた。
「手短に言うけれど、あなた、一ノ瀬さんにちょっかい出すのをやめてくれない? 変なことを吹き込んじゃダメよ」
 突然つらつらと責められる。遭遇したらいつもこうだ。カナトはつまらなさそうに唇をとがらせた。
「彼女にとっては大事なことなんですよ。センセーこそ、余計なこと言わないでください」
「私は何も言ってないわよ。むしろ、あの子には非存在的存在を近づけさせたくない。あなたと違って、繊細で脆いのよ」
 岩蕗先生は厳しい。早口でカナトの口を封じ、冷笑を浮かべた。
「はぁ……これで教師なんだからなぁ。世の中どうかしてるよ、まったく」
 負け惜しみの声で言うも、先生はツンケンした態度を崩さなかった。
「教師の前に人間なのよ、私は。とにかく、あなたは一人で勝手に幽霊退治でもしていなさい」
「でも、あの子は視えるんですよ。非常に残念だけれど」
 少し間が空く。今度はこちらが優勢だ。
「……たとえそうだとしても、危ないことはさせないで。いい?」
「でも、」
「返事は?」
「……分かりましたぁ」
 半ば言わされたようなものだ。先生は満足そうに「はい、ありがとう」と笑顔を浮かべて窓を閉める。そこに、カナトは指を差し込んだ。窓を掴むと、先生もさすがに目を開いて驚く。
「それじゃあ、真彩ちゃんが危なくなった時は助けてくれます?」
 聞くと、先生は二度まばたきをした。次第に目を細め、怪しむようにカナトを見る。
「……教師だからね。教え子が危ないことをしてたら助けるつもりではいるわよ」
 冷たい答えだが、温かみがある。それを聞いてカナトは調子を取り戻した。軽薄に口の端を伸ばして笑い、窓から手を離す。先生は挨拶もなく窓を閉めきった。車が動き出す。
「――あくまでも教師ねぇ……今どき流行らないでしょ、あんなの」
 岩蕗先生の車が遠ざかる。それを見送り、カナトは影の轍に目を向けた。
「先生は視えないけど、『こっち』のことはよーく知ってる。それを真彩ちゃんが知ったらどんな顔をするんだろうなぁ」
 真実は大体が残酷だ。真彩も結局は上辺だけしか知らないのだろう。自分も他人も。それを考えていたら、いつの間にか道は公園の方へと続いていた。
「ふーん……町民公園の交差点が終着か。これが示す真実は一体なんなんだろうね」
 影の切れ目に問いかけても無駄だ。それでもカナトは影が訴える何かを視ようと、しばらく佇んでいた。

 ***

 翌日は雨だった。昨日の天気の悪さから予想はできていたが、起床してすぐにざくざくと降りしきる雨が鬱陶しい。
「カナト先輩に会いに行く?」
 昼休み、屋上前の階段で昼食をとりながら話を持ちかけると、思いのほかサトルは嫌がった。
「わざわざ行くの? あいつが来るまで待とうよ」
 しかし、カナトは突然現れ、突然消える。神出鬼没で行動も思考も読めないが、彼がもし本当に祓い屋なら、サトルが成仏できる方法を知っているだろう。教えてくれるかは分からないが。
「でも、成仏したいんでしょ? 時間がないって言ってたじゃん」
「や、それは、そうだけど……」
 渋る理由が分からない。
 真彩は彼の指先を盗み見た。少し濁っているような。その視線に、サトルが気づく。
「ん? あれ? なんか黒い……」
 手を払うように振るが、黒い濁りは消えない。むしろ他の場所にも飛び火する。真彩は急いで彼の手を掴んだ。冷たい風が肌を通り抜けるだけで、手は虚しく空を掴む。
「真彩……?」
「サトルくん、あのね、聞いて欲しいことがあるの」
 少し区切る。短く息を吸い、真剣に言った。こうなったら迷っている暇はない。
「幽霊はこの世にとどまっている期間があるんだって。幽霊は成仏できないと、あの校門みたいな黒い影になる。後悔の怪物になっちゃうんだって……先輩がそう言ってた」
 どうしてか、心がすくみそうになった。サトルの目がまともに見られず、だんだん下向きになっていく。
「……マジか」
 やがて彼は小さく応えた。
「……そっか。あぁ、そう……へぇぇ」
「時間がないっていうのは、そういうことなんだと思う」
 他人事につぶやくサトルに、真彩は慌てて言った。
「わたし、サトルくんがあの黒い影になっちゃうのは嫌だよ」
 その言葉にはさすがのサトルも思うところがあるのか、寂しそうに目を伏せる。
「……分かった」
 苦々しく、飲み込むようにサトルはうなずいた。
「それじゃあ、すぐにあいつを探そう。とっ捕まえて成仏の仕方を教えてもらおうぜ。でも、使い物にならなかったら無視だ。それでいい?」
「うん。それでいいよ」
「よし。じゃあ、早くおにぎり食べちゃって」
 前向きな目になったサトルに、真彩はホッと一安心した。おにぎりを頬張る。その時、背後の屋上への扉が開いた。
「いやいや、黙って聞いてたら辛辣すぎないか、君たち。そこまで嫌われる意味が分からない」
 この嫌味ったらしい響きは――カナトだ。
「出たぁっ!」
 サトルが飛び退いて指をさす。それをカナトはうるさそうに手で追い払った。
「出たって、幽霊に言われる日が来ようとは……君は本当に無礼者だよね」
「どっから湧いてきたんですか」
「真彩ちゃんまでひどいな」
 二人の不審げな表情を前にしてもカナトは調子を崩さない。神出鬼没で侮れない。いつから屋上にいたんだろう。
「最初からいたよ。それに昨日は話が途中だったし、僕もちょうど話がしたかったんだ」
 何はともあれ、そちらから出てきてくれるなら話は早い。真彩はサトルが何か言う前に口を開いた。
「それじゃあ、昨日の続きですけど。祓い屋だってことを証明してください」
「いいよ」
 あっさりとした返事。これにはサトルも真彩も同時に目を丸くした。
「ふっふー。僕くらいになれば、急なオーダーだって対応は可能だよ」
 カナトは勿体つけて言った。
「君らはこの学校にいる黒い影を知っているかな?」
「校門の?」
「いや、違う。そっちも確かに影なんだけれど、そっちじゃなくて。図書室にいる黒い影さ」
「え? 図書室にもいるんですか」
 前のめりに聞くと、カナトはますます調子づいて笑った。
「いるいる。それを今から消してやろう。ちなみに、校門のはダメだ。あれを消したら困る人がいるからね」
 どういう理屈かは知らないが、断言されてはなんとも言えない。サトルも釈然としないらしく、腕を組んで「ふぅーん?」と高圧的に唸った。
「んじゃ、お手並み拝見といこうか」
 真彩はため息を吐き、おにぎりを口に押し込んだ。


 校内をくまなく見たことがないので、図書室がどこにあるか知らなかった。
 教室棟の四階、一番奥にある薄暗い場所に大きなガラス戸があった。木材であしらわれた「矢菱高校図書室」の文字がメルヘンチックだ。それを眺めていると、横でサトルが「ここ、初めてきた」と感慨深げに言った。
「君たちはもう少し本に興味を持ったほうがいいぞ。図書室にはいろんなことが詰まっている。事実からフィクションまで全部」
 気取った口調のカナトは扉を大きく開けた。その後ろを二人はこわごわついて行く。
「――ほら。あそこだよ」
 指差す方向。テーブルと椅子が敷き詰められたスペース。そこに、隅の椅子に黒い影が座っていた。
 真彩はすぐに足を止めた。何かに引っ張られるような感覚がし、抵抗しなければ足が震えてしまう。
 影はゆらゆら蠢き、首をもたげた。人の形を模した影に凹凸はなく、滑らかにのっぺらぼう。これにはサトルも言葉が出ないようで、あわあわとカナトの背後に隠れた。さっきまでの威勢はすっかり鳴りを潜めている。
「軟弱だなぁ」
 カナトは豪快にからから笑い、平然と黒い影へ近づいた。馴れ馴れしく片手を上げ、「やあ」と挨拶する。
「ここは君が使う場所じゃない。どいてくれないか」
 それまで大人しかった影の首が九十度に曲がった。かくん、と音が鳴るように。手を伸ばしてくる。ズズッ――何かを引きずる音。伸ばした腕でカナトの首を掴む。不安定な動きをし、幾重にも腕が大きく伸びる。原型がどこにもない。
 真彩は足からくる震えに耐えようと必死だった。サトルも圧倒され、影を凝視して息を止めている。
「ふん……仕方ないな。それじゃあ、強制退去ということで」
 一人余裕の姿勢でいるカナトは、ポケットから小さな水鉄砲を出した。引き金を引くと、透明な水が噴射される。影の頭めがけて放たれ、これに当たった瞬間、弾けるように黒い粒子が飛び散っていった。
 その最中、真彩は黒い影の顔を見た。音もなく霧散していく、かつては人だったものが苦しそうに溶けていく。
 それを見ているともう立っていられなかった。その場にしゃがみこみ、冷や汗が噴き出す。
「真彩!」
「だいじょうぶ……ちょっと、怖かっただけ」
 血の気が引いたように全身がだるく、力が入らない。
「ダメだなぁ。これくらいのことでショック受けられちゃ、命がいくつあっても足りない」
 カナトは変わらず小馬鹿に見てきた。今は悪態にも対応がうまくできない。
「……祓ったの? あの影を」
 汗を拭って顔を上げる。
「水で? それだけで祓えるんですか?」
「いいや、こいつはただの水じゃない。清めの効果がある湧き水だよ。祓い屋っぽいだろ」
 真彩とサトルはどうにもバツが悪く、目を合わせた。
「ほ、ほんとに……もう影はいないんですか」
 床に手をついてテーブルの下を覗く。黒い影は跡形もなく、少量のホコリだけが舞っている。
「ほんとのほんとに祓ったよ。僕にはそういう力があるんだ」
 カナトの自信は伊達ではなかったらしい。これには文句のつけようがない。
「あれはね、大昔、この学校でいじめられててそれまでなんとか生きてきたけれど、病気で命を落とした人なんだ。期限までに成仏はおろか、負の感情に潰されて濁った。除霊するにはちょうどよかったな」
 これに、サトルは気まずそうに言葉をつまらせる。真彩もすぐには立ち直れなかった。あの除霊が鮮明で、頭から離れない。
「そんな、簡単に……そんな、そこまで知ってて、なんとも思わないんですか」
 あの影にも歩んできた人生があったはずだ。それを「ちょうどよかった」と片付けてしまうなんて信じられない。ひどい。
「何言ってるんだよ。あれは怪物だよ」
 カナトはしゃがまず、フードの中から真彩を見下ろして言った。冷たい目だった。
「生者に害を及ぼす魔だ。視えない人間にその恐ろしさは分からずとも、君にはようく視えているはずだ」
「………」
「視えているから怖い。君は他人よりも現実が怖いんだろう。それなのに、魔の根源である幽霊とつるんで、まっとうに生きているつもりになっている。安心している。これは正しいことなんだと自分を正当化している。違うかい?」
「そ、れは……」
 うまく声が出ない。言い返したいのに返せず、真彩はうつむく。
 すると、頭の上で冷たい風が素早く動いた。
「おっと」
 サトルの腕がカナトを狙っていた。白いパーカーがひらりと横に揺らぐ。軽々かわして机に飛び乗る。
「ごめんごめん、軽口が過ぎたよ。申し訳ない。僕は非力だからケンカは嫌いだ」
「俺じゃなくて、真彩に謝れよ」
「もういいよ。怒らないで、サトルくん」
 真彩は慌てて立ち上がり、二人の間に入った。
 正論を叩きつけられた気分で、驚いて怒りも沸かない。カナトもまた、こちらには悪びれる様子がなかった。
「……それじゃ、証明終了ってことで、サトルくんが死んだ理由でも一緒に考察するとしようか」
 本当にこのままカナトに頼ってもいいのだろうか。サトルを見ると、彼はしかめっ面のままだった。指先の影が渦巻いている。空気が悪い。心なしか、図書室の気温が低い気がする。


 それからサトルはあまり積極的ではなく、むしろ無口のままで、授業中も頬杖ついていた。
 カナトが無理やりに、真彩のスマートフォンへ連絡先を登録したのが気に入らないらしい。居心地が悪い。そんな真彩の心配もよそにサトルは唇をとがらせて黒板を眺めていた。
 今日は午後から岩蕗先生が不在だった。代わりに別の教師が交代で授業を行う。
 数学の授業。正多面体の辺の数と頂点の数を求める設問を、教師が無言で黒板に式を展開した。それを真彩はぼんやりと眺めている。二人揃って頬杖をつき、首をかしげた。
 教師は美しい線で正六面体を描く。その間、真彩はあの祓い屋を思い出していた。
 ――どうしてカナト先輩は、わたしに干渉してくるんだろう。
 面白半分なのか、そうじゃないのか。しかし、真彩にはない「祓い」の力があることは確かだ。
 ちらっとサトルを盗み見ると、大きなあくびをしていた。視線に気づかれる。
「真彩、授業聞きなよー」
 むくれた口で言われても、授業はほとんど無言であり、年配の男性教師はただただ数式を書き連ねていくだけだ。
「……つっても、ノートとるだけだし、暇だなぁ」
 覇気のない目が、少しだけ濁りを帯びている。
 自覚がないのか、サトルはさっきから怒ってばかりだ。それは明らかに負の感情。影が迫っていた。
 八月八日は湿り気が残る霧雨だった。連続の低気圧に頭が重い。それでも学校へ行かなくてはいけない。
 昨日の様子だと、サトルとカナトの相性は抜群に悪い。カナトはともかく、サトルが心配だ。余計なストレスを与えないようにしたい。
 朝食は抜いて水だけを飲む。広すぎるシステムキッチンには器具がほとんどなく、真彩のマグカップとグラスが食洗機にあった。シンクの中には、覚えのない平皿と箸が雑に置かれている。昨夜、寝る前はなかったはずだ。
「……お父さん、帰ってきてるんだ」
 真彩は冷蔵庫にミネラルウォーターをしまい、汚れた皿を横目に見ながら冷たいダイニングを出た。廊下を出れば、浴室とトイレ、その向かい側に父の部屋。
「行ってきます」
 扉の前でつぶやいてみても何も返してはくれない。いつものことだ。
 ローファーを静かに履く。すると、部屋の扉がキィッと小さく音を鳴らした。
「――真彩?」
 数日ぶりに聞いた父の声に驚いて振り返る。スーツだが明らかに寝起きでくしゃくしゃの髪だった。
「学校?」
 あくび交じりに素っ気なく聞かれ、真彩はその場で固まった。
「今、夏休みだろ。なんだ、部活でもやってるのか?」
 何故か今日は執拗に質問してくる。父は真彩がするように目を細めて怪しんでいた。言動は少し固い。ぶっきらぼうなのも今に始まったことじゃない。昔はよく笑っていたと思うが、もうおぼろげな記憶だ。
 真彩は言葉に詰まり、視線を泳がせた。多分、普通に笑いながら答えればいいのに頰が動いてくれない。
「……いや、えっと……補習、みたいな」
「はぁ? 補習? せっかく高校に行けたのに補習って。嘘だろ」
 父の驚きが胸の内をえぐってくる。怒られるかと思いきや、それとは反応が違う。嘆くような言い方だった。
「……まぁ、そういうことなので、行ってきます」
「あぁ、うん。車に気をつけて」
 呆れかえった父は投げやりに返してくる。それでも今日は少しだけ話すことができたので、内容はともかく前進したと思った。
「あっ。ちょっと待て、真彩」
 玄関の向こうから父がサンダルをひっかけて出てきた。
「え、何……?」
「いや、明日会えるか分からないから、今のうちに言っとこうって」
「はぁ……」
 仕事を言い訳にして家に寄りつかない父だから、その言葉には説得力がある。真彩は出かけた足を玄関に引っ込めた。昔は見上げるほど大きかったのに、今では首を伸ばさなくても父の顔がはっきりと近い。絶対に目を合わせないような、後ろめたさのある目をしていた。
「えーっと……来週からお盆だろ。それで、お前をおばあちゃん家に預けるから、そのつもりでいてくれ」
「はっ?」
 唐突に告げられる来週の予定。真彩は首をかしげて父の目をじいっと責めるように見た。その視線から逃げようと、父は腕時計に目を落とす。
「いや、このところお前、一人だろ。お盆なら補習もないだろうし」
「別にそんな気を使わなくていいよ」
 それも今さらだ。散々、一人にしておいて急にそんなことを言い出すのも疑わしい。それに、祖母の家には行きたくなかった。
「お盆なら、叔母さんとかいるんでしょ。絶対イヤなんだけど」
「わがまま言うなよ。もうおばあちゃんに話してあるから」
「だって、わたしのこと怖がるじゃん。おばあちゃんも叔母さんも。絶対イヤだから」
「でも、最近は変なことも言わなくなっただろ。あれが怖いだの、お化けが出るだの、そういうの、もう治ったんだろ。いいから、言うこと聞きなさい」
 父の声が少しだけ苛立った。その声に怯みそうになるも、真彩は頑として首を横に振る。幼い子どものように駄々をこねる。
 すると、父は困惑と苛立ちを混じらせて笑った。
「はぁ……あのさぁ、お前ももう子供じゃないんだから、素直に言うこと聞いてくれないかな」
「そうやって都合が悪くなると大人扱いするんだから! なんで急にそんなこと言うの! お父さんっていっつもそう。なんかごまかしてる」
「嘘ついてるって言いたいのか」
 途端、父の声が低くなった。
 言い過ぎた。もう怒られる。そんな予感が瞬時に頭をよぎり、玄関に背をくっつけた。
「……お盆は、お母さんが帰ってくるんだよ」
 しかし、真彩の予想とは違い、父は冷めた表情をした。非難がましい目を向けてくる。
「一時帰宅だけど、十一日から十三日まではお母さんが家にいる。だから……お前がいると、困る」
 真彩はくっつけた背中の冷たさに身震いした。
 ――お母さんが帰ってくる。
 言葉を頭の中で反芻し、その意味に気づいて呆然とする。
「そう……そっか」
 目が揺らいで、焦点が定まらない。
「ごめんなさい」
 すぐに謝ると、父はため息を吐いて背を向けた。
「――行ってらっしゃい」
 情のない見送り。それを耳に入れるもうまく変換できずに、真彩は玄関を飛び出した。
 母には会えない。会いたくない。母もきっと会いたくない。会えば混乱する。もしかすると、もう覚えていないかもしれない。自分の娘の顔を。それくらい、母は壊れている。

 ***

 駅のホームに着くと、いつもの場所にサトルがいた。改札に立つ彼は、今日は顔色が良かった。
「おはよう、真彩。あれ? なんか具合悪い?」
「え? いや……」
 真彩は目を逸らした。いつも以上にうまく言葉が出てこない。お茶を飲もうとカバンに手を突っ込むも、今日はコンビニに寄ってないことを思い出した。
「どうかした?」
「どうも、してない……」
 言葉を濁すには無理があった。動揺が隠せない。それに気づかないサトルではない。
「もしかして、カナト?」
「違う! そうじゃなくて……」
 慌てて口走ってしまった。でも、今は口に出さないと胸が苦しい。弱い自分を見せるのはとても恥ずかしい。
「あの、そうじゃなくて、違うの。お父さんと、久しぶりに会って、それで、ケンカしちゃって……わたし、居場所がないんだ」
 支離滅裂だと自分でも思う。きれいな文章が作れないから、話すのに手間取るのはいつものこと。途中で止めて考えていたら話が勝手に進むこともよくあること。でも、今日は口が勝手に動いてしまう。
「なんか、家にもいちゃいけないみたいで。わたしはかわいい子供じゃないから、いつも怒られるし、そ、それに……お母さんも、わたしのこと、いなければ良かったって思ってるんだと、思う」
「えっ?」
 サトルの上ずった声が近い。真彩は顔を上げて、目尻を持ち上げた。笑っていれば大丈夫だ。これくらい、いつものことだ。
「あはははー……あぁ、いや、もう、ほんといつものことだから、気にしないで」
「待って。どういうこと? 真彩、何があった?」
「なんにも。大丈夫だって。いつものことだし」
 ――あぁ、ダメだ。泣いちゃダメだってば。
 透明なサトルがいつもよりはっきり視える気がする。彼の心配そうな表情を見てしまえば、せっかく持ち上げた目尻が一気に下がった。涙が落ちそうになり、それが恐ろしく感じた。
「ごめんっ、サトルくん! 今日、やっぱり学校行かない。先輩にも、そう言っといて」
 口と足、どちらが先かは判断がつかない。いつの間にかホームを出ていて走っていた。
 ――泣くな、泣くな。
 頭の中で暗示する。
 ――泣いたらつらいから。泣いちゃダメだって。
 視界の悪いロータリーを横切る。その時、タクシーのクラクションが耳をつんざいた。
「真彩っ!」
 冷たい風が吹く。雨粒が大きく旋回し、真彩の体がタクシーを避けた。
「どこ見て走ってんだよ、あの車……あぁ、もう、真彩、大丈夫? 怪我してない?」
「サトルくん……」
「ってか、お前も急に走るなよ。危ないだろ。死んだらどうするんだよ」
 責められると、もうどうしたらいいのか分からない。感情が決壊した。
「わ、わたしは……別に……」
 サトルの真剣な目を直視できない。
「わたしは、別に、死んでも良かった」
「………」
 口をついて出た言葉は、もともと頭の片隅にあったものだ。でも、今、彼の前で口にするのは良くない。ダメだと分かっていても、もう遅い。雨が静かで、沈黙が重たい。時が止まる。
「――なんでそんなこと言うんだよ」
 一度出した言葉は二度と胸の内に戻ってはこない。サトルの非難めいた目と、悲痛な声が雨を掻い潜ってくる。
「そんなこと、言うなよ」
「でも、わたしは」
 思わず彼の声を遮った。
「わたしは、そんなに……生きていたくない」
 最悪なことを言った。嫌われた。でも、もういい。
 サトルを見ているとつらくなる。それは常にあったが、今はとくにつらい。彼の透明な目が濁っていく。それを見ていられないから、真彩は学校とは反対の道を走った。

 ***

 学校を無断で休み、翌日も行かなかった。家に固定電話を置いてないので、スマートフォンが鳴りっぱなしだ。岩蕗先生からがほとんどだが、その中に紛れ込む深影カナトの表示がすこぶる鬱陶しい。トークアプリに、カナトからの一方的なメッセージが届く。
『真彩ちゃん、先生が怒ってるよ』
『電話くらい出たら?』
『今日来なかったら次は登校日だね』
『補習が延びちゃうよー』
『夏休み、まるまる潰れるぞー』
「……あーもう、本当にうるさい」
 余計に出ていく気が失せる。一日出なかったら、もう外に出るものかと変な意地を張ってしまう。
「だって、サトルくんはわたしのこと、許してくれないだろうし……絶対に嫌われた」
 あんなにひどいことを言ったのだから、合わせる顔がない。会ってなんと言えばいいか分からない。ただ、気がかりなのは、彼が黒い影になってしまわないかということ。
 真彩はベッドの中からスマートフォンを追い出し、うずくまった。
 エアコンで冷やした部屋で、タオルケットを体に巻きつける。こうしていると落ち着く。
 外の熱気と蝉も、ひりつくように恐ろしい形相の幽霊もいない。鬱陶しい教師や先輩もいない。日曜日にはこの部屋からも追い出されるのだから、一日くらいのんびり寝て過ごそう。逃げてしまえばいい――

 ***

「――もう一度、お医者さんに診てもらったら?」
 そう言ったのは、祖母だった。
「ねぇ、啓司。そうしてもらったほうがいいって。お母さんね、いいお医者さん知ってるから」
 父と手を繋いでいた。祖母は子供だからと、何を言っても分からないだろうなんて考えていたに違いない。ズケズケと無神経に父を説得していた。
「……やっぱりそうかな」
 父が不安そうにこちらを見る。その表情は、なんだか恐ろしいものを見るような、恐れが入り混じったものだったと認識している。
「そうよ。だって、理保さんもああなっちゃったんだし、絶対診てもらったほうがいいわ。だって、怖いじゃないの。幽霊が視えるだなんて、怖くて、気味が悪い」
 祖母の口はなんだか真っ黒な穴に見えた。飲み込まれてしまいそうな黒い影。
 祖母はそれきり、訪ねてこようとはしなかった。だから叔母の家に預けられることが多かった。でも、夕食のハンバーグが美味しかったこと以外にいい思い出がない。
「兄さん、あのね……真彩ちゃんが変なことを言うんだけど、やっぱりまだ治ってないんじゃないの?」
 叔母も祖母と同様に遠ざけようとしていた。小学二年生の夏だったと思う。
「後遺症とか、そういうの怖いじゃない? もしかしたら視覚のことで困ってるんじゃないかな。だって、嫌なこと言うんだもの。黒い影がいるって。急にそんなこと言うから」
 叔母の顔は笑っていたが、引きつっていた。その口が黒い穴のように見えた。
 それでも父は病院に連れて行こうとはせず、平静に振舞っていた。でも、真彩の話を信じているわけでもなかった。
 小さなマンションから、大きなマンションへ引っ越したのは小学三年生の頃。母の帰りを待っていたから、駄々をこねて泣いて叫んで引っ越しを拒否したのに、父に担がれて電車に乗った。
 電車の景色――そう言えば、サトルと電車に乗った時には気がつかなかったが、あの光景はなんだか妙に懐かしく胸騒ぎがした。


「……あ、れ?」
 沈んでいた意識が浮かび上がるように、タオルケットの視界が目の前にあった。頭がぼうっとする。もこもこと起き上がり、放置していたスマートフォンに手を伸ばした。現在、十九時。外は陽が傾いて茜と群青の中間色だった。
「うわぁ……」
 時間もそうだが、通知の数が凄まじい。電話二十件、メール六十七件。岩蕗先生とカナトが交互に連絡を寄越している。メッセージはすべてカナトだった。懐かしくて痛すぎる夢を見たあとに、この通知量は目に毒だ。罪悪感もあるが、それよりもまずは「よく諦めないな」という関心が勝っていた。
 暮れた暗い部屋で惰性のままに画面をスライドしていく。一件ずつ内容を見るのは面倒なのでころころと見送った。どれもこれも「連絡しろ」や「学校に来い」ばかり。真彩はげんなりと口元を歪ませて一番最後までスライドさせた。
『やらかした。まずいことになった』
 目を見張る。寝ぼけていた目に力が入り、一文を凝視した。以降、メッセージはなく、何をどうしたのか具体的な詳細がない。最後の通知は十八時半で止まっている。
「やらかしたって何を……?」
 嫌な予感しかなく、鼓動が速くなる。真彩はふらりとベッドから降りた。
 ――サトルくんになにかあったのかも。
 それしか考えられない。でも、自分が行って解決するのか。それに合わせる顔なんてない。カナトの掴みどころのない言動に相手をするのも気が引ける。
 しばらくうろうろと部屋の中を回り、もう一度スマートフォンに目を落とした。キーパッドを呼び出し、おそるおそる文字を打ってみる。
『何があったんですか?』
 おこがましく感じながら、真彩は正直に聞いてみた。すると、待っていたと言わんばかりにすぐに返信がくる。
『サトルくんが、怒ってる』
「え……?」
 ケンカでもしたのだろうか。いや、それだけならわざわざこちらに連絡を入れなくてもいいはず。
 頭の回転が鈍くなる。何があったのかが分からない。予想がつかない。
 真彩はタンスの引き出しから適当なカーゴパンツとTシャツを引っ張り出して着替えた。靴下は履かず、素足のままでスニーカーに足を入れ、バタバタと玄関を飛び出す。
 とにかく学校に行こう。頭の中は罪悪感も後ろめたさもなく、ただただサトルの無事を祈っていた。
 電車に駆け込み、空いた席には座らず外の景色を眺めていた。薄群青の空に、自分の姿がくっきりと浮かぶ。幽霊のように透けた全身に、暗い色が渦巻いている。
 あれきりカナトから連絡がない。それが余計に不安を駆り立て、悪い予感ばかりが胸の中に広がっていく。
 線路を走る電車に苛立ちつつ、深呼吸をして落ち着かせることも繰り返し繰り返し……段々と頭が冷静になった頃に、ようやく電車が停まった。
『矢菱町、矢菱町ー。終点です』
 アナウンスの音が響き、扉が息を吐くように開く。すぐさま飛び出し、ホームの固いコンクリートを叩いて走った。昼間の熱が残る夜。改札を通り抜け、息を切らし、学校めがけて走る。
 静かな道路を横切り、公園を突っ切って、路地へ。その間、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。着信。カナトからだ。
「はい! もしもし」
 上がった息のままで出る。足のスピードは落ちたが、気持ちは逸っている。
『あ、真彩ちゃん! やっと出てくれたね』
「返信したでしょ。あれきり返事がないから、こっちに来たんですけど」
『あぁ、君にはこっちに来てほしかったからちょうどいい』
 カナトの声は相変わらずの調子だったが、どこか強張っている。
『ちょっと大変なことになってね。サトルくんの影が思ったよりも早く進行してて』
 予感はしていた。それが的中しないようにと願っていたが叶わなかった。足が疲れる。
『僕じゃどうにもできないから、真彩ちゃんから彼に話をしてほしいんだ。とにかく学校に来たら分かるよ』
 それだけ告げて、カナトは一方的に電話を切った。
 緩やかな下り坂を駆け下りる。角を曲がって、自転車の脇をすり抜けて転びそうになったが、足は止まらなかった。どんどん暗がりを帯びていく町の中、真彩は脇目も振らずに夢中で走る。
 学校に来たら分かる――その言葉は確かに当たりだった。
 小さな街灯は頼りなく、光が弱い。真彩は急ブレーキをかけ、「それ」を視た。校門は締め切っている。その格子から影が溢れ出している。大きな人を模した影。学校を覆い隠さんばかりにどんどん広がっていく。どこが顔か分からないのに、何かを訴えるように口が開いた。空洞が目の前に現れる。
「なに、これ……」
 影がこちらに気が付いた。後ずさるも、影が真彩に手を伸ばす。おぼつかない動きで真彩の頭をつかもうとする。
「真彩ちゃん!」
 影の向こう側にカナトの白いパーカーが見えた。
「こっちに来い! 早く!」
「どうやって!」
「その影はまだ不完全だから、君の動きにはついていけない!」
「不完全? これが?」
 影の手から逃げ、校門の端まで避難する。
「まだそこから動けないんだ。こっちに隙間があるから飛び越えろ!」
 影は校門いっぱいに陣取っているが、端にわずかな隙間がある。真彩は格子に飛びついて、影の手を避けながら校門を乗り越えた。飛び降り、着地に失敗して膝を擦りむいた。すぐに振り返る。カナトの言う通り、影は真彩を探すようにうねっていた。
「よく頑張ったね」
 顔を上げると、カナトが手を差し伸べてくる。素直にその手を取った。
「でも、こっからが本番だ」
 真彩を引っ張り上げながら、カナトが指をさす。昇降口。電気はついていない。目を凝らしても何も見えない。
「……あそこにサトルくんがいる。具合がかなり悪そうだから、とにかく話を聞いてあげてほしい」
 彼の言葉はやはり相変わらず軽妙なのだが、どこか固い。背中をとんと押されて前に出る。真彩はつばを飲み、昇降口へ足を向けた。
 行きたくない。合わせる顔がないことももちろんだが、今は恐れが強かった。熱気を含んだ夜なのに、一歩近づくごとに肌が粟立っている。腹の底が冷えるような気分の悪さに襲われた。
「ねぇ、カナト先輩」
 思わず振り返ると、校門にいる影に見つかりそうで首をすくめた。カナトは腕を組んで、その場を離れない。こちらを監視するように見ている。
「先輩、先にあの影をどうにかできないんですか」
「できないよ。言ったじゃないか。あれは祓えない。祓うと困る人がいるから」
「それはサトルくんのことですか」
 カナトは口を結んだ。それは肯定とも否定とも言えるようで、やがて彼はフードの中から宙を見上げた。
「それはまだなんとも。ともかく時間がない。君が彼にひどいことを言ったのなら、君に責任がある」
 ――責任……
 重さに怯える。真彩はカナトに背を向けて、頬を思い切りつねった。
 自分の言葉でサトルが傷ついたのなら、責任をとらなくてはいけない。今にも襲いかかりそうな影の圧迫に耐え、前方に潜む冷たい何かに向かってゆっくりと近づいた。覚悟を飲み込み、そっと昇降口の中を覗く。
「――サトルくん?」
 肌を凍らせるような冷たさを感じた。中は暗く、そびえ立っていた靴箱が一切見当たらない。真っ暗な空間。そこにあるはずのものが切り取られてしまったかのよう。息が白い。奥歯が噛み合わないくらい震える。冷たい風が吹きすさび、ここは学校ではない異空間なのだと気づく。
「サトルくん!」
 呼んでも何も返ってこない。自分の呼吸音がうるさい。自分が今、どこにいるのか分からない。
 真彩は不安を拭おうと、凍る喉を絞った。
「サトルくん、この間はごめん。あの時、わたし、気が動転してて。それで、ひどいことを言っちゃって。合わせる顔がなくて……」
 言い訳にしか聞こえないかもしれない。暗闇に足を踏み出そうとするも、骨がしびれて動きにくい。
 すると、遠く彼方の方で半透明な揺らめきが視えた。
「サトルくん!」
 恐怖をかなぐり捨て、しびれを振り切って、一歩踏み込む。すると、足元に波紋が広がった。水たまりに足を置いたような感覚。
 瞬間、向こう側から大きな黒い波が現れた。ざわめく波が高くなり、大きく伸び上がって真彩の頭に襲いかかる。
「いやっ!」
 腕で顔を覆うも黒い波を全身にかぶってしまった。しかし水に濡れた感覚はなく、冷感に包まれる。血管を流れる血がドロドロと鈍くなり、寒さは勢いを増す。振り返るとカナトの姿はなく、辺り一面真っ暗闇。出口がない。これを起こしたのがサトルなら、自分はどれほどにひどいことをしてしまったのだろう。
 真彩は硬直した足をわずかにずらした。先へ進むべく凍りついた足を前に、前に。水の中を歩くようだ。歩けば歩くほど柔らかい何かに押し返される。見回せども辺りは闇一色で、どこへ向かえばいいか分からない。
「サトルくん、どこにいるの?」
 いつの間にか目頭には熱がこもり、冷たい涙が溢れてきた。
「ごめん。ごめんね。わたし、あんなことを言うつもりじゃなかったの。でも、それが本音だった。わたしは、ずっと生きたくない。生きていたくない。つらいから逃げたいの。それをあんなふうに、あなたに言ってしまって、傷つけたよね。ごめん。本当は分かってるんだよ。サトルくんの気持ち、本当は分かって――」
 前方にどろりとした感触があった。鼻の先にある。それがなんなのかは分からない。息が詰まった。
 とぷん。
 水が揺れる音。それは波の音にも似ていた。涙が落ちる音だとも思えた。
『――本当に、分かってる?』
 ぼやけて反響した静かな声。高い音と低い音が二重になったよう。
 真彩は頬に流した涙をそのままに顔を上げた。真っ黒の頭がある。黒い水を溜め込んだような、はっきりとした黒ではない。半透明なガラスの器に詰まった黒が彼の中で波打っている。それは膨張し、こぼれ落ちていく。溢れて止まらない。
 黒が溢れ、滴り落ちる。膨張し、大きくなっていく影。そこに彼の面影はない。
 真彩は言葉を失い、顔を上げたままその影を凝視した。頭の中は真っ白で何も考えられない。だが、言葉が耳にこびりついて離れない。黒に共鳴し、波を立たせて、幾重にも何度も聴こえてくる。
『本当に、分かってるのか』
 ――ほんとうにわかってるのか。何を。彼の何を。
 また勝手に知ったようなことを言った。その場しのぎの謝罪をした。でも、伝えたかったことは伝えたつもりだ。それじゃあどう言えば良かった――
 黒い影を吐き出していく。嗚咽の中に、嘲笑が混ざった。喪失した真彩を笑っているのかもしれない。耳に障る音が鼓膜を破ろうとする。
『何も分かってないだろ。何も分かってない。分かってないくせに、だからあんなこと言ったんだろ。そうだろ』
「ち、ちが……っ、そんなつもりは」
『本当は割り切ってるはずがねぇんだ。ただ、当たり前に生きていたかったに決まってんだろ』
 言葉が心に突き刺さった。ナイフが胸を深くえぐっていくように、ズブズブと痛みが埋められていく。
 ただ当たり前に生きていたかった――それが、彼の本心だった。考えなくても分かることだった。
『ずっと、普通の生活がくるんだって思ってた。もう目を覚まさないなんて思ってなかった。明日も気だるく学校に行って、勉強して、笑って、飯食って、遊んで、生きていくんだと思ってた。生きるとか、そういうの考えずに当たり前に生きていくはずだった。それなのに』
 声は次第に小さく収縮した。それに伴い、影も縮んでいく。
『死んだなんて思いたくない。信じたくねぇだろ。そんなの嫌だ。嫌だ。嫌だ。なんで、いつの間に、どうして……どうして、死んだ』
 ――やめて。
 喪失の中、拒否の声が脳内を巡った。自分の中で受け入れられないものが生まれた。
 サトルの形をした影が目の前で泣く。見ていられない。
「もうやめて。お願い」
『聞けよ、俺の話を。もう自分でも止められない』
 影が薄くなる。でも、消えることはない。溜め込んでいたものを吐き出してもなお残っている。どれだけ我慢していたんだろう。途方もない負の感情に飲み込まれ、真彩はもう立ち上がる気力もない。罪悪感と嫌悪で壊れそうになりながら、冷めた意識が首をもたげる。これが後悔の怪物だと、はっきり認識した。
「――俺は何も分かってないんだ」
 黒い涙が落ちていく。声は少し落ち着いた。
「何も分からない。どうしてこうなったのか、分からない。だんだん、自分がなんなのか分からなくなっていく。忘れて、その場をしのいで、考えないようにして……気づいたらもう、遅かった。限界なんて、とっくにきてる」
 闇が潮のように引いていく。寒気はまだ残っている。真彩は止めていた息を吐き、涙でぼやけた視界を拭った。
「でも、時間がないっていうのに、真彩とずっと一緒にいたいとも思ってるんだ。死んでできなくなったことを、真彩を利用して精算してるんだ。それが……それも、すごく嫌だ。でも、真彩に会えなくなるのが怖い。怖くて……暗い影に飲み込まれそうになる」
 感情の重さに潰されそうだった。でも、受け止めくてはいけないのだろう。幽霊と関わった以上は。
「……サトルくん、ごめんね」
 なんと言えばいいか分からない。でも言わずにはいられない。頭に浮かぶどれもが意味を持たない言葉に思えて嫌悪が走る。
「サトルくんは、成仏するべきだよ。その手伝いは最後までやるから、だから……」
 ――変わらないで。
 最後までは言えず、固い地面を見つめた。その時、何故かあの熱を帯びた海の日を思い出した。

 ***

 サトルの影は、時間をかけて収縮していった。しかし、あれきり言葉を交わすことはなく、彼はふらりと校舎の中へ消えていった。真彩も追いかけはせず、放心状態のまま昇降口を出た。
 校門の影もいつの間にか元に戻っている。それをぼんやり見ていると、カナトから労うように手を引かれ、校庭に誘われた。
「サトルくんは君を待ってたんだよ、ずっと」
 すっかり冷えた夏の夜空の下、ほとんど使われない朝礼台に座るカナトと、小さく縮こまる真彩。何も言わない真彩に対し、カナトはのんびりと話し始めた。
「ずっと待っていたら、彼の影が一気に濃くなったんだ。それからだよ、急激に暴走してしまって。僕の説得じゃどうにも収まらなくてなってね。あと少し遅かったらまずかったよ」
「そう、ですか……」
 あまり話が入ってこない。でも、サトルを怒らせた理由はもうすでに分かっている。いかに自分が浅はかだったのか思い知り、涙も出てこない。
「わたしの言葉が、どれだけ影響を与えるか、まったく分からなかった。多分ずっと、わたしはサトルくんを傷つけてた。それに気づかなかったから……」
「なんて言ったんだ?」
 カナトの質問が食い込む。真彩は顔をうつむけ、小さく声を濁らせて言った。
「わたしは、生きていたくないって。死んでも良かったって、言いました」
「それは、さすがのサトルくんもキレるよねぇ」
 いつも怒らせるのはカナトの方だが、それを棚に上げて笑い飛ばされる。真彩は顔をしかめてカナトを見上げた。腫れた目がぬるい風に当たって痛い。
「と言っても、僕も似たようなものだね。あえて本心を引っ張り出して白状させれば、やつらは勝手に悪霊になってくれるし、そいつを祓ったほうが簡単で楽。効率もいい」
「……なんでそんなことを」
「だって、非存在だからね」
 非存在、とは。言葉を頭で変換するのに時間がかかり、意味はまったく分からない。
「君は岩蕗先生から何を学んだんだよ。授業で言ってたじゃないか。やつらは常識から外れた存在であり、平等じゃないんだって。そういうことさ」
 呆れの口調で言うカナト。真彩は記憶を巡らせて思い出した。
「君だって、最初はそうだったろう。関わりたくないって思っていたよね」
「それは……そうですけど」
 本当にそう思っていたのか、今では自信がない。もしかすると、幽霊が視えることこそが自分たらしめる証明のようなものだったかもしれない。誰も信じないのをいいことに、他人を遠ざける理由にしていたんだろう。真彩は心臓を掴むようにシャツを握った。
「情ってのは厄介なものだよ。悪いものも許さなくちゃいけなくなるからね。だから、僕は正しいことしかしない」
 彼はフードの下に隠した目を細めて笑った。そして、その形のまま言葉をつなげる。
「サトルくんが完全な怪物になってしまったら、僕は彼を祓うよ。あの図書室の影みたいに」
「……っ」
 目を見張り、重たい瞼がじかじか痛む。それよりも痛いのは心臓だった。ぎゅっと握りつぶされるような苦しさを感じる。
「あはは。動揺してるねぇ。でもまぁ、しょうがないか。君は割と早い段階で彼に依存していたんだったね」
「……わたしは、サトルくんを助けたいだけです」
「それは同情から? 偽善だよ、そんなのは。何一つ優しくない。押し付けがましい優しさがあの影を生み出す」
 言い返そうとしたが、言葉は出なかった。真彩はうつむいた。そもそも議論する気力はない。感情がぐちゃぐちゃとまとまらず、ただイライラする。
「わたし、どうしたらいいの……?」
 どうせカナトのことだから、答えもあっさり返してくれるだろう。正義の味方はいつだって正解を述べてくる。彼は予想通り、愉快そうに笑った。
「関わらなければいいのに。馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに」
「………」
 きっと、それが正解だ。
 八月十一日は白かった。曇りでもなく、晴れでもない、中間のようなもやもやした天気で、それがどうにも自分の心模様と重なって気が滅入る。
 母が一時帰宅する前に、真彩は父から持たされたお金と三日分の荷物を持って電車に乗った。お盆の帰省ラッシュと重なり、子供連れが多かった。いつもは沈黙を互いに押し付け合った圧迫感があるのに、今は浮足立ってはしゃぐ陽気さがギュウギュウに敷き詰められている。その中で、真彩はぽつんと目を曇らせていた。
 海とは縁遠い山のふもとに祖母の家がある。私鉄窪駅から遠戸(とおど)駅まで一時間。駅前は閑散としており、箱に詰まっている楽しげな人々を見送って、真彩はトボトボと改札を抜ける。蒸し暑くも、コンクリートが薄い地域は気温がわずかに低いように思えた。
 静かな古い駅舎から出て、高さのない小さなビルやアパート、古い民家を横目にバス停まで行く。
 その道中、真彩は何度も背後を振り返っていた。蝉の声が降りしきるだけの道。誰もいないが、視線を感じる。背中を舐めるような感覚。人の少ない場所ではとくに感覚が研ぎ澄まされる。それは数年前から変わらずで、昔からここは魔の気配が強い。
 額に汗が浮かび、こめかみを伝って流れる。真彩は頭を振って先を急いだ。


 祖母の家はバスを乗り継ぎ、山の中腹まで登る。高齢者の乗客がまばらにいる一番最奥に陣取った。目をつぶっていること数分。バスは意外にもあっという間に停留所へ近づいた。
『三津目(みつめ)~、三津目~。お降りの方はお知らせください』
 ボタンをさっと押して降車の準備をする。バスが停まってすぐ、荷物を抱えて駆け降りた。
 あの視線は未だに消えない。真彩は心臓の鼓動が速くなっていくことを自覚していた。緊張と恐怖。幽霊は見慣れているはずなのに、反射的に怯えている。
 ――大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。
 幼い頃、自分で言い聞かせていた言葉を脳内で繰り返す。ぞわぞわと緊張感が一歩進むごとに増していき、その度に「怖くない」と言い聞かせる。
 坂を登り、足に疲れを感じていると、ようやく祖母の家が見えてきた。開けた土地には何軒か古民家が建ち並んでいる。その一つが祖母の家であり、父の実家だ。
 ひまわりと朝顔で敷き詰められた庭に気をつけながら入り、玄関のドアチャイムを鳴らす。ゴーンと錆びた音が鳴った。
「はあーい」
 祖母の甲高い声が扉の向こうから聞こえる。慌ただしくバタバタと駆け込む音のあと、扉が大きく開かれる。
「いらっしゃい、真彩ちゃん。久しぶり。大きくなったわねぇ」
 待ちかねていたような言葉もだが、丸く張った祖母の顔がちょうど目の高さと同じで驚いた。
 そして、黒い影がべったりと祖母の背中に張り付いており、真彩は思わず息を止めた。どうしてここにも影が。
「……疲れたでしょ。さ、上がって」
 顔を引きつらせたからか、何も言わないからか、祖母はすぐに怪訝そうな顔をして狭い框(かまち)を上がった。祖母はすぐに目を逸らしたが、影はじいっとこちらを向いたままだ。
 真彩は小さな声で「おじゃまします」と他人行儀に呟いた。
 父の部屋だった一間に通され、祖母が早々に部屋を離れてから、真彩は黒い床板に座り込んだ。古くてカビ臭い。学習机だけが部屋に似つかわしくない明るい木目。ここは祖母の近くよりはまだ空気が軽かった。
 折りたたみのベッドに、たたまれた布団が置いてある。前もって準備をしてくれ、待ちかねたように出迎えてくれる祖母の気持ちには応えたい。でも、優しい顔をして「気味が悪い」と言われたあの日のことを忘れてはいない。心の中に残ったままのしこりが転がるような気持ちの悪さを感じる。
 ――馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに。
 ふと、カナトの言葉を思い出す。彼にはサトルと岩蕗先生へ、祖母の家に泊まることを伝えてもらったが、あの胡散臭い先輩がきちんと伝えてくれるのかは正直不安だった。
「忘れてしまえ、かぁ」
 多分、過去のことも忘れてしまえばいいのだろう。そうやって消化していけば楽になれるのだろう。
「どうやったら忘れられるんだろ」
 床にうつ伏せで寝転ぶ。熱した体が冷たく固い床に押される。寝心地は悪いが、熱を冷ますにはちょうどいい。
 黒い木目を見ていると、記憶の中に吸い込まれそうだった。断片的に思い出す祖母の言葉と幽霊。確か、初めて視たのはこの家だ。なんと言ったかまでは定かじゃないが、祖母を怖がらせたのはよく覚えている。
 何度もしつこく言うから、ある日、祖母は金切り声で真彩を叱った。
 ――怖いこと言わないで!
 それは、言ってはいけないことなのだとようやく気がついた。確か、七歳の夏。それから、父は祖母の家から真彩を自宅に連れ帰った。
「……忘れたいのに」
 忘れられない。つらいものほどずっと残ったままで嫌になる。


 夕食は一緒にとらなくてはいけない。今日はまだ叔母が来ないらしく、祖母と二人きり。
 祖母の肩にいる黒い影を話すわけにはいかないので、真彩は黙ることに専念した。あれも後悔の怪物なのだろうが、生きた人間に取り憑くとは思わなかった。絶対に目を合わせてはいけない。じっと手元だけを見ていた。
 濃い味の煮物と白米、唐揚げとエビフライ、ワカメの味噌汁、ナスの煮浸し。豪華な夕食だ。しかし、食欲がないので箸がすすまない。祖母は呆れたようにため息を吐いていたが、真彩は顔を上げずに黙々とつまんだ。この生活をあと二日続けると思うと気だるくて仕方ない。
「――真彩ちゃん、もう高校生になったのね。早いわねぇ」
 唐突に明るげな声を出す祖母だが、真彩はこくりとうなずくだけにした。それでも祖母は諦めずに話しかけてくる。
「学校はどうなの? 楽しい? お友達できた?」
 他愛ない質問。しかし、答えがないのでやはり黙るしかない。祖母もこの気まずさをどうにかしようと必死だった。
「部活とか入ってるの?」
 首を横に振る。
「あら、そうなの。じゃあ勉強を頑張ってるのかな。小学校のときはあまりいい成績じゃなかったってお父さんから聞いてたけど、ちゃんと進学できたならそれでいいよねぇ」
「んー……まぁ、うん」
「真彩ちゃんはお父さんにそっくりなんだから、勉強も運動もそこそこできるはずなのよ。もうちょっと頑張ればできるはずって」
「………」
 会話がすぐに途切れてしまう。祖母は音を立てて味噌汁をすすった。
「……それで、お母さんの具合はどんな感じ?」
 祖母の声音がわずかに変わる。ひっそりと声を落とし、真彩を覗き込んできた。その視線から逃げるように椅子を引く。
「最近、お見舞いには行ってないって聞いてるんだけど。本当なの?」
 その質問に、真彩は「なるほど」とようやく合点した。
 祖母は五ヶ月前に母が自殺未遂を起こしたことを知らないんだろう。父に聞いてもはぐらかされるので、真彩から話を聞こうとしている。
 ――一度も見舞いに来ないくせに。
 真彩は唇を噛んだ。塩辛い味がした。箸を置く。
「……お母さんは、もう治らないって」
 顔は上げずに早口で言う。ふてぶてしく口元に冷笑を浮かべて。
「ちょっと前までは立ち直ってたの。でも、わたしが中学に上がってからしばらくして、また具合が悪くなったの。ずっとその繰り返し。よくなったり悪くなったりで、この間なんて、病室の窓から飛び降りようとしたんだから」
 祖母は信じられないと言うように息を飲んだ。
「え? ちょっと待って、真彩ちゃん、それ本当なの?」
「ほんとだよ。それで、わけを聞いたらさ、なんて言ったと思う?」
 口が止まらない。急に全身を熱が駆け巡り、それが原動力となって言葉が止まらない。
「真彩が悪いんだって、泣いてた」
 母が病室で泣く姿が鮮明に思い出される。中学を卒業したその日。あれきり、母には会えずにいる。どういう意味でそんなことを言ったのか、今となっては分からない。知りたくもない。考えて、悩んで、疲れてしまうと、自分が生きているだけで母を不幸にしているんだと気がついた。心にヒビが入っていく。
「真彩ちゃん、それは……嘘よ。絶対、お母さんは何も本気でそんなことは……」
「ううん。それも本当なんだと思うよ。お母さんはずっと、わたしのことを心配して、わたしのせいで壊れちゃったから」
 顔は多分、笑っている。でも、まぶたが震えている。声も震えた。喉の奥も震えた。さっと血の気が引いた。口にしてしまえば少しは楽になれるかと思ったのに、そうはならなかった。
 祖母はもう言葉を失っており、煮物に箸を伸ばしていた。真彩も居心地が悪くなり「ごちそうさま」と早々に食卓から逃げ出した。
 暗い部屋に潜り込む。ドアを閉めて、床板に身を投げた。黒い床に熱を吸い取ってもらう。一緒に記憶も持っていってほしいのに、嫌な記憶ほど頭から離れない。
 ――わたしが悪い。
 母が壊れたのも、父から遠ざけられているのも、幽霊が視えるのも、祖母に怖がられているのも、全部、あの事故のせい。自分のせい。そう思いたくはないけれど、自分のせいにしておかないと気が済まない。
 ――ねぇ、サトルくん。
 昨夜の彼を思い出す。
 ――やっぱり、わたしは生きていたくないんだ。
 頭の中の彼は、まだ叫んでいる。死にたくなかったと泣くサトルの顔を思い出すと、鼻の中が冷たくなった。
 ――でも、今さら死ぬ勇気もないから、わたしはどうしたらいいか分からない。

 ***

 暗い気持ちは苦手だから遠ざけていたのに、どうやらそういうわけにはいかないらしい。向き合うのが怖いから逃げていたのだと今さらながら気づいたサトルは、真彩の机に腰掛けていた。彼女を傷つけたことは忘れていない。しかし、罪悪感を抱えるにはこの体は脆すぎる。
 生きていたくない、と真彩から言われて一気に膨れ上がってしまったもの。溢れて出てきてしまったもの。それがまだ残っている。
「はぁぁぁぁ……」
 ため息と一緒に出ていってくれないか。そんな期待もすぐに裏切られ、ため息が落ちていく。そんな彼の背後にぬっと人影が現れた。
「わっ!」
 大声が教室に響き渡り、サトルは耳を塞いで机から飛び降りた。
「はぁぁ……なんだよ、お前かよぉ……びっくりさせんな」
 耳を塞いだまま悪態をつく。驚かせた張本人であるカナトは腹を抱えて笑った。
「あははは! 驚いてるねぇ。君、大きな音が苦手なんだっけ?」
「あぁ、そうだけど」
 不機嫌に答えてやる。
「それは昔から?」
「ん……? うん? そう、だったかな」
 すぐには思い出せない。大きな音は苦手だ。死んでからだったような。でも、大きな音は誰だって驚くと思う。爆発するような、突発的な衝撃音には何故か過剰にびっくりしている。
 カナトは探るように首を傾けて顔を覗いた。
「はっきりとは思い出せないみたいだな。それとも、忘れてるのかな?」
「どうだろ。ってか、そんなの今、関係なくない?」
「関係あるよ。あるある。君さぁ、もう少し自分のことを見つめ直したほうがいいんじゃないか?」
 偉そうに顎を反らせて言うカナト。今度はサトルが首をかしげた。
「……でも、思い出せないし。しょうがなくない?」
「そうやってすぐ諦めるから、怪物になりかけるんだよ。いいかい、サトルくん。円満に成仏する秘訣は後悔しないことだよ」
「うっわ、一番難しいこと言ってきた……」
 サトルは黒く濁った指先を隠すように握った。それでも、体のあちこちは黒い影が残っている。
「君は今までのんびり平穏に幽霊生活を送ってたんだろう? だったら、もう少しできるはずだ。真彩ちゃんと関わらなければなお良かったのに」
「いや、だって……」
 思えばそうだ。真彩を見つけて、話していたら、もう戻れなくなっていた。人と話すことの楽しさを思い出してしまった。一人でいることがこんなに心細かったなんて気づくこともなかった。仕方ないと割り切っていたものが捨てられなくなっていた。
 それはつまり、未練じゃないか。だから、真彩から離れられない。
「……たとえ怪物になっても、一時でも真彩の近くにいられるなら」
 言いかけてやめた。思わず口をついて出てきた言葉に自分でも驚く。それをカナトが聞き逃すはずがなく、怪しむように口を曲げた。
「それ、一番最悪なエンディングだね」
 口に手を当てて黙るサトルに、カナトの言葉は容赦ない。
「真彩ちゃんにも言ったけどさ、そうなった場合は僕が君を祓うよ」
「そっ、れは……」
 嫌だ。でも、消えてしまったほうがいいのかもしれない。そのほうがいい。本当なら、もうこの世に存在しないのだから。
 目を伏せて、諦めようと拳を緩めた。
「いや、それでもいい」
 投げやりに返すと、カナトは一歩近づいてきた。フードの下から苛立たしげに目を覗かせる。
「あぁもう、分かってないな。悪霊祓いってのは除霊なんだよ。浄化するんじゃなく、この世から跡形もなく無理やりに消滅させるんだ」
「無理やり……?」
「そう。言うなれば、幽霊を殺すということ。図書室の影を見ただろう?」
 水鉄砲で撃たれて消えたあの黒い影――呆気なく砕け散った誰かであったもの。あんな風に消えてしまうのは嫌だ。
「ま、君がそれでいいなら今からでもそうしてやっていいんだよ。悪霊予備軍の君にも対応は可能だし」
 そう言いながらカナトはポケットから小さな水鉄砲を出した。ちゃぽんと軽いしぶきの音が恐ろしく聞こえる。
「どうする? 今ここで死ぬか、真彩ちゃんの目の前で死ぬか。一回死んでるから慣れてるだろうけれどね、選ばせてやるよ」
 カナトの低い声。水鉄砲の照準を合わせ、引き金に指をかける。
「……どっちも嫌だ」
「おいおい、怖気付いたか。でももう遅い。君は今や、ただの未練がましい悪霊だ。それを僕が許すわけにいかない」
 一歩ずつにじり寄るカナト。そこに悪意は一切ない。使命感で働く彼の強い熱に、サトルは動けずにいた。