八月六日は、昨日の青さとは対称にどんよりと重たい曇り空が広がっていた。
 矢菱町駅に今朝はサトルの出迎えがなく、改札はなんだか殺伐とした風が流れている。真彩はざわめく人混みの中にぽつんと一人だけ取り残される気分だった。黙々と考える時間が増えてしまい、その中でカナトの言葉がよみがえってくる。
 ――だって、残酷だろう? 成仏出来なかったら君は怪物になるんだよって。
 幽霊の末路が後悔の怪物だなんて。あの黒い影が幽霊だったなんて。
 負の感情が溜まりに溜まり、濁っていく。透明が黒へと染まる。そうして自分が何者かでさえも分からなくなり怪物と成り果てる。そんなものだったなんて。にわかには信じられない。
 サトルのあの底抜けな笑顔に、この事実を告げるのは確かに残酷だと思う。だが、知っていれば未然に防ぐこともできるんじゃないか。知らないままのほうが良くないのでは。でも、そのことをどうやって伝えたらいい――
 真彩は頬をつねった。力は入れずにもっちりと伸ばす。考えがまとまらない。悩みが膨れるごとに頬をつねる回数が増えていく。そうしてトボトボと寂しく小路を抜けると、半透明の体にぶつかりかけた。
「うわぁ! びっくりしたぁ!」
 声が驚き、大きくのけぞる。鼻先に冷たい風が当たり、真彩も思わず目を見開く。サトルだった。
「お、おはよう」
 頬をつねった手のままで言うと、彼も「おはよう」とぎこちなく返す。
「あはは。何その顔」
 冷やかしたっぷりな指摘に真彩は開いたまぶたを落とした。引っ張っていた頬を離し、後ろ手を組む。
「元気だね……」
 こちらの悩みなど、まったく感じ取っていないサトルに皮肉っぽく返す。しかし、それすらも彼には通じていないようだった。
「ん? なんか言った?」
「なんでもない」
 うんざりと言い、真彩はしぼんだ群青の朝顔を見やりながら校門を目指した。
 すると、あの影がこちらを向く。真彩に気がついたように。ぞくりと背筋が凍るような黒い影。今や足も飛び出していて、気味の悪さが増していた。これも誰かの影であり、後悔の怪物だ。こんなものになってしまうのだろうか、サトルも。それは絶対に嫌だ。
「うわぁ……」
 横でサトルが嫌そうに顔をしかめた。
「こいつ、なんでこんなキモい生え方なんだろうな」
 聞かれても分かるはずがない。幽霊は漂流しているものだが、影はこんな風にどこかしらにへばりついているのかもしれない。駅前に浮遊する幽霊や、電柱にくっついていた幽霊も放っておけばいずれは黒い影となり、後悔の怪物になってしまう。
 校門の影は誰かが埋めて置き去りにした寂しさを感じた。そして、近づけば近づくほど不安や恐怖が煽られる。怖い。吸い込まれそうになる。もう二度と戻ってこられない――
「なぁ、真彩」
 呼びかけられ、真彩はハッと我に返った。
「何?」
「いや、この黒い影ってさ、他の場所でも視るのか?」
 彼の顔は少し暗い。心配の色が見え、真彩は慌てて頭を振った。
「ううん。影はここだけ」
「幽霊は?」
「……幽霊は、よく視るよ」
 サトルは怪訝な顔をしていた。詰問気味な言い方に違和感を覚える。
「線路に、たまにいるんだよね」
 思い当たるものをとつとつと話した。
「あと、電柱とか。道路にも。いるよ、いっぱい。どこにでも」
 サトルは真顔で聞いていた。そんな彼に、真彩も真剣な目を向ける。
「ああいうのはあちこちにいるし、とくに天気が悪い日は視えやすいから避けるのに精一杯」
 サトルの目がだんだん遠くなっていく。彼は肩を落としてため息を吐いた。
「マジかぁ……やっぱりつらいだろ、それ。ほんと、どうにかならねーの?」
 真彩は咄嗟に鼻の奥が痛んだ。つんと張り詰める。それをこらえるようにすぐ口を開いた。
「ならないねぇ……でも、」
 やっぱり言葉を切る。もごもごと舌を丸めながら、うつむいた。
「でも、つらいだろって言ってくれたのはサトルくんだけだよ」
 今までそう言ってくれたのは、サトルただ一人だ。彼が幽霊だからということもあり、話しやすくなったのは明らかで、真彩は気恥ずかしく熱が上がりそうだった。一方、サトルは不審な声を浮かべる。
「え、そうなの? それもどうなんだよ……ってか、真彩の家ってあんまりいいイメージがないんだけど、大丈夫なのか?」
「……うーん」
 言いたくない。イメージが悪いのは間違いないが、明るく幸せそうな彼に事情を話すのは気が引けた。こちらの不幸をあえて伝える必要はない。心配されているのが分かっているからなおさらだ。
 真彩は顔を上げ、校門へ足を踏み出した。サトルが影を遮って横に並ぶ。その時、黒い腕が風に煽られて大きく伸び上がった。
「えっ!?」
「うわっ、なんだ!?」
 二人同時に声を上げる。黒い影はただ煽られただけなのか、こちらへの攻撃はない。ザワザワと砂嵐のごとく音を立てていた。すぐに校門から離れる。
「なんだったんだ、あれ」
「さぁ……でも、すごく怖かった……」
 答えると、手が震えていることに気がついた。冬の寒空に放り出されたかのように、体の奥がきしんでいる。
「真彩、」
 サトルは言いかけてやめた。自分の手を見つめ、顔をしかめる。そして、影を睨みつけた。
「俺がなんとかしてやれたらいいのに……」
 そのつぶやきが暗さを帯びている。真彩は彼の足元を見た。黒いアスファルトに溶けている足。それがなんだか黒く濁っている気がする。彼の眉間にも黒いものがざわめいており、真彩は目を見張った。
「サトルくん、大丈夫だよ。行こう」
「え? あ、あぁ。うん……行こうか」
 黒い靄がパッと散る。元の半透明な色を取り戻したサトルに、少し安心する。
 ――時間がない。
 すぐに感じた。彼の中にも影が潜んでいる。


 昇降口に入ると、すぐに白いパーカーが目に留まった。
「やぁ。おはよ、真彩ちゃん」
 自称祓い屋のカナトが片手を振って出迎える。彼の上履きを見れば、確かに一学年上のカラーである青いラインが入っており、ようやく先輩なのだと認識する。しかし、怪しいことには変わりない。
「うわーっ、死神じゃん! 真彩、こいつだよ、死神!」
 サトルが大げさに指をさした。こっちの事情を知らないので騒ぐのは仕方ないが、今は黙っていてほしい。話がこじれそうだ。真彩は素早く言った。
「うん、知ってる」
「え? 真彩、こいつのこと知ってたの? 霊感だけじゃなくエスパーも持ってるのか?」
「いいからちょっと黙っててよ」
「えぇ? ハイ……」
 強く言い過ぎたかも。真彩は反省しつつ、カナトに目をやった。
 彼はスラックスのポケットに手を入れ、フードから冷めた目を覗かせる。口は軽薄さを残したまま。
「あれ、おかしいな? 仲がいいと思ってたんだけど、そうじゃないみたい?」
 カナトはわざとらしく首を傾げた。
「なんの用ですか、カナト先輩」
「おぉ、なんだか敵意をビシバシ感じる言い方をするじゃないか。助言をしてあげようと、わざわざ朝から待ってるのに」
「助言?」
「そう。君たちが危ないことをしないように、祓い屋の僕が手伝ってあげようとしているんだ」
 カナトは上履きをペラペラ鳴らして後ろに下がった。
「はぁ……?」
 昨日も聞いたが、祓い屋とは具体的に何をするのか。イメージするのは奇っ怪な霊能者だが、彼もそれに通じるものがある。怪しい御札を持ち歩いてそうだ。
「お前、死神じゃなかったのか」
 サトルが横で驚くが、問うべきはそこじゃない。
「だから死神じゃないって言ってるだろう。まったく、君たちは僕をなんだと思っているんだ」
「不審者でしょ」
 即答を投げ込むと、サトルも大きくうなずく。カナトは悲しげに口を曲げた。
「僕はいつも誰に対しても誠実に対応しているのに……」
「いつもが分からないからなんとも言えないんですけど」
 ぶっきらぼうに言い放つ。カナトは肩をすくめて諦めた。
「……あのさ、話が見えないんだけど。この怪しさ満点の死神が手伝ってくれるって何、どういうこと?」
 サトルがおずおずと間に入ってくる。その質問にはカナトが素早く反応した。
「どういうことも何も、僕は昨日、彼女に会いに行ったんだよ。君がのろまだから僕が介入しないといけない気がしてね、満を持して表に出てきたんだ」
「怪しいお前に言われてもなぁ……今んとこ、俺も真彩もお前への信用ゼロだぜ? なぁ、真彩」
「うん」
「怪しいのはこの場にいる全員だよ」
 カナトが鼻から嘲笑を飛ばす。二人の不信感をもろともしない。
「怪しいもの同士、仲良くしようよ。成仏できない幽霊に、死にそうな霊感少女、おまけに頼れる祓い屋の先輩だ。不足はないだろう?」
 これにはサトルも丸い目を困らせた。
「……真彩、こいつ絶対やばいって。関わらないほうがいいよ」
「えぇ? うーん……まぁ、そうなんだけど」
 どうしたらいい。断るための言葉をひねり出そうとするが、全然浮かんでこない。真彩も、カナトから手伝ってもらうことには気が進まなかった。でも、この自称祓い屋がいればサトルの影を止められるかもしれない。霊感はあっても自分が力不足なことは十分に分かっている。
「あれ? 真彩? どうした?」
 むくれ顔を見るなり、サトルが驚いた。黙っておく。考えがまとまらないから何とも言えない。
「ほら見ろ。お前が嫌すぎて真彩がムカついてるぞ」
「えぇ? 僕のせいか? むしろ、真彩ちゃんを困らせてるのは君だろう」
 放っておくと口論が始まった。
「死んだ理由を探してくれなんて、普通、生者に頼まないし、非常識だよ」
「非常識なのはお前だろ」
「いいや、君のほうだ」
「お前が断然怪しい!」
「はー……まったく、これだから幽霊は」
 カナトも面倒になってきたのか、声の端々に棘を含ませた。両手を伸ばし、サトルの頭をがっしり掴む。
「君たち幽霊は自覚がないから救いようがない。いい加減に成仏しろ」
「それができねぇって言ってんだろ! つーか、お前、なんで俺のこと触れるんだよ」
「僕は干渉できる体質なんだ」
「え、どういうこと?」
 思わず口を挟んだ。カナトはサトルの頭を掴んだまま止まる。
「幽霊に触れるの?」
「触れるし、祓えるよ。僕にはそういう力があるんだ」
 カナトは当然のように言った。そのついでにサトルの髪をくしゃくしゃにする。
「ご覧の通りだ。真彩ちゃん、僕が加わることで効率が良くなるっていうのは明白だろう? 何を迷うっていうんだよ」
「お前が入ることでめちゃくちゃになりそうなのを危惧してるってことだろ」
 すかさずサトルがつっこむが、その通りである。だが、カナトの言っていることも間違いではない。
 ――そうだ。
 真彩は目を細めて二人を見やった。
「……一つ条件があります」
「いやいやいや、真彩、こんなの仲間にしちゃダメだって。面倒なだけだって。いちいち条件付けて相手にするのはやめたほうがいいって」
「ちょっと黙ってくれない?」
 話が進まない。サトルの余計な茶々をピシャリと鎮め、真彩は息を吸った。
「まずは、祓い屋っていう証拠を見せてください。話はそれからです」
 挑戦的に言う。すると、サトルが先に口を開いた。が、言葉にならずにパクパクするだけ。
 一方、カナトはしたり顔で口の端を伸ばして笑った。
「なるほど。要は何か祓えってことか。確かに見た方が話は早いね」
 物分かりはいいらしい。こちらの意図も読むようにカナトは自信たっぷりに言った。
「OK。それじゃあ見せてやろう。僕の力をとくとご覧あれ!」
 そして、サトルを見る。大仰に手を振り上げ、サトルの心臓部に手をかざす。
「手始めに、この幽霊を払えばいいのかな」
「ダメに決まってるでしょ! 何ふざけてんですか!」
 真彩は慌ててカナトの手を叩いた。サトルがすぐに後ずさって逃げ、情けなく真彩の背後に隠れる。
「あはは、冗談だよ、冗談」
「冗談に聞こえねーよ!」
 サトルの主張は正しい。真彩もカナトをじっと睨み、サトルを守るように両手を広げる。カナトはそれを笑い飛ばす。しかし、みるみるうちに口角が下がり、彼は一歩ずつ後ずさった。
「……先輩?」
 怪訝に聞くと、カナトは真っ直ぐに前を指差した。それを真彩とサトルは揃ってたどる。
 視界の先にいたのは、顔をしかめた岩蕗先生。
「一ノ瀬さん、何をしているの?」
 何をしているか、なんて聞かれてすぐに気の利いた言葉は返せない。
「さて。面倒なことになる前に、僕は一旦退場するよ。あの人のことは大好きなんだけど、会えばお説教ばっかりだからさ。それじゃ、うまくごまかしといてね」
 カナトは真彩の脇をすり抜けて、階段を駆け下りていった。
「……真彩。あいつ、ぶん殴ってきていい?」
 サトルはカナトが消えた場所を不機嫌に見ていた。ふと、彼の指先を見る。透明の指が鈍く濁っている。暗い色に。
「サトルくん! 悪い気持ちに引っ張られちゃダメ!」
 思わず言うと、近くに来ていた岩蕗先生の足が止まった。恐ろしいものを見るような目をこちらに向けている。先生の視線が怖い。真彩はサトルの指先だけを見つめていた。
 一方、サトルは面食らったのか、丸い目を丸くさせて真彩と先生を交互に見る。
「……一ノ瀬さん、あなた、大丈夫?」
 サトルの手よりも先に、先生が彼女の肩に手を置いた。ふっくらと温もりのある手だった。思ったよりも優しくて、同時に血の気が引くような寒気が走る。
「なんでも、ないです。大丈夫です。心配、しないでください」
 真彩は視線を落としたまま、ボソボソとごまかしの言葉を返した。あまりにも下手で気休めにもならない。