真彩は頬杖をついて、数学のプリントを眺めていた。問題に答える気はなく、昼間の話し合いについて考えている。
サトルの死因を調べるには、他にもいろいろと効率のいいやり方があるはずだ。スマートフォンでインターネットを開き、それらしいキーワードで検索をかければ分かるかもしれない。図書館で新聞のバックナンバーを探すのも頭に入れておこう。最後の手段として、サトルの家に行くことも考えた。手間はかかるが、来週くらいまでには調べがつくだろう。思わぬ夏休みの課題だと考えればいい。
ただ、ノートに走り書きしたあのメモは、どれも不正解だからそれ以外で考えるしかない。自殺や他殺はやはり考えられなかった。溺死と遭難はもしかしたらあるかもしれない。だが、当の本人は「海に行きたい」と言っていた。これも考えにくい。
では、交通事故の可能性が高いだろうか――
真彩は目を閉じた。人が死んでしまうほどの交通事故とは、相当に悲惨だろう。
ぶつかった瞬間、耐えきれない衝撃に体が押しつぶされる。思考は飛び、何が起きたのかさえ分からないまま、意識が消える。そうすると、記憶がなくなってもおかしくないかもしれない。
ぼんやり考えていると、頭の奥が鈍く痛んだ。額を揉んで和らげようとするも、それは徐々に痛みを自覚させる。
――あぁ、もう。やだなぁ……
無意識に記憶が引っ掻き回される感覚が不快だ。ぐるぐると渦巻く記憶の中、車の急ブレーキ音と母の叫びが不協和音となって思い起こされた。
交通事故には一度だけあったことがある。だが、記憶は曖昧で、その映像がたまによみがえる程度だ。嫌な記憶ほど抹消してくれればいいのに、暗い気持ちに陥って、戻れなくなりそうで怖い。
その恐怖心が目の感度を異常に発達させているのかもしれない。幽霊が視えるようになったのは、事故の後だったから。
真彩は眉間にシワを寄せて、窓の外を見やった。教室の窓からはあの黒い影が視える。どうしてあの影が無性に怖いのか、いくら考えても分からない。ただ、あの影が事故の記憶やそれからの生活のように冷たく暗いものを呼び寄せているのには気がついている。
「――……真彩……真彩」
誰かが呼んでいる。暗い水底から顔を上げると、明るい光のような声が降ってきた。
「真彩!」
冷たい風が顔を直撃する。真彩は身震いして顔を上げた。サトルが目の前で顔を覗き込んでいる。その背後では岩蕗先生の冷めた視線があった。
「……一ノ瀬さん」
うんざりとした先生の声。思わず視線をずらすと、サトルが苦笑を浮かべていた。
「補習で寝るなんて、信じられないわ」
先生は教壇から下りず、呆れの息を吐く。それが怒っているように見えて、真彩は萎縮した。
「すいません……」
これには反省する。言い訳も思いつかず、それに心臓はまだ早鐘を打っている。頭痛も治っていない。いつの間に眠っていたのだろう。体がいつにも増して重く感じる。そして、サトルの冷気に当たって寒気も感じた。
「はっ……ぶしゅっ」
くしゃみが飛び出し、鼻をすする。岩蕗先生が振り返った。
「風邪でもひいたの?」
「え、いや、多分、違うと思います……」
バツが悪いので今日はもう大人しくしておきたい。素っ気なく答えてしまい、先生は怪しむようにうなった。
「あなたがいつも気だるいのは知ってるけれど、今日はいつも以上に調子が悪そうね」
そう言って、教壇を下りてくる。涼し気な表情には若干の心配が浮かんでいた。
「今日はもう終わりにしましょうか。ちょっと早いけれど」
時刻は十四時半。日差しは強いが、今はその熱が欲しかった。
***
「いやぁ……真彩の集中力のなさはかなりヤバイよね」
先生が教室を出ていってすぐにサトルが言った。
「ノート全然とってないじゃん。俺だってもう少し真面目にノート書いてたぜ。どんだけやる気ないんだよ」
開いていたまっさらなノートを指して笑うサトルに、真彩は不機嫌を向けた。
「ちょっと、今日は調子が悪かったんだよ」
「先生が言うにはいつもって感じだったけど?」
「まぁ……」
本当に調子が悪いのか、思うように言葉が出てこない。サトルも真彩の暴言を身構えていたらしく、丸い目を瞬かせる。
「……大丈夫?」
「大丈夫。サトルくんが冷たいから、外に出れば温まると思う」
「俺のせいかよ!」
不意打ちの攻撃に当たり、サトルは平手打ちを食らったような顔をした。肩を落として落ち込む。
「……じゃ、帰ろっか、サトルくん」
ノロノロと帰り支度をし、廊下に出る。鍵を閉めて職員室へ行く間にもサトルはぴったり後ろをくっついていた。これでは本当に取り憑かれてるみたいだ。少し離れる。ちょっと足を速めて職員室まで鍵を返し、強すぎる太陽の下に出るまで話はしなかった。
グラウンドでは野球部が練習をしている。反対側にある体育館からけたたましいブザーが鳴る。バスケ部の練習だろうか。学校の最奥にある渡り廊下からはトランペットの、地味に調子を外した音がふわんと熱気に溶けていく。
そんな賑やかな矢菱高校の校門には、似つかわしくないあの影があった。腕だけを伸ばして、手首をこちらに向けている。
「サトルくん」
呼ぶと彼はすぐさま影を遮ってくれる。こなれた感じで来られると、昨日は意識してなかったものが熱とともに浮き上がってくる。
「なぁ、真彩」
校門を越えるちょうど、サトルが静かに言った。
「せっかく早く終わったんだし、どっか寄ってかない?」
「え?」
その意外な誘いのおかげか、影に引っ張られることはなかった。
「どっかって……?」
「んー、そう言われるとちょっと困るんだけど」
考えなしに発言したらしい。サトルらしいといえばそうなのだが、なんとなく熱が傾いていたのにすぐ冷めてしまう。
「……公園行く?」
その提案が頼りなく小さい。
「この炎天下に公園? バカなの?」
「うっ……えー、じゃあ……どこがいいかな」
必死に考えるが、のどかなこの町では寄り道できる場所は限られている。
真彩はふと、昼間のことを思い出した。
「……海、とか?」
「あ! 海! 行きたい!」
人懐っこい彼の顔がくしゃりと音をたてるように笑う。それを見ると恥ずかしくなり、真彩は前髪を触ってうつむいた。
私鉄矢菱町駅までは少し遠回りだが、方向は同じなので有意義な寄り道だろう。
歩道のない道をゆっくり進む。だんだん堤防が見えてきて、潮騒が耳に流れてくる。この時間、平べったい町の上にある太陽はなかなか傾かない。この場所だけ時間の流れが遅いのかと、そんな錯覚をしてしまいそう。海を区切ったような防波堤には、釣り竿を持つ人がぽつんと立っているだけ。のどかで静かで、潮のにおいがきつい。
「……海って、やっぱり臭いね」
真彩はげんなりと言った。高く固い堤防の上を歩くサトルを見上げる。
「そうかな?」
サトルは海を見渡しながら言った。微かな波の音が聴こえるほど車の通りは少ない。壁を越えなければ海を見ることはできないから、真彩は少し切なかった。
「真彩、あっちに階段があるよ。もうすぐ降りられる」
ペタペタ走り、サトルが真正面を指差す。目を細めて見ると、あと数メートルは歩かなければ海を見ることができないようだ。真彩は肩を落とした。
――暑い。
こんなことならお茶を買っておけば良かったと後悔する。
「早く! ほら、真彩!」
「うっさい。ちょっと休憩させてよ」
熱を吸った壁にもたれる。直射日光はしのげても、暑さまでは遮ってくれない。頭がゆだってきそう。それでも太陽とサトルは容赦しない。
「車が来たら危ないだろ。ほら、急げ!」
確かに、白線が引かれた道路である。車通りが少ないにしても、人が通るには危ない道。真彩はむくれ顔を向けて動いた。
「なんであんなに元気なの……」
ぶつくさと文句を垂れ、サトルを追いかける。彼は一応、真彩がたどり着くまで待っていた。追いついたらすぐに駆け出す。
「真彩って、足は速いけどスタミナがないな」
追いついたと思ったら憎まれ口を叩かれる。まったくそんなつもりはないのだろうが、このタイミングで言われたら嫌味にしか聞こえない。
「基本、歩いたり走ったりが嫌いだからね」
「ふーん。それで陸上部の勧誘を断ってるんだ?」
「いや……まぁ、それもだけど。別に、好きで足が速くなったわけじゃないから」
好きで足が速くなったわけではない。いつの間にかそうなっていた。逃げなくてはいけないから。
サトルは「ふうん」と不審に思う素振りがなく、また置いていってしまう。
「まーあーさー!」
大きな声で呼ばれるが、これが誰にも聞かれなくて良かったと思う。
真彩は額の汗を拭って進んだ。サトルはもう海岸へつながる階段に到着している。子犬のように好奇心旺盛で、真彩の到着を待っている。
校門を抜けた時よりも重くなった足でサトルのところまで進む。堤防の切れ目が見えてきた。暗く陰っていた視界がようやく明るさを帯び、激しい明滅に思わず目をつぶる。
ゆっくり開くと、そこには碧い水平線が現れた。陽の光がキラキラとまばゆい。強い光に驚いて、思わず階段を踏み外しかけた。
「あぶなっ!」
すぐに透明の手が伸びてくる。真彩はその手を掴もうとはせず、錆びた手すりを握った。
風でたゆたうサトルの手が行き場をなくして上へ逸れる。そのまま腕を回して海を指した。
「気をつけろよー」
「うん……」
真彩は取り繕うように頷いて階段を駆け下りた。
足跡のつかないサトルの後をたどりながら、おぼつかない足取りで砂を踏む。重くて不安定な浜に怯えているとサトルがこちらを気にしながら海を目指していた。
「そんな警戒しなくても大丈夫だって。てか、海に来たことないの?」
「ないよ」
「珍しいなぁ」
「そうでもないよ。多分」
素っ気なく言えば彼は「ふうん」と、的はずれな返事をした。
砂浜はわずかに盛り上がっていて、足場が不安定なくせに山だけはしっかりと形がある。砂粒一つ一つが吸いつき、疲れた足を早く動かさなくては前に進めなかった。日差しは強いのに潮風が冷たい。白砂を下ると、そこから先は濡れて固い砂と透明な波が現れる。
サトルはすでに靴を脱ぎ散らし、靴下も取ってズボンの裾を折り曲げ、波に向かって駆け出した。
「よっしゃぁーっ!」
その歓声があまりにも楽しげで、真彩は苦笑した。
広くて遠い碧の景色は、実は肉眼できちんと見たことがない。潮のにおいも、風の音も、波の模様も、全部が初めてだ。こんなに近くで海を見たことはない。
そして、海は透明なのだと知った。ずっと先は淡い青なのに、波打ち際は透き通っている。
「うわぁ……ははっ」
これがサトルが好きな海。水に捕まらないよう、波を避けてみる。
一方、サトルは波に向かって走り、海の中へ足をつけた。透明な彼が水に浸かれば、その境界が分からなくなる。
「うーん……なんか浸かってる感がない」
近づいてみると、彼は不満そうに言った。
「やっぱり幽霊なんだなぁ……」
寂しそうな声で言われたらなんと言葉をかけたらいいのか分からない。真彩は黙り込み、少しだけ波から離れた。
「真彩、せっかくだから足だけでも浸かればいいよ。暑いだろ」
「いやぁ……」
「遠慮すんなって。ほら、おいで」
今度は手を差し出されたままだ。その手を取ることはなく、真彩は渋々、靴を脱いだ。靴下を脱げば指が息を吸う。熱した砂浜に足を置くと、ザラザラの砂がすぐにまとわりついた。波がくる。
「わ、つめたっ」
空はカンカン照りで汗が止まらない気温なのに、海は別世界のように冷たかった。でも、荒々しくひりつくような冷たさじゃなく、柔らかで心地よい透き通った冷感だ。波が立ち、岸へ押し戻される。波が引き、もう一度水に浸かる。それを繰り返せば、すぐに慣れてきた。水の中にキラキラと金色の砂が瞬き、それが綺麗で呆けてしまう。スカートが濡れても気にしない。
顔を上げるとサトルが水の中に仰向けで倒れた。碧色に染まった彼の体が水に溶けていく。本当に楽しそうで、その自由さがうらやましい。
「いいだろ、海」
腰まで浸かって、得意満面に笑う。
「まぁ、悪くないね」
「素直じゃないなぁー」
「汗だらだらでヘトヘトのあとなら悪くない」
見下ろして言ってやると、サトルは人差し指を突きつけた。
「顔!」
「え?」
「顔、笑ってる」
言われるまで気づかなかった。確かに頰が軽い。水面に映すと、向こう側の真彩は自由だった。
「そんな風に笑う真彩の顔、初めて見たなあ」
「わたしも久しぶりに笑ったなあ」
照れくさくて、ふざけた。すると、サトルは波に揺られながら言った。
「笑えよ、いつでも」
サトルの死因を調べるには、他にもいろいろと効率のいいやり方があるはずだ。スマートフォンでインターネットを開き、それらしいキーワードで検索をかければ分かるかもしれない。図書館で新聞のバックナンバーを探すのも頭に入れておこう。最後の手段として、サトルの家に行くことも考えた。手間はかかるが、来週くらいまでには調べがつくだろう。思わぬ夏休みの課題だと考えればいい。
ただ、ノートに走り書きしたあのメモは、どれも不正解だからそれ以外で考えるしかない。自殺や他殺はやはり考えられなかった。溺死と遭難はもしかしたらあるかもしれない。だが、当の本人は「海に行きたい」と言っていた。これも考えにくい。
では、交通事故の可能性が高いだろうか――
真彩は目を閉じた。人が死んでしまうほどの交通事故とは、相当に悲惨だろう。
ぶつかった瞬間、耐えきれない衝撃に体が押しつぶされる。思考は飛び、何が起きたのかさえ分からないまま、意識が消える。そうすると、記憶がなくなってもおかしくないかもしれない。
ぼんやり考えていると、頭の奥が鈍く痛んだ。額を揉んで和らげようとするも、それは徐々に痛みを自覚させる。
――あぁ、もう。やだなぁ……
無意識に記憶が引っ掻き回される感覚が不快だ。ぐるぐると渦巻く記憶の中、車の急ブレーキ音と母の叫びが不協和音となって思い起こされた。
交通事故には一度だけあったことがある。だが、記憶は曖昧で、その映像がたまによみがえる程度だ。嫌な記憶ほど抹消してくれればいいのに、暗い気持ちに陥って、戻れなくなりそうで怖い。
その恐怖心が目の感度を異常に発達させているのかもしれない。幽霊が視えるようになったのは、事故の後だったから。
真彩は眉間にシワを寄せて、窓の外を見やった。教室の窓からはあの黒い影が視える。どうしてあの影が無性に怖いのか、いくら考えても分からない。ただ、あの影が事故の記憶やそれからの生活のように冷たく暗いものを呼び寄せているのには気がついている。
「――……真彩……真彩」
誰かが呼んでいる。暗い水底から顔を上げると、明るい光のような声が降ってきた。
「真彩!」
冷たい風が顔を直撃する。真彩は身震いして顔を上げた。サトルが目の前で顔を覗き込んでいる。その背後では岩蕗先生の冷めた視線があった。
「……一ノ瀬さん」
うんざりとした先生の声。思わず視線をずらすと、サトルが苦笑を浮かべていた。
「補習で寝るなんて、信じられないわ」
先生は教壇から下りず、呆れの息を吐く。それが怒っているように見えて、真彩は萎縮した。
「すいません……」
これには反省する。言い訳も思いつかず、それに心臓はまだ早鐘を打っている。頭痛も治っていない。いつの間に眠っていたのだろう。体がいつにも増して重く感じる。そして、サトルの冷気に当たって寒気も感じた。
「はっ……ぶしゅっ」
くしゃみが飛び出し、鼻をすする。岩蕗先生が振り返った。
「風邪でもひいたの?」
「え、いや、多分、違うと思います……」
バツが悪いので今日はもう大人しくしておきたい。素っ気なく答えてしまい、先生は怪しむようにうなった。
「あなたがいつも気だるいのは知ってるけれど、今日はいつも以上に調子が悪そうね」
そう言って、教壇を下りてくる。涼し気な表情には若干の心配が浮かんでいた。
「今日はもう終わりにしましょうか。ちょっと早いけれど」
時刻は十四時半。日差しは強いが、今はその熱が欲しかった。
***
「いやぁ……真彩の集中力のなさはかなりヤバイよね」
先生が教室を出ていってすぐにサトルが言った。
「ノート全然とってないじゃん。俺だってもう少し真面目にノート書いてたぜ。どんだけやる気ないんだよ」
開いていたまっさらなノートを指して笑うサトルに、真彩は不機嫌を向けた。
「ちょっと、今日は調子が悪かったんだよ」
「先生が言うにはいつもって感じだったけど?」
「まぁ……」
本当に調子が悪いのか、思うように言葉が出てこない。サトルも真彩の暴言を身構えていたらしく、丸い目を瞬かせる。
「……大丈夫?」
「大丈夫。サトルくんが冷たいから、外に出れば温まると思う」
「俺のせいかよ!」
不意打ちの攻撃に当たり、サトルは平手打ちを食らったような顔をした。肩を落として落ち込む。
「……じゃ、帰ろっか、サトルくん」
ノロノロと帰り支度をし、廊下に出る。鍵を閉めて職員室へ行く間にもサトルはぴったり後ろをくっついていた。これでは本当に取り憑かれてるみたいだ。少し離れる。ちょっと足を速めて職員室まで鍵を返し、強すぎる太陽の下に出るまで話はしなかった。
グラウンドでは野球部が練習をしている。反対側にある体育館からけたたましいブザーが鳴る。バスケ部の練習だろうか。学校の最奥にある渡り廊下からはトランペットの、地味に調子を外した音がふわんと熱気に溶けていく。
そんな賑やかな矢菱高校の校門には、似つかわしくないあの影があった。腕だけを伸ばして、手首をこちらに向けている。
「サトルくん」
呼ぶと彼はすぐさま影を遮ってくれる。こなれた感じで来られると、昨日は意識してなかったものが熱とともに浮き上がってくる。
「なぁ、真彩」
校門を越えるちょうど、サトルが静かに言った。
「せっかく早く終わったんだし、どっか寄ってかない?」
「え?」
その意外な誘いのおかげか、影に引っ張られることはなかった。
「どっかって……?」
「んー、そう言われるとちょっと困るんだけど」
考えなしに発言したらしい。サトルらしいといえばそうなのだが、なんとなく熱が傾いていたのにすぐ冷めてしまう。
「……公園行く?」
その提案が頼りなく小さい。
「この炎天下に公園? バカなの?」
「うっ……えー、じゃあ……どこがいいかな」
必死に考えるが、のどかなこの町では寄り道できる場所は限られている。
真彩はふと、昼間のことを思い出した。
「……海、とか?」
「あ! 海! 行きたい!」
人懐っこい彼の顔がくしゃりと音をたてるように笑う。それを見ると恥ずかしくなり、真彩は前髪を触ってうつむいた。
私鉄矢菱町駅までは少し遠回りだが、方向は同じなので有意義な寄り道だろう。
歩道のない道をゆっくり進む。だんだん堤防が見えてきて、潮騒が耳に流れてくる。この時間、平べったい町の上にある太陽はなかなか傾かない。この場所だけ時間の流れが遅いのかと、そんな錯覚をしてしまいそう。海を区切ったような防波堤には、釣り竿を持つ人がぽつんと立っているだけ。のどかで静かで、潮のにおいがきつい。
「……海って、やっぱり臭いね」
真彩はげんなりと言った。高く固い堤防の上を歩くサトルを見上げる。
「そうかな?」
サトルは海を見渡しながら言った。微かな波の音が聴こえるほど車の通りは少ない。壁を越えなければ海を見ることはできないから、真彩は少し切なかった。
「真彩、あっちに階段があるよ。もうすぐ降りられる」
ペタペタ走り、サトルが真正面を指差す。目を細めて見ると、あと数メートルは歩かなければ海を見ることができないようだ。真彩は肩を落とした。
――暑い。
こんなことならお茶を買っておけば良かったと後悔する。
「早く! ほら、真彩!」
「うっさい。ちょっと休憩させてよ」
熱を吸った壁にもたれる。直射日光はしのげても、暑さまでは遮ってくれない。頭がゆだってきそう。それでも太陽とサトルは容赦しない。
「車が来たら危ないだろ。ほら、急げ!」
確かに、白線が引かれた道路である。車通りが少ないにしても、人が通るには危ない道。真彩はむくれ顔を向けて動いた。
「なんであんなに元気なの……」
ぶつくさと文句を垂れ、サトルを追いかける。彼は一応、真彩がたどり着くまで待っていた。追いついたらすぐに駆け出す。
「真彩って、足は速いけどスタミナがないな」
追いついたと思ったら憎まれ口を叩かれる。まったくそんなつもりはないのだろうが、このタイミングで言われたら嫌味にしか聞こえない。
「基本、歩いたり走ったりが嫌いだからね」
「ふーん。それで陸上部の勧誘を断ってるんだ?」
「いや……まぁ、それもだけど。別に、好きで足が速くなったわけじゃないから」
好きで足が速くなったわけではない。いつの間にかそうなっていた。逃げなくてはいけないから。
サトルは「ふうん」と不審に思う素振りがなく、また置いていってしまう。
「まーあーさー!」
大きな声で呼ばれるが、これが誰にも聞かれなくて良かったと思う。
真彩は額の汗を拭って進んだ。サトルはもう海岸へつながる階段に到着している。子犬のように好奇心旺盛で、真彩の到着を待っている。
校門を抜けた時よりも重くなった足でサトルのところまで進む。堤防の切れ目が見えてきた。暗く陰っていた視界がようやく明るさを帯び、激しい明滅に思わず目をつぶる。
ゆっくり開くと、そこには碧い水平線が現れた。陽の光がキラキラとまばゆい。強い光に驚いて、思わず階段を踏み外しかけた。
「あぶなっ!」
すぐに透明の手が伸びてくる。真彩はその手を掴もうとはせず、錆びた手すりを握った。
風でたゆたうサトルの手が行き場をなくして上へ逸れる。そのまま腕を回して海を指した。
「気をつけろよー」
「うん……」
真彩は取り繕うように頷いて階段を駆け下りた。
足跡のつかないサトルの後をたどりながら、おぼつかない足取りで砂を踏む。重くて不安定な浜に怯えているとサトルがこちらを気にしながら海を目指していた。
「そんな警戒しなくても大丈夫だって。てか、海に来たことないの?」
「ないよ」
「珍しいなぁ」
「そうでもないよ。多分」
素っ気なく言えば彼は「ふうん」と、的はずれな返事をした。
砂浜はわずかに盛り上がっていて、足場が不安定なくせに山だけはしっかりと形がある。砂粒一つ一つが吸いつき、疲れた足を早く動かさなくては前に進めなかった。日差しは強いのに潮風が冷たい。白砂を下ると、そこから先は濡れて固い砂と透明な波が現れる。
サトルはすでに靴を脱ぎ散らし、靴下も取ってズボンの裾を折り曲げ、波に向かって駆け出した。
「よっしゃぁーっ!」
その歓声があまりにも楽しげで、真彩は苦笑した。
広くて遠い碧の景色は、実は肉眼できちんと見たことがない。潮のにおいも、風の音も、波の模様も、全部が初めてだ。こんなに近くで海を見たことはない。
そして、海は透明なのだと知った。ずっと先は淡い青なのに、波打ち際は透き通っている。
「うわぁ……ははっ」
これがサトルが好きな海。水に捕まらないよう、波を避けてみる。
一方、サトルは波に向かって走り、海の中へ足をつけた。透明な彼が水に浸かれば、その境界が分からなくなる。
「うーん……なんか浸かってる感がない」
近づいてみると、彼は不満そうに言った。
「やっぱり幽霊なんだなぁ……」
寂しそうな声で言われたらなんと言葉をかけたらいいのか分からない。真彩は黙り込み、少しだけ波から離れた。
「真彩、せっかくだから足だけでも浸かればいいよ。暑いだろ」
「いやぁ……」
「遠慮すんなって。ほら、おいで」
今度は手を差し出されたままだ。その手を取ることはなく、真彩は渋々、靴を脱いだ。靴下を脱げば指が息を吸う。熱した砂浜に足を置くと、ザラザラの砂がすぐにまとわりついた。波がくる。
「わ、つめたっ」
空はカンカン照りで汗が止まらない気温なのに、海は別世界のように冷たかった。でも、荒々しくひりつくような冷たさじゃなく、柔らかで心地よい透き通った冷感だ。波が立ち、岸へ押し戻される。波が引き、もう一度水に浸かる。それを繰り返せば、すぐに慣れてきた。水の中にキラキラと金色の砂が瞬き、それが綺麗で呆けてしまう。スカートが濡れても気にしない。
顔を上げるとサトルが水の中に仰向けで倒れた。碧色に染まった彼の体が水に溶けていく。本当に楽しそうで、その自由さがうらやましい。
「いいだろ、海」
腰まで浸かって、得意満面に笑う。
「まぁ、悪くないね」
「素直じゃないなぁー」
「汗だらだらでヘトヘトのあとなら悪くない」
見下ろして言ってやると、サトルは人差し指を突きつけた。
「顔!」
「え?」
「顔、笑ってる」
言われるまで気づかなかった。確かに頰が軽い。水面に映すと、向こう側の真彩は自由だった。
「そんな風に笑う真彩の顔、初めて見たなあ」
「わたしも久しぶりに笑ったなあ」
照れくさくて、ふざけた。すると、サトルは波に揺られながら言った。
「笑えよ、いつでも」