朱く暮れなずむ夕方だった。気温は夏のままだが、サトルの体感では夜も朝も昼も同じこと。季節を感じるには色しかない。
 半透明な彼は、学校の廊下をのんびりと歩いていた。夜はまだこない。
「――やぁ、死にぞこない。その後、調子はいかがかな?」
 暗い廊下の奥で、大きめの白いパーカーを着た少年が軽快に軽薄な声をかけてきた。フードを目深にかぶり、目元が見えない。口はニヤニヤ笑っていて不快を誘う。
「おー、お前か、死神」
 サトルはあからさまにげんなりと肩を落とした。この間会ったばかりだが、あまり仲良くなれそうにないことはすでに承知している。パーカー男が飛ぶようにサトルの元までやってきた。
「死神とは随分だねぇ。僕はこれでも君を心配しているのに」
「それにしちゃ冗談がきついぜ。つーか、助けてくれない時点であんまり信用できないんだけど」
 不審をあらわに言うと、パーカー男は「くははっ」と愉快に笑った。どこがツボなのか理解できない。
「まだ思い出せないのかい? 死んだ理由をさぁ」
「昨日の今日で思い出せたらとっくに成仏してる」
「それもそうか」
 分かりきったことをわざとらしく言うので、対応が面倒になってくる。パーカー男の態度はどうにも他人を煽るので、いちいち反応していたら身が持たないだろう。もしも真彩が会ったら……彼女の機嫌が悪くなる様子が容易に思い浮かぶ。
「とにかく、君は早く成仏するべきだ。でないと、大変なことになるからね」
「その大変なことってなんなんだよ。急に成仏しろとか言われても、そっちに困ってるんだけど」
 聞くと、パーカー男はフードの下にある鋭い目を覗かせた。その瞳の強さに、不覚にも怯んでしまう。
「死んだ人間がいつまでも生者の中に紛れ込んでいれば、あらゆる負荷がかかるんだよ。君は能天気だから分からないんだろうけれど」
 ――負荷……?
 凄んで言われてもピンとこない。
「現に、今はもう家に帰れないだろう? 後ろめたさと不安がある証拠さ。それが負荷ってやつなんだよ」
 サトルは目を逸らした。図星をつかれて言いよどむ。
 今まで家には通っていた。しかし、ここ最近はどうにも億劫で足が向かなかった。居場所のない家に帰っても意味がない。だったら、のんびりと適当に学校や公園で夜をつぶすしかないと、それはそれで気楽だったのだが、負荷だと言われたらそうなのかもしれない。
「負荷が溜まったら、なんかやばいの?」
「やばいどころじゃないよ。まったく。分かってないなぁ。君は本当にダメだなぁ。そうやって中途半端に生きたフリをしているから良くないと言っているのがなんで分からないかなぁ!」
 パーカー男は大げさに嘆いた。事務室まで聞こえそうでこちらがヒヤヒヤしてしまうが、パーカー男は気にする素振りもなく、サトルの頭をがっしり掴んで髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
「僕は悪霊しか祓えないんだよ。悪霊にすらなれない君を祓うことはできないんだ。それが目障りだからさっさと思い出せ」
「横暴すぎる!」
 振り払って逃げたら、パーカー男は宙を掴むように何かを握った。不思議そうに見つめている。
「ん、なんだ、どうした?」
 少し離れたところで聞いてみる。パーカー男は握ったものを探り、つまんで持ち上げた。
「これ、どこでくっつけてきた?」
 黒い影の欠片に見える。サトルは眉をひそめて考えた。だが、思い当たるフシがない。
「君の頭に絡んでたみたいだけど。君のじゃないなら、どこの誰の影なんだ」
「さぁ……? あ、待てよ」
 サトルは鍵がかかった教室の中へ飛び込んだ。窓を覗く。校門に揺らめくあの細長い影が手招きしていた。
「あいつか」
 まさか影がくっついていたとは思わなかった。案外、あの影は厄介なものらしい。真彩が怖がる理由もよく分かる。
 すると、パーカー男が教室に入ってきた。鍵がかかっているはずなのに、生身の人間が教室をすり抜けることは不可能だろう。やはり、こいつは死神なのかもしれない。
「……君、昨日と今日、女の子に会ったよね?」
 パーカー男が静かに聞いてくる。サトルは息を飲んだ。
「なぜそれを! ってか、いつの間に!?」
「ふうん? 一ノ瀬真彩ちゃんか……僕、その子にすっごく興味あるなぁ」
 問いを無視し、彼はもうサトルに興味をなくしていた。窓の外に浮かぶ黒い影を見ながら、口元を緩ませて不敵に笑う。不気味で不快。ただものではない。
「……お前、やっぱり死神だろ」
「違うってば。僕は正義の味方さ」
 軽薄な口がさらりとうそぶいた。

 ***

 土曜日と日曜日は休みで、また月曜日の朝十時から十五時まで補習が行われる。
 八月五日、月曜日、窪駅のホームで、金曜と同様に昼食とペットボトルのお茶を買う。行きだけで五〇〇ミリリットルの緑茶を消費してしまうが、自動販売機は学校内にもあるのでこれは通学用の水分だ。これをカバンに詰めて、電車に乗り込む。
 昨夜、急な雨で地面が濡れていた。熱の上に湿気までプラスされ、気が滅入ってしまう。冷えた電車での移動も意外とつかの間で、ホームに出れば日差しがさらに強く増していた。
「――あ! おはよう」
 改札を抜けると、サトルが待ち構えていた。
「おはよう」
 口の動きだけで伝えると、サトルは「あ、そっか」と辺りを見回した。人の行き交う場所では私語厳禁。それは今や暗黙のルールだ。
 真彩はあくびをして駅舎を出て、学校までの道をゆったり歩いた。その横をサトルがついてくる。彼はなんだか落ち着きがなく、時折背後を振り返ったり、前を走ったり、電柱が立つ狭いところをわざわざ通っていた。
「……ねぇ、気が散るんだけど」
 サトルの背中をつんと刺すと、その冷たさに指先がしびれた。刺した背中はもやもやと半透明の波紋を描く。サトルが驚いたように振り返り、そのただならぬ気迫に、真彩は足を止めた。
「どうしたの?」
「え? えーっと、いやぁ……なんでも」
「ないことないでしょ。鬱陶しいから、変なことしないでよ」
「鬱陶しいって……ひどいこと言うなよぉ」
 情けなく口を開けて嘆くサトル。それを一瞥し、真彩は鼻を鳴らした。
「わたしとあなたの関係はなんだっけ?」
「……死んだ理由探しをするためだけの共同関係です」
 やる気のない声で言われる。間違いではないが、共同関係という部分が引っかかった。
「なんか違うけど……いや、間違ってないのか……でも、なんか変な感じ」
「そこまで嫌がらなくてもいいだろー」
「嫌に決まってるでしょ」
 幽霊と関わるのも、人と話すのも苦手だ。だから加減が分からない。それをごまかすように、真彩はニヤリと笑って軽口を叩いた。
「わたしの暴言は冗談として受け止めて。それが条件」
「はぁー? そこまでは承ってませんけど!?」
「じゃあ、追加ってことで。そしたら死んだ理由探ししてあげるよ」
 小路を抜けて、公園前の交差点を横断し、学校へ急ぐ。暑さに耐えきれないから、早く涼しい場所へ避難したい。
 その間にも、サトルはまた背後を気にしていた。彼いわく、なんでもないらしいが、何かを気にしているのはバレバレだ。それを咎めるのも面倒なので足を速めることにする。
 校門が近づくと、やはりあの影が真彩の到着を待っていた。
「……いねぇな」
 おもむろにサトルがつぶやく。
「え? いるじゃん、あの影」
 真彩がすかさず返す。サトルは不審げに「あぁ」と影を見た。今日はいつにもまして意味が分からない。
「サトルくんは一体何から逃げてるの?」
 不審な動きをされれば、どうしても気になってしまう。
 真彩の問いに、サトルは声を裏返らせて動揺した。
「へっ? あ、いやー……ほら、死神、とか」
 怪しい。隠し事に向かない性格だと見抜いた。そもそも、自分のことを棚に上げて何を言っているんだろう。
 真彩はサトルから視線を変え、校門を睨んだ。影は細長くも威圧的で、日差しが強まればさらに濃度を増す。
「真彩、行こう」
 声をかけてくれなかったら動けなかっただろう。真彩は我にかえり、サトルの足と同時に校門を越えた。

 ***

「――不謹慎なことを言うけどさ」
 午前の授業が終わり、二人は屋上へ繋がる階段に座っていた。コンビニで買ったおにぎりの包みをビリビリ破りながら慎重に言う。対して、サトルは「いいよ」と軽い。真彩はおにぎりのてっぺんを見ながら言った。
「死んだ理由って、つまり、死因ってことなんだよね?」
 気軽にする話ではないが、理由探しをするにはどうしても避けられない確認だ。今朝はふてぶてしくしていたが、約束した以上は引き受けないといけない。
 サトルはわずかに笑顔を引っ込めた。しかし、軽さは残したままで「そうだね」と返す。真彩はおにぎりのてっぺんをかじった。まだ具は見えてこない。
「幽霊ってね、死んだままの状態で漂流してるのがほとんどなんだけど」
「え、そうなんだ?」
「うん。それに、死んだ時の記憶を引きずってる。そういう系の幽霊は地縛霊が多い。でも、サトルくんは地縛霊じゃないし、死んだ理由も分からない。ということは……」
 言いながら脳内で整理してみる。無造作におにぎりにかぶりついた。二口目。まだ具は見えてこない。ゆっくりと咀嚼しながら考える。
 死んだ理由を知らない。死因を知らない。ということは、この世に未練があるわけでもない。それなのに成仏できない。亡くなった時に何らかの事情があったのだろうが、死者の事情なんか知りようがない。
 サトルは期待に満ちた目を向けていた。無邪気さがやっぱり幽霊らしくない。
「ひょっとして、サトルくんは生き霊なんじゃないかな」
「生き霊……」
 サトルの丸い目がさらに丸く大きく広がる。しかし、すぐに元の大きさに戻った。
「いやいやいや、ないないない。これ、自分で言うのもなんだけど、それだけはないよ」
「どうして?」
 妙に否定的なのが気になってしまう。怪訝に見ていると、サトルはあっけらかんと答えた。
「だって、俺の墓あるし」
「………」
 言わなきゃ良かった。
「残念ながら確実に死んでるんだよなー。ちょっとその線もアリだなって思ったけどさぁ。非常に残念だけども」
「もういいよ。分かったよ。わたしが悪かったよ」
 おにぎりを口の中に押し込める。冷たい唐揚げの濃い味がようやく届いた。
「じゃあ、こうしよう。サトルくんもいくつかは死んだ理由を考えてるんでしょ? だったら山を張るために、不正解を先に教えてよ」
「あ、それいい!」
 サトルは名案とばかりに指を鳴らした。
 慌ただしくおにぎりを食べ、真彩はカバンから現代文のノートを出した。ページを破って教科書を何冊か膝に置き、下敷きの上でノートを構える。サトルが厳かに咳払いする。
「まずは事故。いろいろあるけど、考えられるのは交通事故だな。学校の外って大通りまで行かないと信号がないし。自転車に乗って自動車とぶつかったとか。脇見運転の車に突っ込まれたとか」
 真彩は言われた通り、ノートに書いた。一つ目、交通事故。
「書いた? よし。んじゃあ、次にこっちも事故のくくりなんだけど、二つ目は溺死だ」
「溺死?」
 思わぬ言葉に真彩はシャープペンの手を止めて顔を上げた。目の前に座るサトルは「うん」と真面目くさった顔で頷く。
「俺、海が好きでさ。プールも好きなんだけど、夏はよく友達と海やプールに行ってたんだよ。可能性は低いけどあってもおかしくないかなって」
「ふうん……」
 とりあえずノートに記しておく。
「そして三つ目が遭難」
「遭難?」
 これもまた想像になかったので、真彩は素っ頓狂に聞き返した。
「近所に赤月海岸があるだろ? その海岸をずーっと西に行くと洞窟があるんだけど、満潮になったら穴が塞がれちゃうんだよ。で、帰れなくなったみたいな」
「はぁ……なるほど」
「海の事故って考えてくれたらいいよ。あーあ、久しぶりに海入りてーなー」
 溺死か遭難を予想しておいて、こののんきさだ。この二つは絶対に違うと思う。なんとなくもう目星はついてきたが、他にもあるのだろうか。
「それくらい?」
「いや」
 サトルは慌てて答えた。しかし、口が重たくなり、視線がズレていく。頭を掻いて「うーん」と悩み、やがて小さく口を開いた。
「……あんまり考えたくないんだけど、他殺って可能性もなくはない」
 その重さに血の気が引く。心臓がすくみあがった。
「そんなわけ……」
「人に恨まれるようなことはしてないと思うよ。でもさ、人間って分かりあえないものじゃん? 俺は嫌いじゃなくても、誰かは俺のことが嫌いだったりするんだよ。そういうの、まったく考えない人生だったけど、なんとなく、そういうことも考えた」
 サトルは口の端を無理やり引っ張って笑顔をつくる。彼も彼なりに平静を装っているらしい。全然できていないので、真彩はうつむいた。
「……この可能性はあんまり考えたくないね」
 現実味はないが、重みだけは異常に強く押しつぶしてくる。
「だって、サトルくんの性格で嫌われることはないでしょ。うざいけど、そこまで深刻じゃないし」
 ――わたしよりも、絶対に死ぬべきじゃないはず。
 裏の言葉は飲み込んでおく。同情の中に自己嫌悪が混入し、感情が窮屈で仕方ない。ペンで四番目を叩いて、気を紛らわした。
「ありがとー、俺もそう思うわぁー」
 サトルは安堵の息を漏らした。
「じゃあ、この勢いで」
 気をとりなおしたサトルが、片手を広げて五番目の可能性を提示する。
「これもまた限りなくゼロに近いんだけど、ないこともないから入れといて。自殺の可能性を」
 真彩は素直に書き記した。
「いや……一番ないと思うんだけど」
 文字にすると余計に現実味が消えた。四番目の可能性よりもさらに信じられず、むしろバカバカしくなってくる。それはサトルも同じようで、神妙にうなずいた。
「だろ? その場合だと理由が本当に分からないんだよ。死にたい願望はなかったし、むしろさっさと成仏できそうじゃん?」
「そうだよねぇ……いや、どうなんだろ」
 どれもしっくりこないが、可能性として考えるなら無難かもしれない。サトルが自分の死因を考えたのは全部で五つ。
 ①交通事故。車との接触が原因。
 ②溺死。海かプールでの事故。
 ③遭難。赤月海岸の洞窟にて。
 ④他殺。恨みを買った。
 ⑤自殺。理由が分からないので可能性として考える。
 これを読み返し、真彩はもう一つの可能性に思い当たった。
「……ねぇ、サトルくん。病気で亡くなったっていう可能性がないのはどうして?」
 単に思いつかなかったのだろうか。真彩の質問に、サトルは考えを巡らせているのか動かない。やがて、彼は丸い目と口を大きく開かせた。
「ホントだ。どうして思いつかなかったんだろ」
「もしかすると、意識的に避けてたかもしれないよ」
「なるほど! いやぁ、真彩と話してたら新しい発見があるなぁ。やっぱ、人に相談するのが一番だな」
 一人納得しているが、真彩からしてみれば死の理由なんか相談されたくはない。金輪際お断りだ。