「一ノ瀬さん。ノート、ちゃんととってますか?」
 黒板を叩く岩蕗先生が鋭く聞く。
「あ、はい」
 慌ててノートに目を移した。シャープペンを握りなおした。ズズっと鈍い音が紙に刻まれる。
 物理。力学の授業。先生が読み上げる問題文がまったく頭に入ってこない。今日はバネを用いた物体の加速度を数式にし、解を求めるという。そこまでは理解したが、記号と数字が並ぶと全然集中できない。
 考えることに飽きてしまい、真彩は隣に座るサトルを見やった。彼は机に腰掛け、岩蕗先生の授業を真剣に聞いている。その横顔を見ていると、サトルがこちらに気づいた。口の端を伸ばし、人差し指を黒板に向ける。
「ちゃんと授業聞きなよ」
 冷やかすように怒られ、真彩はすぐさま黒板へ視線を戻した。その動作に気が付かない先生ではない。教科書を教卓に置き、腕を組んだ。
「一ノ瀬さん、また集中できないの?」
「できません」
 スパッと答えると、横でサトルが呆れた。
「即答かよ」
 これには岩蕗先生も頭を抱えた。
「まったく、あなたの集中力のなさは本当に困ったものね」
「すいません」
 幽霊が横で授業を聞いているから、とはとても言えない。
 真彩は不満にシャープペンを転がした。身を乗り出して、気だるさをアピールする。
「せんせー」
「はい?」
「どうして勉強しなきゃいけないんですか?」
 なんとなく聞いてみたくなった。集中できない理由はいろいろあるが、とにかく物理はつまらない。これからの将来、なんの役に立つかまったく分からない。イメージができない。勉強する理由ってなんだろう。未来が見えないから余計に分からない。
 この漠然と怠けた質問に、先生はなんと答えるのだろう。
「そうね……まぁ、そういう悩みは誰もが持ってるわよね」
 厳しく渋い顔で、気が抜けるようなことを言う。
 すると、隣でサトルが呟いた。
「俺もそんなことを考えてたなぁ」
 先生には聞こえていない。何を言おうか慎重に考え、やがて困り顔のまま口を開いた。
「私もね、若い頃はそんなことを考えたわ。受験を控えた頃、プレッシャーに負けそうで怖気づいて、そんなことを悲観した……理屈は分かっていても、思考は未だに納得してない。つまり、よく分かってないのよ」
「え?」
 思わぬ答えに、真彩はぱっくりと口を開いた。サトルも身を乗り出して真剣に聞いている。
 一方、先生は静かに言い、小さく微笑った。
「いくら将来のためだと言われても納得できないのよね。何かしら理由をつけないとやってられないんでしょう?」
 言い当てられてしまい、結んだ口をへの字に曲げて、気まずくノートに目を落とす。それを面白がるように先生は笑った。
「この勉強が将来、あなたの役に立つかは分からない。役に立たないかもしれないし、役に立つかもしれない。この世に当然はないんだからね」
「当然は、ない?」
「ないわ。絶対的な当然というのは証明不可能なのよ」
 そう言い切られては、ますます不安がよぎってしまう。サトルに目を向ければ、こちらは首をかしげていた。
「いい、一ノ瀬さん」
 先生は教卓に立ち、白いチョークを取る。
「学問とは、そもそもほとんどが役に立たないの。人は結局、自然に生きているし、大多数はそれが当然なことだと勘違いしている。『なぜ』を追求するのは、ほんのごく一部よ」
 黒板の隅に「大多数」と書き、その下に「少数」と書く。その「少数」を丸で囲み、線を引っ張る。その先に「何故?」と書いた。
「なぜ、こうなるのか。なぜ、こうなったのか。この『なぜ』を理解したい欲求が学問。勉強する原動力よ」
 分かるような分からないような。しかし、物理の授業よりは頭に入ってきた気がする。
「あなたたちは選択肢や道を増やすための理由を探さないといけないの。そうして、やりたいことを見つけるために勉強する」
 書いたものを消していく。文字の軌道すら一切残さず綺麗に消えた。先生はチョークを置き、手を叩いて粉を払い落とし、涼やかな目を向けた。
「でもまぁ、今後、あなたがどう生きるのかはあなた次第だから、私のこの言葉も授業も忘れていいわ」
「え、忘れていいの?」
 覚えていられるかは保証できないが、意外な言葉にはついつい引っかかってしまう。先生はニヤリと笑った。
「でも、テストに出る場所は覚えておいたほうがいいわね。私が困るから」
 正直な白状には、真彩も思わず口元を歪ませて笑った。
「結局はそれかー。先生もやっぱり先生ですねー」
「それもあるけれど、こうして貴重な夏休みを共有しているのも、あなたをまだ見捨てるわけにはいかないからなのよ」
 涼やかな声にしては熱のある言葉だ。そんなことを言ってくれたのは岩蕗先生だけだ。
「ま、これから『なぜ勉強するのか』ということを追求してみたらいいわ。理由としてなら十分だと思うけど?」
「うーん……かもしれない、かなあ」
 勉強する理由。死んだ理由。それを探す理由。いちいち枠にはめないと納得できない。その答えがなんとなく分かってきたような気がした。明確ではないけれど、すとんと腑に落ちていく。
「それじゃ、続きをしましょうか」
 すでに先生は素っ気ない。真彩から背を向けて、黒板に図を書いていった。さきほどのブレイクタイムが嘘みたいに淡々としている。
 真彩はやる気を起こそうとシャープペンを握った。
「なるほどねぇ……今まで考えたことなかったなぁ」
 横でサトルが感心げにうなずいた。
「生きてる間にそれを知ってたら成績上がってたかもしれないな」
 そのつぶやきがなんだか悔しげで、そんな半透明な彼を見ていると真彩の手はまた止まってしまい、どうにも居たたまれなくなった。
 ――この世に当然はない。
 そのフレーズがふわっと浮かぶ。
 ――ということは、未来が当然にやってくるなんてこともないんだろうな。
 未来はきっと透明なんだろう。ペンケースにつけた小瓶のストラップを見つめる。無色透明な瓶は空っぽで、虚しく思えた。
 先生が読み上げる問題が右から左へ流れていく。真彩は右隣のサトルを見やった。どんなに陽気でも彼の存在は曖昧で希薄だ。
 死んだ理由を探すだなんて、やっぱりバカバカしい。大体、こちらにはなんのメリットもない。
 夏休みに学校へ行くというだけでも労力なのに、加えて厄介ごとを引き受けるのは割りに合わない。良い結果にならなかった場合、後悔するリスクが生じる。
 利害を一致させるには無理やりなこじつけが必要だ。勉強と同じように、いちいち理由をつけなくては幽霊を助ける動力も動機もない。
 彼は物理的に死んでいる。自分は擬似的に死んでいる。その理由を探すには、どんな理由をつくればいいのだろう。

 ***

 十五時になり、真彩は先生よりも後に教室を出た。鍵を閉めて階段を駆け下り、鍵を職員室へ返し、ひと仕事終えたように「ふう」と息をついて昇降口へ行く。
「おっと、ストップストップ。放課後に話そうって言っただろ」
 冷風を巻き起こして、サトルが前に飛び出した。
「あ、そうだった」
「忘れるなよ! ずっと待ってたんだけど!」
 とぼけたフリが通じなかったらしい。真彩は肩をすくめた。
「忘れるわけないじゃん。わたしなりに真剣に考えてるんだよ、これでも」
「ほんとかよー……」
 疑われている。表情に出さないからか、あまり信用されていない。
 気を取り直して、真彩は靴箱を開けながら言った。
「それで、えーっと……死んだ理由ね。それを探したら、わたしを解放してくれるんだよね」
「人を誘拐犯みたいに言うな。幽霊だっての」
「じゃあ取り憑いてる?」
「それは、そうなんだけど。いや、違うし。なんか悪いことをしてるみたいで嫌だ」
 必死に訴えてくる。それがなんだかおかしくて、真彩は小さく鼻で笑った。
「一ノ瀬」は一番右端のてっぺんにある。ギリギリ届くか届かない位置なので上履きを投げ込むのが常だった。固いローファーを地面に置き、足を入れる。トントンとつま先を叩いてカバンをかけ直した。
 熱気の中に足を踏み入れるにはいくらかやる気を起こさなくてはいけない。陽は容赦なく、目を開けていられないほどに眩しい。熱に包まれ、息が詰まりそう。でも、サトルが横に並ぶと涼しくなる。
 熱と冷気。どちらも極端に全身を行ったりきたり。スッキリしない。
 結局、どちらにも興味はないのだ。死んだ人間にも生きている人間にも興味がない。片足ずつつっこんで、気だるくその場をしのいでいるだけ。無駄に生きているような気がして、頭の中が重くなる。
「まぁ……わたしも生きてるかって言われたら怪しいよね」
 セミの声に紛れるように小さくつぶやくと、サトルがすぐに反応した。
「え、どういうこと?」
「あなたが物理的に死んでるなら、わたしはその逆で、擬似的に死んでるってこと」
 冷めていた口が急に熱を持ったように思えた。しかし、口に出してしまえばあっさりと冷めていく。
「擬似的に……? 死んだフリってこと?」
 サトルは不審げに聞いた。
「うん、そんな感じ。なんか、意味もなく理由もなく自然に生きてるなって」
 忘れていいはずの話はまだ頭に残っていた。サトルも同じなのか、思い当たるように唸った。
「んー……でもさ、生きる理由を常に考えて生きてるやつ、そうそういないだろ」
 出てきた言葉は楽観だった。
「そういうのは死んでから考えるもんじゃない? ま、俺は考えないけどな」
「いや、サトルくんはもう少し自分の状況に自覚を持ったほうがいいよ」
 陽気にもほどがある。幽霊らしくないから、避けようにも避けられない。好奇心旺盛で、こっちがどんなに怒ってもヘラヘラしている。表情も豊かで、自分より生き生きしている。それがどうにもうらめしく、うらやましい。
 真彩はゆらゆらと校門を目指した。
 カーンと、硬球が飛ぶ音が耳に届く。校門までの道の途中、横目に見えるのはグラウンドを駆ける部活生たち。太陽のように眩しくて直視できない。
「お、ホームラン!」
 サトルが口笛を吹いてはやしたてる。こちらも楽しそうで何よりだ。
「まぁまぁ、夏休みに補習三昧だからってそう悲観するなよ」
 真彩の暗い顔を見てか、彼は慰めるように言った。顔を覗き込まれると、ひんやりと冷感が鼻先に当たる。熱の中にいると、その冷たさが心地いい。でも、それはなんだか癪だ。
 彼の体を突き抜けると、凍えるような冷たさが食い込んだ。サトルの陽気さとは正反対な温度に驚いてしまう。意味不明な敗北を味わった。負け惜しみのように口を開く。
「別に、夏休みに補習だから悲観してるわけじゃない」
「えー? じゃあ何がそんなに憂鬱なんだよ?」
 振り返ると、サトルはきょとんとこちらを見つめている。それを一瞥し、真彩はうらめしく人差し指をまっすぐ校門に突きつけた。
 黒くうごめく細い影。昨日から、ずっとそこにいる。
「あれがわたしの憂鬱。通り過ぎるだけで気分が悪くなる」
 サトルとはまた違った冷たさを持つ黒い影。あれを避ける術もない。サトルよりも厄介だと改めて思う。
「……あー、こいつがいるせいで、真彩は楽しくない。そういうことだな」
 簡単に言えばそうなる。今、目の前にある大きな問題は校門に立つ黒い影だ。もし、あれが「後悔の怪物」なら、怪談のとおりなら食べられてしまうのではないか――バカバカしいとは思いつつ、無下にあしらうこともできない。
 その時、真彩は今朝のことを思い出した。
「……ねぇ、サトルくん」
 深刻な声を繕う。
「死んだ理由を探すことについて、今、自分なりにメリットを考えたんだけどさ」
「おぉ」
 面食らうも、サトルは期待の目を向けた。だが、真彩の思考は淡々と冷めていた。
「考えた結果、どうしてもメリットがなくて。むしろ無駄な労力だなぁっていう結論が出たんだよね」
「おぉ……」
 一気にサトルの表情から輝きが失せていく。実に分かりやすい。
「でもね、無理やりにこじつけることにしたんだよ。先生の話を聞いたらさ」
「おぉ!」
 少しだけ元気が戻る。対して、真彩は変わらず淡白に続けた。
「わたしはあの影を避けたいんだ。だから、サトルくんはそのために、あの影からわたしの気を逸して」
 途端、サトルは怪訝に眉をひそめた。
「ん? え、何? 気を逸らす? って、どうやって?」
「うーん……話しかける、とか? 隣にいるだけでいい、みたいな」
 熟考した割には短絡的だと思う。そして、我ながら恥ずかしいことを言ったように思える。
 サトルは両目を丸く開かせ、拍子抜けの笑いを飛ばした。
「え、それだけ?」
「うん」
「そんな簡単なことでいいの?」
「うん。なんかおかしい?」
「いや……だって、メリットって言うくらいだから、もっと巨大なものを要求されるのかと」
 その言葉には同意する。真彩は額をおさえ、恥ずかしさに耐えた。
「いくら異形が視えても慣れないの。わたしにとっては死活問題なの。毎日あれを視るなんて、普通に嫌なの」
「おぉ……そういうもんかぁ」
 どうも共感は得られそうにない。真彩はため息を吐いて、カバンを持つ手に力を込めた。手招く影に、気持ちが引っ張られそう。
 すると、サトルが影を遮って、真横に立った。
「じゃあ、俺が真彩とこいつの間にいたらいいんだな」
「そういうこと」
 二人は歩調を合わせ、「せーの」で校門を一気に飛び越えた。サトルの冷気が盾となり、冷たさは感じつつもあの気持ち悪さはない。それだけでいくらか安心できる。
「これくらいなら、毎日でも全然付き合ってやってもいいよ?」
 サトルにとっては簡単な仕事なんだろう。だが、その言い方はやはり癪に障る。真彩は目を細めてふてくされた。
「それくらいで、いい気にならないで」
「えぇぇ? なんで? 意味分かんないんだけど!」
 馴れ馴れしくしてほしいとは頼んでいない。つんと冷たく足を速めると、態度の急変についていけないのか、サトルの呆れた声が追いかけてくる。
「おーい、まーあーさー!」
「行き帰りであなたをこき使う。それが死んだ理由探しの条件よ」
 ピシャリと言い放つと、サトルはつまらなさそうに項垂れた。
「死神よりも冷たい……」
「なんか言った?」
「言ってません」
 サトルはなおも不服そうだが、強気に出られない。
「じゃ、そういうことで」
 真彩は満足に言った。
 これでひとまず納得できる。死んだ理由を探す動機としては不足ない。はずだ。