――八月がくると、あなたの笑顔を思い出す。
そして、そのたびに、わたしは生まれ変わっていく気がする。
透明の瓶を覗くと、何もなかった。思ったよりも空っぽだけど、さして驚くわけでなく、ただ「当然だ」とすんなり受け入れてしまう。
空っぽの瓶に何を詰めようか。考えても、とくに何も浮かばない。
「――えー」
教壇に立つ女性教師が涼やかに声を出す。静かな教室に響き、一ノ瀬真彩(いちのせ まあさ)は小瓶のストラップから目を離した。
「小球が高さaメートルの台、点Aから水平方向に初速vo毎秒で飛び出し、水平面上の点Bに落下した。このとき、点A、点B間の水平距離はaメートル。また、重力加速度の大きさをgメートル毎秒毎秒とする」
白いチョークがカツカツと黒板上で飛ぶ。それを書き写そうとはせず、頬杖をついて、さも考えているという体でいた。
授業は聞きたくない。それに落体なんて。物体が落ちる速度はあまり考えたくない。
あれからもう五ヶ月は経つのか。病室の窓に流れる桜とカーテンは記憶に新しく、鮮明に思い出される。
「はぁ……」
広い真四角の教室には机と椅子が全部で三十。その中にぽつんと置かれたように真彩は、一人で物理の補習を受けていた。
じわじわとうるさいセミの声が窓越しに聞こえる。冷えた部屋にこもりきり。外はソーダアイスのような青い空で眩しすぎた。
八月一日。特別進学クラスは補習があるらしいが、進学に力を入れてない普通科の一年三組は夏休み中だった。しかし、真彩ただ一人だけが担任から夏休みの補習を強制されている。入学してすぐに休みがちで、学期末テストもさぼったのだから当然の結果だろう。
「一ノ瀬さん、聞いてます?」
問題を黒板に書き終えた岩蕗光(いわぶき ひかる)先生が振り返る。その目は不審さを帯びており、鋭利な光を放っていた。折れそうに細いこの女性教師は真彩の担任であり、物理学を担当している。
さすがに呼ばれれば真彩も目と口をぽかんと開けた。とろんと重たいまぶたを持ち上げて姿勢を正すも、すぐに首が前に落ちる。
「すいません。聞いてなかったです」
「はぁ……ノートは? 書いてるの?」
真彩は素直にノートを掲げた。まっしろ。先生の悲しげなため溜息が落ちる。真彩は肩をすくめた。
「……先生」
「はい」
「あの、人が落ちるときの速度って、その公式使ったらわかりますか?」
「はい?」
先生の目が丸くなる。鋭利な視線がすぐさま軽蔑に変わった。
「それは、どういう意図で聞いてるの?」
「……ただの好奇心、です」
責められているような気分になり、もごもごと言う。でも、口元は笑っている。その軽薄さが先生の怒りに触れた。とうとう教壇を降り、真彩の前に立つ。
「一ノ瀬さん。あなたはどうしてやる気がないの?」
厳しい口調で問われる。こうなったら素直に白状しよう。
「……やる気は、出ないです。だって、物理、分かんないし。あ、でも先生の教え方が悪いとか、そういうんじゃなくて」
必死さはないから、もしかしたら呆れられて見捨てられるかもしれない。今までもそうだった。しかし、この担任は根気よく親身だ。それはなんとなく感じている。言動はともかくとして。
「そうね……教え方が悪いわけじゃないのよ。これは脳に浸透するかどうかの問題で、やっぱり本人のやる気次第だわ」
「あーははは……わたしのせいですねー」
真彩は口を曲げた。
一方、先生は腕を組んで目をつぶった。毒気を抜かれたように肩を落とし、「うーん」とうなる。
真彩は退屈にため息を吐き、先生から目を逸らした。そして、窓の外に揺らめく「影」を見つめる。夏の青い景色には似つかわしくない、ゆらゆらと煙のような異質物。細長い影が窓の外の、校門で動いている。手招きしている。誰にも視えないはずの「何か」。その正体は分からない。
「ねぇ、先生」
「なんですか」
「この町の怪談って、知ってる?」
「怪談?」
話を逸らされ、岩蕗先生は呆けたように聞き返した。
「花子さんとか、こっくりさんとかそういう感じの」
「それ、都市伝説じゃない?」
「あー、そう。それっぽいやつ」
真彩は調子よく鼻で笑った。
「この矢菱町(やびしちょう)には黒い影が住んでいるんだって。それは後悔の怪物で、影みたいに黒くて、大きくて、生きてる人を食べちゃうの」
真彩は口元に笑みを浮かばせた。先生はどんな反応をするだろう。鼻で笑って「何をバカなことを」と言うに決まっている。もしかしたら怒られるかもしれない。今度こそ見捨てられるだろう。
しかし、聴こえたのは期待を裏切る、「へぇ」という冷めた声だった。
「赴任して五年だけど、そんな話は知らないわね。最近流行ってるの?」
「え、信じるの?」
訊くと、岩蕗先生はつまらなそうに「えぇ」と返した。物理学教師が超常現象の類を信じるとでも言うのか。ありえない。
「そういうのバカにするって思った?」
「うん」
思わず頷いてハッと我にかえる。真彩は気まずく目を逸らした。自分の口角が上がっていることに気づいて、なんとなく後ろめたさを覚える。そんな奇妙な真彩の動きを先生は鼻で笑った。
「そういった現象がなんなのかを解明するのが、科学よ」
毅然と言い、さっとカーテンを閉められる。影の姿が視えなくなり、真彩は眉をひそめて不機嫌をあらわした。先生は相手にせず、教卓に戻っていく。
「さて、おしゃべりは終わりです。一ノ瀬さん、授業をちゃんときいてください」
「……ちぇ」
「なんか言った?」
「言ってませんー」
ふてぶてしく返してシャープペンを手に取る。先生は満足そうに黒板へ問題を書いていった。後ろを向いた途端、ペンを転がし、先生の目を盗んで天井を仰ぐ。
退屈だ。
***
結局、問題の半分も解けずにタイムアップとなった。数学も現国も地理も英語も岩蕗先生が監督してくれる。そういう話になっているらしい。
十五時きっかりに、先生が「終わりましょうか」と切り上げ、全教科のプリントを真彩に渡した。宿題の多さに吐き気をもよおしそうだ。
「明日、また十時に来なさい」
その業務連絡はまったく優しくない。真彩は肩を落として教室を出た。
廊下は誰もおらず、夏だというのにひんやり涼しい。
「気をつけて帰るのよ」
教室の鍵を閉めながら先生が言った。
「先生は今から部活ですか?」
窓の外にある熱気を想像しながら聞く。
「えぇ、大会中だもの。まぁ、今年もうちの陸上部、とくに短距離は精鋭ぞろいだから、私は監督するだけで良さそうだけど……何よ、その顔」
真彩は鼻にシワを寄せていた。先生はその表情の意味が分かっていない。
「信じらんない……この暑い中、走るとか意味分かんない……」
「あなたも部に入ってくれればいいんだけどね。体力測定のときから目をつけてるんだけど、その言い草じゃ、やっぱり入ってくれないわよね」
入学してからの体力測定で、真彩は短距離走のタイムが良かった。それをきっかけに、岩蕗先生はたまにやんわりと部活勧誘をしてくる。
真彩は先生から背を向けた。その時、目の端で何かを捉えた。廊下の奥に人影がある。すぐに目を逸らした。
「まぁ、いいわ。今はダメでもそのうちね」
先生の声は諦めていない。それををぼんやりと聞き、「はぁい」と気だるげに返して階段へ向かう。重たい足取りで昇降口を目指す。冷たい廊下の窓には貧相なセーラー服の女子生徒ただ一人だけ。誰もいないほうが気が楽だ。本当に誰もいないならいいけれど。
「あ」
真彩は校庭の影を思い出した。
黒い影。校門に立つ松の木が影を落としているだけならまだしも、そういうわけではなかった。人間の腕のような。黒くうごめく異質な影。あれはきっと、後悔の怪物ってやつだろう。
夏休みに入る前、トイレの個室にいたちょうど、どこかの女子生徒が噂していたのを偶然聞いていた。
「矢菱町には影のおばけがいるんだよ」
その時は呆れたが、それ以外ならよく目にするので、侮れない存在であることは確かだ。
窓をぼんやり眺めていれば、たまに目が合う。誰かと。自分ではない誰か。よくあることだ。
真彩は肩までの髪を揺らしながら階段をゆっくり降りた。一段、一段。冷たい風を受け、足をとんと地につける。
「ん?」
足元がひときわ冷たい。液体窒素のように視認できる冷感が足首を冷やした。立ち止まって顔を上げる。
そこには、青白い顔をした少年がいた。
「うわ」
思わず声を上げてしまい、慌てて口をふさぐ。だが遅い。少年と目が合い、その不鮮明で透明な姿に妙な罪悪感を抱いた。
透明の少年は、瞳に光はないが表情は穏やかで柔らかい。丸い目と、つややかな髪がなんだか爽やかだ。彼は驚いた表情のあと、ぱぁっと明るい笑顔をつくった。
「え、もしかして視えてる?」
少し反響した声が耳をかすめた。
「……視えてません」
「いやいやいや、視えてるよね? ってか、ちゃんと話もできるじゃん」
気まずい。どう逃げようか迷う。視線を這わせ、真彩はカバンにつけたうさぎのぬいぐるみを掴んだ。
「は、話してません……わたしは、この、グリーンラビットと話をしています」
緑色のファンシーなうさぎが窮屈そうにシワを寄せる。
それを見やり、少年の目が怪訝に細くなった。
「それはちょっと無理あるって」
「………」
これはもう収拾がつかない。バカなことをしていると自覚すれば恥ずかしくなり、真彩は乱暴にうさぎを離した。少年を睨みつける。
「幽霊くんに構ってる暇はないんだけど」
きっぱり冷たく突っぱねる。その態度の悪さに、幽霊の少年は一歩後ずさった。顔を引きつらせる。
「幽霊くんって、ちょっと失礼じゃない?」
妙なところを気にしている。威嚇に効果がないらしく、真彩はため息を吐いて腕を組んだ。
「馴れ合う気はないもん。あなた、幽霊でしょ。取り憑かれたら堪んないし」
少年は煙のような、触れたら消えてしまいそうな半透明だ。生きた人間とは言えない。しかし、ほかの今まで視た幽霊よりも鬱蒼とした暗さはなく、むしろ元気で明るい。
「せっかく視える人と会ったのに、そりゃないぜ」
彼は寂しそうに言った。肩を落として大げさに落ち込む。わざとらしくてもいくらか罪悪感が働き、真彩は眉をひそめた。
「……あのさ、あなた、本当に死んでるの? なんか、その割には元気そうだし、無害っぽい」
「元気だよ。生きてないってだけで」
「そう……」
あっけらかんと言われればどう反応したらいいか分からない。調子が狂う。もう逃げるべきだ。脱兎のごとく走り、振り切ってしまおう。真彩は右足を踏み出した。
「じゃあ……さようなら」
「え? ちょっと、待って!」
踏み出した足の前に冷たい足が飛び出す。反射的に避け、真彩は後ろに飛んだ。
「……帰りたいんだけど」
情けは無用。冷たく言い、今度は彼を避けるように前へ出た。冷たい足がまた追いかける。
「待って待って。ね、一旦落ち着こう。帰りながら話そう」
その提案は想定外だ。少年は真彩の前に飛び出していく。バタバタと階段を降りていき、階下で勝ち誇ったように笑う。
「はぁ……」
――面倒な幽霊に出くわしたなぁ。
真彩は肩を落とし、カバンを引きずるように歩いた。何故か、幽霊の後を追いかけながら。
一ノ瀬真彩は、幼い頃から幽霊が視えた。それは人ならざるものであり、かつて人であったものである。人をかたどった何か。そう認識するまでに数年はかかったが、そこまでの境地へ辿り着くのも我ながら物分りがいいのではないかと今日まで思っていた。幽霊と分かりあえることは今後もないだろうし、ましてや今でさえ関わりたくないと思っている。それなのに、この状況はどういうことだ。
真彩は自分の靴箱を開き、固いローファーを落とした。パーンと音が反響すると、少年は両耳を塞いで「うるさい」とアピールした。
「え、ごめん……?」
「なぜ疑問形……いや、いいよ、全然」
その割には、しかめっ面を見せてくる。
「幽霊って、音に敏感なの?」
真彩は素朴な疑問を投げた。
「さぁー? 他はどうかは知らないけど、俺は嫌いかなぁ」
「なるほど」
靴を替え、外に出る。燦々と降り注ぐ太陽は熱そのもので、皮膚を焼く。暑さから逃げようと腕を額に押し付ける。視界を前に向けると、遠い校門に影が立っていた。蜃気楼のように立ち昇る黒い影が手招きしている。
「……ねぇ」
「ん?」
彼は滑るように真彩の横を歩く。
「あなた、あの黒い影、視える?」
すっと人差し指を伸ばすと、少年は目を大きく開いた。
「何あれ!?」
耳の奥まで響き渡る絶叫に、今度は真彩が耳を塞ぐ。
「うーん……なんというか。黒い影としか言いようがないというか。この町の都市伝説でね、いるんだよ、そういうのが」
「何それ! 初耳なんだけど! めっちゃ怖そう! ってか、なんでそんなに落ち着いてんだよ!」
「あ、やっぱり視えるんだ」
彼の驚きようには興味ない。しかし、幽霊も都市伝説を怖がるというのは意外な発見だった。
「普通の人が視えたら、それくらい驚くのかな?」
「そりゃあね! だって腕だよ! 腕だけ! 怖いに決まってんじゃん!」
「幽霊にそう言われちゃ、都市伝説も冥利に尽きるだろうね」
「ぜんっぜん面白くないし! のんきなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど!」
そういうものか。あまりピンとこない。
「わたしにとっては日常なんだよ。幽霊も死も不幸も、全部が日常だから」
真彩は黒い影を見ずにそのまま校門を突っ切った。影は相変わらず手招きしているが無視して通り過ぎる。瞬間、おぞましい寒気が走り、嫌悪と憎悪が全身に回った。通り過ぎただけなのに。
じっと影を睨んでいると、幽霊くんが追いかけてきた。彼もまた影を避けている。
「待ってよ。まだ俺の話が終わってない」
軽々飛び越えて真彩の前に回ってくる。彼の冷気に少しだけ気が落ち着いた。
「え、話?」
「うん。そのために呼び止めたんだけど」
「はぁ……そう……」
ぼんやりと返事をして、真彩はすぐに口をつぐんだ。向かいから小学生の女の子たちが歩いてくる。それをやり過ごし、真彩は歩きだした。
静かな住宅街を行き、公園前を横切って、小路に入る。人前でおおっぴらに独りで話をするのは気が引ける。彼も気を遣っているのか、人がいそうな場所では話しかけなかった。
シャッターが降りた工場の前を過ぎ、小さな橋を渡る。誰もいなさそうだ。
「……幽霊くん。あなた、地縛霊じゃないのね」
唐突に話しかけると、彼は「え?」と気の抜けた返事をした。
「地縛霊?」
「ここまでついてきたってことは、地縛霊じゃないんだよね?」
「うーん……だと思うよ?」
曖昧な返事だ。真彩は眉をひそめた。
「地縛霊ってのは、例えば死んだ場所や思い入れのある場所から離れられなかったりする霊のことなんだけど」
「あぁ、そういう意味か。知らなかった」
彼は感心げにうなずいた。これには呆れる。幽霊本人が分かっていないとは。
「幽霊くんって、全然幽霊っぽくないね」
無気力に言葉を投げる。すると、彼は唇をとがらせて不満の表情を浮かべた。
「その幽霊くんっての、いい加減やめてくんない?」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
どうせ今日限りなのだから、なんと呼ぼうがいいだろうに。
「サトルでいいよ」
人懐っこい笑顔で言う。それに面食らった真彩は口をぎゅっと結んだ。本当に幽霊らしくない。同級生と話しているような気分になり、なんだか急に恥ずかしくなる。
「……それで、サトルくん。わたしになんの用?」
そろそろ本題に入ろう。真彩の問いに、サトルは丸い目を丸くした。
「用っていうか……ちょうどいいからお願いを聞いてほしいというか。ほら、俺のこと視えるし」
「好きで視てるわけじゃない」
冷たく返すと、彼はへらっと気まずそうに笑った。
「まぁー……俺には時間がないらしいからさ、協力してほしいんだ」
「時間?」
「うん。時間がないんだ。本当は成仏したいんだけど、それができなくて困ってる」
「はぁ、成仏……」
真彩は初めて口にするかのように反復した。
透明だが、人の形をかたどって喋る同年代の少年が、当然のように「成仏したい」と言う。しかし、幽霊ならそれこそ成仏は当たり前のことであって、自動的に極楽浄土へ逝けるはず。それができないから困っている――
「ま、この生活も不自由はなかったんだけど。そういうわけにもいかないらしくて」
「はぁ」
「死んだあとも何かとルールが決まってるっぽくてね」
「ルール……?」
「だから、君には俺が死んだ理由を探してもらたいんだ」
その言葉がサクっと軽く、真彩の心を突き刺した。
――俺が死んだ理由を探してもらたいんだ。
その言葉の重さとは裏腹に、声と表情は至って軽々しい。
「はい?」
首をかしげ、不愉快を示す。顔をしかめ、サトルの透明な瞳をじっと見つめた。彼は苦笑寄りの愛想笑いを返してくる。
「死んだ理由って、何?」
なんだ、それは。死んでもなお理由が必要なのか。
見るからに彼は同年代だ。白い半袖のシャツと大幅なチェック柄のスラックス。よく見てみれば彼は矢菱高校の生徒らしい。
「なんて言うか……俺には死んだときの記憶がないんだ」
「記憶がない?」
真彩は反射的に繰り返した。こちらの重さに対し、サトルは「うんうん」と軽い相槌を打つ。
「記憶って言っても、全部ないわけじゃないんだよ。あ、名前は西木覚(にしき さとる)っていうんだけど。死ぬ前は矢菱高校一年二組で、家はこの辺だった。けど、俺が死んでからは引っ越しちゃって」
「そこまで分かってて?」
「死んだ理由が分からない」
「はぁ……」
突然に繰り出される彼の境遇についていけない。ぽかんと思考停止していると、サトルは怪訝に顔を覗き込んだ。
「聞いてる?」
「聞きたくないけど聞いてる。あと、近い」
手で追い払うと、サトルの輪郭がぼやけた。身軽に離れていき、不満に唇をとがらせる。
「だって、こうでもしないと誰にも気づいてもらえないからさぁ……まぁ、やっと気づいてくれた人がいても、これじゃ頼りないかなー」
さらっと出てきた言葉が辛辣だった。真彩は不機嫌に眉を動かし、踵を返す。もう話を聞いてやる義理はない。
「え? えぇ? ちょ、待って! どうしたの!?」
慌てて回り込むサトル。その素早い冷気に鳥肌が立った。
「どいて」
「なんか怒らせた? ごめん! ごめんなさいっ! すいませんでしたっ!」
謝れば済むことではない。真彩も意固地になり、冷たく突っぱねた。
「一人で探せばいいでしょ。なんで関係ない他人を巻き込むの?」
「いやっ、だって! こんな体じゃ調べようにも調べられないから!」
サトルは必死に弁解しようと慌てる。やがては、すがるように頭を下げられる。
「お願いします。本当に困ってるんだ」
真彩は眉間に力を込めた。苛立ちと罪悪感がぶつかり合っている。同情しているんだろう。でも、優しくはできない。
「調べなくても自分の頭ん中で考えてみたら思い出すんじゃない?」
「考えたよ! でも、どれも納得できなかった。誰かに相談したいけど、それもできなかった……死神は意地悪だし」
「えっ、死神?」
ふいに出てきた言葉に、真彩は思わず怯んだ。幽霊がいるなら死神もいるのか。それもありえる。
「いや、俺が勝手にそう呼んでるだけで、そいつは生きてるんだけどさ」
すかさず、つった頰をゆるめた。まったく紛らわしい。
「や、でも、幽霊もいるなら死神もいるわけだし、信じてくれるかなーって……とにかく! このとーりです! お願いします!」
目を細めていたら、サトルは両手を合わせてきた。まさか幽霊に拝まれる日がこようとは思わない。
真彩はぬるい息を吐いた。
「……本当はね、幽霊と関わりたくないんだよ、わたし」
厳しく言うも、声を和らげるように努めた。酷なことを言っているのは分かっている。
「だから、声かけられても目が合っても、今までずっと無視してきたの」
「そ、そうなんだ……」
「そうなんだよ。普通は気持ち悪いでしょ、視えないものが視えるんだから」
「いやいや……そんなこと、ないよ」
「そんなことあるの。本当は視なくていいのに、視えてしまうからしょうがなくて。それを周りに言っても信じてもらえなかったから、わたしはずっと……」
喉に何かがつっかえた。言葉がうまく出てこない。
信じてもらえなかったから、ずっと独りだった。だから独りを選んで、学校も休む。勉強もしない。何もしない。考えない。勝手な理由をつけて、死んだフリをしている。
喉に溜まった言葉とつばを同時に飲み込み、真彩は小さく口を開いた。
「――本当に困ってるの?」
探るようにサトルを見る。すると、彼は目を逸してうなずいた。虚ろな瞳に光はない。生きていないのだと感じる。
「……分かったよ」
声に諦めを混じらせて観念した。
「その死んだ理由ってやつ、探せばいいんでしょ」
「ほんと?」
「うん……」
サトルは口をあんぐり開けて、すとんとしゃがみこんだ。膝にうなだれると、柔らかそうな髪が揺らいだ。
「よかったぁぁぁ……あー、よかった、助かったぁ」
安心した声を漏らしたあと、嬉しそうに拳を宙に挙げる。そして、元気よく立ち上がった。
「本当にありがとう! ……えーっと」
言葉に詰まっている。真彩は首をかしげて顔を覗いた。
「何?」
「……名前、なんだっけ」
そう言えば、まだ名乗っていない。今日限りだと思っていたから名乗る必要性を感じなかった。
「一ノ瀬、真彩」
入学式の自己紹介以来、自分の名前を口にすることがない。そのせいか、多少の気恥ずかしさを含んだ。その恥じらいをまったく気にしないサトルは、大げさな身振りで手を叩いた。
「真彩ちゃん! 本当にありがとう!」
「はいはい、どーも」
相手は幽霊だが底抜けに陽気。表情がくるくる変わり、それについていくのが大変だ。真彩は肩を落として、自分の弱さに呆れた。
***
翌日、真彩は岩蕗先生から言われた通り、午前十時に学校へ着くよう家を出た。
町全体がフレンドリーで、広告も「アットホーム」を売りにしている窪駅周辺では公園の噴水で遊ぶ子どもたちが賑やかで眩しかった。目を細めて一瞥する。町の音を聴くのは好きじゃない。
とくに、駅周辺は生きている人間と死んだ人間が多く混在している。ぶつぶつと恨み言を放つ半透明の異質物と、目を合わせないように通り過ぎる。彼らは晴れだろうが雨だろうが、冬だろうが夏だろうが関係ない。そこに居続ける。矢菱町に限らず、幽霊はどこにでも存在している。それを見て見ぬふりできるのも最近になってのことだ。
真彩はコンビニで鮭とからあげのおにぎりと緑茶のペットボトルを買った。黙ったまま店員に会釈して品物を受け取り、日差しの中へ出る。午前中だというのに額から汗が吹き出すくらい八月は灼熱だった。
ペットボトルを開けて、喉に冷たい緑茶を流して、早足に駅の中へ駆け込む。自動改札機に定期券を押し当て、颯爽とホームへ直行。九時発の電車には充分に間に合う十分前だった。ホームは暑い。日差しは遮ってくれるけれど、熱までは遮ってくれない。
――溶けそう。
補習二日目にして学校へ行く気が失せた。
岩蕗先生が言うには、この補習を逃すと留年らしい。人がいっぱいるのは苦手だが、エアコンの効いた部屋で先生と過ごすのはまだいい。たどり着くまでが地獄なだけで。
うだる頭でそんなことをぼんやり考える。冷えた電車に急いで乗り込み、ゆるりとした時間を過ごす。眠気を誘う揺れに従って、冷たい箱の中で目を閉じた。
まどろみに落ちていく――桜が舞う病室で、カーテンが荒々しくなびいた。あまりの冷たさに凍りつきそうだった。まだ指がかじかむ季節に、窓に身を乗り出す母の背中……それを止める父の怒号……あれからもう何ヶ月も経っているのに、どうしても頭から離れない……
ガタン――
電車が大きく揺れ、真彩は驚いて目を覚ました。慌てて辺りを見回す。
『次は矢菱町、矢菱町――』
アナウンスが流れる。真彩は肩を落とし、カバンの中にある定期券を探った。もうすぐ降りなくてはいけない。
電車が速度を落とし、やがて止まる。同時にぼんやりと立ち上がり、扉の前に立った。顔色の悪い幽霊みたいな自分がいる。すぐにうつむいて前髪を触る。ドアが開き、ホームへ飛んだ。
考えるのはやめよう。憂鬱な気分でこの熱気の中、学校まで歩きたくない。
真彩はカバンを掛け直し、ホームを駆け下りた。改札まで一直線。
眠っていたからか喉が渇いている。ペットボトルをひねり、すぐに頬いっぱいに冷たいお茶を含んだ。ゆっくりと喉へ流し込んでいく。
その間、駅舎にはまばらに人が行き交っていた。透けない人も、透けている人も。肉眼では些細に動きが分かる程度に動く幽霊。それをも背景の一部として認識する。
真彩はもう一度お茶を飲んだ。気温は三十三度。暑い。うだる頭が溶けそうで、喉はすぐに渇いていく。
その時、耳元を冷気がよぎった。目と鼻の先にすぐ、人をかたどる半透明な少年が現れる。
「おはよう、真彩ちゃん!」
途端、真彩は口に含んでいたお茶を思い切り噴き出しそうになった。手で押さえて上体をあげて無理やり喉に送る。間違えて鼻に送られた。つーんと痛む鼻を押さえてペットボトルを閉めると、サトルを睨みつける。
「あー、ごめんねぇ……」
その笑顔がなんだか憎めない。真彩は涙目で、カバンにペットボトルを押し込んだ。思わず文句を飛ばそうとしたが、口を開いてすぐにやめる。
「ん? ……あ、そっか。人が近くにいるからか」
無視を貫いていると、彼は一人で納得した。腕を組んでうなずいている。
そんな彼に、真彩は話してやる気はない。まだ痛む鼻をすすり、スマートフォンを出した。メモに文字を打ち込み、黙ったままサトルに見せる。
『補習が終わるまで待ってて』
「オッケー!」
ぱあっと華やぐ笑顔でサトルは親指を突き上げた。それから、しげしげとスマートフォンを見つめる。
「はぁー、これが噂のスマホか。すげえ」
初めて見るような口調に、真彩はただ単純に呆れた。
学校まで無言で歩く。サトルは何やら話しかけたそうにしていたが、公道や学校の近くでは我慢していた。真彩は一言も喋らない。それも、途中から部活生らしき男子生徒たちのジャージが目の前にあったからだ。
夏休みなのに、部活は休みじゃないらしい。大変だなぁと他人事に考えながら校門までたどり着く。
ジャージが門をごく自然に通り抜けていった。しかし、真彩は足を止めた。同時に息も止める。
「うわ、影が大きくなってる」
代わりにサトルが大袈裟に驚いてくれる。
昨日の影は腕だけだったのに今では肩と胸が見えていた。異様で不気味な影に、真彩は距離をとった。校門を飛び越えると、あの寒気が全身を襲う。暗く冷たい、骨が凍てつくような――
「え? 真彩ちゃん!?」
無意識に走っていた。サトルの声があとを追いかけてくるが知ったことじゃない。誰もいない昇降口で慌てて靴を脱ぎ、上履きに替え、廊下に出るまでノンストップ。足が疲れを感じるまで止まらない。
「あぁ、もう。足速すぎな。全然追いつけねぇ」
階段の踊り場で追いついたサトルが息を切らしながらぼやく。真彩は上がった息を整えた。急激な運動で熱が上がれば、もうあの寒さが消えていた。
「……足だけは速いよ、わたし」
「そのようで」
返ってくる声には疲れがあった。
「わざわざ走ってくるとか……幽霊って、瞬間移動できないの?」
「できるわけないじゃん。真彩がどこに行くかなんて知りようがないし」
サトルは鼻で笑った。
――呼び捨て……
不意打ちの呼び捨てに驚いてしまい、話が入ってこない。
「それにしても、その足の速さはすごいなー。陸上部から勧誘されない?」
「……え? あぁ、うん。担任が陸上部顧問だから余計に」
「だと思った」
「でも、部活はだるいから断ってる」
「もったいねぇー」
サトルは愉快そうに笑った。あんな影を見たあとなのに、テンションが高いのは何故なのか。真彩は呆気にとられ、真顔で彼をじっと観察した。
「サトルくんって、なんて言うか……」
――なんて言うか、
「……普通、だよね」
やっと出てきた言葉はなんの捻りもない。今度はサトルが真顔になる。
「普通?」
「うん。死んでなかったら普通にそのへんにいそうな感じ。わたしの知ってる幽霊っぽさがない。なんか引くわ……」
「引くな引くな。あと、幽霊に向かって『普通』はないだろ」
サトルは顔を引きつらせた。言葉とは裏腹にあまり怒っていないようだ。
「てか、真彩は普通じゃなさすぎ。幽霊が視えるなんて」
「そりゃ、普通じゃないのは分かってるよ」
真彩は淡々と言った。
「それに、全然いいものじゃないし。地獄だよ、視えるって」
目を細め、うんざりとした顔をサトルに向ける。彼は丸い目を見張った。そして、ゆっくり瞬きをする。喉がごくりと動いた。
「視て気分がいいものじゃないからね。死んだ人たちの声は、いつも暗いし。それにあの影も。目が合うと心臓が落ち着かないし、怖いよ、すごく」
一息に言うと、サトルは圧倒されたのか黙りこんで、それから苦笑する。同情が見えてしまい、真彩は不機嫌に階段をのぼった。一段上がるごとに重くだるい。その横を一歩下がったところからサトルが遠慮がちについてくる。
「……それさ、親には言ってるの? 一人で抱えるのって辛いだろ」
「言ってるよ。最初からずっと。でも、信じてくれない」
「うーん……」
サトルの声は後ろめたそうな音だったが、それを許せるほど器は大きくない。投げやりに口を開く。
「病気だって言われたよ。でもなんにも悪いところはないから原因不明。精神的に問題があるんだろうってさ」
「そんな」
「そうなの。だから、普通じゃないってことくらいは人に言われなくても分かってるよ」
どうにもムキになってしまう。そんな自分を冷やそうと、階段の壁に背中をくっつけた。ひんやりと固い冷感が制服の布越しに感じる。
「……普通ってさ、案外、存在しないものかもしれないね」
やがて、サトルが言った。彼が吐く息が冷たく、また壁の冷たさに当たっていれば、これ以上熱は上がらない。
「サトルくんは幽霊じゃなかったら普通だよ」
「あー……うん。まぁ、今じゃそれも意味ないんだけど」
その言い方に、真彩はたちまちバツが悪くなった。うつむく。
「そんな顔すんなよー。俺はもう割り切ってるんだし」
サトルは未練がないらしい。その未練がなんなのか知らないからだろう。無邪気な幽霊は、あまりにも現実的ではなく、あまりにも普通で、怖くない。
「幽霊が日常的に視えても怖いものは怖いんだよね?」
教室へ行く途中、サトルが冷やかすように聞いた。それはどうも、気を紛らわしてくれているように思えた。
「そりゃあね。年中無休、永久に続くお化け屋敷みたいなものだよね」
「うわぁお。そりゃあ怖いな。俺もたまーに幽霊に出くわすけど、あまり関わりたくないのは分かるな。不気味だし」
「でしょ」
「でも俺はそうじゃないだろ?」
「まぁ……」
頷きかけてやめる。ここで肯定すれば、サトルが調子に乗ることは明白だった。
「一ノ瀬さん。ノート、ちゃんととってますか?」
黒板を叩く岩蕗先生が鋭く聞く。
「あ、はい」
慌ててノートに目を移した。シャープペンを握りなおした。ズズっと鈍い音が紙に刻まれる。
物理。力学の授業。先生が読み上げる問題文がまったく頭に入ってこない。今日はバネを用いた物体の加速度を数式にし、解を求めるという。そこまでは理解したが、記号と数字が並ぶと全然集中できない。
考えることに飽きてしまい、真彩は隣に座るサトルを見やった。彼は机に腰掛け、岩蕗先生の授業を真剣に聞いている。その横顔を見ていると、サトルがこちらに気づいた。口の端を伸ばし、人差し指を黒板に向ける。
「ちゃんと授業聞きなよ」
冷やかすように怒られ、真彩はすぐさま黒板へ視線を戻した。その動作に気が付かない先生ではない。教科書を教卓に置き、腕を組んだ。
「一ノ瀬さん、また集中できないの?」
「できません」
スパッと答えると、横でサトルが呆れた。
「即答かよ」
これには岩蕗先生も頭を抱えた。
「まったく、あなたの集中力のなさは本当に困ったものね」
「すいません」
幽霊が横で授業を聞いているから、とはとても言えない。
真彩は不満にシャープペンを転がした。身を乗り出して、気だるさをアピールする。
「せんせー」
「はい?」
「どうして勉強しなきゃいけないんですか?」
なんとなく聞いてみたくなった。集中できない理由はいろいろあるが、とにかく物理はつまらない。これからの将来、なんの役に立つかまったく分からない。イメージができない。勉強する理由ってなんだろう。未来が見えないから余計に分からない。
この漠然と怠けた質問に、先生はなんと答えるのだろう。
「そうね……まぁ、そういう悩みは誰もが持ってるわよね」
厳しく渋い顔で、気が抜けるようなことを言う。
すると、隣でサトルが呟いた。
「俺もそんなことを考えてたなぁ」
先生には聞こえていない。何を言おうか慎重に考え、やがて困り顔のまま口を開いた。
「私もね、若い頃はそんなことを考えたわ。受験を控えた頃、プレッシャーに負けそうで怖気づいて、そんなことを悲観した……理屈は分かっていても、思考は未だに納得してない。つまり、よく分かってないのよ」
「え?」
思わぬ答えに、真彩はぱっくりと口を開いた。サトルも身を乗り出して真剣に聞いている。
一方、先生は静かに言い、小さく微笑った。
「いくら将来のためだと言われても納得できないのよね。何かしら理由をつけないとやってられないんでしょう?」
言い当てられてしまい、結んだ口をへの字に曲げて、気まずくノートに目を落とす。それを面白がるように先生は笑った。
「この勉強が将来、あなたの役に立つかは分からない。役に立たないかもしれないし、役に立つかもしれない。この世に当然はないんだからね」
「当然は、ない?」
「ないわ。絶対的な当然というのは証明不可能なのよ」
そう言い切られては、ますます不安がよぎってしまう。サトルに目を向ければ、こちらは首をかしげていた。
「いい、一ノ瀬さん」
先生は教卓に立ち、白いチョークを取る。
「学問とは、そもそもほとんどが役に立たないの。人は結局、自然に生きているし、大多数はそれが当然なことだと勘違いしている。『なぜ』を追求するのは、ほんのごく一部よ」
黒板の隅に「大多数」と書き、その下に「少数」と書く。その「少数」を丸で囲み、線を引っ張る。その先に「何故?」と書いた。
「なぜ、こうなるのか。なぜ、こうなったのか。この『なぜ』を理解したい欲求が学問。勉強する原動力よ」
分かるような分からないような。しかし、物理の授業よりは頭に入ってきた気がする。
「あなたたちは選択肢や道を増やすための理由を探さないといけないの。そうして、やりたいことを見つけるために勉強する」
書いたものを消していく。文字の軌道すら一切残さず綺麗に消えた。先生はチョークを置き、手を叩いて粉を払い落とし、涼やかな目を向けた。
「でもまぁ、今後、あなたがどう生きるのかはあなた次第だから、私のこの言葉も授業も忘れていいわ」
「え、忘れていいの?」
覚えていられるかは保証できないが、意外な言葉にはついつい引っかかってしまう。先生はニヤリと笑った。
「でも、テストに出る場所は覚えておいたほうがいいわね。私が困るから」
正直な白状には、真彩も思わず口元を歪ませて笑った。
「結局はそれかー。先生もやっぱり先生ですねー」
「それもあるけれど、こうして貴重な夏休みを共有しているのも、あなたをまだ見捨てるわけにはいかないからなのよ」
涼やかな声にしては熱のある言葉だ。そんなことを言ってくれたのは岩蕗先生だけだ。
「ま、これから『なぜ勉強するのか』ということを追求してみたらいいわ。理由としてなら十分だと思うけど?」
「うーん……かもしれない、かなあ」
勉強する理由。死んだ理由。それを探す理由。いちいち枠にはめないと納得できない。その答えがなんとなく分かってきたような気がした。明確ではないけれど、すとんと腑に落ちていく。
「それじゃ、続きをしましょうか」
すでに先生は素っ気ない。真彩から背を向けて、黒板に図を書いていった。さきほどのブレイクタイムが嘘みたいに淡々としている。
真彩はやる気を起こそうとシャープペンを握った。
「なるほどねぇ……今まで考えたことなかったなぁ」
横でサトルが感心げにうなずいた。
「生きてる間にそれを知ってたら成績上がってたかもしれないな」
そのつぶやきがなんだか悔しげで、そんな半透明な彼を見ていると真彩の手はまた止まってしまい、どうにも居たたまれなくなった。
――この世に当然はない。
そのフレーズがふわっと浮かぶ。
――ということは、未来が当然にやってくるなんてこともないんだろうな。
未来はきっと透明なんだろう。ペンケースにつけた小瓶のストラップを見つめる。無色透明な瓶は空っぽで、虚しく思えた。
先生が読み上げる問題が右から左へ流れていく。真彩は右隣のサトルを見やった。どんなに陽気でも彼の存在は曖昧で希薄だ。
死んだ理由を探すだなんて、やっぱりバカバカしい。大体、こちらにはなんのメリットもない。
夏休みに学校へ行くというだけでも労力なのに、加えて厄介ごとを引き受けるのは割りに合わない。良い結果にならなかった場合、後悔するリスクが生じる。
利害を一致させるには無理やりなこじつけが必要だ。勉強と同じように、いちいち理由をつけなくては幽霊を助ける動力も動機もない。
彼は物理的に死んでいる。自分は擬似的に死んでいる。その理由を探すには、どんな理由をつくればいいのだろう。
***
十五時になり、真彩は先生よりも後に教室を出た。鍵を閉めて階段を駆け下り、鍵を職員室へ返し、ひと仕事終えたように「ふう」と息をついて昇降口へ行く。
「おっと、ストップストップ。放課後に話そうって言っただろ」
冷風を巻き起こして、サトルが前に飛び出した。
「あ、そうだった」
「忘れるなよ! ずっと待ってたんだけど!」
とぼけたフリが通じなかったらしい。真彩は肩をすくめた。
「忘れるわけないじゃん。わたしなりに真剣に考えてるんだよ、これでも」
「ほんとかよー……」
疑われている。表情に出さないからか、あまり信用されていない。
気を取り直して、真彩は靴箱を開けながら言った。
「それで、えーっと……死んだ理由ね。それを探したら、わたしを解放してくれるんだよね」
「人を誘拐犯みたいに言うな。幽霊だっての」
「じゃあ取り憑いてる?」
「それは、そうなんだけど。いや、違うし。なんか悪いことをしてるみたいで嫌だ」
必死に訴えてくる。それがなんだかおかしくて、真彩は小さく鼻で笑った。
「一ノ瀬」は一番右端のてっぺんにある。ギリギリ届くか届かない位置なので上履きを投げ込むのが常だった。固いローファーを地面に置き、足を入れる。トントンとつま先を叩いてカバンをかけ直した。
熱気の中に足を踏み入れるにはいくらかやる気を起こさなくてはいけない。陽は容赦なく、目を開けていられないほどに眩しい。熱に包まれ、息が詰まりそう。でも、サトルが横に並ぶと涼しくなる。
熱と冷気。どちらも極端に全身を行ったりきたり。スッキリしない。
結局、どちらにも興味はないのだ。死んだ人間にも生きている人間にも興味がない。片足ずつつっこんで、気だるくその場をしのいでいるだけ。無駄に生きているような気がして、頭の中が重くなる。
「まぁ……わたしも生きてるかって言われたら怪しいよね」
セミの声に紛れるように小さくつぶやくと、サトルがすぐに反応した。
「え、どういうこと?」
「あなたが物理的に死んでるなら、わたしはその逆で、擬似的に死んでるってこと」
冷めていた口が急に熱を持ったように思えた。しかし、口に出してしまえばあっさりと冷めていく。
「擬似的に……? 死んだフリってこと?」
サトルは不審げに聞いた。
「うん、そんな感じ。なんか、意味もなく理由もなく自然に生きてるなって」
忘れていいはずの話はまだ頭に残っていた。サトルも同じなのか、思い当たるように唸った。
「んー……でもさ、生きる理由を常に考えて生きてるやつ、そうそういないだろ」
出てきた言葉は楽観だった。
「そういうのは死んでから考えるもんじゃない? ま、俺は考えないけどな」
「いや、サトルくんはもう少し自分の状況に自覚を持ったほうがいいよ」
陽気にもほどがある。幽霊らしくないから、避けようにも避けられない。好奇心旺盛で、こっちがどんなに怒ってもヘラヘラしている。表情も豊かで、自分より生き生きしている。それがどうにもうらめしく、うらやましい。
真彩はゆらゆらと校門を目指した。
カーンと、硬球が飛ぶ音が耳に届く。校門までの道の途中、横目に見えるのはグラウンドを駆ける部活生たち。太陽のように眩しくて直視できない。
「お、ホームラン!」
サトルが口笛を吹いてはやしたてる。こちらも楽しそうで何よりだ。
「まぁまぁ、夏休みに補習三昧だからってそう悲観するなよ」
真彩の暗い顔を見てか、彼は慰めるように言った。顔を覗き込まれると、ひんやりと冷感が鼻先に当たる。熱の中にいると、その冷たさが心地いい。でも、それはなんだか癪だ。
彼の体を突き抜けると、凍えるような冷たさが食い込んだ。サトルの陽気さとは正反対な温度に驚いてしまう。意味不明な敗北を味わった。負け惜しみのように口を開く。
「別に、夏休みに補習だから悲観してるわけじゃない」
「えー? じゃあ何がそんなに憂鬱なんだよ?」
振り返ると、サトルはきょとんとこちらを見つめている。それを一瞥し、真彩はうらめしく人差し指をまっすぐ校門に突きつけた。
黒くうごめく細い影。昨日から、ずっとそこにいる。
「あれがわたしの憂鬱。通り過ぎるだけで気分が悪くなる」
サトルとはまた違った冷たさを持つ黒い影。あれを避ける術もない。サトルよりも厄介だと改めて思う。
「……あー、こいつがいるせいで、真彩は楽しくない。そういうことだな」
簡単に言えばそうなる。今、目の前にある大きな問題は校門に立つ黒い影だ。もし、あれが「後悔の怪物」なら、怪談のとおりなら食べられてしまうのではないか――バカバカしいとは思いつつ、無下にあしらうこともできない。
その時、真彩は今朝のことを思い出した。
「……ねぇ、サトルくん」
深刻な声を繕う。
「死んだ理由を探すことについて、今、自分なりにメリットを考えたんだけどさ」
「おぉ」
面食らうも、サトルは期待の目を向けた。だが、真彩の思考は淡々と冷めていた。
「考えた結果、どうしてもメリットがなくて。むしろ無駄な労力だなぁっていう結論が出たんだよね」
「おぉ……」
一気にサトルの表情から輝きが失せていく。実に分かりやすい。
「でもね、無理やりにこじつけることにしたんだよ。先生の話を聞いたらさ」
「おぉ!」
少しだけ元気が戻る。対して、真彩は変わらず淡白に続けた。
「わたしはあの影を避けたいんだ。だから、サトルくんはそのために、あの影からわたしの気を逸して」
途端、サトルは怪訝に眉をひそめた。
「ん? え、何? 気を逸らす? って、どうやって?」
「うーん……話しかける、とか? 隣にいるだけでいい、みたいな」
熟考した割には短絡的だと思う。そして、我ながら恥ずかしいことを言ったように思える。
サトルは両目を丸く開かせ、拍子抜けの笑いを飛ばした。
「え、それだけ?」
「うん」
「そんな簡単なことでいいの?」
「うん。なんかおかしい?」
「いや……だって、メリットって言うくらいだから、もっと巨大なものを要求されるのかと」
その言葉には同意する。真彩は額をおさえ、恥ずかしさに耐えた。
「いくら異形が視えても慣れないの。わたしにとっては死活問題なの。毎日あれを視るなんて、普通に嫌なの」
「おぉ……そういうもんかぁ」
どうも共感は得られそうにない。真彩はため息を吐いて、カバンを持つ手に力を込めた。手招く影に、気持ちが引っ張られそう。
すると、サトルが影を遮って、真横に立った。
「じゃあ、俺が真彩とこいつの間にいたらいいんだな」
「そういうこと」
二人は歩調を合わせ、「せーの」で校門を一気に飛び越えた。サトルの冷気が盾となり、冷たさは感じつつもあの気持ち悪さはない。それだけでいくらか安心できる。
「これくらいなら、毎日でも全然付き合ってやってもいいよ?」
サトルにとっては簡単な仕事なんだろう。だが、その言い方はやはり癪に障る。真彩は目を細めてふてくされた。
「それくらいで、いい気にならないで」
「えぇぇ? なんで? 意味分かんないんだけど!」
馴れ馴れしくしてほしいとは頼んでいない。つんと冷たく足を速めると、態度の急変についていけないのか、サトルの呆れた声が追いかけてくる。
「おーい、まーあーさー!」
「行き帰りであなたをこき使う。それが死んだ理由探しの条件よ」
ピシャリと言い放つと、サトルはつまらなさそうに項垂れた。
「死神よりも冷たい……」
「なんか言った?」
「言ってません」
サトルはなおも不服そうだが、強気に出られない。
「じゃ、そういうことで」
真彩は満足に言った。
これでひとまず納得できる。死んだ理由を探す動機としては不足ない。はずだ。
朱く暮れなずむ夕方だった。気温は夏のままだが、サトルの体感では夜も朝も昼も同じこと。季節を感じるには色しかない。
半透明な彼は、学校の廊下をのんびりと歩いていた。夜はまだこない。
「――やぁ、死にぞこない。その後、調子はいかがかな?」
暗い廊下の奥で、大きめの白いパーカーを着た少年が軽快に軽薄な声をかけてきた。フードを目深にかぶり、目元が見えない。口はニヤニヤ笑っていて不快を誘う。
「おー、お前か、死神」
サトルはあからさまにげんなりと肩を落とした。この間会ったばかりだが、あまり仲良くなれそうにないことはすでに承知している。パーカー男が飛ぶようにサトルの元までやってきた。
「死神とは随分だねぇ。僕はこれでも君を心配しているのに」
「それにしちゃ冗談がきついぜ。つーか、助けてくれない時点であんまり信用できないんだけど」
不審をあらわに言うと、パーカー男は「くははっ」と愉快に笑った。どこがツボなのか理解できない。
「まだ思い出せないのかい? 死んだ理由をさぁ」
「昨日の今日で思い出せたらとっくに成仏してる」
「それもそうか」
分かりきったことをわざとらしく言うので、対応が面倒になってくる。パーカー男の態度はどうにも他人を煽るので、いちいち反応していたら身が持たないだろう。もしも真彩が会ったら……彼女の機嫌が悪くなる様子が容易に思い浮かぶ。
「とにかく、君は早く成仏するべきだ。でないと、大変なことになるからね」
「その大変なことってなんなんだよ。急に成仏しろとか言われても、そっちに困ってるんだけど」
聞くと、パーカー男はフードの下にある鋭い目を覗かせた。その瞳の強さに、不覚にも怯んでしまう。
「死んだ人間がいつまでも生者の中に紛れ込んでいれば、あらゆる負荷がかかるんだよ。君は能天気だから分からないんだろうけれど」
――負荷……?
凄んで言われてもピンとこない。
「現に、今はもう家に帰れないだろう? 後ろめたさと不安がある証拠さ。それが負荷ってやつなんだよ」
サトルは目を逸らした。図星をつかれて言いよどむ。
今まで家には通っていた。しかし、ここ最近はどうにも億劫で足が向かなかった。居場所のない家に帰っても意味がない。だったら、のんびりと適当に学校や公園で夜をつぶすしかないと、それはそれで気楽だったのだが、負荷だと言われたらそうなのかもしれない。
「負荷が溜まったら、なんかやばいの?」
「やばいどころじゃないよ。まったく。分かってないなぁ。君は本当にダメだなぁ。そうやって中途半端に生きたフリをしているから良くないと言っているのがなんで分からないかなぁ!」
パーカー男は大げさに嘆いた。事務室まで聞こえそうでこちらがヒヤヒヤしてしまうが、パーカー男は気にする素振りもなく、サトルの頭をがっしり掴んで髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
「僕は悪霊しか祓えないんだよ。悪霊にすらなれない君を祓うことはできないんだ。それが目障りだからさっさと思い出せ」
「横暴すぎる!」
振り払って逃げたら、パーカー男は宙を掴むように何かを握った。不思議そうに見つめている。
「ん、なんだ、どうした?」
少し離れたところで聞いてみる。パーカー男は握ったものを探り、つまんで持ち上げた。
「これ、どこでくっつけてきた?」
黒い影の欠片に見える。サトルは眉をひそめて考えた。だが、思い当たるフシがない。
「君の頭に絡んでたみたいだけど。君のじゃないなら、どこの誰の影なんだ」
「さぁ……? あ、待てよ」
サトルは鍵がかかった教室の中へ飛び込んだ。窓を覗く。校門に揺らめくあの細長い影が手招きしていた。
「あいつか」
まさか影がくっついていたとは思わなかった。案外、あの影は厄介なものらしい。真彩が怖がる理由もよく分かる。
すると、パーカー男が教室に入ってきた。鍵がかかっているはずなのに、生身の人間が教室をすり抜けることは不可能だろう。やはり、こいつは死神なのかもしれない。
「……君、昨日と今日、女の子に会ったよね?」
パーカー男が静かに聞いてくる。サトルは息を飲んだ。
「なぜそれを! ってか、いつの間に!?」
「ふうん? 一ノ瀬真彩ちゃんか……僕、その子にすっごく興味あるなぁ」
問いを無視し、彼はもうサトルに興味をなくしていた。窓の外に浮かぶ黒い影を見ながら、口元を緩ませて不敵に笑う。不気味で不快。ただものではない。
「……お前、やっぱり死神だろ」
「違うってば。僕は正義の味方さ」
軽薄な口がさらりとうそぶいた。
***
土曜日と日曜日は休みで、また月曜日の朝十時から十五時まで補習が行われる。
八月五日、月曜日、窪駅のホームで、金曜と同様に昼食とペットボトルのお茶を買う。行きだけで五〇〇ミリリットルの緑茶を消費してしまうが、自動販売機は学校内にもあるのでこれは通学用の水分だ。これをカバンに詰めて、電車に乗り込む。
昨夜、急な雨で地面が濡れていた。熱の上に湿気までプラスされ、気が滅入ってしまう。冷えた電車での移動も意外とつかの間で、ホームに出れば日差しがさらに強く増していた。
「――あ! おはよう」
改札を抜けると、サトルが待ち構えていた。
「おはよう」
口の動きだけで伝えると、サトルは「あ、そっか」と辺りを見回した。人の行き交う場所では私語厳禁。それは今や暗黙のルールだ。
真彩はあくびをして駅舎を出て、学校までの道をゆったり歩いた。その横をサトルがついてくる。彼はなんだか落ち着きがなく、時折背後を振り返ったり、前を走ったり、電柱が立つ狭いところをわざわざ通っていた。
「……ねぇ、気が散るんだけど」
サトルの背中をつんと刺すと、その冷たさに指先がしびれた。刺した背中はもやもやと半透明の波紋を描く。サトルが驚いたように振り返り、そのただならぬ気迫に、真彩は足を止めた。
「どうしたの?」
「え? えーっと、いやぁ……なんでも」
「ないことないでしょ。鬱陶しいから、変なことしないでよ」
「鬱陶しいって……ひどいこと言うなよぉ」
情けなく口を開けて嘆くサトル。それを一瞥し、真彩は鼻を鳴らした。
「わたしとあなたの関係はなんだっけ?」
「……死んだ理由探しをするためだけの共同関係です」
やる気のない声で言われる。間違いではないが、共同関係という部分が引っかかった。
「なんか違うけど……いや、間違ってないのか……でも、なんか変な感じ」
「そこまで嫌がらなくてもいいだろー」
「嫌に決まってるでしょ」
幽霊と関わるのも、人と話すのも苦手だ。だから加減が分からない。それをごまかすように、真彩はニヤリと笑って軽口を叩いた。
「わたしの暴言は冗談として受け止めて。それが条件」
「はぁー? そこまでは承ってませんけど!?」
「じゃあ、追加ってことで。そしたら死んだ理由探ししてあげるよ」
小路を抜けて、公園前の交差点を横断し、学校へ急ぐ。暑さに耐えきれないから、早く涼しい場所へ避難したい。
その間にも、サトルはまた背後を気にしていた。彼いわく、なんでもないらしいが、何かを気にしているのはバレバレだ。それを咎めるのも面倒なので足を速めることにする。
校門が近づくと、やはりあの影が真彩の到着を待っていた。
「……いねぇな」
おもむろにサトルがつぶやく。
「え? いるじゃん、あの影」
真彩がすかさず返す。サトルは不審げに「あぁ」と影を見た。今日はいつにもまして意味が分からない。
「サトルくんは一体何から逃げてるの?」
不審な動きをされれば、どうしても気になってしまう。
真彩の問いに、サトルは声を裏返らせて動揺した。
「へっ? あ、いやー……ほら、死神、とか」
怪しい。隠し事に向かない性格だと見抜いた。そもそも、自分のことを棚に上げて何を言っているんだろう。
真彩はサトルから視線を変え、校門を睨んだ。影は細長くも威圧的で、日差しが強まればさらに濃度を増す。
「真彩、行こう」
声をかけてくれなかったら動けなかっただろう。真彩は我にかえり、サトルの足と同時に校門を越えた。
***
「――不謹慎なことを言うけどさ」
午前の授業が終わり、二人は屋上へ繋がる階段に座っていた。コンビニで買ったおにぎりの包みをビリビリ破りながら慎重に言う。対して、サトルは「いいよ」と軽い。真彩はおにぎりのてっぺんを見ながら言った。
「死んだ理由って、つまり、死因ってことなんだよね?」
気軽にする話ではないが、理由探しをするにはどうしても避けられない確認だ。今朝はふてぶてしくしていたが、約束した以上は引き受けないといけない。
サトルはわずかに笑顔を引っ込めた。しかし、軽さは残したままで「そうだね」と返す。真彩はおにぎりのてっぺんをかじった。まだ具は見えてこない。
「幽霊ってね、死んだままの状態で漂流してるのがほとんどなんだけど」
「え、そうなんだ?」
「うん。それに、死んだ時の記憶を引きずってる。そういう系の幽霊は地縛霊が多い。でも、サトルくんは地縛霊じゃないし、死んだ理由も分からない。ということは……」
言いながら脳内で整理してみる。無造作におにぎりにかぶりついた。二口目。まだ具は見えてこない。ゆっくりと咀嚼しながら考える。
死んだ理由を知らない。死因を知らない。ということは、この世に未練があるわけでもない。それなのに成仏できない。亡くなった時に何らかの事情があったのだろうが、死者の事情なんか知りようがない。
サトルは期待に満ちた目を向けていた。無邪気さがやっぱり幽霊らしくない。
「ひょっとして、サトルくんは生き霊なんじゃないかな」
「生き霊……」
サトルの丸い目がさらに丸く大きく広がる。しかし、すぐに元の大きさに戻った。
「いやいやいや、ないないない。これ、自分で言うのもなんだけど、それだけはないよ」
「どうして?」
妙に否定的なのが気になってしまう。怪訝に見ていると、サトルはあっけらかんと答えた。
「だって、俺の墓あるし」
「………」
言わなきゃ良かった。
「残念ながら確実に死んでるんだよなー。ちょっとその線もアリだなって思ったけどさぁ。非常に残念だけども」
「もういいよ。分かったよ。わたしが悪かったよ」
おにぎりを口の中に押し込める。冷たい唐揚げの濃い味がようやく届いた。
「じゃあ、こうしよう。サトルくんもいくつかは死んだ理由を考えてるんでしょ? だったら山を張るために、不正解を先に教えてよ」
「あ、それいい!」
サトルは名案とばかりに指を鳴らした。
慌ただしくおにぎりを食べ、真彩はカバンから現代文のノートを出した。ページを破って教科書を何冊か膝に置き、下敷きの上でノートを構える。サトルが厳かに咳払いする。
「まずは事故。いろいろあるけど、考えられるのは交通事故だな。学校の外って大通りまで行かないと信号がないし。自転車に乗って自動車とぶつかったとか。脇見運転の車に突っ込まれたとか」
真彩は言われた通り、ノートに書いた。一つ目、交通事故。
「書いた? よし。んじゃあ、次にこっちも事故のくくりなんだけど、二つ目は溺死だ」
「溺死?」
思わぬ言葉に真彩はシャープペンの手を止めて顔を上げた。目の前に座るサトルは「うん」と真面目くさった顔で頷く。
「俺、海が好きでさ。プールも好きなんだけど、夏はよく友達と海やプールに行ってたんだよ。可能性は低いけどあってもおかしくないかなって」
「ふうん……」
とりあえずノートに記しておく。
「そして三つ目が遭難」
「遭難?」
これもまた想像になかったので、真彩は素っ頓狂に聞き返した。
「近所に赤月海岸があるだろ? その海岸をずーっと西に行くと洞窟があるんだけど、満潮になったら穴が塞がれちゃうんだよ。で、帰れなくなったみたいな」
「はぁ……なるほど」
「海の事故って考えてくれたらいいよ。あーあ、久しぶりに海入りてーなー」
溺死か遭難を予想しておいて、こののんきさだ。この二つは絶対に違うと思う。なんとなくもう目星はついてきたが、他にもあるのだろうか。
「それくらい?」
「いや」
サトルは慌てて答えた。しかし、口が重たくなり、視線がズレていく。頭を掻いて「うーん」と悩み、やがて小さく口を開いた。
「……あんまり考えたくないんだけど、他殺って可能性もなくはない」
その重さに血の気が引く。心臓がすくみあがった。
「そんなわけ……」
「人に恨まれるようなことはしてないと思うよ。でもさ、人間って分かりあえないものじゃん? 俺は嫌いじゃなくても、誰かは俺のことが嫌いだったりするんだよ。そういうの、まったく考えない人生だったけど、なんとなく、そういうことも考えた」
サトルは口の端を無理やり引っ張って笑顔をつくる。彼も彼なりに平静を装っているらしい。全然できていないので、真彩はうつむいた。
「……この可能性はあんまり考えたくないね」
現実味はないが、重みだけは異常に強く押しつぶしてくる。
「だって、サトルくんの性格で嫌われることはないでしょ。うざいけど、そこまで深刻じゃないし」
――わたしよりも、絶対に死ぬべきじゃないはず。
裏の言葉は飲み込んでおく。同情の中に自己嫌悪が混入し、感情が窮屈で仕方ない。ペンで四番目を叩いて、気を紛らわした。
「ありがとー、俺もそう思うわぁー」
サトルは安堵の息を漏らした。
「じゃあ、この勢いで」
気をとりなおしたサトルが、片手を広げて五番目の可能性を提示する。
「これもまた限りなくゼロに近いんだけど、ないこともないから入れといて。自殺の可能性を」
真彩は素直に書き記した。
「いや……一番ないと思うんだけど」
文字にすると余計に現実味が消えた。四番目の可能性よりもさらに信じられず、むしろバカバカしくなってくる。それはサトルも同じようで、神妙にうなずいた。
「だろ? その場合だと理由が本当に分からないんだよ。死にたい願望はなかったし、むしろさっさと成仏できそうじゃん?」
「そうだよねぇ……いや、どうなんだろ」
どれもしっくりこないが、可能性として考えるなら無難かもしれない。サトルが自分の死因を考えたのは全部で五つ。
①交通事故。車との接触が原因。
②溺死。海かプールでの事故。
③遭難。赤月海岸の洞窟にて。
④他殺。恨みを買った。
⑤自殺。理由が分からないので可能性として考える。
これを読み返し、真彩はもう一つの可能性に思い当たった。
「……ねぇ、サトルくん。病気で亡くなったっていう可能性がないのはどうして?」
単に思いつかなかったのだろうか。真彩の質問に、サトルは考えを巡らせているのか動かない。やがて、彼は丸い目と口を大きく開かせた。
「ホントだ。どうして思いつかなかったんだろ」
「もしかすると、意識的に避けてたかもしれないよ」
「なるほど! いやぁ、真彩と話してたら新しい発見があるなぁ。やっぱ、人に相談するのが一番だな」
一人納得しているが、真彩からしてみれば死の理由なんか相談されたくはない。金輪際お断りだ。
真彩は頬杖をついて、数学のプリントを眺めていた。問題に答える気はなく、昼間の話し合いについて考えている。
サトルの死因を調べるには、他にもいろいろと効率のいいやり方があるはずだ。スマートフォンでインターネットを開き、それらしいキーワードで検索をかければ分かるかもしれない。図書館で新聞のバックナンバーを探すのも頭に入れておこう。最後の手段として、サトルの家に行くことも考えた。手間はかかるが、来週くらいまでには調べがつくだろう。思わぬ夏休みの課題だと考えればいい。
ただ、ノートに走り書きしたあのメモは、どれも不正解だからそれ以外で考えるしかない。自殺や他殺はやはり考えられなかった。溺死と遭難はもしかしたらあるかもしれない。だが、当の本人は「海に行きたい」と言っていた。これも考えにくい。
では、交通事故の可能性が高いだろうか――
真彩は目を閉じた。人が死んでしまうほどの交通事故とは、相当に悲惨だろう。
ぶつかった瞬間、耐えきれない衝撃に体が押しつぶされる。思考は飛び、何が起きたのかさえ分からないまま、意識が消える。そうすると、記憶がなくなってもおかしくないかもしれない。
ぼんやり考えていると、頭の奥が鈍く痛んだ。額を揉んで和らげようとするも、それは徐々に痛みを自覚させる。
――あぁ、もう。やだなぁ……
無意識に記憶が引っ掻き回される感覚が不快だ。ぐるぐると渦巻く記憶の中、車の急ブレーキ音と母の叫びが不協和音となって思い起こされた。
交通事故には一度だけあったことがある。だが、記憶は曖昧で、その映像がたまによみがえる程度だ。嫌な記憶ほど抹消してくれればいいのに、暗い気持ちに陥って、戻れなくなりそうで怖い。
その恐怖心が目の感度を異常に発達させているのかもしれない。幽霊が視えるようになったのは、事故の後だったから。
真彩は眉間にシワを寄せて、窓の外を見やった。教室の窓からはあの黒い影が視える。どうしてあの影が無性に怖いのか、いくら考えても分からない。ただ、あの影が事故の記憶やそれからの生活のように冷たく暗いものを呼び寄せているのには気がついている。
「――……真彩……真彩」
誰かが呼んでいる。暗い水底から顔を上げると、明るい光のような声が降ってきた。
「真彩!」
冷たい風が顔を直撃する。真彩は身震いして顔を上げた。サトルが目の前で顔を覗き込んでいる。その背後では岩蕗先生の冷めた視線があった。
「……一ノ瀬さん」
うんざりとした先生の声。思わず視線をずらすと、サトルが苦笑を浮かべていた。
「補習で寝るなんて、信じられないわ」
先生は教壇から下りず、呆れの息を吐く。それが怒っているように見えて、真彩は萎縮した。
「すいません……」
これには反省する。言い訳も思いつかず、それに心臓はまだ早鐘を打っている。頭痛も治っていない。いつの間に眠っていたのだろう。体がいつにも増して重く感じる。そして、サトルの冷気に当たって寒気も感じた。
「はっ……ぶしゅっ」
くしゃみが飛び出し、鼻をすする。岩蕗先生が振り返った。
「風邪でもひいたの?」
「え、いや、多分、違うと思います……」
バツが悪いので今日はもう大人しくしておきたい。素っ気なく答えてしまい、先生は怪しむようにうなった。
「あなたがいつも気だるいのは知ってるけれど、今日はいつも以上に調子が悪そうね」
そう言って、教壇を下りてくる。涼し気な表情には若干の心配が浮かんでいた。
「今日はもう終わりにしましょうか。ちょっと早いけれど」
時刻は十四時半。日差しは強いが、今はその熱が欲しかった。
***
「いやぁ……真彩の集中力のなさはかなりヤバイよね」
先生が教室を出ていってすぐにサトルが言った。
「ノート全然とってないじゃん。俺だってもう少し真面目にノート書いてたぜ。どんだけやる気ないんだよ」
開いていたまっさらなノートを指して笑うサトルに、真彩は不機嫌を向けた。
「ちょっと、今日は調子が悪かったんだよ」
「先生が言うにはいつもって感じだったけど?」
「まぁ……」
本当に調子が悪いのか、思うように言葉が出てこない。サトルも真彩の暴言を身構えていたらしく、丸い目を瞬かせる。
「……大丈夫?」
「大丈夫。サトルくんが冷たいから、外に出れば温まると思う」
「俺のせいかよ!」
不意打ちの攻撃に当たり、サトルは平手打ちを食らったような顔をした。肩を落として落ち込む。
「……じゃ、帰ろっか、サトルくん」
ノロノロと帰り支度をし、廊下に出る。鍵を閉めて職員室へ行く間にもサトルはぴったり後ろをくっついていた。これでは本当に取り憑かれてるみたいだ。少し離れる。ちょっと足を速めて職員室まで鍵を返し、強すぎる太陽の下に出るまで話はしなかった。
グラウンドでは野球部が練習をしている。反対側にある体育館からけたたましいブザーが鳴る。バスケ部の練習だろうか。学校の最奥にある渡り廊下からはトランペットの、地味に調子を外した音がふわんと熱気に溶けていく。
そんな賑やかな矢菱高校の校門には、似つかわしくないあの影があった。腕だけを伸ばして、手首をこちらに向けている。
「サトルくん」
呼ぶと彼はすぐさま影を遮ってくれる。こなれた感じで来られると、昨日は意識してなかったものが熱とともに浮き上がってくる。
「なぁ、真彩」
校門を越えるちょうど、サトルが静かに言った。
「せっかく早く終わったんだし、どっか寄ってかない?」
「え?」
その意外な誘いのおかげか、影に引っ張られることはなかった。
「どっかって……?」
「んー、そう言われるとちょっと困るんだけど」
考えなしに発言したらしい。サトルらしいといえばそうなのだが、なんとなく熱が傾いていたのにすぐ冷めてしまう。
「……公園行く?」
その提案が頼りなく小さい。
「この炎天下に公園? バカなの?」
「うっ……えー、じゃあ……どこがいいかな」
必死に考えるが、のどかなこの町では寄り道できる場所は限られている。
真彩はふと、昼間のことを思い出した。
「……海、とか?」
「あ! 海! 行きたい!」
人懐っこい彼の顔がくしゃりと音をたてるように笑う。それを見ると恥ずかしくなり、真彩は前髪を触ってうつむいた。
私鉄矢菱町駅までは少し遠回りだが、方向は同じなので有意義な寄り道だろう。
歩道のない道をゆっくり進む。だんだん堤防が見えてきて、潮騒が耳に流れてくる。この時間、平べったい町の上にある太陽はなかなか傾かない。この場所だけ時間の流れが遅いのかと、そんな錯覚をしてしまいそう。海を区切ったような防波堤には、釣り竿を持つ人がぽつんと立っているだけ。のどかで静かで、潮のにおいがきつい。
「……海って、やっぱり臭いね」
真彩はげんなりと言った。高く固い堤防の上を歩くサトルを見上げる。
「そうかな?」
サトルは海を見渡しながら言った。微かな波の音が聴こえるほど車の通りは少ない。壁を越えなければ海を見ることはできないから、真彩は少し切なかった。
「真彩、あっちに階段があるよ。もうすぐ降りられる」
ペタペタ走り、サトルが真正面を指差す。目を細めて見ると、あと数メートルは歩かなければ海を見ることができないようだ。真彩は肩を落とした。
――暑い。
こんなことならお茶を買っておけば良かったと後悔する。
「早く! ほら、真彩!」
「うっさい。ちょっと休憩させてよ」
熱を吸った壁にもたれる。直射日光はしのげても、暑さまでは遮ってくれない。頭がゆだってきそう。それでも太陽とサトルは容赦しない。
「車が来たら危ないだろ。ほら、急げ!」
確かに、白線が引かれた道路である。車通りが少ないにしても、人が通るには危ない道。真彩はむくれ顔を向けて動いた。
「なんであんなに元気なの……」
ぶつくさと文句を垂れ、サトルを追いかける。彼は一応、真彩がたどり着くまで待っていた。追いついたらすぐに駆け出す。
「真彩って、足は速いけどスタミナがないな」
追いついたと思ったら憎まれ口を叩かれる。まったくそんなつもりはないのだろうが、このタイミングで言われたら嫌味にしか聞こえない。
「基本、歩いたり走ったりが嫌いだからね」
「ふーん。それで陸上部の勧誘を断ってるんだ?」
「いや……まぁ、それもだけど。別に、好きで足が速くなったわけじゃないから」
好きで足が速くなったわけではない。いつの間にかそうなっていた。逃げなくてはいけないから。
サトルは「ふうん」と不審に思う素振りがなく、また置いていってしまう。
「まーあーさー!」
大きな声で呼ばれるが、これが誰にも聞かれなくて良かったと思う。
真彩は額の汗を拭って進んだ。サトルはもう海岸へつながる階段に到着している。子犬のように好奇心旺盛で、真彩の到着を待っている。
校門を抜けた時よりも重くなった足でサトルのところまで進む。堤防の切れ目が見えてきた。暗く陰っていた視界がようやく明るさを帯び、激しい明滅に思わず目をつぶる。
ゆっくり開くと、そこには碧い水平線が現れた。陽の光がキラキラとまばゆい。強い光に驚いて、思わず階段を踏み外しかけた。
「あぶなっ!」
すぐに透明の手が伸びてくる。真彩はその手を掴もうとはせず、錆びた手すりを握った。
風でたゆたうサトルの手が行き場をなくして上へ逸れる。そのまま腕を回して海を指した。
「気をつけろよー」
「うん……」
真彩は取り繕うように頷いて階段を駆け下りた。
足跡のつかないサトルの後をたどりながら、おぼつかない足取りで砂を踏む。重くて不安定な浜に怯えているとサトルがこちらを気にしながら海を目指していた。
「そんな警戒しなくても大丈夫だって。てか、海に来たことないの?」
「ないよ」
「珍しいなぁ」
「そうでもないよ。多分」
素っ気なく言えば彼は「ふうん」と、的はずれな返事をした。
砂浜はわずかに盛り上がっていて、足場が不安定なくせに山だけはしっかりと形がある。砂粒一つ一つが吸いつき、疲れた足を早く動かさなくては前に進めなかった。日差しは強いのに潮風が冷たい。白砂を下ると、そこから先は濡れて固い砂と透明な波が現れる。
サトルはすでに靴を脱ぎ散らし、靴下も取ってズボンの裾を折り曲げ、波に向かって駆け出した。
「よっしゃぁーっ!」
その歓声があまりにも楽しげで、真彩は苦笑した。
広くて遠い碧の景色は、実は肉眼できちんと見たことがない。潮のにおいも、風の音も、波の模様も、全部が初めてだ。こんなに近くで海を見たことはない。
そして、海は透明なのだと知った。ずっと先は淡い青なのに、波打ち際は透き通っている。
「うわぁ……ははっ」
これがサトルが好きな海。水に捕まらないよう、波を避けてみる。
一方、サトルは波に向かって走り、海の中へ足をつけた。透明な彼が水に浸かれば、その境界が分からなくなる。
「うーん……なんか浸かってる感がない」
近づいてみると、彼は不満そうに言った。
「やっぱり幽霊なんだなぁ……」
寂しそうな声で言われたらなんと言葉をかけたらいいのか分からない。真彩は黙り込み、少しだけ波から離れた。
「真彩、せっかくだから足だけでも浸かればいいよ。暑いだろ」
「いやぁ……」
「遠慮すんなって。ほら、おいで」
今度は手を差し出されたままだ。その手を取ることはなく、真彩は渋々、靴を脱いだ。靴下を脱げば指が息を吸う。熱した砂浜に足を置くと、ザラザラの砂がすぐにまとわりついた。波がくる。
「わ、つめたっ」
空はカンカン照りで汗が止まらない気温なのに、海は別世界のように冷たかった。でも、荒々しくひりつくような冷たさじゃなく、柔らかで心地よい透き通った冷感だ。波が立ち、岸へ押し戻される。波が引き、もう一度水に浸かる。それを繰り返せば、すぐに慣れてきた。水の中にキラキラと金色の砂が瞬き、それが綺麗で呆けてしまう。スカートが濡れても気にしない。
顔を上げるとサトルが水の中に仰向けで倒れた。碧色に染まった彼の体が水に溶けていく。本当に楽しそうで、その自由さがうらやましい。
「いいだろ、海」
腰まで浸かって、得意満面に笑う。
「まぁ、悪くないね」
「素直じゃないなぁー」
「汗だらだらでヘトヘトのあとなら悪くない」
見下ろして言ってやると、サトルは人差し指を突きつけた。
「顔!」
「え?」
「顔、笑ってる」
言われるまで気づかなかった。確かに頰が軽い。水面に映すと、向こう側の真彩は自由だった。
「そんな風に笑う真彩の顔、初めて見たなあ」
「わたしも久しぶりに笑ったなあ」
照れくさくて、ふざけた。すると、サトルは波に揺られながら言った。
「笑えよ、いつでも」
水を蹴り、しぶきを飛ばして二人ははしゃいだ。真彩が「つかれた!」と砂浜に身を投げるまで、ずっと水に浸かっていた。冷えてふやけた体に熱い砂が妙に落ち着く。時間は波のように緩やかで、粘りつくような暑さはまったくなく、柔らかに心地いい。
「あー、楽しいー」
サトルは屈託ない笑顔を太陽に向けた。
「やっぱ海は一人で来るもんじゃないなぁー」
空を見上げる声がケラケラ笑う。口ぶりから、何度か一人で海に来ているようだった。
「海くらい、一人でも行けるんじゃないの?」
「いやいや。誰かと一緒に行くほうが楽しいに決まってんじゃん」
「ふうん……?」
確かに楽しかった。子供のように声を上げてはしゃいだ。もう動きたくないくらいに疲れた。
思い返せば羽目を外すことが今までになく、我を忘れて楽しんだことがない。
「とくに夏はさ、家族と行って、小学校上がってからは友達と行って、夏休みは家族ぐるみで遊びに行くだろ。中学上がってからは先輩に誘われてバーベキューしたり。あとは、デートとか? やっぱ一人で行くことはないよ」
サトルは得意げに例を挙げた。そのどれもが自分とは無縁で落ち込む。
「はぁぁぁ……なんか幸せそーで眩しい……」
「真彩もさっきは楽しかっただろ? そんなに特別なことじゃないよ」
簡単に言ってくれる。チカチカと光に目がくらみかけ、真彩は考えるのをやめた。
「まぁ、海来るの初めてって言うくらいだから、そういうのはこれからやってけばいいんじゃない?」
これから――
またも簡単に言ってくれるが、これからも状況は変わらないと思うし、今さらそんなことをする気力はない。暗い思考がもやもや渦巻く。
それをはねのけるように、サトルが聞いてきた。
「そういや、なんで海を選んだんだよ?」
「サトルくんが海に行きたそうだったから」
「え? 俺のため!?」
その反応が嬉しそうだったので、すぐに後悔した。なんだか背中が焦げる。耳も熱い。真彩は前髪をなでて顔を隠した。
「うるさい。今のナシ!」
「ナシは受け付けませーん!」
腹がよじれるほど笑い、サトルは砂浜に仰向けで寝転んだ。両腕と両脚を突き上げて透かしたら光で見えなくなる。
「……あ。なぁ、真彩」
「ん?」
「今ふと思ったんだけど、俺、溺死じゃないわ」
彼は暗さをおくびにも出さず言った。一瞬、なんの話だか分からなくなり、反応が遅れてしまう。
「……あぁー、その話ね」
場違いな話題に気分が白けた。そんな真彩に構わず、サトルは自分なりに考えたことを自信たっぷりに言った。
「溺死だったら、水に近寄りたくないもんだろ? だから海は関係なし!」
「それ、今までに考えたことなかったの?」
「なかった。成仏しろって言われて初めて気づいた」
能天気に笑うが、死んだ理由を探すにはまだ材料が足りない。むしろまったく前進しておらず、先行きが不安になる。これは長丁場を覚悟しなくてはいけない。
「本当に何も覚えてないわけ?」
「うん。気づいたらこうなってた」
「いつ頃かも分からないの?」
彼は同い年だ。高校一年生。同級生が亡くなったとなれば、いくら不登校がちな真彩でも知らないわけがない。彼は同い年であっても、生きていた時間が違うのだろう。
サトルは深く考え込んでいた。一向に言葉が出ないので、真彩が先に諦めた。
「じゃあ、成仏しろって言ってきたのは誰なの?」
「死神だよ。白いパーカー着た変なヤツ」
死神――そう言えば、初めて会ったときも「死神」の存在をほのめかしていたが、それは一体なんなのだろう。人なのか、それとも人ならざるものか。サトルは言葉のあやとして使っているらしいが。
「中途半端に生きたフリをするなってさ。まったく、しつれーなヤツだよなぁ。真彩も気をつけろよ」
「うーん……死神ねぇ……幽霊とは無縁そうなんだけど」
「え? そう?」
「だって、死神って生きてる人の魂を奪っちゃう存在でしょ」
言ってみるも、確証がないので声は自信をなくしていく。すると、サトルは感心げに納得した。
「確かにあいつ、生きてる人間だったし。真彩と同じで『視える人』じゃないかなぁ?」
こちらも確信はないようで、自信なく苦笑いする。
視える人なんてそうそういない。自分を棚に上げても現実味がない。真彩は曖昧に唸った。
だんだんと陽が暮れはじめ、風も激しくなってくる。会話もそぞろになり、二人はゆるやかに息を吐いた。
「――真彩、帰ろう。送ってくよ」
「ううん。一人で帰るようなもんだし、別にいいよ」
渇いた砂を落として、汚れた足のまま靴下を履く。
「そこは素直に甘えてくれよ」
「幽霊に甘えてもねぇ」
冗談めかして言うと、サトルは困ったように笑い「それもそーだ」と立ち上がった。砂の心配をしなくていいのに、彼はズボンをはたいて目の前の海を見渡す。
「んじゃあ、帰るか」
真彩も立ち上がり、カバンを拾い上げて砂を踏む。固い石段を上がると、足の感覚がおかしかった。海でふやけた足が驚いている。サンダルを履いた後に床板を触るような奇妙さだ。
誰もいない道路に出ると、サトルは行きと同じく堤防の上にのぼり、真彩を見下ろした。
「今日はいろいろありがとう。また明日な」
「うん。また明日」
透明な彼が夕陽色に染まっている。まるで、サトルの感情がそのまま現れているみたいできれいだ。
「気をつけて帰れよ」
少し名残惜しそうに言う彼の気持ちを全部は理解できない。なんとなく、手を振る。足はもう駅の方角を進んでいた。彼も来た道を戻っていく。
昨日まではわずらわしいと思っていたのに。波にさらわれたのか、わだかまった何かが今はなく、真彩は思わず喉の奥で笑った。
渇いた地面を叩くように歩き、機嫌よく前を向く。道路はもうすぐT字路にぶつかり、右に曲がる。信号は赤。右折車がゆっくりと前を進んでいく。
すると、信号の向かい側に白いパーカーのフードをかぶった少年が現れた。顔は見えない。小柄だが、真彩よりは身長がある。高校の制服のようなスラックス。制服の上からパーカーを着ているのも非常識だが、フードを目深にかぶっていることが奇妙で仕方ない。
真彩は何食わぬ顔で信号を待った。車は走っていないが、足は青にならなければ絶対に動かない。
赤から青へ変わる瞬間、信号機が音楽を鳴らす。曲が終わる前には渡りきれる。はずだったが、すれ違った瞬間にパーカー男が真彩の腕を握った。
「――一ノ瀬真彩ちゃん、だっけ」
かすれたハイトーンの声が耳に入り込む。白線の上で真彩は固まった。
「ちょっとだけ、時間もらえないかな? いやなに、君が親しくしてる幽霊について話があるんだ」
涼やかな口調には有無を言わさない空気がある。何より「幽霊」という言葉が引っかかり、真彩はおそるおそる顔を上げた。フードの中で陰った目が光っている。
不吉。そんな言葉が似合う、胡散臭い人だった。
「離して」
「先輩にタメ口とは、ますますふてぶてしいね」
――先輩?
真彩は彼の全身を見たが、「先輩」だと言えるものは見当たらない。分かりようがない。それに道路の真ん中で止められれば焦りを覚える。ほどなくして信号が点滅し、曲がぶつ切りに音を消した。車のない殺風景な道路なのに、血の巡りが早くて落ち着かない。
「いいから、離してよ」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「分かったから。だから、早く渡らせて」
早口に言って、目をつぶる。すると、いつの間にか道路を渡りきっていた。歩道の上で、男は真彩の腕を掴んだまま。
「手荒にしちゃってすまないね。でも、こうしてくれないと話を聞いてもらえなさそうだったし、君はなんだか人間に興味がないようだから」
真彩は不審を浮かべて男を睨んだ。失礼な人間には相応の態度でもいいはずだ。真彩は不機嫌いっぱいに声を低めた。
「あなた、誰?」
「誰でもないさ。これまではね」
「そういう自己紹介はフェアじゃない」
名前が知られている以上、はぐらかされるのは気分が悪い。
「じゃあ、カナト先輩って呼ぶといいよ」
パーカー男は肩をすくめて笑った。
「ともかく、まずは順序よく話を進めていこう。こうして僕が君に干渉するのも、いくつか理由があるわけでね。ひとまず、お茶でも飲みながらどうかな」
そう言って彼が指したのは、目の前にあるファミリーレストラン。あまり安心はできないが、人の目があるならまだマシか。
黙り込めば肯定にとられたのか、カナトと名乗る男は真彩の腕を引っ張った。
***
四人がけの席に通されてすぐ、メニューを見る前にアイスコーヒーとチョコレートパフェを注文され、真彩は口を開くのも億劫なくらい気分が悪かった。勝手に行動を制限されるのは苦手だ。それに目の前の男――カナトの振る舞いは非常識だと思う。
カナトはフードをかぶったままだった。陰った目を笑わせている。
「……あなた、もしかして死神?」
向こうが口を開く前に、真彩は先に結論を急いだ。カナトの口が不満そうに下がっる。
「別に、あなたが本当の死神だなんて言ってるわけじゃないけど」
「いや、僕は君のことならなんでも知ってるからね、分かってるんだよ」
サラサラと変質的な発言をするカナトに、真彩は呆れて何も言えなくなった。それをいいことに、カナトの口が調子づく。
「君は幽霊が視える。だからあの子とつるんでる。死んだ理由を探すかわりに、あの校門の影から守ってもらっている。違うかな?」
「あの子」とは、サトルのことだろう。言い当てられれば強気に出られず、真彩は気まずく水を飲んだ。この様子を、カナトは楽しげに見ている。
「そもそも、僕は君に会う前からあの子に警告していたんだよ。幽霊っていうのは消費期限があるからね、早いとこ成仏しないとダメなんだ」
「消費期限って何よ」
変な言い方をするので、思わずふき出しそうになる。真彩は口をおさえて、顔をしかめたままにした。
「そのまんまだよ。幽霊は現世にとどまる期間が決まっている。しかし、ほとんどの場合はその期限までに自我を保っていられなくなるんだ。姿形、思念なんかもね。負の感情が溜まりに溜まって、どんどん蓄積されて濃厚に濃密に、刻々と魔に近づいてしまう。すると、どうなると思う?」
一息に言い、彼は水を一口飲んだ。ごくりとゆっくり喉を鳴らして。それは、真彩に考える時間を与えているようだったが、脳内では十分に処理ができず、言葉の意味を考えるだけしか有効ではない。
その時、「お待たせしましたー」と、はつらつな女性店員がアイスコーヒーを二つ持ってきた。一つをカナトに。もう一つを真彩に。
「失礼いたしましたー」
こちらの憂さをまったく感知しない店員の明るい声がミスマッチだ。
真彩は逃げるようにアイスコーヒーに手を伸ばした。水滴がじっとりと手にまとわりつく。慌ててストローで吸い上げると、その苦さに驚いた。
「慌てなくていいのに。シュガースティックかシロップ、どっちがいい?」
真彩は差し出されたシロップをもぎ取った。フィルムを剥がして、乱暴にコーヒーの中へ流す。
カナトはミルクを流し、ストローで混ぜ合わせていた。もやもやとした濁色の茶色がなんとなく泥水に見えてくる。
「さて、なんの話だったっけ……あぁ、そうだ。幽霊の末路だ。真彩ちゃん、少しは見当がついたかな?」
甘さに舌が馴染んできた頃合いにカナトが聞く。真彩はごくんと飲み込み、眉間にシワを寄せた。考えても分からないものは分からない。黙って首をかしげると、カナトが思い切りふき出した。
「ぶっ! あっはははは! おいおい、頼むよ。君、仮にも霊感があるんだろう? ここまで言ってもまだ分からないのか?」
「そこまで霊感に頼って生きてないので」
「あぁ、そうか。毎日、死んだように生きてるからねぇ。自分にも幽霊にも関心がないんじゃ、元も子もないね。ふふっ、くくくっ」
笑いをこらえきれていない。こうも笑われちゃ怒る気も失せてしまう。そもそも感情を動かすのは苦手だ。今日一日、散々振り回されて疲れている。真彩は気だるげにストローをくわえた。
するとまた女性店員が颯爽と現れ、大きなグラスに入った甘味をテーブルの真中に置いた。
「お待たせしました。チョコレートパフェです」
「ありがとうございます。さぁ、どうぞ、真彩ちゃん。僕のおごりだ。強引に誘った以上、それくらいはするよ。なんなら夕飯も食べていけばいい」
大盤振る舞いなカナトだが、彼のどこにそんな資金があるのか分からない。だが、これで少しは視界が隔てられるだろう。不快な男の話も甘味で軽減してやる。
チョコレートパフェはてっぺんの生クリームに、濃厚そうなチョコレートシロップがかけられている。真彩は白くてふわふわなクリームをつついた。
「おいおい、真彩ちゃんよ」
「え、何?」
「……君はパフェの食べ方を知らないのか」
カナトが初めて不審な声を上げた。視線を上げる。
「食べ方?」
パフェを食べるのに順序があるのだろうか。思えば、こんなに大きなパフェを一人で食べるのも初めてだ。クリームだけを食べるのはマナー違反なのかもしれない。
「まずは、ここに突き刺さったウエハースでクリームをすくって食べるんだよ」
「そうなの?」
「あぁ、そのほうが美味い」
信用はないが、自分にも自信がないので、真彩は周囲を見渡しながらウエハースをつまんだ。意外にも重い。突き刺さったウエハースは下の層にあるチョコレートアイスにまで及んでいた。アイスと生クリームが混ざる。山のてっぺんにある生クリームとチョコレートシロップをすくった。
「そのままかじるんだよ」
「それくらい分かる」
余計な横槍が面倒だが、うるさく追い払うとカナトは大人しくコーヒーを飲んでいた。その隙にウエハースを一口かじる。敏感な冷たさと、そのあとにくるまったりと柔らかい甘みがサクサクのウエハースと混ざる。確かに美味しい。
「このサクサクと甘々が相乗効果をもたらすんだよねぇ。一口目はやっぱりそうじゃないと」
カナトは満足そうにうなずいた。おそらく、カナトの言うパフェの食べ方とは彼独自のものに違いない。
「次はバナナとチョコアイス、そして生クリームだね。これをうまいこと一緒に食べるのがいい」
「はいはい」
パフェの一口目だけでなく、二口目まで指摘が入るとは思わない。真彩は残ったウエハースで生クリームをすくって口の中に押し込んだ。
なんだか論点をずらされている気がする。
「……それで、幽霊の末路はなんなの」
話を戻さなければ、食べ終わるまでパフェの食べ方指南が続きそうだ。
カナトは思い出したように口を開けた。
「そうそう。幽霊の話だったね。あの子が怪物になるかもしれないってときに、のんきにパフェの食べ方なんて」
「え? ちょっと待って」
口が先走る。ウエハースが喉に引っかかりそうになったが、こらえて飲み込んだ。
「なんて言った?」
落ち着こうと、あえてゆっくりと舌を動かす。対して、カナトは嫌味たらしく鼻で笑った。
「幽霊の末路は怪物だよ。実際、肉体を失った魂ってのは器をなくした水のように危うい。つまり、成仏できない時点で、自分の死に納得していないんだから負の感情は溜まりやすいわけだ。悔やんで責めて、不満や不安が溜まっていく。後悔の怪物になってしまうんだよ」
彼はパフェの脇から顔を出し、グラスの下層を指した。
「ちょうど、このパフェみたいにね。一番下のチョコソースくらいの小さな負があったとしよう。その上から順々に上へ上へと積み重なる。で、消費しきれなくなってこぼれてしまうわけだ。塵も積もれば山となるって言うだろう。幽霊にはこの器がない。すると、どうなる?」
「それって……」
真彩は校門にある黒い影を思い出した。それを見透かして、カナトが頷く。
「うん。あれは確かに後悔の怪物だ。消費できずに、ただただ自分の死に納得していない後悔の塊。あれはまだ成長段階だから、じきに大きくなるよ」
そう言い、彼は顔を引っ込めた。コーヒーを吸い上げる。グラスの中はそろそろ空になりそうだ。
「食べないの? アイスが溶けるからさっさと食べたほうがいい」
「いらない」
真彩はスプーンをカナトに突きつけた。
「せっかくタダで食べられるのに? もったいない」
「そんな話聞かされて、食べられるわけないじゃない」
気が逸っていく。実感はないが、血の気が引いている。
幽霊の末路が後悔の怪物だなんて――
「へぇぇ? 随分とご執心みたいだねぇ。たった数日、話をしただけでそこまで肩入れできるんだ?」
「……あのさ、このパフェ、ひっくり返してもいいんだけど。それだけはしたくないの。分かるでしょ」
バカにした嘲笑が鬱陶しい。感情が先走りそうで怖くなる。頭の中はなんだか真っ赤で、感情がかき乱される。
こんなことなら、海に行かなければよかった。こんな感情を知ることも、自分がこんなにも怒りっぽいことにも気がつかなかっただろう。
「うーん……せっかくのパフェが台無しになるのは放っておけないな」
「そんなに大事なこと?」
「そりゃあ、僕のお金で買っているものだからね。それに、このパフェ一つはこの店の店員がきちんと丁寧に作ったものだ。それを無下にしてしまうのは人として良くない」
これだけ煽っておきながら、人としてなどと説くとは思いもしない。
真彩はゆっくりとスプーンを降ろした。消化できない怒りは向けたままにする。
「……このこと、サトルくんに言ってないの?」
「そりゃあね。聞かれても僕は答えないさ。だって、残酷だろう? 成仏出来なかったら君は怪物になるんだよって。そんな現実を突きつけるのは、かわいそうだ」
サラリと薄情に言われ、真彩は目を開いた。ソファにもたれ、投げやりにパフェを見やれば、かじっただけの生クリームがチョコレートと溶け合っていく様子がゆっくり動いていた。
「……それ、本当なのね?」
「あぁ、もちろん」
慎重に聞いても手軽く返される。一切の迷いがなく、曇りもなく明白に言い切ってくれる。
「君って本当に警戒心がないんだね。素直で傷つきやすい。僕的にはあまり好きじゃないけれど、かわいそうな子には味方したいし……さて、どうしようかな」
「かわいそう? わたしが?」
「君もだし、あの子もだよ。かわいそうで不運だね」
カナトもソファにもたれた。なんだか投げやりに言うが、軽快な口調は変わらない。
一体、彼はどこまでを知っているのだろう。何を知っているのだろう。
「……あなたって、何者なの?」
結局、流されるまま流され、ここまで辿り着いてようやく気がついたくらいには起承転結がバラバラだ。真彩はじっと目を細めて答えを待った。
彼は口角を上げ、自信に満ち溢れた表情をつくる。
「正義の味方。つまり、悪を憎むもの。悪霊を専門にした祓い屋だ」
能弁な口は恥を知らないらしい。
真彩と別れた後、サトルは堤防の上をひたすらに歩き続けた。夕焼けから背を向けて、ペタペタと固いコンクリートを歩いていく。
このままバランスを崩せば、赤いあの海の中へ沈んでいけるだろう。透き通った潮風と水。塩辛い水を飲み干した夏。肌を焼く陽の光が目に焼き付いている。網膜から剥がれない記憶が蘇ってきそうで、その膨大な幸福が懐かしい。
「……はぁー」
堤防の中腹。もう少し行けば矢菱高校の校舎が見えてくる。とぷんと濃い夜に染まっていて、その暗さが寂しく思えた。
「死んだ理由かー……なんでそんなものがいるんだよ」
面倒なシステムだ。いちいち理由をつけなくては、好きに生きることも終えることもできないなんて。
ただ、こんなに寂しくなるくらいなら、楽しさなんて思い出さないほうが良かった。真彩の顔が見たくなる。海に目を輝かせる彼女が頭から離れない。
「――お、一番星」
沈む太陽と、濃い夜の間に瞬く光を見つける。一際大きく強い光は金星だろう。幼い頃、父からそう教わったのを思い出す。あの頃は夏が無限に続けばいいのにと惜しんでいたのに、十六歳の夏で止まったまま。これからもずっと九月はこないんだろう。
両親は元気だろうか。友達は今、何をしているだろうか。幸せにやってるだろうか。
サトルは大きく息を吸った。ついでに口角を持ち上げる。止まっていた足を伸ばし、地面を踏むと輪郭がぼやけた。
「……あーあ」
後悔したら負けだ。今まで気にしなかったくせに、今日はやけに気持ちが沈んでいく。
「――真彩のやつ、ちゃんと家に帰ったかなぁ」
ふいに飛び出した独り言がおかしくて笑いたくなる。誰にも聞かれていなくて良かった。
透明な手のひらを空にかざせば暗い色に染まりそう。夜は寂しい。ぼうっと見つめていると、半透明の指先がわずかに濁った。