八月、ぼくらの後悔にさよならを

 矢菱町の図書館は町民センターの中に併設された建物だ。演芸ホールと図書館、託児所、会議室などが入った複合公共施設だが、規模は小さい。
 結局、膨大なインターネットではいくら検索をかけてもたどりつくことができなかった。それなら最初から頭にあった図書館で調べるしかない。それでも出てこないなら最終手段だが……これは避けたいところだ。
「新聞に載ってるものかね……」
 サトルはずっと乗り気じゃない。それでも真彩は足を速めて図書館を目指した。あの海岸沿いを通り抜けると、T字路がある。そこを左に曲がって道なりに進むと、矢菱町民公園があった。鬱蒼と茂る林を横目に、スマートフォンで地図を見ながら位置を確認する。
「小さな町だし、病気が原因じゃないなら事故だと思うの。それは結構、最初の方で考えてたんだけど……あ、あった」
 歩いていくと林の向こうに丸いドーム状の建物が見えた。公園内にあるので、そのまま入り口を突き抜ける。その後ろからサトルがついてきた。ノロノロと足取りが重たい。真彩は振り返って彼を見た。
「どうしたの?」
「いや……俺、怖いよ」
 しおらしく言われると、こちらも迷いが生まれる。真彩は彼のもとに戻った。
「だってさ、くだらねー理由で死んでたら嫌じゃん? 俺、納得できる自信ない……」
「くだらない理由なんてあるわけないでしょ」
 いつもより弱気なサトルに調子が狂う。確かに、自分の知らない過去を知るのは勇気がいる。真彩だってそれは同じことだ。もし、何か隠されているのなら――それを知ったとき、どうなってしまうんだろう。
「じゃあ、ここで待ってて。サトルくんが決心したら入ればいいし」
 こうなったら一人ででも行く。真彩は図書館に足を向け、サトルを気にしながらも建物の中に入った。
 初めてくる図書館は広く、古臭いにおいがした。ワンフロアに棚を敷き詰めているような空間で、人は多くない。学生が大半だったが子供連れの親子も見かけた。
 入り口付近の壁に案内板があり、それをじっくり眺める。時折、出入りする人がこちらを見ていたが気にせず、目当ての場所を探す。しかし、新聞のバックナンバーがある棚はどこにもない。
 真彩は中央カウンターに行き、タッチパネル式の検索機を探した。しかし、機械は置かれていない。図書館なんて初めて来るものだからどうしたらいいか困ってしまう。本屋に立ち寄るような気軽な考えでいたのが間違いだった。
「何かお探しですか」
 メガネをかけた黒髪の女性が声をかけてくる。
「あ、えっと……」
「本のタイトルを教えていただければこちらでお探ししますよ」
 何も答えられてないのに、女性司書は滑らかに事務的な言葉をかけてきた。そこまで言われれば逃げ場がどこにもない。真彩は緊張で声が裏返らないか不安になりながら、小さく口を開いた。知らない大人を相手にするとどうにも口がどもってしまう。
「あ、あの。えーっと……そのぉ、新聞を……」
「新聞ですか。いつ頃の?」
「いつ頃……」
「全国紙、ブロック紙、スポーツ紙、地方紙を置いてますが」
「あ、あの、この近所で起きた事件とか、そういうのが載ってるのでお願いします。七月から八月までの」
 うまく伝わったか自信がない。案の定、女性司書は怪訝な表情を見せた。
「少々お待ち下さい」
 カウンターの奥にある扉へ入っていく。しばらく戻ってこない。
 真彩はカウンターに手を置き、ゆっくりと深呼吸した。やっぱりサトルと一緒に入るべきだった。この際、カナトでもいい。つくづく自分が甘いことを痛感し、情けなくなる。
「お待たせしました。過去十年分、七月と八月の地方紙です」
 扉を開け、司書が戻ってくる。台車に積んだスクラップファイルがカウンター脇から現れ、真彩は驚いた。口元を引きつらせながら「ありがとうございます」と早口に言う。とりあえず上にあるファイルから持ち出し、誰もいない長机に陣取る。
 ファイルを開くと、古びた紙とインクのにおいが鼻を刺激した。大きな見出しだけを送り、パラパラと目ぼしいものだけを探す。どうやらファイルは昨年分から順に過去へさかのぼっていくらしい。
 一冊目は昨年分。大きな事件や事故のニュースはない。二冊目は一昨年。交通事故の記事がいくつか見つかったが、サトルのことではないようだ。
 一冊ずつさかのぼっていく度に緊張が気持ちを逸らせる。もしかすると、的はずれなことをしているのではないか。そんな焦燥にも駆られる。
 三年前もなし。この年は事件も災害もなく穏やかな夏だった。
 四年前。矢菱高校の陸上部が区大会で二連覇。矢菱高校という文字を見るだけで鼻の穴が膨らんだが、中身をざっと読んでみればそれらしいことは何も記述されていなかった。
 五年前。矢菱高校陸上部、区大会初優勝。そして、遊歩道施工の予算が下りず延期の発表。
 六年前。矢菱町民公園前の道路補整工事が町議会で決定。また、付近の横断歩道をバリアフリー化する議題が提案される。その記事にはあまり関心が持てず、次に目を移す。
 七年前。道路交通整備を強化。沿道の整備工事について、町議会の過半数支持を得た。
「………?」
 めくる手がわずかに止まった。沿道の工事なんてされていない。七年前にそんな決定がされていたなら、とっくに歩道ができているはずだ。ふと、五年前のファイルに戻った。「予算が下りずに延期」とある。交通事故を体験した身でもあり、なんとなく嫌な気分になった。
 八年前。一昨年の事故を受け、町議会は道路交通整備対策を公表するも議会内で賛否が分かれる。これにより矢菱高校の教師、生徒、保護者を含む署名活動が行われた。
「矢菱高校?」
 これが八年前の記事。真彩は堪らず九冊目を取った。
 九年前。どこにも詳細はなく、異常気象を取り上げるだけだった。肩透かしを食らった気分だが、まだ新聞は残っている。真彩はごくりとつばを飲み、指を曲げ伸ばしておそるおそるファイルを開いた。
「あれ?」
 ページをめくる手が早くなる。しかし、事件や事故に触れた記事は一切見当たらない。
「どういうこと?」
 八月三十一日まで、何らかの事故をほのめかした記事はない。真彩は何度もページを戻り、ファイルを開いたまま固まった。
「……調べ物は見つかりましたか」
 背後から声がかかり、すぐさま振り向くとカウンターにいたメガネの女性司書が立っていた。
「あ、いや、まだ……」
「バックナンバーはすべて所蔵していますが、どうしますか」
「えーっと……」
 考える。八月三十一日まで記事がないのなら、それ以外の八月上旬――いや、上旬なら下旬にもそれらしい記事がどこかにあるはずだ。だったら――
「あの、九月の新聞をお願いできますか? 十年前の九月です」
 ここまできたら引き返せない。目に力を込める。
 女性司書は腕時計を見た。
「少々お待ち下さい」
 司書は何か言いたそうな顔だったが、すぐにカウンターへ戻っていき、奥の所蔵庫へ入っていった。
 真彩は辺りを見回した。時刻はもう十七時を過ぎている。閉館時間だ。申し訳無さを感じつつも、知りたい気持ちが強い。サトルに何があったのかを知りたい。
「お待たせしました」
 司書が一冊のファイルを小脇に戻ってきた。そして、何も言わずにその場を離れていく。お礼を言おうと口を開くも、もう棚の影に隠れてしまった。
 九月一日の一面は高校野球の記事だった。なんとなく安心する。しかし、緊張感は高まる一方で、ページをゆっくりめくる。細かな文字が羅列され、あまり読む気にはなれない。どうしても太いゴシックや明朝の見出しだけに目を留める。二面、三面は経済状況や町議会の内容。斜め読みしていく。目が四面へ差し掛かる。そして、下段に小さく明朝体の見出しを見つけた。

『町民公園交差点で事故、男子高校生意識不明』

 ***

 どうやって図書館を出たのか覚えていない。ただ、目の前のベンチでサトルがぼんやりと座っているのが見え、堪らずそこから逃げ出した。
 ――どうしよう。
 サトルに見つからないよう、建物の裏手へ回る。心臓が忙しなく早鐘を打ち、止められそうにない。足は勝手に走っていき、公園から遠ざかる。
 ――わたしは、大変なことを知ってしまった。
 静まった空は水をたっぷり含んだような浅い群青だった。赤い夕陽が飲み込まれていく。風のない渇いた道を逃げるように走った。黒いアスファルトのカーブには車輪の痕がある。遊歩道のない沿道をひたすら走る。
 真彩は真っ直ぐに家路へ向かった。電車に乗り、改札を抜けて自宅マンションまで足が自然に歩いていく。頭の中はぐるぐるといろんなことが巡っている。絵の具を好き勝手に混ぜたような、色がもつれて黒ずんでいくような。
 暗くなった道をただひたすらに歩く。ゆっくりと、倒れないように気をつけて。体に何かのしかかるような重さがあったが、それがなんなのか考えもつかない。想像したくない。
 喪失の中、やっとの思いで家の鍵を開けると、珍しく玄関の灯りがついていた。リビングにも。
 真彩は廊下の板を踏みしめ、ふらつくように居間の扉を開けた。
「あ、真彩」
 珍しくこんな時間に父がいる。
「お前、いつもこんな時間に帰ってるのか。夏だからって高校生がフラフラと」
 そんな小言を受けて、真彩は前髪の隙間から目を覗かせた。父がすぐに目を背ける。その言動に、すぐ反感が湧いた。
「いつもはそっちが帰らないくせに」
「それとこれとは別だ。お前に何かあったら」
「いつもわたしを一人にしてるくせに」
 すぐに歯切れが悪くなる父。何を言えばいいかためらっている。だが、何を言いたいのか伝わらない。口だけの心配はいらない。
 真彩はカバンを床に放り投げた。突き抜けるような衝撃音がし、父は口を閉じる。
「仕事が忙しいって嘘でしょ。本当はお母さんのとこにいるんでしょ。なんで本当のことを言ってくれないの?」
 顔は上げられなかった。床を睨んでいると、目から涙が落ちてきた。木目がふやけていく。
 父から言葉はなく、時折、唸るようなため息が落ちてきた。答える意思がないのか、何か隠そうとしているのか。だったら、こちらから聞けばいい。
「ねぇ、お父さん」
 声は荒く、喉が震える。
「わたしが事故にあった場所、どこだったの?」
「何を急に……」
「ごまかさないで。どこだったの?」
 すると、父の足が弾かれるように動いた。真彩の肩に手を置く。
「誰かに何か言われたのか?」
 父の声と表情には衝撃が張り付いていた。その剣幕に驚くも、真彩はすぐに言い返した。
「先に答えて。どこだったのかちゃんと教えて」
 父の目が泳ぐ。絶対に目を合わせない。いつだってそうだ。いつの間にかお互いに拒絶し合うようになって、母のことも自分のことも家では禁句対象になった。
 もう言い逃れはできないと悟ったのか、しばらくの沈黙後、父は肩を落として言葉を吐き出した。
「……矢菱町民公園の、交差点」
「十年前の八月三十一日?」
「そう」
「その時、わたしをかばって亡くなった男の子がいたよね? 矢菱高校の西木覚くん」
 素早く言うと、父は顔を勢いよく上げた。ようやく合った目には恐怖の色があり、目尻のシワが深くなる。
「どうしてそれを」
「今日、調べた」
 答えはとっくに出ている。全部分かっている。でも、きちんと口から直接聞きたかった。父はそれでもごまかそうとしていたが、やがては観念したように項垂れた。
「……そうか」
 その声があまりにも絶望的なので、真彩は少しだけ怯んだ。頭の中は混乱しかなく、父がそこまでして隠したがる意味が分からない。思考はすでに正常ではない。
「――知らなくてよかったんだ」
 床にしゃがみこむ父はいつの間にか小さく見える。しおらしくされればこちらが悪いように思え、真彩は顔をしかめた。不愉快と苛立ちで頭が沸騰しそう。
「いいことないでしょ。わたしのことなのに。わたしのせいなのに」
「そうやって自分を責めるだろうから黙っていたんだ」
 かぶせるように言われ、すぐに口をつぐんだ。
「知らなくていいと遠ざけて、引っ越して、でも、起こってしまったことはどうにもならない。なんとか蒸し返さないようにするだけで精一杯だった。お母さんと話し合って決めたことなんだ。だから……分かってくれよ、真彩」
「分かんないよ、そんなの」
 受け入れたくない。頭では分かっていても、父がどんなに自分を思っているか理解しても分かりたくない。受け止められない。前なんて向けるわけがない。信じたくない。そうじゃなければいいのにと叶いもしない望みを捨てきれない。まだ立っていられるのが不思議だった。
 震えながらダイニングに行き、椅子に腰掛ける。引きずる音が耳障りなくらい、部屋は静かで暗すぎる。
 父もふらりと立ち上がり、椅子を引いて真彩と向い合せで座った。指を組み、暗い表情のままうつむいて口を開く。少し前に玄関で口論したときより、父の顔はやつれて見えた。
「……十年前、公園前の交差点で事故にあった。その時、高校生の男の子が真彩をかばって一緒に車に轢かれた。どっちも頭を強く打って意識が戻らなかった……そして、男の子は、亡くなってしまった」
 全身に力を込めていないと、聞いていられない話だった。それは父も同じで、指の関節が白くなるほどに手を強く握っていた。
「それで?」
 まだ話は終わってないはずだ。先を促すも、父の口は相当に重たかった。時計の秒針がうるさい。一秒が長く感じる。
「それで……向こうの親御さんには、お母さんと一緒に謝罪をしに行った。許されることじゃないと思ってたけど、でも、こっちもそれどころじゃなくて、幸いにも向こうもそれは分かってくれて、お互いには大事にならなかった」
 息が詰まる。耳を塞ぎたい。でも、知らなくてはいけない。もう引っ込みはつかない。
 時折、重たい息が落ち、咳払いでつっかえながらも父はゆっくりと静かに話した。
「でも、大事になったのはそれからだった。新聞で取り上げられてから、騒ぎが大きくなって……家に取材が来て、病院でも追いかけられて、それで……」
「お母さんが体調を崩したのはそれが原因?」
「あぁ」
「じゃあ、お母さんが自殺しようとしたのも、わたしがサトルくんと同じ学校を受験したから?」
「それは……」
 父は言葉を早々に諦めた。それだけで、何を言いたいのか分かってしまう。
 ――そういうことか。
 胸に残っていたしこりが無造作に転がる。そんな気持ち悪さが全身に回った。
 ――やっぱり、わたしが悪いんだ。
「……お父さん、ごめんなさい」
「謝るな。真彩は何も悪くない。頼むから、謝らないでくれ」
 そう思ってくれるなら――そんな無責任な言葉が出てきそうで口をつぐむ。
 ――そう思ってくれるなら、どうしてこっちを見てくれないの?
 もう絶対に戻れない。そんなところまで来ている。話し合えば解決するだなんて、甘いことを考えている場合ではなかった。自分は生かされて生きている。その重みがあまりにも苦しい。
 一向に真彩が戻ってこないので図書館を見やると、町民センターの灯りが消えた。自動ドアに「閉館」と書かれたプレートが置かれる。
「えっ、なんで?」
 いつの間に待ちぼうけを食らってたのか分からず、サトルは立ち上がってすぐに公園を出た。学校に戻るも、真彩の姿はどこにもない。駅までの道にも。駅の中にも。ホームにも。
「なんだよ、あいつ。急に帰って……」
 どうにも分からず、サトルは学校へ引き返した。校門を閉めようとする岩蕗先生をやり過ごす。先生には本当に影が視えていないらしい。
「おや、置いてかれたみたいだねぇ」
 昇降口に入ると、白いパーカーが傘立てに座っていた。
「帰らないとやばいんじゃねーの?」
 サトルはつーんと冷たく返し、外にいる先生を指差した。
「ちょっと野暮用でね。先生を待ってるんだ」
「ふうん……」
 サトルは適当に返事をした。視線を変える。
 外は暮れなずみ、暗く陰っている。時刻はすでに十九時。真彩はもう家についただろうか。耽っていると、カナトが冷やかしたっぷりにため息を吐いた。
「はぁーあ。意気込んだ結果がこれとは。僕も応援のし甲斐がないよ。片思いはつらいねぇ」
「何を勘違いしてるのか分かんねーけど、俺は別に真彩のことを恋愛感情で見てるわけじゃない」
 置いていかれたことも相まって、サトルの声はいつにも増してぶっきらぼうになってしまう。
「それに、はっきりしたところで、そういうのはどうしようもないだろ。俺はもう死んでるんだから」
「でも、感情は生きてる」
 あっけらかんと軽い口調で返され、サトルはカナトをじっとりと見た。
「……お前、幽霊の敵じゃなかったっけ?」
「昨日の敵は今日の友だよ」
「………」
 もう何も言うまい。
 サトルは名残惜しく外を見た。静かな昇降口から校庭の部活生は見えないが、賑やかな音がまったく聴こえない。下校の時刻はとっくに過ぎている。相変わらず、校門の影はじっと佇んでいる。真彩の後悔はいつになったら消えるんだろう――
「……ん?」
 校門の黒い影が一回り大きくなった。フラフラと危なっかしく歩きだす。
「おい、カナト」
 影を睨んだまま呼ぶと、カナトはのんびりと反応した。傘立てから降りる彼も、前方の校門を見る。瞬間、フードの下から息を飲む音が聴こえた。
「動いたか」
 待ちわびていたかのような言い方。カナトはそのまま外へ飛び出した。サトルも慌てて白パーカーのあとを追いかける。
「なぁ、おい、あれってもしかして」
「あぁ。真彩ちゃんが動いたね」
「ってことは?」
「彼女の心になんらかのストレスがかかっている」
 影は先ほどより濃度を増し、膨らんだ。こちらに気づく様子はなく、何かを探すように右往左往する。
「これは並大抵のことじゃないぞ。真実を知ってしまったのか――」
「真実?」
「あ、いや。なんでもない」
 カナトにしては下手に慌ててごまかした。それを問い詰めようと口を開くも、影の膨張がさらに早まる。このままでは真彩に危険が及ぶかもしれない。
「おい、お前、祓い屋だろ! なんか、祓う以外にできねーのかよ!」
「だから、あれを祓ったら真彩ちゃんが危ないって言っただろう」
 ああ言えばこう言う。融通が利かないのがもどかしい。それはどうやら、カナトも同じなのか唇を噛み締めていた。
 そうこうしているうちに、影はこちらを向いて滑らかに上昇し、二人の間をすり抜けていく。学校を飲み込む勢いで空に覆いかぶさった。
 その時、
「深影くん」
 遠くの方から女性の声が聴こえてきた。呼ばれたわけではないが振り向くと、カナトも同様に振り返った。風に煽られ、髪を耳にかけながらこちらにくるのは岩蕗先生。校庭から悠長に歩いてくる。
「岩蕗センセー! 待ちくたびれましたよー!」
 カナトが大仰に両手を広げた。サトルは何がなんだか分からず、立ち止まる。その間にも影は校門をくぐり抜けていった。
 先生の目がその影を追いかける。視えていないはずだ。それなのに、何故かこちらとも目が合ったような気がしてサトルは後ろに下がった。対して、先生は見透かすように目を細め、それからカナトのところへ真っ直ぐ駆け寄る。持っていた白い封筒を差し出してきた。
「頼まれていたもの、持ってきたけれど。これでどうにかできるの?」
「最高に役立ちます!」
「そう……それなら、一ノ瀬さんをよろしくね」
「まかせてください! よし、行こう、サトルくん!」
 カナトは上機嫌に言うと、封筒をパーカーのポケットに入れ、地面を蹴った。サトルもすぐに追いかける。先生はもうこちらには関心がないのか、昇降口へ消えた。
「おい、カナト! さっきのどういうことだよ!」
 走りながら聞く。まったく何がなんだか分からない。
「あぁ、岩蕗センセーのことだね。あの人が僕に真彩ちゃんの影を知らせてくれたんだ。おかげで対処法までもらったし、さすが頼りになるよねぇ」
「はぁ? 先生が真彩の影をって、あの先生、やっぱりそういうの視えるの?」
「いや、視えない。でも、存在は知ってる人。だから、ほら」
 カナトはポケットから封筒を出した。走りながら、器用に爪で封を切る。中から白い短冊のような紙が出てきた。揺れて見づらいが、その札には墨で模様が描かれている。
「じゃーん、封じの札をもらいました!」
「なんだそれ! なんかすげー!」
 急に頼もしく見えるから不思議だ。カナトも得意げに笑っている。
「これさえあれば影の動きは止められる」
 影はどんどん勢いを増し、大きく膨れつつ猛スピードで道路を滑走する。それを見失わないように追いかける。
「こいつを使って、真彩ちゃんの思考を一旦ストップさせよう。最後の大勝負だ。ちゃんと働いてくれよ、サトルくん」
「おう!」
 多分、これが真彩にできることだと思う。助けたい。今はその一心で、真っ直ぐに先を見つめた。
 後悔はいつも自覚した時に大きな怪物となって背後に迫っている。気づいたときにはもう遅い。足元をすくわれて一気に絶望へと落ちていく。
 夜が更けて、たっぷりと濃い黒の空を吸い込むと、影も大きく膨らんでいくように思えた。真実に耐えきれず家を飛び出してしまい、行くあてもなくフラフラとさまよい歩くと、自分がいかに幽霊であるのか思い知った。
 死んだように生きている。それも白々しいほどに、当然に。死にたいと願いながら生きているのが恥ずかしい。消えてしまいたい。それなのに、生きなければいけない。
 自分よりも生きるべき人が命を落とすのは残酷だ。もどかしいほどに人は脆くて儚い。
 サトルの本心を聞いたときからずっと考えていた。だから助けたいと、曖昧にも純粋に感じていた。今は、サトルのために生きなくてはいけないという使命感が宿っている。同時にそれがおこがましいとも思えた。
 結局、どうすればいいのか分からない。真実を伝えることもできない。彼は傷ついてしまうだろう。あの夜のように壊れてしまうだろう。
 人のいない歩道橋をのぼる。高さのある場所に来ると、足下を車が走り抜けていった。その速さに恐怖を抱く。このまま落ちてしまえば――
「――真彩っ!」
 唐突に歩道橋の向こう側から、予期しない声が響いてきた。重たい目を向けると、そこにはサトルがいる。
「……え、なんで」
 彼の顔を見ると、体の内側に潜む冷たい影がうごめくようだった。恐怖の波が迫りくる。怖い。
 ――来ないで。こっちに来ないで。
 すぐに引き返して走った。逃げてしまえばいい。今は。今だけは逃げてしまいたい。
 足がもつれそうになるのを堪えてひたすら走る。その後ろを足音が追いかけてくる。
「真彩、上を見ろ!」
 鋭い声が飛び、真彩はつまづいた。体が大きく飛び出し、道に投げ出される。咄嗟に手をつくと、上空が陰った。 
「えっ……」
 目の前に真っ黒な影があった。大きく膨らみ、今にも弾けそうな塊が真彩の頭を掴もうとしている。幾度となく見た黒い影。いつの間に。どうして今、追いかけてくるのか。恐怖と寒気で全身が強張った。
「真彩!」
 サトルが追いつき、真彩の腕を掴む。冷たい感触に驚いた。決して触れていないのに、不思議と彼の手に導かれるまま立ち上がることができた。
「走れ! あの影に捕まるともう戻ってこられないぞ!」
 半透明の手が離れながら揺れる。その手を掴むように自然と腕を伸ばす。同時に影も手を伸ばしている。
 先を走っていくサトルを追うように、真彩は地面を蹴った。狭い路地に入り込む。影は形を変えて迫っていた。
「ねぇっ! あれ、何!?」
「今はとにかく走れ! 説明はあと!」
 確かにその通りだろう。サトルの残像を追いかけるのがやっとで、おまけに路地は走りにくい。出口が見えない長いトンネルのようだ。熱と冷気が肌を滑っていく。加速する。転がるように走る。
 その先に、人影があった。街灯に当たり、陰影を浮かべたフードが見えてくる。
「カナト!」
 先を走るサトルが叫ぶ。すると、カナトの両腕がすらりと上がった。手に何かを持っている。そこに飛び込むと、彼はその場に立ったまま、真彩とサトルを受け止めた。
 瞬間、何が起きたのか分からない。気がつくと、真彩はうつぶせで歩道に倒れていた。
「はぁー……間一髪だねぇ。おつかれさま」
 体がだるい。起き上がるのがつらく、顔を上げるのがやっとだった。
「もう、なんなの……急に、何?」
「影を捕らえた。それだけだよ」
 カナトの背中が軽快に話す。真彩は仰向けに態勢を変えて、空を見上げた。サトルの心配そうな顔が覗く。
「真彩、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、だけど……せつめい、して」
 息が荒れる。酸素不足で頭がまわらない。
「あの影はね、君そのものなんだよ。真彩ちゃん」
 カナトが言う。彼は路地の中を睨んでいた。黒い影は何かに阻まれているかのように動きを止めている。言葉の意味もこの状況も分からない。
「わたし?」
「そう。あれは君の後悔でできた怪物だ」
「幽霊じゃなくて?」
「影は人間の裏側だからね。生きていようが死んでいようが、負の感情は溜まるものだ。それを君は無責任にもあの場所に置き去りにしたんだ。わけは聞かないけれどね」
 その厳しい言葉に、真彩はきしむ体を起こした。影を見つめる。真っ黒で不気味。苦しそうな暗さ。無性に泣き叫びたくなる。なぜそこまで共鳴するのか分からなかった。でも、言われてみれば納得できる。
「後悔……って言っていいのか分かんないな」
 そんな言葉で表すのもためらうくらい、自分はいろいろなものを抱え込んでいる。飲み込まれてもおかしくない。忘れて消化してしまえばいいのに、できなかった。甘かった。現実を直視するのが怖いくせに、できるつもりになっていた。自分の無力さを知って、不安が募っていく。
 真彩はぐったりとうつむいた。
「わたしは……ずっと、怖い。否定されるのも、消えてしまうのも、自分を許せないのも、ぜんぶ、怖い」
 目の前の今も怖い。生きていることに罪悪感を持って、ずっと引きずっている。怖くてたまらない。いくら流しても枯れない涙が地面を濡らしていく。息をするのも苦しくて、感情がとめどなく溢れていく。
「――真彩」
 頭の上に柔らかな声が落ちてきた。いつの間にかサトルがひざまずいて、真彩の様子を下から窺っていた。
 半透明な指が髪を触る。その冷たさに驚いて、顔を上げた。しゃくりあげて、涙でぐしゃぐしゃになった顔をサトルは眉を寄せて笑う。その無邪気な顔を見るとまた悲しくなる。いくつものいろんな感情が混ざっていく。
「サトルくん……ごめんなさい」
 痛む喉を押さえながら、苦し紛れに声を振り絞った。
「え?」
「ごめんなさい。こんな言葉じゃ足りないけど、でも、ごめんなさい」
 サトルは場違いなほど気が抜けた声を漏らす。
「えーっと……ん? あのときのことはもう全然いいよ?」
「良くない! 良くないの。わたしはあんなことを言っちゃいけないから」
 ――伝えるのが怖い。
 本当は伝えないほうがいいかもしれない。でも、それは結局、自分が逃げたいだけだ。彼は知らなければいけない。それが彼へのせめてもの餞(はなむけ)だ。
「……わたしは、サトルくんに助けてもらって、生きてる。事故にあったとき、あなたに助けてもらったの」
 声がうまく出せない。息をするのもつらい。彼の顔を見るのが怖い。どう思われても仕方ない。罵倒され、責められてもいい。償えないから、それだけしかできない。
「俺が助けた? 真彩を?」
 一時の間を置いて、彼はささやくように聞いた。その静けさが怖い。
「そう。サトルくんが、わたしを助けてくれたの」
「事故にあったとき、助けた……?」
 言葉を反復する。信じられないといった困惑の声が、わずかに遠ざかる。サトルは地面に座り込み、呆然とした。髪をかきあげて下を向く。それを汗にまみれた前髪の隙間から見た。
 やがて、サトルは丸い目を揺らがせて額を抑えた。そのまま肩を落として頭を振る。半透明の体が、風に煽られてなびいた。
「……あぁ、そうだ」
 憔悴の声。かすれている。
 真彩は肩を上げ、その音に怯えた。
「そうだ。俺は、女の子を助けようとして、道路に飛び出したんだ」
「ごめんなさい。わたしのせいで、あなたが」
 言葉は続かず、息が止まる。サトルは頬を緩めて笑っていた。
「助かったんだ……」
「え……」
「助かったんだな。あの時の子。それが真彩だったんだ……そっかぁ」
 言いながら真彩の頭を撫で回す。冷たい風が頭に巻き付くだけなのに、サトルは構わず真彩の頭をぐしゃぐしゃにした。
 その時、脳内にぽつんと明かりが灯った。赤い記憶。衝撃音のあとの静寂。そして、強すぎるぬくもり。
 ――助かってくれ。
 その必死な声が頭の中で響いた。
「うわぁ、良かった。本当に良かった。俺さ、ずっと助かってくれって、祈ってたんだよ」
「うそ……」
「嘘なもんか。でなきゃ、助けないって。あー、安心したらちょっと泣けてきた」
 サトルは目尻を親指で押した。ずっと笑っている。次第にその口角が震えた。
「うわぁー、本当にダメだ。ちょっと真彩、見ないで。俺、今かっこわりぃから」
「それ、今気にするところか?」
 後ろからカナトが水を差す。それに対し、サトルが腕を振り上げて怒った。
「割り込んでくんなよ!」
「いや、だって、しみったれた空気はちょっと……」
「今さらそんなの気にしてどうすんだよ!」
「そっちこそ、妙なところで意識してどうするんだ」
 突然始まる口論についていけない。でも、彼らはなんだか満足そうに顔を見合わせて笑っていた。ひとしきり笑うと、サトルは手のひらで涙を拭った。カナトもしゃがみ、二人の顔を覗き込む。
「まぁ、そういうことだねぇ。真彩ちゃん、君の後悔はあまりにも巨大すぎる」
 未だ影がうごめく路地を指す。カナトの口調は珍しく場に合って、いつものように軽々しい。
「でも、もう分かっただろう? 人間なんて、結局生きてるだけで後ろめたいもの。今は無理でも、ゆっくり折り合いをつけて、今を大事にしたらいいんじゃないか」
「そうやっておいしいとこをサクッと持ってくのな、お前は。本当に嫌なやつ」
 サトルが呆れたように言った。カナトの口が不機嫌に曲がる。不満そうな顔を見せるところ、彼なりに気遣っていたのだろう。
 真彩は項垂れて、大きく息を吸った。まだ喉は痛むが、鬱屈したもやもやはなんとなく引いてきたように思える。安心したサトルの言葉が、冷えた心を温めていく。固く強張っていた体を溶かすようで、真彩は吸った空気を飲み込んだ。
 その瞬間、路地の影が動きを止める。ゆっくりと、ゆっくりと黒い粒子が収縮していく。勢いをなくした影はやがて、大人しく揺らめく小さな靄となった。
「まだ残ってる……」
「いっぺんに消えてしまうもんじゃないからねぇ」
 のほほんと穏やかなカナトに、真彩は眉を寄せて、肩を落とした。
「ところで、サトルくんの影はきれいさっぱり消えたなぁ。やっぱり、記憶を取り戻したら未練もなくなるものだね」
「え?」
 言われるまで気づかなかったのか、サトルは立ち上がって全身を見渡した。
「おぉー! ほんとだ! 元に戻った!」
 嬉しそうに両腕を曲げ伸ばして見せびらかす。
「体も軽くなった。すげー楽だわ」
「そいつは何よりだねぇ」
 すかさずカナトがため息交じりに言う。
「なんで残念そうなんだよ」
「これで絶対に悪霊にならないからね。もう成仏もできるんじゃないか」
 その指摘に、真彩とサトルは同時に息を止めた。顔を見合わせる。
「あー……そっか。そうだ。解決しちゃったからなぁ」
 サトルは気まずそうに空を見上げた。満点の星が瞬く夜。影のない、まっさらな夜は透明感があった。
 真彩は何も言えなかった。本当にこれでお別れする――実感がない。でも、心臓がぎゅっと縮まるように寂しくなる。
 すると、サトルがこちらを見た。
「あのさ……真彩にお願いがあるんだけど」
 遠慮がちにボソボソと言うから、真彩は彼の顔を覗き込んだ。
「……一つだけ、わがまま聞いてもらってもいい?」
 どんな頼みでもいい。彼のためなら。真彩は迷いなくうなずいた。
 翌日は目がくらむ快晴だった。花壇のひまわりが下を向く。校門に影はいない。真彩は堂々と校門をくぐり、帰り道をゆったりとたどった。隣にはいつものように冷たい幽霊が歩く。
「絶好の海日和だなぁー」
 ウキウキと脳天気な声を聞いてると安心する。真彩は「そうだね」と小さく返した。
「最初さー、真彩って素っ気なかったよね」
「あの時はごめんね」
 すぐに謝ると、サトルはケラケラ笑った。恥ずかしくて耳が熱くなる。真彩はカバンにつけていたうさぎのぬいぐるみを握りしめた。
「……それで、お父さんとは話できた?」
 ひとしきり笑ったあと、言いにくそうにサトルが聞いてくる。真彩はちらりと顔を上げた。
「うん。ちゃんと話した。まだまだぎこちないけど、多分、ゆっくり分かり合えると思う」
「本当にー? そんなこと言って、またすぐケンカするんじゃねーの?」
「そうかもね」
 サトルの言葉は大当たりだった。多分、すぐには戻れない。でも、父はぼそりと小さく言ってくれた。
 ――これから。
 その言葉を信じてみようと、今は少しだけ前向きに考えている。
 肌を焼く日差しの中、二人の足はゆっくり動く。沿道は相変わらず車がなく、白線の内側を歩く。サトルはいつの間にか堤防の上を歩く。海岸に続く階段を目指して歩いていく。
「お、ついたついた」
 今度は二人で一緒にたどり着いた。白い浜と眩しい海。キラキラで直視できない。
「早く! ほら、真彩!」
 サトルが手招きする。それを掴みたいのに掴めない。真彩はやきもきしながら、階段を駆け下りた。
 鮮やかな海は碧く、透き通っている。穏やかな波の音が心地よく、砂浜は不安定だ。真彩は靴を脱ぎ散らかして、熱した砂を踏んだ。サトルはすでに海の中へ向かっている。その冷感を求めて、真彩も迷わず水の中へ飛び込んだ。
「海に行ったのっていつだっけ?」
 サトルが楽しげに聞いてくる。真彩は波を蹴飛ばしながら考えた。
「えーっと……八月の五日?」
「会ってすぐだっけ?」
「うん。わたしが海に行こうって言ったから」
「そうだった、そうだった。それからカナトに会って、ケンカして、いろいろあったなぁー」
 仰向けに倒れ、サトルは空を眺めながら水に漂った。彼の色が碧く水に溶けだしていく。それを見ると、真彩は浮足立った心が縮むような気がした。
 太陽に手をかざすと、光で見えなくなる。透明な彼は、きれいでまっさらだ。やっぱりまだ後ろめたい。
「すっかり元に戻ったね」
 寂しさを紛らわそうと言ってみる。サトルは得意げに口角を上げた。
「真彩も、いつかはあの影が消えるよ」
「そうかな……」
「そうだよ。だって、苦しいだろ、ずっとあんなのを抱えるのは」
「うん……」
 声が小さくなる。そんな真彩をサトルはからかうように笑い、元気よく立ち上がった。
「だったら顔を上げろ。下を向くのはたまにでいい」
 その言葉通り、ゆっくり顔を上げる。くしゃっと満面に笑うサトルが目の前にある。透明な彼の先に、眩しい太陽が見えた。目がくらむ。
「俺のために生きていくとかさー、そういう重たいことはするなよ」
「……うん」
「明日が当然くるとは限らないからな。今をしっかり見ていろ」
「うん」
「そして、幸せになってくれたらいいかなー」
「それは……約束できないよ」
「まぁ、絶対じゃないから、ほどほどにかな」
「……うん」
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
「うん」
 心がさざめく。彼にはもう二度と会えない。
 真彩は思わず手を伸ばして、サトルのシャツを握ろうとした。でも、すぐにすり抜けていってしまう。行き場をなくした指が虚しく落ちる。
「サトルくん、待って。いかないで」
「えぇー? そんなこと言うなよ。俺だって嫌なんだから」
 吹き出すように息をつき、彼は眉を困らせた。その仕草が大人びていて、妙なおかしさを覚える。笑いだしたくなる。悲しいのに、泣きたいのに。
「……笑えよ、いつでも」
「うん」
 約束なんてできないのに、涙をこらえようとうなずいた。
「あーもう、泣くなって。笑えって言ってんだろー? しょうがないなぁ、真彩は」
 冷たい指が涙をすくいとった。ひんやり冷たい、半透明な指は柔らかすぎる。その感触がゆっくりと遠ざかった。
「……それじゃあね、真彩。ありがとう。もう、十分だ」
 空に溶けていく。輪郭がぼやけて、よく見えなくなってくる。
 ――伝えなきゃ。
 本当に伝えたいことが突然に頭の中をよぎる。
「サトルくん、ありがとう」
 空色の中に手をのばすと、彼は何か囁いた。その音はもう耳に残らない。ひらりとかわすように、サトルの足が空を蹴った。
「……さようなら」
 静かな声がぽっかりと空へのぼる。涙がこめかみをつたっていき、その冷たさがすでに懐かしく思えた。
 しばらく水平線を見つめたままでいて、冷たい風を待つ。それでも、もうどこにもない。やがて、まだフラフラとおぼつかない足で波を出た。地面を踏む感触を一歩ずつ噛みしめる。
 ふるい自分にさよならを告げて、ありったけの後悔を抱きしめて、透明をめいっぱい吸い込むと涙の味がした。透明のままだから、まだ今は信じたくない。いつか色を取り戻したとき、この結末を受け入れるんだろう。
 真彩は深く呼吸した。

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