翌日は目がくらむ快晴だった。花壇のひまわりが下を向く。校門に影はいない。真彩は堂々と校門をくぐり、帰り道をゆったりとたどった。隣にはいつものように冷たい幽霊が歩く。
「絶好の海日和だなぁー」
 ウキウキと脳天気な声を聞いてると安心する。真彩は「そうだね」と小さく返した。
「最初さー、真彩って素っ気なかったよね」
「あの時はごめんね」
 すぐに謝ると、サトルはケラケラ笑った。恥ずかしくて耳が熱くなる。真彩はカバンにつけていたうさぎのぬいぐるみを握りしめた。
「……それで、お父さんとは話できた?」
 ひとしきり笑ったあと、言いにくそうにサトルが聞いてくる。真彩はちらりと顔を上げた。
「うん。ちゃんと話した。まだまだぎこちないけど、多分、ゆっくり分かり合えると思う」
「本当にー? そんなこと言って、またすぐケンカするんじゃねーの?」
「そうかもね」
 サトルの言葉は大当たりだった。多分、すぐには戻れない。でも、父はぼそりと小さく言ってくれた。
 ――これから。
 その言葉を信じてみようと、今は少しだけ前向きに考えている。
 肌を焼く日差しの中、二人の足はゆっくり動く。沿道は相変わらず車がなく、白線の内側を歩く。サトルはいつの間にか堤防の上を歩く。海岸に続く階段を目指して歩いていく。
「お、ついたついた」
 今度は二人で一緒にたどり着いた。白い浜と眩しい海。キラキラで直視できない。
「早く! ほら、真彩!」
 サトルが手招きする。それを掴みたいのに掴めない。真彩はやきもきしながら、階段を駆け下りた。
 鮮やかな海は碧く、透き通っている。穏やかな波の音が心地よく、砂浜は不安定だ。真彩は靴を脱ぎ散らかして、熱した砂を踏んだ。サトルはすでに海の中へ向かっている。その冷感を求めて、真彩も迷わず水の中へ飛び込んだ。
「海に行ったのっていつだっけ?」
 サトルが楽しげに聞いてくる。真彩は波を蹴飛ばしながら考えた。
「えーっと……八月の五日?」
「会ってすぐだっけ?」
「うん。わたしが海に行こうって言ったから」
「そうだった、そうだった。それからカナトに会って、ケンカして、いろいろあったなぁー」
 仰向けに倒れ、サトルは空を眺めながら水に漂った。彼の色が碧く水に溶けだしていく。それを見ると、真彩は浮足立った心が縮むような気がした。
 太陽に手をかざすと、光で見えなくなる。透明な彼は、きれいでまっさらだ。やっぱりまだ後ろめたい。
「すっかり元に戻ったね」
 寂しさを紛らわそうと言ってみる。サトルは得意げに口角を上げた。
「真彩も、いつかはあの影が消えるよ」
「そうかな……」
「そうだよ。だって、苦しいだろ、ずっとあんなのを抱えるのは」
「うん……」
 声が小さくなる。そんな真彩をサトルはからかうように笑い、元気よく立ち上がった。
「だったら顔を上げろ。下を向くのはたまにでいい」
 その言葉通り、ゆっくり顔を上げる。くしゃっと満面に笑うサトルが目の前にある。透明な彼の先に、眩しい太陽が見えた。目がくらむ。
「俺のために生きていくとかさー、そういう重たいことはするなよ」
「……うん」
「明日が当然くるとは限らないからな。今をしっかり見ていろ」
「うん」
「そして、幸せになってくれたらいいかなー」
「それは……約束できないよ」
「まぁ、絶対じゃないから、ほどほどにかな」
「……うん」
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
「うん」
 心がさざめく。彼にはもう二度と会えない。
 真彩は思わず手を伸ばして、サトルのシャツを握ろうとした。でも、すぐにすり抜けていってしまう。行き場をなくした指が虚しく落ちる。
「サトルくん、待って。いかないで」
「えぇー? そんなこと言うなよ。俺だって嫌なんだから」
 吹き出すように息をつき、彼は眉を困らせた。その仕草が大人びていて、妙なおかしさを覚える。笑いだしたくなる。悲しいのに、泣きたいのに。
「……笑えよ、いつでも」
「うん」
 約束なんてできないのに、涙をこらえようとうなずいた。
「あーもう、泣くなって。笑えって言ってんだろー? しょうがないなぁ、真彩は」
 冷たい指が涙をすくいとった。ひんやり冷たい、半透明な指は柔らかすぎる。その感触がゆっくりと遠ざかった。
「……それじゃあね、真彩。ありがとう。もう、十分だ」
 空に溶けていく。輪郭がぼやけて、よく見えなくなってくる。
 ――伝えなきゃ。
 本当に伝えたいことが突然に頭の中をよぎる。
「サトルくん、ありがとう」
 空色の中に手をのばすと、彼は何か囁いた。その音はもう耳に残らない。ひらりとかわすように、サトルの足が空を蹴った。
「……さようなら」
 静かな声がぽっかりと空へのぼる。涙がこめかみをつたっていき、その冷たさがすでに懐かしく思えた。
 しばらく水平線を見つめたままでいて、冷たい風を待つ。それでも、もうどこにもない。やがて、まだフラフラとおぼつかない足で波を出た。地面を踏む感触を一歩ずつ噛みしめる。
 ふるい自分にさよならを告げて、ありったけの後悔を抱きしめて、透明をめいっぱい吸い込むと涙の味がした。透明のままだから、まだ今は信じたくない。いつか色を取り戻したとき、この結末を受け入れるんだろう。
 真彩は深く呼吸した。