透明の瓶を覗くと、何もなかった。思ったよりも空っぽだけど、さして驚くわけでなく、ただ「当然だ」とすんなり受け入れてしまう。
空っぽの瓶に何を詰めようか。考えても、とくに何も浮かばない。
「――えー」
教壇に立つ女性教師が涼やかに声を出す。静かな教室に響き、一ノ瀬真彩(いちのせ まあさ)は小瓶のストラップから目を離した。
「小球が高さaメートルの台、点Aから水平方向に初速vo毎秒で飛び出し、水平面上の点Bに落下した。このとき、点A、点B間の水平距離はaメートル。また、重力加速度の大きさをgメートル毎秒毎秒とする」
白いチョークがカツカツと黒板上で飛ぶ。それを書き写そうとはせず、頬杖をついて、さも考えているという体でいた。
授業は聞きたくない。それに落体なんて。物体が落ちる速度はあまり考えたくない。
あれからもう五ヶ月は経つのか。病室の窓に流れる桜とカーテンは記憶に新しく、鮮明に思い出される。
「はぁ……」
広い真四角の教室には机と椅子が全部で三十。その中にぽつんと置かれたように真彩は、一人で物理の補習を受けていた。
じわじわとうるさいセミの声が窓越しに聞こえる。冷えた部屋にこもりきり。外はソーダアイスのような青い空で眩しすぎた。
八月一日。特別進学クラスは補習があるらしいが、進学に力を入れてない普通科の一年三組は夏休み中だった。しかし、真彩ただ一人だけが担任から夏休みの補習を強制されている。入学してすぐに休みがちで、学期末テストもさぼったのだから当然の結果だろう。
「一ノ瀬さん、聞いてます?」
問題を黒板に書き終えた岩蕗光(いわぶき ひかる)先生が振り返る。その目は不審さを帯びており、鋭利な光を放っていた。折れそうに細いこの女性教師は真彩の担任であり、物理学を担当している。
さすがに呼ばれれば真彩も目と口をぽかんと開けた。とろんと重たいまぶたを持ち上げて姿勢を正すも、すぐに首が前に落ちる。
「すいません。聞いてなかったです」
「はぁ……ノートは? 書いてるの?」
真彩は素直にノートを掲げた。まっしろ。先生の悲しげなため溜息が落ちる。真彩は肩をすくめた。
「……先生」
「はい」
「あの、人が落ちるときの速度って、その公式使ったらわかりますか?」
「はい?」
先生の目が丸くなる。鋭利な視線がすぐさま軽蔑に変わった。
「それは、どういう意図で聞いてるの?」
「……ただの好奇心、です」
責められているような気分になり、もごもごと言う。でも、口元は笑っている。その軽薄さが先生の怒りに触れた。とうとう教壇を降り、真彩の前に立つ。
「一ノ瀬さん。あなたはどうしてやる気がないの?」
厳しい口調で問われる。こうなったら素直に白状しよう。
「……やる気は、出ないです。だって、物理、分かんないし。あ、でも先生の教え方が悪いとか、そういうんじゃなくて」
必死さはないから、もしかしたら呆れられて見捨てられるかもしれない。今までもそうだった。しかし、この担任は根気よく親身だ。それはなんとなく感じている。言動はともかくとして。
「そうね……教え方が悪いわけじゃないのよ。これは脳に浸透するかどうかの問題で、やっぱり本人のやる気次第だわ」
「あーははは……わたしのせいですねー」
真彩は口を曲げた。
一方、先生は腕を組んで目をつぶった。毒気を抜かれたように肩を落とし、「うーん」とうなる。
真彩は退屈にため息を吐き、先生から目を逸らした。そして、窓の外に揺らめく「影」を見つめる。夏の青い景色には似つかわしくない、ゆらゆらと煙のような異質物。細長い影が窓の外の、校門で動いている。手招きしている。誰にも視えないはずの「何か」。その正体は分からない。
「ねぇ、先生」
「なんですか」
「この町の怪談って、知ってる?」
「怪談?」
話を逸らされ、岩蕗先生は呆けたように聞き返した。
「花子さんとか、こっくりさんとかそういう感じの」
「それ、都市伝説じゃない?」
「あー、そう。それっぽいやつ」
真彩は調子よく鼻で笑った。
「この矢菱町(やびしちょう)には黒い影が住んでいるんだって。それは後悔の怪物で、影みたいに黒くて、大きくて、生きてる人を食べちゃうの」
真彩は口元に笑みを浮かばせた。先生はどんな反応をするだろう。鼻で笑って「何をバカなことを」と言うに決まっている。もしかしたら怒られるかもしれない。今度こそ見捨てられるだろう。
しかし、聴こえたのは期待を裏切る、「へぇ」という冷めた声だった。
「赴任して五年だけど、そんな話は知らないわね。最近流行ってるの?」
「え、信じるの?」
訊くと、岩蕗先生はつまらなそうに「えぇ」と返した。物理学教師が超常現象の類を信じるとでも言うのか。ありえない。
「そういうのバカにするって思った?」
「うん」
思わず頷いてハッと我にかえる。真彩は気まずく目を逸らした。自分の口角が上がっていることに気づいて、なんとなく後ろめたさを覚える。そんな奇妙な真彩の動きを先生は鼻で笑った。
「そういった現象がなんなのかを解明するのが、科学よ」
毅然と言い、さっとカーテンを閉められる。影の姿が視えなくなり、真彩は眉をひそめて不機嫌をあらわした。先生は相手にせず、教卓に戻っていく。
「さて、おしゃべりは終わりです。一ノ瀬さん、授業をちゃんときいてください」
「……ちぇ」
「なんか言った?」
「言ってませんー」
ふてぶてしく返してシャープペンを手に取る。先生は満足そうに黒板へ問題を書いていった。後ろを向いた途端、ペンを転がし、先生の目を盗んで天井を仰ぐ。
退屈だ。
***
結局、問題の半分も解けずにタイムアップとなった。数学も現国も地理も英語も岩蕗先生が監督してくれる。そういう話になっているらしい。
十五時きっかりに、先生が「終わりましょうか」と切り上げ、全教科のプリントを真彩に渡した。宿題の多さに吐き気をもよおしそうだ。
「明日、また十時に来なさい」
その業務連絡はまったく優しくない。真彩は肩を落として教室を出た。
廊下は誰もおらず、夏だというのにひんやり涼しい。
「気をつけて帰るのよ」
教室の鍵を閉めながら先生が言った。
「先生は今から部活ですか?」
窓の外にある熱気を想像しながら聞く。
「えぇ、大会中だもの。まぁ、今年もうちの陸上部、とくに短距離は精鋭ぞろいだから、私は監督するだけで良さそうだけど……何よ、その顔」
真彩は鼻にシワを寄せていた。先生はその表情の意味が分かっていない。
「信じらんない……この暑い中、走るとか意味分かんない……」
「あなたも部に入ってくれればいいんだけどね。体力測定のときから目をつけてるんだけど、その言い草じゃ、やっぱり入ってくれないわよね」
入学してからの体力測定で、真彩は短距離走のタイムが良かった。それをきっかけに、岩蕗先生はたまにやんわりと部活勧誘をしてくる。
真彩は先生から背を向けた。その時、目の端で何かを捉えた。廊下の奥に人影がある。すぐに目を逸らした。
「まぁ、いいわ。今はダメでもそのうちね」
先生の声は諦めていない。それををぼんやりと聞き、「はぁい」と気だるげに返して階段へ向かう。重たい足取りで昇降口を目指す。冷たい廊下の窓には貧相なセーラー服の女子生徒ただ一人だけ。誰もいないほうが気が楽だ。本当に誰もいないならいいけれど。
「あ」
真彩は校庭の影を思い出した。
黒い影。校門に立つ松の木が影を落としているだけならまだしも、そういうわけではなかった。人間の腕のような。黒くうごめく異質な影。あれはきっと、後悔の怪物ってやつだろう。
夏休みに入る前、トイレの個室にいたちょうど、どこかの女子生徒が噂していたのを偶然聞いていた。
「矢菱町には影のおばけがいるんだよ」
その時は呆れたが、それ以外ならよく目にするので、侮れない存在であることは確かだ。
窓をぼんやり眺めていれば、たまに目が合う。誰かと。自分ではない誰か。よくあることだ。
真彩は肩までの髪を揺らしながら階段をゆっくり降りた。一段、一段。冷たい風を受け、足をとんと地につける。
「ん?」
足元がひときわ冷たい。液体窒素のように視認できる冷感が足首を冷やした。立ち止まって顔を上げる。
そこには、青白い顔をした少年がいた。
「うわ」
思わず声を上げてしまい、慌てて口をふさぐ。だが遅い。少年と目が合い、その不鮮明で透明な姿に妙な罪悪感を抱いた。
透明の少年は、瞳に光はないが表情は穏やかで柔らかい。丸い目と、つややかな髪がなんだか爽やかだ。彼は驚いた表情のあと、ぱぁっと明るい笑顔をつくった。
「え、もしかして視えてる?」
少し反響した声が耳をかすめた。
「……視えてません」
「いやいやいや、視えてるよね? ってか、ちゃんと話もできるじゃん」
気まずい。どう逃げようか迷う。視線を這わせ、真彩はカバンにつけたうさぎのぬいぐるみを掴んだ。
「は、話してません……わたしは、この、グリーンラビットと話をしています」
緑色のファンシーなうさぎが窮屈そうにシワを寄せる。
それを見やり、少年の目が怪訝に細くなった。
「それはちょっと無理あるって」
「………」
これはもう収拾がつかない。バカなことをしていると自覚すれば恥ずかしくなり、真彩は乱暴にうさぎを離した。少年を睨みつける。
「幽霊くんに構ってる暇はないんだけど」
きっぱり冷たく突っぱねる。その態度の悪さに、幽霊の少年は一歩後ずさった。顔を引きつらせる。
「幽霊くんって、ちょっと失礼じゃない?」
妙なところを気にしている。威嚇に効果がないらしく、真彩はため息を吐いて腕を組んだ。
「馴れ合う気はないもん。あなた、幽霊でしょ。取り憑かれたら堪んないし」
少年は煙のような、触れたら消えてしまいそうな半透明だ。生きた人間とは言えない。しかし、ほかの今まで視た幽霊よりも鬱蒼とした暗さはなく、むしろ元気で明るい。
「せっかく視える人と会ったのに、そりゃないぜ」
彼は寂しそうに言った。肩を落として大げさに落ち込む。わざとらしくてもいくらか罪悪感が働き、真彩は眉をひそめた。
「……あのさ、あなた、本当に死んでるの? なんか、その割には元気そうだし、無害っぽい」
「元気だよ。生きてないってだけで」
「そう……」
あっけらかんと言われればどう反応したらいいか分からない。調子が狂う。もう逃げるべきだ。脱兎のごとく走り、振り切ってしまおう。真彩は右足を踏み出した。
「じゃあ……さようなら」
「え? ちょっと、待って!」
踏み出した足の前に冷たい足が飛び出す。反射的に避け、真彩は後ろに飛んだ。
「……帰りたいんだけど」
情けは無用。冷たく言い、今度は彼を避けるように前へ出た。冷たい足がまた追いかける。
「待って待って。ね、一旦落ち着こう。帰りながら話そう」
その提案は想定外だ。少年は真彩の前に飛び出していく。バタバタと階段を降りていき、階下で勝ち誇ったように笑う。
「はぁ……」
――面倒な幽霊に出くわしたなぁ。
真彩は肩を落とし、カバンを引きずるように歩いた。何故か、幽霊の後を追いかけながら。
一ノ瀬真彩は、幼い頃から幽霊が視えた。それは人ならざるものであり、かつて人であったものである。人をかたどった何か。そう認識するまでに数年はかかったが、そこまでの境地へ辿り着くのも我ながら物分りがいいのではないかと今日まで思っていた。幽霊と分かりあえることは今後もないだろうし、ましてや今でさえ関わりたくないと思っている。それなのに、この状況はどういうことだ。
真彩は自分の靴箱を開き、固いローファーを落とした。パーンと音が反響すると、少年は両耳を塞いで「うるさい」とアピールした。
「え、ごめん……?」
「なぜ疑問形……いや、いいよ、全然」
その割には、しかめっ面を見せてくる。
「幽霊って、音に敏感なの?」
真彩は素朴な疑問を投げた。
「さぁー? 他はどうかは知らないけど、俺は嫌いかなぁ」
「なるほど」
靴を替え、外に出る。燦々と降り注ぐ太陽は熱そのもので、皮膚を焼く。暑さから逃げようと腕を額に押し付ける。視界を前に向けると、遠い校門に影が立っていた。蜃気楼のように立ち昇る黒い影が手招きしている。
「……ねぇ」
「ん?」
彼は滑るように真彩の横を歩く。
「あなた、あの黒い影、視える?」
すっと人差し指を伸ばすと、少年は目を大きく開いた。
「何あれ!?」
耳の奥まで響き渡る絶叫に、今度は真彩が耳を塞ぐ。
「うーん……なんというか。黒い影としか言いようがないというか。この町の都市伝説でね、いるんだよ、そういうのが」
「何それ! 初耳なんだけど! めっちゃ怖そう! ってか、なんでそんなに落ち着いてんだよ!」
「あ、やっぱり視えるんだ」
彼の驚きようには興味ない。しかし、幽霊も都市伝説を怖がるというのは意外な発見だった。
「普通の人が視えたら、それくらい驚くのかな?」
「そりゃあね! だって腕だよ! 腕だけ! 怖いに決まってんじゃん!」
「幽霊にそう言われちゃ、都市伝説も冥利に尽きるだろうね」
「ぜんっぜん面白くないし! のんきなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど!」
そういうものか。あまりピンとこない。
「わたしにとっては日常なんだよ。幽霊も死も不幸も、全部が日常だから」
真彩は黒い影を見ずにそのまま校門を突っ切った。影は相変わらず手招きしているが無視して通り過ぎる。瞬間、おぞましい寒気が走り、嫌悪と憎悪が全身に回った。通り過ぎただけなのに。
じっと影を睨んでいると、幽霊くんが追いかけてきた。彼もまた影を避けている。
「待ってよ。まだ俺の話が終わってない」
軽々飛び越えて真彩の前に回ってくる。彼の冷気に少しだけ気が落ち着いた。
「え、話?」
「うん。そのために呼び止めたんだけど」
「はぁ……そう……」
ぼんやりと返事をして、真彩はすぐに口をつぐんだ。向かいから小学生の女の子たちが歩いてくる。それをやり過ごし、真彩は歩きだした。
静かな住宅街を行き、公園前を横切って、小路に入る。人前でおおっぴらに独りで話をするのは気が引ける。彼も気を遣っているのか、人がいそうな場所では話しかけなかった。
シャッターが降りた工場の前を過ぎ、小さな橋を渡る。誰もいなさそうだ。
「……幽霊くん。あなた、地縛霊じゃないのね」
唐突に話しかけると、彼は「え?」と気の抜けた返事をした。
「地縛霊?」
「ここまでついてきたってことは、地縛霊じゃないんだよね?」
「うーん……だと思うよ?」
曖昧な返事だ。真彩は眉をひそめた。
「地縛霊ってのは、例えば死んだ場所や思い入れのある場所から離れられなかったりする霊のことなんだけど」
「あぁ、そういう意味か。知らなかった」
彼は感心げにうなずいた。これには呆れる。幽霊本人が分かっていないとは。
「幽霊くんって、全然幽霊っぽくないね」
無気力に言葉を投げる。すると、彼は唇をとがらせて不満の表情を浮かべた。
「その幽霊くんっての、いい加減やめてくんない?」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
どうせ今日限りなのだから、なんと呼ぼうがいいだろうに。
「サトルでいいよ」
人懐っこい笑顔で言う。それに面食らった真彩は口をぎゅっと結んだ。本当に幽霊らしくない。同級生と話しているような気分になり、なんだか急に恥ずかしくなる。
「……それで、サトルくん。わたしになんの用?」
そろそろ本題に入ろう。真彩の問いに、サトルは丸い目を丸くした。
「用っていうか……ちょうどいいからお願いを聞いてほしいというか。ほら、俺のこと視えるし」
「好きで視てるわけじゃない」
冷たく返すと、彼はへらっと気まずそうに笑った。
「まぁー……俺には時間がないらしいからさ、協力してほしいんだ」
「時間?」
「うん。時間がないんだ。本当は成仏したいんだけど、それができなくて困ってる」
「はぁ、成仏……」
真彩は初めて口にするかのように反復した。
透明だが、人の形をかたどって喋る同年代の少年が、当然のように「成仏したい」と言う。しかし、幽霊ならそれこそ成仏は当たり前のことであって、自動的に極楽浄土へ逝けるはず。それができないから困っている――
「ま、この生活も不自由はなかったんだけど。そういうわけにもいかないらしくて」
「はぁ」
「死んだあとも何かとルールが決まってるっぽくてね」
「ルール……?」
「だから、君には俺が死んだ理由を探してもらたいんだ」
その言葉がサクっと軽く、真彩の心を突き刺した。
空っぽの瓶に何を詰めようか。考えても、とくに何も浮かばない。
「――えー」
教壇に立つ女性教師が涼やかに声を出す。静かな教室に響き、一ノ瀬真彩(いちのせ まあさ)は小瓶のストラップから目を離した。
「小球が高さaメートルの台、点Aから水平方向に初速vo毎秒で飛び出し、水平面上の点Bに落下した。このとき、点A、点B間の水平距離はaメートル。また、重力加速度の大きさをgメートル毎秒毎秒とする」
白いチョークがカツカツと黒板上で飛ぶ。それを書き写そうとはせず、頬杖をついて、さも考えているという体でいた。
授業は聞きたくない。それに落体なんて。物体が落ちる速度はあまり考えたくない。
あれからもう五ヶ月は経つのか。病室の窓に流れる桜とカーテンは記憶に新しく、鮮明に思い出される。
「はぁ……」
広い真四角の教室には机と椅子が全部で三十。その中にぽつんと置かれたように真彩は、一人で物理の補習を受けていた。
じわじわとうるさいセミの声が窓越しに聞こえる。冷えた部屋にこもりきり。外はソーダアイスのような青い空で眩しすぎた。
八月一日。特別進学クラスは補習があるらしいが、進学に力を入れてない普通科の一年三組は夏休み中だった。しかし、真彩ただ一人だけが担任から夏休みの補習を強制されている。入学してすぐに休みがちで、学期末テストもさぼったのだから当然の結果だろう。
「一ノ瀬さん、聞いてます?」
問題を黒板に書き終えた岩蕗光(いわぶき ひかる)先生が振り返る。その目は不審さを帯びており、鋭利な光を放っていた。折れそうに細いこの女性教師は真彩の担任であり、物理学を担当している。
さすがに呼ばれれば真彩も目と口をぽかんと開けた。とろんと重たいまぶたを持ち上げて姿勢を正すも、すぐに首が前に落ちる。
「すいません。聞いてなかったです」
「はぁ……ノートは? 書いてるの?」
真彩は素直にノートを掲げた。まっしろ。先生の悲しげなため溜息が落ちる。真彩は肩をすくめた。
「……先生」
「はい」
「あの、人が落ちるときの速度って、その公式使ったらわかりますか?」
「はい?」
先生の目が丸くなる。鋭利な視線がすぐさま軽蔑に変わった。
「それは、どういう意図で聞いてるの?」
「……ただの好奇心、です」
責められているような気分になり、もごもごと言う。でも、口元は笑っている。その軽薄さが先生の怒りに触れた。とうとう教壇を降り、真彩の前に立つ。
「一ノ瀬さん。あなたはどうしてやる気がないの?」
厳しい口調で問われる。こうなったら素直に白状しよう。
「……やる気は、出ないです。だって、物理、分かんないし。あ、でも先生の教え方が悪いとか、そういうんじゃなくて」
必死さはないから、もしかしたら呆れられて見捨てられるかもしれない。今までもそうだった。しかし、この担任は根気よく親身だ。それはなんとなく感じている。言動はともかくとして。
「そうね……教え方が悪いわけじゃないのよ。これは脳に浸透するかどうかの問題で、やっぱり本人のやる気次第だわ」
「あーははは……わたしのせいですねー」
真彩は口を曲げた。
一方、先生は腕を組んで目をつぶった。毒気を抜かれたように肩を落とし、「うーん」とうなる。
真彩は退屈にため息を吐き、先生から目を逸らした。そして、窓の外に揺らめく「影」を見つめる。夏の青い景色には似つかわしくない、ゆらゆらと煙のような異質物。細長い影が窓の外の、校門で動いている。手招きしている。誰にも視えないはずの「何か」。その正体は分からない。
「ねぇ、先生」
「なんですか」
「この町の怪談って、知ってる?」
「怪談?」
話を逸らされ、岩蕗先生は呆けたように聞き返した。
「花子さんとか、こっくりさんとかそういう感じの」
「それ、都市伝説じゃない?」
「あー、そう。それっぽいやつ」
真彩は調子よく鼻で笑った。
「この矢菱町(やびしちょう)には黒い影が住んでいるんだって。それは後悔の怪物で、影みたいに黒くて、大きくて、生きてる人を食べちゃうの」
真彩は口元に笑みを浮かばせた。先生はどんな反応をするだろう。鼻で笑って「何をバカなことを」と言うに決まっている。もしかしたら怒られるかもしれない。今度こそ見捨てられるだろう。
しかし、聴こえたのは期待を裏切る、「へぇ」という冷めた声だった。
「赴任して五年だけど、そんな話は知らないわね。最近流行ってるの?」
「え、信じるの?」
訊くと、岩蕗先生はつまらなそうに「えぇ」と返した。物理学教師が超常現象の類を信じるとでも言うのか。ありえない。
「そういうのバカにするって思った?」
「うん」
思わず頷いてハッと我にかえる。真彩は気まずく目を逸らした。自分の口角が上がっていることに気づいて、なんとなく後ろめたさを覚える。そんな奇妙な真彩の動きを先生は鼻で笑った。
「そういった現象がなんなのかを解明するのが、科学よ」
毅然と言い、さっとカーテンを閉められる。影の姿が視えなくなり、真彩は眉をひそめて不機嫌をあらわした。先生は相手にせず、教卓に戻っていく。
「さて、おしゃべりは終わりです。一ノ瀬さん、授業をちゃんときいてください」
「……ちぇ」
「なんか言った?」
「言ってませんー」
ふてぶてしく返してシャープペンを手に取る。先生は満足そうに黒板へ問題を書いていった。後ろを向いた途端、ペンを転がし、先生の目を盗んで天井を仰ぐ。
退屈だ。
***
結局、問題の半分も解けずにタイムアップとなった。数学も現国も地理も英語も岩蕗先生が監督してくれる。そういう話になっているらしい。
十五時きっかりに、先生が「終わりましょうか」と切り上げ、全教科のプリントを真彩に渡した。宿題の多さに吐き気をもよおしそうだ。
「明日、また十時に来なさい」
その業務連絡はまったく優しくない。真彩は肩を落として教室を出た。
廊下は誰もおらず、夏だというのにひんやり涼しい。
「気をつけて帰るのよ」
教室の鍵を閉めながら先生が言った。
「先生は今から部活ですか?」
窓の外にある熱気を想像しながら聞く。
「えぇ、大会中だもの。まぁ、今年もうちの陸上部、とくに短距離は精鋭ぞろいだから、私は監督するだけで良さそうだけど……何よ、その顔」
真彩は鼻にシワを寄せていた。先生はその表情の意味が分かっていない。
「信じらんない……この暑い中、走るとか意味分かんない……」
「あなたも部に入ってくれればいいんだけどね。体力測定のときから目をつけてるんだけど、その言い草じゃ、やっぱり入ってくれないわよね」
入学してからの体力測定で、真彩は短距離走のタイムが良かった。それをきっかけに、岩蕗先生はたまにやんわりと部活勧誘をしてくる。
真彩は先生から背を向けた。その時、目の端で何かを捉えた。廊下の奥に人影がある。すぐに目を逸らした。
「まぁ、いいわ。今はダメでもそのうちね」
先生の声は諦めていない。それををぼんやりと聞き、「はぁい」と気だるげに返して階段へ向かう。重たい足取りで昇降口を目指す。冷たい廊下の窓には貧相なセーラー服の女子生徒ただ一人だけ。誰もいないほうが気が楽だ。本当に誰もいないならいいけれど。
「あ」
真彩は校庭の影を思い出した。
黒い影。校門に立つ松の木が影を落としているだけならまだしも、そういうわけではなかった。人間の腕のような。黒くうごめく異質な影。あれはきっと、後悔の怪物ってやつだろう。
夏休みに入る前、トイレの個室にいたちょうど、どこかの女子生徒が噂していたのを偶然聞いていた。
「矢菱町には影のおばけがいるんだよ」
その時は呆れたが、それ以外ならよく目にするので、侮れない存在であることは確かだ。
窓をぼんやり眺めていれば、たまに目が合う。誰かと。自分ではない誰か。よくあることだ。
真彩は肩までの髪を揺らしながら階段をゆっくり降りた。一段、一段。冷たい風を受け、足をとんと地につける。
「ん?」
足元がひときわ冷たい。液体窒素のように視認できる冷感が足首を冷やした。立ち止まって顔を上げる。
そこには、青白い顔をした少年がいた。
「うわ」
思わず声を上げてしまい、慌てて口をふさぐ。だが遅い。少年と目が合い、その不鮮明で透明な姿に妙な罪悪感を抱いた。
透明の少年は、瞳に光はないが表情は穏やかで柔らかい。丸い目と、つややかな髪がなんだか爽やかだ。彼は驚いた表情のあと、ぱぁっと明るい笑顔をつくった。
「え、もしかして視えてる?」
少し反響した声が耳をかすめた。
「……視えてません」
「いやいやいや、視えてるよね? ってか、ちゃんと話もできるじゃん」
気まずい。どう逃げようか迷う。視線を這わせ、真彩はカバンにつけたうさぎのぬいぐるみを掴んだ。
「は、話してません……わたしは、この、グリーンラビットと話をしています」
緑色のファンシーなうさぎが窮屈そうにシワを寄せる。
それを見やり、少年の目が怪訝に細くなった。
「それはちょっと無理あるって」
「………」
これはもう収拾がつかない。バカなことをしていると自覚すれば恥ずかしくなり、真彩は乱暴にうさぎを離した。少年を睨みつける。
「幽霊くんに構ってる暇はないんだけど」
きっぱり冷たく突っぱねる。その態度の悪さに、幽霊の少年は一歩後ずさった。顔を引きつらせる。
「幽霊くんって、ちょっと失礼じゃない?」
妙なところを気にしている。威嚇に効果がないらしく、真彩はため息を吐いて腕を組んだ。
「馴れ合う気はないもん。あなた、幽霊でしょ。取り憑かれたら堪んないし」
少年は煙のような、触れたら消えてしまいそうな半透明だ。生きた人間とは言えない。しかし、ほかの今まで視た幽霊よりも鬱蒼とした暗さはなく、むしろ元気で明るい。
「せっかく視える人と会ったのに、そりゃないぜ」
彼は寂しそうに言った。肩を落として大げさに落ち込む。わざとらしくてもいくらか罪悪感が働き、真彩は眉をひそめた。
「……あのさ、あなた、本当に死んでるの? なんか、その割には元気そうだし、無害っぽい」
「元気だよ。生きてないってだけで」
「そう……」
あっけらかんと言われればどう反応したらいいか分からない。調子が狂う。もう逃げるべきだ。脱兎のごとく走り、振り切ってしまおう。真彩は右足を踏み出した。
「じゃあ……さようなら」
「え? ちょっと、待って!」
踏み出した足の前に冷たい足が飛び出す。反射的に避け、真彩は後ろに飛んだ。
「……帰りたいんだけど」
情けは無用。冷たく言い、今度は彼を避けるように前へ出た。冷たい足がまた追いかける。
「待って待って。ね、一旦落ち着こう。帰りながら話そう」
その提案は想定外だ。少年は真彩の前に飛び出していく。バタバタと階段を降りていき、階下で勝ち誇ったように笑う。
「はぁ……」
――面倒な幽霊に出くわしたなぁ。
真彩は肩を落とし、カバンを引きずるように歩いた。何故か、幽霊の後を追いかけながら。
一ノ瀬真彩は、幼い頃から幽霊が視えた。それは人ならざるものであり、かつて人であったものである。人をかたどった何か。そう認識するまでに数年はかかったが、そこまでの境地へ辿り着くのも我ながら物分りがいいのではないかと今日まで思っていた。幽霊と分かりあえることは今後もないだろうし、ましてや今でさえ関わりたくないと思っている。それなのに、この状況はどういうことだ。
真彩は自分の靴箱を開き、固いローファーを落とした。パーンと音が反響すると、少年は両耳を塞いで「うるさい」とアピールした。
「え、ごめん……?」
「なぜ疑問形……いや、いいよ、全然」
その割には、しかめっ面を見せてくる。
「幽霊って、音に敏感なの?」
真彩は素朴な疑問を投げた。
「さぁー? 他はどうかは知らないけど、俺は嫌いかなぁ」
「なるほど」
靴を替え、外に出る。燦々と降り注ぐ太陽は熱そのもので、皮膚を焼く。暑さから逃げようと腕を額に押し付ける。視界を前に向けると、遠い校門に影が立っていた。蜃気楼のように立ち昇る黒い影が手招きしている。
「……ねぇ」
「ん?」
彼は滑るように真彩の横を歩く。
「あなた、あの黒い影、視える?」
すっと人差し指を伸ばすと、少年は目を大きく開いた。
「何あれ!?」
耳の奥まで響き渡る絶叫に、今度は真彩が耳を塞ぐ。
「うーん……なんというか。黒い影としか言いようがないというか。この町の都市伝説でね、いるんだよ、そういうのが」
「何それ! 初耳なんだけど! めっちゃ怖そう! ってか、なんでそんなに落ち着いてんだよ!」
「あ、やっぱり視えるんだ」
彼の驚きようには興味ない。しかし、幽霊も都市伝説を怖がるというのは意外な発見だった。
「普通の人が視えたら、それくらい驚くのかな?」
「そりゃあね! だって腕だよ! 腕だけ! 怖いに決まってんじゃん!」
「幽霊にそう言われちゃ、都市伝説も冥利に尽きるだろうね」
「ぜんっぜん面白くないし! のんきなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど!」
そういうものか。あまりピンとこない。
「わたしにとっては日常なんだよ。幽霊も死も不幸も、全部が日常だから」
真彩は黒い影を見ずにそのまま校門を突っ切った。影は相変わらず手招きしているが無視して通り過ぎる。瞬間、おぞましい寒気が走り、嫌悪と憎悪が全身に回った。通り過ぎただけなのに。
じっと影を睨んでいると、幽霊くんが追いかけてきた。彼もまた影を避けている。
「待ってよ。まだ俺の話が終わってない」
軽々飛び越えて真彩の前に回ってくる。彼の冷気に少しだけ気が落ち着いた。
「え、話?」
「うん。そのために呼び止めたんだけど」
「はぁ……そう……」
ぼんやりと返事をして、真彩はすぐに口をつぐんだ。向かいから小学生の女の子たちが歩いてくる。それをやり過ごし、真彩は歩きだした。
静かな住宅街を行き、公園前を横切って、小路に入る。人前でおおっぴらに独りで話をするのは気が引ける。彼も気を遣っているのか、人がいそうな場所では話しかけなかった。
シャッターが降りた工場の前を過ぎ、小さな橋を渡る。誰もいなさそうだ。
「……幽霊くん。あなた、地縛霊じゃないのね」
唐突に話しかけると、彼は「え?」と気の抜けた返事をした。
「地縛霊?」
「ここまでついてきたってことは、地縛霊じゃないんだよね?」
「うーん……だと思うよ?」
曖昧な返事だ。真彩は眉をひそめた。
「地縛霊ってのは、例えば死んだ場所や思い入れのある場所から離れられなかったりする霊のことなんだけど」
「あぁ、そういう意味か。知らなかった」
彼は感心げにうなずいた。これには呆れる。幽霊本人が分かっていないとは。
「幽霊くんって、全然幽霊っぽくないね」
無気力に言葉を投げる。すると、彼は唇をとがらせて不満の表情を浮かべた。
「その幽霊くんっての、いい加減やめてくんない?」
「じゃあなんて呼べばいいの?」
どうせ今日限りなのだから、なんと呼ぼうがいいだろうに。
「サトルでいいよ」
人懐っこい笑顔で言う。それに面食らった真彩は口をぎゅっと結んだ。本当に幽霊らしくない。同級生と話しているような気分になり、なんだか急に恥ずかしくなる。
「……それで、サトルくん。わたしになんの用?」
そろそろ本題に入ろう。真彩の問いに、サトルは丸い目を丸くした。
「用っていうか……ちょうどいいからお願いを聞いてほしいというか。ほら、俺のこと視えるし」
「好きで視てるわけじゃない」
冷たく返すと、彼はへらっと気まずそうに笑った。
「まぁー……俺には時間がないらしいからさ、協力してほしいんだ」
「時間?」
「うん。時間がないんだ。本当は成仏したいんだけど、それができなくて困ってる」
「はぁ、成仏……」
真彩は初めて口にするかのように反復した。
透明だが、人の形をかたどって喋る同年代の少年が、当然のように「成仏したい」と言う。しかし、幽霊ならそれこそ成仏は当たり前のことであって、自動的に極楽浄土へ逝けるはず。それができないから困っている――
「ま、この生活も不自由はなかったんだけど。そういうわけにもいかないらしくて」
「はぁ」
「死んだあとも何かとルールが決まってるっぽくてね」
「ルール……?」
「だから、君には俺が死んだ理由を探してもらたいんだ」
その言葉がサクっと軽く、真彩の心を突き刺した。