矢菱町の図書館は町民センターの中に併設された建物だ。演芸ホールと図書館、託児所、会議室などが入った複合公共施設だが、規模は小さい。
 結局、膨大なインターネットではいくら検索をかけてもたどりつくことができなかった。それなら最初から頭にあった図書館で調べるしかない。それでも出てこないなら最終手段だが……これは避けたいところだ。
「新聞に載ってるものかね……」
 サトルはずっと乗り気じゃない。それでも真彩は足を速めて図書館を目指した。あの海岸沿いを通り抜けると、T字路がある。そこを左に曲がって道なりに進むと、矢菱町民公園があった。鬱蒼と茂る林を横目に、スマートフォンで地図を見ながら位置を確認する。
「小さな町だし、病気が原因じゃないなら事故だと思うの。それは結構、最初の方で考えてたんだけど……あ、あった」
 歩いていくと林の向こうに丸いドーム状の建物が見えた。公園内にあるので、そのまま入り口を突き抜ける。その後ろからサトルがついてきた。ノロノロと足取りが重たい。真彩は振り返って彼を見た。
「どうしたの?」
「いや……俺、怖いよ」
 しおらしく言われると、こちらも迷いが生まれる。真彩は彼のもとに戻った。
「だってさ、くだらねー理由で死んでたら嫌じゃん? 俺、納得できる自信ない……」
「くだらない理由なんてあるわけないでしょ」
 いつもより弱気なサトルに調子が狂う。確かに、自分の知らない過去を知るのは勇気がいる。真彩だってそれは同じことだ。もし、何か隠されているのなら――それを知ったとき、どうなってしまうんだろう。
「じゃあ、ここで待ってて。サトルくんが決心したら入ればいいし」
 こうなったら一人ででも行く。真彩は図書館に足を向け、サトルを気にしながらも建物の中に入った。
 初めてくる図書館は広く、古臭いにおいがした。ワンフロアに棚を敷き詰めているような空間で、人は多くない。学生が大半だったが子供連れの親子も見かけた。
 入り口付近の壁に案内板があり、それをじっくり眺める。時折、出入りする人がこちらを見ていたが気にせず、目当ての場所を探す。しかし、新聞のバックナンバーがある棚はどこにもない。
 真彩は中央カウンターに行き、タッチパネル式の検索機を探した。しかし、機械は置かれていない。図書館なんて初めて来るものだからどうしたらいいか困ってしまう。本屋に立ち寄るような気軽な考えでいたのが間違いだった。
「何かお探しですか」
 メガネをかけた黒髪の女性が声をかけてくる。
「あ、えっと……」
「本のタイトルを教えていただければこちらでお探ししますよ」
 何も答えられてないのに、女性司書は滑らかに事務的な言葉をかけてきた。そこまで言われれば逃げ場がどこにもない。真彩は緊張で声が裏返らないか不安になりながら、小さく口を開いた。知らない大人を相手にするとどうにも口がどもってしまう。
「あ、あの。えーっと……そのぉ、新聞を……」
「新聞ですか。いつ頃の?」
「いつ頃……」
「全国紙、ブロック紙、スポーツ紙、地方紙を置いてますが」
「あ、あの、この近所で起きた事件とか、そういうのが載ってるのでお願いします。七月から八月までの」
 うまく伝わったか自信がない。案の定、女性司書は怪訝な表情を見せた。
「少々お待ち下さい」
 カウンターの奥にある扉へ入っていく。しばらく戻ってこない。
 真彩はカウンターに手を置き、ゆっくりと深呼吸した。やっぱりサトルと一緒に入るべきだった。この際、カナトでもいい。つくづく自分が甘いことを痛感し、情けなくなる。
「お待たせしました。過去十年分、七月と八月の地方紙です」
 扉を開け、司書が戻ってくる。台車に積んだスクラップファイルがカウンター脇から現れ、真彩は驚いた。口元を引きつらせながら「ありがとうございます」と早口に言う。とりあえず上にあるファイルから持ち出し、誰もいない長机に陣取る。
 ファイルを開くと、古びた紙とインクのにおいが鼻を刺激した。大きな見出しだけを送り、パラパラと目ぼしいものだけを探す。どうやらファイルは昨年分から順に過去へさかのぼっていくらしい。
 一冊目は昨年分。大きな事件や事故のニュースはない。二冊目は一昨年。交通事故の記事がいくつか見つかったが、サトルのことではないようだ。
 一冊ずつさかのぼっていく度に緊張が気持ちを逸らせる。もしかすると、的はずれなことをしているのではないか。そんな焦燥にも駆られる。
 三年前もなし。この年は事件も災害もなく穏やかな夏だった。
 四年前。矢菱高校の陸上部が区大会で二連覇。矢菱高校という文字を見るだけで鼻の穴が膨らんだが、中身をざっと読んでみればそれらしいことは何も記述されていなかった。
 五年前。矢菱高校陸上部、区大会初優勝。そして、遊歩道施工の予算が下りず延期の発表。
 六年前。矢菱町民公園前の道路補整工事が町議会で決定。また、付近の横断歩道をバリアフリー化する議題が提案される。その記事にはあまり関心が持てず、次に目を移す。
 七年前。道路交通整備を強化。沿道の整備工事について、町議会の過半数支持を得た。
「………?」
 めくる手がわずかに止まった。沿道の工事なんてされていない。七年前にそんな決定がされていたなら、とっくに歩道ができているはずだ。ふと、五年前のファイルに戻った。「予算が下りずに延期」とある。交通事故を体験した身でもあり、なんとなく嫌な気分になった。
 八年前。一昨年の事故を受け、町議会は道路交通整備対策を公表するも議会内で賛否が分かれる。これにより矢菱高校の教師、生徒、保護者を含む署名活動が行われた。
「矢菱高校?」
 これが八年前の記事。真彩は堪らず九冊目を取った。
 九年前。どこにも詳細はなく、異常気象を取り上げるだけだった。肩透かしを食らった気分だが、まだ新聞は残っている。真彩はごくりとつばを飲み、指を曲げ伸ばしておそるおそるファイルを開いた。
「あれ?」
 ページをめくる手が早くなる。しかし、事件や事故に触れた記事は一切見当たらない。
「どういうこと?」
 八月三十一日まで、何らかの事故をほのめかした記事はない。真彩は何度もページを戻り、ファイルを開いたまま固まった。
「……調べ物は見つかりましたか」
 背後から声がかかり、すぐさま振り向くとカウンターにいたメガネの女性司書が立っていた。
「あ、いや、まだ……」
「バックナンバーはすべて所蔵していますが、どうしますか」
「えーっと……」
 考える。八月三十一日まで記事がないのなら、それ以外の八月上旬――いや、上旬なら下旬にもそれらしい記事がどこかにあるはずだ。だったら――
「あの、九月の新聞をお願いできますか? 十年前の九月です」
 ここまできたら引き返せない。目に力を込める。
 女性司書は腕時計を見た。
「少々お待ち下さい」
 司書は何か言いたそうな顔だったが、すぐにカウンターへ戻っていき、奥の所蔵庫へ入っていった。
 真彩は辺りを見回した。時刻はもう十七時を過ぎている。閉館時間だ。申し訳無さを感じつつも、知りたい気持ちが強い。サトルに何があったのかを知りたい。
「お待たせしました」
 司書が一冊のファイルを小脇に戻ってきた。そして、何も言わずにその場を離れていく。お礼を言おうと口を開くも、もう棚の影に隠れてしまった。
 九月一日の一面は高校野球の記事だった。なんとなく安心する。しかし、緊張感は高まる一方で、ページをゆっくりめくる。細かな文字が羅列され、あまり読む気にはなれない。どうしても太いゴシックや明朝の見出しだけに目を留める。二面、三面は経済状況や町議会の内容。斜め読みしていく。目が四面へ差し掛かる。そして、下段に小さく明朝体の見出しを見つけた。

『町民公園交差点で事故、男子高校生意識不明』

 ***

 どうやって図書館を出たのか覚えていない。ただ、目の前のベンチでサトルがぼんやりと座っているのが見え、堪らずそこから逃げ出した。
 ――どうしよう。
 サトルに見つからないよう、建物の裏手へ回る。心臓が忙しなく早鐘を打ち、止められそうにない。足は勝手に走っていき、公園から遠ざかる。
 ――わたしは、大変なことを知ってしまった。
 静まった空は水をたっぷり含んだような浅い群青だった。赤い夕陽が飲み込まれていく。風のない渇いた道を逃げるように走った。黒いアスファルトのカーブには車輪の痕がある。遊歩道のない沿道をひたすら走る。
 真彩は真っ直ぐに家路へ向かった。電車に乗り、改札を抜けて自宅マンションまで足が自然に歩いていく。頭の中はぐるぐるといろんなことが巡っている。絵の具を好き勝手に混ぜたような、色がもつれて黒ずんでいくような。
 暗くなった道をただひたすらに歩く。ゆっくりと、倒れないように気をつけて。体に何かのしかかるような重さがあったが、それがなんなのか考えもつかない。想像したくない。
 喪失の中、やっとの思いで家の鍵を開けると、珍しく玄関の灯りがついていた。リビングにも。
 真彩は廊下の板を踏みしめ、ふらつくように居間の扉を開けた。
「あ、真彩」
 珍しくこんな時間に父がいる。
「お前、いつもこんな時間に帰ってるのか。夏だからって高校生がフラフラと」
 そんな小言を受けて、真彩は前髪の隙間から目を覗かせた。父がすぐに目を背ける。その言動に、すぐ反感が湧いた。
「いつもはそっちが帰らないくせに」
「それとこれとは別だ。お前に何かあったら」
「いつもわたしを一人にしてるくせに」
 すぐに歯切れが悪くなる父。何を言えばいいかためらっている。だが、何を言いたいのか伝わらない。口だけの心配はいらない。
 真彩はカバンを床に放り投げた。突き抜けるような衝撃音がし、父は口を閉じる。
「仕事が忙しいって嘘でしょ。本当はお母さんのとこにいるんでしょ。なんで本当のことを言ってくれないの?」
 顔は上げられなかった。床を睨んでいると、目から涙が落ちてきた。木目がふやけていく。
 父から言葉はなく、時折、唸るようなため息が落ちてきた。答える意思がないのか、何か隠そうとしているのか。だったら、こちらから聞けばいい。
「ねぇ、お父さん」
 声は荒く、喉が震える。
「わたしが事故にあった場所、どこだったの?」
「何を急に……」
「ごまかさないで。どこだったの?」
 すると、父の足が弾かれるように動いた。真彩の肩に手を置く。
「誰かに何か言われたのか?」
 父の声と表情には衝撃が張り付いていた。その剣幕に驚くも、真彩はすぐに言い返した。
「先に答えて。どこだったのかちゃんと教えて」
 父の目が泳ぐ。絶対に目を合わせない。いつだってそうだ。いつの間にかお互いに拒絶し合うようになって、母のことも自分のことも家では禁句対象になった。
 もう言い逃れはできないと悟ったのか、しばらくの沈黙後、父は肩を落として言葉を吐き出した。
「……矢菱町民公園の、交差点」
「十年前の八月三十一日?」
「そう」
「その時、わたしをかばって亡くなった男の子がいたよね? 矢菱高校の西木覚くん」
 素早く言うと、父は顔を勢いよく上げた。ようやく合った目には恐怖の色があり、目尻のシワが深くなる。
「どうしてそれを」
「今日、調べた」
 答えはとっくに出ている。全部分かっている。でも、きちんと口から直接聞きたかった。父はそれでもごまかそうとしていたが、やがては観念したように項垂れた。
「……そうか」
 その声があまりにも絶望的なので、真彩は少しだけ怯んだ。頭の中は混乱しかなく、父がそこまでして隠したがる意味が分からない。思考はすでに正常ではない。
「――知らなくてよかったんだ」
 床にしゃがみこむ父はいつの間にか小さく見える。しおらしくされればこちらが悪いように思え、真彩は顔をしかめた。不愉快と苛立ちで頭が沸騰しそう。
「いいことないでしょ。わたしのことなのに。わたしのせいなのに」
「そうやって自分を責めるだろうから黙っていたんだ」
 かぶせるように言われ、すぐに口をつぐんだ。
「知らなくていいと遠ざけて、引っ越して、でも、起こってしまったことはどうにもならない。なんとか蒸し返さないようにするだけで精一杯だった。お母さんと話し合って決めたことなんだ。だから……分かってくれよ、真彩」
「分かんないよ、そんなの」
 受け入れたくない。頭では分かっていても、父がどんなに自分を思っているか理解しても分かりたくない。受け止められない。前なんて向けるわけがない。信じたくない。そうじゃなければいいのにと叶いもしない望みを捨てきれない。まだ立っていられるのが不思議だった。
 震えながらダイニングに行き、椅子に腰掛ける。引きずる音が耳障りなくらい、部屋は静かで暗すぎる。
 父もふらりと立ち上がり、椅子を引いて真彩と向い合せで座った。指を組み、暗い表情のままうつむいて口を開く。少し前に玄関で口論したときより、父の顔はやつれて見えた。
「……十年前、公園前の交差点で事故にあった。その時、高校生の男の子が真彩をかばって一緒に車に轢かれた。どっちも頭を強く打って意識が戻らなかった……そして、男の子は、亡くなってしまった」
 全身に力を込めていないと、聞いていられない話だった。それは父も同じで、指の関節が白くなるほどに手を強く握っていた。
「それで?」
 まだ話は終わってないはずだ。先を促すも、父の口は相当に重たかった。時計の秒針がうるさい。一秒が長く感じる。
「それで……向こうの親御さんには、お母さんと一緒に謝罪をしに行った。許されることじゃないと思ってたけど、でも、こっちもそれどころじゃなくて、幸いにも向こうもそれは分かってくれて、お互いには大事にならなかった」
 息が詰まる。耳を塞ぎたい。でも、知らなくてはいけない。もう引っ込みはつかない。
 時折、重たい息が落ち、咳払いでつっかえながらも父はゆっくりと静かに話した。
「でも、大事になったのはそれからだった。新聞で取り上げられてから、騒ぎが大きくなって……家に取材が来て、病院でも追いかけられて、それで……」
「お母さんが体調を崩したのはそれが原因?」
「あぁ」
「じゃあ、お母さんが自殺しようとしたのも、わたしがサトルくんと同じ学校を受験したから?」
「それは……」
 父は言葉を早々に諦めた。それだけで、何を言いたいのか分かってしまう。
 ――そういうことか。
 胸に残っていたしこりが無造作に転がる。そんな気持ち悪さが全身に回った。
 ――やっぱり、わたしが悪いんだ。
「……お父さん、ごめんなさい」
「謝るな。真彩は何も悪くない。頼むから、謝らないでくれ」
 そう思ってくれるなら――そんな無責任な言葉が出てきそうで口をつぐむ。
 ――そう思ってくれるなら、どうしてこっちを見てくれないの?
 もう絶対に戻れない。そんなところまで来ている。話し合えば解決するだなんて、甘いことを考えている場合ではなかった。自分は生かされて生きている。その重みがあまりにも苦しい。