八月、ぼくらの後悔にさよならを

 八月十一日は白かった。曇りでもなく、晴れでもない、中間のようなもやもやした天気で、それがどうにも自分の心模様と重なって気が滅入る。
 母が一時帰宅する前に、真彩は父から持たされたお金と三日分の荷物を持って電車に乗った。お盆の帰省ラッシュと重なり、子供連れが多かった。いつもは沈黙を互いに押し付け合った圧迫感があるのに、今は浮足立ってはしゃぐ陽気さがギュウギュウに敷き詰められている。その中で、真彩はぽつんと目を曇らせていた。
 海とは縁遠い山のふもとに祖母の家がある。私鉄窪駅から遠戸(とおど)駅まで一時間。駅前は閑散としており、箱に詰まっている楽しげな人々を見送って、真彩はトボトボと改札を抜ける。蒸し暑くも、コンクリートが薄い地域は気温がわずかに低いように思えた。
 静かな古い駅舎から出て、高さのない小さなビルやアパート、古い民家を横目にバス停まで行く。
 その道中、真彩は何度も背後を振り返っていた。蝉の声が降りしきるだけの道。誰もいないが、視線を感じる。背中を舐めるような感覚。人の少ない場所ではとくに感覚が研ぎ澄まされる。それは数年前から変わらずで、昔からここは魔の気配が強い。
 額に汗が浮かび、こめかみを伝って流れる。真彩は頭を振って先を急いだ。


 祖母の家はバスを乗り継ぎ、山の中腹まで登る。高齢者の乗客がまばらにいる一番最奥に陣取った。目をつぶっていること数分。バスは意外にもあっという間に停留所へ近づいた。
『三津目(みつめ)~、三津目~。お降りの方はお知らせください』
 ボタンをさっと押して降車の準備をする。バスが停まってすぐ、荷物を抱えて駆け降りた。
 あの視線は未だに消えない。真彩は心臓の鼓動が速くなっていくことを自覚していた。緊張と恐怖。幽霊は見慣れているはずなのに、反射的に怯えている。
 ――大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。
 幼い頃、自分で言い聞かせていた言葉を脳内で繰り返す。ぞわぞわと緊張感が一歩進むごとに増していき、その度に「怖くない」と言い聞かせる。
 坂を登り、足に疲れを感じていると、ようやく祖母の家が見えてきた。開けた土地には何軒か古民家が建ち並んでいる。その一つが祖母の家であり、父の実家だ。
 ひまわりと朝顔で敷き詰められた庭に気をつけながら入り、玄関のドアチャイムを鳴らす。ゴーンと錆びた音が鳴った。
「はあーい」
 祖母の甲高い声が扉の向こうから聞こえる。慌ただしくバタバタと駆け込む音のあと、扉が大きく開かれる。
「いらっしゃい、真彩ちゃん。久しぶり。大きくなったわねぇ」
 待ちかねていたような言葉もだが、丸く張った祖母の顔がちょうど目の高さと同じで驚いた。
 そして、黒い影がべったりと祖母の背中に張り付いており、真彩は思わず息を止めた。どうしてここにも影が。
「……疲れたでしょ。さ、上がって」
 顔を引きつらせたからか、何も言わないからか、祖母はすぐに怪訝そうな顔をして狭い框(かまち)を上がった。祖母はすぐに目を逸らしたが、影はじいっとこちらを向いたままだ。
 真彩は小さな声で「おじゃまします」と他人行儀に呟いた。
 父の部屋だった一間に通され、祖母が早々に部屋を離れてから、真彩は黒い床板に座り込んだ。古くてカビ臭い。学習机だけが部屋に似つかわしくない明るい木目。ここは祖母の近くよりはまだ空気が軽かった。
 折りたたみのベッドに、たたまれた布団が置いてある。前もって準備をしてくれ、待ちかねたように出迎えてくれる祖母の気持ちには応えたい。でも、優しい顔をして「気味が悪い」と言われたあの日のことを忘れてはいない。心の中に残ったままのしこりが転がるような気持ちの悪さを感じる。
 ――馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに。
 ふと、カナトの言葉を思い出す。彼にはサトルと岩蕗先生へ、祖母の家に泊まることを伝えてもらったが、あの胡散臭い先輩がきちんと伝えてくれるのかは正直不安だった。
「忘れてしまえ、かぁ」
 多分、過去のことも忘れてしまえばいいのだろう。そうやって消化していけば楽になれるのだろう。
「どうやったら忘れられるんだろ」
 床にうつ伏せで寝転ぶ。熱した体が冷たく固い床に押される。寝心地は悪いが、熱を冷ますにはちょうどいい。
 黒い木目を見ていると、記憶の中に吸い込まれそうだった。断片的に思い出す祖母の言葉と幽霊。確か、初めて視たのはこの家だ。なんと言ったかまでは定かじゃないが、祖母を怖がらせたのはよく覚えている。
 何度もしつこく言うから、ある日、祖母は金切り声で真彩を叱った。
 ――怖いこと言わないで!
 それは、言ってはいけないことなのだとようやく気がついた。確か、七歳の夏。それから、父は祖母の家から真彩を自宅に連れ帰った。
「……忘れたいのに」
 忘れられない。つらいものほどずっと残ったままで嫌になる。


 夕食は一緒にとらなくてはいけない。今日はまだ叔母が来ないらしく、祖母と二人きり。
 祖母の肩にいる黒い影を話すわけにはいかないので、真彩は黙ることに専念した。あれも後悔の怪物なのだろうが、生きた人間に取り憑くとは思わなかった。絶対に目を合わせてはいけない。じっと手元だけを見ていた。
 濃い味の煮物と白米、唐揚げとエビフライ、ワカメの味噌汁、ナスの煮浸し。豪華な夕食だ。しかし、食欲がないので箸がすすまない。祖母は呆れたようにため息を吐いていたが、真彩は顔を上げずに黙々とつまんだ。この生活をあと二日続けると思うと気だるくて仕方ない。
「――真彩ちゃん、もう高校生になったのね。早いわねぇ」
 唐突に明るげな声を出す祖母だが、真彩はこくりとうなずくだけにした。それでも祖母は諦めずに話しかけてくる。
「学校はどうなの? 楽しい? お友達できた?」
 他愛ない質問。しかし、答えがないのでやはり黙るしかない。祖母もこの気まずさをどうにかしようと必死だった。
「部活とか入ってるの?」
 首を横に振る。
「あら、そうなの。じゃあ勉強を頑張ってるのかな。小学校のときはあまりいい成績じゃなかったってお父さんから聞いてたけど、ちゃんと進学できたならそれでいいよねぇ」
「んー……まぁ、うん」
「真彩ちゃんはお父さんにそっくりなんだから、勉強も運動もそこそこできるはずなのよ。もうちょっと頑張ればできるはずって」
「………」
 会話がすぐに途切れてしまう。祖母は音を立てて味噌汁をすすった。
「……それで、お母さんの具合はどんな感じ?」
 祖母の声音がわずかに変わる。ひっそりと声を落とし、真彩を覗き込んできた。その視線から逃げるように椅子を引く。
「最近、お見舞いには行ってないって聞いてるんだけど。本当なの?」
 その質問に、真彩は「なるほど」とようやく合点した。
 祖母は五ヶ月前に母が自殺未遂を起こしたことを知らないんだろう。父に聞いてもはぐらかされるので、真彩から話を聞こうとしている。
 ――一度も見舞いに来ないくせに。
 真彩は唇を噛んだ。塩辛い味がした。箸を置く。
「……お母さんは、もう治らないって」
 顔は上げずに早口で言う。ふてぶてしく口元に冷笑を浮かべて。
「ちょっと前までは立ち直ってたの。でも、わたしが中学に上がってからしばらくして、また具合が悪くなったの。ずっとその繰り返し。よくなったり悪くなったりで、この間なんて、病室の窓から飛び降りようとしたんだから」
 祖母は信じられないと言うように息を飲んだ。
「え? ちょっと待って、真彩ちゃん、それ本当なの?」
「ほんとだよ。それで、わけを聞いたらさ、なんて言ったと思う?」
 口が止まらない。急に全身を熱が駆け巡り、それが原動力となって言葉が止まらない。
「真彩が悪いんだって、泣いてた」
 母が病室で泣く姿が鮮明に思い出される。中学を卒業したその日。あれきり、母には会えずにいる。どういう意味でそんなことを言ったのか、今となっては分からない。知りたくもない。考えて、悩んで、疲れてしまうと、自分が生きているだけで母を不幸にしているんだと気がついた。心にヒビが入っていく。
「真彩ちゃん、それは……嘘よ。絶対、お母さんは何も本気でそんなことは……」
「ううん。それも本当なんだと思うよ。お母さんはずっと、わたしのことを心配して、わたしのせいで壊れちゃったから」
 顔は多分、笑っている。でも、まぶたが震えている。声も震えた。喉の奥も震えた。さっと血の気が引いた。口にしてしまえば少しは楽になれるかと思ったのに、そうはならなかった。
 祖母はもう言葉を失っており、煮物に箸を伸ばしていた。真彩も居心地が悪くなり「ごちそうさま」と早々に食卓から逃げ出した。
 暗い部屋に潜り込む。ドアを閉めて、床板に身を投げた。黒い床に熱を吸い取ってもらう。一緒に記憶も持っていってほしいのに、嫌な記憶ほど頭から離れない。
 ――わたしが悪い。
 母が壊れたのも、父から遠ざけられているのも、幽霊が視えるのも、祖母に怖がられているのも、全部、あの事故のせい。自分のせい。そう思いたくはないけれど、自分のせいにしておかないと気が済まない。
 ――ねぇ、サトルくん。
 昨夜の彼を思い出す。
 ――やっぱり、わたしは生きていたくないんだ。
 頭の中の彼は、まだ叫んでいる。死にたくなかったと泣くサトルの顔を思い出すと、鼻の中が冷たくなった。
 ――でも、今さら死ぬ勇気もないから、わたしはどうしたらいいか分からない。

 ***

 暗い気持ちは苦手だから遠ざけていたのに、どうやらそういうわけにはいかないらしい。向き合うのが怖いから逃げていたのだと今さらながら気づいたサトルは、真彩の机に腰掛けていた。彼女を傷つけたことは忘れていない。しかし、罪悪感を抱えるにはこの体は脆すぎる。
 生きていたくない、と真彩から言われて一気に膨れ上がってしまったもの。溢れて出てきてしまったもの。それがまだ残っている。
「はぁぁぁぁ……」
 ため息と一緒に出ていってくれないか。そんな期待もすぐに裏切られ、ため息が落ちていく。そんな彼の背後にぬっと人影が現れた。
「わっ!」
 大声が教室に響き渡り、サトルは耳を塞いで机から飛び降りた。
「はぁぁ……なんだよ、お前かよぉ……びっくりさせんな」
 耳を塞いだまま悪態をつく。驚かせた張本人であるカナトは腹を抱えて笑った。
「あははは! 驚いてるねぇ。君、大きな音が苦手なんだっけ?」
「あぁ、そうだけど」
 不機嫌に答えてやる。
「それは昔から?」
「ん……? うん? そう、だったかな」
 すぐには思い出せない。大きな音は苦手だ。死んでからだったような。でも、大きな音は誰だって驚くと思う。爆発するような、突発的な衝撃音には何故か過剰にびっくりしている。
 カナトは探るように首を傾けて顔を覗いた。
「はっきりとは思い出せないみたいだな。それとも、忘れてるのかな?」
「どうだろ。ってか、そんなの今、関係なくない?」
「関係あるよ。あるある。君さぁ、もう少し自分のことを見つめ直したほうがいいんじゃないか?」
 偉そうに顎を反らせて言うカナト。今度はサトルが首をかしげた。
「……でも、思い出せないし。しょうがなくない?」
「そうやってすぐ諦めるから、怪物になりかけるんだよ。いいかい、サトルくん。円満に成仏する秘訣は後悔しないことだよ」
「うっわ、一番難しいこと言ってきた……」
 サトルは黒く濁った指先を隠すように握った。それでも、体のあちこちは黒い影が残っている。
「君は今までのんびり平穏に幽霊生活を送ってたんだろう? だったら、もう少しできるはずだ。真彩ちゃんと関わらなければなお良かったのに」
「いや、だって……」
 思えばそうだ。真彩を見つけて、話していたら、もう戻れなくなっていた。人と話すことの楽しさを思い出してしまった。一人でいることがこんなに心細かったなんて気づくこともなかった。仕方ないと割り切っていたものが捨てられなくなっていた。
 それはつまり、未練じゃないか。だから、真彩から離れられない。
「……たとえ怪物になっても、一時でも真彩の近くにいられるなら」
 言いかけてやめた。思わず口をついて出てきた言葉に自分でも驚く。それをカナトが聞き逃すはずがなく、怪しむように口を曲げた。
「それ、一番最悪なエンディングだね」
 口に手を当てて黙るサトルに、カナトの言葉は容赦ない。
「真彩ちゃんにも言ったけどさ、そうなった場合は僕が君を祓うよ」
「そっ、れは……」
 嫌だ。でも、消えてしまったほうがいいのかもしれない。そのほうがいい。本当なら、もうこの世に存在しないのだから。
 目を伏せて、諦めようと拳を緩めた。
「いや、それでもいい」
 投げやりに返すと、カナトは一歩近づいてきた。フードの下から苛立たしげに目を覗かせる。
「あぁもう、分かってないな。悪霊祓いってのは除霊なんだよ。浄化するんじゃなく、この世から跡形もなく無理やりに消滅させるんだ」
「無理やり……?」
「そう。言うなれば、幽霊を殺すということ。図書室の影を見ただろう?」
 水鉄砲で撃たれて消えたあの黒い影――呆気なく砕け散った誰かであったもの。あんな風に消えてしまうのは嫌だ。
「ま、君がそれでいいなら今からでもそうしてやっていいんだよ。悪霊予備軍の君にも対応は可能だし」
 そう言いながらカナトはポケットから小さな水鉄砲を出した。ちゃぽんと軽いしぶきの音が恐ろしく聞こえる。
「どうする? 今ここで死ぬか、真彩ちゃんの目の前で死ぬか。一回死んでるから慣れてるだろうけれどね、選ばせてやるよ」
 カナトの低い声。水鉄砲の照準を合わせ、引き金に指をかける。
「……どっちも嫌だ」
「おいおい、怖気付いたか。でももう遅い。君は今や、ただの未練がましい悪霊だ。それを僕が許すわけにいかない」
 一歩ずつにじり寄るカナト。そこに悪意は一切ない。使命感で働く彼の強い熱に、サトルは動けずにいた。
 とん、と胸に銃口が突きつけられる。逃げ場はない。握った拳が迷ってしまう。
「……なーんてね」
 水鉄砲が下に落ち、サトルはおそるおそる目を開けた。カナトが舌を出して笑っている。
「そんなことするわけないだろう。真彩ちゃんに殺される」
「お前ぇ……ほんと、お前さぁ……ビビらせんじゃねーよぉ……」
 ズルズルと床に落ちて情けなく安堵する。カナトは水鉄砲をポケットにしまい、機嫌よく机に座った。
「しかし、君は本当に未練がましいねぇ。昔はもっと短絡だったんじゃないのか?」
「そうだったんだけどな……」
 よろめきながら立ち上がる。雲間から覗く月をぼんやり見つめると、窓ガラスに映った自分の目が黄色だった。顔や体には影の斑点がいくつも浮かんでいて気が滅入ってくる。
「こんな状態なんだから、そりゃあ具合も悪くなるだろ」
 サトルは自嘲気味に口の端を伸ばして言った。
「戻れるなら戻りたいけど、気づいてしまったら戻れるわけないじゃん。俺は、死にたくなかった。未練しかない。それが本当の自分だ」
 声に力が入らず、口に出せば影が濃くなりそうで怖くなった。そんなサトルに、カナトはやはり空気を読まずに「あははは」と笑う。
「まぁ、それが幽霊の本質だからねぇ。未練がなきゃ、とっくに成仏して転生でもしてるよ」
「転生できるんだ」
「できるよ。人間になれるかどうかは分かんないけどさ。僕は死んだことないから、なんとも言えないね」
 いちいち癪に障る言い方をする。会話が面倒になってきた。
「さて、サトルくんよ」
「何」
 うんざりと返事すると、カナトは人懐っこく腕を肩に回してきた。手には黒いスマートフォンを持っている。
「真彩ちゃんに連絡してみない?」
「はぁ? なんで?」
 思わぬ提案に素直に驚く。目を丸く開けば、カナトは楽しそうにニヤけた。
「僕が代わりに打ってあげるから、なんか伝えてみればいい。ほらほら、遠慮はいらないよ?」
「お前さぁ、女子と気軽に連絡とれるってやばくない? 軽すぎだよ。そもそも女子と連絡先交換とか、あんまりしなくない?」
「出会ってすぐ名前を呼び捨てしておいて何を言ってるんだよ。それに、今どきSNSで気軽に繋がれる時代なんだから、同じ学校の後輩女子の連絡先くらい簡単に手に入るよ」
 カナトは軽快にスマートフォンを振った。それを半眼でまじまじと睨みつける。
「時代遅れだねぇ。君がスマホ世代じゃないのはよく分かったよ」
「うるせぇな」
 腕を振り払うと、カナトはつまらなさそうにスマートフォンの画面を開いた。顔を照らして、画面をスライドさせる。
「まぁ、君みたいな人にはSNSとか向いてないだろうな。知らなくていいよ」
 SNSの仕組みは実際、よく分かっていない。前にトークアプリを真彩に見せてもらったが、原理が分からずに考えることをやめた。メールの本文を打ち込み、送信するまでボタンを連打していたのが、今となってはガラスの画面をスライドするだけで、会話するようにメールができるらしい。
「よし。そんなわけで、真彩ちゃんに連絡してみようか」
「どんなわけでそうなるんだよ。てか、あんなことがあったばかりで、のんきに連絡できるかよ」
「意外と君も強情だなぁ……それじゃあ、僕からなんか話しかけてみよう」
 そう言うとカナトは素早く文字を打ち込んだ。気にしないようにしても、なんと送ったのか気になる。覗いてみると、カナトがいきなりスマートフォンをかざしてきた。すかさず「カシャッ」と軽いシャッター音。
「え? え、何? 何した、お前」
「写真を撮ってみた」
「なんで!?」
「真彩ちゃんに送るからだよ。まさかカメラ機能も知らないのか?」
「それくらいは知ってる!」
「じゃあ、分かるだろう。はい、送信」
 カナトの指がささっと動く。容赦がない。
「はぁ? ちょっと、待て! おい、カナト!」
 慌てて画面を触ろうとするも反応はない。固い電子機器をすり抜けてしまい、バランスを崩す。机に転がっている間、カナトは写真を送ってしまった。送信の速さが異常だ。
「……なぁ、それさぁ、心霊写真じゃねぇか?」
 ふと思ったことを口にする。くっきりと半透明な自分が映っているのがどうにも奇妙で、なんだか笑いだしたくなる。カナトも「うわ、ほんとだね」と、今気がついたように笑った。
「もうここまできたらなんか送ろうよ。ほら、なんか伝えたいこと言って。送るから」
「あー、もう、分かったよ!」
 いい加減に観念しよう。サトルは立ち上がり、真彩に送るメッセージを考えた。

 ***

 滞在中は外に出ず、部屋の中にこもっていた。叔母家族が到着しても顔を見せようとはしなかった。
 祖母と同じことを聞いてくるに違いない。母についてはもうこれ以上何も言いたくないし、言えば攻撃的になってしまうので無言を貫くことにする。夕食だけは顔を見せ、すぐに部屋へ逃げる。
 外は夏色で、セミがうるさい。それなのにこの家は暗く湿っている。温度差が激しいのは、山の中だからか。
「帰りたい……けど、帰りたくない」
 居場所がない。つかの間の心地良さが懐かしく、あの海の日に帰りたい。なんにも考えずにはしゃいだあの日に。
 今は前を向くのが億劫で嫌になる。息苦しくてつらい。
「喉かわいた……」
 余計な独り言を出さないと落ち着かない。真彩はこそこそと部屋から抜け出した。暗い廊下を忍び足で行く。陽が差さない階段を降り、居間へ向かおうとした時、階下から祖母の声が聴こえた。
「……真彩ちゃんにきちんと話すべきよ、いい? でないと、あの子まで体壊しちゃうでしょ」
 電話しているのだろうか。相手は父か。
「でもじゃない。ちゃんとご飯食べて、勉強させるの。遊びにも連れていってあげなさいよ」
 ――余計なお世話。
 ふてぶてしく脳内で毒づく。しかし、祖母の意外な一面を知り、真彩は悩んだ。記憶の中の祖母は嫌な人だったのに。
「……お母さん、兄さんなんて?」
 電話を切ったあと、叔母が居間の引き戸を開けて聞いた。しばらく見ない間に、叔母は一回りほど肉付きが良くなっている。
 真彩は階段に隠れて聞き耳を立てた。
「ダメ。まったく、啓司も頑固よね。すぐ意地になって聞きゃしない。真彩には自分でいろいろできるようにさせてるって」
「何よそれ、放ったらかしってことじゃない。理保さんのことで大変なのは分かるけど……あぁ、もう呆れた。真彩ちゃんだって寂しいだろうに」
「私たちが見てあげられなかったから、こんなことになってしまったのかしらね……」
 祖母の寂しげな声に、叔母はため息を吐いた。表情は見えない。
 ――今さらだよ、そんなの。
 真彩は階段をのぼり、飲み物を諦めて部屋に潜った。

 ***

 八月十四日は、気分とは裏腹に朝陽が美しい晴天の予感だった。
 早起きは苦手だが、荷造りをしようと冷たい床板に座っている。充電しないまま放置していたスマートフォンを慌てて充電し、落ちていた電源を入れる。画面に通知が何件か入っていた。
「……ん? カナト先輩ったら、また」
 何やら写真を添付してきているらしい。
『元気?』と短い文章と、その下にあるのはサトルの不機嫌そうな顔。
「え!?」
 思わず立ち上がりかけ、ベッドに腰を打ち付ける。思いっきり背中を擦ってしまい、痛みでうずくまる。もう一度スマートフォンを見やると、写真は変わらずこちらを見ていた。
「サトルくん……」
 影がすっかり薄くなった彼の顔色は明るいとは言えない。しかし、その顔が見られただけでも冷えた心が暖かくなった。
『真彩、帰ってきたら話をしよう』
 写真の下に言葉が浮かんでくる。カナトとのトーク画面だが、話しているのはきっとサトルなんだろう。
『この間はごめん』
 彼の気持ちは分かっているつもりだ。だから、謝ってほしいわけじゃない。
 話をしよう。でも、話すのが怖い。本当の気持ちをぶつけたら、彼もぶつけてくる。それを受け止められるか、自分に自信がない。まだ覚悟を決められない。
 真彩は親指を這わせ、キーパッドをゆっくりと押した。
「真彩ちゃーん? そろそろ出発だけど、準備できたー?」
 階下から叔母の声が聞こえる。バスの時間が迫り、家を出なくてはいけない。
 結局ほとんど言葉を交わすことなく、真彩は朝早くから祖母の家を出ることにした。見送りには祖母と叔母が玄関の前までついてきた。夕食の残り物をタッパーに詰め込んだものをたくさん渡されてしまい、思わず眉をしかめる。
「……なんか、ごめんなさい。こんなに」
 滞在中、無愛想にしていた申し訳なさがあり、またこんなに大量な料理を持ち帰るのが面倒だと思った。
「いいのよ。なんか、ちゃんと食べてるか心配だし。それに、普段は何もしてあげられないからね」
 叔母はあっさりと言った。祖母は遠慮がちに口角を伸ばして笑う。
「顔が見られてよかったよ」
 寂しそうな口ぶり。どちらも気にかけてくれているのは分かる。そして、気を使わせているのも分かる。
 もう少し話し合えば、二人とも分かり会えるのかもしれない。そんな期待をしかけるも、勇気が出ないのでうつむくしかない。そのまま頭を下げた。
「お世話になりました」
 玄関の扉を開け、ちらりと振り返る。祖母の肩にいた影が小さい。目をこすって見ていると、影がすっと空気に溶けていった。その不可解さに驚いていると、祖母が曖昧に笑ってきた。
「真彩ちゃん、またおいでね」
 遠慮がちな声だったが、祖母も叔母も柔らかな表情だ。固まっていた心が緩む。
「……うん」
 その笑顔に向けて手を振ると、なんだかお互いに許しあえたような気がした。


 帰ろう。早く帰って、学校に行きたい。
 サトルに「必ずすぐに帰る」と送ったきりで、気持ちが逸っている。
 いくらか静まったもやもやは、透けた体の中心でくすぶっていた。未だに残る嫌な感情がチクチク痛んで鬱陶しい。
 壁の上部にかけられた時計を見れば、九時を指していた。もし、真彩が来るならあと一時間待たなくてはいけない。サトルは真彩の隣の席に腰掛けた。まだら模様の姿を見られるのは正直、格好悪くて恥ずかしい。
「かっこわりぃーなぁー……」
 つくづく自分が情けない。感情的になるのは格好悪い。真剣な態度も格好悪い。あんな泣き言みたいな醜態を晒したことを思い出し、サトルは机に顔を落とした。そのまま机を突き抜けていき、床を呆然と見つめる。
 なんて謝ろう。昨夜はカナトにメッセージを送ってもらったけれど、きちんと自分の口から謝りたい。真彩は自分を責めているだろうから、余計に心配になる。
「おはよう! サトルくん!」
 扉を大きく開け放ったのはカナトだった。今日も絶好調に怪しい。サトルは顔を上げるのも面倒で、手だけ挙げて振った。
「あれ、なんで机に突き刺さってるんだ?」
「突き刺さってねぇよ、バーカ」
 思わぬ指摘にすかさず暴言を返す。カナトは構わず、真ん前の席にくると無遠慮に座った。そして机の下を覗き込んだ。
「せっかく真彩ちゃんが帰ってくるっていうのに、そんな調子でどうするんだ」
「えぇ……お前に励まされる日がくるなんて思わなかったわー」
「僕は善良だからね」
「どこがだよ」
 いけしゃあしゃあと返ってくる言葉には思わず笑ってしまう。
 顔を上げると、カナトも同時に起き上がった。
「ともあれ、話し合うってことに決めたんだろう? 僕としては君が悪霊にならないのが残念なんだけど、真彩ちゃんがこれからどうするのかを見届けたいし、こうなったらとことん付き合うよ」
「お前……本当にしつれーなヤツだよなぁ」
 サトルは疲れた声を投げた。
 現在、九時十五分。ふと、窓の外を見る。校門にいる影が人の形をつくり、ゆらゆらと大人しく漂っている。その様子をじいっと睨む。
「……あの影ってさ、結局誰の後悔なんだよ?」
 この間の暴走からやけに大人しいが、影の形は完全に人そのものだ。漂うだけで動きはとくにない。
「それに関しては現在調査中でね。僕も誰の影か探しているんだよ」
 カナトも校門の影を見ながら軽く言った。
「その口ぶりじゃ、見当がついてんじゃねーの」
「いいや。これといって全然」
「どうだか……」
 悪霊祓いに関しては容赦ないカナトのことだから、すでにいくつか目星はついているんだろう。そして、教えてくれと頼んでも教えてくれないんだろう。
 サトルはゆらりと立ち上がった。教室を出る。そろそろ真彩を迎えに行こう。

 ***

「おはよう」
 改札を抜けると、目の前にサトルがいた。半透明の中にところどころ影があり、彼の体はまだら模様だった。
 それを見ると動きが止まってしまい、真彩は眉を寄せて涙をこらえた。気を緩めたら感情が溢れ出してきそうで怖かった。
「……学校、行こっか。遅刻するぞ」
 何か言おうとするも、サトルが先に背を向けてしまった。そのあとを追いかける。ロータリーを横切って熱した道を歩いていく。
「……あの、サトルくん」
「んー?」
 彼はこちらを見ない。影に浸かった指先を隠すように拳をぎゅっと握っていた。
「体、大丈夫なの?」
「あぁ、うん。大丈夫、大丈夫。ちょっとグロいけど、全然大丈夫だよ」
 彼は至って平坦な声で言う。真彩は何を返せばいいか分からず、黙り込んだ。急いで帰ると言って、家に戻って学校へ行くまで何も考えずに「会いたい」と思うばかりだった。それがいざ会ってみると、言葉が出てこなくて自分が情けない。そして、サトルのことを少し怖いとも感じている。
「真彩……」
 人通りのない小路で、サトルの低い声が前に出た。足を止める。彼はまっすぐに真彩を見ていた。
「ひどいこと言って、ごめん。ごめんで済む話じゃないと思うけど、ごめん。本当にごめん」
「え……」
 ひどいことを言ったのはこちらもだ。真彩は思わず腕を伸ばした。彼が震わせている手を握ってやりたかった。包むように触ると溶けてしまう。
「……ごめんね、サトルくん」
 触れられないものだと分かっているのに、指はまだ掴もうとしている。
「わたしが悪いの。あんなことになったのは、わたしのせいだから……ごめんね」
 サトルの指が掴めない。もどかしくて堪らない。「ごめん」と短く簡単に済ませたくないのに、ほかに言葉が思いつかない。
 サトルは真彩の手から逃げるように手を引っ込めた。
「……正直、つらかった。真彩があんなことを言った理由が分からなかったから。でも、いろいろと抱え込んでるのは知ってるし、想像はつく」
 真彩も顔をうつむけて、指を引っ込めた。
 一歩進むと、彼も後ろへ下がり、ゆっくりと歩き出す。
「あのね、サトルくん――わたしが幽霊を視るようになったのは、事故に遭ってからなんだ」
 静かに小さな声で言った。サトルは黙ったまま、地面の小石を蹴ろうとしている。多分、彼は聞いてくれる。真彩はゆっくりと、自分の奥底に沈めていた記憶を引っ張り出した。
「十年前にね、交通事故に遭ったの。頭を打って、でも奇跡的に助かったんだって。実際、そのときのことは覚えてないから分かんないんだけど……それから、わたしは視えないものが視えるようになった」
 そこから始まるのは真っ暗な時代。周囲の人を怖がらせ、遠ざけられ、ついには両親からも見限られた。母は体調を崩し、入退院を繰り返す。そんな毎日。
 きっと、それまでは家族三人、仲が良かったはずだ。笑顔の絶えない明るい家庭だったはずだ。もしも、あの事故がなければ――何度も見た妄想の自分は能天気に笑っている。
「この前、話したでしょ。お母さんが高校に行けって言うから、お母さんのために受験したって」
「うん」
「本当にその通りだったんだけど、でも、中学の卒業式に……それこそ、合格発表のときに、お母さんが自殺しかけたの」
 桜の花びらとカーテンが揺れる景色は記憶に新しい。思い出すと、鼻の奥が痛んだ。顔を上げて涙を乾かす。
「真彩のせいだって、言われたの。それでその時、わたし、納得しちゃったんだよね。あー、わたしって生きてちゃダメだったんだなぁっ……て」
 声が詰まると同時に、腕に冷たい風が巻きついた。サトルが真彩の腕を掴む。
「もういい。分かったから」
「ごめん、こんな話して。でも、わたし、別に同情してほしいとかそういうわけじゃなくて、ただ、理由を説明しないと納得してくれないと思って、それで……」
 自分が嫌になってくる。こんなことなら、あの事故のときに死んでしまえばよかったのに、と何度思ったか分からない。
 不鮮明で半透明。それが自分。でもこのままだと、後悔が蓄積し濁っていく。空っぽにしないと壊れてしまいそうだ。
 サトルは怒った目をしている。その強い力に気圧されてしまいそうで、涙が落ちる。
「――なぁ、真彩」
 優しくはない、熱の入ったぶっきらぼうな声。
「俺、こういうとき、気の利いたこと言えないから無責任なこと言うけど……真彩には生きててほしいよ」
 その言葉には強い願いが込められていた。
「誰がなんと思おうと、俺はお前に生きててほしいんだよ。そりゃ、今までつらくて幸せじゃなくてもさ、でも、そんなのぜんぶ忘れて自分のために生きてほしいよ」
「そんなの……自信ない」
 出口が見えないのにどうやって生きていけばいい。答えが見えないから不安になる。
「じゃあ、これだけ覚えとけ。人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
 真彩は顔を上げた。サトルの真剣な顔が近い。目が合うと、彼は視線をわずかに下へ向けた。
「えーっと……これ、よく親に言われてて。そう言われて育ったというか、受け売りというか」
 何やらもごもごと口ごもる。
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない。そうすれば、自分に優しくなれるだろ……って言っても、説得力ないか」
 サトルは自分の指先を見て自嘲気味に笑った。
「自分が出来てないくせに偉そうに言っちゃったー……恥ずいー……」
「ううん、サトルくんは優しいし、全然できてると思うよ」
「いやいやいや、待って。ちょっとマジになりすぎて、冷静になったらすげー恥ずかしくなってきた。うわぁぁ……」
 サトルは顔を覆ってしまった。それを見ていると緊張していた肩が緩む。濡れていた目じりもとっくに乾いている。
 ――恥ずかしがることないのに。
 サトルは指の隙間からこっそり真彩の様子を窺っていた。
「まぁ……時間はかかるよ。でも、真彩には時間がたっぷりあるんだし、焦らなくていいと思う」
「ううん。サトルくん、この世に当然なんて存在しないよ」
 思わず彼の言葉を遮った。でも、気休めに「時間がある」なんて思ってない。
「確かに焦らなくていいと思う。けど、当然に明日がやってくるなんて思うのはよくないって分かったんだ。サトルくんのおかげで」
 最後の言葉はほんのり小さくなった。すると、サトルはようやく顔から手を剥がし、スッキリと笑った。
「それなら、ほどほどに焦って答えを見つけるしかないな」
「うん」
「よし! でも、当然はないってどっかで聞いた言葉……あ、岩蕗先生か」
 サトルは納得したように笑った。そして、すぐに顔を引きつらせる。
「……あれ? そういや、今何時?」
 その質問に、真彩も目を開く。カバンに入れてあるスマートフォンを出した。十時はとっくに過ぎていた。

 ***

 バタバタ教室に行くと、すぐさま岩蕗先生の長い説教を食らった。いつもは冷静沈着なのに、今日はかなり怒りっぽい。とにかく「連絡はとれるようにして」と何度も言われ、授業が始まったのは、十一時を過ぎた頃だった。
「えーと、それじゃあ教科書二十八ページを開いて。運動方程式の設問一から四までをおさらいします」
 先生が疲れた声で言い、背を向けて黒板に図を描いていく。
 それを申し訳なく見ていると、スマートフォンに通知が入った。カナトだ。
『サトルくんを外に出して』
 真彩はすぐに窓の外を見た。校門前に立つ黒い影と、それに対比する白パーカーが見える。
『サトルくんに用があるんだ』
 カナトはなおもメッセージを送ってくる。
 真彩はサトルを見た。そして、眉をひそめる彼に画面を見せた。トークアプリのふきだしに書かれた文字を、サトルは素早く読み取る。
「なんだろ……」
 嫌そうな顔をするも、サトルは案外素直に席を立った。教室を出ていく。それを黙って見送っていると、図形を書いていた岩蕗先生が声をかけてきた。
「一ノ瀬さん、ノートとってますか」
「あっ……すいません」
 このやり取りももう慣れてきた。それは先生も同じなのか、天井を仰いで息を吐くと教科書を閉じた。
「……もう。授業が聞けないなら、あなたの話を聞くわ。無断欠席の事情も聞きたいし」
 言い逃れできるほど甘くはないようで、真彩は視線を泳がせた。校門にはカナトとサトルがいる。二人とも、何をしているのか気になって仕方ない。しかし、今は岩蕗先生から逃げられない。
 真彩はこの数日間を思い返し、また校門に目をやり、半透明なサトルをじっと見つめながら言った。
「……先生、幽霊ってなんなんですか」
 脈絡のない質問だっただろう。でも、岩蕗先生なら答えてくれそうな気がしている。案の定、先生は思案顔で唸った。
「そうね……私が出した結論は人間の脳が起こしている錯覚、または妄想と幻想ね」
「今日はいつもより現実的ですね」
「世の中の大半はそれよ。非存在なの。でも、否定はできない。人が死に絶えてもなお、その魂が自我を保っているというなら、それは肉体と切り離された魂という存在だと言える」
「はぁ……」
 分かるような分からないような。
「もっと具体的に言えば、魂とはエネルギーのようなものよ。難しい話になるから簡単に言うと、このエネルギーは空や宇宙からくるもので、あらゆる有機物質が寄り集まって生命をつくりだしたの。こうして考えると、生命とはスピリチュアルなもので構成されているわね」
 本当に難しい話になってきた。真彩は頭を抱えた。対して、先生は意地悪そうに笑う。
「ところで、魂の重さって二十一グラムなのよ。知ってた?」
 それは聞いたことがない。思わず前のめりになる。
「人は亡くなると二十一グラム軽くなるという話があってね。亡くなったあとに体外へ出ていく水分が二十一グラム分だったという検証結果があるわ」
「なんだ……」
 答えを聞けば途端に冷めてしまう。真彩は唇をとがらせた。それに対しても、先生は顔色一つ変えない。
「そういう不可思議なことを考えて検証していけば、確実に答えは見つかるってことよ」
「……なるほど」
 真彩はとりあえず納得した。要は考えれば分かるのだ。すると、今度は先生から質問が飛んだ。
「一ノ瀬さんは、魂についてどう考えているの?」
 魂とは。先生の言うとおりなら、魂とは幽霊なのだろう。肉体から離れた思念。死んでいるのに生きているもの。でも、具体的にどう考えているかと問われれば、すんなり答えは出てこない。
「……分かりません」
「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたは幽霊をどう捉えてる?」
「え……?」
 自分がした質問がそっくり返ってくるとは思いもしない。真彩は「うーん」と考え、慎重に口を開いた。
「生きていた人の、後悔?」
「後悔……つまり、その人の未練ね」
「だと思います」
「それでいいと思うわよ。答えは」
 先生は教卓にもたれ、張っていた肩を緩めた。囁くような声は、授業中に見せる圧がない。
「何かを迷っているなら、見方を変えればいい。分からないなら違うルートを考えればいい。原点に帰って観測し、考える。そうすれば必ず答えにたどり着けるはずよ」
 そう言い放ち、先生は黒板に描いた図を指した。

 ***

 一方、その頃、サトルは警戒しながら校門へ近づいていた。
「お、きたきた」
 今朝ぶりのカナトが手招きしてくる。影もこちらをじっと見ている。真彩ほどではないが、サトルもこの影には嫌悪を抱いていた。自身に点在する影と同じだからだろうか。
「用ってなんだよ」
「うん、ちょっとね。僕なりに事件解決の糸口を掴んだんだけれど、僕よりも君にその役目をお願いしたいなぁと思って」
「はぁ」
 話が急すぎてついていけない。サトルは腕を組んでうなった。しかし、思考する隙も与えず、カナトの口は滑らかに動く。
「この影の正体を突き止めたんだ。うまくいけば、君の成仏も同時に済みそうだよ」
「マジかよ」
 信用は未だにないが、成仏はともかく、真彩を困らせる影をどうにかできるのならそれはすごいことだと思う。サトルは一歩近づいた。
 黒くうごめく影は、成長を続けている。ここまで染まっていれば除霊しか手はないだろう。しかし、カナトは除霊をしない。悪霊祓いを生き甲斐にしている割には慎重だ。
「で、こいつの正体って? 誰の影なんだ」
「真彩ちゃんだよ。これ」
 カナトの言葉があまりにも静かだったので、危うく聞き逃すところだった。だが、耳には引っかかったらしい。
「真彩……?」
「そう。真彩ちゃんそのものであり、別のものでもある。彼女が無意識に切り離した後悔の怪物だったんだ」
 言ってることが分からない。どういう意味か頭で処理ができない。そんなサトルを置き去りに、カナトは感心げに続けた。
「影っていうのは、人間の裏側なんだね。肉体が死んでいようがいまいが関係ない。生きている人間を食べる、っていう話はあながち間違いじゃないんだろう……影に飲まれかけた君には分かるはずだ」
「――え、自分を調べる?」
 帰り道、サトルが脈絡なく言ってきたのをそのまま繰り返して、真彩はキョトンと目を開いた。
「自分のこと検索してもヒットするわけないじゃない」
「なんでネットで調べる前提なんだよ。そうじゃなくて、ほら、いろいろあるだろ。お父さんに話を聞くとか、おばあちゃんや親戚に……って、嫌そうな顔をするな」
 真彩は険しい表情でサトルを睨んでいた。慌てて目を逸らす。
「……話かー。でも、お父さんは話してくれないよ。この間、おばあちゃんがお父さんに電話してたっぽいけど、なんか、ちゃんと話したほうがいいとかなんとか」
 真彩は祖母の家にいる時に聞いたものを思い出した。
「それだ!」
 サトルが大声を上げる。何がなんだか分からない。
「いや、だから、真彩はなんか誤解してるんだよ。親が子供にひどいこと言うなんてさ、よっぽどの理由がないとそうはならないだろ」
「ひどいことを言う親も世の中にはいるんだよ」
 真彩は目を細めて言った。サトルの口角が一気に下がっていく。
「……うーん、でもそれはそうかもしれないね」
 話を聞くというのは一番効率がいい。祖母も父に「きちんと話せ」と言っていたことも含め、父が何かを隠しているのは前々から怪しんでいたものだ。向き合うのは怖い。でも、ぶつかりあっても無意味なだけだ。向こうの出方次第では冷静に話し合いができるかもしれない。
 原点に帰って観測する。違うルートを考える――そうして答えが見つかるのなら、そうするべきだ。
「――じゃあ、サトルくんもお母さんから直接聞いてみたらいいんじゃないかな」
 ふと思いついたことを言ってみる。思わぬ提案にサトルの丸い目が広くなった。
「え? 俺?」
「うん。だって、そうしたほうが早いでしょ。死因の特定」
「死因の特定……それは確かにそうだなー……」
 一時の間。そして、同時に顔を見合わせて眉間にシワを寄せた。
「どうやって聞くんだよ」
「ごめん。わたしも言ってから気がついた」
 この思いつきはすぐに却下となった。仕方なく、真彩はおもむろにスマートフォンを出した。すかさずサトルが聞く。
「何してんの?」
「検索」
 当然のように返すと、サトルが慌てて画面に手をかざしてきた。
「ちょっと待て! そんなあっさり調べる? 俺の心の準備が全然できてないんですけど!」
「だって、早いほうがいいじゃない。わたし、サトルくんがまたあの影になっちゃうの、嫌だもん」
「そうだけど!」
 サトルはもどかしげだった。煮え切らない。でも、早急すぎたかもしれない。真彩はスマートフォンをカバンにしまった。
「じゃあ、サトルくんがいないところで調べるよ。何も出てこなかったら図書館に行くし、サトルくんのお家にも行く。それでいい?」
「それは……まぁ、それでいいけど。ってか、なんで急にそんなやる気に」
 彼の疑問はもっともだろう。真彩は視線を上にずらして思案する。でも、いくら理由を考えても分からない。いや、理由なんていらないんだと思う。
「わたしがそうしたいから、じゃないかな」
 出てきた答えは笑ってしまうくらい曖昧で、でも揺るぎない。

 ***

 八月も後半に差し掛かれば、陽が傾くように気温も傾きはじめた。だが、暑いことには変わりない。
 道路に落ちたセミの死骸を避けて歩き、渇いたアスファルトの熱を靴底で吸い取っていく。そんな日常も慣れてきた。影も大人しく、不気味さには慣れないがやりすごすことができるようになった。
 もしかすると、新学期から毎日登校できるかもしれない。そんな期待をしていたが、登校日の学校は賑やかさに拍車がかかった。人がたくさんいるというだけで圧倒される。日に焼けた肌が眩しく、楽しげな空気に足がすくむ。
 真彩はすぐに教室から離れ、一目散にトイレへ駆け込んだ。しかし、そこにも女子生徒が多く集まっているので慌てて引き返す。人がいない場所がなく、どこもかしこも浮足立った生徒であふれている。
「むりぃ……」
 学校に行き慣れたからといって、人に慣れたわけじゃない。むしろ、あの静けさが恋しくて堪らない。唯一人がいない場所と言えば、屋上に続く階段だけ。迷わず避難することにした。
「おい、真彩。何やってんだよ、そんなとこで」
 呼ばれて顔を向けると、サトルが階下で仁王立ちしていた。探しにきたのか、あの人混みの中を追いかけてきたのか。こちらもなんだか疲れた様子だ。
「……まぁ、ちょっとね」
「教室に人がいっぱいいるから?」
 すかさず図星を突かれる。真彩は目を細めて苦笑いした。
「俺はああいう空気、好きだったけどなぁ」
「あーね。サトルくんって陽キャ属性だもんね」
「ん? なにそれ?」
「なんでもない」
 たまに話が噛み合わないのは、なんとなく感じている。真彩はここ数日考えていたことを頭の中で整理した。
「……サトルくん」
 舌をゆっくり転がしながら言葉をつくる。
「あのね。わたし、今日は図書館で調べてみようと思ってるんだ」
「図書館? なんで?」
 目を向けると、彼はキョトンとした目でこちらを見ていた。
「新聞のバックナンバー。他にも、調べる手はいくつかあるよ。サトルくんはここの在校生だったから、学校にも記録があるはずだし、やろうと思えばいくらでもできるの」
 しかし、真彩は浮かない顔のままでいた。もやもやと気が晴れない。やる気は起きないが、また別の悩みがあった。
「でもね、いくら証明したところで、サトルくんが納得できるとは思ってない」
 サトルは驚いた瞼をゆるゆると下ろした。そして、小さく笑う。
「うーん……要は俺が納得できるかどうか、それが問題なわけだ」
「うん」
 サトルの影はまだ残っている。それを取り除くのはもう無理だろう。それでも、きちんと解明しなくてはいけない。どうして彼が死ぬに至ったのか。その理由を知りたい。そして、自分のことも知らなくてはいけない。こちらのことは後回しにしてしまっている。
「真彩はどうなんだよ」
 ちょうど考えていたところにサトルが目ざとく聞いてきた。言葉に詰まる。
「や、そこは、ちょっと……まだお父さんと会えてないから」
 しどろもどろに返すと余計に怪しい。サトルの探るような目が痛い。
「なぁ、真彩」
「はい……」
「もうすぐホームルーム始まると思うんだけど、戻らなくていいの?」
 親指で廊下を指すサトル。そのちょうどにチャイムが鳴る。真彩は手すりを握って固まった。
「やだ、行きたくない」
「ダメ。行ってきなさい」
 かしこまった口調で言われるが、こちらも負けてはいられない。激しく首を横に振って動かないアピールをする。
「やだやだ。帰る。もう帰る!」
「すぐ終わるだろ。いいから行って来い!」
 サトルの指がふわっと首を触る。氷を当てられたような鋭い冷たさに思わず立ち上がる。
「やめてよ!」
「じゃあ教室に戻れ」
 ビシッと扉を指すサトル。その顔はふざけたようなしかめっ面だった。それにはもう敵わない。
「……分かりました。分かりましたよ、まったく。あーもう、帰りたい。だるいだるい帰りたーい」
「いいからさっさと行け」
 扉を開けて、むくれ顔を向けてやる。サトルは追い払うような仕草をした。それを冷やかすように笑い、重たい足を教室に向ける。
 校舎の中にいると耳がうるさい。真彩は冷えた首筋をなぞりながら、壁伝いに教室へ向かった。

 ***

 真彩が壁を這うように教室へ戻るのを見届けて、サトルはすぐに二年三組の教室へ向かった。制服を着崩した連中はクラスに何人かいるが、この真夏日にもパーカーのフードをかぶったままの生徒は本当に目立つ。意外とあっさり見つかった。
「おい、カナト」
 カナトは大人しく机に寝そべっていたのだが、サトルが目の前に現れた途端に顔を上げた。
「おぉ、サトルくん。遠路はるばるようこそ」
 寝ぼけ眼であくびを噛みながら言う。そんなカナトにクラスメイトたちは気にしていないようだ。それならこちらも遠慮なくここで話をしよう。
「真彩が図書館で俺の死因を調べるってさ」
「ん? んん? え、なんで?」
「とぼけんな」
「とぼけてないよ。寝ぼけてるだけ……あぁ、OK。そう怖い顔するな」
 小さく両手を挙げて笑うカナト。彼は咳払いし、考えるように言った。
「えーっと、つまり、真彩ちゃんが突然行動を起こしたものだから、僕が絡んでるんじゃないかと疑っているわけだ。なるほど」
「お前じゃねーの?」
「だから言っただろう。僕は君に真彩ちゃんのことを頼んだんだ。僕じゃ役不足だからね」
 確かに、カナトは先日、校門の影を前にしてそう宣言した。

「僕の目的はね、そもそもあの影が誰なのかを調べることだった。最初は君のものだと思っていたんだよ。でも、影を切り離す幽霊なんて前代未聞。そしたら、色々と見えてきた。その決定打となったのがサトルくん、君の暴走だ」
 早口に説明される。
「あの時、君の体内には黒い影が渦巻いていた。ということはつまり、君は普通の幽霊で、負の感情に飲み込まれかけていたんだよ。そうなれば、じゃああの影は誰かって話になる」
「俺が影に飲み込まれそうになったとき、あの影は……」
「校門にいた。て言うか、ずっとそこにいる。そして、干渉したところで中身は空っぽだった。全然視えなかったんだよ、こいつの記憶が」
 カナトは忌々しげに影を指差した。
「僕は幽霊に触れられる、干渉できる体質だ。僕には、真彩ちゃんよりもいろんなものが視えるんだよ」
 サトルはごくりとつばを飲んだ。恐れと不安がよぎり、指先にある影がわずかに揺らぐ。
「この影には記憶がない。というか、後悔と不安、恐怖という感情だけがここに置き去りにされている状態だ。それは幽霊じゃない。悪霊でもない。正体不明の怪物だった。でも、真彩ちゃんの昔話を聞いて確信した。これは彼女なんだって」
 衝撃的な真実にサトルは肩を落とし、しゃがみこんだ。頭を抱える。
「えーっと、じゃあつまり? この影は真彩自身のもので、真彩が捨てた怪物ってこと?」
「そう。人間の裏側、すなわち影。生きた人間が影を消化せずに捨てるっていうのは良くないことだ。でも、ここまで膨れた影を一気に返すと彼女の体は耐えられないだろう」
「……返したらどうなる?」
 あまり考えたくない。サトルはしゃがんだままでいた。
「壊れるだろうな。確実に」
 頭にカナトの声が無情に振ってくる。サトルは細い息を吐いた。努めて冷静でいようと耐える。
「どうにかならないのか? 除霊、だっけ? そういう、なんかお前の力か何かで」
「除霊したら、今度は彼女の記憶や感情が危うい。生身の人間にそんなことをしたら、魂が死んでしまうかもしれない。君は真彩ちゃんを廃人にしたいのか」
「んなわけねぇだろ!」
 思わず声を荒げると、影が腕にまで達した。こちらも猶予はない。
「まぁ、君はそう言うだろうね」
 カナトは悪びれずにさらっと言った。だが、視線はいつになく険しい。
「……どうしたらいい?」
 何かできることはないか。打つ手はあるはずだ。真彩が何かを克服したらもしかすると、影が消えるかもしれない。そんな希望をいくつも考える。それがたとえ浅はかなものだとしても、真彩を助けたい。そこに理由なんてない。
「一番いいのは、真彩ちゃんが抱える後悔の原点を知ることだね。そして、その解決。要は、彼女が認めれば済む話。その説得を君に任せるよ」

 思い返すも、やはり無理難題を言っている気がする。でも、それしか方法がないのなら真彩に認めさせるしかない。
「僕が動かずとも彼女は答えを見つける気なんだよ。誰に言われたってわけじゃなく、自分で決めたんだ」
「……それが本当ならいいけどさ」
 渋々納得する。カナトの言葉は信用できないのに、妙な説得力がある。認めたくはないが。
「――サトルくんよ」
 机に寝そべったまま、カナトが言う。なんだか邪推するように粘っこい目つきだった。
「未練の上に未練を重ねてどうするんだ。偉そうに僕を咎める前に、まずは自分の気持ちをはっきりしなよ。君は、真彩ちゃんのことが好きなんだろう?」
 確信ありげな言葉と人差し指を真っ直ぐ胸に突きつけてくる。
「……へ?」
 思考が止まった。こちらの真剣さとは真反対の話題に、頭が追いつかない。
「ん? 違うの?」
 カナトの指が残念そうに下がっていく。
「てっきりそうだと思ったのに」
「はぁ? おまっ、お前、何言ってんの!?」
 慌てて周りを見回したが、こちらに注目する生徒はいない。それなのに恥ずかしさが顔に集中する。
「んなわけ、ないだろ! 意味わかんねーよ!」
 感情と声が同時に上ずった。それを見て、カナトは頬杖をつき、遠い目をした。
「ガキだなぁ……」
「うるせーな! いいか! それ、真彩に言ったら、」
「言ったら?」
「……えーっと……呪う?」
 我ながらバカなことを言っていると思う。
「そいつは恐ろしいや」
 カナトはもう相手にするのも面倒だと言いたげに、机に伏せてしまった。
 矢菱町の図書館は町民センターの中に併設された建物だ。演芸ホールと図書館、託児所、会議室などが入った複合公共施設だが、規模は小さい。
 結局、膨大なインターネットではいくら検索をかけてもたどりつくことができなかった。それなら最初から頭にあった図書館で調べるしかない。それでも出てこないなら最終手段だが……これは避けたいところだ。
「新聞に載ってるものかね……」
 サトルはずっと乗り気じゃない。それでも真彩は足を速めて図書館を目指した。あの海岸沿いを通り抜けると、T字路がある。そこを左に曲がって道なりに進むと、矢菱町民公園があった。鬱蒼と茂る林を横目に、スマートフォンで地図を見ながら位置を確認する。
「小さな町だし、病気が原因じゃないなら事故だと思うの。それは結構、最初の方で考えてたんだけど……あ、あった」
 歩いていくと林の向こうに丸いドーム状の建物が見えた。公園内にあるので、そのまま入り口を突き抜ける。その後ろからサトルがついてきた。ノロノロと足取りが重たい。真彩は振り返って彼を見た。
「どうしたの?」
「いや……俺、怖いよ」
 しおらしく言われると、こちらも迷いが生まれる。真彩は彼のもとに戻った。
「だってさ、くだらねー理由で死んでたら嫌じゃん? 俺、納得できる自信ない……」
「くだらない理由なんてあるわけないでしょ」
 いつもより弱気なサトルに調子が狂う。確かに、自分の知らない過去を知るのは勇気がいる。真彩だってそれは同じことだ。もし、何か隠されているのなら――それを知ったとき、どうなってしまうんだろう。
「じゃあ、ここで待ってて。サトルくんが決心したら入ればいいし」
 こうなったら一人ででも行く。真彩は図書館に足を向け、サトルを気にしながらも建物の中に入った。
 初めてくる図書館は広く、古臭いにおいがした。ワンフロアに棚を敷き詰めているような空間で、人は多くない。学生が大半だったが子供連れの親子も見かけた。
 入り口付近の壁に案内板があり、それをじっくり眺める。時折、出入りする人がこちらを見ていたが気にせず、目当ての場所を探す。しかし、新聞のバックナンバーがある棚はどこにもない。
 真彩は中央カウンターに行き、タッチパネル式の検索機を探した。しかし、機械は置かれていない。図書館なんて初めて来るものだからどうしたらいいか困ってしまう。本屋に立ち寄るような気軽な考えでいたのが間違いだった。
「何かお探しですか」
 メガネをかけた黒髪の女性が声をかけてくる。
「あ、えっと……」
「本のタイトルを教えていただければこちらでお探ししますよ」
 何も答えられてないのに、女性司書は滑らかに事務的な言葉をかけてきた。そこまで言われれば逃げ場がどこにもない。真彩は緊張で声が裏返らないか不安になりながら、小さく口を開いた。知らない大人を相手にするとどうにも口がどもってしまう。
「あ、あの。えーっと……そのぉ、新聞を……」
「新聞ですか。いつ頃の?」
「いつ頃……」
「全国紙、ブロック紙、スポーツ紙、地方紙を置いてますが」
「あ、あの、この近所で起きた事件とか、そういうのが載ってるのでお願いします。七月から八月までの」
 うまく伝わったか自信がない。案の定、女性司書は怪訝な表情を見せた。
「少々お待ち下さい」
 カウンターの奥にある扉へ入っていく。しばらく戻ってこない。
 真彩はカウンターに手を置き、ゆっくりと深呼吸した。やっぱりサトルと一緒に入るべきだった。この際、カナトでもいい。つくづく自分が甘いことを痛感し、情けなくなる。
「お待たせしました。過去十年分、七月と八月の地方紙です」
 扉を開け、司書が戻ってくる。台車に積んだスクラップファイルがカウンター脇から現れ、真彩は驚いた。口元を引きつらせながら「ありがとうございます」と早口に言う。とりあえず上にあるファイルから持ち出し、誰もいない長机に陣取る。
 ファイルを開くと、古びた紙とインクのにおいが鼻を刺激した。大きな見出しだけを送り、パラパラと目ぼしいものだけを探す。どうやらファイルは昨年分から順に過去へさかのぼっていくらしい。
 一冊目は昨年分。大きな事件や事故のニュースはない。二冊目は一昨年。交通事故の記事がいくつか見つかったが、サトルのことではないようだ。
 一冊ずつさかのぼっていく度に緊張が気持ちを逸らせる。もしかすると、的はずれなことをしているのではないか。そんな焦燥にも駆られる。
 三年前もなし。この年は事件も災害もなく穏やかな夏だった。
 四年前。矢菱高校の陸上部が区大会で二連覇。矢菱高校という文字を見るだけで鼻の穴が膨らんだが、中身をざっと読んでみればそれらしいことは何も記述されていなかった。
 五年前。矢菱高校陸上部、区大会初優勝。そして、遊歩道施工の予算が下りず延期の発表。
 六年前。矢菱町民公園前の道路補整工事が町議会で決定。また、付近の横断歩道をバリアフリー化する議題が提案される。その記事にはあまり関心が持てず、次に目を移す。
 七年前。道路交通整備を強化。沿道の整備工事について、町議会の過半数支持を得た。
「………?」
 めくる手がわずかに止まった。沿道の工事なんてされていない。七年前にそんな決定がされていたなら、とっくに歩道ができているはずだ。ふと、五年前のファイルに戻った。「予算が下りずに延期」とある。交通事故を体験した身でもあり、なんとなく嫌な気分になった。
 八年前。一昨年の事故を受け、町議会は道路交通整備対策を公表するも議会内で賛否が分かれる。これにより矢菱高校の教師、生徒、保護者を含む署名活動が行われた。
「矢菱高校?」
 これが八年前の記事。真彩は堪らず九冊目を取った。
 九年前。どこにも詳細はなく、異常気象を取り上げるだけだった。肩透かしを食らった気分だが、まだ新聞は残っている。真彩はごくりとつばを飲み、指を曲げ伸ばしておそるおそるファイルを開いた。
「あれ?」
 ページをめくる手が早くなる。しかし、事件や事故に触れた記事は一切見当たらない。
「どういうこと?」
 八月三十一日まで、何らかの事故をほのめかした記事はない。真彩は何度もページを戻り、ファイルを開いたまま固まった。
「……調べ物は見つかりましたか」
 背後から声がかかり、すぐさま振り向くとカウンターにいたメガネの女性司書が立っていた。
「あ、いや、まだ……」
「バックナンバーはすべて所蔵していますが、どうしますか」
「えーっと……」
 考える。八月三十一日まで記事がないのなら、それ以外の八月上旬――いや、上旬なら下旬にもそれらしい記事がどこかにあるはずだ。だったら――
「あの、九月の新聞をお願いできますか? 十年前の九月です」
 ここまできたら引き返せない。目に力を込める。
 女性司書は腕時計を見た。
「少々お待ち下さい」
 司書は何か言いたそうな顔だったが、すぐにカウンターへ戻っていき、奥の所蔵庫へ入っていった。
 真彩は辺りを見回した。時刻はもう十七時を過ぎている。閉館時間だ。申し訳無さを感じつつも、知りたい気持ちが強い。サトルに何があったのかを知りたい。
「お待たせしました」
 司書が一冊のファイルを小脇に戻ってきた。そして、何も言わずにその場を離れていく。お礼を言おうと口を開くも、もう棚の影に隠れてしまった。
 九月一日の一面は高校野球の記事だった。なんとなく安心する。しかし、緊張感は高まる一方で、ページをゆっくりめくる。細かな文字が羅列され、あまり読む気にはなれない。どうしても太いゴシックや明朝の見出しだけに目を留める。二面、三面は経済状況や町議会の内容。斜め読みしていく。目が四面へ差し掛かる。そして、下段に小さく明朝体の見出しを見つけた。

『町民公園交差点で事故、男子高校生意識不明』

 ***

 どうやって図書館を出たのか覚えていない。ただ、目の前のベンチでサトルがぼんやりと座っているのが見え、堪らずそこから逃げ出した。
 ――どうしよう。
 サトルに見つからないよう、建物の裏手へ回る。心臓が忙しなく早鐘を打ち、止められそうにない。足は勝手に走っていき、公園から遠ざかる。
 ――わたしは、大変なことを知ってしまった。
 静まった空は水をたっぷり含んだような浅い群青だった。赤い夕陽が飲み込まれていく。風のない渇いた道を逃げるように走った。黒いアスファルトのカーブには車輪の痕がある。遊歩道のない沿道をひたすら走る。
 真彩は真っ直ぐに家路へ向かった。電車に乗り、改札を抜けて自宅マンションまで足が自然に歩いていく。頭の中はぐるぐるといろんなことが巡っている。絵の具を好き勝手に混ぜたような、色がもつれて黒ずんでいくような。
 暗くなった道をただひたすらに歩く。ゆっくりと、倒れないように気をつけて。体に何かのしかかるような重さがあったが、それがなんなのか考えもつかない。想像したくない。
 喪失の中、やっとの思いで家の鍵を開けると、珍しく玄関の灯りがついていた。リビングにも。
 真彩は廊下の板を踏みしめ、ふらつくように居間の扉を開けた。
「あ、真彩」
 珍しくこんな時間に父がいる。
「お前、いつもこんな時間に帰ってるのか。夏だからって高校生がフラフラと」
 そんな小言を受けて、真彩は前髪の隙間から目を覗かせた。父がすぐに目を背ける。その言動に、すぐ反感が湧いた。
「いつもはそっちが帰らないくせに」
「それとこれとは別だ。お前に何かあったら」
「いつもわたしを一人にしてるくせに」
 すぐに歯切れが悪くなる父。何を言えばいいかためらっている。だが、何を言いたいのか伝わらない。口だけの心配はいらない。
 真彩はカバンを床に放り投げた。突き抜けるような衝撃音がし、父は口を閉じる。
「仕事が忙しいって嘘でしょ。本当はお母さんのとこにいるんでしょ。なんで本当のことを言ってくれないの?」
 顔は上げられなかった。床を睨んでいると、目から涙が落ちてきた。木目がふやけていく。
 父から言葉はなく、時折、唸るようなため息が落ちてきた。答える意思がないのか、何か隠そうとしているのか。だったら、こちらから聞けばいい。
「ねぇ、お父さん」
 声は荒く、喉が震える。
「わたしが事故にあった場所、どこだったの?」
「何を急に……」
「ごまかさないで。どこだったの?」
 すると、父の足が弾かれるように動いた。真彩の肩に手を置く。
「誰かに何か言われたのか?」
 父の声と表情には衝撃が張り付いていた。その剣幕に驚くも、真彩はすぐに言い返した。
「先に答えて。どこだったのかちゃんと教えて」
 父の目が泳ぐ。絶対に目を合わせない。いつだってそうだ。いつの間にかお互いに拒絶し合うようになって、母のことも自分のことも家では禁句対象になった。
 もう言い逃れはできないと悟ったのか、しばらくの沈黙後、父は肩を落として言葉を吐き出した。
「……矢菱町民公園の、交差点」
「十年前の八月三十一日?」
「そう」
「その時、わたしをかばって亡くなった男の子がいたよね? 矢菱高校の西木覚くん」
 素早く言うと、父は顔を勢いよく上げた。ようやく合った目には恐怖の色があり、目尻のシワが深くなる。
「どうしてそれを」
「今日、調べた」
 答えはとっくに出ている。全部分かっている。でも、きちんと口から直接聞きたかった。父はそれでもごまかそうとしていたが、やがては観念したように項垂れた。
「……そうか」
 その声があまりにも絶望的なので、真彩は少しだけ怯んだ。頭の中は混乱しかなく、父がそこまでして隠したがる意味が分からない。思考はすでに正常ではない。
「――知らなくてよかったんだ」
 床にしゃがみこむ父はいつの間にか小さく見える。しおらしくされればこちらが悪いように思え、真彩は顔をしかめた。不愉快と苛立ちで頭が沸騰しそう。
「いいことないでしょ。わたしのことなのに。わたしのせいなのに」
「そうやって自分を責めるだろうから黙っていたんだ」
 かぶせるように言われ、すぐに口をつぐんだ。
「知らなくていいと遠ざけて、引っ越して、でも、起こってしまったことはどうにもならない。なんとか蒸し返さないようにするだけで精一杯だった。お母さんと話し合って決めたことなんだ。だから……分かってくれよ、真彩」
「分かんないよ、そんなの」
 受け入れたくない。頭では分かっていても、父がどんなに自分を思っているか理解しても分かりたくない。受け止められない。前なんて向けるわけがない。信じたくない。そうじゃなければいいのにと叶いもしない望みを捨てきれない。まだ立っていられるのが不思議だった。
 震えながらダイニングに行き、椅子に腰掛ける。引きずる音が耳障りなくらい、部屋は静かで暗すぎる。
 父もふらりと立ち上がり、椅子を引いて真彩と向い合せで座った。指を組み、暗い表情のままうつむいて口を開く。少し前に玄関で口論したときより、父の顔はやつれて見えた。
「……十年前、公園前の交差点で事故にあった。その時、高校生の男の子が真彩をかばって一緒に車に轢かれた。どっちも頭を強く打って意識が戻らなかった……そして、男の子は、亡くなってしまった」
 全身に力を込めていないと、聞いていられない話だった。それは父も同じで、指の関節が白くなるほどに手を強く握っていた。
「それで?」
 まだ話は終わってないはずだ。先を促すも、父の口は相当に重たかった。時計の秒針がうるさい。一秒が長く感じる。
「それで……向こうの親御さんには、お母さんと一緒に謝罪をしに行った。許されることじゃないと思ってたけど、でも、こっちもそれどころじゃなくて、幸いにも向こうもそれは分かってくれて、お互いには大事にならなかった」
 息が詰まる。耳を塞ぎたい。でも、知らなくてはいけない。もう引っ込みはつかない。
 時折、重たい息が落ち、咳払いでつっかえながらも父はゆっくりと静かに話した。
「でも、大事になったのはそれからだった。新聞で取り上げられてから、騒ぎが大きくなって……家に取材が来て、病院でも追いかけられて、それで……」
「お母さんが体調を崩したのはそれが原因?」
「あぁ」
「じゃあ、お母さんが自殺しようとしたのも、わたしがサトルくんと同じ学校を受験したから?」
「それは……」
 父は言葉を早々に諦めた。それだけで、何を言いたいのか分かってしまう。
 ――そういうことか。
 胸に残っていたしこりが無造作に転がる。そんな気持ち悪さが全身に回った。
 ――やっぱり、わたしが悪いんだ。
「……お父さん、ごめんなさい」
「謝るな。真彩は何も悪くない。頼むから、謝らないでくれ」
 そう思ってくれるなら――そんな無責任な言葉が出てきそうで口をつぐむ。
 ――そう思ってくれるなら、どうしてこっちを見てくれないの?
 もう絶対に戻れない。そんなところまで来ている。話し合えば解決するだなんて、甘いことを考えている場合ではなかった。自分は生かされて生きている。その重みがあまりにも苦しい。
 一向に真彩が戻ってこないので図書館を見やると、町民センターの灯りが消えた。自動ドアに「閉館」と書かれたプレートが置かれる。
「えっ、なんで?」
 いつの間に待ちぼうけを食らってたのか分からず、サトルは立ち上がってすぐに公園を出た。学校に戻るも、真彩の姿はどこにもない。駅までの道にも。駅の中にも。ホームにも。
「なんだよ、あいつ。急に帰って……」
 どうにも分からず、サトルは学校へ引き返した。校門を閉めようとする岩蕗先生をやり過ごす。先生には本当に影が視えていないらしい。
「おや、置いてかれたみたいだねぇ」
 昇降口に入ると、白いパーカーが傘立てに座っていた。
「帰らないとやばいんじゃねーの?」
 サトルはつーんと冷たく返し、外にいる先生を指差した。
「ちょっと野暮用でね。先生を待ってるんだ」
「ふうん……」
 サトルは適当に返事をした。視線を変える。
 外は暮れなずみ、暗く陰っている。時刻はすでに十九時。真彩はもう家についただろうか。耽っていると、カナトが冷やかしたっぷりにため息を吐いた。
「はぁーあ。意気込んだ結果がこれとは。僕も応援のし甲斐がないよ。片思いはつらいねぇ」
「何を勘違いしてるのか分かんねーけど、俺は別に真彩のことを恋愛感情で見てるわけじゃない」
 置いていかれたことも相まって、サトルの声はいつにも増してぶっきらぼうになってしまう。
「それに、はっきりしたところで、そういうのはどうしようもないだろ。俺はもう死んでるんだから」
「でも、感情は生きてる」
 あっけらかんと軽い口調で返され、サトルはカナトをじっとりと見た。
「……お前、幽霊の敵じゃなかったっけ?」
「昨日の敵は今日の友だよ」
「………」
 もう何も言うまい。
 サトルは名残惜しく外を見た。静かな昇降口から校庭の部活生は見えないが、賑やかな音がまったく聴こえない。下校の時刻はとっくに過ぎている。相変わらず、校門の影はじっと佇んでいる。真彩の後悔はいつになったら消えるんだろう――
「……ん?」
 校門の黒い影が一回り大きくなった。フラフラと危なっかしく歩きだす。
「おい、カナト」
 影を睨んだまま呼ぶと、カナトはのんびりと反応した。傘立てから降りる彼も、前方の校門を見る。瞬間、フードの下から息を飲む音が聴こえた。
「動いたか」
 待ちわびていたかのような言い方。カナトはそのまま外へ飛び出した。サトルも慌てて白パーカーのあとを追いかける。
「なぁ、おい、あれってもしかして」
「あぁ。真彩ちゃんが動いたね」
「ってことは?」
「彼女の心になんらかのストレスがかかっている」
 影は先ほどより濃度を増し、膨らんだ。こちらに気づく様子はなく、何かを探すように右往左往する。
「これは並大抵のことじゃないぞ。真実を知ってしまったのか――」
「真実?」
「あ、いや。なんでもない」
 カナトにしては下手に慌ててごまかした。それを問い詰めようと口を開くも、影の膨張がさらに早まる。このままでは真彩に危険が及ぶかもしれない。
「おい、お前、祓い屋だろ! なんか、祓う以外にできねーのかよ!」
「だから、あれを祓ったら真彩ちゃんが危ないって言っただろう」
 ああ言えばこう言う。融通が利かないのがもどかしい。それはどうやら、カナトも同じなのか唇を噛み締めていた。
 そうこうしているうちに、影はこちらを向いて滑らかに上昇し、二人の間をすり抜けていく。学校を飲み込む勢いで空に覆いかぶさった。
 その時、
「深影くん」
 遠くの方から女性の声が聴こえてきた。呼ばれたわけではないが振り向くと、カナトも同様に振り返った。風に煽られ、髪を耳にかけながらこちらにくるのは岩蕗先生。校庭から悠長に歩いてくる。
「岩蕗センセー! 待ちくたびれましたよー!」
 カナトが大仰に両手を広げた。サトルは何がなんだか分からず、立ち止まる。その間にも影は校門をくぐり抜けていった。
 先生の目がその影を追いかける。視えていないはずだ。それなのに、何故かこちらとも目が合ったような気がしてサトルは後ろに下がった。対して、先生は見透かすように目を細め、それからカナトのところへ真っ直ぐ駆け寄る。持っていた白い封筒を差し出してきた。
「頼まれていたもの、持ってきたけれど。これでどうにかできるの?」
「最高に役立ちます!」
「そう……それなら、一ノ瀬さんをよろしくね」
「まかせてください! よし、行こう、サトルくん!」
 カナトは上機嫌に言うと、封筒をパーカーのポケットに入れ、地面を蹴った。サトルもすぐに追いかける。先生はもうこちらには関心がないのか、昇降口へ消えた。
「おい、カナト! さっきのどういうことだよ!」
 走りながら聞く。まったく何がなんだか分からない。
「あぁ、岩蕗センセーのことだね。あの人が僕に真彩ちゃんの影を知らせてくれたんだ。おかげで対処法までもらったし、さすが頼りになるよねぇ」
「はぁ? 先生が真彩の影をって、あの先生、やっぱりそういうの視えるの?」
「いや、視えない。でも、存在は知ってる人。だから、ほら」
 カナトはポケットから封筒を出した。走りながら、器用に爪で封を切る。中から白い短冊のような紙が出てきた。揺れて見づらいが、その札には墨で模様が描かれている。
「じゃーん、封じの札をもらいました!」
「なんだそれ! なんかすげー!」
 急に頼もしく見えるから不思議だ。カナトも得意げに笑っている。
「これさえあれば影の動きは止められる」
 影はどんどん勢いを増し、大きく膨れつつ猛スピードで道路を滑走する。それを見失わないように追いかける。
「こいつを使って、真彩ちゃんの思考を一旦ストップさせよう。最後の大勝負だ。ちゃんと働いてくれよ、サトルくん」
「おう!」
 多分、これが真彩にできることだと思う。助けたい。今はその一心で、真っ直ぐに先を見つめた。
 後悔はいつも自覚した時に大きな怪物となって背後に迫っている。気づいたときにはもう遅い。足元をすくわれて一気に絶望へと落ちていく。
 夜が更けて、たっぷりと濃い黒の空を吸い込むと、影も大きく膨らんでいくように思えた。真実に耐えきれず家を飛び出してしまい、行くあてもなくフラフラとさまよい歩くと、自分がいかに幽霊であるのか思い知った。
 死んだように生きている。それも白々しいほどに、当然に。死にたいと願いながら生きているのが恥ずかしい。消えてしまいたい。それなのに、生きなければいけない。
 自分よりも生きるべき人が命を落とすのは残酷だ。もどかしいほどに人は脆くて儚い。
 サトルの本心を聞いたときからずっと考えていた。だから助けたいと、曖昧にも純粋に感じていた。今は、サトルのために生きなくてはいけないという使命感が宿っている。同時にそれがおこがましいとも思えた。
 結局、どうすればいいのか分からない。真実を伝えることもできない。彼は傷ついてしまうだろう。あの夜のように壊れてしまうだろう。
 人のいない歩道橋をのぼる。高さのある場所に来ると、足下を車が走り抜けていった。その速さに恐怖を抱く。このまま落ちてしまえば――
「――真彩っ!」
 唐突に歩道橋の向こう側から、予期しない声が響いてきた。重たい目を向けると、そこにはサトルがいる。
「……え、なんで」
 彼の顔を見ると、体の内側に潜む冷たい影がうごめくようだった。恐怖の波が迫りくる。怖い。
 ――来ないで。こっちに来ないで。
 すぐに引き返して走った。逃げてしまえばいい。今は。今だけは逃げてしまいたい。
 足がもつれそうになるのを堪えてひたすら走る。その後ろを足音が追いかけてくる。
「真彩、上を見ろ!」
 鋭い声が飛び、真彩はつまづいた。体が大きく飛び出し、道に投げ出される。咄嗟に手をつくと、上空が陰った。 
「えっ……」
 目の前に真っ黒な影があった。大きく膨らみ、今にも弾けそうな塊が真彩の頭を掴もうとしている。幾度となく見た黒い影。いつの間に。どうして今、追いかけてくるのか。恐怖と寒気で全身が強張った。
「真彩!」
 サトルが追いつき、真彩の腕を掴む。冷たい感触に驚いた。決して触れていないのに、不思議と彼の手に導かれるまま立ち上がることができた。
「走れ! あの影に捕まるともう戻ってこられないぞ!」
 半透明の手が離れながら揺れる。その手を掴むように自然と腕を伸ばす。同時に影も手を伸ばしている。
 先を走っていくサトルを追うように、真彩は地面を蹴った。狭い路地に入り込む。影は形を変えて迫っていた。
「ねぇっ! あれ、何!?」
「今はとにかく走れ! 説明はあと!」
 確かにその通りだろう。サトルの残像を追いかけるのがやっとで、おまけに路地は走りにくい。出口が見えない長いトンネルのようだ。熱と冷気が肌を滑っていく。加速する。転がるように走る。
 その先に、人影があった。街灯に当たり、陰影を浮かべたフードが見えてくる。
「カナト!」
 先を走るサトルが叫ぶ。すると、カナトの両腕がすらりと上がった。手に何かを持っている。そこに飛び込むと、彼はその場に立ったまま、真彩とサトルを受け止めた。
 瞬間、何が起きたのか分からない。気がつくと、真彩はうつぶせで歩道に倒れていた。
「はぁー……間一髪だねぇ。おつかれさま」
 体がだるい。起き上がるのがつらく、顔を上げるのがやっとだった。
「もう、なんなの……急に、何?」
「影を捕らえた。それだけだよ」
 カナトの背中が軽快に話す。真彩は仰向けに態勢を変えて、空を見上げた。サトルの心配そうな顔が覗く。
「真彩、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、だけど……せつめい、して」
 息が荒れる。酸素不足で頭がまわらない。
「あの影はね、君そのものなんだよ。真彩ちゃん」
 カナトが言う。彼は路地の中を睨んでいた。黒い影は何かに阻まれているかのように動きを止めている。言葉の意味もこの状況も分からない。
「わたし?」
「そう。あれは君の後悔でできた怪物だ」
「幽霊じゃなくて?」
「影は人間の裏側だからね。生きていようが死んでいようが、負の感情は溜まるものだ。それを君は無責任にもあの場所に置き去りにしたんだ。わけは聞かないけれどね」
 その厳しい言葉に、真彩はきしむ体を起こした。影を見つめる。真っ黒で不気味。苦しそうな暗さ。無性に泣き叫びたくなる。なぜそこまで共鳴するのか分からなかった。でも、言われてみれば納得できる。
「後悔……って言っていいのか分かんないな」
 そんな言葉で表すのもためらうくらい、自分はいろいろなものを抱え込んでいる。飲み込まれてもおかしくない。忘れて消化してしまえばいいのに、できなかった。甘かった。現実を直視するのが怖いくせに、できるつもりになっていた。自分の無力さを知って、不安が募っていく。
 真彩はぐったりとうつむいた。
「わたしは……ずっと、怖い。否定されるのも、消えてしまうのも、自分を許せないのも、ぜんぶ、怖い」
 目の前の今も怖い。生きていることに罪悪感を持って、ずっと引きずっている。怖くてたまらない。いくら流しても枯れない涙が地面を濡らしていく。息をするのも苦しくて、感情がとめどなく溢れていく。
「――真彩」
 頭の上に柔らかな声が落ちてきた。いつの間にかサトルがひざまずいて、真彩の様子を下から窺っていた。
 半透明な指が髪を触る。その冷たさに驚いて、顔を上げた。しゃくりあげて、涙でぐしゃぐしゃになった顔をサトルは眉を寄せて笑う。その無邪気な顔を見るとまた悲しくなる。いくつものいろんな感情が混ざっていく。
「サトルくん……ごめんなさい」
 痛む喉を押さえながら、苦し紛れに声を振り絞った。
「え?」
「ごめんなさい。こんな言葉じゃ足りないけど、でも、ごめんなさい」
 サトルは場違いなほど気が抜けた声を漏らす。
「えーっと……ん? あのときのことはもう全然いいよ?」
「良くない! 良くないの。わたしはあんなことを言っちゃいけないから」
 ――伝えるのが怖い。
 本当は伝えないほうがいいかもしれない。でも、それは結局、自分が逃げたいだけだ。彼は知らなければいけない。それが彼へのせめてもの餞(はなむけ)だ。
「……わたしは、サトルくんに助けてもらって、生きてる。事故にあったとき、あなたに助けてもらったの」
 声がうまく出せない。息をするのもつらい。彼の顔を見るのが怖い。どう思われても仕方ない。罵倒され、責められてもいい。償えないから、それだけしかできない。
「俺が助けた? 真彩を?」
 一時の間を置いて、彼はささやくように聞いた。その静けさが怖い。
「そう。サトルくんが、わたしを助けてくれたの」
「事故にあったとき、助けた……?」
 言葉を反復する。信じられないといった困惑の声が、わずかに遠ざかる。サトルは地面に座り込み、呆然とした。髪をかきあげて下を向く。それを汗にまみれた前髪の隙間から見た。
 やがて、サトルは丸い目を揺らがせて額を抑えた。そのまま肩を落として頭を振る。半透明の体が、風に煽られてなびいた。
「……あぁ、そうだ」
 憔悴の声。かすれている。
 真彩は肩を上げ、その音に怯えた。
「そうだ。俺は、女の子を助けようとして、道路に飛び出したんだ」
「ごめんなさい。わたしのせいで、あなたが」
 言葉は続かず、息が止まる。サトルは頬を緩めて笑っていた。
「助かったんだ……」
「え……」
「助かったんだな。あの時の子。それが真彩だったんだ……そっかぁ」
 言いながら真彩の頭を撫で回す。冷たい風が頭に巻き付くだけなのに、サトルは構わず真彩の頭をぐしゃぐしゃにした。
 その時、脳内にぽつんと明かりが灯った。赤い記憶。衝撃音のあとの静寂。そして、強すぎるぬくもり。
 ――助かってくれ。
 その必死な声が頭の中で響いた。
「うわぁ、良かった。本当に良かった。俺さ、ずっと助かってくれって、祈ってたんだよ」
「うそ……」
「嘘なもんか。でなきゃ、助けないって。あー、安心したらちょっと泣けてきた」
 サトルは目尻を親指で押した。ずっと笑っている。次第にその口角が震えた。
「うわぁー、本当にダメだ。ちょっと真彩、見ないで。俺、今かっこわりぃから」
「それ、今気にするところか?」
 後ろからカナトが水を差す。それに対し、サトルが腕を振り上げて怒った。
「割り込んでくんなよ!」
「いや、だって、しみったれた空気はちょっと……」
「今さらそんなの気にしてどうすんだよ!」
「そっちこそ、妙なところで意識してどうするんだ」
 突然始まる口論についていけない。でも、彼らはなんだか満足そうに顔を見合わせて笑っていた。ひとしきり笑うと、サトルは手のひらで涙を拭った。カナトもしゃがみ、二人の顔を覗き込む。
「まぁ、そういうことだねぇ。真彩ちゃん、君の後悔はあまりにも巨大すぎる」
 未だ影がうごめく路地を指す。カナトの口調は珍しく場に合って、いつものように軽々しい。
「でも、もう分かっただろう? 人間なんて、結局生きてるだけで後ろめたいもの。今は無理でも、ゆっくり折り合いをつけて、今を大事にしたらいいんじゃないか」
「そうやっておいしいとこをサクッと持ってくのな、お前は。本当に嫌なやつ」
 サトルが呆れたように言った。カナトの口が不機嫌に曲がる。不満そうな顔を見せるところ、彼なりに気遣っていたのだろう。
 真彩は項垂れて、大きく息を吸った。まだ喉は痛むが、鬱屈したもやもやはなんとなく引いてきたように思える。安心したサトルの言葉が、冷えた心を温めていく。固く強張っていた体を溶かすようで、真彩は吸った空気を飲み込んだ。
 その瞬間、路地の影が動きを止める。ゆっくりと、ゆっくりと黒い粒子が収縮していく。勢いをなくした影はやがて、大人しく揺らめく小さな靄となった。
「まだ残ってる……」
「いっぺんに消えてしまうもんじゃないからねぇ」
 のほほんと穏やかなカナトに、真彩は眉を寄せて、肩を落とした。
「ところで、サトルくんの影はきれいさっぱり消えたなぁ。やっぱり、記憶を取り戻したら未練もなくなるものだね」
「え?」
 言われるまで気づかなかったのか、サトルは立ち上がって全身を見渡した。
「おぉー! ほんとだ! 元に戻った!」
 嬉しそうに両腕を曲げ伸ばして見せびらかす。
「体も軽くなった。すげー楽だわ」
「そいつは何よりだねぇ」
 すかさずカナトがため息交じりに言う。
「なんで残念そうなんだよ」
「これで絶対に悪霊にならないからね。もう成仏もできるんじゃないか」
 その指摘に、真彩とサトルは同時に息を止めた。顔を見合わせる。
「あー……そっか。そうだ。解決しちゃったからなぁ」
 サトルは気まずそうに空を見上げた。満点の星が瞬く夜。影のない、まっさらな夜は透明感があった。
 真彩は何も言えなかった。本当にこれでお別れする――実感がない。でも、心臓がぎゅっと縮まるように寂しくなる。
 すると、サトルがこちらを見た。
「あのさ……真彩にお願いがあるんだけど」
 遠慮がちにボソボソと言うから、真彩は彼の顔を覗き込んだ。
「……一つだけ、わがまま聞いてもらってもいい?」
 どんな頼みでもいい。彼のためなら。真彩は迷いなくうなずいた。
 翌日は目がくらむ快晴だった。花壇のひまわりが下を向く。校門に影はいない。真彩は堂々と校門をくぐり、帰り道をゆったりとたどった。隣にはいつものように冷たい幽霊が歩く。
「絶好の海日和だなぁー」
 ウキウキと脳天気な声を聞いてると安心する。真彩は「そうだね」と小さく返した。
「最初さー、真彩って素っ気なかったよね」
「あの時はごめんね」
 すぐに謝ると、サトルはケラケラ笑った。恥ずかしくて耳が熱くなる。真彩はカバンにつけていたうさぎのぬいぐるみを握りしめた。
「……それで、お父さんとは話できた?」
 ひとしきり笑ったあと、言いにくそうにサトルが聞いてくる。真彩はちらりと顔を上げた。
「うん。ちゃんと話した。まだまだぎこちないけど、多分、ゆっくり分かり合えると思う」
「本当にー? そんなこと言って、またすぐケンカするんじゃねーの?」
「そうかもね」
 サトルの言葉は大当たりだった。多分、すぐには戻れない。でも、父はぼそりと小さく言ってくれた。
 ――これから。
 その言葉を信じてみようと、今は少しだけ前向きに考えている。
 肌を焼く日差しの中、二人の足はゆっくり動く。沿道は相変わらず車がなく、白線の内側を歩く。サトルはいつの間にか堤防の上を歩く。海岸に続く階段を目指して歩いていく。
「お、ついたついた」
 今度は二人で一緒にたどり着いた。白い浜と眩しい海。キラキラで直視できない。
「早く! ほら、真彩!」
 サトルが手招きする。それを掴みたいのに掴めない。真彩はやきもきしながら、階段を駆け下りた。
 鮮やかな海は碧く、透き通っている。穏やかな波の音が心地よく、砂浜は不安定だ。真彩は靴を脱ぎ散らかして、熱した砂を踏んだ。サトルはすでに海の中へ向かっている。その冷感を求めて、真彩も迷わず水の中へ飛び込んだ。
「海に行ったのっていつだっけ?」
 サトルが楽しげに聞いてくる。真彩は波を蹴飛ばしながら考えた。
「えーっと……八月の五日?」
「会ってすぐだっけ?」
「うん。わたしが海に行こうって言ったから」
「そうだった、そうだった。それからカナトに会って、ケンカして、いろいろあったなぁー」
 仰向けに倒れ、サトルは空を眺めながら水に漂った。彼の色が碧く水に溶けだしていく。それを見ると、真彩は浮足立った心が縮むような気がした。
 太陽に手をかざすと、光で見えなくなる。透明な彼は、きれいでまっさらだ。やっぱりまだ後ろめたい。
「すっかり元に戻ったね」
 寂しさを紛らわそうと言ってみる。サトルは得意げに口角を上げた。
「真彩も、いつかはあの影が消えるよ」
「そうかな……」
「そうだよ。だって、苦しいだろ、ずっとあんなのを抱えるのは」
「うん……」
 声が小さくなる。そんな真彩をサトルはからかうように笑い、元気よく立ち上がった。
「だったら顔を上げろ。下を向くのはたまにでいい」
 その言葉通り、ゆっくり顔を上げる。くしゃっと満面に笑うサトルが目の前にある。透明な彼の先に、眩しい太陽が見えた。目がくらむ。
「俺のために生きていくとかさー、そういう重たいことはするなよ」
「……うん」
「明日が当然くるとは限らないからな。今をしっかり見ていろ」
「うん」
「そして、幸せになってくれたらいいかなー」
「それは……約束できないよ」
「まぁ、絶対じゃないから、ほどほどにかな」
「……うん」
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
「うん」
 心がさざめく。彼にはもう二度と会えない。
 真彩は思わず手を伸ばして、サトルのシャツを握ろうとした。でも、すぐにすり抜けていってしまう。行き場をなくした指が虚しく落ちる。
「サトルくん、待って。いかないで」
「えぇー? そんなこと言うなよ。俺だって嫌なんだから」
 吹き出すように息をつき、彼は眉を困らせた。その仕草が大人びていて、妙なおかしさを覚える。笑いだしたくなる。悲しいのに、泣きたいのに。
「……笑えよ、いつでも」
「うん」
 約束なんてできないのに、涙をこらえようとうなずいた。
「あーもう、泣くなって。笑えって言ってんだろー? しょうがないなぁ、真彩は」
 冷たい指が涙をすくいとった。ひんやり冷たい、半透明な指は柔らかすぎる。その感触がゆっくりと遠ざかった。
「……それじゃあね、真彩。ありがとう。もう、十分だ」
 空に溶けていく。輪郭がぼやけて、よく見えなくなってくる。
 ――伝えなきゃ。
 本当に伝えたいことが突然に頭の中をよぎる。
「サトルくん、ありがとう」
 空色の中に手をのばすと、彼は何か囁いた。その音はもう耳に残らない。ひらりとかわすように、サトルの足が空を蹴った。
「……さようなら」
 静かな声がぽっかりと空へのぼる。涙がこめかみをつたっていき、その冷たさがすでに懐かしく思えた。
 しばらく水平線を見つめたままでいて、冷たい風を待つ。それでも、もうどこにもない。やがて、まだフラフラとおぼつかない足で波を出た。地面を踏む感触を一歩ずつ噛みしめる。
 ふるい自分にさよならを告げて、ありったけの後悔を抱きしめて、透明をめいっぱい吸い込むと涙の味がした。透明のままだから、まだ今は信じたくない。いつか色を取り戻したとき、この結末を受け入れるんだろう。
 真彩は深く呼吸した。

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