いくらか静まったもやもやは、透けた体の中心でくすぶっていた。未だに残る嫌な感情がチクチク痛んで鬱陶しい。
 壁の上部にかけられた時計を見れば、九時を指していた。もし、真彩が来るならあと一時間待たなくてはいけない。サトルは真彩の隣の席に腰掛けた。まだら模様の姿を見られるのは正直、格好悪くて恥ずかしい。
「かっこわりぃーなぁー……」
 つくづく自分が情けない。感情的になるのは格好悪い。真剣な態度も格好悪い。あんな泣き言みたいな醜態を晒したことを思い出し、サトルは机に顔を落とした。そのまま机を突き抜けていき、床を呆然と見つめる。
 なんて謝ろう。昨夜はカナトにメッセージを送ってもらったけれど、きちんと自分の口から謝りたい。真彩は自分を責めているだろうから、余計に心配になる。
「おはよう! サトルくん!」
 扉を大きく開け放ったのはカナトだった。今日も絶好調に怪しい。サトルは顔を上げるのも面倒で、手だけ挙げて振った。
「あれ、なんで机に突き刺さってるんだ?」
「突き刺さってねぇよ、バーカ」
 思わぬ指摘にすかさず暴言を返す。カナトは構わず、真ん前の席にくると無遠慮に座った。そして机の下を覗き込んだ。
「せっかく真彩ちゃんが帰ってくるっていうのに、そんな調子でどうするんだ」
「えぇ……お前に励まされる日がくるなんて思わなかったわー」
「僕は善良だからね」
「どこがだよ」
 いけしゃあしゃあと返ってくる言葉には思わず笑ってしまう。
 顔を上げると、カナトも同時に起き上がった。
「ともあれ、話し合うってことに決めたんだろう? 僕としては君が悪霊にならないのが残念なんだけど、真彩ちゃんがこれからどうするのかを見届けたいし、こうなったらとことん付き合うよ」
「お前……本当にしつれーなヤツだよなぁ」
 サトルは疲れた声を投げた。
 現在、九時十五分。ふと、窓の外を見る。校門にいる影が人の形をつくり、ゆらゆらと大人しく漂っている。その様子をじいっと睨む。
「……あの影ってさ、結局誰の後悔なんだよ?」
 この間の暴走からやけに大人しいが、影の形は完全に人そのものだ。漂うだけで動きはとくにない。
「それに関しては現在調査中でね。僕も誰の影か探しているんだよ」
 カナトも校門の影を見ながら軽く言った。
「その口ぶりじゃ、見当がついてんじゃねーの」
「いいや。これといって全然」
「どうだか……」
 悪霊祓いに関しては容赦ないカナトのことだから、すでにいくつか目星はついているんだろう。そして、教えてくれと頼んでも教えてくれないんだろう。
 サトルはゆらりと立ち上がった。教室を出る。そろそろ真彩を迎えに行こう。

 ***

「おはよう」
 改札を抜けると、目の前にサトルがいた。半透明の中にところどころ影があり、彼の体はまだら模様だった。
 それを見ると動きが止まってしまい、真彩は眉を寄せて涙をこらえた。気を緩めたら感情が溢れ出してきそうで怖かった。
「……学校、行こっか。遅刻するぞ」
 何か言おうとするも、サトルが先に背を向けてしまった。そのあとを追いかける。ロータリーを横切って熱した道を歩いていく。
「……あの、サトルくん」
「んー?」
 彼はこちらを見ない。影に浸かった指先を隠すように拳をぎゅっと握っていた。
「体、大丈夫なの?」
「あぁ、うん。大丈夫、大丈夫。ちょっとグロいけど、全然大丈夫だよ」
 彼は至って平坦な声で言う。真彩は何を返せばいいか分からず、黙り込んだ。急いで帰ると言って、家に戻って学校へ行くまで何も考えずに「会いたい」と思うばかりだった。それがいざ会ってみると、言葉が出てこなくて自分が情けない。そして、サトルのことを少し怖いとも感じている。
「真彩……」
 人通りのない小路で、サトルの低い声が前に出た。足を止める。彼はまっすぐに真彩を見ていた。
「ひどいこと言って、ごめん。ごめんで済む話じゃないと思うけど、ごめん。本当にごめん」
「え……」
 ひどいことを言ったのはこちらもだ。真彩は思わず腕を伸ばした。彼が震わせている手を握ってやりたかった。包むように触ると溶けてしまう。
「……ごめんね、サトルくん」
 触れられないものだと分かっているのに、指はまだ掴もうとしている。
「わたしが悪いの。あんなことになったのは、わたしのせいだから……ごめんね」
 サトルの指が掴めない。もどかしくて堪らない。「ごめん」と短く簡単に済ませたくないのに、ほかに言葉が思いつかない。
 サトルは真彩の手から逃げるように手を引っ込めた。
「……正直、つらかった。真彩があんなことを言った理由が分からなかったから。でも、いろいろと抱え込んでるのは知ってるし、想像はつく」
 真彩も顔をうつむけて、指を引っ込めた。
 一歩進むと、彼も後ろへ下がり、ゆっくりと歩き出す。
「あのね、サトルくん――わたしが幽霊を視るようになったのは、事故に遭ってからなんだ」
 静かに小さな声で言った。サトルは黙ったまま、地面の小石を蹴ろうとしている。多分、彼は聞いてくれる。真彩はゆっくりと、自分の奥底に沈めていた記憶を引っ張り出した。
「十年前にね、交通事故に遭ったの。頭を打って、でも奇跡的に助かったんだって。実際、そのときのことは覚えてないから分かんないんだけど……それから、わたしは視えないものが視えるようになった」
 そこから始まるのは真っ暗な時代。周囲の人を怖がらせ、遠ざけられ、ついには両親からも見限られた。母は体調を崩し、入退院を繰り返す。そんな毎日。
 きっと、それまでは家族三人、仲が良かったはずだ。笑顔の絶えない明るい家庭だったはずだ。もしも、あの事故がなければ――何度も見た妄想の自分は能天気に笑っている。
「この前、話したでしょ。お母さんが高校に行けって言うから、お母さんのために受験したって」
「うん」
「本当にその通りだったんだけど、でも、中学の卒業式に……それこそ、合格発表のときに、お母さんが自殺しかけたの」
 桜の花びらとカーテンが揺れる景色は記憶に新しい。思い出すと、鼻の奥が痛んだ。顔を上げて涙を乾かす。
「真彩のせいだって、言われたの。それでその時、わたし、納得しちゃったんだよね。あー、わたしって生きてちゃダメだったんだなぁっ……て」
 声が詰まると同時に、腕に冷たい風が巻きついた。サトルが真彩の腕を掴む。
「もういい。分かったから」
「ごめん、こんな話して。でも、わたし、別に同情してほしいとかそういうわけじゃなくて、ただ、理由を説明しないと納得してくれないと思って、それで……」
 自分が嫌になってくる。こんなことなら、あの事故のときに死んでしまえばよかったのに、と何度思ったか分からない。
 不鮮明で半透明。それが自分。でもこのままだと、後悔が蓄積し濁っていく。空っぽにしないと壊れてしまいそうだ。
 サトルは怒った目をしている。その強い力に気圧されてしまいそうで、涙が落ちる。
「――なぁ、真彩」
 優しくはない、熱の入ったぶっきらぼうな声。
「俺、こういうとき、気の利いたこと言えないから無責任なこと言うけど……真彩には生きててほしいよ」
 その言葉には強い願いが込められていた。
「誰がなんと思おうと、俺はお前に生きててほしいんだよ。そりゃ、今までつらくて幸せじゃなくてもさ、でも、そんなのぜんぶ忘れて自分のために生きてほしいよ」
「そんなの……自信ない」
 出口が見えないのにどうやって生きていけばいい。答えが見えないから不安になる。
「じゃあ、これだけ覚えとけ。人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
 真彩は顔を上げた。サトルの真剣な顔が近い。目が合うと、彼は視線をわずかに下へ向けた。
「えーっと……これ、よく親に言われてて。そう言われて育ったというか、受け売りというか」
 何やらもごもごと口ごもる。
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない。そうすれば、自分に優しくなれるだろ……って言っても、説得力ないか」
 サトルは自分の指先を見て自嘲気味に笑った。
「自分が出来てないくせに偉そうに言っちゃったー……恥ずいー……」
「ううん、サトルくんは優しいし、全然できてると思うよ」
「いやいやいや、待って。ちょっとマジになりすぎて、冷静になったらすげー恥ずかしくなってきた。うわぁぁ……」
 サトルは顔を覆ってしまった。それを見ていると緊張していた肩が緩む。濡れていた目じりもとっくに乾いている。
 ――恥ずかしがることないのに。
 サトルは指の隙間からこっそり真彩の様子を窺っていた。
「まぁ……時間はかかるよ。でも、真彩には時間がたっぷりあるんだし、焦らなくていいと思う」
「ううん。サトルくん、この世に当然なんて存在しないよ」
 思わず彼の言葉を遮った。でも、気休めに「時間がある」なんて思ってない。
「確かに焦らなくていいと思う。けど、当然に明日がやってくるなんて思うのはよくないって分かったんだ。サトルくんのおかげで」
 最後の言葉はほんのり小さくなった。すると、サトルはようやく顔から手を剥がし、スッキリと笑った。
「それなら、ほどほどに焦って答えを見つけるしかないな」
「うん」
「よし! でも、当然はないってどっかで聞いた言葉……あ、岩蕗先生か」
 サトルは納得したように笑った。そして、すぐに顔を引きつらせる。
「……あれ? そういや、今何時?」
 その質問に、真彩も目を開く。カバンに入れてあるスマートフォンを出した。十時はとっくに過ぎていた。

 ***

 バタバタ教室に行くと、すぐさま岩蕗先生の長い説教を食らった。いつもは冷静沈着なのに、今日はかなり怒りっぽい。とにかく「連絡はとれるようにして」と何度も言われ、授業が始まったのは、十一時を過ぎた頃だった。
「えーと、それじゃあ教科書二十八ページを開いて。運動方程式の設問一から四までをおさらいします」
 先生が疲れた声で言い、背を向けて黒板に図を描いていく。
 それを申し訳なく見ていると、スマートフォンに通知が入った。カナトだ。
『サトルくんを外に出して』
 真彩はすぐに窓の外を見た。校門前に立つ黒い影と、それに対比する白パーカーが見える。
『サトルくんに用があるんだ』
 カナトはなおもメッセージを送ってくる。
 真彩はサトルを見た。そして、眉をひそめる彼に画面を見せた。トークアプリのふきだしに書かれた文字を、サトルは素早く読み取る。
「なんだろ……」
 嫌そうな顔をするも、サトルは案外素直に席を立った。教室を出ていく。それを黙って見送っていると、図形を書いていた岩蕗先生が声をかけてきた。
「一ノ瀬さん、ノートとってますか」
「あっ……すいません」
 このやり取りももう慣れてきた。それは先生も同じなのか、天井を仰いで息を吐くと教科書を閉じた。
「……もう。授業が聞けないなら、あなたの話を聞くわ。無断欠席の事情も聞きたいし」
 言い逃れできるほど甘くはないようで、真彩は視線を泳がせた。校門にはカナトとサトルがいる。二人とも、何をしているのか気になって仕方ない。しかし、今は岩蕗先生から逃げられない。
 真彩はこの数日間を思い返し、また校門に目をやり、半透明なサトルをじっと見つめながら言った。
「……先生、幽霊ってなんなんですか」
 脈絡のない質問だっただろう。でも、岩蕗先生なら答えてくれそうな気がしている。案の定、先生は思案顔で唸った。
「そうね……私が出した結論は人間の脳が起こしている錯覚、または妄想と幻想ね」
「今日はいつもより現実的ですね」
「世の中の大半はそれよ。非存在なの。でも、否定はできない。人が死に絶えてもなお、その魂が自我を保っているというなら、それは肉体と切り離された魂という存在だと言える」
「はぁ……」
 分かるような分からないような。
「もっと具体的に言えば、魂とはエネルギーのようなものよ。難しい話になるから簡単に言うと、このエネルギーは空や宇宙からくるもので、あらゆる有機物質が寄り集まって生命をつくりだしたの。こうして考えると、生命とはスピリチュアルなもので構成されているわね」
 本当に難しい話になってきた。真彩は頭を抱えた。対して、先生は意地悪そうに笑う。
「ところで、魂の重さって二十一グラムなのよ。知ってた?」
 それは聞いたことがない。思わず前のめりになる。
「人は亡くなると二十一グラム軽くなるという話があってね。亡くなったあとに体外へ出ていく水分が二十一グラム分だったという検証結果があるわ」
「なんだ……」
 答えを聞けば途端に冷めてしまう。真彩は唇をとがらせた。それに対しても、先生は顔色一つ変えない。
「そういう不可思議なことを考えて検証していけば、確実に答えは見つかるってことよ」
「……なるほど」
 真彩はとりあえず納得した。要は考えれば分かるのだ。すると、今度は先生から質問が飛んだ。
「一ノ瀬さんは、魂についてどう考えているの?」
 魂とは。先生の言うとおりなら、魂とは幽霊なのだろう。肉体から離れた思念。死んでいるのに生きているもの。でも、具体的にどう考えているかと問われれば、すんなり答えは出てこない。
「……分かりません」
「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたは幽霊をどう捉えてる?」
「え……?」
 自分がした質問がそっくり返ってくるとは思いもしない。真彩は「うーん」と考え、慎重に口を開いた。
「生きていた人の、後悔?」
「後悔……つまり、その人の未練ね」
「だと思います」
「それでいいと思うわよ。答えは」
 先生は教卓にもたれ、張っていた肩を緩めた。囁くような声は、授業中に見せる圧がない。
「何かを迷っているなら、見方を変えればいい。分からないなら違うルートを考えればいい。原点に帰って観測し、考える。そうすれば必ず答えにたどり着けるはずよ」
 そう言い放ち、先生は黒板に描いた図を指した。

 ***

 一方、その頃、サトルは警戒しながら校門へ近づいていた。
「お、きたきた」
 今朝ぶりのカナトが手招きしてくる。影もこちらをじっと見ている。真彩ほどではないが、サトルもこの影には嫌悪を抱いていた。自身に点在する影と同じだからだろうか。
「用ってなんだよ」
「うん、ちょっとね。僕なりに事件解決の糸口を掴んだんだけれど、僕よりも君にその役目をお願いしたいなぁと思って」
「はぁ」
 話が急すぎてついていけない。サトルは腕を組んでうなった。しかし、思考する隙も与えず、カナトの口は滑らかに動く。
「この影の正体を突き止めたんだ。うまくいけば、君の成仏も同時に済みそうだよ」
「マジかよ」
 信用は未だにないが、成仏はともかく、真彩を困らせる影をどうにかできるのならそれはすごいことだと思う。サトルは一歩近づいた。
 黒くうごめく影は、成長を続けている。ここまで染まっていれば除霊しか手はないだろう。しかし、カナトは除霊をしない。悪霊祓いを生き甲斐にしている割には慎重だ。
「で、こいつの正体って? 誰の影なんだ」
「真彩ちゃんだよ。これ」
 カナトの言葉があまりにも静かだったので、危うく聞き逃すところだった。だが、耳には引っかかったらしい。
「真彩……?」
「そう。真彩ちゃんそのものであり、別のものでもある。彼女が無意識に切り離した後悔の怪物だったんだ」
 言ってることが分からない。どういう意味か頭で処理ができない。そんなサトルを置き去りに、カナトは感心げに続けた。
「影っていうのは、人間の裏側なんだね。肉体が死んでいようがいまいが関係ない。生きている人間を食べる、っていう話はあながち間違いじゃないんだろう……影に飲まれかけた君には分かるはずだ」