とん、と胸に銃口が突きつけられる。逃げ場はない。握った拳が迷ってしまう。
「……なーんてね」
 水鉄砲が下に落ち、サトルはおそるおそる目を開けた。カナトが舌を出して笑っている。
「そんなことするわけないだろう。真彩ちゃんに殺される」
「お前ぇ……ほんと、お前さぁ……ビビらせんじゃねーよぉ……」
 ズルズルと床に落ちて情けなく安堵する。カナトは水鉄砲をポケットにしまい、機嫌よく机に座った。
「しかし、君は本当に未練がましいねぇ。昔はもっと短絡だったんじゃないのか?」
「そうだったんだけどな……」
 よろめきながら立ち上がる。雲間から覗く月をぼんやり見つめると、窓ガラスに映った自分の目が黄色だった。顔や体には影の斑点がいくつも浮かんでいて気が滅入ってくる。
「こんな状態なんだから、そりゃあ具合も悪くなるだろ」
 サトルは自嘲気味に口の端を伸ばして言った。
「戻れるなら戻りたいけど、気づいてしまったら戻れるわけないじゃん。俺は、死にたくなかった。未練しかない。それが本当の自分だ」
 声に力が入らず、口に出せば影が濃くなりそうで怖くなった。そんなサトルに、カナトはやはり空気を読まずに「あははは」と笑う。
「まぁ、それが幽霊の本質だからねぇ。未練がなきゃ、とっくに成仏して転生でもしてるよ」
「転生できるんだ」
「できるよ。人間になれるかどうかは分かんないけどさ。僕は死んだことないから、なんとも言えないね」
 いちいち癪に障る言い方をする。会話が面倒になってきた。
「さて、サトルくんよ」
「何」
 うんざりと返事すると、カナトは人懐っこく腕を肩に回してきた。手には黒いスマートフォンを持っている。
「真彩ちゃんに連絡してみない?」
「はぁ? なんで?」
 思わぬ提案に素直に驚く。目を丸く開けば、カナトは楽しそうにニヤけた。
「僕が代わりに打ってあげるから、なんか伝えてみればいい。ほらほら、遠慮はいらないよ?」
「お前さぁ、女子と気軽に連絡とれるってやばくない? 軽すぎだよ。そもそも女子と連絡先交換とか、あんまりしなくない?」
「出会ってすぐ名前を呼び捨てしておいて何を言ってるんだよ。それに、今どきSNSで気軽に繋がれる時代なんだから、同じ学校の後輩女子の連絡先くらい簡単に手に入るよ」
 カナトは軽快にスマートフォンを振った。それを半眼でまじまじと睨みつける。
「時代遅れだねぇ。君がスマホ世代じゃないのはよく分かったよ」
「うるせぇな」
 腕を振り払うと、カナトはつまらなさそうにスマートフォンの画面を開いた。顔を照らして、画面をスライドさせる。
「まぁ、君みたいな人にはSNSとか向いてないだろうな。知らなくていいよ」
 SNSの仕組みは実際、よく分かっていない。前にトークアプリを真彩に見せてもらったが、原理が分からずに考えることをやめた。メールの本文を打ち込み、送信するまでボタンを連打していたのが、今となってはガラスの画面をスライドするだけで、会話するようにメールができるらしい。
「よし。そんなわけで、真彩ちゃんに連絡してみようか」
「どんなわけでそうなるんだよ。てか、あんなことがあったばかりで、のんきに連絡できるかよ」
「意外と君も強情だなぁ……それじゃあ、僕からなんか話しかけてみよう」
 そう言うとカナトは素早く文字を打ち込んだ。気にしないようにしても、なんと送ったのか気になる。覗いてみると、カナトがいきなりスマートフォンをかざしてきた。すかさず「カシャッ」と軽いシャッター音。
「え? え、何? 何した、お前」
「写真を撮ってみた」
「なんで!?」
「真彩ちゃんに送るからだよ。まさかカメラ機能も知らないのか?」
「それくらいは知ってる!」
「じゃあ、分かるだろう。はい、送信」
 カナトの指がささっと動く。容赦がない。
「はぁ? ちょっと、待て! おい、カナト!」
 慌てて画面を触ろうとするも反応はない。固い電子機器をすり抜けてしまい、バランスを崩す。机に転がっている間、カナトは写真を送ってしまった。送信の速さが異常だ。
「……なぁ、それさぁ、心霊写真じゃねぇか?」
 ふと思ったことを口にする。くっきりと半透明な自分が映っているのがどうにも奇妙で、なんだか笑いだしたくなる。カナトも「うわ、ほんとだね」と、今気がついたように笑った。
「もうここまできたらなんか送ろうよ。ほら、なんか伝えたいこと言って。送るから」
「あー、もう、分かったよ!」
 いい加減に観念しよう。サトルは立ち上がり、真彩に送るメッセージを考えた。

 ***

 滞在中は外に出ず、部屋の中にこもっていた。叔母家族が到着しても顔を見せようとはしなかった。
 祖母と同じことを聞いてくるに違いない。母についてはもうこれ以上何も言いたくないし、言えば攻撃的になってしまうので無言を貫くことにする。夕食だけは顔を見せ、すぐに部屋へ逃げる。
 外は夏色で、セミがうるさい。それなのにこの家は暗く湿っている。温度差が激しいのは、山の中だからか。
「帰りたい……けど、帰りたくない」
 居場所がない。つかの間の心地良さが懐かしく、あの海の日に帰りたい。なんにも考えずにはしゃいだあの日に。
 今は前を向くのが億劫で嫌になる。息苦しくてつらい。
「喉かわいた……」
 余計な独り言を出さないと落ち着かない。真彩はこそこそと部屋から抜け出した。暗い廊下を忍び足で行く。陽が差さない階段を降り、居間へ向かおうとした時、階下から祖母の声が聴こえた。
「……真彩ちゃんにきちんと話すべきよ、いい? でないと、あの子まで体壊しちゃうでしょ」
 電話しているのだろうか。相手は父か。
「でもじゃない。ちゃんとご飯食べて、勉強させるの。遊びにも連れていってあげなさいよ」
 ――余計なお世話。
 ふてぶてしく脳内で毒づく。しかし、祖母の意外な一面を知り、真彩は悩んだ。記憶の中の祖母は嫌な人だったのに。
「……お母さん、兄さんなんて?」
 電話を切ったあと、叔母が居間の引き戸を開けて聞いた。しばらく見ない間に、叔母は一回りほど肉付きが良くなっている。
 真彩は階段に隠れて聞き耳を立てた。
「ダメ。まったく、啓司も頑固よね。すぐ意地になって聞きゃしない。真彩には自分でいろいろできるようにさせてるって」
「何よそれ、放ったらかしってことじゃない。理保さんのことで大変なのは分かるけど……あぁ、もう呆れた。真彩ちゃんだって寂しいだろうに」
「私たちが見てあげられなかったから、こんなことになってしまったのかしらね……」
 祖母の寂しげな声に、叔母はため息を吐いた。表情は見えない。
 ――今さらだよ、そんなの。
 真彩は階段をのぼり、飲み物を諦めて部屋に潜った。

 ***

 八月十四日は、気分とは裏腹に朝陽が美しい晴天の予感だった。
 早起きは苦手だが、荷造りをしようと冷たい床板に座っている。充電しないまま放置していたスマートフォンを慌てて充電し、落ちていた電源を入れる。画面に通知が何件か入っていた。
「……ん? カナト先輩ったら、また」
 何やら写真を添付してきているらしい。
『元気?』と短い文章と、その下にあるのはサトルの不機嫌そうな顔。
「え!?」
 思わず立ち上がりかけ、ベッドに腰を打ち付ける。思いっきり背中を擦ってしまい、痛みでうずくまる。もう一度スマートフォンを見やると、写真は変わらずこちらを見ていた。
「サトルくん……」
 影がすっかり薄くなった彼の顔色は明るいとは言えない。しかし、その顔が見られただけでも冷えた心が暖かくなった。
『真彩、帰ってきたら話をしよう』
 写真の下に言葉が浮かんでくる。カナトとのトーク画面だが、話しているのはきっとサトルなんだろう。
『この間はごめん』
 彼の気持ちは分かっているつもりだ。だから、謝ってほしいわけじゃない。
 話をしよう。でも、話すのが怖い。本当の気持ちをぶつけたら、彼もぶつけてくる。それを受け止められるか、自分に自信がない。まだ覚悟を決められない。
 真彩は親指を這わせ、キーパッドをゆっくりと押した。
「真彩ちゃーん? そろそろ出発だけど、準備できたー?」
 階下から叔母の声が聞こえる。バスの時間が迫り、家を出なくてはいけない。
 結局ほとんど言葉を交わすことなく、真彩は朝早くから祖母の家を出ることにした。見送りには祖母と叔母が玄関の前までついてきた。夕食の残り物をタッパーに詰め込んだものをたくさん渡されてしまい、思わず眉をしかめる。
「……なんか、ごめんなさい。こんなに」
 滞在中、無愛想にしていた申し訳なさがあり、またこんなに大量な料理を持ち帰るのが面倒だと思った。
「いいのよ。なんか、ちゃんと食べてるか心配だし。それに、普段は何もしてあげられないからね」
 叔母はあっさりと言った。祖母は遠慮がちに口角を伸ばして笑う。
「顔が見られてよかったよ」
 寂しそうな口ぶり。どちらも気にかけてくれているのは分かる。そして、気を使わせているのも分かる。
 もう少し話し合えば、二人とも分かり会えるのかもしれない。そんな期待をしかけるも、勇気が出ないのでうつむくしかない。そのまま頭を下げた。
「お世話になりました」
 玄関の扉を開け、ちらりと振り返る。祖母の肩にいた影が小さい。目をこすって見ていると、影がすっと空気に溶けていった。その不可解さに驚いていると、祖母が曖昧に笑ってきた。
「真彩ちゃん、またおいでね」
 遠慮がちな声だったが、祖母も叔母も柔らかな表情だ。固まっていた心が緩む。
「……うん」
 その笑顔に向けて手を振ると、なんだかお互いに許しあえたような気がした。


 帰ろう。早く帰って、学校に行きたい。
 サトルに「必ずすぐに帰る」と送ったきりで、気持ちが逸っている。