八月十一日は白かった。曇りでもなく、晴れでもない、中間のようなもやもやした天気で、それがどうにも自分の心模様と重なって気が滅入る。
 母が一時帰宅する前に、真彩は父から持たされたお金と三日分の荷物を持って電車に乗った。お盆の帰省ラッシュと重なり、子供連れが多かった。いつもは沈黙を互いに押し付け合った圧迫感があるのに、今は浮足立ってはしゃぐ陽気さがギュウギュウに敷き詰められている。その中で、真彩はぽつんと目を曇らせていた。
 海とは縁遠い山のふもとに祖母の家がある。私鉄窪駅から遠戸(とおど)駅まで一時間。駅前は閑散としており、箱に詰まっている楽しげな人々を見送って、真彩はトボトボと改札を抜ける。蒸し暑くも、コンクリートが薄い地域は気温がわずかに低いように思えた。
 静かな古い駅舎から出て、高さのない小さなビルやアパート、古い民家を横目にバス停まで行く。
 その道中、真彩は何度も背後を振り返っていた。蝉の声が降りしきるだけの道。誰もいないが、視線を感じる。背中を舐めるような感覚。人の少ない場所ではとくに感覚が研ぎ澄まされる。それは数年前から変わらずで、昔からここは魔の気配が強い。
 額に汗が浮かび、こめかみを伝って流れる。真彩は頭を振って先を急いだ。


 祖母の家はバスを乗り継ぎ、山の中腹まで登る。高齢者の乗客がまばらにいる一番最奥に陣取った。目をつぶっていること数分。バスは意外にもあっという間に停留所へ近づいた。
『三津目(みつめ)~、三津目~。お降りの方はお知らせください』
 ボタンをさっと押して降車の準備をする。バスが停まってすぐ、荷物を抱えて駆け降りた。
 あの視線は未だに消えない。真彩は心臓の鼓動が速くなっていくことを自覚していた。緊張と恐怖。幽霊は見慣れているはずなのに、反射的に怯えている。
 ――大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。
 幼い頃、自分で言い聞かせていた言葉を脳内で繰り返す。ぞわぞわと緊張感が一歩進むごとに増していき、その度に「怖くない」と言い聞かせる。
 坂を登り、足に疲れを感じていると、ようやく祖母の家が見えてきた。開けた土地には何軒か古民家が建ち並んでいる。その一つが祖母の家であり、父の実家だ。
 ひまわりと朝顔で敷き詰められた庭に気をつけながら入り、玄関のドアチャイムを鳴らす。ゴーンと錆びた音が鳴った。
「はあーい」
 祖母の甲高い声が扉の向こうから聞こえる。慌ただしくバタバタと駆け込む音のあと、扉が大きく開かれる。
「いらっしゃい、真彩ちゃん。久しぶり。大きくなったわねぇ」
 待ちかねていたような言葉もだが、丸く張った祖母の顔がちょうど目の高さと同じで驚いた。
 そして、黒い影がべったりと祖母の背中に張り付いており、真彩は思わず息を止めた。どうしてここにも影が。
「……疲れたでしょ。さ、上がって」
 顔を引きつらせたからか、何も言わないからか、祖母はすぐに怪訝そうな顔をして狭い框(かまち)を上がった。祖母はすぐに目を逸らしたが、影はじいっとこちらを向いたままだ。
 真彩は小さな声で「おじゃまします」と他人行儀に呟いた。
 父の部屋だった一間に通され、祖母が早々に部屋を離れてから、真彩は黒い床板に座り込んだ。古くてカビ臭い。学習机だけが部屋に似つかわしくない明るい木目。ここは祖母の近くよりはまだ空気が軽かった。
 折りたたみのベッドに、たたまれた布団が置いてある。前もって準備をしてくれ、待ちかねたように出迎えてくれる祖母の気持ちには応えたい。でも、優しい顔をして「気味が悪い」と言われたあの日のことを忘れてはいない。心の中に残ったままのしこりが転がるような気持ちの悪さを感じる。
 ――馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに。
 ふと、カナトの言葉を思い出す。彼にはサトルと岩蕗先生へ、祖母の家に泊まることを伝えてもらったが、あの胡散臭い先輩がきちんと伝えてくれるのかは正直不安だった。
「忘れてしまえ、かぁ」
 多分、過去のことも忘れてしまえばいいのだろう。そうやって消化していけば楽になれるのだろう。
「どうやったら忘れられるんだろ」
 床にうつ伏せで寝転ぶ。熱した体が冷たく固い床に押される。寝心地は悪いが、熱を冷ますにはちょうどいい。
 黒い木目を見ていると、記憶の中に吸い込まれそうだった。断片的に思い出す祖母の言葉と幽霊。確か、初めて視たのはこの家だ。なんと言ったかまでは定かじゃないが、祖母を怖がらせたのはよく覚えている。
 何度もしつこく言うから、ある日、祖母は金切り声で真彩を叱った。
 ――怖いこと言わないで!
 それは、言ってはいけないことなのだとようやく気がついた。確か、七歳の夏。それから、父は祖母の家から真彩を自宅に連れ帰った。
「……忘れたいのに」
 忘れられない。つらいものほどずっと残ったままで嫌になる。


 夕食は一緒にとらなくてはいけない。今日はまだ叔母が来ないらしく、祖母と二人きり。
 祖母の肩にいる黒い影を話すわけにはいかないので、真彩は黙ることに専念した。あれも後悔の怪物なのだろうが、生きた人間に取り憑くとは思わなかった。絶対に目を合わせてはいけない。じっと手元だけを見ていた。
 濃い味の煮物と白米、唐揚げとエビフライ、ワカメの味噌汁、ナスの煮浸し。豪華な夕食だ。しかし、食欲がないので箸がすすまない。祖母は呆れたようにため息を吐いていたが、真彩は顔を上げずに黙々とつまんだ。この生活をあと二日続けると思うと気だるくて仕方ない。
「――真彩ちゃん、もう高校生になったのね。早いわねぇ」
 唐突に明るげな声を出す祖母だが、真彩はこくりとうなずくだけにした。それでも祖母は諦めずに話しかけてくる。
「学校はどうなの? 楽しい? お友達できた?」
 他愛ない質問。しかし、答えがないのでやはり黙るしかない。祖母もこの気まずさをどうにかしようと必死だった。
「部活とか入ってるの?」
 首を横に振る。
「あら、そうなの。じゃあ勉強を頑張ってるのかな。小学校のときはあまりいい成績じゃなかったってお父さんから聞いてたけど、ちゃんと進学できたならそれでいいよねぇ」
「んー……まぁ、うん」
「真彩ちゃんはお父さんにそっくりなんだから、勉強も運動もそこそこできるはずなのよ。もうちょっと頑張ればできるはずって」
「………」
 会話がすぐに途切れてしまう。祖母は音を立てて味噌汁をすすった。
「……それで、お母さんの具合はどんな感じ?」
 祖母の声音がわずかに変わる。ひっそりと声を落とし、真彩を覗き込んできた。その視線から逃げるように椅子を引く。
「最近、お見舞いには行ってないって聞いてるんだけど。本当なの?」
 その質問に、真彩は「なるほど」とようやく合点した。
 祖母は五ヶ月前に母が自殺未遂を起こしたことを知らないんだろう。父に聞いてもはぐらかされるので、真彩から話を聞こうとしている。
 ――一度も見舞いに来ないくせに。
 真彩は唇を噛んだ。塩辛い味がした。箸を置く。
「……お母さんは、もう治らないって」
 顔は上げずに早口で言う。ふてぶてしく口元に冷笑を浮かべて。
「ちょっと前までは立ち直ってたの。でも、わたしが中学に上がってからしばらくして、また具合が悪くなったの。ずっとその繰り返し。よくなったり悪くなったりで、この間なんて、病室の窓から飛び降りようとしたんだから」
 祖母は信じられないと言うように息を飲んだ。
「え? ちょっと待って、真彩ちゃん、それ本当なの?」
「ほんとだよ。それで、わけを聞いたらさ、なんて言ったと思う?」
 口が止まらない。急に全身を熱が駆け巡り、それが原動力となって言葉が止まらない。
「真彩が悪いんだって、泣いてた」
 母が病室で泣く姿が鮮明に思い出される。中学を卒業したその日。あれきり、母には会えずにいる。どういう意味でそんなことを言ったのか、今となっては分からない。知りたくもない。考えて、悩んで、疲れてしまうと、自分が生きているだけで母を不幸にしているんだと気がついた。心にヒビが入っていく。
「真彩ちゃん、それは……嘘よ。絶対、お母さんは何も本気でそんなことは……」
「ううん。それも本当なんだと思うよ。お母さんはずっと、わたしのことを心配して、わたしのせいで壊れちゃったから」
 顔は多分、笑っている。でも、まぶたが震えている。声も震えた。喉の奥も震えた。さっと血の気が引いた。口にしてしまえば少しは楽になれるかと思ったのに、そうはならなかった。
 祖母はもう言葉を失っており、煮物に箸を伸ばしていた。真彩も居心地が悪くなり「ごちそうさま」と早々に食卓から逃げ出した。
 暗い部屋に潜り込む。ドアを閉めて、床板に身を投げた。黒い床に熱を吸い取ってもらう。一緒に記憶も持っていってほしいのに、嫌な記憶ほど頭から離れない。
 ――わたしが悪い。
 母が壊れたのも、父から遠ざけられているのも、幽霊が視えるのも、祖母に怖がられているのも、全部、あの事故のせい。自分のせい。そう思いたくはないけれど、自分のせいにしておかないと気が済まない。
 ――ねぇ、サトルくん。
 昨夜の彼を思い出す。
 ――やっぱり、わたしは生きていたくないんだ。
 頭の中の彼は、まだ叫んでいる。死にたくなかったと泣くサトルの顔を思い出すと、鼻の中が冷たくなった。
 ――でも、今さら死ぬ勇気もないから、わたしはどうしたらいいか分からない。

 ***

 暗い気持ちは苦手だから遠ざけていたのに、どうやらそういうわけにはいかないらしい。向き合うのが怖いから逃げていたのだと今さらながら気づいたサトルは、真彩の机に腰掛けていた。彼女を傷つけたことは忘れていない。しかし、罪悪感を抱えるにはこの体は脆すぎる。
 生きていたくない、と真彩から言われて一気に膨れ上がってしまったもの。溢れて出てきてしまったもの。それがまだ残っている。
「はぁぁぁぁ……」
 ため息と一緒に出ていってくれないか。そんな期待もすぐに裏切られ、ため息が落ちていく。そんな彼の背後にぬっと人影が現れた。
「わっ!」
 大声が教室に響き渡り、サトルは耳を塞いで机から飛び降りた。
「はぁぁ……なんだよ、お前かよぉ……びっくりさせんな」
 耳を塞いだまま悪態をつく。驚かせた張本人であるカナトは腹を抱えて笑った。
「あははは! 驚いてるねぇ。君、大きな音が苦手なんだっけ?」
「あぁ、そうだけど」
 不機嫌に答えてやる。
「それは昔から?」
「ん……? うん? そう、だったかな」
 すぐには思い出せない。大きな音は苦手だ。死んでからだったような。でも、大きな音は誰だって驚くと思う。爆発するような、突発的な衝撃音には何故か過剰にびっくりしている。
 カナトは探るように首を傾けて顔を覗いた。
「はっきりとは思い出せないみたいだな。それとも、忘れてるのかな?」
「どうだろ。ってか、そんなの今、関係なくない?」
「関係あるよ。あるある。君さぁ、もう少し自分のことを見つめ直したほうがいいんじゃないか?」
 偉そうに顎を反らせて言うカナト。今度はサトルが首をかしげた。
「……でも、思い出せないし。しょうがなくない?」
「そうやってすぐ諦めるから、怪物になりかけるんだよ。いいかい、サトルくん。円満に成仏する秘訣は後悔しないことだよ」
「うっわ、一番難しいこと言ってきた……」
 サトルは黒く濁った指先を隠すように握った。それでも、体のあちこちは黒い影が残っている。
「君は今までのんびり平穏に幽霊生活を送ってたんだろう? だったら、もう少しできるはずだ。真彩ちゃんと関わらなければなお良かったのに」
「いや、だって……」
 思えばそうだ。真彩を見つけて、話していたら、もう戻れなくなっていた。人と話すことの楽しさを思い出してしまった。一人でいることがこんなに心細かったなんて気づくこともなかった。仕方ないと割り切っていたものが捨てられなくなっていた。
 それはつまり、未練じゃないか。だから、真彩から離れられない。
「……たとえ怪物になっても、一時でも真彩の近くにいられるなら」
 言いかけてやめた。思わず口をついて出てきた言葉に自分でも驚く。それをカナトが聞き逃すはずがなく、怪しむように口を曲げた。
「それ、一番最悪なエンディングだね」
 口に手を当てて黙るサトルに、カナトの言葉は容赦ない。
「真彩ちゃんにも言ったけどさ、そうなった場合は僕が君を祓うよ」
「そっ、れは……」
 嫌だ。でも、消えてしまったほうがいいのかもしれない。そのほうがいい。本当なら、もうこの世に存在しないのだから。
 目を伏せて、諦めようと拳を緩めた。
「いや、それでもいい」
 投げやりに返すと、カナトは一歩近づいてきた。フードの下から苛立たしげに目を覗かせる。
「あぁもう、分かってないな。悪霊祓いってのは除霊なんだよ。浄化するんじゃなく、この世から跡形もなく無理やりに消滅させるんだ」
「無理やり……?」
「そう。言うなれば、幽霊を殺すということ。図書室の影を見ただろう?」
 水鉄砲で撃たれて消えたあの黒い影――呆気なく砕け散った誰かであったもの。あんな風に消えてしまうのは嫌だ。
「ま、君がそれでいいなら今からでもそうしてやっていいんだよ。悪霊予備軍の君にも対応は可能だし」
 そう言いながらカナトはポケットから小さな水鉄砲を出した。ちゃぽんと軽いしぶきの音が恐ろしく聞こえる。
「どうする? 今ここで死ぬか、真彩ちゃんの目の前で死ぬか。一回死んでるから慣れてるだろうけれどね、選ばせてやるよ」
 カナトの低い声。水鉄砲の照準を合わせ、引き金に指をかける。
「……どっちも嫌だ」
「おいおい、怖気付いたか。でももう遅い。君は今や、ただの未練がましい悪霊だ。それを僕が許すわけにいかない」
 一歩ずつにじり寄るカナト。そこに悪意は一切ない。使命感で働く彼の強い熱に、サトルは動けずにいた。