嘘つき。おかしな子。怖い。不気味。
周囲が遠巻きに見るから、自分から離れることにした。それがいいことだとは思ってないが、悪いことでもないだろう。
他人に合わせていたら傷つくから。そして、心配されたくないから、わざと怖がらせてみたり困らせたりする。不幸は慣れている。はずなのに。
サトルの指先みたいに、体の中が鈍く濁っていくような気がした。気持ちが悪い。思い出すと頭が痛くなる。
「何があったか、なんて聞かないわ。言いたくないなら言わなくていいんだから」
授業が始まる前に、岩蕗先生は静かに優しく突き放した。
「すいません」
「……まぁ、でも、廊下で騒ぐのは良くないわね。それに、深影(みかげ)くんに何か嫌なことでも言われたんでしょう? 怒るのは仕方ないわ」
「深影?」
思わず顔を上げると、先生はうんざりといった表情を見せた。
「そう。二年の深影銀人くん。あの子、授業に出ないしあなたと同じくサボり常習犯なんだけれど、テストだけは受けにくるのよね……で、満点をとっていくの」
先生は遠い目をして言った。どうやらカナトは教師の間でも問題児扱いされているらしい。
「少しは落ち着いてくれたかしら。授業を始めたいのだけれど」
先生の言葉はせっかちだ。しかし、不自然な行動をとった直後に、大人しく授業を受けられるわけがない。真彩は甘えるように首を横に振った。
「……困ったわね」
先生は教壇から降り、真彩の前席に座った。不必要にびくついて顔を落とせば、先生の細い指だけが視界に入る。
いつものように飄々としていればいい。むしろ困らせる勢いで、全然落ち込んでない風を装えばいい。どうしてそれができないのか自分でもよく分からない。真彩は息を止めて言った。
「――先生は、不幸だと思うこと、ある?」
「不幸?」
すぐさまきつく返される。
「……そうね。不幸と言うよりも、基本的に幸福ではないわね」
真彩はしかめっ面を持ち上げた。先生の顔も変わらず真顔で、感情の起伏がない。
「私は変な子だったのよ。マイペースで生意気で、自分の世界に浸りがち。そのくせ私のことを分かってくれる人は世界に誰一人としていない――なんて、考えてたら孤独を感じて勝手に不幸になっていたの」
まるで自分の心を見透かすような話で、まぶたの裏側が熱くなった。目が潤んでしまい、慌ててうつむく。すると、先生が冷やかすように小さく笑った。
「それは今も癖になっていて、でも考えることもバカらしくなってきて、自分のやることを見つけたらこうなった。結果、私は幸せじゃないし、不幸でもないわ」
「そうなんだ……」
「人間って幸せになっても満たされないんだと思う。欲が果てしないから。でもね、それを調整することができる」
先生は組んだ指を解いた。人差し指で弾くように叩く。
「不安やつらいことは避けられない。それなら、自分の中にある幸福のレベルを設定するの。最上の幸せから何段階かに分けて、自分を客観視してみる。そうすると今、自分がどの位置にいるのか冷静に分析できるわ」
「う……ん? うーん……よく分からない……」
先生の話が難しくなっていき、真彩は考えるのに必死だった。いつのまにか涙は引っ込んでいる。
「まぁ、分からないでしょうね。これは自分でたどり着かないと実感できないんだから。いくら他人にあれこれ言われても、納得なんてできないのよ」
先生はほどよく冷たい。優しいものも怖いから、これくらいがちょうどいい。
不思議だ。両親にでさえ疎まれているのに、遠い存在のはずの先生に親近感を覚える。サトルとはまた違う信頼だ。
真彩は背後のロッカーに座るサトルを意識した。彼はこちらに遠慮しているらしく、ずっと大人しい。何を考えているのか分からない。
「あなたが何に悩んでいるかは分からないわ」
先生の声が続く。ハッとなり、重たいまぶたを開いた。対して先生は淡々と、真っ直ぐに見ていた。
「あなたが見ているものがなんなのかも分からない。でも、力になりたいとは思ってるのよ、私は」
「そんなの……」
「でなきゃ、あなたと毎日毎日顔を付き合わせるわけないじゃない。私だって夏休みにはやることが多いのよ。部活もコーチに任せっきりだし。あなたが陸上部に入ってくれるなら話は別なのに」
「急に勧誘するのやめてください」
油断も隙もない。しかし、先生の目は真剣で、冗談を言っている節はまったくなかった。
「ま、ゆっくりでいいわ。でも、溜め込むとそれこそ不幸の思うツボだから、悩むのもほどほどにしなさいね。私はあなたの味方だから、愚痴や身の上話のはけ口にしていい。情けなくてできないなら、こっそり手紙にしてもいい。ここまできたらとことん付き合うわよ」
言動は冷たいが、その熱量は分厚い。真彩は言いよどみ、机を見た。先生は歩み寄ろうとしている。それは最初から感じていたが、改めて真面目に向き合うとむずがゆくて調子が悪い。
「わたしが見ているのは……視えてるのは……」
説明が難しい。先生なら分かってくれると信じても、植えつけられた不安はそう簡単に消えてくれない。
「影のお化け?」
先に言われるとは思わない。確認するように言われ、真彩は苦笑で歪んだ口をぱっくり開けた。
「影のお化けっていうか……ニュアンスで言えばそうなんですけど。なんていうか」
どう説明をしたらいいのだろう。後悔の怪物と幽霊なんて。
その時、最初の授業で話したことを思い出した。
「先生って……」
思わず口にしてしまう。
「先生って、怪談とか都市伝説、好きなの?」
「好きじゃない。むしろ、大嫌いよ」
素早い即答がはね返り、それが冷ややかで鋭かったので固まった。先生の目が初めて揺らぐ。
「そういうのはね、やっぱり平等じゃないもの。だから、探求して突き止めて暴いて、この世から消滅させたい……っていう願望はある。そこで選んだのが物理だったの」
「嫌いなものを調べるために? そういう理由なの?」
「そうよ」
真彩は呆れた。自分も相当変だが、先生も変わっている。本人もそう言っているので納得だ。
「ま、説明がつかないものっていうのはまだまだあるものよ。自然にそのまま存在し続けるものはあるにはあるし、ないと言えばない。はっきりとは言えないわ、だって、」
「この世に当然はない?」
「そう」
うなずく先生は嬉しそうに少しだけ頰を震わせていた。
***
補習はそれから二時間遅れて始まったが、調子を取り戻した真彩は例のごとく、授業の内容は頭に入らなかった。それもお約束だと諦めている岩蕗先生も淡々と授業を進めていく。時折、真彩のノートを気にしながら。そんな風に時間が過ぎ、十五時になれば自動的に授業が終わった。
あんなに熱く冷たい話をしたのに、帰り際は呆気なく、余韻も何もない。先生が先に出て行き、するとようやく後ろのサトルが動いた。
「今日は家まで送ってくよ」
強い口調できっぱりと言われる。そんな提案は予想していなかった。
まだ陽が明るいうちは電車内が空いている。真彩は迷いなく端の席に座り、サトルはその脇に立つ。「幽霊が席を独占するわけにはいかない」という謎の持論で真彩を言いくるめた。
「あ、海が見える」
ポールにもたれていた彼が、扉の窓から外を眺めて言った。
「え? 海?」
何度も電車に乗っているが、窓から海が見えるなんて知らない。サトルが指差す方向を見やった。鬱蒼とした薮が過ぎるだけで、海の水色は影も形もない。
「いや、地形的に向こう側は海だし。あんまり見えないだけで……あぁ、ほら、見えた! 一瞬!」
「………」
空いていると言えども、まばらに乗客がいるので、真彩は曖昧に笑うしか反応ができなかった。それを悟ったのか、彼もようやく大人しくなる。その顔は少しだけ拗ねていた。
「ふーん。海ねぇ……あ、ほんとだ」
誰にも聞こえないくらいにボソボソと返す。すると、サトルの拗ねた口が笑った。
赤月海岸は入り江状の海岸らしく、浜の白が鮮やかに見える。
「あそこが赤月海岸だよ。こうやって見ると、真彩って遠いとこからわざわざ来てんだなぁー」
「うん」
「面倒じゃない?」
「うん。面倒くさい。朝は早く起きなきゃだし、通勤ラッシュでかぶるし、おまけに町には影がいるし」
「それでも、こっちに来たかったんだ」
「うん」
海はもう見えない。トンネルに入ってしまい、サトルの姿が日向よりもくっきりと浮かび上がって見える。彼は申し訳なさそうにも、無邪気に真彩のことを知りたがっていた。
面倒くさくても、遠くの学校に行きたかったのには理由がある。
「……知らない人だらけの学校に行きたかったの。別に、高校は行かなくても良かったんだけど、お母さんが行けって言うから。だから、仕方なく。それなら遠い場所がいいなって。誰も私を知らない場所が良かった」
そうして自分で選んだのがあの学校だった。結局、成績は悪く、素行もまぁまぁ悪いので教師からは諦められているが。
「お母さんのために学校に行ってんの?」
サトルの問いは遠慮がちだった。しかし、言葉は無遠慮だった。真彩は小さく、くはっと笑った。笑うところじゃないだろうが、なんとなく口をついて出てきてしまった。
「そうかもね」
自分のためじゃないのだと気がついた。母が喜んでくれるかもしれないと淡い期待を寄せて、乗り気じゃない受験をしたんだろう。母が元気になるならと純粋に思っていた。でも――
「それでお母さんは、喜んだ?」
無遠慮ついでにさらに深く切り込んでくる。そんな彼に、真彩は眉をしかめて笑った。
「分かんない」
「分かんない?」
「うん。だって、お母さんには、しばらく会えてないから」
しばらく会っていない。会えずにいる。中学卒業までは足繁く通っていたのに、母の病室を訪ねるのが今では怖い。どうしてそんなことになったのかは、自分でもよく分からない。病室から飛び降りようとした母の気持ちをいくら考えたところで分かるわけがない。
幽霊も死も、不幸も日常だ。
「そっか……」
サトルは何を思ったのか、もうそれきり何も聞いてこず、話題を変えてきた。
「そういや、あいつ、あれから出てこなかったな」
あいつというのはカナトだろうか。
「俺、あいつから嫌なこと言われてさ。で、今朝のあれだろ。本当に信用できない」
確かに。出会い頭から毛嫌いしている相手の話を迂闊に信じこみすぎていた。後悔の怪物の話だってどこまで信じていいのか。
「ま。真彩の言っていた条件をクリアしたら、あいつに手伝ってもらうことも悪くないか……うーん、でも微妙だなぁ」
言いながら、サトルは眉を頼りなく下げた。いつものからっとしたサトルの表情だ。真彩もようやく安心し、ホッと息をつく。電車が揺れ、トンネルの終わりが見えてきた。
駅を降りると、ロータリーには買い物帰りの親子やプール帰りの小学生が賑わっている。商店街は改装したばかりで、入り口がモノトーンの小洒落た雰囲気だ。見やすいゴシック体の「くぼ商店街」を読み上げるサトルの目は好奇心でいっぱいだった。
「おぉ……」
商店街の次は、ぼってりと丸いモニュメントがある公園、人工的に揃えられた街路樹に目を移して、しきりに「おぉ」と声を漏らしている。それがうるさいので、真彩は思わず口を開いた。
「もしかして、窪に来たことない?」
「え? い、いや、来たことくらいはあるし。本屋とか、あと、駅のホームまでならあるし。てか、窪ってあんまり行くとこないし。ハンバーガー食いに来たことくらいしかないし」
言い訳の口が早い。要するにあまり来たことがないのだろう。強がったセリフの端々には負け惜しみとワクワクが隠しきれていない。知らない場所にはしゃぐ小学生のようだ。
「つーか、おしゃれすぎない? 落ち着かないんだけど」
「そりゃあ、毎日海で遊んでる野生児には刺激が強いよね」
「海にも来たことない都会っ子に言われたくない」
ふざけて尖った言葉を出せば、サトルも負けじと言い返してくる。それ以上にけなす言葉が見つからなかったので、真彩は口を結んで鼻を鳴らした。さっさと公園を横切り、煉瓦が敷き詰められた道路に入る。
まっすぐ家路に向かうと、その後ろをすいっと滑るように走って追いかけるサトル。街路樹を物珍しそうに見送る彼の目は日向色。真彩はちらりと彼の指先に目を落とした。
「あれ?」
黒く濁っていたはずが、今はまっさらだ。
「ん? どした、真彩」
こういう微細な反応には目ざとい。
「え、あ、いや……なんでもない」
真彩はすぐに指先から目を逸らした。
自宅はコの字型をした壁のようなマンションだ。セキュリティはしっかりしており、カードキーでマンション内に入ることができる。その動作を唖然と眺めるサトルに、真彩は得意げに笑った。
「要塞みたいだな。こんなの生で見たことない」
彼の感想が予想と違って拍子抜けする。
「そこまで珍しくないでしょ。まぁ、矢菱町はこういうマンションないけどさ」
「あ、待てよ……もしかして、CMでやってたニュータウンのでっかいマンションか」
サトルが指をパチンと鳴らして閃いた。ローカルCMのことだろう。確かに、ひと昔前は開発中のニュータウンとしてテレビコマーシャルや広告が市内あちこちで垂れ流されていたような。ここに引っ越して十年ほどは経つので、ニュータウンとは言えないが。
「なるほどねぇ。こんなにでかいマンションだったんだ……」
感慨深く言うサトル。真彩は反応に困り、やはり首をかしげるしかなかった。
「とりあえず、もうここでいいよ」
いつまでもエントランスに突っ立っているわけにもいかない。真彩が切り出すと、サトルは名残惜しそうな目をした。
「また明日」
小さく手を振ると、彼も顔の横で手を振る。
「また明日も、送ってくからな」
「うん。じゃあね」
ガラス戸が閉まる。サトルの色と重なっていき、輪郭が分からなくなる。彼がいつまでも離れないので、真彩はエレベーター乗り場へ先に引っ込むことにした。
その夜、海岸沿いの道路に白いパーカーを着た少年が歩いていた。暗くよどんだ空は雨足を連れている。雲行きが怪しいその真下、カナトは白線の上にある微かな痕跡をたどっていた。
「ふーんふんふん、ふーふふんー」
機嫌よく鼻歌を鳴らして、車のない道路をゆったり歩く。
彼の瞳には、幼い血と影が引きずられた痕が映されている。夜道でもはっきり浮かぶそれには、たっぷりの悲哀が刻まれていた。
影の轍に自我はない。ただ、のこり続けている。たどればたどるほど色濃く浮かぶ。
「ほうほう。こりゃあ、とんでもないものに出くわしたみたいだ」
T字路に差し掛かると、左の道に影が続いていた。次第に足が速まる。小走りで道を行けば、後方からライトに照らされた。振り向けば、闇に慣れた目には眩しい刺激。
カナトはフードを目深にかぶりなおした。車をやり過ごす。しかし、軽自動車は数メートル離れた位置で停車した。ハザードランプが点滅し、窓から誰かが顔を出す。
「深影くん」
その涼やかな声にはすぐ反応した。走って向かう。
「岩蕗センセー!」
「こんばんは。やっと見つけたわ」
その口ぶりからして、先生はカナトに用事があるらしい。無情な口が淡々と開いた。
「手短に言うけれど、あなた、一ノ瀬さんにちょっかい出すのをやめてくれない? 変なことを吹き込んじゃダメよ」
突然つらつらと責められる。遭遇したらいつもこうだ。カナトはつまらなさそうに唇をとがらせた。
「彼女にとっては大事なことなんですよ。センセーこそ、余計なこと言わないでください」
「私は何も言ってないわよ。むしろ、あの子には非存在的存在を近づけさせたくない。あなたと違って、繊細で脆いのよ」
岩蕗先生は厳しい。早口でカナトの口を封じ、冷笑を浮かべた。
「はぁ……これで教師なんだからなぁ。世の中どうかしてるよ、まったく」
負け惜しみの声で言うも、先生はツンケンした態度を崩さなかった。
「教師の前に人間なのよ、私は。とにかく、あなたは一人で勝手に幽霊退治でもしていなさい」
「でも、あの子は視えるんですよ。非常に残念だけれど」
少し間が空く。今度はこちらが優勢だ。
「……たとえそうだとしても、危ないことはさせないで。いい?」
「でも、」
「返事は?」
「……分かりましたぁ」
半ば言わされたようなものだ。先生は満足そうに「はい、ありがとう」と笑顔を浮かべて窓を閉める。そこに、カナトは指を差し込んだ。窓を掴むと、先生もさすがに目を開いて驚く。
「それじゃあ、真彩ちゃんが危なくなった時は助けてくれます?」
聞くと、先生は二度まばたきをした。次第に目を細め、怪しむようにカナトを見る。
「……教師だからね。教え子が危ないことをしてたら助けるつもりではいるわよ」
冷たい答えだが、温かみがある。それを聞いてカナトは調子を取り戻した。軽薄に口の端を伸ばして笑い、窓から手を離す。先生は挨拶もなく窓を閉めきった。車が動き出す。
「――あくまでも教師ねぇ……今どき流行らないでしょ、あんなの」
岩蕗先生の車が遠ざかる。それを見送り、カナトは影の轍に目を向けた。
「先生は視えないけど、『こっち』のことはよーく知ってる。それを真彩ちゃんが知ったらどんな顔をするんだろうなぁ」
真実は大体が残酷だ。真彩も結局は上辺だけしか知らないのだろう。自分も他人も。それを考えていたら、いつの間にか道は公園の方へと続いていた。
「ふーん……町民公園の交差点が終着か。これが示す真実は一体なんなんだろうね」
影の切れ目に問いかけても無駄だ。それでもカナトは影が訴える何かを視ようと、しばらく佇んでいた。
***
翌日は雨だった。昨日の天気の悪さから予想はできていたが、起床してすぐにざくざくと降りしきる雨が鬱陶しい。
「カナト先輩に会いに行く?」
昼休み、屋上前の階段で昼食をとりながら話を持ちかけると、思いのほかサトルは嫌がった。
「わざわざ行くの? あいつが来るまで待とうよ」
しかし、カナトは突然現れ、突然消える。神出鬼没で行動も思考も読めないが、彼がもし本当に祓い屋なら、サトルが成仏できる方法を知っているだろう。教えてくれるかは分からないが。
「でも、成仏したいんでしょ? 時間がないって言ってたじゃん」
「や、それは、そうだけど……」
渋る理由が分からない。
真彩は彼の指先を盗み見た。少し濁っているような。その視線に、サトルが気づく。
「ん? あれ? なんか黒い……」
手を払うように振るが、黒い濁りは消えない。むしろ他の場所にも飛び火する。真彩は急いで彼の手を掴んだ。冷たい風が肌を通り抜けるだけで、手は虚しく空を掴む。
「真彩……?」
「サトルくん、あのね、聞いて欲しいことがあるの」
少し区切る。短く息を吸い、真剣に言った。こうなったら迷っている暇はない。
「幽霊はこの世にとどまっている期間があるんだって。幽霊は成仏できないと、あの校門みたいな黒い影になる。後悔の怪物になっちゃうんだって……先輩がそう言ってた」
どうしてか、心がすくみそうになった。サトルの目がまともに見られず、だんだん下向きになっていく。
「……マジか」
やがて彼は小さく応えた。
「……そっか。あぁ、そう……へぇぇ」
「時間がないっていうのは、そういうことなんだと思う」
他人事につぶやくサトルに、真彩は慌てて言った。
「わたし、サトルくんがあの黒い影になっちゃうのは嫌だよ」
その言葉にはさすがのサトルも思うところがあるのか、寂しそうに目を伏せる。
「……分かった」
苦々しく、飲み込むようにサトルはうなずいた。
「それじゃあ、すぐにあいつを探そう。とっ捕まえて成仏の仕方を教えてもらおうぜ。でも、使い物にならなかったら無視だ。それでいい?」
「うん。それでいいよ」
「よし。じゃあ、早くおにぎり食べちゃって」
前向きな目になったサトルに、真彩はホッと一安心した。おにぎりを頬張る。その時、背後の屋上への扉が開いた。
「いやいや、黙って聞いてたら辛辣すぎないか、君たち。そこまで嫌われる意味が分からない」
この嫌味ったらしい響きは――カナトだ。
「出たぁっ!」
サトルが飛び退いて指をさす。それをカナトはうるさそうに手で追い払った。
「出たって、幽霊に言われる日が来ようとは……君は本当に無礼者だよね」
「どっから湧いてきたんですか」
「真彩ちゃんまでひどいな」
二人の不審げな表情を前にしてもカナトは調子を崩さない。神出鬼没で侮れない。いつから屋上にいたんだろう。
「最初からいたよ。それに昨日は話が途中だったし、僕もちょうど話がしたかったんだ」
何はともあれ、そちらから出てきてくれるなら話は早い。真彩はサトルが何か言う前に口を開いた。
「それじゃあ、昨日の続きですけど。祓い屋だってことを証明してください」
「いいよ」
あっさりとした返事。これにはサトルも真彩も同時に目を丸くした。
「ふっふー。僕くらいになれば、急なオーダーだって対応は可能だよ」
カナトは勿体つけて言った。
「君らはこの学校にいる黒い影を知っているかな?」
「校門の?」
「いや、違う。そっちも確かに影なんだけれど、そっちじゃなくて。図書室にいる黒い影さ」
「え? 図書室にもいるんですか」
前のめりに聞くと、カナトはますます調子づいて笑った。
「いるいる。それを今から消してやろう。ちなみに、校門のはダメだ。あれを消したら困る人がいるからね」
どういう理屈かは知らないが、断言されてはなんとも言えない。サトルも釈然としないらしく、腕を組んで「ふぅーん?」と高圧的に唸った。
「んじゃ、お手並み拝見といこうか」
真彩はため息を吐き、おにぎりを口に押し込んだ。
校内をくまなく見たことがないので、図書室がどこにあるか知らなかった。
教室棟の四階、一番奥にある薄暗い場所に大きなガラス戸があった。木材であしらわれた「矢菱高校図書室」の文字がメルヘンチックだ。それを眺めていると、横でサトルが「ここ、初めてきた」と感慨深げに言った。
「君たちはもう少し本に興味を持ったほうがいいぞ。図書室にはいろんなことが詰まっている。事実からフィクションまで全部」
気取った口調のカナトは扉を大きく開けた。その後ろを二人はこわごわついて行く。
「――ほら。あそこだよ」
指差す方向。テーブルと椅子が敷き詰められたスペース。そこに、隅の椅子に黒い影が座っていた。
真彩はすぐに足を止めた。何かに引っ張られるような感覚がし、抵抗しなければ足が震えてしまう。
影はゆらゆら蠢き、首をもたげた。人の形を模した影に凹凸はなく、滑らかにのっぺらぼう。これにはサトルも言葉が出ないようで、あわあわとカナトの背後に隠れた。さっきまでの威勢はすっかり鳴りを潜めている。
「軟弱だなぁ」
カナトは豪快にからから笑い、平然と黒い影へ近づいた。馴れ馴れしく片手を上げ、「やあ」と挨拶する。
「ここは君が使う場所じゃない。どいてくれないか」
それまで大人しかった影の首が九十度に曲がった。かくん、と音が鳴るように。手を伸ばしてくる。ズズッ――何かを引きずる音。伸ばした腕でカナトの首を掴む。不安定な動きをし、幾重にも腕が大きく伸びる。原型がどこにもない。
真彩は足からくる震えに耐えようと必死だった。サトルも圧倒され、影を凝視して息を止めている。
「ふん……仕方ないな。それじゃあ、強制退去ということで」
一人余裕の姿勢でいるカナトは、ポケットから小さな水鉄砲を出した。引き金を引くと、透明な水が噴射される。影の頭めがけて放たれ、これに当たった瞬間、弾けるように黒い粒子が飛び散っていった。
その最中、真彩は黒い影の顔を見た。音もなく霧散していく、かつては人だったものが苦しそうに溶けていく。
それを見ているともう立っていられなかった。その場にしゃがみこみ、冷や汗が噴き出す。
「真彩!」
「だいじょうぶ……ちょっと、怖かっただけ」
血の気が引いたように全身がだるく、力が入らない。
「ダメだなぁ。これくらいのことでショック受けられちゃ、命がいくつあっても足りない」
カナトは変わらず小馬鹿に見てきた。今は悪態にも対応がうまくできない。
「……祓ったの? あの影を」
汗を拭って顔を上げる。
「水で? それだけで祓えるんですか?」
「いいや、こいつはただの水じゃない。清めの効果がある湧き水だよ。祓い屋っぽいだろ」
真彩とサトルはどうにもバツが悪く、目を合わせた。
「ほ、ほんとに……もう影はいないんですか」
床に手をついてテーブルの下を覗く。黒い影は跡形もなく、少量のホコリだけが舞っている。
「ほんとのほんとに祓ったよ。僕にはそういう力があるんだ」
カナトの自信は伊達ではなかったらしい。これには文句のつけようがない。
「あれはね、大昔、この学校でいじめられててそれまでなんとか生きてきたけれど、病気で命を落とした人なんだ。期限までに成仏はおろか、負の感情に潰されて濁った。除霊するにはちょうどよかったな」
これに、サトルは気まずそうに言葉をつまらせる。真彩もすぐには立ち直れなかった。あの除霊が鮮明で、頭から離れない。
「そんな、簡単に……そんな、そこまで知ってて、なんとも思わないんですか」
あの影にも歩んできた人生があったはずだ。それを「ちょうどよかった」と片付けてしまうなんて信じられない。ひどい。
「何言ってるんだよ。あれは怪物だよ」
カナトはしゃがまず、フードの中から真彩を見下ろして言った。冷たい目だった。
「生者に害を及ぼす魔だ。視えない人間にその恐ろしさは分からずとも、君にはようく視えているはずだ」
「………」
「視えているから怖い。君は他人よりも現実が怖いんだろう。それなのに、魔の根源である幽霊とつるんで、まっとうに生きているつもりになっている。安心している。これは正しいことなんだと自分を正当化している。違うかい?」
「そ、れは……」
うまく声が出ない。言い返したいのに返せず、真彩はうつむく。
すると、頭の上で冷たい風が素早く動いた。
「おっと」
サトルの腕がカナトを狙っていた。白いパーカーがひらりと横に揺らぐ。軽々かわして机に飛び乗る。
「ごめんごめん、軽口が過ぎたよ。申し訳ない。僕は非力だからケンカは嫌いだ」
「俺じゃなくて、真彩に謝れよ」
「もういいよ。怒らないで、サトルくん」
真彩は慌てて立ち上がり、二人の間に入った。
正論を叩きつけられた気分で、驚いて怒りも沸かない。カナトもまた、こちらには悪びれる様子がなかった。
「……それじゃ、証明終了ってことで、サトルくんが死んだ理由でも一緒に考察するとしようか」
本当にこのままカナトに頼ってもいいのだろうか。サトルを見ると、彼はしかめっ面のままだった。指先の影が渦巻いている。空気が悪い。心なしか、図書室の気温が低い気がする。
それからサトルはあまり積極的ではなく、むしろ無口のままで、授業中も頬杖ついていた。
カナトが無理やりに、真彩のスマートフォンへ連絡先を登録したのが気に入らないらしい。居心地が悪い。そんな真彩の心配もよそにサトルは唇をとがらせて黒板を眺めていた。
今日は午後から岩蕗先生が不在だった。代わりに別の教師が交代で授業を行う。
数学の授業。正多面体の辺の数と頂点の数を求める設問を、教師が無言で黒板に式を展開した。それを真彩はぼんやりと眺めている。二人揃って頬杖をつき、首をかしげた。
教師は美しい線で正六面体を描く。その間、真彩はあの祓い屋を思い出していた。
――どうしてカナト先輩は、わたしに干渉してくるんだろう。
面白半分なのか、そうじゃないのか。しかし、真彩にはない「祓い」の力があることは確かだ。
ちらっとサトルを盗み見ると、大きなあくびをしていた。視線に気づかれる。
「真彩、授業聞きなよー」
むくれた口で言われても、授業はほとんど無言であり、年配の男性教師はただただ数式を書き連ねていくだけだ。
「……つっても、ノートとるだけだし、暇だなぁ」
覇気のない目が、少しだけ濁りを帯びている。
自覚がないのか、サトルはさっきから怒ってばかりだ。それは明らかに負の感情。影が迫っていた。
八月八日は湿り気が残る霧雨だった。連続の低気圧に頭が重い。それでも学校へ行かなくてはいけない。
昨日の様子だと、サトルとカナトの相性は抜群に悪い。カナトはともかく、サトルが心配だ。余計なストレスを与えないようにしたい。
朝食は抜いて水だけを飲む。広すぎるシステムキッチンには器具がほとんどなく、真彩のマグカップとグラスが食洗機にあった。シンクの中には、覚えのない平皿と箸が雑に置かれている。昨夜、寝る前はなかったはずだ。
「……お父さん、帰ってきてるんだ」
真彩は冷蔵庫にミネラルウォーターをしまい、汚れた皿を横目に見ながら冷たいダイニングを出た。廊下を出れば、浴室とトイレ、その向かい側に父の部屋。
「行ってきます」
扉の前でつぶやいてみても何も返してはくれない。いつものことだ。
ローファーを静かに履く。すると、部屋の扉がキィッと小さく音を鳴らした。
「――真彩?」
数日ぶりに聞いた父の声に驚いて振り返る。スーツだが明らかに寝起きでくしゃくしゃの髪だった。
「学校?」
あくび交じりに素っ気なく聞かれ、真彩はその場で固まった。
「今、夏休みだろ。なんだ、部活でもやってるのか?」
何故か今日は執拗に質問してくる。父は真彩がするように目を細めて怪しんでいた。言動は少し固い。ぶっきらぼうなのも今に始まったことじゃない。昔はよく笑っていたと思うが、もうおぼろげな記憶だ。
真彩は言葉に詰まり、視線を泳がせた。多分、普通に笑いながら答えればいいのに頰が動いてくれない。
「……いや、えっと……補習、みたいな」
「はぁ? 補習? せっかく高校に行けたのに補習って。嘘だろ」
父の驚きが胸の内をえぐってくる。怒られるかと思いきや、それとは反応が違う。嘆くような言い方だった。
「……まぁ、そういうことなので、行ってきます」
「あぁ、うん。車に気をつけて」
呆れかえった父は投げやりに返してくる。それでも今日は少しだけ話すことができたので、内容はともかく前進したと思った。
「あっ。ちょっと待て、真彩」
玄関の向こうから父がサンダルをひっかけて出てきた。
「え、何……?」
「いや、明日会えるか分からないから、今のうちに言っとこうって」
「はぁ……」
仕事を言い訳にして家に寄りつかない父だから、その言葉には説得力がある。真彩は出かけた足を玄関に引っ込めた。昔は見上げるほど大きかったのに、今では首を伸ばさなくても父の顔がはっきりと近い。絶対に目を合わせないような、後ろめたさのある目をしていた。
「えーっと……来週からお盆だろ。それで、お前をおばあちゃん家に預けるから、そのつもりでいてくれ」
「はっ?」
唐突に告げられる来週の予定。真彩は首をかしげて父の目をじいっと責めるように見た。その視線から逃げようと、父は腕時計に目を落とす。
「いや、このところお前、一人だろ。お盆なら補習もないだろうし」
「別にそんな気を使わなくていいよ」
それも今さらだ。散々、一人にしておいて急にそんなことを言い出すのも疑わしい。それに、祖母の家には行きたくなかった。
「お盆なら、叔母さんとかいるんでしょ。絶対イヤなんだけど」
「わがまま言うなよ。もうおばあちゃんに話してあるから」
「だって、わたしのこと怖がるじゃん。おばあちゃんも叔母さんも。絶対イヤだから」
「でも、最近は変なことも言わなくなっただろ。あれが怖いだの、お化けが出るだの、そういうの、もう治ったんだろ。いいから、言うこと聞きなさい」
父の声が少しだけ苛立った。その声に怯みそうになるも、真彩は頑として首を横に振る。幼い子どものように駄々をこねる。
すると、父は困惑と苛立ちを混じらせて笑った。
「はぁ……あのさぁ、お前ももう子供じゃないんだから、素直に言うこと聞いてくれないかな」
「そうやって都合が悪くなると大人扱いするんだから! なんで急にそんなこと言うの! お父さんっていっつもそう。なんかごまかしてる」
「嘘ついてるって言いたいのか」
途端、父の声が低くなった。
言い過ぎた。もう怒られる。そんな予感が瞬時に頭をよぎり、玄関に背をくっつけた。
「……お盆は、お母さんが帰ってくるんだよ」
しかし、真彩の予想とは違い、父は冷めた表情をした。非難がましい目を向けてくる。
「一時帰宅だけど、十一日から十三日まではお母さんが家にいる。だから……お前がいると、困る」
真彩はくっつけた背中の冷たさに身震いした。
――お母さんが帰ってくる。
言葉を頭の中で反芻し、その意味に気づいて呆然とする。
「そう……そっか」
目が揺らいで、焦点が定まらない。
「ごめんなさい」
すぐに謝ると、父はため息を吐いて背を向けた。
「――行ってらっしゃい」
情のない見送り。それを耳に入れるもうまく変換できずに、真彩は玄関を飛び出した。
母には会えない。会いたくない。母もきっと会いたくない。会えば混乱する。もしかすると、もう覚えていないかもしれない。自分の娘の顔を。それくらい、母は壊れている。
***
駅のホームに着くと、いつもの場所にサトルがいた。改札に立つ彼は、今日は顔色が良かった。
「おはよう、真彩。あれ? なんか具合悪い?」
「え? いや……」
真彩は目を逸らした。いつも以上にうまく言葉が出てこない。お茶を飲もうとカバンに手を突っ込むも、今日はコンビニに寄ってないことを思い出した。
「どうかした?」
「どうも、してない……」
言葉を濁すには無理があった。動揺が隠せない。それに気づかないサトルではない。
「もしかして、カナト?」
「違う! そうじゃなくて……」
慌てて口走ってしまった。でも、今は口に出さないと胸が苦しい。弱い自分を見せるのはとても恥ずかしい。
「あの、そうじゃなくて、違うの。お父さんと、久しぶりに会って、それで、ケンカしちゃって……わたし、居場所がないんだ」
支離滅裂だと自分でも思う。きれいな文章が作れないから、話すのに手間取るのはいつものこと。途中で止めて考えていたら話が勝手に進むこともよくあること。でも、今日は口が勝手に動いてしまう。
「なんか、家にもいちゃいけないみたいで。わたしはかわいい子供じゃないから、いつも怒られるし、そ、それに……お母さんも、わたしのこと、いなければ良かったって思ってるんだと、思う」
「えっ?」
サトルの上ずった声が近い。真彩は顔を上げて、目尻を持ち上げた。笑っていれば大丈夫だ。これくらい、いつものことだ。
「あはははー……あぁ、いや、もう、ほんといつものことだから、気にしないで」
「待って。どういうこと? 真彩、何があった?」
「なんにも。大丈夫だって。いつものことだし」
――あぁ、ダメだ。泣いちゃダメだってば。
透明なサトルがいつもよりはっきり視える気がする。彼の心配そうな表情を見てしまえば、せっかく持ち上げた目尻が一気に下がった。涙が落ちそうになり、それが恐ろしく感じた。
「ごめんっ、サトルくん! 今日、やっぱり学校行かない。先輩にも、そう言っといて」
口と足、どちらが先かは判断がつかない。いつの間にかホームを出ていて走っていた。
――泣くな、泣くな。
頭の中で暗示する。
――泣いたらつらいから。泣いちゃダメだって。
視界の悪いロータリーを横切る。その時、タクシーのクラクションが耳をつんざいた。
「真彩っ!」
冷たい風が吹く。雨粒が大きく旋回し、真彩の体がタクシーを避けた。
「どこ見て走ってんだよ、あの車……あぁ、もう、真彩、大丈夫? 怪我してない?」
「サトルくん……」
「ってか、お前も急に走るなよ。危ないだろ。死んだらどうするんだよ」
責められると、もうどうしたらいいのか分からない。感情が決壊した。
「わ、わたしは……別に……」
サトルの真剣な目を直視できない。
「わたしは、別に、死んでも良かった」
「………」
口をついて出た言葉は、もともと頭の片隅にあったものだ。でも、今、彼の前で口にするのは良くない。ダメだと分かっていても、もう遅い。雨が静かで、沈黙が重たい。時が止まる。
「――なんでそんなこと言うんだよ」
一度出した言葉は二度と胸の内に戻ってはこない。サトルの非難めいた目と、悲痛な声が雨を掻い潜ってくる。
「そんなこと、言うなよ」
「でも、わたしは」
思わず彼の声を遮った。
「わたしは、そんなに……生きていたくない」
最悪なことを言った。嫌われた。でも、もういい。
サトルを見ているとつらくなる。それは常にあったが、今はとくにつらい。彼の透明な目が濁っていく。それを見ていられないから、真彩は学校とは反対の道を走った。
***
学校を無断で休み、翌日も行かなかった。家に固定電話を置いてないので、スマートフォンが鳴りっぱなしだ。岩蕗先生からがほとんどだが、その中に紛れ込む深影カナトの表示がすこぶる鬱陶しい。トークアプリに、カナトからの一方的なメッセージが届く。
『真彩ちゃん、先生が怒ってるよ』
『電話くらい出たら?』
『今日来なかったら次は登校日だね』
『補習が延びちゃうよー』
『夏休み、まるまる潰れるぞー』
「……あーもう、本当にうるさい」
余計に出ていく気が失せる。一日出なかったら、もう外に出るものかと変な意地を張ってしまう。
「だって、サトルくんはわたしのこと、許してくれないだろうし……絶対に嫌われた」
あんなにひどいことを言ったのだから、合わせる顔がない。会ってなんと言えばいいか分からない。ただ、気がかりなのは、彼が黒い影になってしまわないかということ。
真彩はベッドの中からスマートフォンを追い出し、うずくまった。
エアコンで冷やした部屋で、タオルケットを体に巻きつける。こうしていると落ち着く。
外の熱気と蝉も、ひりつくように恐ろしい形相の幽霊もいない。鬱陶しい教師や先輩もいない。日曜日にはこの部屋からも追い出されるのだから、一日くらいのんびり寝て過ごそう。逃げてしまえばいい――
***
「――もう一度、お医者さんに診てもらったら?」
そう言ったのは、祖母だった。
「ねぇ、啓司。そうしてもらったほうがいいって。お母さんね、いいお医者さん知ってるから」
父と手を繋いでいた。祖母は子供だからと、何を言っても分からないだろうなんて考えていたに違いない。ズケズケと無神経に父を説得していた。
「……やっぱりそうかな」
父が不安そうにこちらを見る。その表情は、なんだか恐ろしいものを見るような、恐れが入り混じったものだったと認識している。
「そうよ。だって、理保さんもああなっちゃったんだし、絶対診てもらったほうがいいわ。だって、怖いじゃないの。幽霊が視えるだなんて、怖くて、気味が悪い」
祖母の口はなんだか真っ黒な穴に見えた。飲み込まれてしまいそうな黒い影。
祖母はそれきり、訪ねてこようとはしなかった。だから叔母の家に預けられることが多かった。でも、夕食のハンバーグが美味しかったこと以外にいい思い出がない。
「兄さん、あのね……真彩ちゃんが変なことを言うんだけど、やっぱりまだ治ってないんじゃないの?」
叔母も祖母と同様に遠ざけようとしていた。小学二年生の夏だったと思う。
「後遺症とか、そういうの怖いじゃない? もしかしたら視覚のことで困ってるんじゃないかな。だって、嫌なこと言うんだもの。黒い影がいるって。急にそんなこと言うから」
叔母の顔は笑っていたが、引きつっていた。その口が黒い穴のように見えた。
それでも父は病院に連れて行こうとはせず、平静に振舞っていた。でも、真彩の話を信じているわけでもなかった。
小さなマンションから、大きなマンションへ引っ越したのは小学三年生の頃。母の帰りを待っていたから、駄々をこねて泣いて叫んで引っ越しを拒否したのに、父に担がれて電車に乗った。
電車の景色――そう言えば、サトルと電車に乗った時には気がつかなかったが、あの光景はなんだか妙に懐かしく胸騒ぎがした。
「……あ、れ?」
沈んでいた意識が浮かび上がるように、タオルケットの視界が目の前にあった。頭がぼうっとする。もこもこと起き上がり、放置していたスマートフォンに手を伸ばした。現在、十九時。外は陽が傾いて茜と群青の中間色だった。
「うわぁ……」
時間もそうだが、通知の数が凄まじい。電話二十件、メール六十七件。岩蕗先生とカナトが交互に連絡を寄越している。メッセージはすべてカナトだった。懐かしくて痛すぎる夢を見たあとに、この通知量は目に毒だ。罪悪感もあるが、それよりもまずは「よく諦めないな」という関心が勝っていた。
暮れた暗い部屋で惰性のままに画面をスライドしていく。一件ずつ内容を見るのは面倒なのでころころと見送った。どれもこれも「連絡しろ」や「学校に来い」ばかり。真彩はげんなりと口元を歪ませて一番最後までスライドさせた。
『やらかした。まずいことになった』
目を見張る。寝ぼけていた目に力が入り、一文を凝視した。以降、メッセージはなく、何をどうしたのか具体的な詳細がない。最後の通知は十八時半で止まっている。
「やらかしたって何を……?」
嫌な予感しかなく、鼓動が速くなる。真彩はふらりとベッドから降りた。
――サトルくんになにかあったのかも。
それしか考えられない。でも、自分が行って解決するのか。それに合わせる顔なんてない。カナトの掴みどころのない言動に相手をするのも気が引ける。
しばらくうろうろと部屋の中を回り、もう一度スマートフォンに目を落とした。キーパッドを呼び出し、おそるおそる文字を打ってみる。
『何があったんですか?』
おこがましく感じながら、真彩は正直に聞いてみた。すると、待っていたと言わんばかりにすぐに返信がくる。
『サトルくんが、怒ってる』
「え……?」
ケンカでもしたのだろうか。いや、それだけならわざわざこちらに連絡を入れなくてもいいはず。
頭の回転が鈍くなる。何があったのかが分からない。予想がつかない。
真彩はタンスの引き出しから適当なカーゴパンツとTシャツを引っ張り出して着替えた。靴下は履かず、素足のままでスニーカーに足を入れ、バタバタと玄関を飛び出す。
とにかく学校に行こう。頭の中は罪悪感も後ろめたさもなく、ただただサトルの無事を祈っていた。
電車に駆け込み、空いた席には座らず外の景色を眺めていた。薄群青の空に、自分の姿がくっきりと浮かぶ。幽霊のように透けた全身に、暗い色が渦巻いている。
あれきりカナトから連絡がない。それが余計に不安を駆り立て、悪い予感ばかりが胸の中に広がっていく。
線路を走る電車に苛立ちつつ、深呼吸をして落ち着かせることも繰り返し繰り返し……段々と頭が冷静になった頃に、ようやく電車が停まった。
『矢菱町、矢菱町ー。終点です』
アナウンスの音が響き、扉が息を吐くように開く。すぐさま飛び出し、ホームの固いコンクリートを叩いて走った。昼間の熱が残る夜。改札を通り抜け、息を切らし、学校めがけて走る。
静かな道路を横切り、公園を突っ切って、路地へ。その間、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。着信。カナトからだ。
「はい! もしもし」
上がった息のままで出る。足のスピードは落ちたが、気持ちは逸っている。
『あ、真彩ちゃん! やっと出てくれたね』
「返信したでしょ。あれきり返事がないから、こっちに来たんですけど」
『あぁ、君にはこっちに来てほしかったからちょうどいい』
カナトの声は相変わらずの調子だったが、どこか強張っている。
『ちょっと大変なことになってね。サトルくんの影が思ったよりも早く進行してて』
予感はしていた。それが的中しないようにと願っていたが叶わなかった。足が疲れる。
『僕じゃどうにもできないから、真彩ちゃんから彼に話をしてほしいんだ。とにかく学校に来たら分かるよ』
それだけ告げて、カナトは一方的に電話を切った。
緩やかな下り坂を駆け下りる。角を曲がって、自転車の脇をすり抜けて転びそうになったが、足は止まらなかった。どんどん暗がりを帯びていく町の中、真彩は脇目も振らずに夢中で走る。
学校に来たら分かる――その言葉は確かに当たりだった。
小さな街灯は頼りなく、光が弱い。真彩は急ブレーキをかけ、「それ」を視た。校門は締め切っている。その格子から影が溢れ出している。大きな人を模した影。学校を覆い隠さんばかりにどんどん広がっていく。どこが顔か分からないのに、何かを訴えるように口が開いた。空洞が目の前に現れる。
「なに、これ……」
影がこちらに気が付いた。後ずさるも、影が真彩に手を伸ばす。おぼつかない動きで真彩の頭をつかもうとする。
「真彩ちゃん!」
影の向こう側にカナトの白いパーカーが見えた。
「こっちに来い! 早く!」
「どうやって!」
「その影はまだ不完全だから、君の動きにはついていけない!」
「不完全? これが?」
影の手から逃げ、校門の端まで避難する。
「まだそこから動けないんだ。こっちに隙間があるから飛び越えろ!」
影は校門いっぱいに陣取っているが、端にわずかな隙間がある。真彩は格子に飛びついて、影の手を避けながら校門を乗り越えた。飛び降り、着地に失敗して膝を擦りむいた。すぐに振り返る。カナトの言う通り、影は真彩を探すようにうねっていた。
「よく頑張ったね」
顔を上げると、カナトが手を差し伸べてくる。素直にその手を取った。
「でも、こっからが本番だ」
真彩を引っ張り上げながら、カナトが指をさす。昇降口。電気はついていない。目を凝らしても何も見えない。
「……あそこにサトルくんがいる。具合がかなり悪そうだから、とにかく話を聞いてあげてほしい」
彼の言葉はやはり相変わらず軽妙なのだが、どこか固い。背中をとんと押されて前に出る。真彩はつばを飲み、昇降口へ足を向けた。
行きたくない。合わせる顔がないことももちろんだが、今は恐れが強かった。熱気を含んだ夜なのに、一歩近づくごとに肌が粟立っている。腹の底が冷えるような気分の悪さに襲われた。
「ねぇ、カナト先輩」
思わず振り返ると、校門にいる影に見つかりそうで首をすくめた。カナトは腕を組んで、その場を離れない。こちらを監視するように見ている。
「先輩、先にあの影をどうにかできないんですか」
「できないよ。言ったじゃないか。あれは祓えない。祓うと困る人がいるから」
「それはサトルくんのことですか」
カナトは口を結んだ。それは肯定とも否定とも言えるようで、やがて彼はフードの中から宙を見上げた。
「それはまだなんとも。ともかく時間がない。君が彼にひどいことを言ったのなら、君に責任がある」
――責任……
重さに怯える。真彩はカナトに背を向けて、頬を思い切りつねった。
自分の言葉でサトルが傷ついたのなら、責任をとらなくてはいけない。今にも襲いかかりそうな影の圧迫に耐え、前方に潜む冷たい何かに向かってゆっくりと近づいた。覚悟を飲み込み、そっと昇降口の中を覗く。
「――サトルくん?」
肌を凍らせるような冷たさを感じた。中は暗く、そびえ立っていた靴箱が一切見当たらない。真っ暗な空間。そこにあるはずのものが切り取られてしまったかのよう。息が白い。奥歯が噛み合わないくらい震える。冷たい風が吹きすさび、ここは学校ではない異空間なのだと気づく。
「サトルくん!」
呼んでも何も返ってこない。自分の呼吸音がうるさい。自分が今、どこにいるのか分からない。
真彩は不安を拭おうと、凍る喉を絞った。
「サトルくん、この間はごめん。あの時、わたし、気が動転してて。それで、ひどいことを言っちゃって。合わせる顔がなくて……」
言い訳にしか聞こえないかもしれない。暗闇に足を踏み出そうとするも、骨がしびれて動きにくい。
すると、遠く彼方の方で半透明な揺らめきが視えた。
「サトルくん!」
恐怖をかなぐり捨て、しびれを振り切って、一歩踏み込む。すると、足元に波紋が広がった。水たまりに足を置いたような感覚。
瞬間、向こう側から大きな黒い波が現れた。ざわめく波が高くなり、大きく伸び上がって真彩の頭に襲いかかる。
「いやっ!」
腕で顔を覆うも黒い波を全身にかぶってしまった。しかし水に濡れた感覚はなく、冷感に包まれる。血管を流れる血がドロドロと鈍くなり、寒さは勢いを増す。振り返るとカナトの姿はなく、辺り一面真っ暗闇。出口がない。これを起こしたのがサトルなら、自分はどれほどにひどいことをしてしまったのだろう。
真彩は硬直した足をわずかにずらした。先へ進むべく凍りついた足を前に、前に。水の中を歩くようだ。歩けば歩くほど柔らかい何かに押し返される。見回せども辺りは闇一色で、どこへ向かえばいいか分からない。
「サトルくん、どこにいるの?」
いつの間にか目頭には熱がこもり、冷たい涙が溢れてきた。
「ごめん。ごめんね。わたし、あんなことを言うつもりじゃなかったの。でも、それが本音だった。わたしは、ずっと生きたくない。生きていたくない。つらいから逃げたいの。それをあんなふうに、あなたに言ってしまって、傷つけたよね。ごめん。本当は分かってるんだよ。サトルくんの気持ち、本当は分かって――」
前方にどろりとした感触があった。鼻の先にある。それがなんなのかは分からない。息が詰まった。
とぷん。
水が揺れる音。それは波の音にも似ていた。涙が落ちる音だとも思えた。
『――本当に、分かってる?』
ぼやけて反響した静かな声。高い音と低い音が二重になったよう。
真彩は頬に流した涙をそのままに顔を上げた。真っ黒の頭がある。黒い水を溜め込んだような、はっきりとした黒ではない。半透明なガラスの器に詰まった黒が彼の中で波打っている。それは膨張し、こぼれ落ちていく。溢れて止まらない。
黒が溢れ、滴り落ちる。膨張し、大きくなっていく影。そこに彼の面影はない。
真彩は言葉を失い、顔を上げたままその影を凝視した。頭の中は真っ白で何も考えられない。だが、言葉が耳にこびりついて離れない。黒に共鳴し、波を立たせて、幾重にも何度も聴こえてくる。
『本当に、分かってるのか』
――ほんとうにわかってるのか。何を。彼の何を。
また勝手に知ったようなことを言った。その場しのぎの謝罪をした。でも、伝えたかったことは伝えたつもりだ。それじゃあどう言えば良かった――
黒い影を吐き出していく。嗚咽の中に、嘲笑が混ざった。喪失した真彩を笑っているのかもしれない。耳に障る音が鼓膜を破ろうとする。
『何も分かってないだろ。何も分かってない。分かってないくせに、だからあんなこと言ったんだろ。そうだろ』
「ち、ちが……っ、そんなつもりは」
『本当は割り切ってるはずがねぇんだ。ただ、当たり前に生きていたかったに決まってんだろ』
言葉が心に突き刺さった。ナイフが胸を深くえぐっていくように、ズブズブと痛みが埋められていく。
ただ当たり前に生きていたかった――それが、彼の本心だった。考えなくても分かることだった。
『ずっと、普通の生活がくるんだって思ってた。もう目を覚まさないなんて思ってなかった。明日も気だるく学校に行って、勉強して、笑って、飯食って、遊んで、生きていくんだと思ってた。生きるとか、そういうの考えずに当たり前に生きていくはずだった。それなのに』
声は次第に小さく収縮した。それに伴い、影も縮んでいく。
『死んだなんて思いたくない。信じたくねぇだろ。そんなの嫌だ。嫌だ。嫌だ。なんで、いつの間に、どうして……どうして、死んだ』
――やめて。
喪失の中、拒否の声が脳内を巡った。自分の中で受け入れられないものが生まれた。
サトルの形をした影が目の前で泣く。見ていられない。
「もうやめて。お願い」
『聞けよ、俺の話を。もう自分でも止められない』
影が薄くなる。でも、消えることはない。溜め込んでいたものを吐き出してもなお残っている。どれだけ我慢していたんだろう。途方もない負の感情に飲み込まれ、真彩はもう立ち上がる気力もない。罪悪感と嫌悪で壊れそうになりながら、冷めた意識が首をもたげる。これが後悔の怪物だと、はっきり認識した。
「――俺は何も分かってないんだ」
黒い涙が落ちていく。声は少し落ち着いた。
「何も分からない。どうしてこうなったのか、分からない。だんだん、自分がなんなのか分からなくなっていく。忘れて、その場をしのいで、考えないようにして……気づいたらもう、遅かった。限界なんて、とっくにきてる」
闇が潮のように引いていく。寒気はまだ残っている。真彩は止めていた息を吐き、涙でぼやけた視界を拭った。
「でも、時間がないっていうのに、真彩とずっと一緒にいたいとも思ってるんだ。死んでできなくなったことを、真彩を利用して精算してるんだ。それが……それも、すごく嫌だ。でも、真彩に会えなくなるのが怖い。怖くて……暗い影に飲み込まれそうになる」
感情の重さに潰されそうだった。でも、受け止めくてはいけないのだろう。幽霊と関わった以上は。
「……サトルくん、ごめんね」
なんと言えばいいか分からない。でも言わずにはいられない。頭に浮かぶどれもが意味を持たない言葉に思えて嫌悪が走る。
「サトルくんは、成仏するべきだよ。その手伝いは最後までやるから、だから……」
――変わらないで。
最後までは言えず、固い地面を見つめた。その時、何故かあの熱を帯びた海の日を思い出した。
***
サトルの影は、時間をかけて収縮していった。しかし、あれきり言葉を交わすことはなく、彼はふらりと校舎の中へ消えていった。真彩も追いかけはせず、放心状態のまま昇降口を出た。
校門の影もいつの間にか元に戻っている。それをぼんやり見ていると、カナトから労うように手を引かれ、校庭に誘われた。
「サトルくんは君を待ってたんだよ、ずっと」
すっかり冷えた夏の夜空の下、ほとんど使われない朝礼台に座るカナトと、小さく縮こまる真彩。何も言わない真彩に対し、カナトはのんびりと話し始めた。
「ずっと待っていたら、彼の影が一気に濃くなったんだ。それからだよ、急激に暴走してしまって。僕の説得じゃどうにも収まらなくてなってね。あと少し遅かったらまずかったよ」
「そう、ですか……」
あまり話が入ってこない。でも、サトルを怒らせた理由はもうすでに分かっている。いかに自分が浅はかだったのか思い知り、涙も出てこない。
「わたしの言葉が、どれだけ影響を与えるか、まったく分からなかった。多分ずっと、わたしはサトルくんを傷つけてた。それに気づかなかったから……」
「なんて言ったんだ?」
カナトの質問が食い込む。真彩は顔をうつむけ、小さく声を濁らせて言った。
「わたしは、生きていたくないって。死んでも良かったって、言いました」
「それは、さすがのサトルくんもキレるよねぇ」
いつも怒らせるのはカナトの方だが、それを棚に上げて笑い飛ばされる。真彩は顔をしかめてカナトを見上げた。腫れた目がぬるい風に当たって痛い。
「と言っても、僕も似たようなものだね。あえて本心を引っ張り出して白状させれば、やつらは勝手に悪霊になってくれるし、そいつを祓ったほうが簡単で楽。効率もいい」
「……なんでそんなことを」
「だって、非存在だからね」
非存在、とは。言葉を頭で変換するのに時間がかかり、意味はまったく分からない。
「君は岩蕗先生から何を学んだんだよ。授業で言ってたじゃないか。やつらは常識から外れた存在であり、平等じゃないんだって。そういうことさ」
呆れの口調で言うカナト。真彩は記憶を巡らせて思い出した。
「君だって、最初はそうだったろう。関わりたくないって思っていたよね」
「それは……そうですけど」
本当にそう思っていたのか、今では自信がない。もしかすると、幽霊が視えることこそが自分たらしめる証明のようなものだったかもしれない。誰も信じないのをいいことに、他人を遠ざける理由にしていたんだろう。真彩は心臓を掴むようにシャツを握った。
「情ってのは厄介なものだよ。悪いものも許さなくちゃいけなくなるからね。だから、僕は正しいことしかしない」
彼はフードの下に隠した目を細めて笑った。そして、その形のまま言葉をつなげる。
「サトルくんが完全な怪物になってしまったら、僕は彼を祓うよ。あの図書室の影みたいに」
「……っ」
目を見張り、重たい瞼がじかじか痛む。それよりも痛いのは心臓だった。ぎゅっと握りつぶされるような苦しさを感じる。
「あはは。動揺してるねぇ。でもまぁ、しょうがないか。君は割と早い段階で彼に依存していたんだったね」
「……わたしは、サトルくんを助けたいだけです」
「それは同情から? 偽善だよ、そんなのは。何一つ優しくない。押し付けがましい優しさがあの影を生み出す」
言い返そうとしたが、言葉は出なかった。真彩はうつむいた。そもそも議論する気力はない。感情がぐちゃぐちゃとまとまらず、ただイライラする。
「わたし、どうしたらいいの……?」
どうせカナトのことだから、答えもあっさり返してくれるだろう。正義の味方はいつだって正解を述べてくる。彼は予想通り、愉快そうに笑った。
「関わらなければいいのに。馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに」
「………」
きっと、それが正解だ。
八月十一日は白かった。曇りでもなく、晴れでもない、中間のようなもやもやした天気で、それがどうにも自分の心模様と重なって気が滅入る。
母が一時帰宅する前に、真彩は父から持たされたお金と三日分の荷物を持って電車に乗った。お盆の帰省ラッシュと重なり、子供連れが多かった。いつもは沈黙を互いに押し付け合った圧迫感があるのに、今は浮足立ってはしゃぐ陽気さがギュウギュウに敷き詰められている。その中で、真彩はぽつんと目を曇らせていた。
海とは縁遠い山のふもとに祖母の家がある。私鉄窪駅から遠戸(とおど)駅まで一時間。駅前は閑散としており、箱に詰まっている楽しげな人々を見送って、真彩はトボトボと改札を抜ける。蒸し暑くも、コンクリートが薄い地域は気温がわずかに低いように思えた。
静かな古い駅舎から出て、高さのない小さなビルやアパート、古い民家を横目にバス停まで行く。
その道中、真彩は何度も背後を振り返っていた。蝉の声が降りしきるだけの道。誰もいないが、視線を感じる。背中を舐めるような感覚。人の少ない場所ではとくに感覚が研ぎ澄まされる。それは数年前から変わらずで、昔からここは魔の気配が強い。
額に汗が浮かび、こめかみを伝って流れる。真彩は頭を振って先を急いだ。
祖母の家はバスを乗り継ぎ、山の中腹まで登る。高齢者の乗客がまばらにいる一番最奥に陣取った。目をつぶっていること数分。バスは意外にもあっという間に停留所へ近づいた。
『三津目(みつめ)~、三津目~。お降りの方はお知らせください』
ボタンをさっと押して降車の準備をする。バスが停まってすぐ、荷物を抱えて駆け降りた。
あの視線は未だに消えない。真彩は心臓の鼓動が速くなっていくことを自覚していた。緊張と恐怖。幽霊は見慣れているはずなのに、反射的に怯えている。
――大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。
幼い頃、自分で言い聞かせていた言葉を脳内で繰り返す。ぞわぞわと緊張感が一歩進むごとに増していき、その度に「怖くない」と言い聞かせる。
坂を登り、足に疲れを感じていると、ようやく祖母の家が見えてきた。開けた土地には何軒か古民家が建ち並んでいる。その一つが祖母の家であり、父の実家だ。
ひまわりと朝顔で敷き詰められた庭に気をつけながら入り、玄関のドアチャイムを鳴らす。ゴーンと錆びた音が鳴った。
「はあーい」
祖母の甲高い声が扉の向こうから聞こえる。慌ただしくバタバタと駆け込む音のあと、扉が大きく開かれる。
「いらっしゃい、真彩ちゃん。久しぶり。大きくなったわねぇ」
待ちかねていたような言葉もだが、丸く張った祖母の顔がちょうど目の高さと同じで驚いた。
そして、黒い影がべったりと祖母の背中に張り付いており、真彩は思わず息を止めた。どうしてここにも影が。
「……疲れたでしょ。さ、上がって」
顔を引きつらせたからか、何も言わないからか、祖母はすぐに怪訝そうな顔をして狭い框(かまち)を上がった。祖母はすぐに目を逸らしたが、影はじいっとこちらを向いたままだ。
真彩は小さな声で「おじゃまします」と他人行儀に呟いた。
父の部屋だった一間に通され、祖母が早々に部屋を離れてから、真彩は黒い床板に座り込んだ。古くてカビ臭い。学習机だけが部屋に似つかわしくない明るい木目。ここは祖母の近くよりはまだ空気が軽かった。
折りたたみのベッドに、たたまれた布団が置いてある。前もって準備をしてくれ、待ちかねたように出迎えてくれる祖母の気持ちには応えたい。でも、優しい顔をして「気味が悪い」と言われたあの日のことを忘れてはいない。心の中に残ったままのしこりが転がるような気持ちの悪さを感じる。
――馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに。
ふと、カナトの言葉を思い出す。彼にはサトルと岩蕗先生へ、祖母の家に泊まることを伝えてもらったが、あの胡散臭い先輩がきちんと伝えてくれるのかは正直不安だった。
「忘れてしまえ、かぁ」
多分、過去のことも忘れてしまえばいいのだろう。そうやって消化していけば楽になれるのだろう。
「どうやったら忘れられるんだろ」
床にうつ伏せで寝転ぶ。熱した体が冷たく固い床に押される。寝心地は悪いが、熱を冷ますにはちょうどいい。
黒い木目を見ていると、記憶の中に吸い込まれそうだった。断片的に思い出す祖母の言葉と幽霊。確か、初めて視たのはこの家だ。なんと言ったかまでは定かじゃないが、祖母を怖がらせたのはよく覚えている。
何度もしつこく言うから、ある日、祖母は金切り声で真彩を叱った。
――怖いこと言わないで!
それは、言ってはいけないことなのだとようやく気がついた。確か、七歳の夏。それから、父は祖母の家から真彩を自宅に連れ帰った。
「……忘れたいのに」
忘れられない。つらいものほどずっと残ったままで嫌になる。
夕食は一緒にとらなくてはいけない。今日はまだ叔母が来ないらしく、祖母と二人きり。
祖母の肩にいる黒い影を話すわけにはいかないので、真彩は黙ることに専念した。あれも後悔の怪物なのだろうが、生きた人間に取り憑くとは思わなかった。絶対に目を合わせてはいけない。じっと手元だけを見ていた。
濃い味の煮物と白米、唐揚げとエビフライ、ワカメの味噌汁、ナスの煮浸し。豪華な夕食だ。しかし、食欲がないので箸がすすまない。祖母は呆れたようにため息を吐いていたが、真彩は顔を上げずに黙々とつまんだ。この生活をあと二日続けると思うと気だるくて仕方ない。
「――真彩ちゃん、もう高校生になったのね。早いわねぇ」
唐突に明るげな声を出す祖母だが、真彩はこくりとうなずくだけにした。それでも祖母は諦めずに話しかけてくる。
「学校はどうなの? 楽しい? お友達できた?」
他愛ない質問。しかし、答えがないのでやはり黙るしかない。祖母もこの気まずさをどうにかしようと必死だった。
「部活とか入ってるの?」
首を横に振る。
「あら、そうなの。じゃあ勉強を頑張ってるのかな。小学校のときはあまりいい成績じゃなかったってお父さんから聞いてたけど、ちゃんと進学できたならそれでいいよねぇ」
「んー……まぁ、うん」
「真彩ちゃんはお父さんにそっくりなんだから、勉強も運動もそこそこできるはずなのよ。もうちょっと頑張ればできるはずって」
「………」
会話がすぐに途切れてしまう。祖母は音を立てて味噌汁をすすった。
「……それで、お母さんの具合はどんな感じ?」
祖母の声音がわずかに変わる。ひっそりと声を落とし、真彩を覗き込んできた。その視線から逃げるように椅子を引く。
「最近、お見舞いには行ってないって聞いてるんだけど。本当なの?」
その質問に、真彩は「なるほど」とようやく合点した。
祖母は五ヶ月前に母が自殺未遂を起こしたことを知らないんだろう。父に聞いてもはぐらかされるので、真彩から話を聞こうとしている。
――一度も見舞いに来ないくせに。
真彩は唇を噛んだ。塩辛い味がした。箸を置く。
「……お母さんは、もう治らないって」
顔は上げずに早口で言う。ふてぶてしく口元に冷笑を浮かべて。
「ちょっと前までは立ち直ってたの。でも、わたしが中学に上がってからしばらくして、また具合が悪くなったの。ずっとその繰り返し。よくなったり悪くなったりで、この間なんて、病室の窓から飛び降りようとしたんだから」
祖母は信じられないと言うように息を飲んだ。
「え? ちょっと待って、真彩ちゃん、それ本当なの?」
「ほんとだよ。それで、わけを聞いたらさ、なんて言ったと思う?」
口が止まらない。急に全身を熱が駆け巡り、それが原動力となって言葉が止まらない。
「真彩が悪いんだって、泣いてた」
母が病室で泣く姿が鮮明に思い出される。中学を卒業したその日。あれきり、母には会えずにいる。どういう意味でそんなことを言ったのか、今となっては分からない。知りたくもない。考えて、悩んで、疲れてしまうと、自分が生きているだけで母を不幸にしているんだと気がついた。心にヒビが入っていく。
「真彩ちゃん、それは……嘘よ。絶対、お母さんは何も本気でそんなことは……」
「ううん。それも本当なんだと思うよ。お母さんはずっと、わたしのことを心配して、わたしのせいで壊れちゃったから」
顔は多分、笑っている。でも、まぶたが震えている。声も震えた。喉の奥も震えた。さっと血の気が引いた。口にしてしまえば少しは楽になれるかと思ったのに、そうはならなかった。
祖母はもう言葉を失っており、煮物に箸を伸ばしていた。真彩も居心地が悪くなり「ごちそうさま」と早々に食卓から逃げ出した。
暗い部屋に潜り込む。ドアを閉めて、床板に身を投げた。黒い床に熱を吸い取ってもらう。一緒に記憶も持っていってほしいのに、嫌な記憶ほど頭から離れない。
――わたしが悪い。
母が壊れたのも、父から遠ざけられているのも、幽霊が視えるのも、祖母に怖がられているのも、全部、あの事故のせい。自分のせい。そう思いたくはないけれど、自分のせいにしておかないと気が済まない。
――ねぇ、サトルくん。
昨夜の彼を思い出す。
――やっぱり、わたしは生きていたくないんだ。
頭の中の彼は、まだ叫んでいる。死にたくなかったと泣くサトルの顔を思い出すと、鼻の中が冷たくなった。
――でも、今さら死ぬ勇気もないから、わたしはどうしたらいいか分からない。
***
暗い気持ちは苦手だから遠ざけていたのに、どうやらそういうわけにはいかないらしい。向き合うのが怖いから逃げていたのだと今さらながら気づいたサトルは、真彩の机に腰掛けていた。彼女を傷つけたことは忘れていない。しかし、罪悪感を抱えるにはこの体は脆すぎる。
生きていたくない、と真彩から言われて一気に膨れ上がってしまったもの。溢れて出てきてしまったもの。それがまだ残っている。
「はぁぁぁぁ……」
ため息と一緒に出ていってくれないか。そんな期待もすぐに裏切られ、ため息が落ちていく。そんな彼の背後にぬっと人影が現れた。
「わっ!」
大声が教室に響き渡り、サトルは耳を塞いで机から飛び降りた。
「はぁぁ……なんだよ、お前かよぉ……びっくりさせんな」
耳を塞いだまま悪態をつく。驚かせた張本人であるカナトは腹を抱えて笑った。
「あははは! 驚いてるねぇ。君、大きな音が苦手なんだっけ?」
「あぁ、そうだけど」
不機嫌に答えてやる。
「それは昔から?」
「ん……? うん? そう、だったかな」
すぐには思い出せない。大きな音は苦手だ。死んでからだったような。でも、大きな音は誰だって驚くと思う。爆発するような、突発的な衝撃音には何故か過剰にびっくりしている。
カナトは探るように首を傾けて顔を覗いた。
「はっきりとは思い出せないみたいだな。それとも、忘れてるのかな?」
「どうだろ。ってか、そんなの今、関係なくない?」
「関係あるよ。あるある。君さぁ、もう少し自分のことを見つめ直したほうがいいんじゃないか?」
偉そうに顎を反らせて言うカナト。今度はサトルが首をかしげた。
「……でも、思い出せないし。しょうがなくない?」
「そうやってすぐ諦めるから、怪物になりかけるんだよ。いいかい、サトルくん。円満に成仏する秘訣は後悔しないことだよ」
「うっわ、一番難しいこと言ってきた……」
サトルは黒く濁った指先を隠すように握った。それでも、体のあちこちは黒い影が残っている。
「君は今までのんびり平穏に幽霊生活を送ってたんだろう? だったら、もう少しできるはずだ。真彩ちゃんと関わらなければなお良かったのに」
「いや、だって……」
思えばそうだ。真彩を見つけて、話していたら、もう戻れなくなっていた。人と話すことの楽しさを思い出してしまった。一人でいることがこんなに心細かったなんて気づくこともなかった。仕方ないと割り切っていたものが捨てられなくなっていた。
それはつまり、未練じゃないか。だから、真彩から離れられない。
「……たとえ怪物になっても、一時でも真彩の近くにいられるなら」
言いかけてやめた。思わず口をついて出てきた言葉に自分でも驚く。それをカナトが聞き逃すはずがなく、怪しむように口を曲げた。
「それ、一番最悪なエンディングだね」
口に手を当てて黙るサトルに、カナトの言葉は容赦ない。
「真彩ちゃんにも言ったけどさ、そうなった場合は僕が君を祓うよ」
「そっ、れは……」
嫌だ。でも、消えてしまったほうがいいのかもしれない。そのほうがいい。本当なら、もうこの世に存在しないのだから。
目を伏せて、諦めようと拳を緩めた。
「いや、それでもいい」
投げやりに返すと、カナトは一歩近づいてきた。フードの下から苛立たしげに目を覗かせる。
「あぁもう、分かってないな。悪霊祓いってのは除霊なんだよ。浄化するんじゃなく、この世から跡形もなく無理やりに消滅させるんだ」
「無理やり……?」
「そう。言うなれば、幽霊を殺すということ。図書室の影を見ただろう?」
水鉄砲で撃たれて消えたあの黒い影――呆気なく砕け散った誰かであったもの。あんな風に消えてしまうのは嫌だ。
「ま、君がそれでいいなら今からでもそうしてやっていいんだよ。悪霊予備軍の君にも対応は可能だし」
そう言いながらカナトはポケットから小さな水鉄砲を出した。ちゃぽんと軽いしぶきの音が恐ろしく聞こえる。
「どうする? 今ここで死ぬか、真彩ちゃんの目の前で死ぬか。一回死んでるから慣れてるだろうけれどね、選ばせてやるよ」
カナトの低い声。水鉄砲の照準を合わせ、引き金に指をかける。
「……どっちも嫌だ」
「おいおい、怖気付いたか。でももう遅い。君は今や、ただの未練がましい悪霊だ。それを僕が許すわけにいかない」
一歩ずつにじり寄るカナト。そこに悪意は一切ない。使命感で働く彼の強い熱に、サトルは動けずにいた。
とん、と胸に銃口が突きつけられる。逃げ場はない。握った拳が迷ってしまう。
「……なーんてね」
水鉄砲が下に落ち、サトルはおそるおそる目を開けた。カナトが舌を出して笑っている。
「そんなことするわけないだろう。真彩ちゃんに殺される」
「お前ぇ……ほんと、お前さぁ……ビビらせんじゃねーよぉ……」
ズルズルと床に落ちて情けなく安堵する。カナトは水鉄砲をポケットにしまい、機嫌よく机に座った。
「しかし、君は本当に未練がましいねぇ。昔はもっと短絡だったんじゃないのか?」
「そうだったんだけどな……」
よろめきながら立ち上がる。雲間から覗く月をぼんやり見つめると、窓ガラスに映った自分の目が黄色だった。顔や体には影の斑点がいくつも浮かんでいて気が滅入ってくる。
「こんな状態なんだから、そりゃあ具合も悪くなるだろ」
サトルは自嘲気味に口の端を伸ばして言った。
「戻れるなら戻りたいけど、気づいてしまったら戻れるわけないじゃん。俺は、死にたくなかった。未練しかない。それが本当の自分だ」
声に力が入らず、口に出せば影が濃くなりそうで怖くなった。そんなサトルに、カナトはやはり空気を読まずに「あははは」と笑う。
「まぁ、それが幽霊の本質だからねぇ。未練がなきゃ、とっくに成仏して転生でもしてるよ」
「転生できるんだ」
「できるよ。人間になれるかどうかは分かんないけどさ。僕は死んだことないから、なんとも言えないね」
いちいち癪に障る言い方をする。会話が面倒になってきた。
「さて、サトルくんよ」
「何」
うんざりと返事すると、カナトは人懐っこく腕を肩に回してきた。手には黒いスマートフォンを持っている。
「真彩ちゃんに連絡してみない?」
「はぁ? なんで?」
思わぬ提案に素直に驚く。目を丸く開けば、カナトは楽しそうにニヤけた。
「僕が代わりに打ってあげるから、なんか伝えてみればいい。ほらほら、遠慮はいらないよ?」
「お前さぁ、女子と気軽に連絡とれるってやばくない? 軽すぎだよ。そもそも女子と連絡先交換とか、あんまりしなくない?」
「出会ってすぐ名前を呼び捨てしておいて何を言ってるんだよ。それに、今どきSNSで気軽に繋がれる時代なんだから、同じ学校の後輩女子の連絡先くらい簡単に手に入るよ」
カナトは軽快にスマートフォンを振った。それを半眼でまじまじと睨みつける。
「時代遅れだねぇ。君がスマホ世代じゃないのはよく分かったよ」
「うるせぇな」
腕を振り払うと、カナトはつまらなさそうにスマートフォンの画面を開いた。顔を照らして、画面をスライドさせる。
「まぁ、君みたいな人にはSNSとか向いてないだろうな。知らなくていいよ」
SNSの仕組みは実際、よく分かっていない。前にトークアプリを真彩に見せてもらったが、原理が分からずに考えることをやめた。メールの本文を打ち込み、送信するまでボタンを連打していたのが、今となってはガラスの画面をスライドするだけで、会話するようにメールができるらしい。
「よし。そんなわけで、真彩ちゃんに連絡してみようか」
「どんなわけでそうなるんだよ。てか、あんなことがあったばかりで、のんきに連絡できるかよ」
「意外と君も強情だなぁ……それじゃあ、僕からなんか話しかけてみよう」
そう言うとカナトは素早く文字を打ち込んだ。気にしないようにしても、なんと送ったのか気になる。覗いてみると、カナトがいきなりスマートフォンをかざしてきた。すかさず「カシャッ」と軽いシャッター音。
「え? え、何? 何した、お前」
「写真を撮ってみた」
「なんで!?」
「真彩ちゃんに送るからだよ。まさかカメラ機能も知らないのか?」
「それくらいは知ってる!」
「じゃあ、分かるだろう。はい、送信」
カナトの指がささっと動く。容赦がない。
「はぁ? ちょっと、待て! おい、カナト!」
慌てて画面を触ろうとするも反応はない。固い電子機器をすり抜けてしまい、バランスを崩す。机に転がっている間、カナトは写真を送ってしまった。送信の速さが異常だ。
「……なぁ、それさぁ、心霊写真じゃねぇか?」
ふと思ったことを口にする。くっきりと半透明な自分が映っているのがどうにも奇妙で、なんだか笑いだしたくなる。カナトも「うわ、ほんとだね」と、今気がついたように笑った。
「もうここまできたらなんか送ろうよ。ほら、なんか伝えたいこと言って。送るから」
「あー、もう、分かったよ!」
いい加減に観念しよう。サトルは立ち上がり、真彩に送るメッセージを考えた。
***
滞在中は外に出ず、部屋の中にこもっていた。叔母家族が到着しても顔を見せようとはしなかった。
祖母と同じことを聞いてくるに違いない。母についてはもうこれ以上何も言いたくないし、言えば攻撃的になってしまうので無言を貫くことにする。夕食だけは顔を見せ、すぐに部屋へ逃げる。
外は夏色で、セミがうるさい。それなのにこの家は暗く湿っている。温度差が激しいのは、山の中だからか。
「帰りたい……けど、帰りたくない」
居場所がない。つかの間の心地良さが懐かしく、あの海の日に帰りたい。なんにも考えずにはしゃいだあの日に。
今は前を向くのが億劫で嫌になる。息苦しくてつらい。
「喉かわいた……」
余計な独り言を出さないと落ち着かない。真彩はこそこそと部屋から抜け出した。暗い廊下を忍び足で行く。陽が差さない階段を降り、居間へ向かおうとした時、階下から祖母の声が聴こえた。
「……真彩ちゃんにきちんと話すべきよ、いい? でないと、あの子まで体壊しちゃうでしょ」
電話しているのだろうか。相手は父か。
「でもじゃない。ちゃんとご飯食べて、勉強させるの。遊びにも連れていってあげなさいよ」
――余計なお世話。
ふてぶてしく脳内で毒づく。しかし、祖母の意外な一面を知り、真彩は悩んだ。記憶の中の祖母は嫌な人だったのに。
「……お母さん、兄さんなんて?」
電話を切ったあと、叔母が居間の引き戸を開けて聞いた。しばらく見ない間に、叔母は一回りほど肉付きが良くなっている。
真彩は階段に隠れて聞き耳を立てた。
「ダメ。まったく、啓司も頑固よね。すぐ意地になって聞きゃしない。真彩には自分でいろいろできるようにさせてるって」
「何よそれ、放ったらかしってことじゃない。理保さんのことで大変なのは分かるけど……あぁ、もう呆れた。真彩ちゃんだって寂しいだろうに」
「私たちが見てあげられなかったから、こんなことになってしまったのかしらね……」
祖母の寂しげな声に、叔母はため息を吐いた。表情は見えない。
――今さらだよ、そんなの。
真彩は階段をのぼり、飲み物を諦めて部屋に潜った。
***
八月十四日は、気分とは裏腹に朝陽が美しい晴天の予感だった。
早起きは苦手だが、荷造りをしようと冷たい床板に座っている。充電しないまま放置していたスマートフォンを慌てて充電し、落ちていた電源を入れる。画面に通知が何件か入っていた。
「……ん? カナト先輩ったら、また」
何やら写真を添付してきているらしい。
『元気?』と短い文章と、その下にあるのはサトルの不機嫌そうな顔。
「え!?」
思わず立ち上がりかけ、ベッドに腰を打ち付ける。思いっきり背中を擦ってしまい、痛みでうずくまる。もう一度スマートフォンを見やると、写真は変わらずこちらを見ていた。
「サトルくん……」
影がすっかり薄くなった彼の顔色は明るいとは言えない。しかし、その顔が見られただけでも冷えた心が暖かくなった。
『真彩、帰ってきたら話をしよう』
写真の下に言葉が浮かんでくる。カナトとのトーク画面だが、話しているのはきっとサトルなんだろう。
『この間はごめん』
彼の気持ちは分かっているつもりだ。だから、謝ってほしいわけじゃない。
話をしよう。でも、話すのが怖い。本当の気持ちをぶつけたら、彼もぶつけてくる。それを受け止められるか、自分に自信がない。まだ覚悟を決められない。
真彩は親指を這わせ、キーパッドをゆっくりと押した。
「真彩ちゃーん? そろそろ出発だけど、準備できたー?」
階下から叔母の声が聞こえる。バスの時間が迫り、家を出なくてはいけない。
結局ほとんど言葉を交わすことなく、真彩は朝早くから祖母の家を出ることにした。見送りには祖母と叔母が玄関の前までついてきた。夕食の残り物をタッパーに詰め込んだものをたくさん渡されてしまい、思わず眉をしかめる。
「……なんか、ごめんなさい。こんなに」
滞在中、無愛想にしていた申し訳なさがあり、またこんなに大量な料理を持ち帰るのが面倒だと思った。
「いいのよ。なんか、ちゃんと食べてるか心配だし。それに、普段は何もしてあげられないからね」
叔母はあっさりと言った。祖母は遠慮がちに口角を伸ばして笑う。
「顔が見られてよかったよ」
寂しそうな口ぶり。どちらも気にかけてくれているのは分かる。そして、気を使わせているのも分かる。
もう少し話し合えば、二人とも分かり会えるのかもしれない。そんな期待をしかけるも、勇気が出ないのでうつむくしかない。そのまま頭を下げた。
「お世話になりました」
玄関の扉を開け、ちらりと振り返る。祖母の肩にいた影が小さい。目をこすって見ていると、影がすっと空気に溶けていった。その不可解さに驚いていると、祖母が曖昧に笑ってきた。
「真彩ちゃん、またおいでね」
遠慮がちな声だったが、祖母も叔母も柔らかな表情だ。固まっていた心が緩む。
「……うん」
その笑顔に向けて手を振ると、なんだかお互いに許しあえたような気がした。
帰ろう。早く帰って、学校に行きたい。
サトルに「必ずすぐに帰る」と送ったきりで、気持ちが逸っている。
いくらか静まったもやもやは、透けた体の中心でくすぶっていた。未だに残る嫌な感情がチクチク痛んで鬱陶しい。
壁の上部にかけられた時計を見れば、九時を指していた。もし、真彩が来るならあと一時間待たなくてはいけない。サトルは真彩の隣の席に腰掛けた。まだら模様の姿を見られるのは正直、格好悪くて恥ずかしい。
「かっこわりぃーなぁー……」
つくづく自分が情けない。感情的になるのは格好悪い。真剣な態度も格好悪い。あんな泣き言みたいな醜態を晒したことを思い出し、サトルは机に顔を落とした。そのまま机を突き抜けていき、床を呆然と見つめる。
なんて謝ろう。昨夜はカナトにメッセージを送ってもらったけれど、きちんと自分の口から謝りたい。真彩は自分を責めているだろうから、余計に心配になる。
「おはよう! サトルくん!」
扉を大きく開け放ったのはカナトだった。今日も絶好調に怪しい。サトルは顔を上げるのも面倒で、手だけ挙げて振った。
「あれ、なんで机に突き刺さってるんだ?」
「突き刺さってねぇよ、バーカ」
思わぬ指摘にすかさず暴言を返す。カナトは構わず、真ん前の席にくると無遠慮に座った。そして机の下を覗き込んだ。
「せっかく真彩ちゃんが帰ってくるっていうのに、そんな調子でどうするんだ」
「えぇ……お前に励まされる日がくるなんて思わなかったわー」
「僕は善良だからね」
「どこがだよ」
いけしゃあしゃあと返ってくる言葉には思わず笑ってしまう。
顔を上げると、カナトも同時に起き上がった。
「ともあれ、話し合うってことに決めたんだろう? 僕としては君が悪霊にならないのが残念なんだけど、真彩ちゃんがこれからどうするのかを見届けたいし、こうなったらとことん付き合うよ」
「お前……本当にしつれーなヤツだよなぁ」
サトルは疲れた声を投げた。
現在、九時十五分。ふと、窓の外を見る。校門にいる影が人の形をつくり、ゆらゆらと大人しく漂っている。その様子をじいっと睨む。
「……あの影ってさ、結局誰の後悔なんだよ?」
この間の暴走からやけに大人しいが、影の形は完全に人そのものだ。漂うだけで動きはとくにない。
「それに関しては現在調査中でね。僕も誰の影か探しているんだよ」
カナトも校門の影を見ながら軽く言った。
「その口ぶりじゃ、見当がついてんじゃねーの」
「いいや。これといって全然」
「どうだか……」
悪霊祓いに関しては容赦ないカナトのことだから、すでにいくつか目星はついているんだろう。そして、教えてくれと頼んでも教えてくれないんだろう。
サトルはゆらりと立ち上がった。教室を出る。そろそろ真彩を迎えに行こう。
***
「おはよう」
改札を抜けると、目の前にサトルがいた。半透明の中にところどころ影があり、彼の体はまだら模様だった。
それを見ると動きが止まってしまい、真彩は眉を寄せて涙をこらえた。気を緩めたら感情が溢れ出してきそうで怖かった。
「……学校、行こっか。遅刻するぞ」
何か言おうとするも、サトルが先に背を向けてしまった。そのあとを追いかける。ロータリーを横切って熱した道を歩いていく。
「……あの、サトルくん」
「んー?」
彼はこちらを見ない。影に浸かった指先を隠すように拳をぎゅっと握っていた。
「体、大丈夫なの?」
「あぁ、うん。大丈夫、大丈夫。ちょっとグロいけど、全然大丈夫だよ」
彼は至って平坦な声で言う。真彩は何を返せばいいか分からず、黙り込んだ。急いで帰ると言って、家に戻って学校へ行くまで何も考えずに「会いたい」と思うばかりだった。それがいざ会ってみると、言葉が出てこなくて自分が情けない。そして、サトルのことを少し怖いとも感じている。
「真彩……」
人通りのない小路で、サトルの低い声が前に出た。足を止める。彼はまっすぐに真彩を見ていた。
「ひどいこと言って、ごめん。ごめんで済む話じゃないと思うけど、ごめん。本当にごめん」
「え……」
ひどいことを言ったのはこちらもだ。真彩は思わず腕を伸ばした。彼が震わせている手を握ってやりたかった。包むように触ると溶けてしまう。
「……ごめんね、サトルくん」
触れられないものだと分かっているのに、指はまだ掴もうとしている。
「わたしが悪いの。あんなことになったのは、わたしのせいだから……ごめんね」
サトルの指が掴めない。もどかしくて堪らない。「ごめん」と短く簡単に済ませたくないのに、ほかに言葉が思いつかない。
サトルは真彩の手から逃げるように手を引っ込めた。
「……正直、つらかった。真彩があんなことを言った理由が分からなかったから。でも、いろいろと抱え込んでるのは知ってるし、想像はつく」
真彩も顔をうつむけて、指を引っ込めた。
一歩進むと、彼も後ろへ下がり、ゆっくりと歩き出す。
「あのね、サトルくん――わたしが幽霊を視るようになったのは、事故に遭ってからなんだ」
静かに小さな声で言った。サトルは黙ったまま、地面の小石を蹴ろうとしている。多分、彼は聞いてくれる。真彩はゆっくりと、自分の奥底に沈めていた記憶を引っ張り出した。
「十年前にね、交通事故に遭ったの。頭を打って、でも奇跡的に助かったんだって。実際、そのときのことは覚えてないから分かんないんだけど……それから、わたしは視えないものが視えるようになった」
そこから始まるのは真っ暗な時代。周囲の人を怖がらせ、遠ざけられ、ついには両親からも見限られた。母は体調を崩し、入退院を繰り返す。そんな毎日。
きっと、それまでは家族三人、仲が良かったはずだ。笑顔の絶えない明るい家庭だったはずだ。もしも、あの事故がなければ――何度も見た妄想の自分は能天気に笑っている。
「この前、話したでしょ。お母さんが高校に行けって言うから、お母さんのために受験したって」
「うん」
「本当にその通りだったんだけど、でも、中学の卒業式に……それこそ、合格発表のときに、お母さんが自殺しかけたの」
桜の花びらとカーテンが揺れる景色は記憶に新しい。思い出すと、鼻の奥が痛んだ。顔を上げて涙を乾かす。
「真彩のせいだって、言われたの。それでその時、わたし、納得しちゃったんだよね。あー、わたしって生きてちゃダメだったんだなぁっ……て」
声が詰まると同時に、腕に冷たい風が巻きついた。サトルが真彩の腕を掴む。
「もういい。分かったから」
「ごめん、こんな話して。でも、わたし、別に同情してほしいとかそういうわけじゃなくて、ただ、理由を説明しないと納得してくれないと思って、それで……」
自分が嫌になってくる。こんなことなら、あの事故のときに死んでしまえばよかったのに、と何度思ったか分からない。
不鮮明で半透明。それが自分。でもこのままだと、後悔が蓄積し濁っていく。空っぽにしないと壊れてしまいそうだ。
サトルは怒った目をしている。その強い力に気圧されてしまいそうで、涙が落ちる。
「――なぁ、真彩」
優しくはない、熱の入ったぶっきらぼうな声。
「俺、こういうとき、気の利いたこと言えないから無責任なこと言うけど……真彩には生きててほしいよ」
その言葉には強い願いが込められていた。
「誰がなんと思おうと、俺はお前に生きててほしいんだよ。そりゃ、今までつらくて幸せじゃなくてもさ、でも、そんなのぜんぶ忘れて自分のために生きてほしいよ」
「そんなの……自信ない」
出口が見えないのにどうやって生きていけばいい。答えが見えないから不安になる。
「じゃあ、これだけ覚えとけ。人のせいにしない、でも自分のせいにもしない」
真彩は顔を上げた。サトルの真剣な顔が近い。目が合うと、彼は視線をわずかに下へ向けた。
「えーっと……これ、よく親に言われてて。そう言われて育ったというか、受け売りというか」
何やらもごもごと口ごもる。
「人のせいにしない、でも自分のせいにもしない。そうすれば、自分に優しくなれるだろ……って言っても、説得力ないか」
サトルは自分の指先を見て自嘲気味に笑った。
「自分が出来てないくせに偉そうに言っちゃったー……恥ずいー……」
「ううん、サトルくんは優しいし、全然できてると思うよ」
「いやいやいや、待って。ちょっとマジになりすぎて、冷静になったらすげー恥ずかしくなってきた。うわぁぁ……」
サトルは顔を覆ってしまった。それを見ていると緊張していた肩が緩む。濡れていた目じりもとっくに乾いている。
――恥ずかしがることないのに。
サトルは指の隙間からこっそり真彩の様子を窺っていた。
「まぁ……時間はかかるよ。でも、真彩には時間がたっぷりあるんだし、焦らなくていいと思う」
「ううん。サトルくん、この世に当然なんて存在しないよ」
思わず彼の言葉を遮った。でも、気休めに「時間がある」なんて思ってない。
「確かに焦らなくていいと思う。けど、当然に明日がやってくるなんて思うのはよくないって分かったんだ。サトルくんのおかげで」
最後の言葉はほんのり小さくなった。すると、サトルはようやく顔から手を剥がし、スッキリと笑った。
「それなら、ほどほどに焦って答えを見つけるしかないな」
「うん」
「よし! でも、当然はないってどっかで聞いた言葉……あ、岩蕗先生か」
サトルは納得したように笑った。そして、すぐに顔を引きつらせる。
「……あれ? そういや、今何時?」
その質問に、真彩も目を開く。カバンに入れてあるスマートフォンを出した。十時はとっくに過ぎていた。
***
バタバタ教室に行くと、すぐさま岩蕗先生の長い説教を食らった。いつもは冷静沈着なのに、今日はかなり怒りっぽい。とにかく「連絡はとれるようにして」と何度も言われ、授業が始まったのは、十一時を過ぎた頃だった。
「えーと、それじゃあ教科書二十八ページを開いて。運動方程式の設問一から四までをおさらいします」
先生が疲れた声で言い、背を向けて黒板に図を描いていく。
それを申し訳なく見ていると、スマートフォンに通知が入った。カナトだ。
『サトルくんを外に出して』
真彩はすぐに窓の外を見た。校門前に立つ黒い影と、それに対比する白パーカーが見える。
『サトルくんに用があるんだ』
カナトはなおもメッセージを送ってくる。
真彩はサトルを見た。そして、眉をひそめる彼に画面を見せた。トークアプリのふきだしに書かれた文字を、サトルは素早く読み取る。
「なんだろ……」
嫌そうな顔をするも、サトルは案外素直に席を立った。教室を出ていく。それを黙って見送っていると、図形を書いていた岩蕗先生が声をかけてきた。
「一ノ瀬さん、ノートとってますか」
「あっ……すいません」
このやり取りももう慣れてきた。それは先生も同じなのか、天井を仰いで息を吐くと教科書を閉じた。
「……もう。授業が聞けないなら、あなたの話を聞くわ。無断欠席の事情も聞きたいし」
言い逃れできるほど甘くはないようで、真彩は視線を泳がせた。校門にはカナトとサトルがいる。二人とも、何をしているのか気になって仕方ない。しかし、今は岩蕗先生から逃げられない。
真彩はこの数日間を思い返し、また校門に目をやり、半透明なサトルをじっと見つめながら言った。
「……先生、幽霊ってなんなんですか」
脈絡のない質問だっただろう。でも、岩蕗先生なら答えてくれそうな気がしている。案の定、先生は思案顔で唸った。
「そうね……私が出した結論は人間の脳が起こしている錯覚、または妄想と幻想ね」
「今日はいつもより現実的ですね」
「世の中の大半はそれよ。非存在なの。でも、否定はできない。人が死に絶えてもなお、その魂が自我を保っているというなら、それは肉体と切り離された魂という存在だと言える」
「はぁ……」
分かるような分からないような。
「もっと具体的に言えば、魂とはエネルギーのようなものよ。難しい話になるから簡単に言うと、このエネルギーは空や宇宙からくるもので、あらゆる有機物質が寄り集まって生命をつくりだしたの。こうして考えると、生命とはスピリチュアルなもので構成されているわね」
本当に難しい話になってきた。真彩は頭を抱えた。対して、先生は意地悪そうに笑う。
「ところで、魂の重さって二十一グラムなのよ。知ってた?」
それは聞いたことがない。思わず前のめりになる。
「人は亡くなると二十一グラム軽くなるという話があってね。亡くなったあとに体外へ出ていく水分が二十一グラム分だったという検証結果があるわ」
「なんだ……」
答えを聞けば途端に冷めてしまう。真彩は唇をとがらせた。それに対しても、先生は顔色一つ変えない。
「そういう不可思議なことを考えて検証していけば、確実に答えは見つかるってことよ」
「……なるほど」
真彩はとりあえず納得した。要は考えれば分かるのだ。すると、今度は先生から質問が飛んだ。
「一ノ瀬さんは、魂についてどう考えているの?」
魂とは。先生の言うとおりなら、魂とは幽霊なのだろう。肉体から離れた思念。死んでいるのに生きているもの。でも、具体的にどう考えているかと問われれば、すんなり答えは出てこない。
「……分かりません」
「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたは幽霊をどう捉えてる?」
「え……?」
自分がした質問がそっくり返ってくるとは思いもしない。真彩は「うーん」と考え、慎重に口を開いた。
「生きていた人の、後悔?」
「後悔……つまり、その人の未練ね」
「だと思います」
「それでいいと思うわよ。答えは」
先生は教卓にもたれ、張っていた肩を緩めた。囁くような声は、授業中に見せる圧がない。
「何かを迷っているなら、見方を変えればいい。分からないなら違うルートを考えればいい。原点に帰って観測し、考える。そうすれば必ず答えにたどり着けるはずよ」
そう言い放ち、先生は黒板に描いた図を指した。
***
一方、その頃、サトルは警戒しながら校門へ近づいていた。
「お、きたきた」
今朝ぶりのカナトが手招きしてくる。影もこちらをじっと見ている。真彩ほどではないが、サトルもこの影には嫌悪を抱いていた。自身に点在する影と同じだからだろうか。
「用ってなんだよ」
「うん、ちょっとね。僕なりに事件解決の糸口を掴んだんだけれど、僕よりも君にその役目をお願いしたいなぁと思って」
「はぁ」
話が急すぎてついていけない。サトルは腕を組んでうなった。しかし、思考する隙も与えず、カナトの口は滑らかに動く。
「この影の正体を突き止めたんだ。うまくいけば、君の成仏も同時に済みそうだよ」
「マジかよ」
信用は未だにないが、成仏はともかく、真彩を困らせる影をどうにかできるのならそれはすごいことだと思う。サトルは一歩近づいた。
黒くうごめく影は、成長を続けている。ここまで染まっていれば除霊しか手はないだろう。しかし、カナトは除霊をしない。悪霊祓いを生き甲斐にしている割には慎重だ。
「で、こいつの正体って? 誰の影なんだ」
「真彩ちゃんだよ。これ」
カナトの言葉があまりにも静かだったので、危うく聞き逃すところだった。だが、耳には引っかかったらしい。
「真彩……?」
「そう。真彩ちゃんそのものであり、別のものでもある。彼女が無意識に切り離した後悔の怪物だったんだ」
言ってることが分からない。どういう意味か頭で処理ができない。そんなサトルを置き去りに、カナトは感心げに続けた。
「影っていうのは、人間の裏側なんだね。肉体が死んでいようがいまいが関係ない。生きている人間を食べる、っていう話はあながち間違いじゃないんだろう……影に飲まれかけた君には分かるはずだ」
「――え、自分を調べる?」
帰り道、サトルが脈絡なく言ってきたのをそのまま繰り返して、真彩はキョトンと目を開いた。
「自分のこと検索してもヒットするわけないじゃない」
「なんでネットで調べる前提なんだよ。そうじゃなくて、ほら、いろいろあるだろ。お父さんに話を聞くとか、おばあちゃんや親戚に……って、嫌そうな顔をするな」
真彩は険しい表情でサトルを睨んでいた。慌てて目を逸らす。
「……話かー。でも、お父さんは話してくれないよ。この間、おばあちゃんがお父さんに電話してたっぽいけど、なんか、ちゃんと話したほうがいいとかなんとか」
真彩は祖母の家にいる時に聞いたものを思い出した。
「それだ!」
サトルが大声を上げる。何がなんだか分からない。
「いや、だから、真彩はなんか誤解してるんだよ。親が子供にひどいこと言うなんてさ、よっぽどの理由がないとそうはならないだろ」
「ひどいことを言う親も世の中にはいるんだよ」
真彩は目を細めて言った。サトルの口角が一気に下がっていく。
「……うーん、でもそれはそうかもしれないね」
話を聞くというのは一番効率がいい。祖母も父に「きちんと話せ」と言っていたことも含め、父が何かを隠しているのは前々から怪しんでいたものだ。向き合うのは怖い。でも、ぶつかりあっても無意味なだけだ。向こうの出方次第では冷静に話し合いができるかもしれない。
原点に帰って観測する。違うルートを考える――そうして答えが見つかるのなら、そうするべきだ。
「――じゃあ、サトルくんもお母さんから直接聞いてみたらいいんじゃないかな」
ふと思いついたことを言ってみる。思わぬ提案にサトルの丸い目が広くなった。
「え? 俺?」
「うん。だって、そうしたほうが早いでしょ。死因の特定」
「死因の特定……それは確かにそうだなー……」
一時の間。そして、同時に顔を見合わせて眉間にシワを寄せた。
「どうやって聞くんだよ」
「ごめん。わたしも言ってから気がついた」
この思いつきはすぐに却下となった。仕方なく、真彩はおもむろにスマートフォンを出した。すかさずサトルが聞く。
「何してんの?」
「検索」
当然のように返すと、サトルが慌てて画面に手をかざしてきた。
「ちょっと待て! そんなあっさり調べる? 俺の心の準備が全然できてないんですけど!」
「だって、早いほうがいいじゃない。わたし、サトルくんがまたあの影になっちゃうの、嫌だもん」
「そうだけど!」
サトルはもどかしげだった。煮え切らない。でも、早急すぎたかもしれない。真彩はスマートフォンをカバンにしまった。
「じゃあ、サトルくんがいないところで調べるよ。何も出てこなかったら図書館に行くし、サトルくんのお家にも行く。それでいい?」
「それは……まぁ、それでいいけど。ってか、なんで急にそんなやる気に」
彼の疑問はもっともだろう。真彩は視線を上にずらして思案する。でも、いくら理由を考えても分からない。いや、理由なんていらないんだと思う。
「わたしがそうしたいから、じゃないかな」
出てきた答えは笑ってしまうくらい曖昧で、でも揺るぎない。
***
八月も後半に差し掛かれば、陽が傾くように気温も傾きはじめた。だが、暑いことには変わりない。
道路に落ちたセミの死骸を避けて歩き、渇いたアスファルトの熱を靴底で吸い取っていく。そんな日常も慣れてきた。影も大人しく、不気味さには慣れないがやりすごすことができるようになった。
もしかすると、新学期から毎日登校できるかもしれない。そんな期待をしていたが、登校日の学校は賑やかさに拍車がかかった。人がたくさんいるというだけで圧倒される。日に焼けた肌が眩しく、楽しげな空気に足がすくむ。
真彩はすぐに教室から離れ、一目散にトイレへ駆け込んだ。しかし、そこにも女子生徒が多く集まっているので慌てて引き返す。人がいない場所がなく、どこもかしこも浮足立った生徒であふれている。
「むりぃ……」
学校に行き慣れたからといって、人に慣れたわけじゃない。むしろ、あの静けさが恋しくて堪らない。唯一人がいない場所と言えば、屋上に続く階段だけ。迷わず避難することにした。
「おい、真彩。何やってんだよ、そんなとこで」
呼ばれて顔を向けると、サトルが階下で仁王立ちしていた。探しにきたのか、あの人混みの中を追いかけてきたのか。こちらもなんだか疲れた様子だ。
「……まぁ、ちょっとね」
「教室に人がいっぱいいるから?」
すかさず図星を突かれる。真彩は目を細めて苦笑いした。
「俺はああいう空気、好きだったけどなぁ」
「あーね。サトルくんって陽キャ属性だもんね」
「ん? なにそれ?」
「なんでもない」
たまに話が噛み合わないのは、なんとなく感じている。真彩はここ数日考えていたことを頭の中で整理した。
「……サトルくん」
舌をゆっくり転がしながら言葉をつくる。
「あのね。わたし、今日は図書館で調べてみようと思ってるんだ」
「図書館? なんで?」
目を向けると、彼はキョトンとした目でこちらを見ていた。
「新聞のバックナンバー。他にも、調べる手はいくつかあるよ。サトルくんはここの在校生だったから、学校にも記録があるはずだし、やろうと思えばいくらでもできるの」
しかし、真彩は浮かない顔のままでいた。もやもやと気が晴れない。やる気は起きないが、また別の悩みがあった。
「でもね、いくら証明したところで、サトルくんが納得できるとは思ってない」
サトルは驚いた瞼をゆるゆると下ろした。そして、小さく笑う。
「うーん……要は俺が納得できるかどうか、それが問題なわけだ」
「うん」
サトルの影はまだ残っている。それを取り除くのはもう無理だろう。それでも、きちんと解明しなくてはいけない。どうして彼が死ぬに至ったのか。その理由を知りたい。そして、自分のことも知らなくてはいけない。こちらのことは後回しにしてしまっている。
「真彩はどうなんだよ」
ちょうど考えていたところにサトルが目ざとく聞いてきた。言葉に詰まる。
「や、そこは、ちょっと……まだお父さんと会えてないから」
しどろもどろに返すと余計に怪しい。サトルの探るような目が痛い。
「なぁ、真彩」
「はい……」
「もうすぐホームルーム始まると思うんだけど、戻らなくていいの?」
親指で廊下を指すサトル。そのちょうどにチャイムが鳴る。真彩は手すりを握って固まった。
「やだ、行きたくない」
「ダメ。行ってきなさい」
かしこまった口調で言われるが、こちらも負けてはいられない。激しく首を横に振って動かないアピールをする。
「やだやだ。帰る。もう帰る!」
「すぐ終わるだろ。いいから行って来い!」
サトルの指がふわっと首を触る。氷を当てられたような鋭い冷たさに思わず立ち上がる。
「やめてよ!」
「じゃあ教室に戻れ」
ビシッと扉を指すサトル。その顔はふざけたようなしかめっ面だった。それにはもう敵わない。
「……分かりました。分かりましたよ、まったく。あーもう、帰りたい。だるいだるい帰りたーい」
「いいからさっさと行け」
扉を開けて、むくれ顔を向けてやる。サトルは追い払うような仕草をした。それを冷やかすように笑い、重たい足を教室に向ける。
校舎の中にいると耳がうるさい。真彩は冷えた首筋をなぞりながら、壁伝いに教室へ向かった。
***
真彩が壁を這うように教室へ戻るのを見届けて、サトルはすぐに二年三組の教室へ向かった。制服を着崩した連中はクラスに何人かいるが、この真夏日にもパーカーのフードをかぶったままの生徒は本当に目立つ。意外とあっさり見つかった。
「おい、カナト」
カナトは大人しく机に寝そべっていたのだが、サトルが目の前に現れた途端に顔を上げた。
「おぉ、サトルくん。遠路はるばるようこそ」
寝ぼけ眼であくびを噛みながら言う。そんなカナトにクラスメイトたちは気にしていないようだ。それならこちらも遠慮なくここで話をしよう。
「真彩が図書館で俺の死因を調べるってさ」
「ん? んん? え、なんで?」
「とぼけんな」
「とぼけてないよ。寝ぼけてるだけ……あぁ、OK。そう怖い顔するな」
小さく両手を挙げて笑うカナト。彼は咳払いし、考えるように言った。
「えーっと、つまり、真彩ちゃんが突然行動を起こしたものだから、僕が絡んでるんじゃないかと疑っているわけだ。なるほど」
「お前じゃねーの?」
「だから言っただろう。僕は君に真彩ちゃんのことを頼んだんだ。僕じゃ役不足だからね」
確かに、カナトは先日、校門の影を前にしてそう宣言した。
「僕の目的はね、そもそもあの影が誰なのかを調べることだった。最初は君のものだと思っていたんだよ。でも、影を切り離す幽霊なんて前代未聞。そしたら、色々と見えてきた。その決定打となったのがサトルくん、君の暴走だ」
早口に説明される。
「あの時、君の体内には黒い影が渦巻いていた。ということはつまり、君は普通の幽霊で、負の感情に飲み込まれかけていたんだよ。そうなれば、じゃああの影は誰かって話になる」
「俺が影に飲み込まれそうになったとき、あの影は……」
「校門にいた。て言うか、ずっとそこにいる。そして、干渉したところで中身は空っぽだった。全然視えなかったんだよ、こいつの記憶が」
カナトは忌々しげに影を指差した。
「僕は幽霊に触れられる、干渉できる体質だ。僕には、真彩ちゃんよりもいろんなものが視えるんだよ」
サトルはごくりとつばを飲んだ。恐れと不安がよぎり、指先にある影がわずかに揺らぐ。
「この影には記憶がない。というか、後悔と不安、恐怖という感情だけがここに置き去りにされている状態だ。それは幽霊じゃない。悪霊でもない。正体不明の怪物だった。でも、真彩ちゃんの昔話を聞いて確信した。これは彼女なんだって」
衝撃的な真実にサトルは肩を落とし、しゃがみこんだ。頭を抱える。
「えーっと、じゃあつまり? この影は真彩自身のもので、真彩が捨てた怪物ってこと?」
「そう。人間の裏側、すなわち影。生きた人間が影を消化せずに捨てるっていうのは良くないことだ。でも、ここまで膨れた影を一気に返すと彼女の体は耐えられないだろう」
「……返したらどうなる?」
あまり考えたくない。サトルはしゃがんだままでいた。
「壊れるだろうな。確実に」
頭にカナトの声が無情に振ってくる。サトルは細い息を吐いた。努めて冷静でいようと耐える。
「どうにかならないのか? 除霊、だっけ? そういう、なんかお前の力か何かで」
「除霊したら、今度は彼女の記憶や感情が危うい。生身の人間にそんなことをしたら、魂が死んでしまうかもしれない。君は真彩ちゃんを廃人にしたいのか」
「んなわけねぇだろ!」
思わず声を荒げると、影が腕にまで達した。こちらも猶予はない。
「まぁ、君はそう言うだろうね」
カナトは悪びれずにさらっと言った。だが、視線はいつになく険しい。
「……どうしたらいい?」
何かできることはないか。打つ手はあるはずだ。真彩が何かを克服したらもしかすると、影が消えるかもしれない。そんな希望をいくつも考える。それがたとえ浅はかなものだとしても、真彩を助けたい。そこに理由なんてない。
「一番いいのは、真彩ちゃんが抱える後悔の原点を知ることだね。そして、その解決。要は、彼女が認めれば済む話。その説得を君に任せるよ」
思い返すも、やはり無理難題を言っている気がする。でも、それしか方法がないのなら真彩に認めさせるしかない。
「僕が動かずとも彼女は答えを見つける気なんだよ。誰に言われたってわけじゃなく、自分で決めたんだ」
「……それが本当ならいいけどさ」
渋々納得する。カナトの言葉は信用できないのに、妙な説得力がある。認めたくはないが。
「――サトルくんよ」
机に寝そべったまま、カナトが言う。なんだか邪推するように粘っこい目つきだった。
「未練の上に未練を重ねてどうするんだ。偉そうに僕を咎める前に、まずは自分の気持ちをはっきりしなよ。君は、真彩ちゃんのことが好きなんだろう?」
確信ありげな言葉と人差し指を真っ直ぐ胸に突きつけてくる。
「……へ?」
思考が止まった。こちらの真剣さとは真反対の話題に、頭が追いつかない。
「ん? 違うの?」
カナトの指が残念そうに下がっていく。
「てっきりそうだと思ったのに」
「はぁ? おまっ、お前、何言ってんの!?」
慌てて周りを見回したが、こちらに注目する生徒はいない。それなのに恥ずかしさが顔に集中する。
「んなわけ、ないだろ! 意味わかんねーよ!」
感情と声が同時に上ずった。それを見て、カナトは頬杖をつき、遠い目をした。
「ガキだなぁ……」
「うるせーな! いいか! それ、真彩に言ったら、」
「言ったら?」
「……えーっと……呪う?」
我ながらバカなことを言っていると思う。
「そいつは恐ろしいや」
カナトはもう相手にするのも面倒だと言いたげに、机に伏せてしまった。
矢菱町の図書館は町民センターの中に併設された建物だ。演芸ホールと図書館、託児所、会議室などが入った複合公共施設だが、規模は小さい。
結局、膨大なインターネットではいくら検索をかけてもたどりつくことができなかった。それなら最初から頭にあった図書館で調べるしかない。それでも出てこないなら最終手段だが……これは避けたいところだ。
「新聞に載ってるものかね……」
サトルはずっと乗り気じゃない。それでも真彩は足を速めて図書館を目指した。あの海岸沿いを通り抜けると、T字路がある。そこを左に曲がって道なりに進むと、矢菱町民公園があった。鬱蒼と茂る林を横目に、スマートフォンで地図を見ながら位置を確認する。
「小さな町だし、病気が原因じゃないなら事故だと思うの。それは結構、最初の方で考えてたんだけど……あ、あった」
歩いていくと林の向こうに丸いドーム状の建物が見えた。公園内にあるので、そのまま入り口を突き抜ける。その後ろからサトルがついてきた。ノロノロと足取りが重たい。真彩は振り返って彼を見た。
「どうしたの?」
「いや……俺、怖いよ」
しおらしく言われると、こちらも迷いが生まれる。真彩は彼のもとに戻った。
「だってさ、くだらねー理由で死んでたら嫌じゃん? 俺、納得できる自信ない……」
「くだらない理由なんてあるわけないでしょ」
いつもより弱気なサトルに調子が狂う。確かに、自分の知らない過去を知るのは勇気がいる。真彩だってそれは同じことだ。もし、何か隠されているのなら――それを知ったとき、どうなってしまうんだろう。
「じゃあ、ここで待ってて。サトルくんが決心したら入ればいいし」
こうなったら一人ででも行く。真彩は図書館に足を向け、サトルを気にしながらも建物の中に入った。
初めてくる図書館は広く、古臭いにおいがした。ワンフロアに棚を敷き詰めているような空間で、人は多くない。学生が大半だったが子供連れの親子も見かけた。
入り口付近の壁に案内板があり、それをじっくり眺める。時折、出入りする人がこちらを見ていたが気にせず、目当ての場所を探す。しかし、新聞のバックナンバーがある棚はどこにもない。
真彩は中央カウンターに行き、タッチパネル式の検索機を探した。しかし、機械は置かれていない。図書館なんて初めて来るものだからどうしたらいいか困ってしまう。本屋に立ち寄るような気軽な考えでいたのが間違いだった。
「何かお探しですか」
メガネをかけた黒髪の女性が声をかけてくる。
「あ、えっと……」
「本のタイトルを教えていただければこちらでお探ししますよ」
何も答えられてないのに、女性司書は滑らかに事務的な言葉をかけてきた。そこまで言われれば逃げ場がどこにもない。真彩は緊張で声が裏返らないか不安になりながら、小さく口を開いた。知らない大人を相手にするとどうにも口がどもってしまう。
「あ、あの。えーっと……そのぉ、新聞を……」
「新聞ですか。いつ頃の?」
「いつ頃……」
「全国紙、ブロック紙、スポーツ紙、地方紙を置いてますが」
「あ、あの、この近所で起きた事件とか、そういうのが載ってるのでお願いします。七月から八月までの」
うまく伝わったか自信がない。案の定、女性司書は怪訝な表情を見せた。
「少々お待ち下さい」
カウンターの奥にある扉へ入っていく。しばらく戻ってこない。
真彩はカウンターに手を置き、ゆっくりと深呼吸した。やっぱりサトルと一緒に入るべきだった。この際、カナトでもいい。つくづく自分が甘いことを痛感し、情けなくなる。
「お待たせしました。過去十年分、七月と八月の地方紙です」
扉を開け、司書が戻ってくる。台車に積んだスクラップファイルがカウンター脇から現れ、真彩は驚いた。口元を引きつらせながら「ありがとうございます」と早口に言う。とりあえず上にあるファイルから持ち出し、誰もいない長机に陣取る。
ファイルを開くと、古びた紙とインクのにおいが鼻を刺激した。大きな見出しだけを送り、パラパラと目ぼしいものだけを探す。どうやらファイルは昨年分から順に過去へさかのぼっていくらしい。
一冊目は昨年分。大きな事件や事故のニュースはない。二冊目は一昨年。交通事故の記事がいくつか見つかったが、サトルのことではないようだ。
一冊ずつさかのぼっていく度に緊張が気持ちを逸らせる。もしかすると、的はずれなことをしているのではないか。そんな焦燥にも駆られる。
三年前もなし。この年は事件も災害もなく穏やかな夏だった。
四年前。矢菱高校の陸上部が区大会で二連覇。矢菱高校という文字を見るだけで鼻の穴が膨らんだが、中身をざっと読んでみればそれらしいことは何も記述されていなかった。
五年前。矢菱高校陸上部、区大会初優勝。そして、遊歩道施工の予算が下りず延期の発表。
六年前。矢菱町民公園前の道路補整工事が町議会で決定。また、付近の横断歩道をバリアフリー化する議題が提案される。その記事にはあまり関心が持てず、次に目を移す。
七年前。道路交通整備を強化。沿道の整備工事について、町議会の過半数支持を得た。
「………?」
めくる手がわずかに止まった。沿道の工事なんてされていない。七年前にそんな決定がされていたなら、とっくに歩道ができているはずだ。ふと、五年前のファイルに戻った。「予算が下りずに延期」とある。交通事故を体験した身でもあり、なんとなく嫌な気分になった。
八年前。一昨年の事故を受け、町議会は道路交通整備対策を公表するも議会内で賛否が分かれる。これにより矢菱高校の教師、生徒、保護者を含む署名活動が行われた。
「矢菱高校?」
これが八年前の記事。真彩は堪らず九冊目を取った。
九年前。どこにも詳細はなく、異常気象を取り上げるだけだった。肩透かしを食らった気分だが、まだ新聞は残っている。真彩はごくりとつばを飲み、指を曲げ伸ばしておそるおそるファイルを開いた。
「あれ?」
ページをめくる手が早くなる。しかし、事件や事故に触れた記事は一切見当たらない。
「どういうこと?」
八月三十一日まで、何らかの事故をほのめかした記事はない。真彩は何度もページを戻り、ファイルを開いたまま固まった。
「……調べ物は見つかりましたか」
背後から声がかかり、すぐさま振り向くとカウンターにいたメガネの女性司書が立っていた。
「あ、いや、まだ……」
「バックナンバーはすべて所蔵していますが、どうしますか」
「えーっと……」
考える。八月三十一日まで記事がないのなら、それ以外の八月上旬――いや、上旬なら下旬にもそれらしい記事がどこかにあるはずだ。だったら――
「あの、九月の新聞をお願いできますか? 十年前の九月です」
ここまできたら引き返せない。目に力を込める。
女性司書は腕時計を見た。
「少々お待ち下さい」
司書は何か言いたそうな顔だったが、すぐにカウンターへ戻っていき、奥の所蔵庫へ入っていった。
真彩は辺りを見回した。時刻はもう十七時を過ぎている。閉館時間だ。申し訳無さを感じつつも、知りたい気持ちが強い。サトルに何があったのかを知りたい。
「お待たせしました」
司書が一冊のファイルを小脇に戻ってきた。そして、何も言わずにその場を離れていく。お礼を言おうと口を開くも、もう棚の影に隠れてしまった。
九月一日の一面は高校野球の記事だった。なんとなく安心する。しかし、緊張感は高まる一方で、ページをゆっくりめくる。細かな文字が羅列され、あまり読む気にはなれない。どうしても太いゴシックや明朝の見出しだけに目を留める。二面、三面は経済状況や町議会の内容。斜め読みしていく。目が四面へ差し掛かる。そして、下段に小さく明朝体の見出しを見つけた。
『町民公園交差点で事故、男子高校生意識不明』
***
どうやって図書館を出たのか覚えていない。ただ、目の前のベンチでサトルがぼんやりと座っているのが見え、堪らずそこから逃げ出した。
――どうしよう。
サトルに見つからないよう、建物の裏手へ回る。心臓が忙しなく早鐘を打ち、止められそうにない。足は勝手に走っていき、公園から遠ざかる。
――わたしは、大変なことを知ってしまった。
静まった空は水をたっぷり含んだような浅い群青だった。赤い夕陽が飲み込まれていく。風のない渇いた道を逃げるように走った。黒いアスファルトのカーブには車輪の痕がある。遊歩道のない沿道をひたすら走る。
真彩は真っ直ぐに家路へ向かった。電車に乗り、改札を抜けて自宅マンションまで足が自然に歩いていく。頭の中はぐるぐるといろんなことが巡っている。絵の具を好き勝手に混ぜたような、色がもつれて黒ずんでいくような。
暗くなった道をただひたすらに歩く。ゆっくりと、倒れないように気をつけて。体に何かのしかかるような重さがあったが、それがなんなのか考えもつかない。想像したくない。
喪失の中、やっとの思いで家の鍵を開けると、珍しく玄関の灯りがついていた。リビングにも。
真彩は廊下の板を踏みしめ、ふらつくように居間の扉を開けた。
「あ、真彩」
珍しくこんな時間に父がいる。
「お前、いつもこんな時間に帰ってるのか。夏だからって高校生がフラフラと」
そんな小言を受けて、真彩は前髪の隙間から目を覗かせた。父がすぐに目を背ける。その言動に、すぐ反感が湧いた。
「いつもはそっちが帰らないくせに」
「それとこれとは別だ。お前に何かあったら」
「いつもわたしを一人にしてるくせに」
すぐに歯切れが悪くなる父。何を言えばいいかためらっている。だが、何を言いたいのか伝わらない。口だけの心配はいらない。
真彩はカバンを床に放り投げた。突き抜けるような衝撃音がし、父は口を閉じる。
「仕事が忙しいって嘘でしょ。本当はお母さんのとこにいるんでしょ。なんで本当のことを言ってくれないの?」
顔は上げられなかった。床を睨んでいると、目から涙が落ちてきた。木目がふやけていく。
父から言葉はなく、時折、唸るようなため息が落ちてきた。答える意思がないのか、何か隠そうとしているのか。だったら、こちらから聞けばいい。
「ねぇ、お父さん」
声は荒く、喉が震える。
「わたしが事故にあった場所、どこだったの?」
「何を急に……」
「ごまかさないで。どこだったの?」
すると、父の足が弾かれるように動いた。真彩の肩に手を置く。
「誰かに何か言われたのか?」
父の声と表情には衝撃が張り付いていた。その剣幕に驚くも、真彩はすぐに言い返した。
「先に答えて。どこだったのかちゃんと教えて」
父の目が泳ぐ。絶対に目を合わせない。いつだってそうだ。いつの間にかお互いに拒絶し合うようになって、母のことも自分のことも家では禁句対象になった。
もう言い逃れはできないと悟ったのか、しばらくの沈黙後、父は肩を落として言葉を吐き出した。
「……矢菱町民公園の、交差点」
「十年前の八月三十一日?」
「そう」
「その時、わたしをかばって亡くなった男の子がいたよね? 矢菱高校の西木覚くん」
素早く言うと、父は顔を勢いよく上げた。ようやく合った目には恐怖の色があり、目尻のシワが深くなる。
「どうしてそれを」
「今日、調べた」
答えはとっくに出ている。全部分かっている。でも、きちんと口から直接聞きたかった。父はそれでもごまかそうとしていたが、やがては観念したように項垂れた。
「……そうか」
その声があまりにも絶望的なので、真彩は少しだけ怯んだ。頭の中は混乱しかなく、父がそこまでして隠したがる意味が分からない。思考はすでに正常ではない。
「――知らなくてよかったんだ」
床にしゃがみこむ父はいつの間にか小さく見える。しおらしくされればこちらが悪いように思え、真彩は顔をしかめた。不愉快と苛立ちで頭が沸騰しそう。
「いいことないでしょ。わたしのことなのに。わたしのせいなのに」
「そうやって自分を責めるだろうから黙っていたんだ」
かぶせるように言われ、すぐに口をつぐんだ。
「知らなくていいと遠ざけて、引っ越して、でも、起こってしまったことはどうにもならない。なんとか蒸し返さないようにするだけで精一杯だった。お母さんと話し合って決めたことなんだ。だから……分かってくれよ、真彩」
「分かんないよ、そんなの」
受け入れたくない。頭では分かっていても、父がどんなに自分を思っているか理解しても分かりたくない。受け止められない。前なんて向けるわけがない。信じたくない。そうじゃなければいいのにと叶いもしない望みを捨てきれない。まだ立っていられるのが不思議だった。
震えながらダイニングに行き、椅子に腰掛ける。引きずる音が耳障りなくらい、部屋は静かで暗すぎる。
父もふらりと立ち上がり、椅子を引いて真彩と向い合せで座った。指を組み、暗い表情のままうつむいて口を開く。少し前に玄関で口論したときより、父の顔はやつれて見えた。
「……十年前、公園前の交差点で事故にあった。その時、高校生の男の子が真彩をかばって一緒に車に轢かれた。どっちも頭を強く打って意識が戻らなかった……そして、男の子は、亡くなってしまった」
全身に力を込めていないと、聞いていられない話だった。それは父も同じで、指の関節が白くなるほどに手を強く握っていた。
「それで?」
まだ話は終わってないはずだ。先を促すも、父の口は相当に重たかった。時計の秒針がうるさい。一秒が長く感じる。
「それで……向こうの親御さんには、お母さんと一緒に謝罪をしに行った。許されることじゃないと思ってたけど、でも、こっちもそれどころじゃなくて、幸いにも向こうもそれは分かってくれて、お互いには大事にならなかった」
息が詰まる。耳を塞ぎたい。でも、知らなくてはいけない。もう引っ込みはつかない。
時折、重たい息が落ち、咳払いでつっかえながらも父はゆっくりと静かに話した。
「でも、大事になったのはそれからだった。新聞で取り上げられてから、騒ぎが大きくなって……家に取材が来て、病院でも追いかけられて、それで……」
「お母さんが体調を崩したのはそれが原因?」
「あぁ」
「じゃあ、お母さんが自殺しようとしたのも、わたしがサトルくんと同じ学校を受験したから?」
「それは……」
父は言葉を早々に諦めた。それだけで、何を言いたいのか分かってしまう。
――そういうことか。
胸に残っていたしこりが無造作に転がる。そんな気持ち悪さが全身に回った。
――やっぱり、わたしが悪いんだ。
「……お父さん、ごめんなさい」
「謝るな。真彩は何も悪くない。頼むから、謝らないでくれ」
そう思ってくれるなら――そんな無責任な言葉が出てきそうで口をつぐむ。
――そう思ってくれるなら、どうしてこっちを見てくれないの?
もう絶対に戻れない。そんなところまで来ている。話し合えば解決するだなんて、甘いことを考えている場合ではなかった。自分は生かされて生きている。その重みがあまりにも苦しい。