電車に駆け込み、空いた席には座らず外の景色を眺めていた。薄群青の空に、自分の姿がくっきりと浮かぶ。幽霊のように透けた全身に、暗い色が渦巻いている。
あれきりカナトから連絡がない。それが余計に不安を駆り立て、悪い予感ばかりが胸の中に広がっていく。
線路を走る電車に苛立ちつつ、深呼吸をして落ち着かせることも繰り返し繰り返し……段々と頭が冷静になった頃に、ようやく電車が停まった。
『矢菱町、矢菱町ー。終点です』
アナウンスの音が響き、扉が息を吐くように開く。すぐさま飛び出し、ホームの固いコンクリートを叩いて走った。昼間の熱が残る夜。改札を通り抜け、息を切らし、学校めがけて走る。
静かな道路を横切り、公園を突っ切って、路地へ。その間、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。着信。カナトからだ。
「はい! もしもし」
上がった息のままで出る。足のスピードは落ちたが、気持ちは逸っている。
『あ、真彩ちゃん! やっと出てくれたね』
「返信したでしょ。あれきり返事がないから、こっちに来たんですけど」
『あぁ、君にはこっちに来てほしかったからちょうどいい』
カナトの声は相変わらずの調子だったが、どこか強張っている。
『ちょっと大変なことになってね。サトルくんの影が思ったよりも早く進行してて』
予感はしていた。それが的中しないようにと願っていたが叶わなかった。足が疲れる。
『僕じゃどうにもできないから、真彩ちゃんから彼に話をしてほしいんだ。とにかく学校に来たら分かるよ』
それだけ告げて、カナトは一方的に電話を切った。
緩やかな下り坂を駆け下りる。角を曲がって、自転車の脇をすり抜けて転びそうになったが、足は止まらなかった。どんどん暗がりを帯びていく町の中、真彩は脇目も振らずに夢中で走る。
学校に来たら分かる――その言葉は確かに当たりだった。
小さな街灯は頼りなく、光が弱い。真彩は急ブレーキをかけ、「それ」を視た。校門は締め切っている。その格子から影が溢れ出している。大きな人を模した影。学校を覆い隠さんばかりにどんどん広がっていく。どこが顔か分からないのに、何かを訴えるように口が開いた。空洞が目の前に現れる。
「なに、これ……」
影がこちらに気が付いた。後ずさるも、影が真彩に手を伸ばす。おぼつかない動きで真彩の頭をつかもうとする。
「真彩ちゃん!」
影の向こう側にカナトの白いパーカーが見えた。
「こっちに来い! 早く!」
「どうやって!」
「その影はまだ不完全だから、君の動きにはついていけない!」
「不完全? これが?」
影の手から逃げ、校門の端まで避難する。
「まだそこから動けないんだ。こっちに隙間があるから飛び越えろ!」
影は校門いっぱいに陣取っているが、端にわずかな隙間がある。真彩は格子に飛びついて、影の手を避けながら校門を乗り越えた。飛び降り、着地に失敗して膝を擦りむいた。すぐに振り返る。カナトの言う通り、影は真彩を探すようにうねっていた。
「よく頑張ったね」
顔を上げると、カナトが手を差し伸べてくる。素直にその手を取った。
「でも、こっからが本番だ」
真彩を引っ張り上げながら、カナトが指をさす。昇降口。電気はついていない。目を凝らしても何も見えない。
「……あそこにサトルくんがいる。具合がかなり悪そうだから、とにかく話を聞いてあげてほしい」
彼の言葉はやはり相変わらず軽妙なのだが、どこか固い。背中をとんと押されて前に出る。真彩はつばを飲み、昇降口へ足を向けた。
行きたくない。合わせる顔がないことももちろんだが、今は恐れが強かった。熱気を含んだ夜なのに、一歩近づくごとに肌が粟立っている。腹の底が冷えるような気分の悪さに襲われた。
「ねぇ、カナト先輩」
思わず振り返ると、校門にいる影に見つかりそうで首をすくめた。カナトは腕を組んで、その場を離れない。こちらを監視するように見ている。
「先輩、先にあの影をどうにかできないんですか」
「できないよ。言ったじゃないか。あれは祓えない。祓うと困る人がいるから」
「それはサトルくんのことですか」
カナトは口を結んだ。それは肯定とも否定とも言えるようで、やがて彼はフードの中から宙を見上げた。
「それはまだなんとも。ともかく時間がない。君が彼にひどいことを言ったのなら、君に責任がある」
――責任……
重さに怯える。真彩はカナトに背を向けて、頬を思い切りつねった。
自分の言葉でサトルが傷ついたのなら、責任をとらなくてはいけない。今にも襲いかかりそうな影の圧迫に耐え、前方に潜む冷たい何かに向かってゆっくりと近づいた。覚悟を飲み込み、そっと昇降口の中を覗く。
「――サトルくん?」
肌を凍らせるような冷たさを感じた。中は暗く、そびえ立っていた靴箱が一切見当たらない。真っ暗な空間。そこにあるはずのものが切り取られてしまったかのよう。息が白い。奥歯が噛み合わないくらい震える。冷たい風が吹きすさび、ここは学校ではない異空間なのだと気づく。
「サトルくん!」
呼んでも何も返ってこない。自分の呼吸音がうるさい。自分が今、どこにいるのか分からない。
真彩は不安を拭おうと、凍る喉を絞った。
「サトルくん、この間はごめん。あの時、わたし、気が動転してて。それで、ひどいことを言っちゃって。合わせる顔がなくて……」
言い訳にしか聞こえないかもしれない。暗闇に足を踏み出そうとするも、骨がしびれて動きにくい。
すると、遠く彼方の方で半透明な揺らめきが視えた。
「サトルくん!」
恐怖をかなぐり捨て、しびれを振り切って、一歩踏み込む。すると、足元に波紋が広がった。水たまりに足を置いたような感覚。
瞬間、向こう側から大きな黒い波が現れた。ざわめく波が高くなり、大きく伸び上がって真彩の頭に襲いかかる。
「いやっ!」
腕で顔を覆うも黒い波を全身にかぶってしまった。しかし水に濡れた感覚はなく、冷感に包まれる。血管を流れる血がドロドロと鈍くなり、寒さは勢いを増す。振り返るとカナトの姿はなく、辺り一面真っ暗闇。出口がない。これを起こしたのがサトルなら、自分はどれほどにひどいことをしてしまったのだろう。
真彩は硬直した足をわずかにずらした。先へ進むべく凍りついた足を前に、前に。水の中を歩くようだ。歩けば歩くほど柔らかい何かに押し返される。見回せども辺りは闇一色で、どこへ向かえばいいか分からない。
「サトルくん、どこにいるの?」
いつの間にか目頭には熱がこもり、冷たい涙が溢れてきた。
「ごめん。ごめんね。わたし、あんなことを言うつもりじゃなかったの。でも、それが本音だった。わたしは、ずっと生きたくない。生きていたくない。つらいから逃げたいの。それをあんなふうに、あなたに言ってしまって、傷つけたよね。ごめん。本当は分かってるんだよ。サトルくんの気持ち、本当は分かって――」
前方にどろりとした感触があった。鼻の先にある。それがなんなのかは分からない。息が詰まった。
とぷん。
水が揺れる音。それは波の音にも似ていた。涙が落ちる音だとも思えた。
『――本当に、分かってる?』
ぼやけて反響した静かな声。高い音と低い音が二重になったよう。
真彩は頬に流した涙をそのままに顔を上げた。真っ黒の頭がある。黒い水を溜め込んだような、はっきりとした黒ではない。半透明なガラスの器に詰まった黒が彼の中で波打っている。それは膨張し、こぼれ落ちていく。溢れて止まらない。
黒が溢れ、滴り落ちる。膨張し、大きくなっていく影。そこに彼の面影はない。
真彩は言葉を失い、顔を上げたままその影を凝視した。頭の中は真っ白で何も考えられない。だが、言葉が耳にこびりついて離れない。黒に共鳴し、波を立たせて、幾重にも何度も聴こえてくる。
『本当に、分かってるのか』
――ほんとうにわかってるのか。何を。彼の何を。
また勝手に知ったようなことを言った。その場しのぎの謝罪をした。でも、伝えたかったことは伝えたつもりだ。それじゃあどう言えば良かった――
黒い影を吐き出していく。嗚咽の中に、嘲笑が混ざった。喪失した真彩を笑っているのかもしれない。耳に障る音が鼓膜を破ろうとする。
『何も分かってないだろ。何も分かってない。分かってないくせに、だからあんなこと言ったんだろ。そうだろ』
「ち、ちが……っ、そんなつもりは」
『本当は割り切ってるはずがねぇんだ。ただ、当たり前に生きていたかったに決まってんだろ』
言葉が心に突き刺さった。ナイフが胸を深くえぐっていくように、ズブズブと痛みが埋められていく。
ただ当たり前に生きていたかった――それが、彼の本心だった。考えなくても分かることだった。
『ずっと、普通の生活がくるんだって思ってた。もう目を覚まさないなんて思ってなかった。明日も気だるく学校に行って、勉強して、笑って、飯食って、遊んで、生きていくんだと思ってた。生きるとか、そういうの考えずに当たり前に生きていくはずだった。それなのに』
声は次第に小さく収縮した。それに伴い、影も縮んでいく。
『死んだなんて思いたくない。信じたくねぇだろ。そんなの嫌だ。嫌だ。嫌だ。なんで、いつの間に、どうして……どうして、死んだ』
――やめて。
喪失の中、拒否の声が脳内を巡った。自分の中で受け入れられないものが生まれた。
サトルの形をした影が目の前で泣く。見ていられない。
「もうやめて。お願い」
『聞けよ、俺の話を。もう自分でも止められない』
影が薄くなる。でも、消えることはない。溜め込んでいたものを吐き出してもなお残っている。どれだけ我慢していたんだろう。途方もない負の感情に飲み込まれ、真彩はもう立ち上がる気力もない。罪悪感と嫌悪で壊れそうになりながら、冷めた意識が首をもたげる。これが後悔の怪物だと、はっきり認識した。
「――俺は何も分かってないんだ」
黒い涙が落ちていく。声は少し落ち着いた。
「何も分からない。どうしてこうなったのか、分からない。だんだん、自分がなんなのか分からなくなっていく。忘れて、その場をしのいで、考えないようにして……気づいたらもう、遅かった。限界なんて、とっくにきてる」
闇が潮のように引いていく。寒気はまだ残っている。真彩は止めていた息を吐き、涙でぼやけた視界を拭った。
「でも、時間がないっていうのに、真彩とずっと一緒にいたいとも思ってるんだ。死んでできなくなったことを、真彩を利用して精算してるんだ。それが……それも、すごく嫌だ。でも、真彩に会えなくなるのが怖い。怖くて……暗い影に飲み込まれそうになる」
感情の重さに潰されそうだった。でも、受け止めくてはいけないのだろう。幽霊と関わった以上は。
「……サトルくん、ごめんね」
なんと言えばいいか分からない。でも言わずにはいられない。頭に浮かぶどれもが意味を持たない言葉に思えて嫌悪が走る。
「サトルくんは、成仏するべきだよ。その手伝いは最後までやるから、だから……」
――変わらないで。
最後までは言えず、固い地面を見つめた。その時、何故かあの熱を帯びた海の日を思い出した。
***
サトルの影は、時間をかけて収縮していった。しかし、あれきり言葉を交わすことはなく、彼はふらりと校舎の中へ消えていった。真彩も追いかけはせず、放心状態のまま昇降口を出た。
校門の影もいつの間にか元に戻っている。それをぼんやり見ていると、カナトから労うように手を引かれ、校庭に誘われた。
「サトルくんは君を待ってたんだよ、ずっと」
すっかり冷えた夏の夜空の下、ほとんど使われない朝礼台に座るカナトと、小さく縮こまる真彩。何も言わない真彩に対し、カナトはのんびりと話し始めた。
「ずっと待っていたら、彼の影が一気に濃くなったんだ。それからだよ、急激に暴走してしまって。僕の説得じゃどうにも収まらなくてなってね。あと少し遅かったらまずかったよ」
「そう、ですか……」
あまり話が入ってこない。でも、サトルを怒らせた理由はもうすでに分かっている。いかに自分が浅はかだったのか思い知り、涙も出てこない。
「わたしの言葉が、どれだけ影響を与えるか、まったく分からなかった。多分ずっと、わたしはサトルくんを傷つけてた。それに気づかなかったから……」
「なんて言ったんだ?」
カナトの質問が食い込む。真彩は顔をうつむけ、小さく声を濁らせて言った。
「わたしは、生きていたくないって。死んでも良かったって、言いました」
「それは、さすがのサトルくんもキレるよねぇ」
いつも怒らせるのはカナトの方だが、それを棚に上げて笑い飛ばされる。真彩は顔をしかめてカナトを見上げた。腫れた目がぬるい風に当たって痛い。
「と言っても、僕も似たようなものだね。あえて本心を引っ張り出して白状させれば、やつらは勝手に悪霊になってくれるし、そいつを祓ったほうが簡単で楽。効率もいい」
「……なんでそんなことを」
「だって、非存在だからね」
非存在、とは。言葉を頭で変換するのに時間がかかり、意味はまったく分からない。
「君は岩蕗先生から何を学んだんだよ。授業で言ってたじゃないか。やつらは常識から外れた存在であり、平等じゃないんだって。そういうことさ」
呆れの口調で言うカナト。真彩は記憶を巡らせて思い出した。
「君だって、最初はそうだったろう。関わりたくないって思っていたよね」
「それは……そうですけど」
本当にそう思っていたのか、今では自信がない。もしかすると、幽霊が視えることこそが自分たらしめる証明のようなものだったかもしれない。誰も信じないのをいいことに、他人を遠ざける理由にしていたんだろう。真彩は心臓を掴むようにシャツを握った。
「情ってのは厄介なものだよ。悪いものも許さなくちゃいけなくなるからね。だから、僕は正しいことしかしない」
彼はフードの下に隠した目を細めて笑った。そして、その形のまま言葉をつなげる。
「サトルくんが完全な怪物になってしまったら、僕は彼を祓うよ。あの図書室の影みたいに」
「……っ」
目を見張り、重たい瞼がじかじか痛む。それよりも痛いのは心臓だった。ぎゅっと握りつぶされるような苦しさを感じる。
「あはは。動揺してるねぇ。でもまぁ、しょうがないか。君は割と早い段階で彼に依存していたんだったね」
「……わたしは、サトルくんを助けたいだけです」
「それは同情から? 偽善だよ、そんなのは。何一つ優しくない。押し付けがましい優しさがあの影を生み出す」
言い返そうとしたが、言葉は出なかった。真彩はうつむいた。そもそも議論する気力はない。感情がぐちゃぐちゃとまとまらず、ただイライラする。
「わたし、どうしたらいいの……?」
どうせカナトのことだから、答えもあっさり返してくれるだろう。正義の味方はいつだって正解を述べてくる。彼は予想通り、愉快そうに笑った。
「関わらなければいいのに。馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに」
「………」
きっと、それが正解だ。
あれきりカナトから連絡がない。それが余計に不安を駆り立て、悪い予感ばかりが胸の中に広がっていく。
線路を走る電車に苛立ちつつ、深呼吸をして落ち着かせることも繰り返し繰り返し……段々と頭が冷静になった頃に、ようやく電車が停まった。
『矢菱町、矢菱町ー。終点です』
アナウンスの音が響き、扉が息を吐くように開く。すぐさま飛び出し、ホームの固いコンクリートを叩いて走った。昼間の熱が残る夜。改札を通り抜け、息を切らし、学校めがけて走る。
静かな道路を横切り、公園を突っ切って、路地へ。その間、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。着信。カナトからだ。
「はい! もしもし」
上がった息のままで出る。足のスピードは落ちたが、気持ちは逸っている。
『あ、真彩ちゃん! やっと出てくれたね』
「返信したでしょ。あれきり返事がないから、こっちに来たんですけど」
『あぁ、君にはこっちに来てほしかったからちょうどいい』
カナトの声は相変わらずの調子だったが、どこか強張っている。
『ちょっと大変なことになってね。サトルくんの影が思ったよりも早く進行してて』
予感はしていた。それが的中しないようにと願っていたが叶わなかった。足が疲れる。
『僕じゃどうにもできないから、真彩ちゃんから彼に話をしてほしいんだ。とにかく学校に来たら分かるよ』
それだけ告げて、カナトは一方的に電話を切った。
緩やかな下り坂を駆け下りる。角を曲がって、自転車の脇をすり抜けて転びそうになったが、足は止まらなかった。どんどん暗がりを帯びていく町の中、真彩は脇目も振らずに夢中で走る。
学校に来たら分かる――その言葉は確かに当たりだった。
小さな街灯は頼りなく、光が弱い。真彩は急ブレーキをかけ、「それ」を視た。校門は締め切っている。その格子から影が溢れ出している。大きな人を模した影。学校を覆い隠さんばかりにどんどん広がっていく。どこが顔か分からないのに、何かを訴えるように口が開いた。空洞が目の前に現れる。
「なに、これ……」
影がこちらに気が付いた。後ずさるも、影が真彩に手を伸ばす。おぼつかない動きで真彩の頭をつかもうとする。
「真彩ちゃん!」
影の向こう側にカナトの白いパーカーが見えた。
「こっちに来い! 早く!」
「どうやって!」
「その影はまだ不完全だから、君の動きにはついていけない!」
「不完全? これが?」
影の手から逃げ、校門の端まで避難する。
「まだそこから動けないんだ。こっちに隙間があるから飛び越えろ!」
影は校門いっぱいに陣取っているが、端にわずかな隙間がある。真彩は格子に飛びついて、影の手を避けながら校門を乗り越えた。飛び降り、着地に失敗して膝を擦りむいた。すぐに振り返る。カナトの言う通り、影は真彩を探すようにうねっていた。
「よく頑張ったね」
顔を上げると、カナトが手を差し伸べてくる。素直にその手を取った。
「でも、こっからが本番だ」
真彩を引っ張り上げながら、カナトが指をさす。昇降口。電気はついていない。目を凝らしても何も見えない。
「……あそこにサトルくんがいる。具合がかなり悪そうだから、とにかく話を聞いてあげてほしい」
彼の言葉はやはり相変わらず軽妙なのだが、どこか固い。背中をとんと押されて前に出る。真彩はつばを飲み、昇降口へ足を向けた。
行きたくない。合わせる顔がないことももちろんだが、今は恐れが強かった。熱気を含んだ夜なのに、一歩近づくごとに肌が粟立っている。腹の底が冷えるような気分の悪さに襲われた。
「ねぇ、カナト先輩」
思わず振り返ると、校門にいる影に見つかりそうで首をすくめた。カナトは腕を組んで、その場を離れない。こちらを監視するように見ている。
「先輩、先にあの影をどうにかできないんですか」
「できないよ。言ったじゃないか。あれは祓えない。祓うと困る人がいるから」
「それはサトルくんのことですか」
カナトは口を結んだ。それは肯定とも否定とも言えるようで、やがて彼はフードの中から宙を見上げた。
「それはまだなんとも。ともかく時間がない。君が彼にひどいことを言ったのなら、君に責任がある」
――責任……
重さに怯える。真彩はカナトに背を向けて、頬を思い切りつねった。
自分の言葉でサトルが傷ついたのなら、責任をとらなくてはいけない。今にも襲いかかりそうな影の圧迫に耐え、前方に潜む冷たい何かに向かってゆっくりと近づいた。覚悟を飲み込み、そっと昇降口の中を覗く。
「――サトルくん?」
肌を凍らせるような冷たさを感じた。中は暗く、そびえ立っていた靴箱が一切見当たらない。真っ暗な空間。そこにあるはずのものが切り取られてしまったかのよう。息が白い。奥歯が噛み合わないくらい震える。冷たい風が吹きすさび、ここは学校ではない異空間なのだと気づく。
「サトルくん!」
呼んでも何も返ってこない。自分の呼吸音がうるさい。自分が今、どこにいるのか分からない。
真彩は不安を拭おうと、凍る喉を絞った。
「サトルくん、この間はごめん。あの時、わたし、気が動転してて。それで、ひどいことを言っちゃって。合わせる顔がなくて……」
言い訳にしか聞こえないかもしれない。暗闇に足を踏み出そうとするも、骨がしびれて動きにくい。
すると、遠く彼方の方で半透明な揺らめきが視えた。
「サトルくん!」
恐怖をかなぐり捨て、しびれを振り切って、一歩踏み込む。すると、足元に波紋が広がった。水たまりに足を置いたような感覚。
瞬間、向こう側から大きな黒い波が現れた。ざわめく波が高くなり、大きく伸び上がって真彩の頭に襲いかかる。
「いやっ!」
腕で顔を覆うも黒い波を全身にかぶってしまった。しかし水に濡れた感覚はなく、冷感に包まれる。血管を流れる血がドロドロと鈍くなり、寒さは勢いを増す。振り返るとカナトの姿はなく、辺り一面真っ暗闇。出口がない。これを起こしたのがサトルなら、自分はどれほどにひどいことをしてしまったのだろう。
真彩は硬直した足をわずかにずらした。先へ進むべく凍りついた足を前に、前に。水の中を歩くようだ。歩けば歩くほど柔らかい何かに押し返される。見回せども辺りは闇一色で、どこへ向かえばいいか分からない。
「サトルくん、どこにいるの?」
いつの間にか目頭には熱がこもり、冷たい涙が溢れてきた。
「ごめん。ごめんね。わたし、あんなことを言うつもりじゃなかったの。でも、それが本音だった。わたしは、ずっと生きたくない。生きていたくない。つらいから逃げたいの。それをあんなふうに、あなたに言ってしまって、傷つけたよね。ごめん。本当は分かってるんだよ。サトルくんの気持ち、本当は分かって――」
前方にどろりとした感触があった。鼻の先にある。それがなんなのかは分からない。息が詰まった。
とぷん。
水が揺れる音。それは波の音にも似ていた。涙が落ちる音だとも思えた。
『――本当に、分かってる?』
ぼやけて反響した静かな声。高い音と低い音が二重になったよう。
真彩は頬に流した涙をそのままに顔を上げた。真っ黒の頭がある。黒い水を溜め込んだような、はっきりとした黒ではない。半透明なガラスの器に詰まった黒が彼の中で波打っている。それは膨張し、こぼれ落ちていく。溢れて止まらない。
黒が溢れ、滴り落ちる。膨張し、大きくなっていく影。そこに彼の面影はない。
真彩は言葉を失い、顔を上げたままその影を凝視した。頭の中は真っ白で何も考えられない。だが、言葉が耳にこびりついて離れない。黒に共鳴し、波を立たせて、幾重にも何度も聴こえてくる。
『本当に、分かってるのか』
――ほんとうにわかってるのか。何を。彼の何を。
また勝手に知ったようなことを言った。その場しのぎの謝罪をした。でも、伝えたかったことは伝えたつもりだ。それじゃあどう言えば良かった――
黒い影を吐き出していく。嗚咽の中に、嘲笑が混ざった。喪失した真彩を笑っているのかもしれない。耳に障る音が鼓膜を破ろうとする。
『何も分かってないだろ。何も分かってない。分かってないくせに、だからあんなこと言ったんだろ。そうだろ』
「ち、ちが……っ、そんなつもりは」
『本当は割り切ってるはずがねぇんだ。ただ、当たり前に生きていたかったに決まってんだろ』
言葉が心に突き刺さった。ナイフが胸を深くえぐっていくように、ズブズブと痛みが埋められていく。
ただ当たり前に生きていたかった――それが、彼の本心だった。考えなくても分かることだった。
『ずっと、普通の生活がくるんだって思ってた。もう目を覚まさないなんて思ってなかった。明日も気だるく学校に行って、勉強して、笑って、飯食って、遊んで、生きていくんだと思ってた。生きるとか、そういうの考えずに当たり前に生きていくはずだった。それなのに』
声は次第に小さく収縮した。それに伴い、影も縮んでいく。
『死んだなんて思いたくない。信じたくねぇだろ。そんなの嫌だ。嫌だ。嫌だ。なんで、いつの間に、どうして……どうして、死んだ』
――やめて。
喪失の中、拒否の声が脳内を巡った。自分の中で受け入れられないものが生まれた。
サトルの形をした影が目の前で泣く。見ていられない。
「もうやめて。お願い」
『聞けよ、俺の話を。もう自分でも止められない』
影が薄くなる。でも、消えることはない。溜め込んでいたものを吐き出してもなお残っている。どれだけ我慢していたんだろう。途方もない負の感情に飲み込まれ、真彩はもう立ち上がる気力もない。罪悪感と嫌悪で壊れそうになりながら、冷めた意識が首をもたげる。これが後悔の怪物だと、はっきり認識した。
「――俺は何も分かってないんだ」
黒い涙が落ちていく。声は少し落ち着いた。
「何も分からない。どうしてこうなったのか、分からない。だんだん、自分がなんなのか分からなくなっていく。忘れて、その場をしのいで、考えないようにして……気づいたらもう、遅かった。限界なんて、とっくにきてる」
闇が潮のように引いていく。寒気はまだ残っている。真彩は止めていた息を吐き、涙でぼやけた視界を拭った。
「でも、時間がないっていうのに、真彩とずっと一緒にいたいとも思ってるんだ。死んでできなくなったことを、真彩を利用して精算してるんだ。それが……それも、すごく嫌だ。でも、真彩に会えなくなるのが怖い。怖くて……暗い影に飲み込まれそうになる」
感情の重さに潰されそうだった。でも、受け止めくてはいけないのだろう。幽霊と関わった以上は。
「……サトルくん、ごめんね」
なんと言えばいいか分からない。でも言わずにはいられない。頭に浮かぶどれもが意味を持たない言葉に思えて嫌悪が走る。
「サトルくんは、成仏するべきだよ。その手伝いは最後までやるから、だから……」
――変わらないで。
最後までは言えず、固い地面を見つめた。その時、何故かあの熱を帯びた海の日を思い出した。
***
サトルの影は、時間をかけて収縮していった。しかし、あれきり言葉を交わすことはなく、彼はふらりと校舎の中へ消えていった。真彩も追いかけはせず、放心状態のまま昇降口を出た。
校門の影もいつの間にか元に戻っている。それをぼんやり見ていると、カナトから労うように手を引かれ、校庭に誘われた。
「サトルくんは君を待ってたんだよ、ずっと」
すっかり冷えた夏の夜空の下、ほとんど使われない朝礼台に座るカナトと、小さく縮こまる真彩。何も言わない真彩に対し、カナトはのんびりと話し始めた。
「ずっと待っていたら、彼の影が一気に濃くなったんだ。それからだよ、急激に暴走してしまって。僕の説得じゃどうにも収まらなくてなってね。あと少し遅かったらまずかったよ」
「そう、ですか……」
あまり話が入ってこない。でも、サトルを怒らせた理由はもうすでに分かっている。いかに自分が浅はかだったのか思い知り、涙も出てこない。
「わたしの言葉が、どれだけ影響を与えるか、まったく分からなかった。多分ずっと、わたしはサトルくんを傷つけてた。それに気づかなかったから……」
「なんて言ったんだ?」
カナトの質問が食い込む。真彩は顔をうつむけ、小さく声を濁らせて言った。
「わたしは、生きていたくないって。死んでも良かったって、言いました」
「それは、さすがのサトルくんもキレるよねぇ」
いつも怒らせるのはカナトの方だが、それを棚に上げて笑い飛ばされる。真彩は顔をしかめてカナトを見上げた。腫れた目がぬるい風に当たって痛い。
「と言っても、僕も似たようなものだね。あえて本心を引っ張り出して白状させれば、やつらは勝手に悪霊になってくれるし、そいつを祓ったほうが簡単で楽。効率もいい」
「……なんでそんなことを」
「だって、非存在だからね」
非存在、とは。言葉を頭で変換するのに時間がかかり、意味はまったく分からない。
「君は岩蕗先生から何を学んだんだよ。授業で言ってたじゃないか。やつらは常識から外れた存在であり、平等じゃないんだって。そういうことさ」
呆れの口調で言うカナト。真彩は記憶を巡らせて思い出した。
「君だって、最初はそうだったろう。関わりたくないって思っていたよね」
「それは……そうですけど」
本当にそう思っていたのか、今では自信がない。もしかすると、幽霊が視えることこそが自分たらしめる証明のようなものだったかもしれない。誰も信じないのをいいことに、他人を遠ざける理由にしていたんだろう。真彩は心臓を掴むようにシャツを握った。
「情ってのは厄介なものだよ。悪いものも許さなくちゃいけなくなるからね。だから、僕は正しいことしかしない」
彼はフードの下に隠した目を細めて笑った。そして、その形のまま言葉をつなげる。
「サトルくんが完全な怪物になってしまったら、僕は彼を祓うよ。あの図書室の影みたいに」
「……っ」
目を見張り、重たい瞼がじかじか痛む。それよりも痛いのは心臓だった。ぎゅっと握りつぶされるような苦しさを感じる。
「あはは。動揺してるねぇ。でもまぁ、しょうがないか。君は割と早い段階で彼に依存していたんだったね」
「……わたしは、サトルくんを助けたいだけです」
「それは同情から? 偽善だよ、そんなのは。何一つ優しくない。押し付けがましい優しさがあの影を生み出す」
言い返そうとしたが、言葉は出なかった。真彩はうつむいた。そもそも議論する気力はない。感情がぐちゃぐちゃとまとまらず、ただイライラする。
「わたし、どうしたらいいの……?」
どうせカナトのことだから、答えもあっさり返してくれるだろう。正義の味方はいつだって正解を述べてくる。彼は予想通り、愉快そうに笑った。
「関わらなければいいのに。馬鹿正直に向き合わないで、ぜんぶ忘れてしまえばいいのに。そしたら、このつらさから逃げられるのに」
「………」
きっと、それが正解だ。