八月八日は湿り気が残る霧雨だった。連続の低気圧に頭が重い。それでも学校へ行かなくてはいけない。
 昨日の様子だと、サトルとカナトの相性は抜群に悪い。カナトはともかく、サトルが心配だ。余計なストレスを与えないようにしたい。
 朝食は抜いて水だけを飲む。広すぎるシステムキッチンには器具がほとんどなく、真彩のマグカップとグラスが食洗機にあった。シンクの中には、覚えのない平皿と箸が雑に置かれている。昨夜、寝る前はなかったはずだ。
「……お父さん、帰ってきてるんだ」
 真彩は冷蔵庫にミネラルウォーターをしまい、汚れた皿を横目に見ながら冷たいダイニングを出た。廊下を出れば、浴室とトイレ、その向かい側に父の部屋。
「行ってきます」
 扉の前でつぶやいてみても何も返してはくれない。いつものことだ。
 ローファーを静かに履く。すると、部屋の扉がキィッと小さく音を鳴らした。
「――真彩?」
 数日ぶりに聞いた父の声に驚いて振り返る。スーツだが明らかに寝起きでくしゃくしゃの髪だった。
「学校?」
 あくび交じりに素っ気なく聞かれ、真彩はその場で固まった。
「今、夏休みだろ。なんだ、部活でもやってるのか?」
 何故か今日は執拗に質問してくる。父は真彩がするように目を細めて怪しんでいた。言動は少し固い。ぶっきらぼうなのも今に始まったことじゃない。昔はよく笑っていたと思うが、もうおぼろげな記憶だ。
 真彩は言葉に詰まり、視線を泳がせた。多分、普通に笑いながら答えればいいのに頰が動いてくれない。
「……いや、えっと……補習、みたいな」
「はぁ? 補習? せっかく高校に行けたのに補習って。嘘だろ」
 父の驚きが胸の内をえぐってくる。怒られるかと思いきや、それとは反応が違う。嘆くような言い方だった。
「……まぁ、そういうことなので、行ってきます」
「あぁ、うん。車に気をつけて」
 呆れかえった父は投げやりに返してくる。それでも今日は少しだけ話すことができたので、内容はともかく前進したと思った。
「あっ。ちょっと待て、真彩」
 玄関の向こうから父がサンダルをひっかけて出てきた。
「え、何……?」
「いや、明日会えるか分からないから、今のうちに言っとこうって」
「はぁ……」
 仕事を言い訳にして家に寄りつかない父だから、その言葉には説得力がある。真彩は出かけた足を玄関に引っ込めた。昔は見上げるほど大きかったのに、今では首を伸ばさなくても父の顔がはっきりと近い。絶対に目を合わせないような、後ろめたさのある目をしていた。
「えーっと……来週からお盆だろ。それで、お前をおばあちゃん家に預けるから、そのつもりでいてくれ」
「はっ?」
 唐突に告げられる来週の予定。真彩は首をかしげて父の目をじいっと責めるように見た。その視線から逃げようと、父は腕時計に目を落とす。
「いや、このところお前、一人だろ。お盆なら補習もないだろうし」
「別にそんな気を使わなくていいよ」
 それも今さらだ。散々、一人にしておいて急にそんなことを言い出すのも疑わしい。それに、祖母の家には行きたくなかった。
「お盆なら、叔母さんとかいるんでしょ。絶対イヤなんだけど」
「わがまま言うなよ。もうおばあちゃんに話してあるから」
「だって、わたしのこと怖がるじゃん。おばあちゃんも叔母さんも。絶対イヤだから」
「でも、最近は変なことも言わなくなっただろ。あれが怖いだの、お化けが出るだの、そういうの、もう治ったんだろ。いいから、言うこと聞きなさい」
 父の声が少しだけ苛立った。その声に怯みそうになるも、真彩は頑として首を横に振る。幼い子どものように駄々をこねる。
 すると、父は困惑と苛立ちを混じらせて笑った。
「はぁ……あのさぁ、お前ももう子供じゃないんだから、素直に言うこと聞いてくれないかな」
「そうやって都合が悪くなると大人扱いするんだから! なんで急にそんなこと言うの! お父さんっていっつもそう。なんかごまかしてる」
「嘘ついてるって言いたいのか」
 途端、父の声が低くなった。
 言い過ぎた。もう怒られる。そんな予感が瞬時に頭をよぎり、玄関に背をくっつけた。
「……お盆は、お母さんが帰ってくるんだよ」
 しかし、真彩の予想とは違い、父は冷めた表情をした。非難がましい目を向けてくる。
「一時帰宅だけど、十一日から十三日まではお母さんが家にいる。だから……お前がいると、困る」
 真彩はくっつけた背中の冷たさに身震いした。
 ――お母さんが帰ってくる。
 言葉を頭の中で反芻し、その意味に気づいて呆然とする。
「そう……そっか」
 目が揺らいで、焦点が定まらない。
「ごめんなさい」
 すぐに謝ると、父はため息を吐いて背を向けた。
「――行ってらっしゃい」
 情のない見送り。それを耳に入れるもうまく変換できずに、真彩は玄関を飛び出した。
 母には会えない。会いたくない。母もきっと会いたくない。会えば混乱する。もしかすると、もう覚えていないかもしれない。自分の娘の顔を。それくらい、母は壊れている。

 ***

 駅のホームに着くと、いつもの場所にサトルがいた。改札に立つ彼は、今日は顔色が良かった。
「おはよう、真彩。あれ? なんか具合悪い?」
「え? いや……」
 真彩は目を逸らした。いつも以上にうまく言葉が出てこない。お茶を飲もうとカバンに手を突っ込むも、今日はコンビニに寄ってないことを思い出した。
「どうかした?」
「どうも、してない……」
 言葉を濁すには無理があった。動揺が隠せない。それに気づかないサトルではない。
「もしかして、カナト?」
「違う! そうじゃなくて……」
 慌てて口走ってしまった。でも、今は口に出さないと胸が苦しい。弱い自分を見せるのはとても恥ずかしい。
「あの、そうじゃなくて、違うの。お父さんと、久しぶりに会って、それで、ケンカしちゃって……わたし、居場所がないんだ」
 支離滅裂だと自分でも思う。きれいな文章が作れないから、話すのに手間取るのはいつものこと。途中で止めて考えていたら話が勝手に進むこともよくあること。でも、今日は口が勝手に動いてしまう。
「なんか、家にもいちゃいけないみたいで。わたしはかわいい子供じゃないから、いつも怒られるし、そ、それに……お母さんも、わたしのこと、いなければ良かったって思ってるんだと、思う」
「えっ?」
 サトルの上ずった声が近い。真彩は顔を上げて、目尻を持ち上げた。笑っていれば大丈夫だ。これくらい、いつものことだ。
「あはははー……あぁ、いや、もう、ほんといつものことだから、気にしないで」
「待って。どういうこと? 真彩、何があった?」
「なんにも。大丈夫だって。いつものことだし」
 ――あぁ、ダメだ。泣いちゃダメだってば。
 透明なサトルがいつもよりはっきり視える気がする。彼の心配そうな表情を見てしまえば、せっかく持ち上げた目尻が一気に下がった。涙が落ちそうになり、それが恐ろしく感じた。
「ごめんっ、サトルくん! 今日、やっぱり学校行かない。先輩にも、そう言っといて」
 口と足、どちらが先かは判断がつかない。いつの間にかホームを出ていて走っていた。
 ――泣くな、泣くな。
 頭の中で暗示する。
 ――泣いたらつらいから。泣いちゃダメだって。
 視界の悪いロータリーを横切る。その時、タクシーのクラクションが耳をつんざいた。
「真彩っ!」
 冷たい風が吹く。雨粒が大きく旋回し、真彩の体がタクシーを避けた。
「どこ見て走ってんだよ、あの車……あぁ、もう、真彩、大丈夫? 怪我してない?」
「サトルくん……」
「ってか、お前も急に走るなよ。危ないだろ。死んだらどうするんだよ」
 責められると、もうどうしたらいいのか分からない。感情が決壊した。
「わ、わたしは……別に……」
 サトルの真剣な目を直視できない。
「わたしは、別に、死んでも良かった」
「………」
 口をついて出た言葉は、もともと頭の片隅にあったものだ。でも、今、彼の前で口にするのは良くない。ダメだと分かっていても、もう遅い。雨が静かで、沈黙が重たい。時が止まる。
「――なんでそんなこと言うんだよ」
 一度出した言葉は二度と胸の内に戻ってはこない。サトルの非難めいた目と、悲痛な声が雨を掻い潜ってくる。
「そんなこと、言うなよ」
「でも、わたしは」
 思わず彼の声を遮った。
「わたしは、そんなに……生きていたくない」
 最悪なことを言った。嫌われた。でも、もういい。
 サトルを見ているとつらくなる。それは常にあったが、今はとくにつらい。彼の透明な目が濁っていく。それを見ていられないから、真彩は学校とは反対の道を走った。

 ***

 学校を無断で休み、翌日も行かなかった。家に固定電話を置いてないので、スマートフォンが鳴りっぱなしだ。岩蕗先生からがほとんどだが、その中に紛れ込む深影カナトの表示がすこぶる鬱陶しい。トークアプリに、カナトからの一方的なメッセージが届く。
『真彩ちゃん、先生が怒ってるよ』
『電話くらい出たら?』
『今日来なかったら次は登校日だね』
『補習が延びちゃうよー』
『夏休み、まるまる潰れるぞー』
「……あーもう、本当にうるさい」
 余計に出ていく気が失せる。一日出なかったら、もう外に出るものかと変な意地を張ってしまう。
「だって、サトルくんはわたしのこと、許してくれないだろうし……絶対に嫌われた」
 あんなにひどいことを言ったのだから、合わせる顔がない。会ってなんと言えばいいか分からない。ただ、気がかりなのは、彼が黒い影になってしまわないかということ。
 真彩はベッドの中からスマートフォンを追い出し、うずくまった。
 エアコンで冷やした部屋で、タオルケットを体に巻きつける。こうしていると落ち着く。
 外の熱気と蝉も、ひりつくように恐ろしい形相の幽霊もいない。鬱陶しい教師や先輩もいない。日曜日にはこの部屋からも追い出されるのだから、一日くらいのんびり寝て過ごそう。逃げてしまえばいい――

 ***

「――もう一度、お医者さんに診てもらったら?」
 そう言ったのは、祖母だった。
「ねぇ、啓司。そうしてもらったほうがいいって。お母さんね、いいお医者さん知ってるから」
 父と手を繋いでいた。祖母は子供だからと、何を言っても分からないだろうなんて考えていたに違いない。ズケズケと無神経に父を説得していた。
「……やっぱりそうかな」
 父が不安そうにこちらを見る。その表情は、なんだか恐ろしいものを見るような、恐れが入り混じったものだったと認識している。
「そうよ。だって、理保さんもああなっちゃったんだし、絶対診てもらったほうがいいわ。だって、怖いじゃないの。幽霊が視えるだなんて、怖くて、気味が悪い」
 祖母の口はなんだか真っ黒な穴に見えた。飲み込まれてしまいそうな黒い影。
 祖母はそれきり、訪ねてこようとはしなかった。だから叔母の家に預けられることが多かった。でも、夕食のハンバーグが美味しかったこと以外にいい思い出がない。
「兄さん、あのね……真彩ちゃんが変なことを言うんだけど、やっぱりまだ治ってないんじゃないの?」
 叔母も祖母と同様に遠ざけようとしていた。小学二年生の夏だったと思う。
「後遺症とか、そういうの怖いじゃない? もしかしたら視覚のことで困ってるんじゃないかな。だって、嫌なこと言うんだもの。黒い影がいるって。急にそんなこと言うから」
 叔母の顔は笑っていたが、引きつっていた。その口が黒い穴のように見えた。
 それでも父は病院に連れて行こうとはせず、平静に振舞っていた。でも、真彩の話を信じているわけでもなかった。
 小さなマンションから、大きなマンションへ引っ越したのは小学三年生の頃。母の帰りを待っていたから、駄々をこねて泣いて叫んで引っ越しを拒否したのに、父に担がれて電車に乗った。
 電車の景色――そう言えば、サトルと電車に乗った時には気がつかなかったが、あの光景はなんだか妙に懐かしく胸騒ぎがした。


「……あ、れ?」
 沈んでいた意識が浮かび上がるように、タオルケットの視界が目の前にあった。頭がぼうっとする。もこもこと起き上がり、放置していたスマートフォンに手を伸ばした。現在、十九時。外は陽が傾いて茜と群青の中間色だった。
「うわぁ……」
 時間もそうだが、通知の数が凄まじい。電話二十件、メール六十七件。岩蕗先生とカナトが交互に連絡を寄越している。メッセージはすべてカナトだった。懐かしくて痛すぎる夢を見たあとに、この通知量は目に毒だ。罪悪感もあるが、それよりもまずは「よく諦めないな」という関心が勝っていた。
 暮れた暗い部屋で惰性のままに画面をスライドしていく。一件ずつ内容を見るのは面倒なのでころころと見送った。どれもこれも「連絡しろ」や「学校に来い」ばかり。真彩はげんなりと口元を歪ませて一番最後までスライドさせた。
『やらかした。まずいことになった』
 目を見張る。寝ぼけていた目に力が入り、一文を凝視した。以降、メッセージはなく、何をどうしたのか具体的な詳細がない。最後の通知は十八時半で止まっている。
「やらかしたって何を……?」
 嫌な予感しかなく、鼓動が速くなる。真彩はふらりとベッドから降りた。
 ――サトルくんになにかあったのかも。
 それしか考えられない。でも、自分が行って解決するのか。それに合わせる顔なんてない。カナトの掴みどころのない言動に相手をするのも気が引ける。
 しばらくうろうろと部屋の中を回り、もう一度スマートフォンに目を落とした。キーパッドを呼び出し、おそるおそる文字を打ってみる。
『何があったんですか?』
 おこがましく感じながら、真彩は正直に聞いてみた。すると、待っていたと言わんばかりにすぐに返信がくる。
『サトルくんが、怒ってる』
「え……?」
 ケンカでもしたのだろうか。いや、それだけならわざわざこちらに連絡を入れなくてもいいはず。
 頭の回転が鈍くなる。何があったのかが分からない。予想がつかない。
 真彩はタンスの引き出しから適当なカーゴパンツとTシャツを引っ張り出して着替えた。靴下は履かず、素足のままでスニーカーに足を入れ、バタバタと玄関を飛び出す。
 とにかく学校に行こう。頭の中は罪悪感も後ろめたさもなく、ただただサトルの無事を祈っていた。