嘘つき。おかしな子。怖い。不気味。
周囲が遠巻きに見るから、自分から離れることにした。それがいいことだとは思ってないが、悪いことでもないだろう。
他人に合わせていたら傷つくから。そして、心配されたくないから、わざと怖がらせてみたり困らせたりする。不幸は慣れている。はずなのに。
サトルの指先みたいに、体の中が鈍く濁っていくような気がした。気持ちが悪い。思い出すと頭が痛くなる。
「何があったか、なんて聞かないわ。言いたくないなら言わなくていいんだから」
授業が始まる前に、岩蕗先生は静かに優しく突き放した。
「すいません」
「……まぁ、でも、廊下で騒ぐのは良くないわね。それに、深影(みかげ)くんに何か嫌なことでも言われたんでしょう? 怒るのは仕方ないわ」
「深影?」
思わず顔を上げると、先生はうんざりといった表情を見せた。
「そう。二年の深影銀人くん。あの子、授業に出ないしあなたと同じくサボり常習犯なんだけれど、テストだけは受けにくるのよね……で、満点をとっていくの」
先生は遠い目をして言った。どうやらカナトは教師の間でも問題児扱いされているらしい。
「少しは落ち着いてくれたかしら。授業を始めたいのだけれど」
先生の言葉はせっかちだ。しかし、不自然な行動をとった直後に、大人しく授業を受けられるわけがない。真彩は甘えるように首を横に振った。
「……困ったわね」
先生は教壇から降り、真彩の前席に座った。不必要にびくついて顔を落とせば、先生の細い指だけが視界に入る。
いつものように飄々としていればいい。むしろ困らせる勢いで、全然落ち込んでない風を装えばいい。どうしてそれができないのか自分でもよく分からない。真彩は息を止めて言った。
「――先生は、不幸だと思うこと、ある?」
「不幸?」
すぐさまきつく返される。
「……そうね。不幸と言うよりも、基本的に幸福ではないわね」
真彩はしかめっ面を持ち上げた。先生の顔も変わらず真顔で、感情の起伏がない。
「私は変な子だったのよ。マイペースで生意気で、自分の世界に浸りがち。そのくせ私のことを分かってくれる人は世界に誰一人としていない――なんて、考えてたら孤独を感じて勝手に不幸になっていたの」
まるで自分の心を見透かすような話で、まぶたの裏側が熱くなった。目が潤んでしまい、慌ててうつむく。すると、先生が冷やかすように小さく笑った。
「それは今も癖になっていて、でも考えることもバカらしくなってきて、自分のやることを見つけたらこうなった。結果、私は幸せじゃないし、不幸でもないわ」
「そうなんだ……」
「人間って幸せになっても満たされないんだと思う。欲が果てしないから。でもね、それを調整することができる」
先生は組んだ指を解いた。人差し指で弾くように叩く。
「不安やつらいことは避けられない。それなら、自分の中にある幸福のレベルを設定するの。最上の幸せから何段階かに分けて、自分を客観視してみる。そうすると今、自分がどの位置にいるのか冷静に分析できるわ」
「う……ん? うーん……よく分からない……」
先生の話が難しくなっていき、真彩は考えるのに必死だった。いつのまにか涙は引っ込んでいる。
「まぁ、分からないでしょうね。これは自分でたどり着かないと実感できないんだから。いくら他人にあれこれ言われても、納得なんてできないのよ」
先生はほどよく冷たい。優しいものも怖いから、これくらいがちょうどいい。
不思議だ。両親にでさえ疎まれているのに、遠い存在のはずの先生に親近感を覚える。サトルとはまた違う信頼だ。
真彩は背後のロッカーに座るサトルを意識した。彼はこちらに遠慮しているらしく、ずっと大人しい。何を考えているのか分からない。
「あなたが何に悩んでいるかは分からないわ」
先生の声が続く。ハッとなり、重たいまぶたを開いた。対して先生は淡々と、真っ直ぐに見ていた。
「あなたが見ているものがなんなのかも分からない。でも、力になりたいとは思ってるのよ、私は」
「そんなの……」
「でなきゃ、あなたと毎日毎日顔を付き合わせるわけないじゃない。私だって夏休みにはやることが多いのよ。部活もコーチに任せっきりだし。あなたが陸上部に入ってくれるなら話は別なのに」
「急に勧誘するのやめてください」
油断も隙もない。しかし、先生の目は真剣で、冗談を言っている節はまったくなかった。
「ま、ゆっくりでいいわ。でも、溜め込むとそれこそ不幸の思うツボだから、悩むのもほどほどにしなさいね。私はあなたの味方だから、愚痴や身の上話のはけ口にしていい。情けなくてできないなら、こっそり手紙にしてもいい。ここまできたらとことん付き合うわよ」
言動は冷たいが、その熱量は分厚い。真彩は言いよどみ、机を見た。先生は歩み寄ろうとしている。それは最初から感じていたが、改めて真面目に向き合うとむずがゆくて調子が悪い。
「わたしが見ているのは……視えてるのは……」
説明が難しい。先生なら分かってくれると信じても、植えつけられた不安はそう簡単に消えてくれない。
「影のお化け?」
先に言われるとは思わない。確認するように言われ、真彩は苦笑で歪んだ口をぱっくり開けた。
「影のお化けっていうか……ニュアンスで言えばそうなんですけど。なんていうか」
どう説明をしたらいいのだろう。後悔の怪物と幽霊なんて。
その時、最初の授業で話したことを思い出した。
「先生って……」
思わず口にしてしまう。
「先生って、怪談とか都市伝説、好きなの?」
「好きじゃない。むしろ、大嫌いよ」
素早い即答がはね返り、それが冷ややかで鋭かったので固まった。先生の目が初めて揺らぐ。
「そういうのはね、やっぱり平等じゃないもの。だから、探求して突き止めて暴いて、この世から消滅させたい……っていう願望はある。そこで選んだのが物理だったの」
「嫌いなものを調べるために? そういう理由なの?」
「そうよ」
真彩は呆れた。自分も相当変だが、先生も変わっている。本人もそう言っているので納得だ。
「ま、説明がつかないものっていうのはまだまだあるものよ。自然にそのまま存在し続けるものはあるにはあるし、ないと言えばない。はっきりとは言えないわ、だって、」
「この世に当然はない?」
「そう」
うなずく先生は嬉しそうに少しだけ頰を震わせていた。
***
補習はそれから二時間遅れて始まったが、調子を取り戻した真彩は例のごとく、授業の内容は頭に入らなかった。それもお約束だと諦めている岩蕗先生も淡々と授業を進めていく。時折、真彩のノートを気にしながら。そんな風に時間が過ぎ、十五時になれば自動的に授業が終わった。
あんなに熱く冷たい話をしたのに、帰り際は呆気なく、余韻も何もない。先生が先に出て行き、するとようやく後ろのサトルが動いた。
「今日は家まで送ってくよ」
強い口調できっぱりと言われる。そんな提案は予想していなかった。
まだ陽が明るいうちは電車内が空いている。真彩は迷いなく端の席に座り、サトルはその脇に立つ。「幽霊が席を独占するわけにはいかない」という謎の持論で真彩を言いくるめた。
「あ、海が見える」
ポールにもたれていた彼が、扉の窓から外を眺めて言った。
「え? 海?」
何度も電車に乗っているが、窓から海が見えるなんて知らない。サトルが指差す方向を見やった。鬱蒼とした薮が過ぎるだけで、海の水色は影も形もない。
「いや、地形的に向こう側は海だし。あんまり見えないだけで……あぁ、ほら、見えた! 一瞬!」
「………」
空いていると言えども、まばらに乗客がいるので、真彩は曖昧に笑うしか反応ができなかった。それを悟ったのか、彼もようやく大人しくなる。その顔は少しだけ拗ねていた。
「ふーん。海ねぇ……あ、ほんとだ」
誰にも聞こえないくらいにボソボソと返す。すると、サトルの拗ねた口が笑った。
赤月海岸は入り江状の海岸らしく、浜の白が鮮やかに見える。
「あそこが赤月海岸だよ。こうやって見ると、真彩って遠いとこからわざわざ来てんだなぁー」
「うん」
「面倒じゃない?」
「うん。面倒くさい。朝は早く起きなきゃだし、通勤ラッシュでかぶるし、おまけに町には影がいるし」
「それでも、こっちに来たかったんだ」
「うん」
海はもう見えない。トンネルに入ってしまい、サトルの姿が日向よりもくっきりと浮かび上がって見える。彼は申し訳なさそうにも、無邪気に真彩のことを知りたがっていた。
面倒くさくても、遠くの学校に行きたかったのには理由がある。
「……知らない人だらけの学校に行きたかったの。別に、高校は行かなくても良かったんだけど、お母さんが行けって言うから。だから、仕方なく。それなら遠い場所がいいなって。誰も私を知らない場所が良かった」
そうして自分で選んだのがあの学校だった。結局、成績は悪く、素行もまぁまぁ悪いので教師からは諦められているが。
「お母さんのために学校に行ってんの?」
サトルの問いは遠慮がちだった。しかし、言葉は無遠慮だった。真彩は小さく、くはっと笑った。笑うところじゃないだろうが、なんとなく口をついて出てきてしまった。
「そうかもね」
自分のためじゃないのだと気がついた。母が喜んでくれるかもしれないと淡い期待を寄せて、乗り気じゃない受験をしたんだろう。母が元気になるならと純粋に思っていた。でも――
「それでお母さんは、喜んだ?」
無遠慮ついでにさらに深く切り込んでくる。そんな彼に、真彩は眉をしかめて笑った。
「分かんない」
「分かんない?」
「うん。だって、お母さんには、しばらく会えてないから」
しばらく会っていない。会えずにいる。中学卒業までは足繁く通っていたのに、母の病室を訪ねるのが今では怖い。どうしてそんなことになったのかは、自分でもよく分からない。病室から飛び降りようとした母の気持ちをいくら考えたところで分かるわけがない。
幽霊も死も、不幸も日常だ。
「そっか……」
サトルは何を思ったのか、もうそれきり何も聞いてこず、話題を変えてきた。
「そういや、あいつ、あれから出てこなかったな」
あいつというのはカナトだろうか。
「俺、あいつから嫌なこと言われてさ。で、今朝のあれだろ。本当に信用できない」
確かに。出会い頭から毛嫌いしている相手の話を迂闊に信じこみすぎていた。後悔の怪物の話だってどこまで信じていいのか。
「ま。真彩の言っていた条件をクリアしたら、あいつに手伝ってもらうことも悪くないか……うーん、でも微妙だなぁ」
言いながら、サトルは眉を頼りなく下げた。いつものからっとしたサトルの表情だ。真彩もようやく安心し、ホッと息をつく。電車が揺れ、トンネルの終わりが見えてきた。
駅を降りると、ロータリーには買い物帰りの親子やプール帰りの小学生が賑わっている。商店街は改装したばかりで、入り口がモノトーンの小洒落た雰囲気だ。見やすいゴシック体の「くぼ商店街」を読み上げるサトルの目は好奇心でいっぱいだった。
「おぉ……」
商店街の次は、ぼってりと丸いモニュメントがある公園、人工的に揃えられた街路樹に目を移して、しきりに「おぉ」と声を漏らしている。それがうるさいので、真彩は思わず口を開いた。
「もしかして、窪に来たことない?」
「え? い、いや、来たことくらいはあるし。本屋とか、あと、駅のホームまでならあるし。てか、窪ってあんまり行くとこないし。ハンバーガー食いに来たことくらいしかないし」
言い訳の口が早い。要するにあまり来たことがないのだろう。強がったセリフの端々には負け惜しみとワクワクが隠しきれていない。知らない場所にはしゃぐ小学生のようだ。
「つーか、おしゃれすぎない? 落ち着かないんだけど」
「そりゃあ、毎日海で遊んでる野生児には刺激が強いよね」
「海にも来たことない都会っ子に言われたくない」
ふざけて尖った言葉を出せば、サトルも負けじと言い返してくる。それ以上にけなす言葉が見つからなかったので、真彩は口を結んで鼻を鳴らした。さっさと公園を横切り、煉瓦が敷き詰められた道路に入る。
まっすぐ家路に向かうと、その後ろをすいっと滑るように走って追いかけるサトル。街路樹を物珍しそうに見送る彼の目は日向色。真彩はちらりと彼の指先に目を落とした。
「あれ?」
黒く濁っていたはずが、今はまっさらだ。
「ん? どした、真彩」
こういう微細な反応には目ざとい。
「え、あ、いや……なんでもない」
真彩はすぐに指先から目を逸らした。
自宅はコの字型をした壁のようなマンションだ。セキュリティはしっかりしており、カードキーでマンション内に入ることができる。その動作を唖然と眺めるサトルに、真彩は得意げに笑った。
「要塞みたいだな。こんなの生で見たことない」
彼の感想が予想と違って拍子抜けする。
「そこまで珍しくないでしょ。まぁ、矢菱町はこういうマンションないけどさ」
「あ、待てよ……もしかして、CMでやってたニュータウンのでっかいマンションか」
サトルが指をパチンと鳴らして閃いた。ローカルCMのことだろう。確かに、ひと昔前は開発中のニュータウンとしてテレビコマーシャルや広告が市内あちこちで垂れ流されていたような。ここに引っ越して十年ほどは経つので、ニュータウンとは言えないが。
「なるほどねぇ。こんなにでかいマンションだったんだ……」
感慨深く言うサトル。真彩は反応に困り、やはり首をかしげるしかなかった。
「とりあえず、もうここでいいよ」
いつまでもエントランスに突っ立っているわけにもいかない。真彩が切り出すと、サトルは名残惜しそうな目をした。
「また明日」
小さく手を振ると、彼も顔の横で手を振る。
「また明日も、送ってくからな」
「うん。じゃあね」
ガラス戸が閉まる。サトルの色と重なっていき、輪郭が分からなくなる。彼がいつまでも離れないので、真彩はエレベーター乗り場へ先に引っ込むことにした。
周囲が遠巻きに見るから、自分から離れることにした。それがいいことだとは思ってないが、悪いことでもないだろう。
他人に合わせていたら傷つくから。そして、心配されたくないから、わざと怖がらせてみたり困らせたりする。不幸は慣れている。はずなのに。
サトルの指先みたいに、体の中が鈍く濁っていくような気がした。気持ちが悪い。思い出すと頭が痛くなる。
「何があったか、なんて聞かないわ。言いたくないなら言わなくていいんだから」
授業が始まる前に、岩蕗先生は静かに優しく突き放した。
「すいません」
「……まぁ、でも、廊下で騒ぐのは良くないわね。それに、深影(みかげ)くんに何か嫌なことでも言われたんでしょう? 怒るのは仕方ないわ」
「深影?」
思わず顔を上げると、先生はうんざりといった表情を見せた。
「そう。二年の深影銀人くん。あの子、授業に出ないしあなたと同じくサボり常習犯なんだけれど、テストだけは受けにくるのよね……で、満点をとっていくの」
先生は遠い目をして言った。どうやらカナトは教師の間でも問題児扱いされているらしい。
「少しは落ち着いてくれたかしら。授業を始めたいのだけれど」
先生の言葉はせっかちだ。しかし、不自然な行動をとった直後に、大人しく授業を受けられるわけがない。真彩は甘えるように首を横に振った。
「……困ったわね」
先生は教壇から降り、真彩の前席に座った。不必要にびくついて顔を落とせば、先生の細い指だけが視界に入る。
いつものように飄々としていればいい。むしろ困らせる勢いで、全然落ち込んでない風を装えばいい。どうしてそれができないのか自分でもよく分からない。真彩は息を止めて言った。
「――先生は、不幸だと思うこと、ある?」
「不幸?」
すぐさまきつく返される。
「……そうね。不幸と言うよりも、基本的に幸福ではないわね」
真彩はしかめっ面を持ち上げた。先生の顔も変わらず真顔で、感情の起伏がない。
「私は変な子だったのよ。マイペースで生意気で、自分の世界に浸りがち。そのくせ私のことを分かってくれる人は世界に誰一人としていない――なんて、考えてたら孤独を感じて勝手に不幸になっていたの」
まるで自分の心を見透かすような話で、まぶたの裏側が熱くなった。目が潤んでしまい、慌ててうつむく。すると、先生が冷やかすように小さく笑った。
「それは今も癖になっていて、でも考えることもバカらしくなってきて、自分のやることを見つけたらこうなった。結果、私は幸せじゃないし、不幸でもないわ」
「そうなんだ……」
「人間って幸せになっても満たされないんだと思う。欲が果てしないから。でもね、それを調整することができる」
先生は組んだ指を解いた。人差し指で弾くように叩く。
「不安やつらいことは避けられない。それなら、自分の中にある幸福のレベルを設定するの。最上の幸せから何段階かに分けて、自分を客観視してみる。そうすると今、自分がどの位置にいるのか冷静に分析できるわ」
「う……ん? うーん……よく分からない……」
先生の話が難しくなっていき、真彩は考えるのに必死だった。いつのまにか涙は引っ込んでいる。
「まぁ、分からないでしょうね。これは自分でたどり着かないと実感できないんだから。いくら他人にあれこれ言われても、納得なんてできないのよ」
先生はほどよく冷たい。優しいものも怖いから、これくらいがちょうどいい。
不思議だ。両親にでさえ疎まれているのに、遠い存在のはずの先生に親近感を覚える。サトルとはまた違う信頼だ。
真彩は背後のロッカーに座るサトルを意識した。彼はこちらに遠慮しているらしく、ずっと大人しい。何を考えているのか分からない。
「あなたが何に悩んでいるかは分からないわ」
先生の声が続く。ハッとなり、重たいまぶたを開いた。対して先生は淡々と、真っ直ぐに見ていた。
「あなたが見ているものがなんなのかも分からない。でも、力になりたいとは思ってるのよ、私は」
「そんなの……」
「でなきゃ、あなたと毎日毎日顔を付き合わせるわけないじゃない。私だって夏休みにはやることが多いのよ。部活もコーチに任せっきりだし。あなたが陸上部に入ってくれるなら話は別なのに」
「急に勧誘するのやめてください」
油断も隙もない。しかし、先生の目は真剣で、冗談を言っている節はまったくなかった。
「ま、ゆっくりでいいわ。でも、溜め込むとそれこそ不幸の思うツボだから、悩むのもほどほどにしなさいね。私はあなたの味方だから、愚痴や身の上話のはけ口にしていい。情けなくてできないなら、こっそり手紙にしてもいい。ここまできたらとことん付き合うわよ」
言動は冷たいが、その熱量は分厚い。真彩は言いよどみ、机を見た。先生は歩み寄ろうとしている。それは最初から感じていたが、改めて真面目に向き合うとむずがゆくて調子が悪い。
「わたしが見ているのは……視えてるのは……」
説明が難しい。先生なら分かってくれると信じても、植えつけられた不安はそう簡単に消えてくれない。
「影のお化け?」
先に言われるとは思わない。確認するように言われ、真彩は苦笑で歪んだ口をぱっくり開けた。
「影のお化けっていうか……ニュアンスで言えばそうなんですけど。なんていうか」
どう説明をしたらいいのだろう。後悔の怪物と幽霊なんて。
その時、最初の授業で話したことを思い出した。
「先生って……」
思わず口にしてしまう。
「先生って、怪談とか都市伝説、好きなの?」
「好きじゃない。むしろ、大嫌いよ」
素早い即答がはね返り、それが冷ややかで鋭かったので固まった。先生の目が初めて揺らぐ。
「そういうのはね、やっぱり平等じゃないもの。だから、探求して突き止めて暴いて、この世から消滅させたい……っていう願望はある。そこで選んだのが物理だったの」
「嫌いなものを調べるために? そういう理由なの?」
「そうよ」
真彩は呆れた。自分も相当変だが、先生も変わっている。本人もそう言っているので納得だ。
「ま、説明がつかないものっていうのはまだまだあるものよ。自然にそのまま存在し続けるものはあるにはあるし、ないと言えばない。はっきりとは言えないわ、だって、」
「この世に当然はない?」
「そう」
うなずく先生は嬉しそうに少しだけ頰を震わせていた。
***
補習はそれから二時間遅れて始まったが、調子を取り戻した真彩は例のごとく、授業の内容は頭に入らなかった。それもお約束だと諦めている岩蕗先生も淡々と授業を進めていく。時折、真彩のノートを気にしながら。そんな風に時間が過ぎ、十五時になれば自動的に授業が終わった。
あんなに熱く冷たい話をしたのに、帰り際は呆気なく、余韻も何もない。先生が先に出て行き、するとようやく後ろのサトルが動いた。
「今日は家まで送ってくよ」
強い口調できっぱりと言われる。そんな提案は予想していなかった。
まだ陽が明るいうちは電車内が空いている。真彩は迷いなく端の席に座り、サトルはその脇に立つ。「幽霊が席を独占するわけにはいかない」という謎の持論で真彩を言いくるめた。
「あ、海が見える」
ポールにもたれていた彼が、扉の窓から外を眺めて言った。
「え? 海?」
何度も電車に乗っているが、窓から海が見えるなんて知らない。サトルが指差す方向を見やった。鬱蒼とした薮が過ぎるだけで、海の水色は影も形もない。
「いや、地形的に向こう側は海だし。あんまり見えないだけで……あぁ、ほら、見えた! 一瞬!」
「………」
空いていると言えども、まばらに乗客がいるので、真彩は曖昧に笑うしか反応ができなかった。それを悟ったのか、彼もようやく大人しくなる。その顔は少しだけ拗ねていた。
「ふーん。海ねぇ……あ、ほんとだ」
誰にも聞こえないくらいにボソボソと返す。すると、サトルの拗ねた口が笑った。
赤月海岸は入り江状の海岸らしく、浜の白が鮮やかに見える。
「あそこが赤月海岸だよ。こうやって見ると、真彩って遠いとこからわざわざ来てんだなぁー」
「うん」
「面倒じゃない?」
「うん。面倒くさい。朝は早く起きなきゃだし、通勤ラッシュでかぶるし、おまけに町には影がいるし」
「それでも、こっちに来たかったんだ」
「うん」
海はもう見えない。トンネルに入ってしまい、サトルの姿が日向よりもくっきりと浮かび上がって見える。彼は申し訳なさそうにも、無邪気に真彩のことを知りたがっていた。
面倒くさくても、遠くの学校に行きたかったのには理由がある。
「……知らない人だらけの学校に行きたかったの。別に、高校は行かなくても良かったんだけど、お母さんが行けって言うから。だから、仕方なく。それなら遠い場所がいいなって。誰も私を知らない場所が良かった」
そうして自分で選んだのがあの学校だった。結局、成績は悪く、素行もまぁまぁ悪いので教師からは諦められているが。
「お母さんのために学校に行ってんの?」
サトルの問いは遠慮がちだった。しかし、言葉は無遠慮だった。真彩は小さく、くはっと笑った。笑うところじゃないだろうが、なんとなく口をついて出てきてしまった。
「そうかもね」
自分のためじゃないのだと気がついた。母が喜んでくれるかもしれないと淡い期待を寄せて、乗り気じゃない受験をしたんだろう。母が元気になるならと純粋に思っていた。でも――
「それでお母さんは、喜んだ?」
無遠慮ついでにさらに深く切り込んでくる。そんな彼に、真彩は眉をしかめて笑った。
「分かんない」
「分かんない?」
「うん。だって、お母さんには、しばらく会えてないから」
しばらく会っていない。会えずにいる。中学卒業までは足繁く通っていたのに、母の病室を訪ねるのが今では怖い。どうしてそんなことになったのかは、自分でもよく分からない。病室から飛び降りようとした母の気持ちをいくら考えたところで分かるわけがない。
幽霊も死も、不幸も日常だ。
「そっか……」
サトルは何を思ったのか、もうそれきり何も聞いてこず、話題を変えてきた。
「そういや、あいつ、あれから出てこなかったな」
あいつというのはカナトだろうか。
「俺、あいつから嫌なこと言われてさ。で、今朝のあれだろ。本当に信用できない」
確かに。出会い頭から毛嫌いしている相手の話を迂闊に信じこみすぎていた。後悔の怪物の話だってどこまで信じていいのか。
「ま。真彩の言っていた条件をクリアしたら、あいつに手伝ってもらうことも悪くないか……うーん、でも微妙だなぁ」
言いながら、サトルは眉を頼りなく下げた。いつものからっとしたサトルの表情だ。真彩もようやく安心し、ホッと息をつく。電車が揺れ、トンネルの終わりが見えてきた。
駅を降りると、ロータリーには買い物帰りの親子やプール帰りの小学生が賑わっている。商店街は改装したばかりで、入り口がモノトーンの小洒落た雰囲気だ。見やすいゴシック体の「くぼ商店街」を読み上げるサトルの目は好奇心でいっぱいだった。
「おぉ……」
商店街の次は、ぼってりと丸いモニュメントがある公園、人工的に揃えられた街路樹に目を移して、しきりに「おぉ」と声を漏らしている。それがうるさいので、真彩は思わず口を開いた。
「もしかして、窪に来たことない?」
「え? い、いや、来たことくらいはあるし。本屋とか、あと、駅のホームまでならあるし。てか、窪ってあんまり行くとこないし。ハンバーガー食いに来たことくらいしかないし」
言い訳の口が早い。要するにあまり来たことがないのだろう。強がったセリフの端々には負け惜しみとワクワクが隠しきれていない。知らない場所にはしゃぐ小学生のようだ。
「つーか、おしゃれすぎない? 落ち着かないんだけど」
「そりゃあ、毎日海で遊んでる野生児には刺激が強いよね」
「海にも来たことない都会っ子に言われたくない」
ふざけて尖った言葉を出せば、サトルも負けじと言い返してくる。それ以上にけなす言葉が見つからなかったので、真彩は口を結んで鼻を鳴らした。さっさと公園を横切り、煉瓦が敷き詰められた道路に入る。
まっすぐ家路に向かうと、その後ろをすいっと滑るように走って追いかけるサトル。街路樹を物珍しそうに見送る彼の目は日向色。真彩はちらりと彼の指先に目を落とした。
「あれ?」
黒く濁っていたはずが、今はまっさらだ。
「ん? どした、真彩」
こういう微細な反応には目ざとい。
「え、あ、いや……なんでもない」
真彩はすぐに指先から目を逸らした。
自宅はコの字型をした壁のようなマンションだ。セキュリティはしっかりしており、カードキーでマンション内に入ることができる。その動作を唖然と眺めるサトルに、真彩は得意げに笑った。
「要塞みたいだな。こんなの生で見たことない」
彼の感想が予想と違って拍子抜けする。
「そこまで珍しくないでしょ。まぁ、矢菱町はこういうマンションないけどさ」
「あ、待てよ……もしかして、CMでやってたニュータウンのでっかいマンションか」
サトルが指をパチンと鳴らして閃いた。ローカルCMのことだろう。確かに、ひと昔前は開発中のニュータウンとしてテレビコマーシャルや広告が市内あちこちで垂れ流されていたような。ここに引っ越して十年ほどは経つので、ニュータウンとは言えないが。
「なるほどねぇ。こんなにでかいマンションだったんだ……」
感慨深く言うサトル。真彩は反応に困り、やはり首をかしげるしかなかった。
「とりあえず、もうここでいいよ」
いつまでもエントランスに突っ立っているわけにもいかない。真彩が切り出すと、サトルは名残惜しそうな目をした。
「また明日」
小さく手を振ると、彼も顔の横で手を振る。
「また明日も、送ってくからな」
「うん。じゃあね」
ガラス戸が閉まる。サトルの色と重なっていき、輪郭が分からなくなる。彼がいつまでも離れないので、真彩はエレベーター乗り場へ先に引っ込むことにした。