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 中学三年生の、春だっただろうか。僕は学校帰りに、椎名と公園に寄り道をしていた。
 木の上に降りられなくなった猫がいた。そういうことに関しては、何処までも真っ直ぐな椎名は、何の躊躇いもなく猫の元へ向かった。
 フェンスをよじ登り、椎名は猫を助けようとした。僕は「危ないよ」なんて言いながら、下で彼女のことを見ていた。
「あ」
 その声が聞こえたのと、椎名がフェンスから落ちたのは、ほぼ同時だった。
「大丈夫?」
 僕はすぐに椎名の元に駆け寄った。
「うん。まあ、何とか」
 椎名の腕には猫が抱きかかえられていた。
「もうあんなとこ、登ったらダメだよ」
 そう言って、椎名が腕を緩めると、猫は何処かへ行ってしまった。お礼くらい言ったらどうだと思った。猫だから無理に決まっているけど、彼女が必死で助けたのに、それに対して何の返答もないのは、少し癇に障った。
「立てる?」
「いや、それが、何か腰を打っちゃったみたい」
 僕はまた、あの猫に対して、どうしようもない怒りを感じた。
「無茶するから」
 それを隠すように、いつもの僕らしい言葉をかけた。
「ごめんね」
「椎名が謝ることはないよ」
「ありがとう。でも、ごめん」
 仕方がないので、僕が椎名を背負って家まで送ることになった。椎名と二人分の荷物。果たして、僕は無事に送り届けることが出来るのだろうか。正直、無理な気しかしないが、やるしかない。
「いい?」
「うん」
 ゆっくりと立ち上がると、椎名の体重が全身に伝わる。直接触れ合っている背中は、彼女の体温で、とても温かい。
「ごめん。出口くん。一回、降ろして」
「何で?」
「ちょっと痛い」
 僕は頭にはてなを浮かべながら、言われた通りに降ろしてあげた。
「どうしたの?」
「切っちゃったみたい」
 そう言って、椎名は自身の左足の内太腿を見せてきた。そこには、何かで切ったような怪我があった。血が出ていて、傷の周りには擦れたかのような跡が付いていた。僕は、はっとなって、自分の制服を見た。左腰のあたりに血が付着していた。
「たぶん、あれ」
 椎名が指をさす方を見ると、さっきまで彼女が登っていたフェンスがある。その一部、ちょうど彼女が落ちたあたりが破れていた。フェンスは金網製だ。その剥き出しになったところで切ったのだろう。
「どうしようか。病院に行くほどではなさそうだけど」
 傷口を見る限り、ぱっくりといってしまった感じではない。縫ったりする必要がなさそうだというのは、不幸中の幸いかもしれない。
 けど、フェンスって、結構汚い。目に見える汚さもそうだが、見えない菌とかが沢山いる。だから、なるべく早く手当てをした方がいい。
 とりあえず、公園内の水道で血を洗い流し、最後に気休めとして、持っていた絆創膏を貼ってあげた。
「痛むだろうけど、なるべく急ぐから。少しの間だけ、我慢して」
 僕がそう言うと、椎名は小さく頷いた。
 僕は持てる限りの力を出し、全速力で椎名を家まで送り届けた。
 でも、結局、思ったよりも深く切ってしまっていたらしく、椎名の左内腿には、細長い線状の傷跡が残ってしまった。
 椎名は、内腿なんて普通にしていたら見えないところだからと気にしていないようだった。けど、ふとしたときに、僕は思い出す。そして、その傷跡を見てしまう。知らない人からすれば、気付かないだろうけど、知っている僕からすれば、その傷は余りにも目立っていて、どうしても視界から外すことが出来なかった。