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 八月七日は登校日だった。まだ夏休みは二十日程残っている。少し早い登校日に、皆、気分が沈んでいた。そもそも、登校日の存在自体が疎ましかった。
けど、そんなのはあくまでも学校に着くまでの話だ。
 何だかんだ言っても、教室でクラスメイト達と会うというのは、皆、嬉しがっていた。
「怠いよな」
「何で登校日なんかあるんだろうね」
 そんなことを語らい合いながら、笑っている。そういうものだ。
 三年生になっても、僕と椎名は同じクラスだった。
 今日までの夏休みの間、僕と椎名はまだ一度も会っていなかった。せいぜい電話くらいだった。だから、僕も久々に彼女と会えることが堪らなく嬉しかった。
「出口くん」
 椎名が僕を呼ぶ。
「何?」
 その喜びを、周りに悟られないよう、平然を装いながら答えた。
「今日の放課後、行きたいところがあるんだけど、着いてきてくれる?」
 少しだけ珍しいことだった。
 僕は何度か椎名と出掛けたことはあった。でも、それは休日の話だった。放課後は、お互いに用事でもない限り、ベランダで並んで景色を見ていた。あの中二のときに目撃してしまった翌日から、それが僕達の日課になっていた。だから、てっきり、今日もそうなるものだと思っていた。
「いいよ。何処に行くんだ?」
 けど、僕が椎名の頼みを断るわけがなかった。
「着くまでの秘密」
 そう言って、椎名は自分の席に戻った。
 遅くならないといいなくらいにしか思わなかった。

 椎名に連れられて、辿り着いたのは駅だった。
 僕達の最寄り駅は地下鉄の終点で、何処に行くにしても座れるし、料金表も見やすいから、ラッキーだなと思っていた。
 駅、ということは、電車に乗って何処かへ行くのだろうと思った。椎名が行き先を告げていないから、手持ちのお金で足りるだろうかと少し不安になっていた。
 でも、椎名が向かったのは券売機ではなく、駅員室だった。
「あの、線路を歩いてみたいんです。線路に降りる許可を下さい」
 あまりにも予想外のことに、僕は頭の中が真っ白になった。こいつは一体何を言っているんだと、本当に訳がわからなかった。
 椎名に頼まれた駅員の男は怪訝そうな顔をしている。けど、制服を着ているから、相手が中学生ということがわかったらしく、彼は優しげな声で椎名に質問を返した。
「どうして、線路を歩きたいんだい?」
「夏休みの自由研究で、普段は入れないところや見られないところについて調べようと思ったんです。だから、線路に入りたいんです」
 駅員は少し困った顔をして「ちょっと待ってね」と言って、奥の方へと入っていった。数分して、戻って来た彼はこう言った。
「運行時間外なら入ってもいいそうだよ。君達の年齢からして、終電後という訳にはいかないから、始発前になってしまうけど大丈夫かな?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 椎名は嬉しそうに言った。
「明日の始発前というのは可能ですか?」
「大丈夫だと思うよ。後で、伝えておくよ」
「ありがとうございます」
 椎名はもう一度お礼を言うと、深々と頭を下げた。
「では、明日よろしくお願いします」
 椎名のその言葉を合図に、僕達は地下鉄を後にした。
 帰り道で、僕は気付いた。
 さっき、駅員の彼は「君達」と言わなかったか? つまり、僕も数に入れられている。
「ねえ、これもしかして僕も一緒?」
「何言ってるの? 当たり前でしょ?」
 当然といえば当然だった。でも、やっぱり、少しくらいは相談してくれてもいいだろと思った。
「わかったよ。でも、一つ教えて欲しい」
「何?」
「線路に降りたい理由。あれ、違うだろ」
 きっと、駅員からしたらもっともらしい理由だっただろう。中学生が興味を抱いて、しかも自由研究にしたいと言うのだから、出来る限り叶えてやりたいと思うのが普通だ。僕は、椎名はそんな大人の考えを利用したのではないかと思った。
「やっぱり、出口くんにはわかるよね」
 椎名の口角が上がる。その顔を見て、もしかしたら、僕のことを試していたのかもしれないと思った。
「自由研究にしようと思っているのは本当だよ。でも、それはただの口実。本当の理由は、全く別」
「死に触れるため?」
「そ。けど、そんなの言えるわけないでしょ? だから、自由研究ということにしたの。嘘を吐くときは、本当のことを混ぜて言うとバレにくいって、前に聞いたから」
「大人は嘘だとは思わないと思うけど」
 だって、中学生が、本当は死を知るために線路に入りたいと言っているのだと思う方がおかしい。そもそも、そんなことを考えているとすら思わないだろう。
「念のためだよ」
 その念のためというのは、よくわからなかった。わからなくてもいいと思った。
「明日、四時に駅前ね」
「はいはい」
 手を振り合って、椎名は僕に背を向け歩き出した。しかし、数秒後、ピタリと歩くのを止め、こちらに戻ってきた。
「言い忘れたことがあった」
「何?」
「明日、なるべく動きやすい格好で来て」
 服装を指定してきたということは、線路見学の後に何処かへ行くつもりなのだろうか。それにしても、椎名は確定事項のように言ってきたけど、僕に予定があったらどうするんだよ。まあ、ないんだけど。
「わかった」
「じゃあ、よろしくね」
 それだけ言うと、今度こそ、椎名は自分の家に向かって歩いて行った。
 その後ろ姿を、僕はずっとみつめていた。

 夏休みでだらけ切った身体に、三時起きというのは、さすがに苦痛だった。
 いくら椎名のためとはいっても、こういうのは僕には合わない。だって、夏休みの三時なんて、睡眠開始時間じゃないか。おかげで、ほとんど眠れなかった。
 重い瞼を擦り、欠伸をしながら駅に向かうと、椎名は既にそこにいた。
「おはよ」
「おはよう」
 朝の挨拶を終えた僕達は、互いの服装をじろじろと見合っていた。
「まあ、そうなるよね」
 僕達は、学校指定のジャージを着ていた。
 動きやすい格好と言われて、思い付いたのはこれだった。というか、これしか持っていなかった。ジーパンとかでも動けるといえば動けるけど、何処で何をするのかもわからない以上、安全策であるジャージにしておいた方がいいと思った。まさか、椎名も学校指定ので来るとは思わなかった。
「何か、荷物多くない?」
 椎名はリュックサックを背負い、少し大きめの手提げ鞄を持ってきていた。それに対して僕は、ショルダーバックだけだった。
「そう? 出口くんが少ないんじゃないの。とりあえず、早く行こう」
 椎名は僕の手を掴み、歩き始めた。単純に、早く行きたいと思っているようにも見えたし、何かを誤魔化されたような気もした。彼女のそういう態度は今に始まったことじゃない。気にするだけ時間の無駄だ。どうせそのうちわかるだろうと考えるのを放棄した。
 駅員室に行くと、昨日の彼が僕達を待ってくれていた。荷物を部屋に置かせてもらい、早速線路へと向かうことになった。椎名の手にはノートと筆記用具が握られていて、そういえば、自由研究という設定だったなと他人事のように思った。
 ホームに着くと、椎名はすぐに線路へと飛び降りた。怒られるのではと思ったが、軽い注意くらいだった。他には誰もいないし、電車が走ってくるわけでもないから、大目に見てくれたのかもしれない。
「君は行かなくていいのかい?」
 彼が僕に問いかける。
「僕は、ただの付き添いなんで」
「彼女?」
「違います。保護者みたいなものです」
 保護者という表現は、たぶん、不適切だ。でも、ただの友達というのも違和感があった。要するに、僕は椎名との関係を表す言葉が思いつかなかったのだ。
 そのまま駅員と雑談する気にはとてもなれなくて、僕は椎名の方へと向かった。
「何かわかった?」
 ホームの上でしゃがみ込み、椎名に声をかける。
「これは、私の印象なんだけど」
 椎名は続ける。
「ホームと線路って、境界線みたいだよね。そっちが現世で、こっちが死後の世界。冷たくて、どっちを見ても暗闇で先が見えない。こんなにも足元にレールがあるのに、繋がっているのは死なんだね。やっぱり、そこの線は越えたらいけないんだね」
 椎名は、線路の先の暗闇をみつめる。その目には、視線の先の闇よりも澱んだ黒が潜んでいた。何となく、このまま一人にしてはいけないような気がして、僕は線路に飛び降りた。
「何してるの」
「……椎名が、いなくなりそうな気がして」
 本当に、そんな気がした。
「でも、僕がいれば大丈夫なんじゃないかって思ったんだ」
「ありがとう。けど大丈夫だよ。私は興味があるだけで、それを選択したりしないから」
 椎名が僕の手を握る。
「私は、いなくならない」
「うん」
 車庫の方から灯りが射される。そろそろ運行準備を始めるのだろう。
「戻ろっか」
「そうだな」
 荷物を取りに行くまで、僕達の手は繋がれたままだった。

 地上に出たとき、外はまだ明るくなかった。時計を見ると、まだ五時にもなっていなかった。八月の日の出は、だいたい五時過ぎくらいだから、暗くて当然かもしれない。
「で、この後の予定は?」
 動きやすい服装の理由が、この線路見学のためだとはどうしても思えない。しかも、言い出した椎名の服装も学校指定のジャージだから、かなり汚れることが予想される。
「バスで、泊りで山」
「は?」
 バスで山までは、まだわかる。けど、僕の聞き間違いでなければ、椎名は今、泊りと言わなかったか?
「泊りなんて聞いてないんだけど」
「あれ、言ってなかった?」
 言っていない。そんなこと一言も、言ってないし、聞いていない。なるほど。だから、そんなにも荷物が多かったのか。予想しようと思えば、いくらでも出来たじゃないか。
「でも、何処に泊まるんだよ」
 まさか、テントを立てて野宿だとでも言うのだろうか。それはさすがにまずいだろ。そもそも、何故、山に泊りで行く必要があるのだろうか。考えれば考えるほど、次々と疑問が沸いてくる。
「山頂ホテル。部屋はもう取ってる」
「ちょっと待って。僕、そんなにお金持ってないんだけど」
 ちゃんとしたホテルがあるというのは、野宿に比べたらまあいい。安全面だとかを考慮すると、ホテルがあるのならそこに泊まるべきだと思う。でも、宿泊費はどうなる。余りにも突然すぎて、そんなお金は用意していない。そもそも、中学生だけで泊めてもらえるのだろうか。
「宿泊費は私が払うよ。私の我が儘に付き合ってもらうんだし、当然だよ」
「そのお金は何処から捻出したんだよ」
「お年玉とお小遣い。私、物欲とかあんまりないから、溜まっていく一方なんだよね。こういうときのために使おうって、前から決めてたの。だから、お金のことは気にしないで」
 そう言われて「はい。気にしません」となる訳がない。でも、どう足掻いても、今、その料金を払えるほどのお金がないというのは確かだった。
「わかった。ありがとう」
 いつか、絶対に返そうと心に決めた。いつになるかはわからないけど、でも、返そうと思った。そういう面では、椎名とは同等でいたかった。
「僕達だけで泊まれるかな」
「受験勉強前に卒業旅行ってことにしたから、たぶん、大丈夫」
「たぶんかよ」
 けど、部屋は取れているらしいし大丈夫なのだろう。それにしても、宿泊先は、よくその言い分で受け入れてくれたよなと思った。
「なあ、今から荷物を取りに行ったらダメ?」
 今、僕の鞄の中には財布と携帯くらいしか入っていない。外泊に必要なものは、何一つ持っていなかった。それに、一泊してくるということを親にも伝えなくてはいけない。僕の家は、基本的には放任主義だけど、無断外泊はさすがに良くない。荷物をまとめて、きちんと許可を取るために、やっぱり、一度家に帰るべきだと思った。
「本当は、すぐにでも行きたいんだけど、ちゃんと伝えなかった私が悪いんだもんね。わかった。私、ここで待ってるから、荷物取りに行って」
「ありがとう。すぐ戻ってくるから」
 言い終わる前には、駆け出していた。何だかんだいって、僕は椎名と小旅行が出来ることを喜んでいた。楽しみに思っていた。山に行きたい理由とか、そんなのは、もうどうでもよくなっていた。そのうちわかるだろうと思った。

 結論からいうと、椎名の目的は達成されなかった。
 泊まれなかったとか、そういうのではなくて、もっとどうしようもないことが起きた。
 椎名は、日の出が見たかったそうだ。でも、天気予報では快晴だったのに、土砂降りの大嵐になった。山の天気は変わりやすい。仕方がなかった。
 ただ、そのときの椎名の残念そうな顔が、どうしても忘れられなかった。悲しそうで、その顔を見るのはとても辛かった。
 僕は、椎名が日の出を見たい理由を聞いていなかった。だいたいの予想はついていたけど、正しい答えは、日の出を見ているときに椎名が自分から話してくれるだろうと思っていた。だから、雨が降って見ることが出来なくなり、僕はその答えを聞くことが出来なかった。別に、自分から聞いてしまっても良かった。けど、あんな顔を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。
 雨は、朝のうちには止んだ。
 山に登った目的も失い、そこに留まる理由もなくなったので、とりあえず下山した。
 椎名の態度は、普段とあまり変わらないように感じた。けど、表情は、暗いままだった。僕は、それを見ていられなかった。
「寄り道をしよう」
 そう言って、僕は椎名の手を引っ張った。
 山の麓は、ちょっとした観光地になっていた。実際に山に登る人より、ここで観光をする人の方が多いような気がした。
 純粋に楽しませたかった。これまでの僕達の関係は、椎名の死への追及に、僕が付き合っているというだけだった。だから、一度くらい、普通に遊んでみたかった。
 肉まんと餡まんをそれぞれ買って、半分こにして食べた。
 足湯をみつけて、二十分程浸かって下山の疲れを取った。
 お土産屋さんで、椎名は可愛らしい髪飾りをみつけた。それが気に入ったのか、何度か手に取って見ていたけど、予算オーバーだったらしく買うことはなかった。
 少し歩くと、寺があった。聞いたこともないようなところで、何の宗派かもわからなかった。けど、何か惹かれるものがあったのか、椎名は中に入っていった。
「自分自身のままで、死後の世界で生活出来るっていう宗教って、全然聞かないよね」
「そうだな」
 やっぱり、こうなってしまうんだなと思った。僕達は、年相応に楽しむということは出来ないのかもしれない。でも、椎名がこれで楽しいのなら、それが一番だと思った。
「生まれ変わったら、今の私の人生は忘れてしまうんでしょ? それって少し悲しいと思わない? じゃあ、私は何のために生きてるのって思うの。だから、死んでも自分のままでいたいって思う。私が死に興味があるのは、この世界のそういうところを否定したいからなのかもしれない。死んだ後も、自分でいられる方法を探しているのかもしれない」
 本堂の前で、椎名はそう言った。真面目な顔をして、いつもより低いトーンで言った。
 僕は初めて、椎名が死に触れようとする理由を聞いた。けど、僕はどう返せばいいのかわからなかった。彼女の話が難しかったというのもあるし、彼女の理想の世界が存在しないということを知っていた。
 困った僕は、少しお道化ることにした。
「じゃあ、椎名教だ」
「何それ」
 椎名は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。それがとても嬉しかった。
「これ、椎名に」
 鞄の中から小さな包み紙を取り出し、椎名に渡した。
「信者の僕から、教祖様に」
「嘘。何で」
 包み紙の中身は、さっき椎名が見ていた髪飾りだった。店を出たとき、彼女がトイレに行ったので、その隙に買っておいたのだ。
「だって、これ、結構高かったでしょ?」
「二人分の旅費に比べたら、全然安いよ」
 椎名が何かを欲しそうに眺めているところを見たのは、あのときが初めてだった。彼女自身も言っていたが、本当に物欲があまりないのだと思った。だから、プレゼントしたいと思った。財布の中は、帰りのバス代がギリ足りるかの瀬戸際ぐらいになったけど、そんなのどうでも良かった。
 僕は、ただ、椎名に笑っていて欲しかった。
「ありがとう。凄く嬉しい」
 そう言って、椎名は髪飾りを実際に付けてくれた。
「どうかな?」
「よく似合っているよ」
「ありがとう」
 そのときの椎名の笑顔は、これまで見た中で、一番綺麗で可愛らしかった。

 思い返してみると、もしかしたら、この小旅行をしていたときが、一番等身大の中学生だったのではないかと思う。
 天候不順で一番の目的が達成出来なくて、何となく寄り道して。ほんの少し、普通なら考えないような難しいことを考える。実に中学生らしいエピソードだ。
 でも、僕がこの日を特別視するのは、それが理由ではない。
 この日は、僕が椎名を信仰すると決めた日でもあった。
 もちろん、違うと思ったことは反論するし、いいと思えば賛成する。僕だって人間だ。椎名の考えることの全てを受け入れられるわけではない。ただ、僕は見てみたかった。彼女の掲げる理想を。
 存在しない世界に想いを馳せるのは、誰でもあることだ。好きなゲームの世界、アニメの世界、小説の世界。その世界に行きたい、そこで暮らしたいと思うのと同じように、僕は椎名の描く死後の世界に行ってみたかった。もしかしたら、世界中の宗教が間違っていて、本当は、死んでも自分が自分のままでいられるのではないかとも思った。
 だから、僕は椎名を選んだ。
 椎名の傍で、椎名が生きていく様子を見たいと思った。そしたら、いつか、椎名の求める世界が、僕にも見えるのではないかと思った。
 それなのに。
 教祖様がいなくなってしまったら、信者は何処にも行けないじゃないか。
 未来にも、死後の世界にも。