春に落ちる

 雪の面影は、もう何処にもなかった。
 気温が上がって、服装が、ほんの少しだけ軽装備になった。冬の間連れ添ったコートは、タンスの中で一年近くも長期休暇を取るのだろう。全く、羨ましい限りだ。
 街は、遅咲きの桜に染まっていた。それを眺めながら、僕は約束の場所へと向かっていた。

 通学路でも、家の近くでもないのに、僕はこの道を何度も通ったように思う。事実、その通りなのだけど、実際の数よりもずっと多いような感じがする。きっと、思い入れがあるからだろう。
「ごめん。遅れた」
 椎名は、僕よりも先に来ていた。
「大丈夫。私もさっき来たところだから。何か買ってくる?」
「そうする」
 席に荷物を置いて、僕は飲み物を買いに行った。
 彼女が通っていた学校近くの、あのカフェは、僕達のお決まりの場所になっていた。
 僕はアイスカフェラテを買って、席に戻った。
「三年生になった感想は?」
「別に。何も変わらないよ」
「友達は出来た?」
 親戚のおばさんかよと思った。
「いや、まだ」
「今度こそちゃんと友達作ってよ」
「善処するよ」
 友達の作り方は、まだよくわからない。けど、前みたいに臆病のままという訳にもいかない。少しずつ、クラスメイトとも話せるようになろうと思っていた。
「それで、そっちの進捗はどう?」
「もうすぐってところかな。まあ、推薦入試用のではないんだけどね」
 椎名は、浪人して美術大学を受けることにした。交通遺児の奨学金で、大学進学を目指すらしい。
 椎名は、社会的には、僕より一つ年上の七緒日菜子だ。だから、本当は現役なのに浪人生となるのは、少し不憫に思えた。でも、椎名は気にしていないようだった。むしろ、それでいいと思っているように見えた。
 椎名は、当然のことだけど、今も七緒日菜子の名を語っている。でも、彼女が彼女のふりをすることは、もうないだろう。
「駆くんは、大学どうするの?」
 椎名は、僕を出口くんではなく、駆くんと呼ぶようになった。新しい彼女の、新しい呼び方だった。
「僕は、まだ、全然」
「いっぱい悩むといいよ」
「さっきから、君のそれは何目線なの」
「学校生活の先輩? ほら、実質飛び級だし」
 非合法のだけどなと、心の中で突っ込む。
「椎名」
「何?」
 やっぱり、この呼び方が一番しっくりくる。
 椎名は、確かに七緒日菜子の名で生きている。でも、彼女は本来の自分の名前をペンネームにした。七緒日菜子として、椎名恵として、その両方で生きることを選んだのだ。
 美大のことだって、僕は、最初は心配していた。七緒がイラストレーターになりたいと言っていたから、その夢を代わりに叶えようと思ったのではないかと思った。
 けど、椎名はこう言った。
『私が、絵を描きたいの。私の尊敬する、私に絵を教えてくれた人のように、誰かの心を動かすような絵を描きたいと思ったの』
 だから、僕は応援することにした。椎名が、心からやりたいと思うのなら、それが一番だと思った。そこに、プロキオンの影で怯えているシリウスの姿は、もう何処にもいなかった。
「駆くん? どうかしたの?」
 少々間が空いてしまったことで、椎名は不思議そうな顔を浮かべていた。それを見て、慌てて話を続ける。
「今日、本当に一緒に行かなくていいの?」
「うん。私は、大丈夫」
 僕はこのあと、椎名の本当の家に行く予定だった。
 七緒日菜子に、ちゃんと挨拶をしようと思った。
 それで、椎名も一緒に来ないかと誘った。僕が予め、椎名の友達で挨拶に来たがっている子がいるけど、その子は椎名と瓜二つの容姿をしているから来づらいと思っているみたいなんだと説明しておけば、理英さん達を混乱させることはないのではと考えた。
 死んだ友人に、一度も挨拶をしに行けないというのは、あまりにも可哀想だと思った。真実を話すことは出来ないけど、でも、挨拶に行くくらい、世界だって許してくれるのではないかと思った。
 けど、椎名は断った。行ったら、家族の顔を見たら、きっと、泣いてしまうから。本当のことを言いたくなるから。そんなふうに言っていた。
「でも代わりに一つ、お願いしていいかな」
「何?」
 それは、とてもシンプルなお願いだった。僕が保証は出来ないというと、椎名はそれでもいいと言った。
「わかった。じゃあ、僕はそろそろ行くよ」
「うん」
 立ち上がり、店を出ようとしたところで、一度立ち止まった。
「椎名」
 椎名が首を傾げる。
「絵、楽しみにしてる」
 それだけ言って、僕は今度こそ店を出た。

 初めましてと心の中で声をかけた。もう、何度もこうやって話をしているのに、初めましてと言うのは少し変な気分だった。
「君の日記を、見させてもらったんだ」
 先日、僕は椎名から一冊の本を渡された。文庫本にしては少し大きくて、ハードカバーの本にしては少し小さかった。そもそも、タイトルすら書かれていなかった。
 開くと、それは七緒の日記だった。
 見てもいいのか少し悩んだけど、椎名が僕に渡したということは、見て欲しいということなのだと思った。心の中で勝手に見てごめんと謝ってから、僕は七緒の日記を読んだ。
 日記の中にいた七緒の人柄は、椎名が演じていた彼女とだいたい一致していた。椎名と出会ってからの日々も、ほとんど聞いていた通りだった。
 日記は、七緒が死ぬ五日前で終わっていた。たぶん、その次の日から椎名と入れ替わっていたのだろう。その、最後の一文に、僕は目が離せなかった。
『いつか出口駆と会ってみたい』
 それを見たとき、僕は泣きそうになった。
 僕も、会ってみたかった。
 僕とは会わないというのが、椎名との入れ替わりのルールだったということを、僕は話で聞いていた。だから、仕方がなかったのだろう。
 でも、一度くらい、こっそり僕と会ってくれても良かったじゃないか。一度、ほんの少し話すくらいなら、僕は、たぶん、気付かなかったと思う。様子がおかしいとは思うかもしれないけど、それでも、別の人と入れ替わっているという発想にはならなかったはずだ。本当に、変なところで真面目だったのだなと思った。
 もし、椎名の紹介で会っていたら、きっと、僕達は友達になれたと思う。だって、僕達の性格は結構似ているみたいだし、それに椎名の友達だ。彼女が、必死で追いかけていた人だ。だから、僕も君を追いかけていたかもしれない。何となく、そう思った。
 七緒が生きていて、僕達が出会う、別の世界が存在するのだとしたら。どうか、仲良くしてやって欲しいと思う。
 僕は七緒のことを知らない。会ったこともない。でも、僕は君の存在を証明出来るだろう。
 七緒は天涯孤独だったかもしれない。けど、君は椎名と出会った。椎名を通して、僕も君を知った。椎名が演じた君と、日記の君しか知らないけれど、君がこの世界にいたことを、僕は証明出来る。そう、断言出来る。
 きっと、そういうものなんだ。
 人と人が出会って、輪が広がって。僕達は、互いの存在を確かめ合いながら生きていく。相手を求めて、求められて。生きていることを実感する。生きることを、嬉しいと思う。だから、僕達は先に死んだ友人に対して、思いを馳せることが出来るのだろう。
 それを教えてくれたのは、紛れもなく君だった。
「じゃあ、また。いつか、必ず彼女を連れて来るよ」
 立ち上がって、僕は一つ言い忘れていたということを思い出す。
 誕生日、おめでとう。
 七緒日菜子。
 春生まれの君に、ぴったりなこの名前を、僕は一生忘れない。

 部屋を出て、僕は理英さんに、椎名から頼まれていたことを言った。事情が事情なので、嘘を織り交ぜながら説明をしないといけないのは、かなり心苦しかった。
 理英さんは、僕のお願いを快く了承してくれた。

 最近、僕は星を眺めるのが日課になっていた。
 季節が変わって、冬の星はもう見えなくなっていた。春の星の名前は、まだ憶えていない。
 けど、それもいいなと思った。
 名前を知って、意味を知ることも楽しい。でも、知ってしまったら、僕は純粋に星を見れないような気がした。その意味に、自分や誰かを重ねて、またあれこれと考えてしまう。だから、今は知らないでいいと思った。いつか、どうしようもなく知りたくなったら、そのときに調べればいいと思った。
 僕は、星が好きなのだと思う。何処がと聞かれると、上手く説明は出来ないけど、でも、好きなのだと思った。
 もしかしたら、僕は綺麗なものが好きなのかもしれない。何物にも縛られず、独自の輝きを持っているものに、強く心を惹かれるのだと思った。
 僕が、椎名に惹かれたのも、彼女の危うさなんかではなかった。僕は、彼女の他の人とは違う考えを持っているところに惹かれたのだ。自分の考えに向き合って、強くあろうとしていたところに惹かれたのだ。
 そうだ。僕はずっと、椎名に憧れていた。
 今、ようやく気が付いた。
 僕も、いつか、そんなふうになりたいと思った。
 椎名のように。
 空に輝く星のように。
 そう、強く願った。
 僕はまだ、生きる意味をみつけていないけど、そういう生き方が出来るようになりたいと思った。
 空が変わりゆくように、僕の心も少しずつ、変わっているのを感じた。
 生きるって、生きてるっていいなと思った。

 数日後、椎名から連絡が来た。
 僕は彼女の家に行く前に、少し寄り道をすることにした。
 あの廃ビルの屋上だった。
 屋上の淵に立つ。飛び降りる気は、もちろんなかった。
 鞄の中から、ずっと机の引き出しの奥にしまい込んでいた遺書を取り出した。
 椎名が死んで、生きる意味がなくなりました
 僕は椎名のところへ行こうと思います
 この頃の僕は、今僕が生きたくて仕方がないと思っているなんて、全然知らないんだよなと、少しおかしくなった。数ヶ月前の自分が、青臭くて、バカで、可愛く思えた。
 読み終えて、僕は、その遺書をびりびりに破った。僕には、もう必要なかった。
 散らばった言葉が、風に乗って飛んでいく。僕は、その欠片達がいなくなるまで、きちんと見届けた。過去の自分に、さよならを告げた。
 捨てた遺書の代わりに、僕は椎名に頼まれていた、あの髪飾りを握りしめる。
 僕がここに来ることは二度とないだろう。
 僕はこれから、椎名の絵を見に行く。
 何処からか、春の匂いがした。
 春の中に落ちていくような感覚がした。
 温かさに包まれて、溶けて、僕達は日々を重ねていく。
 そのことが、どうしようもなく愛おしいと思った。