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 廃ビルの屋上に来たのは、あの日以来だった。来る理由がなかったし、何となく、来づらかったというのもあった。
 僕は、約束の時間より早く屋上に来た。椎名と会う前に、一人になる時間が欲しかった。
 屋上の淵に腰かけ、かつての椎名の真似事をしてみた。
 足だけが、宙に放り出される。地についていない、不安定で空を切るような感覚がした。なるほど。これは癖になりそうだ。
 この、足が何処にもついていないというのが、死に片足を突っ込んでいるようだと感じた。今、僕は死に触れているのだと思った。だから、椎名は繰り返しこうしていたのだなと、今更ながらに理解した。
 座ったまま、あたりを見渡す。大小様々なビルが建ち並んでいて、どれも、まだ灯りがついていた。これを綺麗だと言う人もいれば、残業でもしているのだなと、風情の欠片もないことを言う人もいるのだろう。
 これまでの僕だったら、圧倒席に後者だ。この景色から、僕は社会の闇についてひたすら考えるのだろう。
 けど、今は普通に綺麗だと思った。人が生活しているということが、何故か綺麗に思えた。きっと、これからのことを考えて心が乱れているのだろう。
 空を見上げると、屋上にいるからか、星がいつもより近くにあるように感じた。手を伸ばせば、届くのではないかと思い、手を伸ばしてみる。当然、星に手は届かない。
 それにしても、今日は星がよく見える。
 オリオン座のリゲル。よく冬の大三角と間違えられる星。
 おうし座のアルテバラン。日本では、すばると呼ぶ方が一般的らしい。
 ふたご座のカストルとポルックス。名前の通り、二つ並んだ星。
 どれも、シリウスとプロキオンについて調べたときに、一緒に調べた。これくらいしか憶えていないけど、それでも、もしまた星の話が出来たら楽しんでくれるのではないかと思った。結局、星の話をすることはなかった。それは、この先も変わらないだろう。
 もうすぐで、約束の時間だ。意外にも、僕は落ち着いていた。もっと、緊張するかと思っていた。
 立ち上がり、椎名が来るのを待ち構えた。
 少しして、ドアノブを捻るような音が聞こえた。そんな音まで聞こえるなんて、相当神経が敏感になっているらしい。
 僕は一つだけ、深呼吸をした。
 扉が開かれる。
 来たのは、もちろん椎名だ。
「やあ」
「何してるの」
 椎名がそう聞くのも当然だった。
 僕は、まだ屋上の淵にいた。淵に立っていた。あの日の、彼女のように。
「わかったんだ。君が、七緒日菜子として生きられる方法が」
「それと、貴方がそこにいることと、何か関係があるの?」
「あるよ」
 僕は、告げる。
「だって、僕はこれから死ぬんだから」
 椎名の目が、驚きに満ちている。
「何で。だって、そんなのおかしいじゃない。私が、出口くんの生きる意味をみつける。そういう約束でしょ」
「それだよ」
 椎名は、訳がわからないという顔をしている。
「今、君は僕を出口くんと呼んだ。その呼び方は椎名のものだ。君は、僕がいたら無意識に椎名に戻ってしまう」
 椎名の表情がどんどん崩れていく。わかっていたことだけど、それを見るのは、やっぱり辛い。けど、仕方がないことだ。僕が、自分で選んだことなのだ。
 僕は、話を続ける。
「僕が生きているから。僕が、椎名が生きていることを、どうしようもなく証明してしまうから。だから、君は完璧に七緒になれない。その証拠に、僕が君の正体に気付く前は、ちゃんと七緒日菜子になれていたはずだ」
 椎名が七緒でいられなくなったのは、僕が正体を知ってからだ。あの日を境に、彼女はバランスを保てなくなった。七緒なのに、椎名としての言葉を、感情を、表に出すようになってしまった。
 全部、僕が原因だったのだ。
「だから、僕が死ねば、君の正体を知っている人は誰もいなくなる。君が椎名だと証明出来る人はいなくなる。それに、君はもうすぐで高校を卒業する。誰も知らない場所へ行けば、七緒日菜子として、初めからやり直すことが出来るはずだ」
 逆転の発想だった。
 生きていることが証明になるのなら、死ねば証明出来なくなる。秘密を知っている人が死ねば、その秘密は永遠に守られる。そういうことだったのだ。
 初めから、無理だったんだ。二人で、生きるなんて。不可能だった。僕が、気付きさえしなければ、可能だったのかもしれない。
「だからって、そんな理由で出口くんは死ねるの?」
「死ねるよ。思い出してみてよ。僕が死のうとした理由は、君が死んだと思ったからだ。君のいない人生に、希望が見えなかったから」
 その理由が、ほんの少しだけズレただけ。
 僕が死ねば、椎名恵は消えることが出来る。これこそ、まるで心中のようだと思った。
「何で。何で、そこまで出来るの?」
「ずっと、後ろめたかったんだ」
 それが、僕の中に溜まっていたものの正体だった。
 何もない、何も出来ないのに、ただ生きているということが、後ろめたかった。
 何不自由なく生きているのに、それを無下にするような生き方をしているということが、後ろめたかった。
 僕は、ずっと死にたかった。
 椎名と出会うよりも、ずっと前から、僕は死にたかった。けど、椎名と出会う前の僕は、死ねない人間だった。死ねない人間は、生きるしかなかった。それでも、心の何処かでは、いつも死にたいと思っていた。
 でも、椎名と出会って、僕は生きる意味を得た。椎名と一緒にいる時間が、楽しくて、愛おしくて、仕方がなかった。初めて、生きていたいと思った。生きていて良かったと、心の底から思った。
「何もなかった僕に、椎名という大切な存在が出来た」
 それが、僕にとって、どれほど大きなことだったか。
「椎名が、僕を変えたんだよ」
「私は、何もしてないよ」
「うん。そうだろうね」
 だって、君はそういう人だから。君にとって、僕はただの友達の一人だったかもしれない。もしかしたら、ほんの少しは、特別に思っていてくれたかもしれない。でも、やっぱり大多数のうちの一人でしかないのだろうと思った。
 でも、僕にとっては、初めて出来た、たった一人の友達。僕に言葉をくれ、生きる意味をくれた。学生時代という、全人類が輝かしいと思う時間に、僕は独りになることはなかった。思い返せば、その時間には、必ず椎名がいた。椎名は、僕に思い出も作ってくれた。
 そんな君だから、僕は、君のためなら死ねると思ったんだ。これまで、君がくれたものを返すには、僕の命くらいじゃ足りないくらいだ。けど、僕には他に何もないから。だから、命を懸けることが出来る。
 ベテルギウスは、命の星だ。もうすぐ燃え尽きて、人生を終わらせる。その、最期の一瞬まで、あの星は光を放ち続ける。輝き続ける。その輝きに、僕達は憧れる。終わりを迎えるそのときまで、僕達は、僕達でありたいと願っている。
 僕は、今からそれを否定する。
 だって、椎名は椎名でいられないじゃないか。人生の終わりを、七緒日菜子として迎えなければならない。そのことに、こうなってしまう前に、気付けなかった全てが悪い。世界も。医者も。家族も。そして、僕自身も。だから、彼女が本物になれるようにする。それは、きっと、最期まで自分でいるということに、本質的には背いている。僕は、それを認める。椎名が、喜ぶのなら。幸せになれるのなら。それが、一番なんだ。
 頭の狂ったやつだと、そう思われてもいい。誰に理解されなくてもいい。この感情は、僕だけのものだ。理解されようとも思わない。
「僕が、君の朝になるよ」
 夜が怖いと、君は言った。
 でも、明けない夜なんてない。僕達はそれを経験した。夜を超えて、朝を迎えた。あの日の出を、あの朝を、僕は絶対に忘れない。
 朝は、夜の向こう側なんだろ?
 なら、椎名の夜は、僕が終わらせる。
 朝を迎えさせる。
 僕は、椎名に背を向けた。
 ビルの下を見る。地上は、暗くてよく見えない。
 怖くはなかった。
 淵から踏み出すと、僕の身体が宙に投げ出される。そして、そのまま空を切って、地上のアスファルトに激突して死ぬ。
 これまで、何度も何度も、頭の中でイメージを繰り返した。自分の中で、自分が死ぬ瞬間を焼き付けた。
 高所落下時、人は意識を失うと聞いた。気絶して、そのまま死ぬという感じだ。だから、痛みは感じないだろう。もし、それが間違いだったとしても別に構わない。痛みなんて、どうせ一瞬だ。それに、これまでの椎名の苦しみと比べたら、痛みなんてどうとでもない。
 もう、何も思い残すことはなかった。
 目を瞑り、足を一歩前に出す。
 しかし、僕の身体は前にではなく、後ろに重心がかかった。何が起きたのか、わからなかった。そのまま、直近の地面に背中を強打する。正直、これまでの人生で一番痛かったかもしれない。
 次に感じたのは、人一人分程の重みだった。見ると、椎名が僕の上に上半身を乗せて、僕の服に顔を埋めていた。
 僕は椎名に止められたんだなと思った。
「ごめん。ごめんなさい」
 椎名は、何度も僕に謝った。その声は、泣いているように聞こえた。
「七緒」
「もういい。もう、その名前で呼ばなくていい」
 勝手だなと、まだ僕の中にある冷静さがそう言った。けど、それを口に出して言うことはなかった。
「違うの。違ったの。全部、全部私が間違ってた。私がバカだった」
 椎名が顔を上げる。やっぱり、彼女は泣いていた。
「七緒日菜子として生きることになって、私は私を消さないといけないと思った。そのために、今まで動いてきた。最初は、友達でいいと思った。でも、だんだんそれじゃ足りないような気がして、好きになってもらおうと思った。出口くんが、七緒を好きになってくれたら、きっと、私を必要と思わなくなる。そうやって、椎名恵の存在を消そうと思った。それが、正しいのだと思った」
 おおかた、僕の予想通りだった。
 僕は、初めは消えなくていいと思っていた。だけど、椎名といるうちに、僕の中で、椎名の望みを叶えてやりたいと思うようになっていった。
 だから、この方法を選んだ。これが、一番確実だと思った。結局、止められてしまったけど。
「でも、違った。今、出口くんが目の前で死のうとして、ようやくわかった。私は、椎名恵を捨てたかったんじゃない。私は、私はただ、認めて欲しかっただけだった。椎名恵は、本当は生きているのだと、証明して欲しかった。世界はきっと、私を許さないけど、でも、誰かに許してもらいたかった。生きていることを、許して欲しかった。出口くん。君だよ。君に、許してもらいたかった。君は、私の希望だった。空に輝く、希望の星だった。支えられていたのは、助けられていたのは、必要としていたのは、私の方だった」
 椎名の瞳が、真っ直ぐに僕を捕らえる。
「もし君の時間をくれるなら。君の生きる意味が、まだ私しかないのなら。お願い。生きて。生きて、私の存在を証明してください。私が生きていることを、生きることを、許してください。それで、いつか、私が」
 そこから先は、言葉にならなかった。泣き崩れた椎名は、再び、僕の服に顔を埋めた。そして、声を上げながら、子供のように泣いていた。
 僕は、椎名の頭に手をまわした。
 そして、気付いた。
 僕も、泣いていた。
 気付いて、後悔した。
 涙が止まらなくなってしまった。止めようとすると、余計に涙が溢れてくる。こんなこと、今までの人生で一度もなかった。そういう意味では、僕は、生まれて初めて、本気で泣いたのかもしれない。
 どうして泣いているのか、わからなかった。
 でも、きっと、僕は嬉しかったんだ。必要とされていることが。生きることを望まれていることが。今、生きていることが。どうしようもなく、嬉しかった。
 ああ、僕も誰かに認めて欲しかった。
 生き続けることを許して欲しかった。
 何もないけど、それでも生きていていいのだと、そう言って欲しかったんだ。
 ただ、それだけだったんだ。
 僕は、死ぬ理由を探していただけだった。何もないことを言い訳にして。椎名が死んだことを言い訳にして。ずっと、心の中で思っていた、死にたいという欲求を正当化しようとしていただけだった。全部、別の何かのせいにしようとしているだけだった。
 きっと、僕は、本当に死にたいと思ったことのない人間だった。死ねる人間だけど、死ねると、死にたいは、全然違うものだった。
「椎名」
 彼女に届くように、彼女の名前を呼んだのは、いつぶりだろうか。たったそれだけのことなのに、僕は、さらに泣きそうになった。
「僕は、生きたいよ。生きていたい。でも、やっぱり、生きる意味がわからないよ」
 僕には、まだ、椎名しかないから。
「だから、もし椎名の時間をくれるなら。僕が生きることを、望んでくれているのなら。お願いだ。僕の生きる意味を、一緒に探して欲しい。椎名だけじゃなくて、別の何かも、僕の生きる意味に出来るように、手伝って欲しい」
 椎名は、顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになった顔で笑ってみせた。
「うん。私でいいのなら。出口くんは? 私のお願い、聞いてくれますか?」
「僕も、僕でいいのなら」
 僕がそう言うと、椎名はもう一度笑った。
 そのとき、空で、名前も知らない星が零れるのを、僕は確かにこの目で見た。