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そして、恋人ごっこをする日がやって来た。
授業中、僕はずっと椎名のことを考えていた。それは、恋人ごっこをするからとかではなく、ただ普通に、考えていた。
何処かずっと上の空だった。自分の心にある靄がそうさせていた。
今日、椎名と恋人をすれば、何かわかるかもしれない。そう思った。
だから、僕は放課後になるのが待ち遠しかった。早く、この気持ちに決着をつけたかった。例えそれが、破壊的な感情だったとしても、知らずにいるよりは、ずっといいと思った。
放課後、校門を出たところで椎名と会った。
「わざわざ迎えに来てくれなくて良かったのに」
「だって、今日は彼女だから」
服装は相変わらず制服だったけど、何処か雰囲気が違うような気がした。
甘い香りがしていた。僕の知っている椎名でも、七緒でもなかった。よく見てみると、少しだけ化粧をしているようだった。彼女になると、こんなにも違うのかと思った。
「これ、出口に」
渡されたのは、小さな紙袋だった。
「バレンタインのチョコレート」
「ああ」
そうか、彼氏になるとチョコを貰うのか。今まで、女子からチョコを貰った経験なんてなかった。中学生のとき、椎名から貰ったのは貰ったが、それはクラスの女子から男子達へというのだったから、数に入らないような気がした。もちろん、母からのチョコも家族枠だから数には入らない。だから、ちゃんとしたチョコを貰ったのは、これが初めてだった。
「ちなみに、ちゃんと手作りだから」
「七緒でも手作りするんだね」
「彼氏へのチョコなんだから、当たり前でしょ」
「ありがとう」
受け取ったチョコをリュックに入れる。その様子を、椎名は何故かずっと凝視していた。
「何」
我慢出来なくて聞いてみる。
「他の子からは貰ってないんだと思って」
「彼女がいるんだから、貰う訳ないだろ」
バカにされているような気分になって、僕は少しだけ見栄を張った。今日、僕にチョコを渡そうとする素振りを見せる女子すらいなかったなんて、知られたくはなかった。
「それは良かった」
「で、何処行くの?」
これ以上チョコの話をしたらボロが出そうで、話を変えた。
「この前行けなかったナイトスケート。その後、少しイルミネーションでも見てから帰ろうと思うのだけど」
「わかった。そうしよう」
最近、リベンジ祭りだなと思った。まあ、変なことを要求されるよりずっとましだ。
僕が駅に向かって歩き始めると、椎名が僕の制服を引っ張った。
「今度は何」
「手」
そう言いながら、椎名は僕に手を出してきた。仕方がないので、僕はそれに応えてあげた。
椎名の手は、とても冷たかった。女子はたいてい冷え性らしいから、彼女もそうなのかもしれないと思った。
「違う。こう」
椎名が繋ぎ方を変える。恋人繋ぎだった。これまで、椎名とは何度か手を繋いだことがあったけど、この繋ぎ方は、初めてだった。
変な気分だった。
もしかしたら、いつの日か、僕は椎名とこういう繋ぎ方をするのかもしれないと、過去に何度か考えてみたことがあった。だって、僕達が疎遠になるなんて考えられなかった。形はどうであれ、きっと、一生付き合っていくことになるのだろうなと思っていた。その中で、一度くらいは付き合うこともあるかもしれないと思っていた。
そのもしかしたらが、今、ごっこではあるが実現していた。でも、椎名は椎名ではなくて。だから、よくわからない気持ちになった。
「そんなだから今まで、彼女の一人も出来ないのよ」
「大きなお世話だ」
駅に着いて、改札を抜けるために手を離した。電車だし、特に混雑もしていなかったので、再び手を繋ぐのは着いてからでいいだろうと思った。けど、椎名は手を出してきた。もうどうにでもなれと思いながら、その手を取った。ちなみに、今度はちゃんと最初から恋人繋ぎをした。
電車には結構乗った。ナイトスケートをやっているところなんて、都会ぐらいしかなかった。一時間くらい乗っていたんじゃないかと思う。
着いて、改札を出るときにまた一度手を離した。けど、またすぐに手を繋いだ。もちろん恋人繋ぎで。
駅からスケートリンクまでは、目と鼻の先だった。
入場料一人千五百円。妥当な値段だと思った。
「ここは僕が出そうか?」
ごっことはいえ、一応彼氏なのだから、奢ってあげるべきだと思った。軽くデートについて調べたのだが、どのサイトにもたいていそう書いてあった。
「でも、私の方が年上」
「そういえば、そうだったな」
椎名が今は年上だなんて、すっかり忘れていた。年上の女性が彼女の場合、その女性は奢られるより奢りたがることがあります。そんなことを書いてあるサイトもあった。
結局、自分の分は自分で払った。
学生だし、初めからそう決めておけば良かったかもしれない。
スケート靴に履き替えて、リンクに降りる。
スケートは初めてだった。初めては、バランスをとるのが難しくて転びやすいと聞いていた。だから、慎重に滑り出した。
けど、意外なことに、僕は滑れた。むしろ得意なくらいだった。僕は、運動神経はそこまでいい方ではなかった。無難といったところだろうか。一番よく出来て平均。苦手なものは、努力して平均より少し低いくらいだった。だから、僕は今日、人生で初めて得意なスポーツをみつけた。まあ、学校では絶対にやらない種目だけど。
いとも簡単に滑る僕に、椎名は目を見開いて驚いていた。
「何で、そんなに滑れるの?」
椎名は、リンクを囲う腰の高さ程度の壁に捕まっていた。その足は、産まれたての小鹿のように震えていた。
「スケート初めて?」
「初めて」
そうだろうなと思った。典型的な初心者の立ち方だった。これでも念の為、前回スケートに行くはずだったときに、スケートについて調べていた。そのときに、動画で滑り方とかを見ていた。その映像に、初めての人がよく陥る立ち方というのがあって、それが今の椎名の立ち方だった。
「ほら、手」
僕は椎名の手を掴んで、後ろ向きに滑る。
「何か、これこそ恋人みたいね」
「恋人だろ。今日限定だけど」
何周かそんなふうに滑っていると、椎名はコツを掴んだのか、普通に滑れるようになった。それどころか、僕よりも上手くなってしまった。得意だと思った僕の気持ちを返して欲しい。やっぱり、それなりに何でも出来る才能というのは、凄いと思う。
氷の上を悠々と滑る椎名は、美しかった。その場にいる誰もが、目を奪われていた。
時間が経つにつれて、椎名のスケート能力は上がっていった。そのうち、トリプルアクセルでもやりそうだなと思った。
「出口」
椎名が僕に手を出してくる。
「ん」
何を求めているのか、さすがにもうわかるようになった。ただ、滑るのに恋人繋ぎは危ないような気がして、普通に繋いだ。そのことに関しては、何も言われなかった。
「軽率に手繋いでるな」
今日、もう何度も手を繋いでいた。
「恋人らしいことって、手繋ぐくらいしかわからない」
「まあ、代表的な例だよね」
「あ、もう一つ知ってる」
「何」
嫌な予感がした。
「キス」
妙に真剣そうなトーンだった。
「絶対にしないからな」
手を離して、スピードを上げる。
いくら恋人ごっこをしているとはいえ、それは違うだろと思った。キスなんて、そんなに簡単にしていいものじゃない。ましてや、相手は椎名だ。厳密には七緒の皮を被っているけど、椎名の身体であることには変わらない。こんな不純なもので、汚したくない。
「別に、しろなんて言ってないわよ。変態」
椎名はすぐに僕に追いつくと、それだけ言って、追い越していった。
どうせ今日の何処かでキスしろと言うつもりだったくせにと思った。少し腹が立った僕は、さらにスピードを上げて椎名の横に並ぶ。
「男は皆変態なんだよ」
「気持ち悪いから、二度とそういう話しないで」
「気持ち悪いって何だよ」
全世界の男に謝って欲しい。だいたい、キスの話を持ち出したのはそっちだ。これだと、まるで僕が悪いみたいじゃないか。
「そろそろ、何か食べようよ」
「今、話逸らしただろ」
「別に」
言い返すのも面倒になった。
スケート靴を返して、少し近くを見て回った。スケートリンクが、期間限定の特設会場だったので、付近には祭りの屋台のように、キッチンカーがいくつか来ていた。
その中から、僕達はホットドックを選んで、近くにあったベンチに並んで座った。
「はい、あーん」
恥ずかしげもなく、椎名はそう言った。僕は少し恥ずかしかったけど、そんな気は一切見せずに、彼女の差し出すホットドックを食べた。
「何で、またスケートに行きたいなんて言ったんだ?」
一度行けなくて、それでもまた行きたいと言うということは、何か意味があるのだと思った。日の出の件がまさにそれだった。しかも前回誘われたときは、僕が正体を知る前だった。
「意味なんてない。遊園地のときと同じ。ただ、行ってみたかっただけ」
「本当に?」
「本当に」
そう言われてしまったら、こちらからはもう何も言えない。
食べ終わって、僕達はイルミネーションを見るために歩き出した。
少し歩くと、広場のようなところに出た。普段は、何てことのない地味な公園が、光り輝く世界に変わっていた。その効果で、人がかなりいた。こういう期間限定ものに釣られるのが人の性(さが)なのかもしれない。
「男の人って、イルミネーションとかどうなの?」
「どうって?」
「好きとか、嫌いとか」
「女子と比べたら、皆あんまり興味がないんじゃない。僕は別に嫌いじゃない」
好きでもないけど。
こういう男女で好みが分かれる原因って、身体のしくみだったりする。例えば、男よりも女の方が視える色が多いとか。男がイルミネーションを楽しめないのは、これが理由だ。女は色々な色が視えるから、僕達からしたら単純に感じてしまう電飾でも充分に楽しめる。
そんなデート中とは思えない思考を巡らしている僕に、椎名が言った。
「私のこと、好き?」
「好きだよ」
だって、僕達は恋人なのだから。
「恋人ごっこを抜きにしたら?」
僕は答えられなかった。
椎名のことは好きだ。けど、そういう好きではない。それに、今彼女が好きかと聞いている人物は、七緒日菜子の方だ。実際に会ったこともない人物を好きかどうかなんて、わからない。
「私のこと、好きになっていいよ」
「ふざけるな」
その言い方に、僕は無性に腹が立った。
「好きになってよ。そしたら、私、日菜子になれる気がするの。日菜子として、生きられるようになる気がするの。私に、死んで欲しくないんでしょ?」
七緒の声で、七緒の口調で、椎名は言った。僕の手を握る力が強くなったような気がした。
ああ、本当にずるい。
僕の中に、また何かが溜まっていく。
綺麗だと思っていた景色が、色を失っていく。
初めから、これが目的だったのだろうなと、ようやく気付いた。僕に七緒を好きになってもらって、椎名を消す。そういう算段だったのだろう。友達じゃとても足りないとでも思ったのだろう。そんなことをしたところで、意味なんてないのに。
「椎名の方が、特別」
それは、もうおまじないのようなものだった。自分に言い聞かせるための、魔法の呪文。
「もう帰ろっか」
気まずさに耐えられなくなったのか、椎名の方からそう言った。
僕は安心していた。
帰宅途中、僕は思いがけない人物と遭遇した。
椎名と別れて、駅のホームで電車を待っているときだった。
一日限定の恋人ごっこも終わり、これで僕にも彼女がいた経歴が出来たなんて、バカなことを考えていた。そうでもしないと、底知れぬ何かに呑まれてしまいそうだった。
「出口くん?」
突然、誰かが僕を呼んだ。その声は、ききなじみのあるものだった。
「理英さん」
声のした方を見ると、そこには椎名の母親がいた。何で、こんな時間にと思った。けど、彼女の服装を見て、何となく察しがついた。
「同窓会か何かですか?」
理英さんは、小洒落た格好をしていた。
「ええ。中学の同窓会。私、学級委員長をしていたから、断れなくて。でも、二次会三次会と居続ける気にはなれなくて、抜けてきたのよ」
娘が死んで約五ヶ月しか経っていない委員長のことも気遣えないなんて、なかなかに酷いクラスメイトだと思った。けど、そんなこと言えるわけがなかった。
「貴方は? 高校生の帰宅時間にしては少し遅いんじゃないかしら」
「少し、野暮用があったんですよ」
電車が来て、乗り込む。車内は空いていたので、二人で並んで座った。
「もしかして、デート?」
「何でそうなるんですか」
理英さんは、僕の反応を見て楽しんでいるようだった。その顔は、椎名そっくりだった。いや、逆か。椎名が理英さんに似たのだ。彼女の、こういう変にいたずら好きなところは親譲りだったということか。
「でも、元気そうで良かったわ」
その言葉に、僕はどう返していいかわからなかった。
僕は、七緒の正体が椎名だと見破ってから、お参りに行っていなかった。行けなかった。
だって、行っても、そこにいるのは椎名じゃない。会ったこともない、ただの彼女とよく似た誰か。そして、そのことを理英さん達は知らない。僕だけしか知らない。どうしようもない事実に、堪らない気持ちになった。
「すみません。少し、怖くなって」
もし、変わらずに通っていたら、僕はいつかこのことをバラしてしまうような気がした。椎名が、ひた隠しにしてきた秘密を、僕はいとも簡単に明かしてしまうような気がして仕方がなかった。それが、怖かった。
けど、それを説明出来るはずもなく、僕はただ怖いと言うしかなかった。
「怖い……怖い、か。私も、怖い」
どうやら理英さんは、僕の言葉の意味を全く違う意味に捉えているようだった。正直、好都合だった。むしろ、違う解釈をしてもらわないと困っていた。
「ううん、違う。怖かった。恵が死んだのは、誰のせいでもなくて、人として当たり前の出来事が、ただ少し早く起きてしまっただけだった。だから、思い出になってしまう期間が、他の人よりも長くなってしまう。それが、怖かったの」
思い出は、月日が流れるにつれて色褪せていく。人間の記憶には限界がある。だから、それは仕方がないことだ。けど、それを受け入れるのはなかなか難しい。しかも、死んだ人との思い出となるとなおさらだ。その人のことを忘れたくない。忘れるのが怖いと思うことは、当然のことだ。
僕だって、椎名のことを忘れるのは怖い。僕は、生きていることを知っているから、その恐怖とは今は戦っていない。でも、もし本当に死んでいたら。正体に気付いていなかったら。きっと、僕も、いつか椎名の顔を上手く思い出せない日が来て、そのことで嘆き悲しんでいたのだろう。それを考えると、やっぱり、怖い。
「でも、受け入れることにしたの。いつか、忘れてしまったとしても、あの子がいたことには変わりないでしょう。私が、あの子がいたことを知っている。もちろん、貴方も。知っている人がいてくれる限り、恵はこの世界にいる。生きていたことが証明される。それが、生きている私達の務め」
理英さんが、優しく微笑む。その顔はやっぱり、椎名とそっくりだった。
電車が、最寄り駅である終点に到着した。
理英さんとは、駅で別れた。少し、一人になりたかった。
夜道を、星を見上げながら家に帰った。
暗い部屋で、一人、ただ考えた。
理英さんの言葉が、ずっと頭の中でリフレインしていた。それが、僕の中にある答えのような気がした。
僕は、答えに辿り着こうとしていた。ただ、それを拒んでいる自分もいた。答えを知ろうとする自分と、このままでいたいという自分が闘っていた。
だから、僕は優先順位をつけようと思った。僕にとって、一番大切なことは何か、考えることにした。
僕の最優先事項。そんなの、決まっている。
椎名恵だ。
僕にとって、一番大切なのは、椎名しか考えられない。他の何よりも、彼女は特別で、大切で、かけがえのない存在。だから、僕は死のうと思った。大切なものを失ったから、死のうとした。
生きることは、証明すること。
椎名の幸せが、僕の幸せ。
なら、もう決まっているじゃないか。
初めから、悩む必要なんてなかった。
僕は携帯を取り出し、彼女にメッセージを送った。
『話がある。明日の夜八時に、僕と七緒が初めて会った、あの廃ビルの屋上で待ってる』
僕の心は、決まっていた。