第三章

 1

 あれから、僕達は会っていなかった。でも、連絡だけは取り合っていた。
 正体がバレてから、彼女は、時折椎名の顔を見せるようになった。上手く、バランスを保てていないようだった。それでも、彼女は七緒でいようとした。
 七緒日菜子になろうとしていた。
『高校最後のテスト終わった』
『本当は高二なのに、気付かれずに卒業までしちゃうなんて、私、凄いでしょ』
『久々に、会って話さない? 今後のこととかさ』
 その連投メッセージを受け取ったとき、僕は絶賛授業中だった。幸い、席は窓際で後ろの方だったし、その授業は、まあ、ちょっとうるさい感じの授業だった。先生が舐められてしまっていて、皆、ろくに話も聞いていない。だから、多少のバイブ音なら、周りにかき消されて気付かれない。僕は、心の中で安堵の溜め息を吐いた。
 机の下で、こっそり返事を送る。
『じゃあ、この前のカフェで』
『ちなみに、僕は六時間目まで授業があるし、移動にも時間がかかるからよろしく』
 そう送って、すぐに電源を切った。
 異論なんて認めない。授業中に送られてきたんだ。これくらいの一方的差は許されるだろう。それに、交通費をかけて、わざわざそっちまで行ってあげると言っているのだから、むしろ、感謝して欲しいくらいだ。
 窓に反射する自分の顔を見ると、なかなかに酷い顔をしていた。久々に会えるという嬉しさ、意地悪をしてやったという悪い顔、このまま平穏でいたかったという苦しさ。様々な感情が闘って、それはそれは見るに堪えない表情をしていた。
 会いたかった。会って、話がしたかった。でも、会いたくもなかった。会うと、彼女の辛さが伝染して、自分も辛くなった。
 僕は、本当の意味では、他人の気持ちが理解出来ない人間なのだろう。だって、僕は他人の痛みを自分のものにしてしまいがちだから。それは、共感とは呼べないように思う。
 だから、きっと、僕は椎名の苦しみも、本当は理解していないのではないかと思った。
 それが浮き彫りになってしまうのが、怖かった。
 でも、会わない訳にはいかなかった。この問題を、見て見ぬふりをし続ける方が無理な気がした。しばらくは無視出来るかもしれない。過去のように、楽しく彼女と何かをする。もしかしたら、楽しくはないかもしれないけど、それでも、平和に暮らすことは出来るだろう。けど、僕はいつか必ず、それに耐えられなくなる。そんな気がしてならなかった。
 学校が終わって、ようやく携帯の電源を入れた。新着のメッセージは、一件も来ていなかった。特に気にはならなかった。
 カフェに、彼女はいた。つまらなさそうに、外を見ていた。
「七緒」
 迷った結果、そう呼んだ。ここは、彼女の通っている学校の近く。彼女のことを知っている人がいてもおかしくはない。迂闊に、椎名とは呼べない。
「思ってたより、早かったね」
 椎名は相変わらず、興味なさげな声でそう言った。
「何してたの?」
 彼女の正面に座りながら聞いた。
「本読んでたんだけど、読み終わって、暇だったから外を見てた。要するに、何もない無駄な時間を過ごしていたの」
 見ると、彼女の横には大きめの鞄があった。それは、あの日、正体を知った日に持っていた鞄と同じだった。あの日も、学校帰りだった。
 僕は頭を抱えた。
 確かに、僕はカフェで待ち合わせをしようという趣旨の連絡をした。でも、まさか、終わった時間からずっとここにいたとは。一度家に帰るとか、おおよその時間まで何処かへ行くとか、何か出来ただろと思った。
 けど、すぐに思い直した。
 椎名はきっと、家に帰りたくなかったのだ。あの空間になるべくいたくないのだ。そういうところだよ。椎名の顔がちらつくのは。
「で、何から話す?」
 思い当たることは、いくつかあった。
「出口は、まだ死にたい?」
 少し意外だった。そこから聞いてくるとは思わなかった。
「わからないよ」
 正直に、そう言った。
 だって、椎名は生きていた。僕が死にたかったのは、彼女が死んだからだった。生きていたのなら、それだけで、僕の死ぬ理由はなくなった。
 けど、果たして本当に生きているといえるのだろうか。
 椎名は椎名恵を捨てて、七緒日菜子になろうとしている。入れ替わったことすら、なかったことにしようとしている。本物になろうとしている。そんなの、死んだも同然なのではないだろうか。
 人は大人になるにつれて、自分の中の、不必要な人格を捨てていく。それは、仕方がないことだ。でも、椎名恵は、いらない人格なのだろうか。彼女の本質は、椎名恵なのだ。例え、椎名恵を捨てることに成功したとして、彼女が本物の七緒日菜子かと聞かれると、素直に肯定出来ない。
 それに、捨てたいと、消したいと言っておきながら、彼女は七緒日菜子になり切れていない。演じ切れていない。つまり、彼女はまだ、捨て方を知らない。完全に捨てられていない。もし、僕と再会するよりも前に、彼女が椎名恵を捨てていたら、僕が正体を暴いたときに認めたりはしなかったはずだ。何か、その傷に対してのエピソードを語ったはずだ。
 そんなふうに、あれこれ考えていると、僕の死は意味のあるものなのかがわからなくなった。
「まあ、そうだよね。私も、本当は死のうとしていたわけではないし」
 でもと七緒は続ける。
「死にたいと思うのは、本当は生きたいと思っているからなんて、そんなの、本当に死にたいと思ったことなんてない人の戯れ言だよ」
 その通りだと僕は心の中で同意する。
「そして、残念なことに、私達は死ねる人間だよね」
 その、私達というのは、僕、椎名、七緒のことなのだろうと思った。僕は悲しくなった。あの日、線路の上で誓いを立ててくれた彼女は、もう消されてしまったらしい。
「だから、最初のやつ、少し変えようと思うの」
「最初のやつ?」
「出口は、私の絵のスランプを克服させる。私は、出口の生きる意味をみつける」
「ああ」
 何か、もう破棄されたような気になっていた。
「それで? どんなふうに変えようって言うの?」
「互いの、生きる意味をみつける」
 はっきりと、そう言った。
「厳密には、出口は私が七緒日菜子として生きられるようにする。でも、それだと貴方は死んでしまうでしょ? 椎名恵が消えたから。だから、私は貴方の別の生きる意味をみつける。まあ、後半はほとんどこれまでと一緒だよ」
「ちょっと待て。それで、僕に何のメリットがある」
 僕は、例え七緒日菜子を演じているのだとしても、椎名恵が生きていることを感じられたら、それでいい。会えない期間に、何とか、そこまで気持ちを持ってきていた。だから、このままでも、別に構わなかった。もちろん、出来る限り、七緒になれるようにサポートはするつもりだった。けど、完全に消す必要は、きっとない。
「私は、その齟齬による苦しみで死んでしまいたい。死にたいの。だから、助けてよ。私に、生きていて欲しくないの?」
 そんなの、脅迫とほとんど同じじゃないか。
「……わかった」
 それでも、僕は断れない。
 椎名の身体が朽ち果てないのなら、それもいいかもしれないという、別の僕の、悪魔的な囁きがそうさせる。
「決まりだね」
 僕は何も言わなかった。それが気に食わなかったのか、彼女の表情が、少し機嫌の悪そうな顔になる。けど、すぐに元に戻った。
「じゃあ、次。今週末だけど、また、山に行きたい」
「正気かよ」
 冬の山に行きたいだなんて、一体何を言っているのだと思った。前回は夏だったから特に問題はなかった。でも、今は雪が降り積もっているだろうし、そもそも入ることが出来ないのではないだろうか。
「リベンジしたいの。今度こそ、日の出が見たい」
「言いたいことはわかるよ。けど、せめて山開きまで待たないか? それに、君にとって二月はもう春休みかもしれないけど、僕はまだ学校がある。今月末にはテストだってある」
「あの山、冬は登山は無理だけど、山頂ホテルには行けるの」
 何となく、噛み合っていないような感じがした。というか、意図的に話を逸らされている。
「わかったよ」
 このままだと、埒が明かないので僕が折れることにした。こういうときは、相手に合わせる方が、たいてい上手くいく。あくまで、僕の場合はだけど。テストについては、もう諦めた。これまでの成績的に、今回の成績が悪くても、留年することはないはずだ。
「部屋は? もちろん、別だよね?」
「一緒に決まってるじゃない」
 何言ってんのという顔をしていた。
「僕達は、高校生だ」
 あのときとは、違う。前回は、まだ中学生だったし、周りの視線もそこまで気にならなかった。
 けど、僕達はもう高校生になった。年頃の男女が、同じ部屋に泊まる。しかも、大人数ではなく、二人だけで。この前の、家での泊りとはまるで違う。泊まるのは、ホテルだ。普通の、僕達のことを知らない他人が、沢山いる場所だ。勘違いされても、おかしくはない。僕自身が誤解されるのは別にいい。ただ、見ず知らずの人が、そんな好奇な視線を彼女に向けるということが嫌だった。だって、彼女は、純潔だ。穢れた情を向けていい人物ではない。
「一緒に寝た仲なのに?」
「ただ、同じ布団で並んで寝ただけな」
 僕の気持ちを知らない彼女は、また語弊を生みそうな言い方をする。しかも、今回はカフェという公共の場で。いや、そもそもこんな話をすること自体が間違っていた。ほんの少し、後悔した。
「皆、自分達の会話に夢中で、周りの人のことなんか気にしていないよ。私達の会話を盗み聞くような人はいない」
「ふいに、聞こえてしまったということもあるだろ」
 僕は、少し苛立っていた。
「部屋のことだって、別に誰も何も思わないよ。思ったところで一瞬。所詮、皆他人で、人間は他人に興味なんてないんだから」
「それは」
 その通りだった。そんなこと、僕が一番よく知っている。僕は椎名にしか興味を抱けなくて、他の人はどうでもいいと思っていた。そんな生活を、今までずっとしてきた。わからない訳がない。僕に、反論の余地はなかった。
「そんなにも、大事なのね」
 それは、紛れもなく七緒の言葉だった。
「椎名の方が、特別だ」
 ずっと前にも同じことを言った。けど、その中身は、前とは違っていた。
「知ってるよ。だから、消したいんだよ」
 その目が、余りにも悲しげだったので、僕はそれ以上のことは言えなかった。諦めて、僕は話を進めることにした。
「お金は?」
「普通に泊まる分くらいのお金はあるよ。そっちは? 今回も、私が付き合わせるのだから、出そうと思えば出せるけど」
「いや、今回は僕が二人分払う」
 いつか椎名に返そうと、ずっと貯金をしていた。彼女が死んだという連絡を受けてからも、僕は貯金をやめなかった。死んだのだとしても、絶対に返したいと思っていた。七緒が椎名だと気付く少し前に、ようやくその額に達した。たいていのホテルは、中学生以上は一律で大人料金だし、その貯金額が全財産ではないから、たぶん、大丈夫だ。
「君は、貸した金が返ってきたと、そう思っていればいい」
 彼女は不服そうな顔をしていた。払いたかったというより、払われるというのが嫌なのだと思った。だって、椎名は返してもらうことを望んでいなかったから。
 けど、さすがにこれだけは譲れない。僕にだって、プライドがある。
「予約はそっちに任せるよ。ただ、もし、勝手に先払いとかしたら、調べて、同じ額を貯めるだけだ。ここで終わらしておく方が、君としても楽だと思わない?」
 呆れたような溜め息が聞こえた。
「わかった。今回の旅費は貴方が払って」
 今日、初めて彼女に勝てたような気がした。
 それから、何時に待ち合わせをするかとか、軽く打ち合わせをしてから、彼女と別れた。
 散々な一日だった。
 外は、相変わらず寒かった。