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 七緒の家は、アパートの一室だった。
 親には『今日遅くなる。もしかしたら、泊まるかも』と連絡をして、電源を切った。親の逆鱗より、こっちの方が大事だ。
 中は生活に必要な最低限度のものと、画材くらいしかなかった。彼女の夢の象徴が、そこら中にあるのに、何故だか寂しい感じがした。
「一人暮らし?」
「うん。日菜子はね、独りぼっちだったの。中学生の頃に、両親が事故で亡くなったんだって。親戚もいない。天涯孤独」
 だからねと椎名は続ける。
「逆に、良かったのかもって思うの。独り、この部屋で死んで、誰にもみつからないより、椎名恵として死んで多くの人に弔ってもらって。そしたら、もう独りじゃない」
 それが、本心からなのか、強がっているだけなのか、僕には判断が出来なかった。
 机の上を見ると、写真が飾られていた。椎名と、その横に、最近僕がよく見るようになった制服を着た少女。
 この子が、七緒日菜子。
 本当に、椎名と似ていた。双子のようだった。
「可愛いでしょ。同じ顔だけど、私より断然可愛い」
 肯定も否定も出来なかった。椎名の方が可愛いよと言ってあげることも出来た。けど、そういう雰囲気ではないし、言ったところでお世辞だと思われそうだった。
「よく気付かれなかったね。司法解剖もあったのに」
 誤魔化すように話を変えた。
「身元不明でもない限り、DNA鑑定なんてしないよ。それに、私と日菜子、血液型も同じだったの。普通、気付かないよ」
 確かにと納得した。
「片方が、出口くんの知っている方が死んだことになってるから、気付かれないと思ったんだけどな。傷跡までは考えてなかったよ」
 僕も、その傷を見るまでは椎名だとは思わなかった。葬式にも出たし、生きていると思う方がおかしい。もし、椎名の足に傷がなかったら。僕がその傷のことを知らなかったら。きっと、僕は一生、目の前の彼女を七緒日菜子だと思っていたに違いない。
 次に奥の部屋に通された。スライド式の扉で、中も今風な様式の部屋だった。
 そこには、例の海の絵が飾られていた。おおまかな絵の雰囲気は、前回椎名に見せてもらった絵と似ていた。七緒に教わったと言っていたし、当然といえば当然だ。ただ、椎名のも上手かったが、七緒の絵の方が圧倒的だった。
 椎名は、自分のことを中途半端な才能と言っていた。僕は、別にそんなことはないと思っていた。多彩なのは、悪いことではない。そう言ってあげたかったけど、七緒の絵を見てしまうと、逆に傷付けるような気がした。力の差がありすぎる。なるほど、これが天才。
 もう少し近くで見ようと、一歩前に出たとき、何かを踏んだ。拾ってみると『進路希望調査票』と書かれていた。記入欄は、全て白紙だった。それに、ここにあるということは、未提出ということだ。
「それ、日菜子が死んだ日に配布されたの」
「代わりに書いたりしなかったんだね」
「だって、わからないんだもん」
 そのわからないというのが、七緒が何を希望していたのかがわからないという意味なのか、彼女として生きることになった椎名の気持ちなのか、僕にわかるはずがなかった。
「どうすれば、日菜子になれるかな」
「ならなくていいじゃないか」
 だって、椎名は椎名だ。名前や生活環境が変わっても、彼女が椎名であることは変わらない。そりゃ、こんなことになってしまったから、椎名恵の名は語れない。でも、無理に七緒を演じる必要はないはずだ。高校は、どうせもうすぐ卒業だし、本物の七緒を知らない何処かに行けば、七緒の名前でも椎名でいることは可能なはずだ。
 もし、それが難しいというのなら、せめて、僕の前でだけは椎名でいればいい。休憩所にならいくらだってなる。僕は椎名に人生を救われてきた。彼女がいたから、今まで生きてくることが出来た。だから、それくらいお安い御用だ。
 なのに。
「ダメ。私は椎名恵を消さなければいけない」
 椎名は、それを拒む。
「何でだよ」
「戸籍上、椎名恵は死んでいるのに、本当は違う人が死んでいて、実は生きているだなんて、そんなの世界が許さない。許される訳がない」
 世界って何だよと思った。僕の知っている椎名は、そんなことを言うような人ではなかった。ああ、そうだ。今、彼女は七緒日菜子なのだ。何で、こんなにも上手くいかないのだろう。
「もう思い出話すら、出来ないんだね」
「私と出口の間に、思い出なんてなかったはずだよ」
 僕の心に、何かが刺さったように思った。痛かった。悲しかった。その言葉は、出口という呼び方は、七緒のものだった。軽い冗談のつもりで言ったのに、突き放されたような気分だった。
「絵、描いてよ」
 僕の、精一杯の反抗だった。
「意地悪だね」
「待ってるからさ」
「うん」
 椎名は、イーゼルを立てそこにキャンパスを置いた。まだ、何も描かれていない、真っ白なキャンパスだった。
「適当にしてて」
 適当にと言われても、人の家で何をすればいいのだろう。しかも、ここは椎名の家ではなく七緒の家。死んだ女の子の部屋を物色なんて、僕に出来る訳がなかった。
 結局、近くのコンビニに行くことにした。冷蔵庫を覗いたけど、夕飯になりそうなものは何も入っていなかった。それに、頑張っている椎名に、何か差し入れをしてあげたいと思った。
 鍵は、机の上に置きっ放しになっていた。戸締りをせずに出かける訳にも行かないので、勝手に拝借した。鍵自体が見えるところにあって、しかも安全面を考慮しての行為だったので、これは物色には含まれない。そんなことを考えながら、惣菜コーナーを眺めた。
 悩んだ結果、椎名にはドリアと、彼女の好きなチョコレート菓子を買った。僕は、ゼリー飲料を買った。あまりお腹が空いていなかった、というより食欲がなかった。今日あったことを、自分の中でまだ上手く消化出来ていなかった。
 アパートに戻って、借りた鍵を使って部屋に入った。椎名は、まだ奥の部屋にいるようだった。温めてもらったドリアが冷めるといけないので、彼女を呼びに行く。
「椎名」
 軽くノックをしてみたが、返事がない。
「……入るよ」
 扉を開けて、驚いた。
 倒されたイーゼル。
 床に投げ出されたキャンパス。
 椎名は、泣いていた。
 こんな姿を見るのは、初めてだった。
 原因は、すぐにわかった。
 あの、海の絵だ。
「椎名」
 もう一度名前を呼ぶと、彼女は、ようやく僕に気が付いた。
「出口くん」
「ご飯、買ってきたから。冷めないうちに食べよう」
 僕がそう言うと、椎名は力なく頷いた。
 失敗したと思った。いくら気が立っていたとはいえ、何で、この場で絵を描かせようとしてしまったのだろう。
 リビングで向かい合って座った。椎名は、僕の買ってきたドリアを黙って食べた。僕もゼリー飲料を胃に流し込んだ。
「ごめん。変なところ見せて」
「別に」
 ちらりと、先程まで彼女のいた部屋を見る。扉が完全に締め切られていて、中の絵は見ることが出来なかった。
「描けると思ったの」
 椎名は小さくそう言った。
「私でも、プロキオンになれるって、今日言ってくれたから。頑張ってみようと思ったの。絵を、もう一度描けるようになりたいっていうのは、本当だったから。でも、ダメだった。気付いたら、イーゼルが倒れてて、出口くんがいて。せっかく、出口くんが慰めてくれたのにね」
 椎名は、相当参っているようだった。
「絵、外そうか?」
 見ていられなくて、ついに僕はそう言った。あの絵は、憧れるには強すぎる。
「ダメ」
「何で」
 あれは、椎名にとっては毒だ。強すぎる憧れは、逆に自分を苦しめる。別に、七緒を憧れるのをやめろと言っている訳じゃない。ただ、少し距離を置いた方がいい。
 今、椎名は精神的にかなり弱っている。このまま、あの絵といても、椎名が苦しくなるだけだ。だから、気持ちを落ち着けて、もう少し心を鍛えたら、また飾ればいい。そう思ったのに、それが一番いいはずなのに、きっと、彼女もわかっているはずなのに、何でダメだなんて言うのだろう。訳がわからなかった。
「だって、絵だけだから。私と日菜子を繋ぐもの。今はもう、あの絵しかない。あの絵がなくなったら、私は、七緒日菜子ではいられなくなる」
 ああと思った。
 僕が椎名を信仰しているように、椎名は七緒を信仰しているのだと思った。自分が、心から信仰している人物のふりを、一生しなくてはならない。それが、どれだけ重く、苦しいことか、ようやくわかったような気がする。
 なるほど。だから、椎名はどうしても椎名恵を消したいのだ。
「出口くん。今日、泊まってってよ」
「うん」
 このまま、椎名を一人にするなんて、僕には出来なかった。それに、何となく、泊まることになるような気がしていた。最初の時点で、親に連絡したのもそのためだ。
 七緒の家に、布団は一セットしかなかった。一人暮らしだし、当然といえば当然だ。
 いくら長い付き合いだといっても、同じ布団で寝るのは気が引けた。僕は椅子で寝ると言ったけど、椎名がどうしても横にいて欲しいと言うので、仕方なく、一緒に寝ることになった。
 椎名は、いつもあの絵のある部屋で寝ているらしい。僕は、別の場所で寝た方がいいのではと思ったが、布団を敷くとなると、そこくらいしか寝れるスペースはなかった。
 仕方がないので、七緒の絵のある部屋に布団を敷いて、電気を消し、二人並んで横になった。
「一緒に寝るの、久しぶりだね」
「語弊を生みそうな言い方しないでよ」
「男の子って、何でそう、すぐそっちに持っていくの?」
「僕の渾身のギャグを踏みにじるようなこと言わないでくれる?」
「つまんないよ」
 そう言う割には、椎名の顔は、さっきと比べて朗らかだった。暗い感じの表情は、何処にもなかった。そのことに、少し安心した。身を削ったギャグを言って良かったと思った。これで表情が変わらなかったら、僕は風呂場で浴槽に顔を突っ込みながら叫んでいただろう。
「手、握ってよ」
 僕は、椎名の手を握った。
「やっぱり、出口くんがいてくれると安心する」
「それは良かった」
「何処で間違えたのかな」
「皆、間違いながら生きてるよ」
 間違いのない人生なんて、ありえない。
「それに、まだ間違いだったとは限らないよ。入れ替わっていたことで、逆にいいこともあるかもしれないしさ」
「優しいね」
 そんなことはない。だって、僕はこうとも考えていた。
 椎名の選択が間違いでないと認めてしまったら、それはすなわち、椎名が消えることも認めてしまうことになる。それは、僕が受け入れられる気がしなかった。きっと、この気持ちを押し殺しながら、彼女と付き合っていくのだろう。
 椎名にとって、どっちがいいのか、僕にはわからない。認めてあげられたら、彼女は楽になれるのだろうか。でも、今の状況を見ていると、そうとは限らないようにも思う。何より、僕がその気持ちまで持っていけない。
 何が、正しいのだろう。
「最近、上手く眠れないの」
「僕もだよ」
「でも、今日は寝れる気がする」
 椎名が、少しだけ僕に近付く。
「暖房いらないくらい温かいね」
「ほら、男って体温高いから」
「抱きしめてもいい?」
「いいよ」
 戸惑いながら、そう返事した。
 椎名が、僕の身体を抱きしめる。どちらかというと、抱きつくという感じだった。僕も、椎名の身体に手をまわした。
「朝起きたら、全部夢だったらいいのに」
 椎名が、そう小さく呟いた。どう返せばいいのかわからなくて、僕は黙り込んでしまった。
 僕だって、何度もそう思った。椎名が死んだのは、全部夢だったらいいのに。そう願いながら眠りにつくことは、何日もあった。
 そこから、僕達に会話はなかった。一度黙ってしまったから、もう何を話せばいいかわからなかった。
 椎名はすぐに寝てしまった。色々あって、疲れたのだろう。僕も疲れた。
 時計の音が大きく感じるくらい、静かな夜だった。
 そのうち、僕も眠ってしまって、気が付いたら朝だった。
 早朝で、椎名はまだ寝ていた。
 悪いとは思いつつ、僕は布団から抜け出して、帰る準備をした。
 机の上に、書き置きをした。
 帰ります
 鍵は玄関ポストに入れておきます
 また会おうとか、連絡してとか、そういうことは書かなかった。またすぐに会えるほど、僕達のメンタルは強くなかった。お互いのためにも、少し時間が必要だった。
 外に出ると、凍てつくような寒さを感じた。
 白い吐息が、空に消えていった。
 時計で、時間を確認する。もう時期、電車が動き出す。始発に乗って、家に着いたら、まず風呂に入ろう。昨日、着替えがなかったから入っていなかった。それでも、たぶん、学校に行くまで時間はあるだろうから、少し仮眠をしよう。
 それから。
 それから、どうしよう。
 普通に学校に行って、普通に一日を過ごして。
 僕は、普通に過ごせるのだろうか。
 普通って、何だ。
 徐々に、空に色味が増していく。朝焼けだ。
 それでも、虚しいくらいに、僕の心はまだモノクロだった。
 空の彼方、何処を探しても、シリウスもプロキオンもみつからなかった。もちろん、ベテルギウスも。朝の明るさに、紛れてしまったようだった。
 まるで、僕と椎名のようだと思った。