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 もう一年半以上も前のこと。
 五月のゴールデンウイークの半ば。
 私は、七緒日菜子と出会った。

 好きな作家の待望の新作が欲しくて、本屋にいた。特別有名な作家でもないのに、珍しいことに、その本だけはなかなかみつからなかった。二軒、三軒と巡って、ようやく目当ての本をみつけることが出来た。
 それで、浮かれてしまっていた。手元の本に、目が行き過ぎてしまっていた。
 視界の端から、人が現れる。気付いたときには、もう遅かった。
 私の身体が後ろに倒れる。直後、腰のあたりに鈍い痛みが走る。
「すみません。前を見ていなくて」
「私の方こそ、避けられなくて」
 顔を上げて、驚いた。
 目の前に自分と同じ顔がある。混乱した私は、まさかぶつかった衝撃で中身が入れ替わったのではないかと思い、自分の服を見た。もちろん、そんな非現実的なことは起こっていなかった。
 つまり、彼女は自分とよく似た誰か。
 彼女の方も、私の容姿を見て、目を見開いている。
「ごめんなさい。少し驚いてしまって」
 彼女が私に謝る。一体、何を謝ることがあるのだろうと思いながら、返事をする。
「大丈夫です。私も驚いていますから」
 私がそう言うと、彼女は安心したかのような顔になった。
 ふと、彼女の持っている本に目がいった。
「その本」
 それは、私の持っている本と同じだった。そのことに、彼女も気付いたらしく「ああ」と声を漏らした。
「好きなの。この作家」
 それを聞いて、私はとても嬉しくなった。
 運命だと思った。
 私とよく似た女の子が、私の好きな作家を好きだなんて。その作家の本を持って、ぶつかって出会うなんて、まるで、小説のようだと思った。
 気付いたときには、口から言葉が出ていた。
「あの、私、椎名恵といいます。もし、良かったら、少しお茶でもしませんか?」
 急な申し出に、彼女は更に驚いたようだった。けど、すぐにその表情は消えた。
「七緒日菜子。何処のカフェにする?」

 ゴールデンウイークということもあって、カフェは何処も人で溢れていた。二人席に座っていた人達が帰るときに、偶然その横を通ったのは、本当に運が良かった。
 荷物を席に置いて、それぞれ好きなものを買って席に戻った。
 私はアイスカフェラテとスコーン。彼女はアイスティーとガトーショコラを選んだ。
「七緒さんは、何年生ですか?」
「高二。そっちは?」
 私より一つ上の学年だった。敬語で話していて良かったと思った。まあ、普通に考えて、初対面でいきなりタメ口というのもどうかと思う。
「高一です」
「そう。でも、敬語とか使わないで。そういうの、私、あまり好きじゃないの。名前も、呼びやすいように呼んでくれたらいいから」
「じゃあ、日菜子」
 私がそう呼ぶと、日菜子は嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔はとても可愛らしかった。ほとんど同じ顔のはずなのに、中身が違うとこんなにも違うのかと思った。もう少し可愛らしく振る舞うことが出来れば、私もこんなふうに笑えるだろうかと考えたけど、たぶん、無理だなと思った。
 ちらりと日菜子の服を見る。彼女は、休日にもかかわらず制服を着ていた。
「日菜子の高校、私も行こうか悩んだんだけど、結局違うところにしちゃった」
「来なくて正解だよ。自分の時間、ほとんど作れないから」
 やっぱりと思った。それを懸念して、私は違う高校を選んだ。日菜子の言うことが本当なら、私の選択はきっと正しかった。
「学校帰り?」
「うん。部活」
「何部?」
「美術部」
 言われてみると、日菜子の制服の袖には、カラフルな染みがあった。絵具か何かだろう。
「私、イラストレーターになるのが夢なの」
 袖の汚れを愛おしそうに触りながら、日菜子はそう言った。
 少し、羨ましいと思った。そんな表情が出来るくらいに、大切な何かがあるということが。
 だって、私にはそういうものがなかったから。
「見てみたいな。日菜子の絵」
「うん。今、コンクール用の絵を描いてるの。それが出来たら、見て欲しい」
「楽しみにしてる」
 本心からの言葉だった。
「椎名は? 将来の夢とか、そういうのはないの?」
 ついさっき思ったことを尋ねられて、私は心臓を掴まれたような気分になった。
 一瞬、出口くんの顔が浮かんだ。けど、やっぱり、私のそれは日菜子のそれと全然違う。だから、言えなかった。後は単純に、彼以外の人間に、私が死に触れようとする趣味があるということを告げるのは、少し抵抗があった。
「私は、ないよ」
 声が吃る。
「まあ、高一だしね」
 私の気持ちを察したのか、日菜子は、それ以上追及してこなかった。彼女は、もしかしたら、私の心が読めるのかもしれないとバカみたいなことを考えた。きっと、小説の読み過ぎだ。
 芸術家思考の人間は、洞察力に優れているらしい。以前、テレビでやっていた。適性診断の特集だったように思う。それを見たとき、そんなの当たり前だと思った。だって、何かを見る力がないと、作品なんて作れない。今日、日菜子と会って、あの診断はやっぱり正しかったのだなと思った。ちなみに、私は献身家思考という結果になった。
「そのうち、みつかるといいね」
「うん」
 みつかる気がしなくて、曖昧に返事をした。
「帰ろうか」
 日菜子が立ち上がるので、私も立ち上がった。
 店を出たとき、連絡先を交換した。
 別れて、何となく悲しい気持ちになった。

 次に日菜子と会ったのは、その年の夏休みだった。
 絵が完成したと連絡があった。正直、もう二度と会えないのではないかと思い始めていた頃だった。自分から連絡しても良かったのだけど、絵を描く邪魔をしたくはないと思って出来なかった。だから、連絡があって少しほっとした。
 私は日菜子に呼ばれ、彼女の通う高校の美術室へ向かった。
 校舎内には、案外すんなりと入ることが出来た。夏休みだし、部活関連で他校の生徒が出入りすることが多いからだろう。何処の高校の何部で、何のために来たのかという確認なんて、いちいち取っていられない。切りがない。だから、明らかに怪しい人物でない限り、スルーするようにしているのだろう。
 美術室は、五階の一番隅にあるらしい。私は呼び出された身なので、堂々とエレベーターを使う。真夏に五階まで階段を上るなんて地獄、避けられるなら誰だって避けたい。そんな言い訳を、誰かに言う訳でもないのに、頭の中で唱えた。
 美術室という文字を確認し扉をノックすると、中から「どうぞ」と声が聞こえた。日菜子の声だった。
 中は、結構涼しかった。涼し過ぎるくらいかもしれない。美術作品は、保存温度とかが決まっていると聞いたことがあった。学校の美術室で作品の管理なんて、相当大変なんだろうなと思った。
「久しぶり」
 美術室には、日菜子の姿しかなかった。
「他の人は?」
「今日は、休み」
 それを聞いて、少し安心した。ただの他校の友達というならまだしも、私達の顔は瓜二つ。変な混乱を招きかねない。
「こっち。座って」
 日菜子に促され、私は何も置かれていないイーゼルの前に座った。
「目瞑ってて」
 言われるがまま、目を瞑る。ガタガタという音が聞こえ、数秒後、日菜子の「いいよ」と言う声が飛んできた。
 目を開けて、息を呑んだ。
 想像以上だった。
 コバルトブルーの、果てしなく続く海の中に、美しい珊瑚礁。その中で、一際輝く、一つの赤い珊瑚。そこに、この海の生命が宿っているように感じた。温かくて、けど、何処か儚げで、胸が締め付けられるような気持ちになった。
 生まれて初めての感覚だった。
 こういうのを、天才と呼ぶのだと思った。
「本当は違う絵を描いていたんだけど」
 日菜子の視線が横へ動く。それを追うように横を見ると、描きかけの絵があった。
 森の絵のようだった。キャンパスの、白い部分の方が多くて、本当は何を描こうとしていたのかわからなかった。でも、たぶん、この海の絵ほどの凄さにはならなかったのではないかと思った。
「どうかな」
「凄い。本当に、凄いと思う」
 上手く言葉にすることが出来なくて、簡単な、ありふれた言葉しか言うことが出来なかった。それくらいに、凄かった。
「この絵が描けたのは、椎名と出会ったから。私、椎名の前だと感情を上手く出せるみたい。たった一度、少し話しただけだったけど、そう思ったの」
 日菜子は続ける。
「私、感情を出すのが苦手で、つい、言葉の方が先走ってきついこと言っちゃって。クラスでは、雪女と思われているみたい。別にいいんだけど、そういうのって、何だか欠落しているみたいでしょ。だから、言葉や表情の代わりに、絵で感情を表現していたの」
 意外だった。だって、以前、私と話した日菜子は、表情が豊かだった。まさか、本当は逆だったなんて。本当に驚いた。
「この絵はね、椎名なの。椎名のことを考えながら描いたら、上手くいった。ありがとう。私と出会ってくれて。もし、椎名が良かったら、これからも私と会ってくれる?」
 嬉しかった。私を必要としてくれているということが。誰かに必要とされることが、私の喜びだった。きっと、中学時代、出口くんといて楽しかったのも、彼が私を大切に思ってくれていたからだ。
「もちろん。私で良ければ。でも、一つお願いを聞いて」
「何?」
「私に、絵を教えて」
 私も、日菜子のように誰かの心を動かすような絵が描きたいと思った。私は、彼女の才能に憧れを抱いた。彼女のようになりたいと思った。
 こんな気持ちは初めてだった。日菜子といると、新しい感情が次々と湧いてくる。そういう意味では、私も彼女を必要としていた。
「私に教えられるかわからないけど、そんなことでいいなら」
 日菜子が優しく笑うので、私も笑った。
 窓の外から、夏蝉の音がした。

 秋になって、日菜子の描いた絵は、そのコンクールで一番上の賞を受賞した。
 当然だと思った。

 年が明けて、春が来て、学年が上がった頃、ぽつりと日菜子が言った。
「自分とは別の、他の人の人生って、どんな感じなのかな?」
 日菜子の部屋で、絵を描いているときだった。
 その頃私達は、去年、日菜子が賞をもらったコンクールに向けて絵を描き始めようとしていた。
「絵のテーマにするの?」
「うん」
 また難しそうなテーマだなと、自分の下絵を眺めながら思った。
 元々、いい意味でも悪い意味でも、たいていのことは人並み以上に出来る人間だった。最初、どれだけ下手くそだったとしても、ほんの少し練習すれば、簡単に出来るようになる。そういう、人の努力を簡単に踏みにじってしまうような才能が、私にはあった。
 だから、絵もそれなりに描けた。日菜子に教わってからは、もっと描けるようになって、小さな公募とかでは賞をもらうこともあった。
 でも、どれだけ上達しても、日菜子の絵には届かなかった。
 だからといって、劣等感を感じたりはしていなかった。だって、彼女は天才で、私には中途半端な才能しかない。それに、彼女は私の憧れ。憧れはいつだって上にいるもので、決して届きはしない。そういう、圧倒的な差がある人に、人は憧憬を抱くのだと思っている。
「他の誰かになってみたいな」
 その気持ちは何となくわかる。
 もしあの子だったら。
 もし私が男だったら。
 そんなふうに考えることで、私達は現実から目を背けているのだろうなと思った。
 ふと、出会ったときのことを思い出した。
 あまりにも衝撃的過ぎて、中身が入れ替わったのではと思ってしまったことを。
 そして、思い付く。
 中身なんて、入れ替わる必要はない。
「じゃあさ、入れ替わってみない? 私と日菜子」
 私達なら、それが可能だと思った。違いなんて、年齢と学校と前髪くらい。制服を交換して、前髪を弄れば、きっとバレない。
「でも」
「私も他の人の人生って気になるし、こんなにも似ているんだよ。入れ替わったところで気付かれないよ」
 日菜子は少し考える素振りをして、そしてふわりと笑った。
「そうだよね。少しくらい、いいかもね」
 それから、私達は簡単にルールを決めた。
 お互いの人間関係は変えないこと。
 入れ替わっていることは、絶対に秘密にすること。
 それから。
「出口駆くんという男の子には、絶対に会わないで」
「どうして?」
「出口くんは、誤魔化せない」
 出口くんなら、私が誰かと入れ替わっているということに、すぐ気付くと思った。他の人の目は誤魔化せても、彼だけは、絶対に誤魔化せないという自信があった。騙せる気がしなかった。だって、私は彼と多くの時間を共有し、彼は私のことをよく知っている。それに、彼は私しか友達がいないと言う。絶対にバレる。
「わかった。気を付ける」
 そして、私達は入れ替わる。
 最初は、一日だけのつもりだったけど、思った以上に気付かれなくて、お互いに楽しくなってしまった。それで、何度か入れ替わった。
 一つ上の学年の授業は新鮮だった。日菜子は完全文系のクラスで、理数系の科目は一つもなかった。それに、三年生の授業は応用とかが多かった。私は、教科書を買ったら、一通り目を通して解いてみるタイプの人間だったから、授業についていくのは難しいことではなかった。飛び級したみたいで、余計に楽しかった。
 日菜子は、また二年生の授業を受けることになるから退屈かもしれないと思った。でも、こっちの先生の方が、時間をかけて詳しくやってくれるから好きだと言っていた。それを聞いて、私は安心した。
 夏になって、日菜子の絵が完成しても、私達の入れ替わりは続いた。完全にゲーム感覚だった。むしろ、いつになったら周りは気付くのだろうと思っていたぐらいに、私達は入れ替わりを楽しんでいた。

 いつか、出口くんに日菜子を会わせたいと思った。
「この子、生き別れた私のお姉ちゃんなの」
 そんなふうに紹介して、出口くんの反応を見たいと思った。だって、入れ替わってもバレないのだから、そんな小さな嘘なら、もしかしたら信じてくれそうだなと思った。それで、信じてくれたら、こう言うの。
「嘘だよ。本当は、そっくりなだけ」
 きっと、出口くんはもっと驚いてくれると思った。
 もし、最初の嘘を信じてくれなくても、普通に驚いてくれはするだろう。とにかく、私は彼の驚いた顔が見たかった。
 私の予想では、出口くんと日菜子は、すぐに仲良くなる。二人の性格とか、考え方は、結構似ているところがある。話が合いそうだなと思った。それに、出口くんは大人っぽい。男の子は、女の子より精神年齢が低いと言うけれど、彼はそんなことはない。クラスの男子みたいにバカ騒ぎしないし、何より考え方が大人びている。だから、日菜子と相性が良さそうだと思った。
 きっと、楽しいだろうなと思った。私の、大切な友達である二人と一緒に過ごすことが出来たら。絵のテーマの話とか、出口くんに相談したらすぐに解決出来そうだなと思った。それで、私と日菜子、二人でコンクールで賞を取る。
 そんな未来を夢に見た。
 いつか、その夢は現実になると、私は信じていた。

 けど、日菜子が死んだことで、何もかもが崩れた。

 日菜子が死んだ日は、私達が入れ替わりから戻る予定の日だった。
 待ち合わせの時間に、日菜子は現れなかった。どれだけ待っても彼女は来ない。何度か電話をかけたけど、応答もない。
 日菜子は、一度集中すると周りが見えなくなるところがあった。だから、きっと、絵に集中し過ぎて、今日のことを忘れているのだろうと思った。そういうことが、これまでにも何回かあった。今回もそうなのだろうと思った。明日になれば連絡が来る。そう考えて、私はこれまで通り、彼女の家に帰った。
 でも、何日経っても日菜子から連絡は来なかった。
 さすがにおかしいと思って、私は自分の家に行ってみることにした。
 その途中で、私はみつけてしまう。
 自分の葬式会場を。
 理解が出来ず、道の真ん中で立ち尽くした。何かの間違いだ。同姓同名の、別の誰かの葬式に違いない。そう思って、誰にも気付かれないように、遠くから会場を覗いた。
 会場に、出口くんの姿が見え、私はその場から逃げ出した。
 だって、彼がいるということは、そういうことなのだから。
 あの葬式は、紛れもなく、私の葬式だ。
 家に帰って、私は泣いた。
 一晩中、泣いた。
 涙が枯れても、泣いた。
 日菜子が死んだことは、もちろん、悲しい。でも、これは友人が死んだからではなくて、正真正銘、自分のための涙だった。
 私は、自分自身のために泣いた。

 こうして私は、残りの人生を七緒日菜子として生きることになった。

 最初は、特に問題はなかった。
 けど、生活をしていくにつれて、問題が浮き彫りになった。
 私と日菜子の最大の違い。
 それは、絵の才能だった。
 私は自分の中途半端な才能に絶望した。これまでも、何度かこの才能で人を傷付けて、それで絶望してきたけど、それとは比べ物にならないくらいの絶望だった。日菜子として生きないといけないのに、彼女のように絵を描くことが出来なかった。周りの期待に、応えることが、私には出来ないと悟ってしまった。
 急に絵が描けなくなった七緒日菜子に対して、周りの人は、皆困惑している様子だった。
「スランプなの。壁にぶつかったみたい」
 そんな言葉で誤魔化せる期間が、そう長くはないということもわかっていた。けど、焦れば焦るほど、上手く描けない。
 いつの間にか、絵すら描けなくなってしまった。
 悲しかった。何が悲しいのかもわからないくらいに悲しかった。
 ふと、出口くんに会いたくなった。でも、彼にとって、椎名恵は死んだ友達で、七緒日菜子は見ず知らずの他人。ただの、死んだ友達に似ているだけの人。
 私は、もう二度と出口くんには会えない。言葉を交わすことが出来ない。もしかしたら、これが一番の悲しみだったかもしれない。
 彼に会うことは出来ない。なら、せめて、彼と一緒に行ったところへ行こう。そしたら、彼のことを感じることが出来るかもしれない。
 そう思って、私は出口くんと行った場所を巡った。
 そして、クリスマスイブ。
 日菜子が死んで、ちょうど三ヶ月の日。
 私は、昔、出口くんと肝試しをしに行った廃ビルの屋上へ行った。
 屋上に行くと、何となく、中学生のときによくベランダの淵に座っていたことを思い出した。横には出口くんがいて、でも、彼は淵には座らず、ただ立っているだけだった。
 淵に立つ。
 出口くんが傍にいるような気がして、泣きそうになった。
 背後から、扉の開く音がした。
 私を呼ぶ声がした。
 振り向いて、驚いた。
 出口くんが、いた。
 嘘だと思った。
 幻だと思った。
 何でと思った。
 だって、彼がこんなところにいる理由なんて、自殺以外考えられなかった。
 その廃ビルは、いわゆる、自殺スポットだった。それで、心霊スポットとしても有名になって、死に触れたい私は、出口くんを誘って肝試しと称してここへ来た。結局、幽霊も死体もみつからなくて、不謹慎だけど、ほんの少し残念に思ったことを憶えている。
 自分の中に嫌な考えが浮かんだのがわかった。
 今、出口くんの目には、私は椎名恵とよく似た誰かが自殺を図ろうとしているように映っているのだろう。
 私が、本当にここから飛び降りようとしたら、出口くんはどうするだろう。
 たぶん、止めてくれる。
 だって、私は彼女に似ているから。
 止めてくれたら、私は、また出口くんと関わることが出来る。椎名恵としてではないけど、それでも良かった。
 止めてくれなくて、落ちて死ぬ可能性も充分にあった。でも、それもいいなと思った。私が先に落ちて死んだとしても、出口くんならそのまま自殺すると思ったから。同じ場所で、先に誰かが死んだところで、彼の決心は変わらないと思った。昔から、少し頑固なところがあったから、きっと、そうなる。本当にそうなったら、心中のようだと思った。彼には内緒の、私の中だけの心中。
 思った通り、出口くんは私の自殺を止めてくれた。
 話して、出口くんが死にたい理由も、すぐにわかった。
 でも、知らないふりをして言った。
「私は死にたいのに生かされようとしていて、貴方はそれが叶ったら死ぬ。そんなのおかしいじゃない。だったら、私が貴方を生かす。貴方だけ死ぬなんて、そんなのさせない」
 同時に、決心する。
 私は、椎名恵を消す。
 椎名恵が、出口くんの死ぬ理由なのだとしたら、私は椎名恵でいてはいけない。本当に、七緒日菜子になる必要がある。そして、今度は七緒日菜子を、彼の生きる理由にする。彼女以上に彼女を想ってもらえるようにする。
 出口くんを、これ以上死に触れさせてはいけない。
「椎名さんじゃなくて、私を見て」
 心が、割れるように痛かったけど、きっと気のせいだ。