彼がなおもその場を動こうとしないので、彼女は思い切ったように、今度は自分から口火を切りました。
「覚えていらっしゃいますか。中学三年生の頃、私が東京に引っ越す時に、あなたは駅に見送りに来てくれて、私に毎月手紙を書き、きっといつか会いに行くと言ってくれましたわね」
「ええ」
「でも手紙はいつしかとぎれとぎれになってしまいました」
「そうでした。次にあなたと再会したのは成人式でしたね。お互いにもう相手との縁談が進んでいました」
「実はまだあの時、あなたへの未練がありましたの、残り火みたいに」
「そうだったんですか」老人の細い目の瞳孔が急に見開き、彼女の方に自然と体が向きました。
「でも、あなたは奥様を愛してらしたようでしたから」

二人の間に沈黙が流れました。それから老女はふっと微笑むと
「おかげで亡き夫や子どもと幸せな生活を送れました。だから今の私に後悔はありませんわ」
「そうですか」老人は目をつむり、何かを飲み込んだかのように喉の辺りを動かしました。
「久しぶりにお話しできたのですから、小さい頃の思い出話でもしていきませんか。老人の一人暮らしは本当に退屈ですから」 彼は続けました。
「確かに退屈ですね」彼女もうなづきました。それから二人は、この公園で遊んでいた頃の遠い記憶を思い起こして、しばらく談笑しました。

「ではこの辺で」老女は丁寧に会釈をしました。
「またの折に」老人は再び帽子を取り、別れのあいさつをしました。 それから彼は川下へ、彼女は川上へそれぞれの家に戻っていきました。


老女が帰宅すると、久しぶりに娘と孫が顔を見せに来ていました。
「みっちゃん、探していた傘、玄関においてあるからね」それを聞くや否や、みっちゃんは、玄関に駆け込むとはちきれんばかりの笑顔を見せながら
「あたしの傘、帰ってきたよ!」と喜びました。