「まったく、年甲斐もないってこういうことね」女性は、これまでのことを思い起こしながら、一人苦笑しました。

今日もまた、いつものようにベランダの方から笑い声が起こりました。しかし今度は娘さんとはしゃいでいるのが、大人の女性だと分かると、レモンサワーの缶を危うく落としそうになりました。

一体誰なのかしら。まさか奥さんが戻ってきたのだろうか。
ふと脳裏に、とんでもない考えがひらめきました。そうだ、今手元にある、あの赤い傘を彼の娘さんに贈れば、その時家の中も覗けるかもしれない、と。

いけない、あの傘は誰の物かも分からないのに、という自制心は、隣人に対する興味の前に、またたくまに消えていました。

目立った汚れや傷もなく新品同然であることを確かめると、彼女はその傘を持って隣の戸口に向かい、勇気を奮ってインターフォンを押しました。
玄関の戸が開くまでに、無限の時間がたった気がしました。

ようやく玄関から顔を出した彼に、彼女は、下を向いたまま、親戚からのもらい物だけれど、私は子どもがいないので娘さんに使っていただけませんか、と傘を差しだそうとしました。ふと顔を上げると、彼の肩越しに、部屋の向こうからこちらを覗く、見知らぬ若い女性の姿があります。
「別れた妻が急に戻ってきてね」男性が小声で早口に言うと、女性に戦慄が走りました。

やっぱり。内心そうつぶやくと、彼女は精一杯の笑顔を見せて祝福し、ごめんなさい、お邪魔をしてしまって、と早々に別れを告げて扉を閉めました。気づけば傘はまだ手元にありました。

好きになったわけではない、あの人はそんなそぶり一つ見せはしなかった。
そう自分に言い聞かせても、女性の頬には何故か一筋の涙が伝いました。
隣の家族も、傘のことも、もう忘れたいと思いました。

次の日、女性は赤い傘を、駅の窓口に届けました。