このマンションに越してきたばかりの彼女が、隣の家にあいさつに行くと、戸口からTシャツ姿の細身の男性が顔を出しました。

彼はどこか幼い顔立ちで、女性よりも少なくとも十歳ほどは年下に見えました。 年齢のわりにはぶしつけなところは少しもありませんが、目だけは、どこか常に一点を凝視しているふうで、こちらと視線が合うこともありませんでした。
「子どもがまだ小さいので、お騒がせしてご迷惑をかけてしまうかもしれませんが」
「構いませんよ」と女性は優しく応じました。
すると彼は、余りものですがと断って、タッパーに入れたビーフシチューを、女性に差し出しました。寒さで冷えた手で触ると、まだ出来立てのように暖かいままでした。

それから女性はその男性と、朝方に、しばしばマンションの廊下やエレベーターですれ違い、時には挨拶を交わすこともありました。

二度目に会話を交わしたのは、彼と並んでエレベーターを待っていた時でした。お互い目もろくに合わせられず、よそよそしさもまだ拭えませんでしたが、彼の職業が漫画家であること、夜勤でアルバイトをしながら生計を立てていること、そして五歳になる娘がいることを、その時に知りました。

それを機に彼と話をする機会は次第に増え、暖かさが増してくる頃には、公園で、遊んでいる娘さんの様子を二人で眺めながら、ベンチに座って話し込むこともありました。

ある日男性の仕事に話が及ぶと、彼はいつになく饒舌になりました。子ども向けでありながら、古今東西の神話も織り込んだ、幻想的なファンタジーを描きたいという彼の話に、彼女もいつの間にか身を乗り出して聞き入っていました。

彼が妻と数年前に分かれたことを会話のはずみで聞いたのも、その時でした。「やっぱり、今時いつまでも夢を追っていてもね…」作品を語る時とは打って変わり、寂しい微笑みを男性は浮かべました。
彼女は、そんなことはない、私には何の取り柄もないけれど、あなたには若さも、才能もある、努力を続ければ奥さんもいつかあなたのことを見直してくれる時が来るかもしれない、といったことを夢中で伝えました。

すると彼は珍しく彼女の眼を見て、ありがとうと感謝しながら、あなたにも僕にはない、人に共感し、包み込むような魅力がある、と答えました
「僕みたいな偏屈な人間と、会話が続くのは編集者とあなたくらいですから」彼女の顔に、久しぶりに笑顔が戻ると共に、年下の男性からの思いがけない賞賛に、頬が紅をさしたように赤くなりました――