「引っ越し先でも、会えるかな」少年は何気ないように、でも本心はあらん限りの勇気を振り絞って、つぶやきました。
「難しいかも」相手を傷つけないよう、ためらいがちに、彼女はその言葉を口にしました。
「前のように学校の後は、ピアノのお稽古もあるし、転校した今では、塾にも通っているの。お父さんもお母さんも、最近は用事もなく人と会おうとすると、色々口うるさくなって」
そっか、といって彼は下を向き、灰色の地面を見つめていました。それだけ?彼女は肩透かしを食らった気がしましたが、黙っていました。

やがて少女はさよならをいうと、改札口に戻ろうとしました。
その時、彼は彼女の背中越しに、不意にこう呼びかけました。
「その赤い傘、また借りに行っていい?」
彼女は振り返ると不思議そうに「どうして?傘が必要になったらクラスの友達から借りれば良いじゃない?」
彼は少しまごつくと、彼女の眼を見てきっぱり、「君」のものだから借りたいんだ、と答えました。

彼女の胸の辺りにぽっと灯がともりました。
通う学校が二つ先の駅前に変わっただけなのに、どうしてかしら、川中君まるで別人みたい。君のものだから借りたいって、それはつまり…すると彼女は急に恥ずかしくなって何も言葉が出てこなくなり、そのままホームへ駆け出してしまいました。

そのまま電車に乗った少女は、長椅子の端に腰かけて、脇の手すりに赤い傘を掛けました。
一息つき、まず彼女の頭に思い浮かんだのは、
傘を借りに?もう少し、家を訪ねるのにましな言い訳なかったのかしら。男の子って、見た目はかっこつけていても、突拍子もないことをいうものね。

窓の外は次第に明るさを失い、闇に沈んでいきます。いつもより身体が重く、このまま床に沈んでしまいそうに彼女は感じました。
私の方も、返事もできずに、あの場を去ってしまった。川中君、きっと傷ついただろうな。私は携帯を持っていないないし、このまま彼と分かれてしまう…それもいや。
そのようなことをとりとめもなく考えているうちに、いつのまにか彼女は華奢な体をわずかに揺らし、うつらうつらしていました。

ごとん。突然電車の扉が閉まる音に、はっと気が付くと、脇にかけていたはずの傘がありません。

なくしてしまった、もう川中君にあの傘を貸せない。
胸の奥が、鋭い針で刺されたように痛みました。彼女はしばらく喪失感から立ち直ることができませんでした。