あたしが飛んだ地点は今さっきまで空襲に遭っていたようだった。
あちこちから空に煙が昇っているのが見える。
少し歩くごとにゲニムから歩いてきたであろう人たちが斃れていた。
考えたくなかったけど、昇さんじゃないことを確かめるためにひとりひとり、顔を見て回った。
調べて、どんなところかわかっていたはずなのに、実際の現場は言葉なんかで言い尽くせるようなものじゃなかった。
最悪すぎて、気が遠くなりそう。
爆撃以前に果てたような人も少なくなくて、ウジの巣になりながら雨に打たれた頭の部分が白骨化している人もいた。
まだ、息がある人も。
目を合わすのもままならないほど衰弱して、かろうじて呼吸だけしてる、そんな人たち。
うわごとのようにお経を呟いている人や、あたしを見てサルミまで連れて行ってくれと縋ってくる人もいた。
だけどみんなもう大した腕力はなくて、あたしが軽く振り払うだけで折れ曲がるように崩れ落ちていった。
「ごめんなさい…っ!」
死んでしまった人より、生きてる人の方がものすごい異臭を放ってる。
優しくしてあげたかったけど、何日も洗っていない体臭と排泄物の臭いが混ざって、強烈すぎて無理だった。
ゲニムの前に逝ったみんなはこんなじゃなかったから、もしかしたらまだ幸せだったのかもしれないとさえ思った。
あたしは昇さんに生きていて欲しいと思いながら、嫌なことも考えてしまっていた。
もし生きていても、さっきみたいな異臭がするような状態だったら?
寒気がした。
昇さんにじゃない。
無理かもしれない、なんて考えが頭をよぎった自分にだ。
鼻から、嫌な臭いが消えない。
頭から、嫌な考えが消えない。
べっとりと、湿った枯れ葉みたいにまとわりついて消えない。
ああもう!
ここまで来て、なに考えてるんだろう。気分を替えなきゃ。リュックをおろして、中からとっておきの一品を取り出した。
「冷たい……」
移動時間的にまだいくらも経ってないから。
炭酸が喉ではじける。この時代も、ラムネとかあるよね?いかにも昭和っぽい感じするし。
冷蔵庫に2本入ってたからガラスだけど持ってきた。これを、昇さんに飲ませてあげたいんだ。未来のお菓子もたくさん持ってきた。
ラムネが冷えてるうちに、昇さんに会いたい……。
文字通り、いくつもの屍を超えて、あたしは歩き続けた。
途中、銃弾を受けて頭から血を流している人がいた。
近くに銃を持ったアメリカ軍がいるのかもしれないと思って、すごく怖かった。
もちろん今だって怖い。それでも進むんだ。明るいうちに、出来るだけ前へ行かなきゃ。
サルミの方角に、陽が傾いてる。
そっか。赤道より南にある島は、北を通って西に沈むんだ……。
赤くなる空にタイムリミットを感じて、ふと、思ってしまった。
俯いて、足が止まる。
昇さんの命日、つまり死んでしまった日は明日。でもそれって、明日の何時?誰かと一緒にいて、死んだの?それとも死んでしまってから、誰かが見つけた?だとしたら、もう死んでしまってる可能性だってある。
ぶんぶんと首を振る。
嫌だよ!
そんなの嫌だ!
ここまできたのに。振り払っても振り払っても、ネガティブな思考が頭から離れてくれない。
ニューギニアのことなんか調べなきゃよかった。知らなければよかった。
追い打ちをかけるように、絶望的な言葉ばかりが並ぶ画面を思い出してしまう。
ここへ来てから、死体ともう死にそうな人にしか会ってない。生きてる人はきっと、もうとっくに河を越えてどんどん先に進んでるんだ。
戦死報告書の日付が明日なら、昇さんが生きてたってさっきの人たちみたいに異臭を放って行き倒れてる頃だ。
奇跡なんか信じて、バカみたい……
あたし、何しに来たんだろう……
そもそも、なんで会えるなんて思ってたんだろう。
こんなに広くて、ただ歩くだけでも迷子になりそうなジャングルの中で人探しなんて、最初っから無理だったんだよ。
涙が、あとからあとから湧いてくる。
瞬きをするたびにぽろぽろと、地面にこぼれ落ちていく。
なんの涙?
後悔?
淋しさ?
違う。
違わないけど、情けなさかも。
それから会うのが怖い。
さっき一瞬思ってしまった自分の考えが、本音なんじゃないかって。
昇さんを見つけられない不甲斐なさ、情けなさ、それに、死を前にして垂れ流す昇さんを見たら、それまでの気持ちが嘘みたいに消えてしまうんじゃないかって。
だって。
あたしはあの人たちを見て。
気持ち悪いって、思ってしまったんだ。
まだ会えてもいない昇さんに対して、会ったらこんなふうに思ってしまうんじゃないかなんて考えてる自分が情けなくて、そんな理由で探すのを躊躇ってる自分が恥ずかしい。
こんな気持ちじゃ、会えるとしたって会えないよ……
結局、自分の気持ちのせいで目的を見失ったあたしは、あの後、どこへ行くでもなくただ、歩いて。
暗くなっても歩けるように灯りも持ってきたのに、それも使わず、食事もとらずに、日没とほぼ同時に寝袋を広げて眠りについた。
悪いことばかりが頭に浮かんでなかなか寝付けなかったけど、いつの間にか朝。
……あたし、いつから眠ってたんだろう。
起きても、特にすることはない。
だけどなぜか歩いていた。
たった2週間足らずの生活だったけど、ここであたしは毎日、日の出とともに活動を始めて、歩き続けてた。
それが、間をあけた今でも、体で覚えているみたい。
昇さんは今日、死ぬ。
ううん、きっともう……
よそう。
とにかくあたしはもう、また何かの偶然で戻れることがない限り、ここで死ぬんだ。
昇さんと同じ土の上で死ねるなら、それでいいじゃない。
なんとなく、そんなことをぼーっと考えながら、歩いていた。
昨日と違って寄り道をしていないから、どんどん進む。
進んだって意味はないけど。
進む理由がなくても、生きる意味がなくても、お腹は減る。
太陽が真上にきて、あたしはリュックからチョコクッキーを取り出し、噛り付いた。
昇さんと食べようと思って持ってきたけど、ちまちま食べる理由もない。
そう思って、サクサクとやけ食いみたいに何枚も食べた。
「弥生?」
え?
聞き覚えのある声。
そしてこの時代であたしをこの名前で呼ぶ人は、ひとりしかいない。
あたしが思うよりも先に、涙腺がその人が誰なのかを理解した。
瞬きもできずに見開いた目から、涙があふれ、頬を伝っていく。
涙を拭くのも忘れて、その声を反芻する。
弥生、弥生、弥生……
緊張で体がうまく動かなくて、あたしはスローモーションみたいにゆっくりと、少しずつ振り向いた。
視界の端に、軍服姿の男の人。
真っ直ぐに、立ってる。
血を流してもいなくて、汚れてるけど、少なくともここまでは臭ってこない。
髪と髭が、少し伸びてるけど見覚えのある彫りの深い顔立ち――
「昇さん…っ!」
「お前、戻ったんじゃなかったのか?何しに…うわっ!」
生きてた!
生きてた生きてた生きてた!!
あたしは嬉しさのあまり犬みたいに飛び掛かって、昇さんを倒してしまった。
再会した昇さんはとても元気そうで、とても明日死んでしまうなんて思えないくらい。
あたしのみっともない心はこの際横に置いておいて、なんとしても昇さんに生き延びてもらおう、そう思った。
筒入りポテチにクッキー、キャンディやキャラメル、醤油せんべい。
そんなたくさんのお菓子と、開けたら食べられる非常食のパック、薬や便利グッズの数々を、あたしはリュックから全部だして広げて見せた。
「すごいな……食い伸ばせばサルミまで余裕じゃないか。ラムネまであるのか!」
「飲んでいいよ。生ぬるいかもだけど、昇さん喜ぶかなと思って」
「喜ぶにきまってるだろう!懐かしいなぁ」
昇さんは23歳の男の人とは思えないほど無邪気に目を輝かせて言った。
あたしの持ち物をひとつひとつ手に取っては興味深く眺めてる。
だけど、そんな嬉しそうな昇さんに、告げなくちゃならないことがあるんだ。
そのために、あたしは来たんだから。
「昇さん、これからあたしが言うこと、よく聞いて欲しいの」
「日本は、負ける。そういう話か?」
「え!?どうしてそれを…」
あたしが言わないでいたそのことを、昇さんはいつにも増して冷静に言い放った。
もちろんそれはあたしがこれから話すことの最重要事項で、どの順番で話せばいいか、まだ迷っていたのに。
「輜重兵はな、要は運搬係だ。いろんなものを運ぶ。それにここに来てからは雑用はみなこっちの仕事だった。倉庫番に農場管理、海で食糧調達と、何でもやった。だから兵の数と物資、明らかに勘定が合わないのは最初から気付いてた」
「……」
「ゲニムでの補給がほとんどされなかったんだ。迷わずサルミに着けるとしてもまるで足らん。本土にコメがないのは軍需優先だからのはずだが、優先しておきながら足らないでは、一体コメはどこにあるんだ?この分じゃおそらく、サルミにも我々を養うだけの用意はないだろうよ」
「昇さん…」
「兵糧が尽きたら、このニューギニヤ島という籠城作戦で勝鬨をあげることは不可能だろう。そして本土も島だよな。つまりはそういうことだ」
昇さんは、薄々気付いていたんだ。
それなのにあたしたちの前ではそんなこと全然みせないで…
「…負けるよ。日本は。嘘ついてごめんなさい」
「俺たちをがっかりさせたくなかったんだろ。謝ることじゃない。で、いつ終わる?」
「昭和20年の8月……本土に、大きな爆弾が落ちて、それで終わるの」
「酷い終わり方だな…それでも未来じゃ仲良くやってるのか。全く理解できんな」
昇さんが呆れたように首を振った。
そうだよね、普通はそう思うよね。
「生き残ってみたら、わかるのかも」
「そんなものかな」
「うん。それでね、もうひとつ大事なお話があるの」
あたしは、この数日間で調べたことを、ひとつずつ、昇さんに話した。
サルミに行けないということも。
全て話しても、昇さんのサルミヘ向かう決心は揺るがなかった。
『そうか』
とだけ言って、あとは話を逸らすみたいに持ってきた食べ物のことをアレコレ訊いてきたりした。
だけど日没が来て暗くなると、昇さんの気持ちにも陰りが見えた。
パチパチと火の音。
この音、懐かしい。
たった1週間かそこらなのになぁ、なんて物思いに耽っていたら。
炎を眺めながら缶詰を頬張り、うまい、うまいと言っていた昇さんがポツリと呟いた。
「サルミへ行けないということは俺も結局、無駄に死ぬのかな」
無駄……って。
「…っ、無駄なんかないって言ったの、昇さんでしょ?なんでそんなこと言うの…」
「だってそうだろう。同じ死ぬにしたって、サルミでもう一戦、とでもなって敵と刺し違えるなら名誉なことだが、向井も、山根も、阿久津も…他の奴らも皆ここで野垂れ死んだ。お国から立派な装備を賜って戦地にありながら、敵の目からこそこそと逃げ回るだけの軍人など」
昇さんが言うこともわかる。
ここに数日いれば、あたしみたいな平和ボケにも、少しは戦争中の考え方とあたしの暮らしてた時代とは全然違うってことがわかってくるんだ。
同じ死ぬなら敵もろとも、山根さんも言ってた。
だけど、名誉って何?
100歩譲ってお国のためはわかるよ、わかんないけど、気持ちはわかる。
家族のためとかもわかる。これは超わかる。
でも、でも。
名誉って何!
人殺しだよ、殺人なのに。
殺らなきゃこっちの命が、日本が、危険にさらされる、だから仕方なくでしょ。
それ以上でもそれ以下でもないはずなのに、名誉って。
そもそも、向井さんも山根さんも阿久津さんをそんなふうに言うなんて…
「野垂れ死にって何?名誉って何?結局昇さんが一番弱虫だよ!」
「お前…」
「死にたくない、生きたいって言った向井さんが一番普通だったよ、殺した人にも家族があるって夢にうなされ続けた山根さんもまともだった!疑問を持ちながらもやるしかないならってなんとかお国のためって大義名分に納得しようとしてた阿久津さんは立派な軍人だった!でも、昇さんは何?名誉に縋らなきゃ立ってられないの?」
「なっ…」
あたしは知らなかった。
こんな時代があったなんて。
こんな考え方があったなんて。
だけど、こんなの絶対間違ってる。
無駄な死に方とか、名誉な死に方って考え、絶対に違う!
「あたしのいた時代にはね、名誉の死なんてないんだよ。あるとすれば例えば子供をかばって死んじゃったとか、たぶんそういうのくらい。みんなね、死ぬときは突然だよ。毎日ニュースでやってた。コンビニに車が突っ込んで高校生が死んだとか、仕事場にいきなりガソリン撒かれて爆発死とかね。じゃあさ、それはみんな無駄な死?」
「それとこれとは話が違うだろう。戦争なんだ」
「違わないよ!戦争があったってなくったって、あたしたちはただ生きて、ただ死ぬだけだよ、生まれたらみんな死ぬんだから。じゃあさ、無駄なんだったらなんで生まれたの?なんで生きてるの?」
あたしは、昇さんにこの戦争に負けることを恥じてほしくなかったし、この島で起きたこと、亡くなった人たちが負けたら全て無駄になるなんて、思って欲しくなかった。
「…戦争じゃないけど、大きな地震があったの」
「地震…」
「その時のことはまだ小さかったからよくは憶えてないんだけどね、テレビで追悼番組やってて、自分の避難が間に合わなくなるまで避難を呼びかける放送をして津波に飲まれて亡くなった人の話を見たの」
「…立派な死だな。それこそ名誉じゃないのか」
「ほらまたそうやって。その時のテレビでもそんな感じだったんだけど、あたしはなんか嫌だなって思ってたの。その嫌だなの理由が、今ならわかるよ」
「どういうことだ」
「立派に、生きたんじゃないかな。その人」
「……」
「無駄かどうかは考え方とか、生き方で変わるんだよ。死に方じゃない……あたし、ここにきてずっと役立たずで、それこそ無駄な存在だった。なんでこんなとこ、なんでこんな目に、ってずっと思ってたし。でも、変わりたいって思ったの」
そう、変わりたいって思った。
思うこと自体が、あたしが変わった何よりの証拠。
誰かの役に立ちたいとか、そんなこと考えたこともなかったあたしが、死を待つ向井さんや山根さんの話を聞いてあげられただけでも、少しはここに来た意味があったのかなとか、その程度だけど。
だけどそんな小さな寄り掛かり合いだけでも、人が生きた意味にはなるってことを知った。
「ここに来たこと自体、初めはあたしにとって本当に意味不明だった。でも、ここに来なかったら、あたしは気付かなかったし、変わらなかったと思うの」
たった数日でも、たったひとことでも、関わっただけでそれはもう意味なんだ。
昇さんと出会ったことが、5人で歩いたあの数日が、あたしを変えた。
気付かせてくれたんだ。
ここでの全てが、あたしに、教えてくれた。
クリックひとつでなんでも揃うことのすごさを、蛇口をひねれば飲み水が出るすばらしさを、そして、食べ物のありがたみを。
ううん、食べ物だけじゃない。
あたしをとりまく全てのものが、ありがたいんだってこと。
「だから、あたしがここに来たことも、意味があることで無駄なことじゃないの。勝ったか負けたかとか、無駄か名誉かなんて分けてほしくない」
「…本当に、変わったな。虫が怖くて寝れなかったようなやつが俺に説教できるまでになるとは」
「あ…」
昇さんが、空を仰いでクスリと微笑んだ。
「そうだな、俺は弱虫だ」
「違うよ、やっぱり一番強いのが昇さんなんだ」
「おいおい、随分と極端だな」
うん。
極端だ。
だけどこんなこと言われて怒らない昇さんは、きっと、理不尽でもなんでも、全部を納得して受け入れてるんだ。
だからきっと、この戦争は負けるかも、無駄かもって思ってたのに、ここまで来れたんだ。
すごいよ。
ぐにゃ。
え?
話がひと段落ついたな、と少し凝った体勢をずらしたとき、手を置いたところにひんやりとした柔らかいものに触れた。
「だめだっ!!」
「きゃ」
それが何かを確認する間もなく、あたしは昇さんに突き飛ばされた。
驚きと体の痛みで何が起きたのか把握するまで、あたしは突き飛ばされて倒れた姿勢のまま動けなかった。
「いっ痛……っ」
やっとなんとか体をさすりながら起こしたあたしが見たのは、腕を押さえながらヘビを蹴って追いやる昇さんの姿だった。
「噛まれたの!?」
「ああ、やられた」
「どうしよう!あっ、薬!そうだ薬!なんの薬が効くんだろう!?」
「毒ヘビだったら、程度にもよるが血清が必要になる」
「そんな…っ」
「火を焚いていればヘビは来ないと思って油断した。お前にケガがなくて良かったよ」
「とにかく!とにかく傷口洗おう!ミネラルウォーターいっぱいあるから!」
「それは助かる」
どうしよう。
あたしのせいで、昇さんがヘビに噛まれた。
手元、ちゃんと見てなかったからだ……。
全然体調良さそうだったし夜は敵襲もほとんどないから、って、きっとあたしが来たことで歴史が変わって、昇さんは死なないんだと思ってた。
これで死んじゃうってことなの?
嘘だよね?
毒のないヘビのほうが、多いって言うし!
「具合、どう?」
「傷口は少し痛むが、とりあえずなんともなさそうだ。心配かけたな」
「よかったぁ」
心なしか顔色が悪そうな気がしないでもないけど、夜だからそう見えるのかな。
びっくりしたけど、ホッとした。
「ねえ昇さん。戦争が終わったら、何したい?」
「そうだな。やっぱり写真だな」
「あ!それで思い出した!見てこれ」
あたしは、リュックのポケットから写真を一枚取り出して、昇さんに見せた。
初めて会った日の、海辺の写真。
「どうしたんだこれ」
「戦後ね、……昇さんが現像したんじゃないかな」
「ああ、なるほど。よく撮れてるな」
考えなしに写真を出して、形見のカメラに入ってたことを言ったら昇さんが戦死したって言ってるようなものだ、と咄嗟にごまかした。
「それをね、昇さんの弟さんに見せてもらったの」
「実にか?家に行ったのか?」
「それがなんとね、うちの超近所!幼なじみの家なんだよ」
「しょう……」
昇さんの口から、予想もしない名前が出てきて、心臓が止まるかと思った。
「え?なんでわかったの?」
「やっぱりな。前に寝言で呼んでたぞ」
「えー何それやだ!あんなの夢に出てきたとか悪夢なんですけど」
「好きなんじゃないのか?」
「まさか!ただの幼なじみだよ!」
生まれ変わるっていう話は、しない方がいいかな。
「なんだ。俺はてっきり……ああ」
「どうしたの?」
慌てて誤解を解いたところで、昇さんが目をこすった。
「おかしいな、マズイかもしれん」
「え…」
昇さんの手からラムネ瓶がすり抜けて、ゴトリと鈍い音がした。
「どうやら俺はここまでみたいだな」
「え、ダメだよそんなの、治るよ!頑張ろうよ!」
ぐったりとして、あたしに寄り掛かるように倒れた昇さんが、力なく笑って言った。
その額には、玉のような汗がにじんでいた。
「暑いの?冷やす?おでこひんやりシートあるよ…っ」
「すまないな」
「謝んないでよ、あとは、えっと…っ」
あたしはパニックだった。
あたしのせいだ。
あたしのせいで昇さんが死んでしまう。
あたしが来なければ、昇さんは慎重に歩き続けて、サルミの受け入れ拒否にも絶望することなく、終戦の日まで生き抜けたかもしれないのに!
来るんじゃなかった。
来るべきじゃなかった。
そもそも、向井さんたちだって、あたしがいなければ死ななかったかもしれないんじゃないの?
そうだよ。
だってあたしと昇さんが会わなければ、昇さんはもっと早くヤコンデに着いて、湖に爆弾が落ちた頃にはもうその辺りにはいなくて、そうしたら向井さんがあの魚に当たることもなくて。
渡河で昇さんがあたしを背負ってなかったら、山根さんが流されることもなくて。
山根さんの熱は何が原因かわからないけど、マラリアにしてもなんにしても、流されて体調が良くなかったから病気に負けてしまったのかもしれない。
阿久津さんだって、あたしを気遣って休憩したりしなければ、ずんずん進んで渡り切ってたかもしれない。
あたしと関わらなければ…っ
「昇さん、あたしのせいで…っ……ごめんなさ…っ」
「お前を守るためならなんだってする、そう言ったろ」
「でもっ…でも……っ」
「これで俺は名誉の死だ。……いいや、お前を守る為に生まれて、お前を守る為に生きた。それでいいんだ」
「…っ」
「お前が戻るのを見届けられないのが心残りだが……きっと帰れるさ」
「嫌だよ、昇さん。あたし戻らない!ずっと昇さんといるって決めて来たの!」
今日が終わるまであと数時間しかない。
本当に昇さんが今日、死んでしまうとしたら、もう数時間で……
嫌だよ、そんなの、嫌だよ……っ
水も食糧も、薬だってあるのに、結局あたしは何も出来ない。
何も出来ないまま、黙って弱っていく昇さんを見ているだけなんて。
「嫌だよ、昇さん、死んじゃ嫌だ…っ」
「泣くな。ほら見てみろ」
あたしの肩にもたれたまま空を指さす昇さんの視線を追うと、空爆で穴があいた森の上に、満天の星空が広がっていた。
深い紺色に数えきれないくらいの星が輝く、ラピスラズリみたいな空。
「すごい…………」
「ここの空は、本土から見えない星座が見えるんだ。船乗りが南を目指す時に見る星もある。ほら」
「どこ?」
昇さんの腕が弱々しく伸びて、アングルを決めるみたいにフレームを形作った。
その中を覗くと、周囲より強く輝く星があるのがわかった。
「南十字だよ。俺たちも夜が来るたびにこの星を確認して、また進んできたんだ」
南十字……校外授業のときにやってたのを思い出した。
あのときはただ眠くて面倒で聞き流してたけど、昇さんと見る星空はぜんぜん違って見えた。
「キレイ…本当に十字架みたい……」
「ただ方角を知る為だけの星空も、お前と見ていると違って見えるな」
「……昇さん」
好きって、言いたかった。
ここにもういちど来たのは、それを伝えるためでもあった。
だけど、もうその言葉だけで充分だと、思った。
同じものを見て、おんなじことを感じて、もうそれだけで。
歳も離れていて、女子力もなくて、なんの役にも立てないあたしが告白しても、優しい昇さんを困らせるだけだ。
自分の死期が迫っているのに、あたしを安心させようとしてこんなふうになんでもない話をしてくれる昇さんを、困らせちゃ、だめだ。
「未来ではね……フレームはこうやって作るんだよ」
あたしはまた嘘をついた。
昇さんの両手の指が作った四角いフレームの片手をそっとはずして、自分の指をぴったりくっつける。
人差し指を曲げて。
あたしと昇さんが指で作ったハートの中で、南十字が瞬いていた。
好きなんて、言わないから。
これくらいは、許して……
「へえ、トランプのハートみたい…だな」
「……ハート、知ってるんだ」
「…………知って…る」
「え?」
昇さんが知っているのはトランプだけなのか、ハートの意味もなのか、その言葉からはわからなかった。
だけど、昇さんの言葉はそこで途切れた。
「昇さん!?」
ハートを作った指も、腕も、だらりと力を失って、あたしの膝に落ちた。
昇さんの体から力が抜けていくみたいで、支えられないほどに重くなっていく。
あたしはこらえきれなくて、一緒にそのまま倒れるみたいに土に転がった。
そのまま、満天の星空の真下、耳元で浅い呼吸をくりかえす昇さんを抱きしめる。
時間だけが過ぎて、昇さんの呼吸はどんどん小さくなっていく。
「あたしは…名誉なんかじゃなくって、なんにもなくってもいいから、ただ、ずっと一緒にいたかったよ……どこにも行かないでほしいんだよ…ひとりに…しないでよ……」
「、…………、………、…………、…」
昇さんの唇がなにか言いたげに動いて、だけどあたしには聞き取れなかった。
昇さんの次の呼吸は、いつまで待ってもなかった。
「昇さん、今、何て言ったの?わかんないよ……」
あたしはこの瞬間が来た時、もっと取り乱すと思ってた。
気が狂ってしまうんじゃないかって、思ってた。
だけど実際は、逆だった。
まるで感情の扉が防水仕様にでもなったみたいに、何も漏れないほどに閉じてる。
まだ生きているみたいな温かい頬に触れてみても、悲しいとかいう感情は、出てこなかった。
面白いくらい、何も感じない。
心が、機械にでもなったみたい。
なにもする気になれなかった。
だけど昇さんは夜の冷気と合わせるみたいに、硬く、冷たさを増してくる。
隣にいると、湿った土と昇さんの冷たさで、あたしも凍えそうだった。
のそりと、力の入らない体を起こす。
そうしたら、遠くに灯りが見えた。
たいまつだ。
こっちに向かってくる。
あたしたちよりも遅い人たちが、まだ、いたんだ。
あたしは慌てて荷物をまとめて茂みに隠れた。
「おい、見ろ、火が点いてる。眠ってるのか?」
「いや、死んでるな」
「そうか…ここまで来たのにな。何か名前のわかるものはあるか」
あ……
火を消さないで来てしまったせいで、気付かれてしまった。
この人たちが、晶の家にカメラを届けてくれるのかな…
ついさっきまであたしもそこにいたのに、今はもうまるでテレビでも見ているみたいにその様子を見てた。
すごく……昇さんを遠く感じる。
ポツリ、ポツリ。
雨だ……
悲しいはずなのに涙が出ない薄情なあたしのかわりに、空が泣いてくれたような気がした。
そんなわけはないよね。
ここはいつだって時間を選ばないでこんなふうに雨が降る。
今回、あたしはいつまでここにいるんだろう。
昇さんがいないこの時代に、もう、用なんかないのに。