140度の彼方で、きみとあの日 見上げた星空

約2週間ベッドで眠り続けたあたしは、身体じゅうの筋肉がすっかり落ちてしまってる。

体のダルさ重さの殆どはこのせいらしい。

自分の腕を上げる筋肉もないってどんだけ……


毎日少しずつの運動で元に戻るといわれて、リハビリの先生に教えてもらいながら筋トレをすることになった。


それ以外の時間は遅れた勉強を進める……じゃなくてあたしにはやることがあった。


親に持ってきてもらったノートパソコンを起動して、インターネットブラウザを開く。


キーボードがフリックじゃないからやりづらい。

画面は大きいから、そこはパソコンのほうが好き。

検索ボックスに「ゲニム」と入れる。

……ナニコレ。

遺伝子がどうとか、塩基配列が、って、生物の授業みたいなのがズラリ。


もしかしてゲノム、じゃないよ!

「ゲニム」がマイナーなのか、自動的に検索頻度の高い語句に変換されてしまった。

もしかしないの!

ゲニムでいいの!

「ニューギニア」「戦争」を追加する。


そこには、あたしが戦争について持っていたイメージや知識なんかとは全然違う文字がずらりと並んでいた。

『地獄の戦線』
『死の行進』
『命をトル川』
『敵は飢えとマラリア』
『仲間の肉を食べた日本兵』


……何?

どういうこと……

仲間の、肉…って?

人間の肉ってこと?


確かに食べるものがなくて、辛かったけど…

あたしたちはカエルやカニで何とか凌いだよ?

さすがに人の肉は都市伝説でしょ……


恐々ページを開くと、あたしたちのいたエリアとは違う場所の話だった。

だけど、そんな話がいくつもあって。

信じられない気もしたけど、あの状況であと数日、なにも食べるものがなかったら?

そう考えると、どうしても否定できない気もしてしまう。


地図で確かめたら、ゲニムからサルミへの距離はあたしが歩いた距離の5倍。

昇さんが言ってたとおり、約250㎞。

途中、川はあるけど湖はない。

タナボタで魚が食べられる機会だって、そうそうないはず。

迷わず直線を進んで250㎞だから、実際はもっと長い距離をさまようことになると思う。


もしそんな時、近くで虫もカエルも獲れなかったらと思うと……

もしかしたらこのあと昇さんも?

そんな考えが頭をよぎって、ぶんぶんと横に振り払う。


やめやめ、よそう。

本当かどうかわからない話をちゃんと調べるのは、後だ。

あたしが知りたいのは、このあとあの島が、昇さんがどうなるか。



気を取り直して検索を続けた。


だけど、読めば読むほど目を覆いたくなるような結末ばかりで、援軍が来て逆転したとか、補給物資が届いたみたいな話はなくって。

それどころか真逆。向かっていた補給船が撃沈とか、そのあとはまるで見捨てられたように追加の補給も援軍も途絶えていた。

その頃にはもう敗戦前の秒読みで、本土決戦!とか一億総玉砕!なんて時代に突入しちゃっていて、見捨てたくなくても日本から遠く離れた島にはとても気を配る余裕がなかったんだと思う。


あたしがいたニューギニア島だけじゃなく、その近くの島で似たような悲劇がいくつも語られているのを目にするだけだった。

ほとんどの地域で、戦闘にもならずにただ一方的に攻撃され、ほとんどの兵は歩き疲れて飢えと病気で息絶えたって。


生き残った人たちを取材した記事や本人の手記には、あの島で起きた惨劇がありありと残されてた。

それは、あたしの記憶とも重なった。


支給の食糧が尽きたらその辺のものを食べて、時にはお腹を壊したり中毒になったりしながら、空から降ってくる銃撃や爆弾に当たらないように進むだけの毎日だった。

銃も持たないあたしたちは敵と遭ったところで一方的に乱射されて死ぬだけ、だからコソコソと隠れて逃げて、それでもサルミに辿り着きさえすれば、きっと武器も食糧もあって、じきに援軍がきて、きっと日本が勝つ。そんな風に信じて歩いていたのに。

嘘でしょ……。
あたしは更に信じられないものを見てしまった。

サルミで、受け入れ拒否……?

同じ頃にそのサルミで戦闘があって、それどころじゃない軍はゲニムからはるばる歩いてきた兵の受け入れを拒否したなんてことが書いてあった。

そんなのって、そんなのって!
250㎞信じて歩いて、目前で拒否られるって、どんな気持ちだろう……


悲しみかな?

怒りかも。

でも、向こうも必死で戦ってるわけだから、ぶつけようがない悔しさかも。


とにかく、75年前の今日より先には、あたしが見たのよりも酷い、本当の地獄しかないってことだけがわかった。


このまま歩いても、昇さんはサルミに辿り着けない。

あたしが向こうにまた行くことができたら、このことを伝えなきゃ。


ううん、行って、伝えなきゃ!

あたしの気持ちとは裏腹に、現実はタイムスリップ希望者には優しくなかった。

過去への戻り方、なんて検索しても、SF小説やマンガの類が出てくるだけ。

当たり前だよね。

ニューギニア島に行くだけなら、ハワイに行くより近くて、しかもあたしがいた辺りとは時差もないらしいっていうのに。


だけど、途方に暮れて地図を眺めてたら、縦と横に線が引いてあるのに気がついた。

ああ、緯度と経度ね。

そんな風に漠然とした風でなんとなく線を辿る。

5度ずつに線が引かれていて、おもしろいことに北緯37度と東経140度が交わるポイントが地元にあるのが分かった。

切りのいい線が交わる所はそう多くはないからか、地味な観光スポットになっていて、那須野ゼロポイント、なんて名前が付けられていた。


「へえ……って、こんな脱線してる場合じゃないのに」


地図を縮小して、またニューギニア島を表示しよう。

そう思ってスクロールしようとして、あたしは思わず手を止めた。


息を、飲んだ。


小さくなった世界地図の上で、日本とニューギニア島が、あたしがマークして赤くなった東経140度の線で結ばれていた。


ドキドキドキドキ。


あたしの心臓は何に高鳴っているんだろう。

自分でもなぜだかわからなかった。

でもどうしようもなくその赤い線が気になった。

なんで?

だってただ、経線が1本引かれてるだけの地図だよ。


だけどあたしは何かに突き動かされるみたいに、マウスのホイールを回してニューギニア島を拡大していた。

ゆっくり、ゆっくり、拡大で経線を見失わないように。

それがなんだっていうの?

そこに何かあるっていうの?


息を止めて、更に拡大した、その先に。


「嘘……、本当にあった……」


140度の線、少し東に。


ゲニムがあった。


もしかして、そんなわけないけど!

でも他に手がかりなんかないんだから、調べてみるしかない!


そこからのあたしは夢中だった。

まずゲニムの合流場所の正確な位置を確認して経度を記入。

戦時中の古い地図と衛星地図では少しずれがあるけど、小さく開けた街があった。

たぶんここだ。

そしてその経線を辿って日本の地図を拡大。


そこにあったのは……


すごい……


こんなことって、あるのかな。

偶然の一致かもしれないけど、その線の上にあったのは、今、あたしがいる病院だった。

ここは、かかりつけでもないし普段は使ったことがない病院。

家からは少し遠いけど、千葉で倒れて向こうの病院からここに移送されたからしょうがないって、昨日お母さんがちょっと愚痴ってた。


もしかしてあたし、この経線が重なったところでタイムスリップしてるのかも!

そんなアホみたいなことを考えついて、まさか、でももしかして、そんな気持ちで、ひとつめの場所を表示した。


初めて昇さんと海で会った時にあたしがいたのは、さくら宇宙公園。

さくら宇宙公園の経度は。

だいたい、140°41’……

そのニューギニアは……あった!


やっぱり、ホルランジヤ、いまはジャヤプラって地名に変わってるけど、日本軍の港のそばだ!


ここまでくるともう偶然じゃないって確信があった。


行けるかもしれない!

まだ行き方も戻り方もわからないけど、パズルのピースがひとつはまったみたいな気分で、胸が高鳴る。


次!

次にあたしがいたのは、千葉の海岸!


だいたい、140°32’……

……やっぱり!

センタニ湖の東端、昇さんと面と向かって会って髪を切られたのは、きっとこの辺りのはず!


そして、最初に調べたゲニムとこの病院の位置関係。

合わせて、3か所の条件が揃った。


あたしが、この線の上でタイムスリップしてるのは、もう間違いない。


だけど、その先、どうやって行くか、戻るかの条件は、さっぱりわからなかった。


***


歩けるようになったところで退院して、家に戻った。

久しぶりの制服に身を包んで、自分が令和の女子高生なんだなと、ため息を吐く。


こうしてる間にも、あの時代のあの島では状況がどんどん悪くなっていって、最後には望みのサルミに受け入れてもらえないって悲劇に向かってるのに。


あたしだけが、毎日あったかいお風呂に入って、ほかほかご飯におかず、蛇口をひねったら飲める水が出てくる場所でぬくぬくと生きてる。

山根さんじゃないけど、別に人を殺したわけじゃないけど、それでも。

あたしだけがこうして何不自由なく暮らしてることに、ものすごい罪悪感がある。

手元にはもうなにも残ってないから、時々、あれはやっぱり夢だったのかな、なんて思いそうになることもある。


でも、そんな時は髪を触る。

昇さんの刀で歪に剃られた髪。

とりあえず揃えよう、と言われたのを敢えてそのままにしてある。


これが、今のあたしが持ってるたったひとつの繋がりだから。


***


学校に着いたら、玲奈がラグビー選手みたいに飛びついてきた。


「やよぉ!!心配したんだよ!もう!やっと会えたぁ!どしたのその髪?なんか検査とか?」
「あはは、まあそんなとこ。ごめんね、もう大丈夫だから」


玲奈の頭をサラリと撫でて、令和女子高生の女子力の高さを再確認。

あたしの頭はいま、そういうのじゃないからね。


「古賀、とうとう男になったのかと思ったぜ」
「転校生を紹介しまーす」
「僕、古賀生男です!」
「はぁ!何言ってんの!」
「ははは」


アホ男子にも久しぶりに会うとなんだか感動的だった。

でもいきなり「生男」なんて言われて、心臓が飛び出るかと思った。

弥生の生、で生男。

男子の考えることなんて75年経っても変わらないんだなぁ。


「町田もさ、やよが意識戻るまでの間ね、ずっと言ってたんだよ。あいつがこんな目に遭ってるのは俺のせいなんだ、って」
「え?」
「んもう、とにかくすっごい心配してたよ、なんか責任感じちゃってるみたいだし」


チラリと、晶を見る。

今日は車で送ってもらったから、朝は晶に会わなかったんだ。

こっちを向いた晶と、目が合った。

え、こっち来る?


「ホラ、王子様のおでまし」
「違うでしょ」
「弥生、ちょっといいか」
「あっ、うん」


真顔で、何だろう。

玲奈が変なこというから、なんか身構えてしまうよ……

今はもう使われてない北校舎と交わる階段の踊り場は、少しカビ臭いにおいがした。

こんなとこまで来て、晶は何を始めるつもりなんだろう。


「しょ……」
「弥生。お前、GW本当は何処で何してた?」


!!!

いきなり何言ってるの?


「え?どこって。知ってるでしょ、潮干狩りで倒れて、ずっと病院だよ」
「その割には随分とよく日焼けして、男っぽくなった」
「ばっ…!!」


まるでどこかに遊びにでも行ったと言いたいのか、晶の顔に笑顔はなかった。

疑われて腹が立つ。

言い返してやりたい。

あたしがどんなところにいたか。

どんな思いをしたか。

みんなが、どんな思いで逝ったか。

そして今も、75年前の今頃も、苦しい思いで歩き続けてる人たちがいるんだって、言ってやりたい。

でも、それはできない。

悔しさがこみあげて、涙になる。


「話したいことが、あるんだろ?困ってることも。全部俺に言ってくれよ。力になりたいんだ」


震えるあたしの肩を強く掴んで、晶が言った。

あれ?

前にもこんなこと……


予想外の言葉に、あたしの全身から力が抜けた。

そうか、真剣すぎて、怖い顔になってたのかも。


「あのね、信じてもらえないかもしれないけど、あたし」


あたしは、晶の言葉のままに頼るように、すべてを打ち明けた。

ひとりで抱えるには、ちょっと重すぎたから。

誰かに聞いて欲しいって、思ってたから。


晶は、ただ、黙って聞いてくれて、警察へも掛け合うと言ってくれた。


「サルミに、行こうとしてるんだろ?」


待って。
変。

あたし、晶にタイムスリップの話はしたけど、サルミなんて言っていないし、これから何しようとしているかなんて話していない。
晶、もしかしてニューギニアでの戦争に詳しいの?
    

「晶、どうしてそれを…」
「弥生にいつ話そうかって、ずっと考えてたんだ」
「…え」


どうして?
おじいちゃんがそれくらいの年代だから?だったら、なんでもっと早く教えてくれなかったの?


「俺が思い出したのは、ガキの頃なんだよ。もう10年くらい経つ」


晶の話し方はなんだか少しおかしかった。


「どういうこと?」
「それでカメラ、始めたんだ」
「なんの話をしているの?カメラ?」
「だけどその時に弥生に話したって、絶対信じてくれないだろうなって」
「だからなんの話なのってば」
「俺が、昇だって話だよ」
「え。今、なんて言ったの?」


耳を疑った。

待ってよ。

晶、本当に何を言ってるの?


「お前があの日タイムスリップしたこと、知ってたんだ。止めたかった。でも止め方なんか知らないから」
「待って、待ってよ。そんなの信じられるわけない」
「タイムスリップが実際にあったんだから、生まれ変わりくらい軽く信じろよな」
「本当に、昇さんなの?」
「そうだよ」


嘘みたい……こんなのって。

晶が昇さん……?


「弥生。俺、お前のこと好きだから」




え、っと……それは晶として?

どうしよう。
びっくりして、どうしていいかわからない。

なんかもっとこう、「ホント!?嬉しい!愛してる!!」って涙しちゃうみたいなのが正解なんだろうなと思うんだけど、晶の顔で言われても…って、正直思ってしまった。

我ながら、女子力低すぎ。


でも、本当にどうしていいかわからない。

生まれ変わりを信じないわけじゃないけど、瓜二つならともかく、見た目が別人なんだもん。

いきなり言われても、困る…。
あたしが好きなのは昇さんで、晶じゃないから。


「力になるなんて言ったけど、俺はもう行かせたくない」


晶が、絞り出すような声で言った。


「でも、そんなの、いきなり言われても…」
「とりあえず、じいちゃんに話を聞きにいかないか。俺も昔の記憶はあやふやなんだ」


おじいちゃんは今はもう数少ない、戦争時代を知る人だ。
あたしは混乱しつつも、こくりと頷いた。

「あ、でもその前に!軍服とか返してもらいたい…」
「そうか。じゃあ先に警察か」
「一緒に行ってくれるの?ありがとう」
「これくらいは力になるよ、まだ調子戻りきってないだろ」
「あ、うん。ありが、と」

晶のおじいちゃんに会いに行くのは、少し後になった。




あれから数日後。
おじいちゃんに会うために、晶の家に向かう。やっぱり晶が昇さんだなんて、いまだに信じられない。

だけど、私が話していないいくつかの出来事を知っていたりして、やっぱりそうなのかな?って思い始めてはいる。


「あのネガ、いくつか写真が出せたよ」
「本当!?」


晶が、軍服と一緒に戻ってきたフィルムを現像してくれた。カメラオタクが幼なじみで良かったって、めちゃめちゃ思う。


「36コマくらいはあるフィルムだけど、実際に画像が残ってるのは数枚だけだった」
「そっか。でもすごい!見せて」


なるべく濡れないようにしていたけど、雨とか凄かったからかな。


「おじゃまします」


晶の家に上がるのは久しぶりだ。子供の時以来だから、ちょっと緊張する。部屋にあがって、さっそく写真を見せてもらった。

そこには、あたしが会う前の昇さんが見た場面が写っていた。

採ったヤシの実で顔を挟んでおどける軍人さんがいた。肩を組んで歌っているのか笑っているのか、楽しそうな人がいた。同じ部隊だった向井さんも、まだふっくらした頬を輝かせて笑っている。


『縁起でもないが、写真1枚残さず死んでいくなんてそのほうがよっぽど酷い話だろ』


昇さんが言っていた言葉……そうだね、本当にそうだよ。やせ細って死んでいった向井さんの最期の顔が、今、あたしの中で笑顔の向井さんに書き換わった。

昇さんの写真は、なかった。それから、昇さんがあたしを撮った写真も……。でもこれを、ここに映ってる人たちの家族に見せてあげたい……。


「誰が誰か、わかる?」
「うーん。記憶が曖昧だな。とりあえず、じいちゃんの話を聞いてみよう。ボケてるけど、昔のことは結構よく覚えてるんだよ」

晶の部屋は2階。おじいちゃんは1階。降りて行ったら、部屋にはいなくて、陽の当たる縁側に出て、ゆらゆらと体を揺すっていた。

おじいちゃんおじいちゃんと言っているけど、実際にはひいおじいちゃんだ。かなりヨボヨボな感じで、本当に話が聞けるのかと心配になる。


「あの……」
「あ、ああ、ああ。よーぐ来だなぁ」
「えっと」
「ささ、入れ、すぐに茶をいれさせっがら」


なにか、まるで誰かと勘違いしてるみたいな丁重な歓迎を受けて、面食らう。おじいちゃん、誰が来たと思ってるんだろう?

おじいちゃんが、いそいそと押し入れへ向かい、中から漆塗りの文箱を出してきた。


「この写真は、おじょうさんのだんべ」
「え?」


そう言っておじいちゃんが文箱から取り出した写真を見た時、あたしは息が止まるかと思った。


「こ……れ……」


それは、さっき晶が見せてくれた写真の一番最後にあるはずの写真だった。つまり、昭和19年の4月、あたしと昇さんが初めて海で出会った時の写真。あたしを人魚だと言って、昇さんが撮った写真……。


「昇さん……っ」


思わず泣き崩れるあたしに、おじいちゃんがやけにスッキリと澄んだ声で、言った。


「まづだのぼるはぁ、ひどつ上のアニさんだ。アニさんは、お国を守る為に南の島で英霊様になりなさっだ」
「おじいちゃんの、お兄さんなんですか!?」
「そうだぁ。優ーぁしぐで、頭のいいアニさんだ」


松田…そうか、最後に昇さんが名乗ったときに言ってた「町田」が、本当の名字で、阿久津さんの訛りであたしが勝手に「松田」だと思ってしまっていたんだ。


「遺骨もなんもねぐて、だけんども後でカメラを持っで来てくれた兵隊さんがいてなぁ」
「そのカメラは!?どこですか?」
「終戦後はウヂも苦しぐて、カメラは親父が売っぱらっちまっだんだ。だけんどそん時売っだとごが質屋でねぐてカメラ屋で、中に切れ端が入っでたって焼いで持っで来てくれたんがほれ、おじょうさんの写真だったんだと」


切れ端……!それでさっきの中にはなかったんだ!

古くて、白黒も褪せて、南国の海に女の子がいるだけの写真。どんなに目を凝らしても、あたしだとはわからない。なのになんでおじいちゃんは、あたしだって言って渡してくれたんだろう。


「おじいちゃん、なんでこの写真に写ってるのがあたしだと思うの?」
「なんでって……そんなの、すぐにわかっぺ。そこでアニさんが笑っでら」


おじいちゃんは晶を嬉しそうに眺めて、歯のない口でにんまりと笑った。まるですぐそこに昇さんがいるみたいに。もしかして、おじいちゃんには晶が昇さんだってこと分かっているのかも。


「もう、明日で76年も経づんだな」
「明日!?今、明日って言いました?明日、何があるんです?」
「アニさんの命日だ」
「そんな!ごめんなさい、あたし失礼します!」
「あっ、待てよ弥生!」
「ごめん晶!でもあたし行かなきゃ!」


明日なんて明日なんて!

どんな地獄でも、昇さんはまだまだ歩き続けると思ってた。そんな保証どこにもなかったのに!

そうだよ、みんないつだって突然だった。体調を崩したら、あっという間に。川に飲まれたら、本当に本当にあっという間。

昇さんがサルミの手前、トル川まではなんとか辿り着くだろう、って、あたしはなんて能天気なんだろう。

ゲニムより西は、それまでとは比べ物にならない苛酷さだと書いてあるのを読んだのに、この期に及んであたしは!

死なせない!
あたしが昇さんを助けるんだ。

服の中に入れていける分なら一緒に持っていける。腰に着けた刀が時を超えたんだから、体にくっついてればいけるはず!

あたしはチャリに跨って、全速力で家に向かった。

非常用持ち出しリュックに限界まで食べ物や飲み物を詰めて、あたしはチャリで駅まで飛ばした。
ここからはタクシーだ。


「ゼロポイントまで!急いでください!」


汚れた軍服に身を包んだあたしを、運転手さんが嫌そうな目でチラ見したのがわかった。
乗車拒否されるかと思ったけど、大丈夫だった。


「サバゲー、ってやつですか?」
「ああ、まあ……」
「本物の軍人みたいですね」
「あは、は」


本物の軍人じゃないけど、本物の軍服ですよ……。
弾まない会話が止み、景色は徐々に山道になっていく。

行ったからって、どうなるものじゃないかもしれないけど。

また過去に行けるなんて確信してるわけじゃないし、行けるとしたってあの時代に行けるとも限らない。


経線上の、どこに飛ぶかだって定かじゃない。

飛んだら全然違う場所の違う時代で、もっと最悪な事態に巻き込まれて、もう戻ってこれないかもしれない。


それでも。


行ける可能性がゼロじゃないなら。


昇さんに会えるなら。


助けられるかもしれない。


ううん!


助けなきゃ!


それに、まだ伝えてない。

あなたが好きですって、言ってない。

伝えたい。



そして。

令和の日本を見たいって言ってた昇さんと、一緒に生きたい。


だってあと1年ちょっとで戦争は終わるんだから。


そこまでなんとか生き延びれば、あとは戦後のどさくさであたしもあの時代の人間になって、東京オリンピック見て、一緒に歳をとるんだ。

晶は生まれ変わりだって言ったけど、あたしは。あの時代で、あの昇さんと。

生きたい!


「雨、降ってきましたねぇ。今日は雷雨らしいですよ」


運転手さんがまた声を掛けてきたけど、それに返事をする余裕はなくて。

徐々に波打ちだす窓ガラスを見つめて、早く、早くと心の中で車を急かしていた。