140度の彼方で、きみとあの日 見上げた星空

カメラは、ホルランヂヤでお世話になった人のものらしい。

一緒にいたところで戦闘機に攻撃されて亡くなってしまったそう。


「撮ってばかりだからと、俺が無理やりカメラを取り上げて撮った笑顔が最期になった」


それから昇さんは目頭を押さえて、しばらく黙ったまま俯いていた。

それって昇さんの目の前で、ってことだよね…

辛すぎる…


「このカメラは軍の記録用だけど、俺は仲間たちの写真をたくさん撮って帰りたいと思ったんだ。縁起でもないが、写真1枚残さず死んでいくなんてそのほうがよっぽど酷い話だろ。生きてりゃ、あんときは苦労したなと酒の肴になるんだから」


そう言って、ニカっと子供みたいに笑った。


「そうだね、写真って、あとで見るとすごく楽しいよね」
「だろ?」
「あたしも撮ってよ?」
「もう、全部撮り終わってるんだ。すまんな。海でお前を撮ったのが最後だったと思う」


昇さんはカメラの蓋を開けると、単一電池みたいな円筒状のものを取り出して手渡してくれた。


「え、これ何?」
「フィルムさ。未来にはないのか?ははは。さて、と。腹がまた減らないうちに寝るぞ。夜が明けたら出発だからな」
「え、あ、うん…と」
「ん?ああそうか」


二人で腰かけている毛布は1枚。

しかも、シングルサイズくらい。

あたしはこの急な展開に思いっきりわかりやすく動揺してしまっている。


顔が熱い。

あたし今、絶対に真っ赤だ。

うわーん、意識しちゃってるの、バレバレだよ…

昇さんは、そんなあたしを見てふんわりと笑ってる。


お…大人の微笑み…


「心配するな。何もしないから」
「あの、でも…」
「嫁入り前のお嬢さんに手を出すような男にみえるか?」
「う、ううん!そんな!」


スパイ容疑の時は怖かったけど、女の子を無理やりどうにかするような人じゃないのはわかる。

あたしは大きく首を横に振って否定した。


「狭くてすまないな」
「ううん!だってあたしが何も持ってないせいだから」
「過去に飛ばされるなんて非常事態に備えてる奴なんておらんだろう、気にするな」



畳1枚くらいのスペースに、ふたりっきり。

意識するなというほうが無理だ。

あたしは全然寝れなくて、寝息を立て始めた昇さんにため息をつく。


「ちょっとは意識してよ…女の子とふたりきりなんだよ」


当然、返事が返ってくることなんかなくて、ふて寝するしかないあたしも目を瞑った。

フィルム、返し損ねちゃった。

朝になったら返そう。



……

足がムズムズする…

腕もこそばゆい…


ほとんど無意識にその場所を手で払って、最初は気のせいだと思ってた。

でもやっぱり違和感は拭えなくて。

ついには、それが顔の上で起きた時、肌を伝う感覚と払った手に答えを確信してしまった。


「きゃぁっ!」
「どうした?」


あたしの声で昇さんがガバっと起きて、険しい顔を向ける。


「む、虫が体の上に…顔にも来て、無理無理無理」
「なんだ、虫か。マラリアや刺されると腫れるのもいるがもう諦めろ」
「無理!キモい!寝らんない…」


見るのも嫌というほどではないし、家でだって虫が出ても一番騒ぐのはお母さんだ。

だけど顔に来るとかは絶対無理!


「仕方ないな…おいで」
「えっ…」


ふわり。

両脇を抱えられたと思ったら、その瞬間、あたしはゴロリと仰向けになった昇さんに被さるように乗っけられてしまった。

待って、ほんと待って。

こんなの、無理!

虫も無理だけどコレも無理!

心臓が爆発しそうだよ!

恥ずかしすぎて死んじゃう…


「これなら平気だろ」
「えっ、でも」
「じゃあ降りて寝るか?」


顔、超近いよ。

そんな優しい顔しないで。

ドキドキが、身体じゅうを駆け巡って、熱い。


あたしが今めちゃめちゃドキドキしてること、絶対バレてる。

だってあたしと昇さん、ぴったりくっついてるんだもん。

あたしは精一杯の平静を装って、やっとの言葉を口にした。


「むっ、虫は嫌!でも、あたし重いよ…」
「気にするな、重いくらいのほうが上等な木綿の掛布団みたいでいいさ」
「くっ、また失礼なことをぉ…」
「ははは」


昇さん、絶対あたしで遊んでる…っ!

あたしがこんなに意識してるのに、昇さんは平気な顔。

大人ってずるいよ。


「明日も早いぞ。おやすみ」


そうやって、頭をポンポン。

完全に子供扱いだ。


昇さんの大きな手が、あたしの坊主頭を撫でてる。

まるで子守唄でも歌ってるみたいに。


胸についた耳に、昇さんの鼓動がきこえる。

優しくて、落ち着いた音だ。

だけどあたしは落ち着くどころじゃなくて、ぜんぜん眠れない。


あたしばっかり、どんどん好きになってくよ…



とくん、とくん…

あったかくって、心地いい響きに身を任せる。

ここは、どこ?

まるで雲の上にいるみたいに、体がふわふわする。


「…ろ、弥生、起きろ」
「んん…」


そうか。

夢の中。

この綿菓子みたいな甘くてふわふわの夢から、覚めたくないのに。

呼ばないでよ。

あたしを呼ぶのは誰?


って言っても「弥生」なんていうのは晶くらいだ。

もう、邪魔しないでよね。


「…晶、やめてよ…」
「ったく、何を寝ぼけてるんだ。そろそろ行くぞ、起きろ」
「んあ…、の、昇さん!おはようございます…っ!」


あたしは昇さんが起き上がった勢いで毛布の上に転げ落ちてしまった。


痛ったぁ…

昇さん、せめてもうちょっとゆっくり起きてよ…

なんて、一晩じゅう体に乗せててくれたんだから、そんな贅沢は言ってられない。


だけどあたし、ドキドキして絶対に眠れないって思ってたのに、いつの間にかぐっすり眠ってたんだ。


「あの、昇さん、ありがとう。昇さんは寝苦しくなかった?」
「苦しくはなかったよ。だけどヨダレとイビキがなぁ」
「えっ、本当に?ごごごめんなさいっ!」
「冗談だよ、ははは。ほらこれ」
「あ、いただきます」


結局またからかわれて、朝食に乾パンと金平糖をもらった。

昇さんに教えてもらいながら天幕を畳んで、毛布も土を払って畳み、昇さんがそれをリュックにセットし終わると、あたしたちは歩き始めた。

スマホを見ると、まだ朝の5時にもなっていない。

そうだ。

スマホのバッテリーが切れないように電源は切っておこう。


夜のうちに雨が降ったのか、それとも朝露か、土や草が濡れていてジメジメしてる。

ひざ下がガラ空きのこの格好では、足が無防備すぎるんだ。

昨日歩いたときに出来た細かい傷が痛痒いのに、そこに濡れた草が貼りついて、更に痒い。


「長いジャージにしとけばよかった…」
「…そうだな。ジャングルの中より湖岸を歩いてみよう。そのほうがありそうだ。敵が来るかもしれないから、慎重にいくぞ」
「う、うん」


ありそう、って何がだろう。

でもそれより。

敵、と言われて心臓が跳ねた。

湖岸のほうが危ないけど歩きやすいってことなのかな。

言われるまま、あたしは昇さんに従った。


30分くらい歩いた頃、あたしたちは湖岸に面して開けた一帯に出た。


「ああ、畑が荒らされてる。このあたりを通ったようだ」
「みんな先に行ったの?」
「だと、いいがな」


警戒して険しい表情で早歩きする昇さんのあとを必死でついていく。

辺りを見回す余裕はなくて、あたしはもう走るみたいになっていた。

それなのに突然、昇さんの足が止まる。


「わぁっ」
「シッ、黙って」


昇さんの背中にぶつかりそうになって思わず声が出たのを、昇さんが振り向いてたしなめる。


「人がいる。ほらあそこ」
「ほんとだ」
「様子を見てくるから、少し隠れてて」
「えっ、怖いよ、あたしも行く」
「…気をつけろよ」
「うん」


行くのも怖いけど、置いて行かれる方がもっと怖い。

そう思って、あたしはそのままついていくことにした。

人気のない荒れた畑の隅に、木造のバス停みたいな小さな上屋があった。

そこにもたれかかるようにして軍服の男の人が座っているのが見える。


「あの人!日本軍の人!?」
「そのようだ」
「寝てる?具合でも悪いのかな?」
「…………」


何も言わない昇さんの様子が気になったけど、あたしは味方を見つけた気持ちでテンションが一気に高まっていくのがわかった。


「行くな!」
「えっ」


はやる気持ちが抑えられなくて、足早になっていたあたしを昇さんが止めた。

そうだった。

あたし、この格好のまま他の軍人さんに見つかったらマズいんだった。


昇さんの後ろに戻り、隠れるようにゆっくりとついてゆく。



だけど。

その人に近づくにつれて、異様な臭いがするのに気づいた。

甘い、独特な臭い。


その臭いで、薄々気付きかけたけど、その時のあたしはまだそれを認めたくなかった。

だから、そのまま足を止めずに近づいた。

だけど。


「ひ…っ!」


その人の顔にはおびただしい数の虫が張り付いていて、くぼんだ目や、半開きの口の中へも虫が出入りしていた。

死んでる!

そう思ったけど、かすかにお腹が動いた。


「昇さん!生きてる!この人、生きてるよ!どうしよう、こんなに虫付いちゃって、助けなきゃ…」
「よせ」
「だって…っ」
「もう死んでる」
「嘘!生きてるよ!今お腹動いたもん、息、してるんだよ!」
「腐ってガスが溜まってるだけだ。それにもし生きてたところで、薬もない。何もしてやれることなんかないんだ」
「そんな…酷いよ、昇さん」
「…なんとでも言え。お前の時代じゃない」
「あ…」


何もしようとしない昇さんに、つい、言ってしまった。

だけど気持ちの持って行き場がなくて、あたしは素直に謝ることもできなかった。

戦争中なのはわかってるけど、あたしだって好きでこんなとこに来たんじゃない。

なんでも揃って医療も充実してる時代に生まれたのだって、あたしが選んで生まれたわけじゃない。

全部、偶然。

だから、昇さんに「お前の時代じゃない」なんて嫌味っぽく言われたことにも、少し、腹が立った。


そんなあたしをよそに、昇さんはその軍人さんに長いこと手を合わせてたけど、それが済んだらその軍人さんの靴を脱がし始めた。

昇さんが触れたことで、軍人さんの体がかすかに揺れた。

その瞬間。


「あっ…嘘…っ」


くぼんだ目から、ドロリと何かがこぼれ落ちた。

一緒にくっついてた小さな虫が、地面を逃げていく。


あれって……

眼球だ………!


どうしよう。

見ちゃった。

すごいもの見ちゃった。


この人、本当に死んでるんだ…


そう思ったとき、またお腹がぐにょりと動くのが見えて、中が腐ってガスが充満しているところを想像してしまって、思わず吐いた。


「う、うぇ……」
「だから待っていろと言ったんだ…」
「だ、だって、うえぇ…っ」


人が死んでるのなんて、初めてみたんだよ。

お葬式とかでならあるけど、座ったまま腐ってるのなんて、普通見る機会なんか絶対ないよ。

無理だ。

こんなとこ、無理。


吐き気は収まったけど、体がぶるぶると震えだして、涙が止まらない。

自分の歯がカチカチと鳴る音を聞きながら、骸骨がカタカタと笑うのが頭に浮かんで、また恐ろしくなった。

死ぬんだ。

人は、死ぬ。

ここにいたらあたしもきっとあんな風に…

そう考えたら、怖くて怖くてしかたがなくなって。

あたしはその場でへたり込んでしまった。

「これを履いて」

昇さんが、静かな声でそう言って、軍人さんが履いていた靴をあたしの顔に近づけた。

その冷静さが、ショックで。


だってそれ、死んだ、亡くなった人の靴だよね?

しかも死体に集った虫もついてるような不潔な靴だよ…

洗ったって、そんなの使いたくないよ。

気になり始めてる人の側にいるのにお風呂にも入ってなくて、その上こんなの履くとか、もうこれ何の罰ゲーム?


昨日の昇さんだったら、仕方ないな、って、抱きしめてくれたんじゃないかとか、あたしがさっきあんなこと言ったから怒ってるんだとか、そんなことを思ったら余計に泣けてきて、自分でもなんで泣いてるのか訳がわからなくなってきた。


「服も拝借する。腐敗が進んでいるから崩れて臭うかもしれん。離れていろよ」


あたしは、動かなかった。

というか動けなかった。


あたしは令和の人間で、高校生で、受験生で、きっと本当は今頃めんどくさい授業をなんとなく受けて、お昼になったらお母さんの作ったお弁当を食べて、午後の授業が終わったら玲奈とスタバ寄って、帰ったらご飯食べてお風呂入ってスッキリして、ネットの見放題で映画見て、そんでふわふわのベッドで寝るんだ。

なのになんであたしは今、腐った死体を目の前にして、しかもその人の靴を履けなんて言われてるの?

しかも服まで着ろって。

髪だって一生懸命伸ばしてたのに、いびつな坊主にされて。

いきなり過去に飛ばされて、だけどこんなところじゃなかったら、戦時中だってちゃんと女の子でいられて、出会うのは昇さんじゃないかもしれなくても、もっと可愛いあたしとして恋が出来たんじゃないかとか、もう、あたしの中は過去と未来が混ざったせいで、現実と想像の区別がなくなったみたいにぐちゃぐちゃで。


「もう………嫌だよ……こんなとこ、いたくない…」
「弥生」


雨が、降りだした。

明るい空から降る雨が、軒先から滝のように流れ落ちる。

草木を雨が打つ音は、まるで決断を迫るドラムロールみたいにあたしを包囲してる。


「ふ…っ、うわあぁぁああ」


その責めるみたいな雨音に耐え切れなくて、あたしは敵に見つからないようにみたいなことも考えられなくって、感情のままに泣き叫んだ。


そんなあたしに、なおも冷酷に昇さんが言い放った。


「選べ弥生。ここで弥生として死ぬか、この軍服で生男として俺と生きるか。ふたつにひとつだ」
「…っく、ひっく……」


答えられるわけ、ない。

どっちも無理だよ。


死にたくなんかないし、そんなの着たくない。


「ひっく…帰れないくらいなら、もう、死んだって、っく、いいよ……」
「弥生!」
「痛っ」


あたしは思ってなんかいないけど、でも嘘でもない、半ば投げやりな言葉を呟いた。

そうしたら、昇さんが凄い剣幕であたしの両肩を強く掴んで揺さぶった。


指が食い込むくらいの強さで、掴まれたところが痺れるみたいに痛い。


「ちょっ…」
「頼む。どうか辛抱してほしい。お前の住んでいた未来の話を聞けば、今がこの上なく野蛮で下衆な時代なのは承知だ。その上ここは未開の地で、この時代の本土にいた俺でさえ不潔で非文明的な場所だと感じている。だけど俺はお前をこのまま置いて死なせるわけにはいかないんだ」
「昇、さん…」


昇さんがあたしの座り込んだ高さまで腰を落として、見上げるようにあたしに語りかけてくる。

「髪を切ったときにもうお前が覚悟を決めたと勝手に思っていた。だからこの期に及んで往生際が悪いと少し苛立ってしまった。すまない。俺もこんな仏さんを見て、自覚しているより動揺しているのかもしれない…。これから先も道のりは険しく、こんな思いを何度もするだろう。それでも俺と来てほしい。どうか頼む」


真剣なまなざしと言葉が、あたしの心を射るように、まっすぐ向かってくる。


「お前のことは、必ず俺が守るから。そのためには、なんだってするつもりだ」


そうだ。

あたしは、不安だったんだ。


浮ついた気持ちで昇さんを意識して、そのドキドキでごまかしてきたけど、あたしはずっとこの時代のこの場所でアウェイで、頼れる人が昇さんしかいなくて。

なのにその昇さんがこんな…、亡くなった人の衣服を剥ぎ取って平気な顔をしてるなんて、なんだか知らない人になってしまったみたいで。


でもそうじゃなかった。

こんな得体のしれないあたしの話を信じてくれて、さっきだってこの人にすごく長いこと手を合わせてた。

あたしのために衣服を取り上げることを、詫びていたんだ…

全ては突然現れたあたしのため…

軍服が道中で調達できるって言ってたの、こういうことだったんだ。

森の方で出会わなかったから、湖岸のそばまで来たんだね…

あたしはようやくそのことを理解した。


テントが半分になって窮屈でも、笑って、笑わせてくれた。

虫を怖がったあたしを自分の上に乗せて、寝返りもしないで一晩過ごしてくれた。

半分……

あれ?

そういえば。

昇さん、今朝、乾パン食べたっけ?

昨日のお昼だって。

それに、晩のみそ煮ご飯だって、やけに早く食べ終わってた。


もしかして、あたしに分けるために、自分の分を減らしてるんじゃ………!

そうだよ、次の補給までの10日分って、昇さん1人分の計算で10日なんだよ。

あたしが来たせいで、半分になってるんだ。

ううん、半分どころか!

慣れない時代に来てしまったあたしのために、自分の分を減らしてあたしに多くくれてるんだ。


あたし、馬鹿だ。

なんで今まで気づかなかったんだろう。

足らないとか、こんなんでも充分とか、どんだけ上から目線だったんだろう。

不潔だからとか、キモいとか言ってる場合じゃないんだ。


「昇さん、ごめんなさい。あたし、今から生男になるよ」
「弥生……」
「名前の通り、男として生きる」


あたしは昇さんの手にあった靴を両手で受け取って、そう誓った。

降りしきる雨が腐敗の臭いを軽くしてくれている。

軍人さんの服も、軒から落ちる雨で洗うことができた。


「雨でよかったな」
「うん。でもこないだは晴れで良かったって言ってなかった?」
「晴れも雨も善し悪しあるさ。これだけまとまって降っている間は敵も飛んで来ないし、こうして洗濯ができるんだ。今日は雨がいい。お前は運がいいぞ」
「運が良かったらタイムスリップなんかしないよ」
「それもそうだな、ははは」


あたしがぷうと膨れてみせたら、昇さんも声を出して笑った。

昇さんが笑うと、名前の通りおひさまが昇ったみたいに気持ちが晴れになる。

こんなところにタイムスリップしたのは運が悪いのかもしれない。

だけど、ここじゃなきゃ、昇さんには逢えなかったかもしれないんだから、あたしはきっと運がいいんだ。

もう、昇さんじゃない人と出会って、なんて思わない。

あたしは、この時代の、この場所で、昇さんと生きる。


「さて、やるか」
「なにを?」
「仏さんを埋めてやらんと」
「あ、あたしもやる」


雨の中、あたしたちは上屋の脇に穴を掘って、できるだけ丁寧に埋葬した。


「結局、名前はわからないままだね」
「そうだな…背嚢があれば記名のあるものが他にもあるんだけどな。もう持てなくてどこかに置いてきたか、先にここを通った者が持ち去ったか…」
「容赦ないね…。あたしたちが言えた義理じゃないけど」
「皆、生きるのに必死なだけさ。誰も悪くない」
「うん…」


衣服の記名は薄く擦れて読み取れなくて、彼の名前を呼ぶことはできなかった。

それでも、心からの哀悼の意と感謝を込めて、手を合わせた。


ハイノウ、は、話の前後からしてたぶんリュックのことだと思う。

中に身元の分かるものが入っていればなるべく本土に持ち帰りたかったとか、乾パンでも入っていればよかったのにと言っていたから。

あたしと食糧を分けて何日も過ごすのは、やっぱり避けたいんだろうな。


それはそうと…。

人が入るだけの大きさの穴を掘るのは本当に大変で、潮干狩り帰りのあたしはどうしても思い出してしまった。

貝を掘るのをあんなに大変だと思っていたのは、なんだったんだろうって。


潮干狩り…まだ昨日の朝のことなのに、すごく前のことみたいに感じる。

あたしの人生は、昨日を境に大きく変わってしまった。


お父さんお母さんに葉月、晶や玲奈、学校のみんなはどうしてるかな。

もう、会えないかな。

今頃みんなあたしを探してるかな…


そう思ったら、ズキンと胸が痛くなった。

だけどあたしは覚悟を決めたんだ。

だから今は目の前のことだけ考えよう。

改めて心の中でそう誓って、顔を上げた。


「きゃ…っ!」
「あ?」
「なんでっ、そんな恰好…っ」
「ああ、すまない。サッパリしたくてな」


びっくりしたぁ。

昇さんのほうを向いたら、上半身裸になって雨を浴びていた。

男子の上半身なんて別に見慣れてるけど、いきなりだったから。


それに…

すごく引き締まっていて、ホントに男らしいと思った。

学校の男子とは全然違う。


気持ちよさそうに両手でわしゃわしゃと頭をかき回してる腕が、肩が、まるで彫刻みたいに綺麗で。


目が、離せない…


「あー、何日ぶりだろう。やっぱり今日が雨で良かった。お前もどうだ?サッパリするぞ」
「え?無理!」
「ははは。頭だけでも洗っとけ」
「でも、髪乾かないし…」
「坊主頭が何を言ってる」
「あ、そうだった」


ぎゅうっと絞ったタンクトップを開いてパンパンと鳴らしながら水を切ると、昇さんはまだ濡れたままのそれを着て、手拭いで頭や顔を拭きながら空を仰いだ。

空が、さっきまでよりも一段明るくなっていた。


「そろそろ止むかな」
「止みそうだね」
「雨が上がったら、また森にに潜行するぞ」
「うん」


それを聞いて、あたしもまだ濡れたままの靴を履く。

大きいから、マリンシューズを履いたままでその上から。

少し重たいけど、格段に歩きやすそうだと思った。

それから丸4日かけて、あたしたちは昇さんが言っていた湖の西端、ヤコンデまで辿り着いた。

毎日の敵襲、膝まで浸かる河、突然降った雨に湿ったジャングルで火がおこせない夜、先を歩いた人の息絶えた姿を嫌というほどに超えて、やっと。

だけど、見回しても人の気配はなくて、いくつかのグループが暫く留まっていたらしき跡だけがあった。


「ああ…、どうやら先に進んだようだ」
「ごめん…あたしのせいだよね」
「いや、お前はよく頑張ってるよ」


木の枝にメッセージが書かれた紙が刺さってる。

『山路ゲニム向カウ 至急追及セヨ』


「追及って?ゲニムって?」
「追及は追いつけよってことさ。ゲニムは転進中の部隊が一度そこで集合することになってるんだ。その後、更に西へと進んでサルミというところまで行くのが今回の命令なんだよ」
「遠い…?」
「遠いな。サルミまでは300㎞くらいある」
「ええ!そんなに?えっと、うちのあたりから東京までだいたい150㎞だから…軽く往復分!?徒歩で!?」
「ははは。だけどサルミに行けば食糧も潤沢に備わっているというぞ」
「食…」
「それにゲニムまでなら2、30㎞だ。頑張れよ」


もう、あんまり食べるものもないんだよね。

あたしが女だってバレないか心配だけど、早く軍の人たちと合流して補給したい…


「明日の早朝、湖岸で食べられそうなものを探してから出発しよう」
「…うん」
「銃でもあればあの鳥を落とせるかもしれんのにな」
「え…殺しちゃうの?可哀そうだよ」
「ハンバーグも牛を殺して食うんだろ」
「…そう、だけど……」


冗談交じりに、昇さんが言った。

あたしはまだ、自分が暮らしてた生活を基準に考えてるなって、こういうとき思う。

昇さんは、昭和19年だからそうなのか、軍人さんだからなのか、それともこの状況だからなのか、いろんなことにすごくシビアで。

それが生きるためなのは頭では理解してるつもりだけど、どうしても気持ちがついてこない。


夕日が沈んで少しずつ暗くなり始めたジャングルに天幕を張るのは、いまはあたしの仕事だ。

人間、やればできるもんだな、と思った。

テントなんて張ったことなかったけど、3日でだいぶ手際も良くなってきた。

その間に昇さんが火をおこすの。

だけど今日もスコールのせいでジメジメしていて、上手くいかないみたい。

昨日もダメだった。


雨が降れば汗は流せるし喉を潤すこともできる。

とはいっても服が乾かないと体が冷えてくるし、今みたいに火がつかなくてご飯が炊けない。

やっぱり雨は困りものだよ。


乾パンは昨日までで終わってしまった。

缶詰もない。

つまり、今日はご飯を炊けなければ食事抜きってことだ。


今までのあたしなら、一晩くらい夕食抜きでも別に構わないとか言ってたと思う。

でも、毎食が乾パン3個とか、そんな極端なダイエットみたいな状態。


木の根っこ近くに生えてるキノコが美味しそうにみえるくらい、ずっとお腹が空いてる。

だから1食抜きなんて、ちょっと考えたくない事態。


昇さん、頑張って!


「くそっ、今日もダメか…」


昇さんが、がっくりと肩を落とす。

はぁー、ご飯抜きだ…


「食うか?」
「え?あるの?食べ物!」
「いや、あまり勧められたもんじゃないが、食おうと思えば生でも食えるから」


そう言って昇さんがポリポリとお米を生で食べ始めた。

お米、生で食べたらお腹壊すって言われたことあるけど…

昇さんが食べてるのを見ていたら、お腹がきゅーきゅー鳴りだした。


「ちょっとだけ、食べてみる」
「おう。無理すんなよ」


手のひらに、小さな米粒。

口に入れて、奥歯で噛んでみる。


固っ…!

だけど、ここは世界一堅い煎餅だと思って、必死に噛み砕く。

口の中、わずかだけど甘みを感じる。

乾パンもそうだけど、よく噛めばこうして甘みが出てくるの。

いままであたし、小麦とかお米の甘みなんて、気にしたこともなかった。

おかずがある前提で、ご飯は味がないもの、みたいな。

それに…

お米は炊けてるのが当たり前で、家では全部お母さんがしてるし、炊飯器のスイッチ押せば食べられるものだと思ってた。

だけどここでは違う。


火が点かなきゃ炊けないとか、お米を洗う水もないとか、そんなところからもう違う。

当たり前だと思ってたものが、ぜんぜん当たり前じゃなかった。

生き物を殺さなきゃお肉は食べられないとか、煮沸したりしなきゃお水も飲めないとか、そんな当たり前のことも気にしないで、自分がそれをしないで生きてこられたのは、あたしじゃない誰かがそれを代わりにしてくれてるからなんだよね。

ネットがあれば何でも買えるとか、そんなふうに何不自由なく暮らしていられたことのありがたみが、今ならわかる。


ようやくテント張りくらいは出来るようになったけど、便利な生活から放り出されたあたしはあまりにも無知で、無力で、昇さんがいなかったらもうとっくに死んでいたと思う。


「明日は晴れるといいね」
「そうだな」


ポリポリとお米を噛む音と、虫の声が、こだまする夜。

見上げたら、生い茂る大きな樹々のすきまに瞬く星が見えた。