140度の彼方で、きみとあの日 見上げた星空

「はぁ、はぁ…ちょっと…待って」
「大丈夫か?もう少し行ったら、まだ日はあるが今日は休もう」
「う、うん…」

普段だって別に運動してないわけじゃないし、通学だって毎日チャリ通のあたしは、人並みには体力があるほうだと思ってた。

玲奈と東京に遊びに行ったら1日じゅう歩き通しだったりするから、歩くのも全然平気のつもりだった。

なのに。

真っ平に見えてそうでもない土の上を、蒸し暑さの中マリンシューズで何時間も歩き続けるのは、思ってた以上に疲れる。

乾パンだけじゃスタミナがもたないのもあると思う。

水も昇さんが昨日沸かしたものをもう飲み切ってしまって、トイレに困るかもと心配したのにまるで出る気配がない。

きっと汗で、みんな出てしまったんだ。

これって熱中症なるんじゃない?もうなってるかも?っていう状態で、歩き続けてる。

息をして、足を前に出し続けるだけなのに、それが困難になってきてる。

前を歩く昇さんは、大きな荷物を背負って、ショルダーバッグも下げて、腰にもいろいろぶら下げて、そんな重装備でここに来るまでも歩き続けてきてるっていうのに、元気そのものでずんずん進んでく。

対するあたしは、ポケットにスマホが入ってる以外には何も持っていない身軽さで、この有様。

男女差はあると思うけど、軍人さんは鍛え方が違うんだなって、感心する。


それにしても、身長が高いんだな。

足も長い。

なんとなく昔の人って背が低くて短足のイメージがあったから、ちょっと意外。


バサバサバサ!


「ひゃっ」
「鳥だよ。心配ない」


木の上で音がして、敵でも潜んでたのかと焦った。


「わ、すごい…」
「空が静かになると、出てくるんだ。この辺りは特に多い。湖の側だからかもな」


見上げたら、熱帯植物園の鳥舎かと思うほどの絶景だった。

木々にとまる、カラフルな鳥たち。

まるでフルーツみたいに、宝石みたいに。


そうか、熱帯、ってこの辺りのことだもんね。

自然の中に、普通にいるんだ。

動物園とかペットショップにいるのが普通だと思ってた。

っていうより、もともとは野生動物なんだってこと、考えたこともなかった。


「きれー…」
「女は派手なものが好きなのは今も未来も一緒なんだな」
「今も?」


ずきん。

昇さんがいう、「今」の女って…

あたしはもう、このほんの少しの間に、昇さんを意識しだしてる自覚がある。


たぶん、好きに、なってしまってる。


優しくて、逞しくて、自分だって大変なのに冗談を言って笑わせてくれるこの人を、好きになるなと言われたらそれは無理だと思う。

だけど、あたしより歳も上っぽくて、もしかしたら日本に奥さんがいたっておかしくない。

そしたら、諦めるしか、ない…


あたしは昇さんの次の言葉を、息を止めて待っていた。
「お前、歳はいくつだ?」
「じゅ、17」
「そうか。照子より上だな」


 ゴクリ。乾いてあんまり出ない唾を飲んで、喉が鳴る。照子さんか……。


「まだ12かそこらの子供のくせに、モガに憧れてな。赤い靴と帽子が欲しいって親にせがんでたりしてたよ」
「ふうん…」


 12歳……ってことはまだ子供だよね。モガっていったら、まだ着物ばっかりのこの時代で洋服を着る女の人のことだよね。おしゃれが好きな子なんだな。妹さんとかかな? それを聞いたあたしは、ホッと胸をなでおろす。


「……もう、15になるかな。歳は8つ離れているが幼なじみでね、兄妹みたいに育ったんだ」
「そう、なん、だ」


 ずきん。収まりかけた胸の痛みがぶり返して、キリキリと締め付けるような痛みに変わる。昇さんは8つ上ってことは23歳……オトナの男の人だ……。


「どうしているかなぁ。弥生みたいに、髪が伸びているかもな」
「もしかして、好きだったりした?」


 懐かしそうに目を細めて話す昇さんを見ていたら、つい、からかうように茶化して訊いてしまった。訊きたい、でも聞きたくない、そんな質問なのに。


「どうかな? 今にして思えばそんなような気もしないでもないけどな。でも、俺の知ってる照子は12歳のままだから、やっぱり妹だな」
「そ、か。元気にしてるといいね」
「そうだなぁ。皆、達者にしてるといいが……本土もあちこちやられてると聞くからなぁ」
「…………」


 本土、つまり日本も、この戦争で攻撃を受けていたんだよね。


「なあ、本土は、無事か?」
「う、うん! 少しはいろいろあったみたいだけど
「そうか、なら安心だな」


 あたしは、戦争の詳しいことなんて知らない。だけど、映画になっているだけでも、東京や広島、長崎、沖縄…って、いろんなところが辛い目に遭っていることは知っている。きっとそういう題材になっていないところだって、相当な被害があったと思う。

 だけど、今の昇さんには、言ってはいけないような気がして、また嘘をついた。
 それから、歩きながら地元トークをたくさんした。会話があると、ないより疲れを感じない気がして、気が付いたら空が暗くなりだしている。いつのまにか結構な時間が過ぎてたんだ……。

 暑さもだいぶマシになってきていて、そのせいかさっきまでより体が軽い。


「軍にはな、独特の言葉遣いがあるんだ」
「あ、わかるよ! 『自分は、特攻隊に志願するであります!』とか言うんでしょ」
「あはは。少し変だけど、そうそう、そういう風だよ。そういえば、前に言っていたジエイ隊やそのトッコウ隊というのはどういう?」


 昇さん、自衛隊はともかく、特攻隊を知らない? もしかしてまだこの時代にはなかったのかも……。あたしは自分で自分の戦争知識の曖昧さに呆れた。

 しかも面白がられちゃって、こういう時に出す話題じゃなかったって凄い反省。あたしの馬鹿……。


「特攻隊は確か『特別攻撃隊』っていうのの略でね」
「ああ、潜航艇の事か。聞いたことがある」
「んー、それもあるけど。それって潜水艦でしょ?」
「未来ではそう呼ぶのか。潜って進む船のことだろ」
「うん。で、あたしが言ったのは戦闘機だよ。飛行機が爆弾と片道燃料を積んで敵の船に体当たりするの」
「そんなバカな……。爆撃機を使い捨てにするなんてあり得ない」
「それがあったんだよ。この作戦は日本が」
「日本が?」


 もう優秀な操縦士も充分な燃料もなくて、って言いそうになって、慌てて口をつぐむ。

 負けたって、わかってしまう。


「この無茶めの作戦で日本が勝ったんだよ。今の時点だとまだ行われてないのかも」
「そうか……楽には勝たせてもらえないんだな、体当たり前提で飛ぶなんて」


 昇さんの表情は、もう暗くてよく見えない。だけど、それまでの明るいトーンの声じゃなくて。

 木の上の鳥たちも巣に帰ったのか、静まり返る森の中で昇さんの声が重く響いた。
 日が暮れて、足元はもうほとんど見えない。昼間はあんなに暑かったけど、だんだんひんやりとしてきた。

 鳥も敵機も飛ばない静かな空のかわりに、今度は地面が騒がしくなっている。たぶん、鈴虫みたいな虫とか、カエル。鳴き声に涼しさ、この感じ、地元と似てるかも。

 夏になると「熱帯夜、熱帯夜」と繰り返すテレビに違和感しかなかった。テレビ局がある東京は、夜も暑いらしい。だけどうちのあたりは、夜になれば寒いくらいの日だってある。

 真夏に毛布を被って寝ることがあるのを、東京から来た先生が寒くて驚いたと言っていたのを思い出した。ここは、その感じと似てる。


「なんだかんだで暗くなるまでよく歩いたな」
「あ、うん、でももう無理…寒いし」
「本当は岩場のほうがいいんだが…この辺りにはなさそうだ。仕方ない、今夜はここで休もう」
「ん…」


 昇さんが荷を解いて地面に固い布を敷いた。


「天幕を張るから、少し手伝ってくれるか」
「うん?」


 返事はしたものの、天幕が何のことかわからなかった。だけど手慣れた様子で杭を打っていく昇さんを見て、テントのことだとわかった。いまさっき敷いた布がそれだ。

 布は半分に折ってあり、その上側だけを持ち上げて屋根にした。細長くてトンネルみたいだ。

 天幕をピンと張ると、何もなかった空間が一気に人間らしい居場所になった。

「これでよし、と」


 そのあとは毛布をそこに敷いてくれて、座るよう促された。あたしはそこで昇さんが食事の用意をするのを見ているだけという、なんとも情けない女子力の低さ。

 こういう場所だと、料理も女子力というより人間力かな。可愛らしいお弁当を作ってアピるようなチャンスは、まずやってはこなそうだ。


「今日は天気が良かったから助かった」
「でも倒れそうなくらい暑かったよ?」
「雨だと、火が付かないだろう?飯だけじゃなく明日の飲み水も作れないんだぞ」
「あ、そっか」
「未来は、暮らしやすそうだな」
「ん?まあそうだけどなんで?」
「お前みたいなのが暮らせるんだもんな」
「う」
「冗談だよ。面白い顔すんだなぁ」


 昇さんがあたしをからかいながら、集めた枯れ枝の上に飯盒を掛けた。手際よく火をおこすとあっという間に火が大きくなる。炎に照らされた昇さんの顔が、柔らかく微笑んでいた。


「じきに食えるからな」
「うん」


 虫たちの声と、炎がパチパチと枝を焼く音が耳に心地いい。昇さんと一緒なら、こんな野宿だって、なんだかワクワクするよ。

 ご飯の炊ける匂いが、今日の疲れを吹き飛ばしてくれる感じがした。みそ煮缶と一緒に炊いているから、甘い味噌の香りが鼻をくすぐる。


「もういい頃だな。蒸気が熱いから顔をひっこめろよ」
「あ、うんっ」


 匂いにつられてテントから出たあたしは、少し火の側に近寄りすぎてたみたい。意地汚いと思われたかな? 恥ずかしい……。


「わあ…」
「上出来だ」


 蓋をあけたら、魚と味噌で炊けたご飯のいい匂いが一気に立ち上った。お昼が乾パンちょこっとだけだったから、たったこれだけでもすごいご馳走に感じる。昇さんが蓋によそってくれた。


「ありがとう! いただきます」
「まだ蓋も熱いから気を付けろよ」
「ほんとだ、でも持てるから大丈夫」
「汁も漬物もなくて悪いな」
「未来の若者は汁とか漬物あんまり食べないから問題ナシ!」
「そうなのか? じゃあどんなものを食ってるんだ」


 不思議そうに訊いてくる昇さんは、やっぱり昔の人で。

 普通の満足な食事といったら、旅館の朝ごはんみたいな『味噌汁、漬物、焼魚、卵、海苔、ご飯』って感じかな。

 あたしといえば朝はバナナだし、卵かけご飯だけとか、トーストだけ、みたいなのも慣れてるから、この食事でも普通に満足だ。


「こういうのも普通に食べるよ。あっためてもいないサバ缶をご飯にかけるだけとか、あるある。うーん、未来っぽいのでいったら、ハンバーグとかコロッケ、カレーライスとか?」
「それなら別に未来ぽくもないぞ? 家では食べたことがないが洋食屋でならあるからな」
「あそっか、洋食屋かぁ。じゃあ意外とそんなに変わらないかも」
「まあそれでもそれを家で食うのが普通っていうのが未来だな」
「そうかも。あ、レトルトとかコンビニ、マックとかスタバなら絶対に未来っぽいよ」
「なんだそれは?」


 昇さんが空になった飯盒に昼間汲んでた水を入れて沸かしてる。男の人は食べるの早いなぁ。あれが、明日飲めるお水だ……。

 ここの水は沸かさないと病気になって、最悪は死んでしまうらしい。


「レトルトはね、何年も保存できるハンバーグとかカレーがあるんだよ」
「へえ、そいつはすごいな。しかしお前が話すとつくづく英米人みたいだ」
「え? なんで?」
「そんなに敵性語がポンポン出てくるんじゃあ、もしここじゃなくて本土に出てきてたら、その服と併せて非国民まっしぐらだったな」
「敵……、あ、カタカナ語のことかぁ!」


 お腹が膨れて気分がいいのか、さっきまでよりも更に機嫌よさげに昇さんが笑う。

 あたしは昼間言われて謎だった敵セイ語がなんのことかわかって、すごくスッキリした。そういえば映画でもたまに外来語規制してるの、みたことあるな…。


「でもさ、昇さんは普通に乾パンとか言うよね」
「敵性語と言ったってもう浸透してるからなぁ。軍じゃいちいち日本語に直されちゃ仕事にならんよ」
「そっかぁ。あ、カメラもだね」
「ああ、あれは形見なんだよ」
「え……」


そう言ってカメラをカバンから取り出すと、昇さんはそれを思い出深そうに手で抱えながら膝に乗せて話しはじめた。

カメラは、ホルランヂヤでお世話になった人のものらしい。

一緒にいたところで戦闘機に攻撃されて亡くなってしまったそう。


「撮ってばかりだからと、俺が無理やりカメラを取り上げて撮った笑顔が最期になった」


それから昇さんは目頭を押さえて、しばらく黙ったまま俯いていた。

それって昇さんの目の前で、ってことだよね…

辛すぎる…


「このカメラは軍の記録用だけど、俺は仲間たちの写真をたくさん撮って帰りたいと思ったんだ。縁起でもないが、写真1枚残さず死んでいくなんてそのほうがよっぽど酷い話だろ。生きてりゃ、あんときは苦労したなと酒の肴になるんだから」


そう言って、ニカっと子供みたいに笑った。


「そうだね、写真って、あとで見るとすごく楽しいよね」
「だろ?」
「あたしも撮ってよ?」
「もう、全部撮り終わってるんだ。すまんな。海でお前を撮ったのが最後だったと思う」


昇さんはカメラの蓋を開けると、単一電池みたいな円筒状のものを取り出して手渡してくれた。


「え、これ何?」
「フィルムさ。未来にはないのか?ははは。さて、と。腹がまた減らないうちに寝るぞ。夜が明けたら出発だからな」
「え、あ、うん…と」
「ん?ああそうか」


二人で腰かけている毛布は1枚。

しかも、シングルサイズくらい。

あたしはこの急な展開に思いっきりわかりやすく動揺してしまっている。


顔が熱い。

あたし今、絶対に真っ赤だ。

うわーん、意識しちゃってるの、バレバレだよ…

昇さんは、そんなあたしを見てふんわりと笑ってる。


お…大人の微笑み…


「心配するな。何もしないから」
「あの、でも…」
「嫁入り前のお嬢さんに手を出すような男にみえるか?」
「う、ううん!そんな!」


スパイ容疑の時は怖かったけど、女の子を無理やりどうにかするような人じゃないのはわかる。

あたしは大きく首を横に振って否定した。


「狭くてすまないな」
「ううん!だってあたしが何も持ってないせいだから」
「過去に飛ばされるなんて非常事態に備えてる奴なんておらんだろう、気にするな」



畳1枚くらいのスペースに、ふたりっきり。

意識するなというほうが無理だ。

あたしは全然寝れなくて、寝息を立て始めた昇さんにため息をつく。


「ちょっとは意識してよ…女の子とふたりきりなんだよ」


当然、返事が返ってくることなんかなくて、ふて寝するしかないあたしも目を瞑った。

フィルム、返し損ねちゃった。

朝になったら返そう。



……

足がムズムズする…

腕もこそばゆい…


ほとんど無意識にその場所を手で払って、最初は気のせいだと思ってた。

でもやっぱり違和感は拭えなくて。

ついには、それが顔の上で起きた時、肌を伝う感覚と払った手に答えを確信してしまった。


「きゃぁっ!」
「どうした?」


あたしの声で昇さんがガバっと起きて、険しい顔を向ける。


「む、虫が体の上に…顔にも来て、無理無理無理」
「なんだ、虫か。マラリアや刺されると腫れるのもいるがもう諦めろ」
「無理!キモい!寝らんない…」


見るのも嫌というほどではないし、家でだって虫が出ても一番騒ぐのはお母さんだ。

だけど顔に来るとかは絶対無理!


「仕方ないな…おいで」
「えっ…」


ふわり。

両脇を抱えられたと思ったら、その瞬間、あたしはゴロリと仰向けになった昇さんに被さるように乗っけられてしまった。

待って、ほんと待って。

こんなの、無理!

虫も無理だけどコレも無理!

心臓が爆発しそうだよ!

恥ずかしすぎて死んじゃう…


「これなら平気だろ」
「えっ、でも」
「じゃあ降りて寝るか?」


顔、超近いよ。

そんな優しい顔しないで。

ドキドキが、身体じゅうを駆け巡って、熱い。


あたしが今めちゃめちゃドキドキしてること、絶対バレてる。

だってあたしと昇さん、ぴったりくっついてるんだもん。

あたしは精一杯の平静を装って、やっとの言葉を口にした。


「むっ、虫は嫌!でも、あたし重いよ…」
「気にするな、重いくらいのほうが上等な木綿の掛布団みたいでいいさ」
「くっ、また失礼なことをぉ…」
「ははは」


昇さん、絶対あたしで遊んでる…っ!

あたしがこんなに意識してるのに、昇さんは平気な顔。

大人ってずるいよ。


「明日も早いぞ。おやすみ」


そうやって、頭をポンポン。

完全に子供扱いだ。


昇さんの大きな手が、あたしの坊主頭を撫でてる。

まるで子守唄でも歌ってるみたいに。


胸についた耳に、昇さんの鼓動がきこえる。

優しくて、落ち着いた音だ。

だけどあたしは落ち着くどころじゃなくて、ぜんぜん眠れない。


あたしばっかり、どんどん好きになってくよ…



とくん、とくん…

あったかくって、心地いい響きに身を任せる。

ここは、どこ?

まるで雲の上にいるみたいに、体がふわふわする。


「…ろ、弥生、起きろ」
「んん…」


そうか。

夢の中。

この綿菓子みたいな甘くてふわふわの夢から、覚めたくないのに。

呼ばないでよ。

あたしを呼ぶのは誰?


って言っても「弥生」なんていうのは晶くらいだ。

もう、邪魔しないでよね。


「…晶、やめてよ…」
「ったく、何を寝ぼけてるんだ。そろそろ行くぞ、起きろ」
「んあ…、の、昇さん!おはようございます…っ!」


あたしは昇さんが起き上がった勢いで毛布の上に転げ落ちてしまった。


痛ったぁ…

昇さん、せめてもうちょっとゆっくり起きてよ…

なんて、一晩じゅう体に乗せててくれたんだから、そんな贅沢は言ってられない。


だけどあたし、ドキドキして絶対に眠れないって思ってたのに、いつの間にかぐっすり眠ってたんだ。


「あの、昇さん、ありがとう。昇さんは寝苦しくなかった?」
「苦しくはなかったよ。だけどヨダレとイビキがなぁ」
「えっ、本当に?ごごごめんなさいっ!」
「冗談だよ、ははは。ほらこれ」
「あ、いただきます」


結局またからかわれて、朝食に乾パンと金平糖をもらった。

昇さんに教えてもらいながら天幕を畳んで、毛布も土を払って畳み、昇さんがそれをリュックにセットし終わると、あたしたちは歩き始めた。

スマホを見ると、まだ朝の5時にもなっていない。

そうだ。

スマホのバッテリーが切れないように電源は切っておこう。


夜のうちに雨が降ったのか、それとも朝露か、土や草が濡れていてジメジメしてる。

ひざ下がガラ空きのこの格好では、足が無防備すぎるんだ。

昨日歩いたときに出来た細かい傷が痛痒いのに、そこに濡れた草が貼りついて、更に痒い。


「長いジャージにしとけばよかった…」
「…そうだな。ジャングルの中より湖岸を歩いてみよう。そのほうがありそうだ。敵が来るかもしれないから、慎重にいくぞ」
「う、うん」


ありそう、って何がだろう。

でもそれより。

敵、と言われて心臓が跳ねた。

湖岸のほうが危ないけど歩きやすいってことなのかな。

言われるまま、あたしは昇さんに従った。


30分くらい歩いた頃、あたしたちは湖岸に面して開けた一帯に出た。


「ああ、畑が荒らされてる。このあたりを通ったようだ」
「みんな先に行ったの?」
「だと、いいがな」


警戒して険しい表情で早歩きする昇さんのあとを必死でついていく。

辺りを見回す余裕はなくて、あたしはもう走るみたいになっていた。

それなのに突然、昇さんの足が止まる。


「わぁっ」
「シッ、黙って」


昇さんの背中にぶつかりそうになって思わず声が出たのを、昇さんが振り向いてたしなめる。


「人がいる。ほらあそこ」
「ほんとだ」
「様子を見てくるから、少し隠れてて」
「えっ、怖いよ、あたしも行く」
「…気をつけろよ」
「うん」


行くのも怖いけど、置いて行かれる方がもっと怖い。

そう思って、あたしはそのままついていくことにした。

人気のない荒れた畑の隅に、木造のバス停みたいな小さな上屋があった。

そこにもたれかかるようにして軍服の男の人が座っているのが見える。


「あの人!日本軍の人!?」
「そのようだ」
「寝てる?具合でも悪いのかな?」
「…………」


何も言わない昇さんの様子が気になったけど、あたしは味方を見つけた気持ちでテンションが一気に高まっていくのがわかった。


「行くな!」
「えっ」


はやる気持ちが抑えられなくて、足早になっていたあたしを昇さんが止めた。

そうだった。

あたし、この格好のまま他の軍人さんに見つかったらマズいんだった。


昇さんの後ろに戻り、隠れるようにゆっくりとついてゆく。



だけど。

その人に近づくにつれて、異様な臭いがするのに気づいた。

甘い、独特な臭い。


その臭いで、薄々気付きかけたけど、その時のあたしはまだそれを認めたくなかった。

だから、そのまま足を止めずに近づいた。

だけど。


「ひ…っ!」


その人の顔にはおびただしい数の虫が張り付いていて、くぼんだ目や、半開きの口の中へも虫が出入りしていた。

死んでる!

そう思ったけど、かすかにお腹が動いた。


「昇さん!生きてる!この人、生きてるよ!どうしよう、こんなに虫付いちゃって、助けなきゃ…」
「よせ」
「だって…っ」
「もう死んでる」
「嘘!生きてるよ!今お腹動いたもん、息、してるんだよ!」
「腐ってガスが溜まってるだけだ。それにもし生きてたところで、薬もない。何もしてやれることなんかないんだ」
「そんな…酷いよ、昇さん」
「…なんとでも言え。お前の時代じゃない」
「あ…」


何もしようとしない昇さんに、つい、言ってしまった。

だけど気持ちの持って行き場がなくて、あたしは素直に謝ることもできなかった。

戦争中なのはわかってるけど、あたしだって好きでこんなとこに来たんじゃない。

なんでも揃って医療も充実してる時代に生まれたのだって、あたしが選んで生まれたわけじゃない。

全部、偶然。

だから、昇さんに「お前の時代じゃない」なんて嫌味っぽく言われたことにも、少し、腹が立った。


そんなあたしをよそに、昇さんはその軍人さんに長いこと手を合わせてたけど、それが済んだらその軍人さんの靴を脱がし始めた。

昇さんが触れたことで、軍人さんの体がかすかに揺れた。

その瞬間。


「あっ…嘘…っ」


くぼんだ目から、ドロリと何かがこぼれ落ちた。

一緒にくっついてた小さな虫が、地面を逃げていく。


あれって……

眼球だ………!


どうしよう。

見ちゃった。

すごいもの見ちゃった。


この人、本当に死んでるんだ…


そう思ったとき、またお腹がぐにょりと動くのが見えて、中が腐ってガスが充満しているところを想像してしまって、思わず吐いた。


「う、うぇ……」
「だから待っていろと言ったんだ…」
「だ、だって、うえぇ…っ」


人が死んでるのなんて、初めてみたんだよ。

お葬式とかでならあるけど、座ったまま腐ってるのなんて、普通見る機会なんか絶対ないよ。

無理だ。

こんなとこ、無理。


吐き気は収まったけど、体がぶるぶると震えだして、涙が止まらない。

自分の歯がカチカチと鳴る音を聞きながら、骸骨がカタカタと笑うのが頭に浮かんで、また恐ろしくなった。

死ぬんだ。

人は、死ぬ。

ここにいたらあたしもきっとあんな風に…

そう考えたら、怖くて怖くてしかたがなくなって。

あたしはその場でへたり込んでしまった。