今朝も、空を飛ぶ夢を見た。

 空を飛ぶ夢は、自由への憧れを表している。
 そんな話を聞いたことがある。
 でも、私のそれは違う。
 それは願望などではない、私の記憶なのだ。
 そう、且つての日、私は自分の力で空を飛んでいた。

 *****

 大地に立ち、空を見上げる。
 宙《そら》へ……。そう心に強く念じる。
 体の中に熱い渦が湧きおこる。体が軽くなる。

 次の瞬間、私は空に飛びたつ。全身がGジーを感じる。 
 ビルを飛び越え、地上があっという間に遠ざかっていく。
 鳥たちの傍らを掠め、雲を突き抜け、ジェット旅客機に手を振る。

 眼下に広がる町並み、山や川が箱庭のように見える。
 その景色が、次々に後方に飛び去って行く。
 心が急いている。早く、そこに向かわなければ。
 皆が待っている。私の到着を、皆が心待ちにしている。

 *****

 且つて、これが私の日常だった。
 何故、どうして私は飛べるのか。何のために、飛んでいたのか。
 そして、何時、何があって、飛ぶことを忘れてしまったのか。
 全ては忘却の霧の向こうに消えた。

 けれど、一つだけ覚えている事がある。
 それは、私が空にあるとき、一人ではなかったという事だ。

 でも、私の傍らにいたその人を、私は思い出すことが出来ない。
 私がその人と共に空にあった事実は、忘れ得ぬ想いとして、胸の奥底に刻みつけられているというのに。
 嗚呼、あなたは誰? あなたは何処にいってしまったの?


 これは、私の記憶を辿る、心の旅の物語である。
 一寸先は闇、とはよく言ったものだ。
 こんな瞬間に出くわすなんて、全く思ってもみなかった。

 坂の途中に停車していた自動車が、微かな物音とともにスルスルと動き始める。
 車は グングンと速度を増し、坂道を下る。
 路上の餌を啄んでいた鳥が、ギャーと鳴いて飛び立つ。
 ハッとした時には、車は目と鼻の先だ。

 嗚呼、もう間に合わない。
 咄嗟に手を差し出す。

 そして次の瞬間、私が見た物は……。

 *****

「天は二物を与えず、って言うけどさ。美幸の場合は、全く当てはまらないよね」
「そんなことないよ」
「そんなことあるって! 本と、二物も三物もあるんだから。羨ましい」
「う、うん……」
 シーちゃんに褒め言葉を言われて、私は何と返して良いか分からない。
 正直者のシーちゃんが言う台詞だから、真っ当な誉め言葉には間違いないけれど、
やっぱり、どんな反応をすれば良いのか思いつかない。
「頭が良くて、スポーツも出来て、見た目が良くて、性格が良くて。これで、四物で
しょ。あと、歌が上手くて、絵も上手で……」
 隣を歩くシーちゃんが、指を折って私の美点を数え上げる。
「料理が得意、裁縫が上手、ダンスはプロ級。それと、英語がペラペラ。簡単に十物
いってるじゃん」
「最後のは、十二歳までアメリカで暮らしてたのが理由なんだけど……」
「理由は何でも、凄いよ。(*´Д`)ハァー、そのうちの一つくらい、私に頂戴」
 と大袈裟な溜め息をついてみせる。

 私の名前は天野美幸。
 市内にある高校に通う高校二年生。自分ではごく平凡な女の子と思っている。
 苗字が天野なのに掛けて、『天の恵みを受けて、美しく幸あれ』
 両親が、そんな意味を込めて名付けてくれたのだそうだ。
 自分でも気恥ずかしくなる名前だけど、気に入っている。

 名は体を表すで、私は幾つもの天分に恵まれている。とよく言われる。
 親友のシーちゃんは、私を評して『十物』などと呼ぶけれど、実はそんなに多才な
わけではない。私に才能があるとするならば、それは物事の要点を掴むのが上手、と
いう才能だ。
 勉強でもスポーツでも、こうやれば上手くいくという要点が、自然と汲み取れる。
 分かりやすく言うと、カンが良いとか、要領が良い、ということだ。
 その一方で、私は人との接し方が不得手だ。
 こう書くと、人嫌いの扱いにくい人間と思われるかもしれないが、全くの逆だ。
 私は人が良い。所謂、お人好しだ。
 私は誰かの役にたって、喜んで貰うことが好き。なぜ、そうなったのかは自分でも
良く分からない。両親の育て方が良かったのか、それとも友達に恵まれたのか。
 とにかく、私は人から何かを頼まれたら嫌と言えない。少し無理をしてでも相手の
要望を叶えるように、行動してしまう。
 勉強や運動が上手いのも、周りの人の期待に応えるために、努力を惜しまなかった
からかもしれない。
 そんな私の行動が、性格が良いという評価に繋がっているのだろう。
 美人という荷の重い名誉も、良い人=八方美人という流れから出たのではないかと
思っている。

 私の隣を歩いているのは、親友の海東詩織。私は、シーちゃんと呼んでいる。
 幼稚園の頃の幼馴染。
 私は親の仕事の都合で、小学校時代はアメリカで暮らしていた。
 中学入学時に日本に戻って来たのだが、帰国子女ということで皆に煙たがられた。
 その時、助けてくれたのがシーちゃんだ。それ以来、親友として付き合っている。
 同じ高校に進学して、今年からは同じクラスになった。
 私が一番頼りにしている女の子だ。
「あのぉ。天野先輩」
 シーちゃんと一緒に校門を出て直ぐ、後ろから女の子に声をかけられた。
 振り向くと、うちの高校の一年生が三人立っていた。
 真ん中のセミロングの子が赤い顔でモジモジしており、両サイドの二人が真ん中の
子の脇腹をせっつきながら
「ほら。早く渡しなさいよ」
 と小声で囁く。
 セミロングの子は、紅い顔から更に強い赤外線を発しながら、
「天野先輩。あの、これ受けとって下さい」
 と私に手紙を差し出した。
 私が手紙を受け取ると、三人娘はキャーと奇声を発して、一目散に走り去った。

「また、女の子からラブレター?」とシーちゃん。
「そんなわけじゃ……」と私。
「あれでしょ。私を天野先輩の妹にしてください、ってパターンでしょ」
「……うん。……そうかな」
「で、どうするの?」
「……。別に、断る理由もないから……」
「ええーっ! 美幸、一年女子全員を妹にする気? てか、うちの高校の女子全員を
支配下におくつもり?」
「まさか。皆、友達になるだけだよ」
「ああ、こりゃあなたを巡って戦が起きるわ」とシーちゃんがおどけてみせる。
 私がここで何か言うと、またツッコまれそうなので黙っておくことにしよう。
「まあ、女の子相手じゃ強く言えないからね。男子相手だったら、私の相方の名前を
使って良いからね。大概、それで諦める」とシーちゃん。
『相方』というのは、シーちゃんの男友達(で、たぶん彼氏)の空井晃くんのこと。
 スポーツ万能、成績優秀、精悍なマスクの好男子。
 実家が空手道場をやっていて、高一の時、引ったくりを捕まえて警察から表彰状を
貰っている。
 男子から告白されそうになった場合、私は空井くんに好意を寄せてる風を匂わせる
運びになっている。シーちゃんが編み出した作戦なのだが、効果抜群、大概の男子は
それで諦めてくれる。まあ、シーちゃんにとっては自分達の関係を隠す役にもたって
いるのだけれど。
「よう」
 と男子の声。
「よう」
 とシーちゃんが応える。
 噂をすれば何とやら、空井晃くんだ。

「アッキー、おそーい。何やってたの?」とシーちゃんが頬っぺたを膨らませる。
「また、バレー部に助っ人頼まれた」
「またぁ? もう、いい加減断りなよ」
「ああ。今度の日曜は、バスケ部とバッティングしてるから駄目だって、断った」
「ええーっ。それ初耳。いつバスケ部の助っ人引き受けたのよ」
「今日のお昼休み」
「もぉー!! 私とのデ……、じゃない。アッキーの体が休まらないでしょ」
「俺、体動かしてる方が良いんだ」
「そういう話じゃなくて……。まさか、夏休みも、そんな調子じゃないよね」
「んーん。そうかも」

「えぇーっ! 皆して海行くって言ったじゃん! 花火見に行くって言ったじゃん!
来年は受験で忙しくなるから、この夏休みは一杯思い出作ろうって」
「……。じゃぁ、そうする」
「じゃぁ、って何よ。大体、アッキーはね……」
 シーちゃんとアッキーの微笑ましい掛け合いを、温かな眼差しで見守る。
「あなた達、仲良いね」自然と言葉が口をつく。
 それに対し、シーちゃんの「仲良くない!」とアッキーの「仲良いだろ!」が衝突
して、可笑しな風にハモった。
 睨みあう二人。

 仲裁するように
「アッキー、何でも安請け合いするんじゃなく、もう少しコントロールしてみたら」
 とお節介を焼く。
 すると、それまで睨みあっていた二人が、私に視線を向ける。
「美幸。それ、あなたの事だから。美幸こそ、色んな部の助っ人するのセーブしない
と、自分の時間、なくなるよ」
 あらー。ブーメランだ。ブーメランが返って来た。
 自分の焼いたお節介の火の粉が、自分に降りかかって来た。
「ハハハ」と、笑ってゴマかした。

 まぁ、これが私の普段の日常。
 大学受験まで、一年の猶予を与えられた高校2年生。
 それも夏休み前の、なんとも気楽な毎日を、ここぞとばかり満喫している。
 そんな毎日が、これからもずーっと続くと思っていた。
 今日のこの日を迎えるまでは。