教室に入ると、先客が三人ばかりいた。授業まで、あと30分。この時間ならば、
これが普通だ。静かな環境で勉強したいのか、二人は教科書を出して予習中。一人は
文庫本を読んでいた。
 その読書中の子が、佐藤陸くんである事に、私は気がついた。

 私は彼の席に近づき。
「佐藤くん。おはよう。昨日は災難だったね」と声をかける。
 陸くんはビックリしたように立ち上がり
「おはようございます。あ、天野さん。き、昨日は、あ、ありがとうございました」
と頭を下げた。
 教室で自習中の二人が「何事?」といった感じで私達をみやる。
「そんな大袈裟にしなくて良いから」と苦笑いしながら、陸くんを宥める。

「怪我はなかったの?」
「大丈夫。かすり傷程度」と言いいながら右掌の絆創膏を見せ、
「でも、倒れた拍子に頭を打って脳震盪みたいになっちゃった」と続ける。
 そうか。あの時、倒れた後でボーッとしてたのは、そんな訳だったんだ。
「天野さん。あの時、ずっと僕の側にいてくれたよね。ありがとう」
 陸くんに言われて思い出した。あの時、私はずっと陸くんの手を握ってたんだ。
 その時の手の温もりと湿り気が、鮮やかに蘇る。
 そう言えば、私が男の人の手を握ったのなんて久しぶりだ。
 何だか、顔が少し火照って来た。
「無事で何よりだったね。じゃぁ」と話を切り上げ、自分の席に戻った。