「そうですか。すみませんでした。出直します」と私は、佐藤家を辞そうとする。
「待って、天野さん。あなたと、お話ししたいことがあるの。上がっていって頂戴」
 陸くんのお母さんが、意外な言葉を口にする。
「あの……」私が躊躇する様子を見せると、陸くんのお母さんは
「陸について、お話ししておきたい事があるの」と続けた。

 促されるままに、応接室に通された。
 丁重にお断りをしたにもかかわらず、ジュースが私の前に運ばれた。
 陸くんのお母さんが、私の正面に腰を降ろす。
「天野さん。昨日は、陸が酷い態度でご免なさいね。折角、訪ねて来て貰ったのに」
「いえ、そんな。私が突然、押しかけたのが悪いんです」
「ううん。そんな事ない。あの子、人付き合いが苦手なの。心根は優しいんだけど」
 確かにそうだ。陸くん、口では斜に構えた事を言うけれど、救助活動の間は真摯な
態度で行動している。

「でもね。それには理由があるの」陸くんのお母さんが話を続ける。
「陸はね。記憶喪失なの」
 記憶喪失? 陸くんが?
 全く気付かなかった。普段、接していて、何かが思い出せない素振りなど、見せた
事がなかった。
「記憶喪失……ですか?」
 聞き違いかもしれないと思い、改めて尋ねてみる。
「ええ、そう。でも、普通の記憶喪失とは違うから、見た目では分からないかもしれ
ない」
「……」
「中一の春休みの事だった。何の前触れもなく、急に陸の記憶が無くなったの。それ
も、お友達に関する記憶だけ」