表参道ヒルズにあるレディースの店で、琴美がグレイのカーディガンを試着している。賢介が聞いたこともないブランドの秋の新作だ。マネキンに着せたディスプレイでは地味に思えたが、琴美が着ると別の服のように華やかだ。
「サイズ、ぴったりですねえー」
女性の店員が満面の笑みで勧める。
この日、まさかブランドショップを訪れることになるとは、賢介は考えていなかった。
「欲しいなあー」
琴美が賢介の目を見つめる。琴美のワンピースの胸元は今日も大きく開いている。小柄なので、賢介からはちょうど胸の谷間をのぞく角度だ。
この日は二人で食事をする予定だった。
〈こんばんは。先日、青山のパーティーでお目にかかった琴美です。石神さんのお話、とっても楽しかったです。よかったら、お食事ご一緒できませんか? お返事いただけたらうれしいです〉
この琴美からのメールに賢介は有頂天になった。
翌日の夜、パーティーが開催された結婚式場に併設されたカフェで待ち合わせた。
「ご飯の前にちょっとだけ付き合っていただいていいですか?」
「もちろん」
「気になっているお洋服があるんです。似合うかどうか、お食事の前に石神さんに見てほしいなあ」
賢介は何も疑問を持たずについていった。
琴美の服選びに付き合えばいいのだと思っていたが、どうやら買ってほしいらしい。
「僕が払うの?」
「うん」
琴美ははっきりとうなずく。
賢介は自分の甘さに気づいた。二十八歳の女性が、初対面の五十歳の自分に好意を持つはずがない。疑わなかった自分が情けない。
それでも欲望は消えない。十分に勃たないことに悩んでいるのに、したい。
カーディガンを買ったからといって琴美と付き合えるわけではないだろう。しかし、買わなかったら絶対に関係は進まない。
なにげなく値札を見ると「¥50000」と書かれていた。賢介自身は三万円以上のカーディガンなど着たことがない。しかし、払えない金額ではない。
まっ、いっか……。
下心には勝てなかった。
賢介が冷静さを取り戻したのは、その後の食事中だ。はずまない会話を続けながら、カーディガンを買わされただけなのではないか、とようやく理解した。
やがて、琴美が化粧室へ行くために席を立った。
どこかに電話でもしているのか、なかなか戻らない。この時間が賢介に平常心を取り戻させた。
明らかにカモにされている。
〈このまま食事をして琴美のご機嫌をとっていていいのか?〉
いいはずがない。
しかし、健介には客観的な判断ができない。
そもそも自分を見失っているから、今の状況に置かれているのだ。
〈どうする?〉
パスタを食べる手をとめた。誰かの冷静な判断を仰ぎたい。
〈近藤に電話するか?〉
いや、だめだ。あの男は女にねだられるままなんでもプレゼントしている。適切なアドバイスは期待できない。「同じ立場だったらオレも買うよ」と賢介に同調するだろう。
その時、沙紀の顔が浮かんだ。彼女ならば客観的な立場で意見を言ってくれそうだ。
賢介は周囲の客の迷惑にならないように小声で沙紀に電話をした。CAの沙紀は地上にいるだろうか。しかし、一回のコールではきはきした声が響いた。
「石神君、電話くれるなんてめっずらしいじゃない。沙紀ちゃんに会いたくなっちゃった?」
「そういうわけではないんだけど……」
「相変わらず素直じゃないなあー」
「ちょっと緊急で相談があるんですけれど……」
「今ねえ、福岡のホテルにチェックインしたところなの。お腹ペコペコなの。ご飯行きたいから手短にね」
自分が置かれた状況を賢介は早口で説明した。
「はあああ……」
沙紀がわざとらしいため息をつく。
「これ、やっぱり、カモにされてるんですよね」
「石神君、今から沙紀ちゃんが言うようにして」
「はい……」
「まず、すぐに店を出る」
「はい」
「表参道ヒルズの裏の道まで行って、小学校のあたりで沙紀ちゃんにもう一度電話をする」
「はい」
「では、よーい、スタート!」
沙紀が二階堂美景の口調を真似て号令をかける。
急いで会計をすませて、賢介は沙紀に言われるまま表参道を出て、裏道でもう一度電話をした。
「石神君、バッカじゃないの!」
沙紀の声が耳の奥まで響く。
「そうですよね……」
「おねだりされたものを買えばブスッと刺せると思ったんでしょ?」
「そこまでは……」
「二十代の女が五十歳のオジサンを好きになるわけないじゃない」
「そう、ですよね……」
「まあ、石神君はふつーのオジサンだもんね」
「おっしゃる通り、ふつーのオジサンです」
「ところで、買わされちゃったカーディガンは?」
「持ってる」
「カーディガンをわたさなかっただけよかったとしよう。許すよ」
許す許さないの問題ではないと思ったが、今はとにかく沙紀の意見に従ったほうがよさそうだ。
「サイズは?」
「サイズって?」
「カーディガンのサイズ」
「確認してないけれど、彼女は細くて小柄だから、スモールだと思うけど」
「よし」
その時、沙紀と話している携帯電話にほかからの着信音が鳴った。
「あっ」
賢介の声に沙紀も察した。
「カーディガン女から着信?」
「未登録のナンバーだから、たぶん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
賢介の携帯電話は十二回のコールで留守番電話サービスに切り替わる設定になっている。
「たぶんまたかかってくると思うけど、絶対に出ちゃだめだよ」
「はい。あっ」
そう話している間にもまた同じ番号からかかってきた。
「またかかってきた?」
「うん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
沙紀との電話を切ると、携帯電話の画面に「伝言メッセージ」のアイコンが表示された。賢介はすぐに再生する。
「メッセージを二件お預かりしています。一番目のメッセージを再生します」
受信日時のアナウンスの後に琴美の声が録音されていた。
〈琴美です。石神さん、どちらにいらっしゃいますか? 琴美はまだお店にいるので、戻ってきていただけますか〉
次のメッセージも再生する。
〈琴美です。折り返し電話をいただけますか〉
再生を終えると、もう一件伝言メッセージが追加されていた。
〈琴美です。お店を出たので、お電話ください〉
徐々に声に苛立ちがまじっていく。
再生を終えると、またコール音が鳴った。琴美の番号なので無視する。十二回のコール音で切れて、数分して今度はメールを受信した。
〈琴美です。石神さん、今どこですか? 待ち合わせしましょう〉
賢介はレスポンスのメールを打った。
〈先に店を出てしまいすみません。仕事で緊急事態が起こりました。今日はお目にかかれないと思います。電話にもでられません〉
するとすぐにまたメールが来た。
〈お返事もらえてよかったです。深夜でもいいので、お電話ください〉
それにはレスポンスせず、賢介は自宅に戻った。
「なかなかうまくいかないなあー」
帰宅した賢介は放尿しながら、独り言を吐いた。
下腹部を見ると、朝発見した白毛がけなげに主張していた。やはり一本だけ、黒毛と別の方向に向かっている。
「なかなかうまくいかないなあー」
同じ言葉を今度は白毛に向かって言った。
翌朝目覚めると、琴美からの電話の着信が十二回、メールの受信が三回もあった。
〈カーディガン、次の住所に送っていただけますか〉
最後のメールには琴美が働く店と思われる住所が記されていた。店名は「ジェントル」。ネイルサロンではなくキャバクラかもしれない。
「サイズ、ぴったりですねえー」
女性の店員が満面の笑みで勧める。
この日、まさかブランドショップを訪れることになるとは、賢介は考えていなかった。
「欲しいなあー」
琴美が賢介の目を見つめる。琴美のワンピースの胸元は今日も大きく開いている。小柄なので、賢介からはちょうど胸の谷間をのぞく角度だ。
この日は二人で食事をする予定だった。
〈こんばんは。先日、青山のパーティーでお目にかかった琴美です。石神さんのお話、とっても楽しかったです。よかったら、お食事ご一緒できませんか? お返事いただけたらうれしいです〉
この琴美からのメールに賢介は有頂天になった。
翌日の夜、パーティーが開催された結婚式場に併設されたカフェで待ち合わせた。
「ご飯の前にちょっとだけ付き合っていただいていいですか?」
「もちろん」
「気になっているお洋服があるんです。似合うかどうか、お食事の前に石神さんに見てほしいなあ」
賢介は何も疑問を持たずについていった。
琴美の服選びに付き合えばいいのだと思っていたが、どうやら買ってほしいらしい。
「僕が払うの?」
「うん」
琴美ははっきりとうなずく。
賢介は自分の甘さに気づいた。二十八歳の女性が、初対面の五十歳の自分に好意を持つはずがない。疑わなかった自分が情けない。
それでも欲望は消えない。十分に勃たないことに悩んでいるのに、したい。
カーディガンを買ったからといって琴美と付き合えるわけではないだろう。しかし、買わなかったら絶対に関係は進まない。
なにげなく値札を見ると「¥50000」と書かれていた。賢介自身は三万円以上のカーディガンなど着たことがない。しかし、払えない金額ではない。
まっ、いっか……。
下心には勝てなかった。
賢介が冷静さを取り戻したのは、その後の食事中だ。はずまない会話を続けながら、カーディガンを買わされただけなのではないか、とようやく理解した。
やがて、琴美が化粧室へ行くために席を立った。
どこかに電話でもしているのか、なかなか戻らない。この時間が賢介に平常心を取り戻させた。
明らかにカモにされている。
〈このまま食事をして琴美のご機嫌をとっていていいのか?〉
いいはずがない。
しかし、健介には客観的な判断ができない。
そもそも自分を見失っているから、今の状況に置かれているのだ。
〈どうする?〉
パスタを食べる手をとめた。誰かの冷静な判断を仰ぎたい。
〈近藤に電話するか?〉
いや、だめだ。あの男は女にねだられるままなんでもプレゼントしている。適切なアドバイスは期待できない。「同じ立場だったらオレも買うよ」と賢介に同調するだろう。
その時、沙紀の顔が浮かんだ。彼女ならば客観的な立場で意見を言ってくれそうだ。
賢介は周囲の客の迷惑にならないように小声で沙紀に電話をした。CAの沙紀は地上にいるだろうか。しかし、一回のコールではきはきした声が響いた。
「石神君、電話くれるなんてめっずらしいじゃない。沙紀ちゃんに会いたくなっちゃった?」
「そういうわけではないんだけど……」
「相変わらず素直じゃないなあー」
「ちょっと緊急で相談があるんですけれど……」
「今ねえ、福岡のホテルにチェックインしたところなの。お腹ペコペコなの。ご飯行きたいから手短にね」
自分が置かれた状況を賢介は早口で説明した。
「はあああ……」
沙紀がわざとらしいため息をつく。
「これ、やっぱり、カモにされてるんですよね」
「石神君、今から沙紀ちゃんが言うようにして」
「はい……」
「まず、すぐに店を出る」
「はい」
「表参道ヒルズの裏の道まで行って、小学校のあたりで沙紀ちゃんにもう一度電話をする」
「はい」
「では、よーい、スタート!」
沙紀が二階堂美景の口調を真似て号令をかける。
急いで会計をすませて、賢介は沙紀に言われるまま表参道を出て、裏道でもう一度電話をした。
「石神君、バッカじゃないの!」
沙紀の声が耳の奥まで響く。
「そうですよね……」
「おねだりされたものを買えばブスッと刺せると思ったんでしょ?」
「そこまでは……」
「二十代の女が五十歳のオジサンを好きになるわけないじゃない」
「そう、ですよね……」
「まあ、石神君はふつーのオジサンだもんね」
「おっしゃる通り、ふつーのオジサンです」
「ところで、買わされちゃったカーディガンは?」
「持ってる」
「カーディガンをわたさなかっただけよかったとしよう。許すよ」
許す許さないの問題ではないと思ったが、今はとにかく沙紀の意見に従ったほうがよさそうだ。
「サイズは?」
「サイズって?」
「カーディガンのサイズ」
「確認してないけれど、彼女は細くて小柄だから、スモールだと思うけど」
「よし」
その時、沙紀と話している携帯電話にほかからの着信音が鳴った。
「あっ」
賢介の声に沙紀も察した。
「カーディガン女から着信?」
「未登録のナンバーだから、たぶん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
賢介の携帯電話は十二回のコールで留守番電話サービスに切り替わる設定になっている。
「たぶんまたかかってくると思うけど、絶対に出ちゃだめだよ」
「はい。あっ」
そう話している間にもまた同じ番号からかかってきた。
「またかかってきた?」
「うん」
「出ちゃだめだよ」
「はい」
沙紀との電話を切ると、携帯電話の画面に「伝言メッセージ」のアイコンが表示された。賢介はすぐに再生する。
「メッセージを二件お預かりしています。一番目のメッセージを再生します」
受信日時のアナウンスの後に琴美の声が録音されていた。
〈琴美です。石神さん、どちらにいらっしゃいますか? 琴美はまだお店にいるので、戻ってきていただけますか〉
次のメッセージも再生する。
〈琴美です。折り返し電話をいただけますか〉
再生を終えると、もう一件伝言メッセージが追加されていた。
〈琴美です。お店を出たので、お電話ください〉
徐々に声に苛立ちがまじっていく。
再生を終えると、またコール音が鳴った。琴美の番号なので無視する。十二回のコール音で切れて、数分して今度はメールを受信した。
〈琴美です。石神さん、今どこですか? 待ち合わせしましょう〉
賢介はレスポンスのメールを打った。
〈先に店を出てしまいすみません。仕事で緊急事態が起こりました。今日はお目にかかれないと思います。電話にもでられません〉
するとすぐにまたメールが来た。
〈お返事もらえてよかったです。深夜でもいいので、お電話ください〉
それにはレスポンスせず、賢介は自宅に戻った。
「なかなかうまくいかないなあー」
帰宅した賢介は放尿しながら、独り言を吐いた。
下腹部を見ると、朝発見した白毛がけなげに主張していた。やはり一本だけ、黒毛と別の方向に向かっている。
「なかなかうまくいかないなあー」
同じ言葉を今度は白毛に向かって言った。
翌朝目覚めると、琴美からの電話の着信が十二回、メールの受信が三回もあった。
〈カーディガン、次の住所に送っていただけますか〉
最後のメールには琴美が働く店と思われる住所が記されていた。店名は「ジェントル」。ネイルサロンではなくキャバクラかもしれない。