「三十二秒三。タイム、落ちたよ!」
プールサイドで圭美が叫ぶ。
午前の練習メニュー、二十本五セットのインターバルの三セット目のラスト一本を泳ぎ、壁にタッチした時だった。
「もう少し小さい声で頼むよ。青木先輩に聞こえるだろ」
水の中で、肩で息をしながら僕は小声で抗議した。
「聞こえたら困るタイムなの?」
真っ白いTシャツからのぞく圭美の細い腕はさらに黒くなった。肌の色だけは選手と区別がつかない。ざっくりとしたU字型のネックから、下に着ている濃紺の水着の紐がのぞいている。
「あのさあ、言っておくけど、オレ、力を抜いているわけじゃないから」
「わかってるわよ」
「そう?」
僕がチームと別練習になってから、圭美の言葉は日に日に厳しさを増している。
「力を抜いてはいないけど、セーヴはしているでしょ? 朝から全力で泳いだら、体力が午後までもつか、そんなに心配?」
いらっとした。図星だったからだ。夕方まで練習が続くことを考えると、朝から全力でいくわけにはいかない。
「なんか、知ったようなこと言うじゃない」
「入部したてのマネージャーなんかに言われたくない?」
「そんなつもりはないけど……」
「私にはそう聞こえる。毎日夕方まで泳いでいる選手はえらい。泳いでいないやつにさしずされたくない」
選手はマネージャーよりもえらいと思っている、という指摘も図星だった。ただし、意識してはいなかった。圭美に言われて自分の気持ちに気づいたのだ。
「わかったよ。オレがわるかった」
素直に謝った。圭美の指摘が的を射ていたこともあるが、練習以外で自分を消耗したくもなかった。
「ごめん。私も言い過ぎたわ。実際、くたくたになるまで泳いでいるのは石神君たちだもんね」
しかし、なぜ、圭美はこれほど真剣なのか――。そもそも、なぜ、圭美は水泳部のマネージャーになったのか――。
僕の中に疑問はくすぶっていた。
「一コースは毎日白熱していますなあー」
午前の練習が終わり、食事をすませてプールサイドに寝転がっていると、野波がちゃかしにきた。
「別にけんかしてるわけじゃないよ」
僕は不機嫌な声で答えた。
第一コースでの圭美とのやり取りを離れた第六コースで泳いでいる野波がからかいにくるということは、ほとんどの部員は僕たちの小さないさかいに気づいているだろう。示しがつかないので、後輩たちにはあまり聞かれたくない。
「オレたちがどれほどきつい練習をしているか、マネージャーにもわかってほしいもんだね」
野波も横に並んで寝そべった。
「でも、しかたないよ。逆の立場になって考えると、自分じゃないだれかのために、クソ暑い夏休みに毎日学校に通うなんてオレにはできない」
「確かにその通りだけどな」
ひと呼吸おき、野波は続けて訊いてきた。
「それで、石神、調子はどうなんだ?」
「ほとんど変わらないさ。ただ、オレ達、練習量も疲労もピークだろ。それでもタイムが落ちていないから、もしかしたら泳ぎはよくなっているのかもしれない。希望的観測だけどね。野波はどう?」
「青木先輩から、明日からはクロール中心の練習にする、と言われたよ」
「そうか……」
「覚悟は決めたよ」
野波の専門は平泳ぎだが、その個人種目では全国大会へは進めそうにない。しかし、自由形のリレーはまだ可能性がある。
「平泳ぎは?」
「一〇〇にしぼって試合には出たい。一年からずっとやってきた種目だからね。最後の都大会では、なんとしても自己ベストで泳ぎたい。でも、全国大会に行くには、オレにはもう伸び代はない気がする」
野波は無念そうな表情を見せた。
「もう少し続けてみたらどうだ」
「津村と並んで練習してあきらめはついたよ。あいつ、体は細いけれど、筋肉の質は抜群だ。膝と足首の関節もものすごく軟らかい。かかとを尻にピタッと付くまで引きつけて、そこからポーンとしなやかに水を蹴る。あんなキック、オレには無理だ。フォームに無駄がなくて、水の抵抗が少ないからぐんぐん進む。オレは明日から、クロール中心でやるよ。自由形のリレーで全国大会へは行きたい」
「クロールはこれまで練習してこなかった分伸びるかもしれないけど」
「だから、一コースで泳いでいるお前の調子は気になるわけだ」
野波がこちらをさぐるような視線を向けた。
「それで、オレと星野のやり取りも見ていたのか」
「オレだけじゃないよ。堀内もお前のこと、すごく気にしている。津村だって、黙っているけれど、気になっているさ」
その時、女子の部室からプールサイドへ誰かが上がってきた。逆光で顔がよく見えない。細い肩。ベルトでキュッとしめたような腰。明らかに選手の体系ではない。濃紺の競泳用水着を着た圭美のシルエットだった。
「泳ぐの?」
寝転がったまま声をかけると、圭美はちょっとバツの悪そうな表情でうなずいた。彼女がプールに入るのはおそらく初めてだ。
圭美のことを僕はやせた女の子だと思い込んでいた。プールサイドでの彼女はいつも水着の上にTシャツと短パンを身につけていたが、そこから伸びる手足がすらりと長かったからだ。しかし、胸も腰も豊かに水着を押し上げていた。
「選手が休んでいる時間に少しだけ水に入らせてもらおうかと思って」
プールに圭美がゆっくりと脚を入れる。
「泳げるの?」
からかってみたくなった。
「石神君、私のこと、ばかにしてる?」
圭美は温泉につかるようにプールに体を沈めていった。
「いつものお礼に、オレがタイムを計ってやろうか?」
「けっこうです」
こちらをにらむと、プールの壁を蹴った。ゆっくりとしたストロークで、クロールを泳ぎ始める。どこかで習ったのか。スピードはないが、無駄のないきれいなフォームだ。
圭美の水着は濡れると色が変わる。体が美しい光沢をもち、陽の光をはじく。
「星野、気が強いよなあ」
泳ぐ圭美を野波が目で追う。
「気の強い女、野波、好きだろ」
「まあ、そうだけど、あの女はちょっと……」
「ちょっとって?」
「石神、知らないのか? 星野は弥生高の木下さんと付き合ってたらしいぜ」
同じ学区の弥生高は同じ地下鉄丸ノ内線沿線にある都立の名門進学校だ。木下はその水泳部の二学年上で、バタフライの選手だった。阿佐高の先輩、青木と同じ学年だ。
木下は一九〇センチ近い長身を生かしたダイナミックな泳ぎで、一〇〇メートルも二〇〇メートルも速く、特に一〇〇は東京都で優勝し、全国大会でも三位で表彰された。高校卒業後は現役で一橋大学経済学部に合格した。大学に入ると、選手としての競泳はきっぱりとやめて、弥生高水泳部でコーチをしている。
「野波、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「弥生高水泳部のOBにオレの中学時代の先輩がいて、木下さんと同期だったんだ。その人から聞いた。秋吉も知っていると思う。木下さんは秋吉と同じ中学で水泳部の先輩だからね。星野、木下さんと付き合っていたなら、同じ歳のオレ達なんて、子どもにしか見えないだろうな」
圭美が入部した日の秋吉のとまどった様子を思い出した。
目の前のプールでは、圭美がクロールを泳いでいる。二五メートルまで行きつくと、大きく弧を描くターンで折り返した。圭美の体はすでに大人の恋愛を知っているのだろうか。僕は息苦しさを覚えた。
「なんで木下さんと別れたんだ?」
「詳しいことは知らないけど、木下さん、女関係のうわさがたくさんあるからな。今は弥生高の二〇〇個メの岡林と付き合っているらしい」
岡林は三年生で秋吉のライバルだ。一七〇センチを超える長身の選手である。二〇〇メートル個人メドレーのほかに、平泳ぎも速い。ウェイヴのかかった長い髪と大人びた顔立ちで、私服姿は高校生とは思えない。
「木下さんって、相手が高校生でもやっちゃうのかな」
野波が好色な表情をこちらに向けた。
僕の頭の中に裸の圭美が木下の大きな体に抱きすくめられる姿が浮かぶ。猛烈な嫉妬心がわき、自分でも驚いた。
「星野が水泳部に入ったのは、木下さんとのことと関係があるのかな?」
頭に浮かんだ妄想を必死に打ち消し、野波に訊く。
「まあ、何の理由もなく、三年生で水泳部のマネージャーになるわけがないよな。星野のほうは、まだ好きなんじゃないかな。うちと弥生高は代々交流がある。練習試合も合同練習もやる。水泳部に入れば、間違いなく木下さんと会う」
「来週、弥生高で試合だよな?」
「ああ。あそこの四〇〇メートルリレーはオレ達より少し速い。全国大会へ行かれるかどうか、目安としてはいい相手だ」
弥生高とは、翌週、練習試合を予定していた。八月の初め、宮前高、弥生高という二大名門校になぜか阿佐高が加わった三校の練習試合は毎年恒例になっていた。
試合といっても、戦うモードではない。近い学校同士、親しい同士の合同記録会の雰囲気だ。
「競るかな?」
「競るだろうな……」
「野波、頼むぜ」
野波は競り勝ったことが一度もない。
「なあ、石神、オレはいつからか自分は競ったら負けると決めつけていた。でも、今シーズンは勝つよ。オレ達にとって最後だからな」
プールサイドで圭美が叫ぶ。
午前の練習メニュー、二十本五セットのインターバルの三セット目のラスト一本を泳ぎ、壁にタッチした時だった。
「もう少し小さい声で頼むよ。青木先輩に聞こえるだろ」
水の中で、肩で息をしながら僕は小声で抗議した。
「聞こえたら困るタイムなの?」
真っ白いTシャツからのぞく圭美の細い腕はさらに黒くなった。肌の色だけは選手と区別がつかない。ざっくりとしたU字型のネックから、下に着ている濃紺の水着の紐がのぞいている。
「あのさあ、言っておくけど、オレ、力を抜いているわけじゃないから」
「わかってるわよ」
「そう?」
僕がチームと別練習になってから、圭美の言葉は日に日に厳しさを増している。
「力を抜いてはいないけど、セーヴはしているでしょ? 朝から全力で泳いだら、体力が午後までもつか、そんなに心配?」
いらっとした。図星だったからだ。夕方まで練習が続くことを考えると、朝から全力でいくわけにはいかない。
「なんか、知ったようなこと言うじゃない」
「入部したてのマネージャーなんかに言われたくない?」
「そんなつもりはないけど……」
「私にはそう聞こえる。毎日夕方まで泳いでいる選手はえらい。泳いでいないやつにさしずされたくない」
選手はマネージャーよりもえらいと思っている、という指摘も図星だった。ただし、意識してはいなかった。圭美に言われて自分の気持ちに気づいたのだ。
「わかったよ。オレがわるかった」
素直に謝った。圭美の指摘が的を射ていたこともあるが、練習以外で自分を消耗したくもなかった。
「ごめん。私も言い過ぎたわ。実際、くたくたになるまで泳いでいるのは石神君たちだもんね」
しかし、なぜ、圭美はこれほど真剣なのか――。そもそも、なぜ、圭美は水泳部のマネージャーになったのか――。
僕の中に疑問はくすぶっていた。
「一コースは毎日白熱していますなあー」
午前の練習が終わり、食事をすませてプールサイドに寝転がっていると、野波がちゃかしにきた。
「別にけんかしてるわけじゃないよ」
僕は不機嫌な声で答えた。
第一コースでの圭美とのやり取りを離れた第六コースで泳いでいる野波がからかいにくるということは、ほとんどの部員は僕たちの小さないさかいに気づいているだろう。示しがつかないので、後輩たちにはあまり聞かれたくない。
「オレたちがどれほどきつい練習をしているか、マネージャーにもわかってほしいもんだね」
野波も横に並んで寝そべった。
「でも、しかたないよ。逆の立場になって考えると、自分じゃないだれかのために、クソ暑い夏休みに毎日学校に通うなんてオレにはできない」
「確かにその通りだけどな」
ひと呼吸おき、野波は続けて訊いてきた。
「それで、石神、調子はどうなんだ?」
「ほとんど変わらないさ。ただ、オレ達、練習量も疲労もピークだろ。それでもタイムが落ちていないから、もしかしたら泳ぎはよくなっているのかもしれない。希望的観測だけどね。野波はどう?」
「青木先輩から、明日からはクロール中心の練習にする、と言われたよ」
「そうか……」
「覚悟は決めたよ」
野波の専門は平泳ぎだが、その個人種目では全国大会へは進めそうにない。しかし、自由形のリレーはまだ可能性がある。
「平泳ぎは?」
「一〇〇にしぼって試合には出たい。一年からずっとやってきた種目だからね。最後の都大会では、なんとしても自己ベストで泳ぎたい。でも、全国大会に行くには、オレにはもう伸び代はない気がする」
野波は無念そうな表情を見せた。
「もう少し続けてみたらどうだ」
「津村と並んで練習してあきらめはついたよ。あいつ、体は細いけれど、筋肉の質は抜群だ。膝と足首の関節もものすごく軟らかい。かかとを尻にピタッと付くまで引きつけて、そこからポーンとしなやかに水を蹴る。あんなキック、オレには無理だ。フォームに無駄がなくて、水の抵抗が少ないからぐんぐん進む。オレは明日から、クロール中心でやるよ。自由形のリレーで全国大会へは行きたい」
「クロールはこれまで練習してこなかった分伸びるかもしれないけど」
「だから、一コースで泳いでいるお前の調子は気になるわけだ」
野波がこちらをさぐるような視線を向けた。
「それで、オレと星野のやり取りも見ていたのか」
「オレだけじゃないよ。堀内もお前のこと、すごく気にしている。津村だって、黙っているけれど、気になっているさ」
その時、女子の部室からプールサイドへ誰かが上がってきた。逆光で顔がよく見えない。細い肩。ベルトでキュッとしめたような腰。明らかに選手の体系ではない。濃紺の競泳用水着を着た圭美のシルエットだった。
「泳ぐの?」
寝転がったまま声をかけると、圭美はちょっとバツの悪そうな表情でうなずいた。彼女がプールに入るのはおそらく初めてだ。
圭美のことを僕はやせた女の子だと思い込んでいた。プールサイドでの彼女はいつも水着の上にTシャツと短パンを身につけていたが、そこから伸びる手足がすらりと長かったからだ。しかし、胸も腰も豊かに水着を押し上げていた。
「選手が休んでいる時間に少しだけ水に入らせてもらおうかと思って」
プールに圭美がゆっくりと脚を入れる。
「泳げるの?」
からかってみたくなった。
「石神君、私のこと、ばかにしてる?」
圭美は温泉につかるようにプールに体を沈めていった。
「いつものお礼に、オレがタイムを計ってやろうか?」
「けっこうです」
こちらをにらむと、プールの壁を蹴った。ゆっくりとしたストロークで、クロールを泳ぎ始める。どこかで習ったのか。スピードはないが、無駄のないきれいなフォームだ。
圭美の水着は濡れると色が変わる。体が美しい光沢をもち、陽の光をはじく。
「星野、気が強いよなあ」
泳ぐ圭美を野波が目で追う。
「気の強い女、野波、好きだろ」
「まあ、そうだけど、あの女はちょっと……」
「ちょっとって?」
「石神、知らないのか? 星野は弥生高の木下さんと付き合ってたらしいぜ」
同じ学区の弥生高は同じ地下鉄丸ノ内線沿線にある都立の名門進学校だ。木下はその水泳部の二学年上で、バタフライの選手だった。阿佐高の先輩、青木と同じ学年だ。
木下は一九〇センチ近い長身を生かしたダイナミックな泳ぎで、一〇〇メートルも二〇〇メートルも速く、特に一〇〇は東京都で優勝し、全国大会でも三位で表彰された。高校卒業後は現役で一橋大学経済学部に合格した。大学に入ると、選手としての競泳はきっぱりとやめて、弥生高水泳部でコーチをしている。
「野波、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「弥生高水泳部のOBにオレの中学時代の先輩がいて、木下さんと同期だったんだ。その人から聞いた。秋吉も知っていると思う。木下さんは秋吉と同じ中学で水泳部の先輩だからね。星野、木下さんと付き合っていたなら、同じ歳のオレ達なんて、子どもにしか見えないだろうな」
圭美が入部した日の秋吉のとまどった様子を思い出した。
目の前のプールでは、圭美がクロールを泳いでいる。二五メートルまで行きつくと、大きく弧を描くターンで折り返した。圭美の体はすでに大人の恋愛を知っているのだろうか。僕は息苦しさを覚えた。
「なんで木下さんと別れたんだ?」
「詳しいことは知らないけど、木下さん、女関係のうわさがたくさんあるからな。今は弥生高の二〇〇個メの岡林と付き合っているらしい」
岡林は三年生で秋吉のライバルだ。一七〇センチを超える長身の選手である。二〇〇メートル個人メドレーのほかに、平泳ぎも速い。ウェイヴのかかった長い髪と大人びた顔立ちで、私服姿は高校生とは思えない。
「木下さんって、相手が高校生でもやっちゃうのかな」
野波が好色な表情をこちらに向けた。
僕の頭の中に裸の圭美が木下の大きな体に抱きすくめられる姿が浮かぶ。猛烈な嫉妬心がわき、自分でも驚いた。
「星野が水泳部に入ったのは、木下さんとのことと関係があるのかな?」
頭に浮かんだ妄想を必死に打ち消し、野波に訊く。
「まあ、何の理由もなく、三年生で水泳部のマネージャーになるわけがないよな。星野のほうは、まだ好きなんじゃないかな。うちと弥生高は代々交流がある。練習試合も合同練習もやる。水泳部に入れば、間違いなく木下さんと会う」
「来週、弥生高で試合だよな?」
「ああ。あそこの四〇〇メートルリレーはオレ達より少し速い。全国大会へ行かれるかどうか、目安としてはいい相手だ」
弥生高とは、翌週、練習試合を予定していた。八月の初め、宮前高、弥生高という二大名門校になぜか阿佐高が加わった三校の練習試合は毎年恒例になっていた。
試合といっても、戦うモードではない。近い学校同士、親しい同士の合同記録会の雰囲気だ。
「競るかな?」
「競るだろうな……」
「野波、頼むぜ」
野波は競り勝ったことが一度もない。
「なあ、石神、オレはいつからか自分は競ったら負けると決めつけていた。でも、今シーズンは勝つよ。オレ達にとって最後だからな」