「ああー、福島、行きてえなあー!」
 自転車をこぎながらいつものように堀内が叫ぶ。叫んだ勢いで転びそうになり、ガードレールに足をひっかけて体勢を立て直す。夏の西日が塩素で脱色した堀内の髪を金色に染めている。
 堀内の自転車は軋んだ音をたてていた。スポーツタイプだが、中学一年から六年近く毎日乗っているポンコツだ。上り坂でギアを切り替えると、二回に一回はさびたチェーンがはずれる。新しい自転車のために親からせしめた金はぜんぶロックのレコードを買ってしまった。
「ひっ、ひっ……」
 さびたギアの音に気色の悪いしゃっくりが重なる。
堀内はさっきまで、途中の電柱の下にうずくまって、嘔吐していた。
 この日は練習後に同期の男四人で、阿佐ヶ谷駅のガード下にある「牛友」でカレーライスを食べた。運動部員に人気の大盛自慢の食堂だ。カレーライスも牛丼も、並盛一杯一〇〇円で、阿佐高の学食よりも安い。堀内は洗面器のようなプラスティック製の器にのるカレーの大盛りと牛丼の大盛りをかき込み、さらにカレーの並盛を注文した。合わせて一・五キロくらいの量である。
体力を消耗しつくす練習の後とはいえ、そこまで食べなくても食欲は満たされる。僕たちは堀内が三杯目の並盛カレーを頼む前に一応とめた。しかし、大量に食べることに男の無頼性を見出している堀内はやめない。その結果、嘔吐した。
自転車を止めては吐き、また止めては吐き、吐瀉物を食べに来た野良犬を追い払い、今また自転車をこいでいる。
胃の内容物はほぼ吐き出したのだろう。状態はかなり回復してきた。
「石神はいいねえー。キックの練習がなくなってさあー! ひっ!」
 堀内と僕はよく自転車をこいで一緒に帰った。
僕は練馬区の南田中という町から自転車通学だった。杉並区や中野区の生徒のほとんどは地下鉄丸の内線や中央線で通学している。しかし、このあたりには南北を結ぶ電車がないので、阿佐谷の北に位置する練馬区在住の生徒は自転車通学が多かった。
練馬区民は校内でもすぐにわかる。自転車通学のせいで大腿部が太く、「練馬人」と呼ばれていた。杉並区や中野区在住の生徒にはすらりと脚の長い体形が多い。服装もこざっぱりしていた。
堀内は杉並区民なのに、自転車通学なので、太ももが張っていた。住まいのある荻窪からは、丸の内線も中央線もあり、親からは通学定期代をもらっているが、定期券を買うはずのお金を貯めてグレコのSGを手に入れたのだ。
「石神、今年の公式戦が全部終わったら、オレは秋吉に交際を申し込む」
 ふり向きざま、いきなり堀内は宣言した。
「急にどうしたんだ?」
「急じゃない、オレはずっと秋吉が好きだ。ひっ!」
 しゃっくりはなかなか治まらない。
「いや、オレが訊きたいのは、なんで今いきなりそれをオレに言うんだ、ということだよ」
「お前に先を越されたくない。ひっ!」
「オレが先を越すのか?」
「石神、秋吉を好きじゃないのか?」
堀内は拍子抜けした顔になった。顎の無精ひげに、牛丼の白滝の切れ端がついている。
「いつそんなことを言った」
「この前だって二人で並んでカルキーを投げていただろ。ひっ!」
「あの時は新しいマネージャーの話をしていただけだ」
「そうなの?」
「お前にうそついてどうするんだ?」
「ジョン・レノンに誓えるか?」
「ピート・タウンゼントにだってジミヘンにだって誓うよ」
「そっか……」
「堀内は、秋吉のこと、やりたいなあー、とか考えるの?」
 好奇心のまま訊いた。
「もちろんやりたい! でも、秋吉はまじめだから、させてくれないだろうなあ……」
「鋼鉄女だしな」
「体が鋼鉄だと、心も鋼鉄なのかな……」
秋吉は堀内が自分に恋愛感情を抱いていることなど気づいていないだろう。
「なあ、石神、オレは福島へ行きたい。ひっ!」
 堀内は話題を水泳に戻し、またお決まりの言葉をはいた。
「それは毎日お前から聞かされている」
「個人種目では、もう無理だろう。でも、四〇〇リレーなら可能性はある。おそらく秋吉は二〇〇の個メで全国へ行かれる。その絶頂の時に交際を申し込む。どうだ?」
「青春恋愛ドラマみたいだな」
「ただ、ひっ! 秋吉が全国大会へ行って、オレが行けないと青春ドラマにもならない」
前を走る堀内はしゃっくりをしながらも自転車を止めてふり向き、威嚇するような目線を向け続けた。
「今のままではオレたちは東京都の予選を通過できない。お前があと二秒、いや三秒縮めなくちゃ、全国大会の標準タイムは切れない」
「お前に言われなくたってわかってるよ」
「オレも、今シーズンはまだ自己ベストがでていない」
 うつむいて、悔しそうな顔になる。この男のしぐさはいつも芝居のようだ。今日僕に話すことはずっと前から考えていたのかもしれない。
「津村はまだ速くなるよ。なにしろ、平泳ぎの練習しかしていないのに、クロールで自己ベストを更新するやつだ。専門の平泳ぎでも全国へ行かれるかもしれない」
「ストイックだからな」
「野波はプレッシャーのない状況ならば、いいタイムで泳ぐだろう。でも、もし隣のコースと競る展開になったら、難しい」
「リレーで全国へ行けるかどうかは、あと一か月弱で自由形専門のオレ達がどれくらいタイムを縮められるかだだと思うよ」
「ベストパンツの状態も心配だ。布が薄くなって、尻がすけてきた。あれであと何回泳げるか……。ひっ!」
 公式戦のルールでは破れた水着の着用は禁じられている。
「ほかのパンツじゃ泳げないの?」
「あれじゃないと、どういうわけか腰が安定しない」
「だったらベストパンツをはくのは試合の時だけにしろよ」
「そうだな……」
「堀内は大学でも泳ぐの?」
 ふと頭をよぎったことを訊いてみた。
「やらない。大学の水泳部では、オレはマネージャーレベルだろ。石神は?」
「オレのタイムではマネージャーにもしてもらえないよ。そもそも大学に受からないと思う」
毎日泳いでいるだけの僕は、受験の準備はなに一つやっていなかった。
「だとすると、九月の東京都大会が、うまくすれば全国大会が、オレ達にとって人生最後のレースになるな」
「そっか、この夏の公式戦がラストになること、気づかずに毎日泳いでたよ」
「オレもだ。ひっ!」
「勝ちたいな……。水泳部での三年間の最後を勝った記憶として残したい」