圭美と初めて会話を交わしたのは夏休みが近づいた七月。月曜日の午後、授業の間の十分間の休憩時間だった。
「石神君、ちょっといいかな?」
 教室で机に突っ伏してまどろむ僕の背中を彼女は遠慮がちに叩いた。顔をあげると、ぼんやりした視界の中、憐れむような表情がのぞきこんだ。それが同じクラスの星野圭美だった。肩に触れるか触れないかの髪からかすかなシャンプーが香り、僕の鼻をくすぐる。
「なに……?」
僕は露骨に迷惑顔をしたと思う。部活前の五時限と六時限はエネルギーを体にためこむ大切な睡眠時間だった。一度はまぶたを開いたものの、景色はまたゆっくりと遮断されていく。
阿佐高は一応受験校なので、三年生になると、午後は文系と理系に分かれての選択科目になる。十分の休憩時間は教室の移動時間でもあった。
僕はいつも五時限目をフルに眠り、チャイムが鳴るとすぐに六時限目の教室へ移動する。そして、睡眠をとりやすい後方の席を確保したら、授業が始まる前に眠りについた。
「石神君、午後はいつもお昼寝だね」
 その声に閉じかけたまぶたをふたたび開く。圭美とはその日まで、たぶん話をしたことはない。彼女に限らず、僕はクラスのほとんどの女子と会話を交わしたことがなかった。教室にいる時はいつも眠っていたし、授業が終わるとすぐに部活へ向かったからだ。
「君に何か迷惑をかけたかい?」
「石神君は部活をしに学校に来ているのかな」
「そっとしておいてくれよ。この時間に眠れるかどうかはすごく重要なんだ」
 午後の授業になると、僕のアタマには水泳部のことしかなかった。
昼食後にしっかり体を休めておかないと、いいコンディションで練習に臨めない。睡眠が足りない日はタイムが悪く、居残り練習がさらに遅くまで続いた。
練習でくたくたになるまでしぼられる自分を想像すると、情けないくらい緊張してくる。眠っていれば、その苦しさを忘れられるし、何よりも体力を温存できた。
「相談があるんだけど」
 彼女にあきらめる様子はない。
「授業が終わってからじゃだめかい?」
「六時限目が終わると、石神君、すぐに部活に行っちゃうでしょ?」
脳が覚醒して、圭美の顔がはっきり見えてくる。僕の口の右端から細く線を引くよだれが机を濡らしていた。
 初めて圭美の容姿を間近で見て、息を呑んだ。小さな顔に不釣り合いにくっきりと横に広がる口。黒目がかった大きな瞳とその間にある鼻はすっと整っていた。机に体を預けた僕の目の高さにある腰は細く、生きるために必要な内臓がそこにすべて収まっているとは思えない。
いったい何の用だろう? わいてきた喜びを態度には表さないように上目づかいで見た。
 圭美はまだ横に立ったままだ。白いブラウスの中に淡いブルーのブラジャーが透けて見える。僕は自分の口のはしを濡らすよだれをあわてて手でぬぐった。
いつだったか、野波と一緒に部活に向かう時、廊下で彼女とすれ違ったことがある。
「今の女、石神のクラスだろ? ああいう気の強そうな女、やっちゃいたいなあー。尻をペンペンって叩いてさ。オレもペンペンって叩いてもらって。アッアッアッ……って」
 そう言って野波はいつものように腰をくねらせた。気が小さい野波は、ないものねだりで気が強そうな女が大好きだ。
「野波の理想のセックスは、ペンペンペンって叩き合って、アッアッアッって気持ちよくなるのか?」
「なんだよ。じゃあ、石神、お前はどういうのがいいんだよ?」
「とりあえず手をつないでさあ……」
「はあ? なに小学生みたいなことを言ってんだろうねえ。童貞君が」
「お前は童貞君じゃないのか?」
「童貞ですよー。でも、オレの場合は、最初の相手を選んでいるだけで、お前みたいにもてないわけじゃないからね」
 野波は強がって胸を張り、大胸筋を上下に動かした。こいつはなにかにつけて筋肉を誇示する。
 しかし、一度も会話をしたことのない僕に圭美は何の用だろう。心あたりがなかった。
「僕に相談って?」
 つい、「僕」などとよそ行きの一人称を使ってしまう。
「水泳部でマネージャーを募集していないかな?」
マネージャーはすでに二人いた。一年生と二年生で、どちらも元気溌剌の健康優良児系女子だ。それでも、練習をサポートしてくれる部員は何人いてもありがたかった。ダッシュの時に選手全員のタイムを測ったり、大会にエントリーする書類を作ったり、仕事はいくらでもある。
「希望者って何年生?」
「三年生」
 意外な答えが返ってきた。受験を控えた三年生になってから運動部に入部するなんて聞いたことがない。
「三年かあ……」
ほとんどの運動部員は事実上二年生で引退して受験勉強に勤しむ。三年になっても練習するのは、推薦入学で進路が決まっているか、自衛隊に入るために体を鍛えているか、あるいは全国大会を目指しているか、いずれにしても少数派だった。三年では部活に毎日は参加できないだろう。
「三年生じゃだめ?」
「健康優良児タイプだったら、もう間に合っている。観賞用になりそうだったら、かろうじて、枠が残ってるかな」
「入部希望者は私。健康優良児枠? 観賞枠?」
 僕は圭美をなめるように見た。
「わかった。僕が推薦しよう」
「ありがとう。一次面接は合格ね」
 彼女はにっこりとうなずいた。
「でも、なんで水泳部なの?」
「石神君を見てると、楽しそうだから。ほかのクラスの堀内君や野波君も。それが理由じゃだめ?」
 とりつくろったような志望動機だ。
「楽しそうっていうけど、オレ達、遊んでるわけじゃないからね。夏休みは二五メートルプールを二百往復以上、往ったり来たり、仁王像のような先輩に朝から夕方までバカみたいに泳がされてさあ。受験勉強してたほうがいいんじゃないの?」
 落ち着きを取り戻した僕はいつもの調子で話せるようになった。
「まさかマネージャーはしごかれないでしょ? それに、たぶん私、推薦枠で東京女子学院大に入れるから」
 そういうことか。中堅進学校でも、部活に時間をつかわずに一年生からこつこつ勉強して、優秀な成績を積み重ねていくと、ちゃんとご褒美をもらえる。
都心部にあり、お嬢様大学として知られる東京女子学院大は毎年学年の成績上位者から一人しか行くことができない。圭美はその枠をほぼ確保しているらしい。入学してからずっとまじめに勉強に励んできたのだろう。
「進路も決まって、卒業前の思い出づくりって感じ? うちの部なら、まだ三年生が活動してるからね」
「私、しっかり働くわよ」
「ふうーん……」

それから一週間が過ぎた夏休み初日、朝九時からの練習へ向かうと、校門を入った横に、小さなスポーツバッグを手に圭美が立っていた。
「水泳部、連れていってくれる?」
 僕の姿を認めると小走りに駆け寄ってきた。
「本気だったんだ?」
「もちろん。冗談だと思っていたの?」
「冗談には感じなかったけど、すぐに気が変わるとは思ってた」
「さっき、堀内君たちもプールのほうへ行ったよ」
「ああ」
 めんどうくさそうな対応をしながらも、この美形のクラスメイトと毎日会えると思うと、顔がほころんだ。