大会二日目、千駄ヶ谷駅の改札を出た時の朝の陽の光を、風を、プールへ向かう道を包む輝く緑の匂いを、鳥のさえずりを、そして蝉しぐれを、僕は生涯忘れることはないだろう。
今日の一本にオレのすべてを出し切る――。
 これほどまでに迷いなく、まじり気のない心になったことはない。
「石神!」
 呼ぶ声にふり向くと、堀内がいた。目に力を感じる。
「いよいよ勝負だ」
 僕の背中に軽くグーパンチを入れる。
「うん」
 ふり向きざま、僕も堀内の硬い腹筋にグーパンチをめり込ませる。たわむれる僕たちを見て、どこかの学校の女子選手が笑いながら追い抜いて行った。真っ黒に陽焼けした顔はまだあどけなさを残していた。
「石神、あの子、一年かな。きっと来年も、再来年も泳ぐんだぜ」
「うらやましいな」
「うん。一年の時、練習がきつくて、オレは毎日辞めようと思っていたのに、今はまだまだ選手として泳げる一年生がうらやましい」
「堀内も辞めたかったの?」
「ああ」
「なんで辞めなかったんだ? お前は柔道部からも誘われてただろ?」
「一年の時、野波と一緒にラグビー部の三年にボコボコにされかけて、青木先輩に助けられただろ。あれは大きかった。ただ、水泳部を続けた理由は、やっぱり仲間、かな。チームメイトから離れたくなかったんだ。水泳部にいる時のオレが一番自分らしい気がした。それに、二年生の途中からは速くなるのが嬉しくてさ」
「オレもだ。自分の意思ではなく入部しちゃったけれど、途中からは水泳部じゃない自分が考えられなくなった」
「オレは心の底から全国大会へ行きたい。リレーで、野波と、津村と、石神と、四人で行きたい。今日は、今あるすべてで一〇〇メートルを泳ぐ」
「ベストパンツ、まだはけそうか?」
堀内についてはそれが気がかりだった。
「すっけすけ状態だけど、あと一本はいける」
「そうか、気をつけてはいてくれよな。アップは別のパンツで泳げよ」
「あと一日、ベストパンツには頑張ってもらわないとな」
 そう笑って、堀内は急に真剣な表情になった。
「石神、オレたち、一年生の時からバカみたいに泳いできたよな。なのに、なかなか勝てなくてさ。水泳にはプロはないし、あったとしてもなれっこないし。オレ、ときどき、何のためにこんな苦しい練習をしてるんだろう、って考えてたんだ。でも、ひょっとしたら、これって、生きていくための予行演習なんじゃないかなって思った」
「予行演習?」
「うん。うちの親父なんか見てると、仕事、大変そうなんだ。口にはしないけど、思い通りにいかないことばかりみたいでね。でも、世の中って、もしかしたらそういうものなんじゃないかな。頑張っても頑張ってもうまくいかないことばかり。それでも努力してると、ときどき思いがけずいいこと、あるだろ。水泳部で、オレたち、大人になってから負けてもへこまないためのシミュレーションをしているんじゃないか」
「堀内、そんなこと考えて練習してたのか?」
「三年になってからだけどな。キックとか、きつくてさ。オレ、受験勉強もやらないで、なんでバタバタ水を蹴ってるのかな、って。全国大会へ行かれたからって、将来なんて何も約束されないのに。それでも、泳がずにはいられなかった。なんでだろう、って、いつも考えてた」
 僕たちの右には国立競技場がそびえ、左に大会の会場、神宮プールが近づいてきた。
「堀内、オレたち、大人になって、泳いでおいてよかった、って心から思えるかな?」
「思えるといいな」
「でも、それっていつだろう? 中年のオヤジになった頃かな」
「ジイサンになって、死ぬ間際に思うのかもしれないけどな」
「そんな先じゃいやだなあ……。その後すぐに死んじゃうんじゃ、せっかく頑張ったのに活かせないじゃないか。でも、とにかく、泳いでおいてよかった、って思うためにも、今日は勝ちたい」
「石神、ジイサンになった時、勝った思い出を語り合おう。負けた思い出じゃなくてね」
「堀内、秋吉に気持ちは伝えるのか?」
「ああ。今日のリレーが終わったらな。全国へ行かれても、行かれなくても言う。でも、今はレースのことだけを考えている」
そう言って堀内が今度は僕の腹にパンチを入れた。

 サブプールでアップを終えて上がると、目の前に秋吉がいた。二日目は出場種目がないので、Tシャツに短パン姿だ。
「石神君、ストレッチ、手伝うよ」
 思いもよらぬ申し出に、僕はちょっととまどった。
「秋吉はそんな、気をつかわなくていいよ。一年にやってもらうさ」
 やんわりと断った。
「今日は私、レースがないから、マネージャー兼トレーナーだよ。それに、ストレッチの補助、一年生よりも私のほうがずっと上手だよ。キャリアが違うからね。まかせなさい」
 秋吉はおおげさに胸を張った。
 結局、体をふき、Tシャツを着て、プールサイドの隅で秋吉のサポートでストレッチをした。尻をついて座る僕の肩や腕を秋吉が後ろから羽交い絞めにして引っ張る。そのとき、背中に豊かな胸が当たり、僕は無口になった。
ストレッチを終えると、秋吉は上腕部から指先まで、丁寧にマッサージをしてくれた。
「昨日のレース、かっこよかったよ」
 僕は背後の秋吉を祝福した。まじめな秋吉は一年生の時からこつこつと練習を続けてきた。苦しいメニューも弱音をはくことなく、こつこつと。
「あらたまってなによ」
 秋吉が顔をほころばせる。
「個人種目で全国へ行くなんてすごいよ」
 リレーでの全国大会出場は、チーム四人の総合力で競う。持ちタイムが一番遅い僕は、ほかの三人に少しずつ負担をかける。個人種目では全国大会へ行かれない。
「個人種目もリレーも同じだよ。私たち、ずっと同じ水で一緒に練習をして、一緒に戦ってきたでしょ。もし同期に石神君がいなかったら、堀内君がいなかったら、私はたぶん三年間練習は続かなかった。どんな種目もチームの力だよ。だから、みんなで、福島、行こう。もう一度同じ水で泳ぎたい」
「うん……」
 僕は秋吉に体をゆだね、されるままになっていた。緊張していた筋肉が少しずつ少しずつほぐれていく。
「石神君……、星野さんのこと好き?」
 不意打ちだった。
「えっ?」
「星野さんと付き合ってるの?」
「付き合っているような、いないような……」
「星野さんのこと、好き?」
 秋吉がまた訊いた。
「うん……」
「そっか……。じゃあ、福島に連れていってあげなよ。今日、勝って、連れていってあげなよ」
「ああ」
ふり向くことなく僕は答えた。