大会一日目の帰り、僕は圭美と千駄ヶ谷駅近くの喫茶店に寄った。平日はサラリーマンがスポーツ新聞を読みながら喫煙するチェーン店だが、土曜日の夕刻の店内に客はまばらだ。
圭美は紅茶、僕はコーヒーを頼んだ。コーヒーは墨汁のように黒々と煮つまっていて、ミルクをたっぷり入れないと飲めないほどだった。
 市販のティーバッグで入れたと思われる薄い紅茶に口をつけ、圭美がかすかに顔をしかめる。
「そっちもまずい?」
 僕が訊くと、圭美が今度はおおげさに顔をしかめた。
「すっぱーい」
 隣のテーブルに聴こえないトーンで言った。
「賢介、いよいよ明日が勝負だね」
 ティーカップを手にしたまま、圭美が見つめてくる。
「うん。やるだけはやった。でも、全国大会を体験したオレと体験できなかったオレ、その後の人生って、違うのかな」
「絶対に違うと思う。だって、ほかのたくさんの人よりも大きな喜びも厳しさも体験するんだから。福島で賢介はもっと強い賢介になるんだよ」
 圭美の顔が今まで見たことがないほどの優しさに包まれた。
きれいだと思った。僕は生まれて初めて、人を強く抱きしめたいと思った。
 その時、目の前の圭美が表情をゆがめた。すっぱい紅茶のせいではなさそうだ。彼女の視線は僕の後ろに注がれている。
 ふり向くと、木下がレジで支払いをしようとしていた。僕たちのテーブルから死角になる奥のエリアにいたらしい。弥生高の男子選手五人も一緒だ。佐久間の姿もあった。こちらに気づいた木下に、僕は立ち上がって頭を下げた。
「明日のリレー、うちと同じ組だね」
木下は僕と圭美の姿にやや戸惑いの表情を見せたが、それでもこちらのテーブルに歩み寄ってきた。
「はい。おたがい全国へ行けるように頑張りましょう」
 僕は木下から佐久間に目線を移しながら応じた。
「できれば勝ち逃げしたかった」
 僕の本心だ。
「四〇〇の借りを返すチャンスがないまま卒業されてしまうかと思っていましたよ」
 佐久間が目を輝かせる。
「僕もそう思っていた」
「全体練習の後、スタートとターンを毎日くり返しました。おかげで速くなりましたよ。あの四〇〇のレースで負けた成果です」
「明日は五〇メートルプールの長水路だから、スタートとターンは一度ずつしかない。佐久間君が有利だね」
 そう言って僕はもう一度木下を見た。
「明日、同じ組になれたのは幸運でした。前回のリレーはうちの第三泳者に不幸な出来事があって遅れましたけれど、明日は競ることができそうです。競ればそれだけ全国大会が近づきます」
「こっちもその展開を望んでいるよ」
 木下は表情を崩し、いつものように握手を求めた。
僕は木下と握手をしたくなかった。その手が圭美に触れていたことを激しく意識してしまうからだ。それでも握り返すと、木下はさらに手に力を込めてきた。自分が年上で、しかも水泳選手としてははるかにレベルが高いにも関わらず、まったく態度に出さない。こういうスポーツマンらしいところを圭美は好きになったのだろうか。
その時、圭美が不意に木下に訊いた。
「今日は、岡林さんはご一緒じゃないんですか?」
木下の表情がゆがむ。
弥生高の選手たちがうろたえる。佐久間が助けを求めるようにこちらを見るが、僕もとまどうばかりだ。
「いや……、ほかの部員は試合の後すぐに帰った。星野さん、岡林に何か用事かい。ことづけようか?」
 木下は平静を装うが、目は泳いでいる。
「うかがっただけです」
 圭美はいつも通りの表情だ。
「だったら伝言の必要はないね」
「それにはおよびません」
 圭美が落ち着いたトーンで言い、木下はいつもの表情を取り戻した。
「じゃあ、また明日、頑張ろう」
 木下は再び僕と圭美を交互に見て、逃げるように去った。
その後ろ姿を圭美がせつなげな目で追ったのを、僕は見逃さなかった。それまで経験したことのない、大切なものを失うのではないかという恐怖と、嘔吐しそうなほどの嫉妬を覚えた。