練習の後、校門を出ると、近藤商店の脇の路地で圭美が待っていた。プールから僕と一緒にいた堀内は気をきかせて「では、僕はここで失礼いたします」と慇懃に言い、さびた自転車をこいで去った。
みゆき座で『ラスト・ワルツ』を観てから、圭美と僕は毎日一緒に帰っていた。高円寺に住む圭美は、阿佐ヶ谷駅から中央線に乗る。中杉通りの欅並木を僕は彼女と並んで自転車を押した。学校の近くの道では手はつなげない。僕は圭美に触れたい気持ちを抑えて歩いた。
「津村君、すごく調子がいいね」
 圭美の言うとおり、今日は津村のためのような日だった。
「あいつ、個人種目の平泳ぎで全国大会へ行けるんじゃないかな。計っていないけれど、たぶんクロールも速くなっていると思う」
「リレー、全国行こうね」
「この夏、堀内も、野波も、オレも、受験勉強もせずに泳ぎ込んだ。これで行かれなかったら……、まあ、それでもやるだけのことは全部やったから、あとは全力で泳げば悔いはないかな」
 すると、にわかに圭美が厳しい視線を向けた。
「全力で泳げばそれでいいというのは、私、違うと思う。頑張ればそれでいいの? 全国大会へ行けなくても納得するの? 泳ぐ前から心の中に逃げ道をつくっちゃだめだよ。絶対に全国へ行くことだけを考えよう」
 思いもよらぬ圭美の激しい顔に僕はうろたえた。
「圭美の言う通りだな……」
「全国大会、私を連れていってくれるんでしょ?」
「うん」
 圭美が入部してからは、ずっと彼女の強い意思に牽引されるように練習し、タイムも縮めてきた。そして、今もこうして叱咤されている。
 僕たちは少しの間黙り、中杉通りを歩いた。歩道で正面から来る人をよけた時、圭美の体が僕に触れ、あまい汗の匂いがした。圭美を感じたくて、僕は強く息を吸った。
この一週間で、欅並木の蝉の声が少し変わっていた。ジージーという油蝉の中に、ツクツクボウシが混ざっている。
陽が短くなりツクツクボウシやヒグラシが鳴き始めると、夏休みも終わりに近づく。新学期に入り最初の週末が東京都大会だった。
「賢介、この前見た『ラスト・ワルツ』、ああいう映画だって知ってたの?」
「ああいうって?」
「私、ザ・バンドってよく知らなかったから、退屈すると思ってたんだ。ロックの映画って、ふつうはそのミュージシャンのファンが観るでしょ?」
「そうかもしれない」
「ビートルズの映画はビートルズのファン、ストーンズの映画はストーンズのファンが観るものでしょ? でも『ラスト・ワルツ』は違った。もちろん、ザ・バンドのファンは観ると思うけれど、ファンじゃなくても、切なかったり、儚さを感じたりしたんじゃないかな」
僕たちはたぶん、あの映画に何か自分たちの時代の終わりも見せられた。だから、涙があふれてきた。
「先週まで毎日一万メートル以上泳いでいてさ。疲れがたまって、練習行きたくねえなあ、って毎朝思っていたんだ。でも、今週、調整期に入って、練習量が一気に少なくなっただろ。一万泳ぐことはたぶん一生ない。すると、あんなに嫌だったキックの練習ですら、またやりたくなるんだ」
「私たちって、今あるものは当たり前だと思っているでしょ。それがある日突然なくなると、どうしたらいいかわからなくなっておろおろしちゃう。失って初めて知るものかもしれないね、大切なものって」
「映画の中のニール・ヤングも、ジョニ・ミッチェルも、ザ・バンドの最後のステージに立って初めて、自分たちがそこで失おうとしているものに気づいたのかも。だから、みんな、あんなに苦しい表情だったんだよ」
「賢介、堀内君や野波君や津村君と一緒に泳ぐの、たぶんあと数えるほどだよ」
「うん」
「リレー、頑張ろう。そして、全国大会でまた四人で泳いでよ。どこまで行かれるかわからないけれど、一回でも多く四人で泳いでよ」
「うん」
 欅の緑の間に阿佐ヶ谷駅が見えてきた。駅に着いたら圭美と別れなくてはならない。彼女は改札を抜け、電車に乗る。僕は構内を通り過ぎ、自転車をこいでいく。今日、二人で中杉通りを歩いた時間も二度と戻ってこない。