壁にタッチして見上げると、水飛沫の向こうで圭美が笑みを向けてきた。
「三十秒八。このタイム、午後も維持しよう!」
笑顔の向こうの雲一つない空の青を背景に、彼女の輪郭がくっきりと縁どられている。
「ふうー」
午前の五〇メートル一〇〇本が終わり、ほっとして、息を吐く。
「お疲れ様。じゃあ、ここで昼休みね」
圭美がストップウォッチをリセットする。
疲労が日に日に体に蓄積されるのを感じる。練習は一週間に六日。休みは日曜日なので、金曜日、土曜日はくたくたになる。ただ、疲れている体でも練習タイムは落ちていない。泳ぎはよくなっているのかもしれない。次の弥生高での練習試合では自己ベストをマークできるだろうか。
学食で定食をかき込んでプールへ戻ると、圭美が泳いでいた。昼休みに泳ぐのが日課になったようだ。
日中の気温は連日三十度を超え、水の中にいても、自分が汗をかいているのがわかる。水面やコンクリートの照り返しで四十度を超えるプールサイドでまる一日タイムを計ったり、記録をつけたりするマネージャーは厳しい仕事だ。昼休みの遊泳はつかの間のリフレッシュタイムなのだろう。
昼休み、女子部員たちは部室でにぎやかに弁当を食べていたが、圭美は一人でいることが多い。入部して日が浅いだけでなく、チームの中で明らかに異質な存在だった。水泳部は女子選手たちもみな筋肉質だ。肩幅は広く、腕はたくましく、肩から下、広背筋が盛り上がっている。女でありながら少年のような力強さを感じさせた。そんな集団の中で、圭美は首から肩へのラインがやわらかなカーブを描き、胸や腰のふくらみは女の匂いを発していた。
僕の姿に気づいた圭美がプールから上がり、近づいてくる。焼け焦げたコンクリートの上に濡れた足跡が残っていく。
「石神君、今週は調子いいね」
バスタオルで髪を絞るしぐさが大人びていた。圭美は木下とどんな交際をしてきたのだろう。水着の下に隠された体は大人の恋愛を体験しているのだろうか。野波の話を聞いてから、考えずにいられなくなっていた。
「水はキャッチできている気がする」
彼女に女の匂いを感じている自分をさとられたくなく、僕は肘を上げて水をかく動きを見せながら答えた。
「頑張ってるもんね」
圭美が微笑む。瞳と口がくっきりと大きいせいか、笑うと表情が華やぐ。
「星野には感謝してるよ。こんな記録的猛暑の夏にずっとプールサイドで練習を手伝ってくれてさ」
「石神君のためだなんて思っていないから、気にしないで」
はっきりと言われて、僕はかすかに傷ついた。そして、ずっと気になっていることを訊いた。
「星野はどうして水泳部に入ったの?」
二人の間につかの間の沈黙が生まれた。
「気になる?」
圭美の声のトーンが低くなる。
「毎日こうして、朝から夕方まで一緒にいるんだぜ。ほんとうのこと、教えてくれたっていいんじゃないのか。入部する時は、オレたちが楽しそうだから、とか言っていたけれど、そんな理由だけで三年生が入部しないだろ。しかも、マネージャーでさ………。やっぱり、弥生高の木下さん?」
圭美が一瞬視線を逸らした。
「石神君、知ってたんだ?」
「野波から聞いた。あいつの中学時代の先輩が弥生高で木下さんの同期にいたんだって。それに、木下さんのことは東京の学校で水泳をやっていれば誰でも知っているからね。あの人のバタフライ、一年生の時に初めて見て、びっくりしたよ。ダイナミックで、それでいて肩がものすごくしなやかに動いて、水の上を飛んでいるようだった。ほとんどの大会でぶっちぎりで優勝していた」
「彼と私が付き合っていたのはほんとうよ。あの人、うちのお兄ちゃんの同級生なの。でも、別れた。石神君たちも知っているかもしれないけれど、彼、私から岡林さんという後輩に乗り換えたの」
そこで、しばらく、圭美は口をつぐんだ。
「話したくないなら無理することないけど」
「ううん、平気。彼、最初は私に知られないように岡林さんとも会ってたんだけど、そういうの、女は気づくでしょ? 問い詰めたら、白状した。それでも彼は私のところに戻ってくると思っていた。ところが、彼、岡林さんと付き合うって言ったの。申し訳なさそうにね。自分がいないと、岡林さんは全国大会へ行かれないからだって。でも、それって、変でしょ? 恋愛と水泳は関係ないじゃない。私にはまったく理解できなかった。そんなの体のいい口実だと思ったわ」
圭美の恋愛の話は、女性と交際したことがない身には刺激が強かった。一年生、二年生と僕が二五メートルのプールを往ったり来たり泳いでいる時、このクラスメイトは年上の男と恋愛をしていたのだ。
そんな僕の心中などまったく気づかないふうで彼女は話を続けた。
「私、弥生高水泳部の練習をこっそり見に行ったの」
弥生高は中野区の雑居ビルが密集した地域にある。プールは校舎に囲まれた陽の当たらない谷間だ。圭美は勝手に学校に入って、校舎の四階の窓の隙間からそっとのぞいていたらしい。
「弥生高水泳部の練習を見たのは初めて?」
「一年生の時にも一度行ったわ。三年生だった彼と付き合い始めた頃。泳ぐ姿を見たかったから。水泳部体験のない私にも、彼がすごい選手だということはよくわかった」
一年生の頃、大会の度に見た木下の泳ぎを思い出す。木下が出場するレースになると、会場中が立ち上がって注目した。
「木下さんの泳ぎ、すごかったからね」
「うん。バタフライだけじゃなくて、クロールや背泳ぎでも、弥生高の水泳部で彼が一番だった。でもね、岡林さんも素晴らしいの。彼ほど圧倒的ではないけれど、弥生高の女子選手は誰もかなわない。女子で一番速くて、三年生なのに偉そうにしていなくて、一番厳しい練習をしていた」
「岡林は、二〇〇個メでは、このあたりでは秋吉と一位、二位を争う選手だ」
「そうらしいわね……。彼から聞いたことがある。私はチームの中で、彼と岡林さんがでれでれしているのを想像していた。それでチームメイトたちに冷たい目で見られていると思っていた」
気持ちはわかる。自分と別れた男がその後何かしらの罰を与えられている場面を期待したのだろう。
「でも、違ったんだ……」
「うん……。彼、岡林さんにものすごく厳しいのよ。五〇メートルのインターバルでも、たぶんちょっと気を抜いたら切れないような厳しい制限タイムを与えていた。岡林さん、速いのに、制限をなかなかクリアできないんだ。でも、彼はけっして甘やかさない」
阿佐高水泳部でも行われている制限タイム付きのインターバルが弥生高の水泳部にもあるのだ。
「制限タイムを切れないと、やっぱりその分泳ぐ本数が追加されるわけ?」
「そう。うちと同じ。制限を切るまでプールから上げてもらえないの。チーム全体が緊張していて、練習中、二人は目も合わせない。岡林さん、歯を食いしばっているのが遠くからでもわかった」
圭美の表情がゆがんだ。
「岡林は速いだけじゃなくて、強い。タイムがいい上に、最後まであきらめない。秋吉とはいつもほんのタッチの差で勝ったり負けたりだ。リレーでも、岡林は一年生の時から第四泳者だった。あの年は弥生高の三年生に自由形専門のもっとタイムのいい先輩がいたんだけど、アンカーは岡林だった。最後に競り合ったら負けないからだよ」
「そうなんだね……」
あの強さは、すごく厳しい練習をしてきたからだと、青木が話していた。
「水泳のセンスがあって速くなる選手もいるけれど、岡林は練習に練習を重ねて心も鍛え上げている」
「私、岡林さんに、ものすごく嫉妬した。彼、私にはいつも優しかったの。だって、私たちはいつも向き合っていればよかったから。でも、彼と岡林さんは違った、向き合うだけじゃなくて、二人で同じ方向を見て戦ってもいた。あんなに厳しくされて、それでも岡林さんが頑張れるのは、心から信頼しているからだと思う。私、岡林さんに負けたの? 私も水泳選手だったらよかったの? 運動部じゃない私には理解できない何かがある気がした」
「それで、うちの水泳部に来たの?」
「選手にはなれないけれど、水泳部の夏を体験してみたくて」
「木下さんとも会いたかった?」
「うん……」
圭美のまぶたがかすかに膨らんだ。
「まだ好きなんだ?」
「マネージャーになった時は、好きだったと思う。でも、今はよくわからない」
「わからない?」
うつむいて話していた圭美が顔を上げた。
「阿佐高の水泳部に入ってみて、びっくりしたんだ。だって、ほかの運動部の三年生はとっくに引退してるでしょ? それなのに、ここだけは三年生がまだ真剣に泳いでいる。最初は理解できなかった。だって、石神君も、堀内君も、あんなに速い秋吉さんだって、大学で水泳はやらないんでしょ?」
「秋吉はともかく、オレのレベルでは、大学では通用しないよ。そもそもこんな夏になってまで勉強もせずに一日中泳いでいて、現役で大学には受からないだろ。浪人して一年も体を動かさなかったら、大学の体育会の練習についていかれないと思う」
「それなのに、一日中泳ぐなんて。選手もだけど、毎日指導している青木先輩の存在も、私には理解できなかった。堀内君とか野波君とか、青木先輩の言うことは聞くでしょ。あの二人、私はずっと別のクラスだけれど、目立つから知ってたよ。一年生の時から無法者だと思っていたんだ」
無法者という言い方はどうかと思ったが、堀内と野波は自由だった。授業には出たり出なかったり。教師の言うことも何一つ聞かない。
「あいつらは、自分の意志でしか行動しないから……。青木先輩に泳がされる以外はね」
「私、二年の学園祭の時に、堀内君が気に入らない同級生の男の子をいきなり殴るのを見たの。相手は剣道部のキャプテンで、堀内君よりもずっと体の大きい人。いつも偉そうにしていて、感じが悪いやつだったからちょっと気持ちよかったけど」
堀内と野波は一年に何度か事件を起こす。学校行事や体育の授業中に、気に入らないやつを立ち上がる気力がなくなるまで痛めつける。衝動なのか、ずっと我慢していた怒りが沸点に達するからなのか、僕にはわからない。あの二人はいつも何かにいらいらしている。そして周囲の制止を振り切って、相手が戦意を失うまで叩きのめす。
「偉そうにしているやつと、ツッパリのまねをしているやつが大嫌いで、ときどき過剰な行動にでるんだ」
「石神君や津村君もだけど、水泳部は部室に寝泊まりしているという噂もあるでしょ」
「ああ……」
僕たちは夏休みにときどき部室に泊まった。練習の後、疲れ果てて、体が鉛のように重く、部室でごろごろしているうちに夜になり、帰るのが面倒になるのだ。
家に帰っても食べて眠るだけだ。朝が来たら、どうせまたプールに来て泳ぐ。ならば、このまま部室で眠ってしまえばいい。食事は学校の近くの定食屋か牛丼屋ですませて、ストレッチの時に敷く毛布にくるまって眠った。
両親は僕の外泊についてはあきらめていた。それに、僕がどこかの繁華街で遊んでいるわけではないことは明らかだった。どう見てもそんな体力は残っていなかったからだ。家にいない時は、ほぼ間違いなくプールにいた。
部室に泊まった夜は、月の光のもとで泳いだ。毎日昼間に泳いでいる同じプールなのに、夜の海で泳いでいるように感じた。
同期の男四人で泊まって泳ぐときは全裸だ。真っ黒に陽焼けした体が、深夜はさらに黒い。
コースロープが張られていない夜のプールでいろいろな泳法で縦横斜め自由に泳ぎまわる僕たちは野生のアザラシのようだった。上半身や脚の黒さのせいで、陽焼けしていない尻だけが月明かりで白く光った。
「部室に泊まってるって、ほんと?」
圭美に訊かれてわれに返った。
「うん……、夏休みに何度かね」
「やっぱり」
「疲れて帰るのがめんどうになるからだけど、ときどきプールから離れたくない日があるんだ。オレたち、毎日学校に通っているより、プールに通っている気持ちのほうが強いんだと思う。家よりも、教室よりも、水の中にいる時間のほうが長いだろ。溶けたカルキ―の匂いをかいでいると気持ちが落ち着くんだ」
水泳部は練習時間が長いので、クラスメイトとの関係は希薄になる。そんな僕たちのことが、圭美の目には珍種の生物に見えていたらしい。
「水泳部って、わけのわからない集団じゃない。行儀は悪いけど、不良というわけじゃない。理解できないから、クラスの女子はみんな近づかないようにしているよ。でも、そんな人たちが、青木先輩の言うことだけは素直に聞いて、統率がとれている。そして、一日に一万メートル以上泳いでる。石神君たちは当たり前だと思っているかもしれないけれど、一万メートルって、一〇キロでしょ。歩くのだっていやだよ。毎日そんなに泳いで、水泳と、水泳部と、仲間をとても大切にしてる。びっくりしたわ。この人たちとひと夏を過ごしてみたいと思ったの」
圭美がちょっと憧れをふくんだまなざしを向ける。気の強さが薄れたその優しい笑顔をたまらなく愛おしく感じた。
「三十秒八。このタイム、午後も維持しよう!」
笑顔の向こうの雲一つない空の青を背景に、彼女の輪郭がくっきりと縁どられている。
「ふうー」
午前の五〇メートル一〇〇本が終わり、ほっとして、息を吐く。
「お疲れ様。じゃあ、ここで昼休みね」
圭美がストップウォッチをリセットする。
疲労が日に日に体に蓄積されるのを感じる。練習は一週間に六日。休みは日曜日なので、金曜日、土曜日はくたくたになる。ただ、疲れている体でも練習タイムは落ちていない。泳ぎはよくなっているのかもしれない。次の弥生高での練習試合では自己ベストをマークできるだろうか。
学食で定食をかき込んでプールへ戻ると、圭美が泳いでいた。昼休みに泳ぐのが日課になったようだ。
日中の気温は連日三十度を超え、水の中にいても、自分が汗をかいているのがわかる。水面やコンクリートの照り返しで四十度を超えるプールサイドでまる一日タイムを計ったり、記録をつけたりするマネージャーは厳しい仕事だ。昼休みの遊泳はつかの間のリフレッシュタイムなのだろう。
昼休み、女子部員たちは部室でにぎやかに弁当を食べていたが、圭美は一人でいることが多い。入部して日が浅いだけでなく、チームの中で明らかに異質な存在だった。水泳部は女子選手たちもみな筋肉質だ。肩幅は広く、腕はたくましく、肩から下、広背筋が盛り上がっている。女でありながら少年のような力強さを感じさせた。そんな集団の中で、圭美は首から肩へのラインがやわらかなカーブを描き、胸や腰のふくらみは女の匂いを発していた。
僕の姿に気づいた圭美がプールから上がり、近づいてくる。焼け焦げたコンクリートの上に濡れた足跡が残っていく。
「石神君、今週は調子いいね」
バスタオルで髪を絞るしぐさが大人びていた。圭美は木下とどんな交際をしてきたのだろう。水着の下に隠された体は大人の恋愛を体験しているのだろうか。野波の話を聞いてから、考えずにいられなくなっていた。
「水はキャッチできている気がする」
彼女に女の匂いを感じている自分をさとられたくなく、僕は肘を上げて水をかく動きを見せながら答えた。
「頑張ってるもんね」
圭美が微笑む。瞳と口がくっきりと大きいせいか、笑うと表情が華やぐ。
「星野には感謝してるよ。こんな記録的猛暑の夏にずっとプールサイドで練習を手伝ってくれてさ」
「石神君のためだなんて思っていないから、気にしないで」
はっきりと言われて、僕はかすかに傷ついた。そして、ずっと気になっていることを訊いた。
「星野はどうして水泳部に入ったの?」
二人の間につかの間の沈黙が生まれた。
「気になる?」
圭美の声のトーンが低くなる。
「毎日こうして、朝から夕方まで一緒にいるんだぜ。ほんとうのこと、教えてくれたっていいんじゃないのか。入部する時は、オレたちが楽しそうだから、とか言っていたけれど、そんな理由だけで三年生が入部しないだろ。しかも、マネージャーでさ………。やっぱり、弥生高の木下さん?」
圭美が一瞬視線を逸らした。
「石神君、知ってたんだ?」
「野波から聞いた。あいつの中学時代の先輩が弥生高で木下さんの同期にいたんだって。それに、木下さんのことは東京の学校で水泳をやっていれば誰でも知っているからね。あの人のバタフライ、一年生の時に初めて見て、びっくりしたよ。ダイナミックで、それでいて肩がものすごくしなやかに動いて、水の上を飛んでいるようだった。ほとんどの大会でぶっちぎりで優勝していた」
「彼と私が付き合っていたのはほんとうよ。あの人、うちのお兄ちゃんの同級生なの。でも、別れた。石神君たちも知っているかもしれないけれど、彼、私から岡林さんという後輩に乗り換えたの」
そこで、しばらく、圭美は口をつぐんだ。
「話したくないなら無理することないけど」
「ううん、平気。彼、最初は私に知られないように岡林さんとも会ってたんだけど、そういうの、女は気づくでしょ? 問い詰めたら、白状した。それでも彼は私のところに戻ってくると思っていた。ところが、彼、岡林さんと付き合うって言ったの。申し訳なさそうにね。自分がいないと、岡林さんは全国大会へ行かれないからだって。でも、それって、変でしょ? 恋愛と水泳は関係ないじゃない。私にはまったく理解できなかった。そんなの体のいい口実だと思ったわ」
圭美の恋愛の話は、女性と交際したことがない身には刺激が強かった。一年生、二年生と僕が二五メートルのプールを往ったり来たり泳いでいる時、このクラスメイトは年上の男と恋愛をしていたのだ。
そんな僕の心中などまったく気づかないふうで彼女は話を続けた。
「私、弥生高水泳部の練習をこっそり見に行ったの」
弥生高は中野区の雑居ビルが密集した地域にある。プールは校舎に囲まれた陽の当たらない谷間だ。圭美は勝手に学校に入って、校舎の四階の窓の隙間からそっとのぞいていたらしい。
「弥生高水泳部の練習を見たのは初めて?」
「一年生の時にも一度行ったわ。三年生だった彼と付き合い始めた頃。泳ぐ姿を見たかったから。水泳部体験のない私にも、彼がすごい選手だということはよくわかった」
一年生の頃、大会の度に見た木下の泳ぎを思い出す。木下が出場するレースになると、会場中が立ち上がって注目した。
「木下さんの泳ぎ、すごかったからね」
「うん。バタフライだけじゃなくて、クロールや背泳ぎでも、弥生高の水泳部で彼が一番だった。でもね、岡林さんも素晴らしいの。彼ほど圧倒的ではないけれど、弥生高の女子選手は誰もかなわない。女子で一番速くて、三年生なのに偉そうにしていなくて、一番厳しい練習をしていた」
「岡林は、二〇〇個メでは、このあたりでは秋吉と一位、二位を争う選手だ」
「そうらしいわね……。彼から聞いたことがある。私はチームの中で、彼と岡林さんがでれでれしているのを想像していた。それでチームメイトたちに冷たい目で見られていると思っていた」
気持ちはわかる。自分と別れた男がその後何かしらの罰を与えられている場面を期待したのだろう。
「でも、違ったんだ……」
「うん……。彼、岡林さんにものすごく厳しいのよ。五〇メートルのインターバルでも、たぶんちょっと気を抜いたら切れないような厳しい制限タイムを与えていた。岡林さん、速いのに、制限をなかなかクリアできないんだ。でも、彼はけっして甘やかさない」
阿佐高水泳部でも行われている制限タイム付きのインターバルが弥生高の水泳部にもあるのだ。
「制限タイムを切れないと、やっぱりその分泳ぐ本数が追加されるわけ?」
「そう。うちと同じ。制限を切るまでプールから上げてもらえないの。チーム全体が緊張していて、練習中、二人は目も合わせない。岡林さん、歯を食いしばっているのが遠くからでもわかった」
圭美の表情がゆがんだ。
「岡林は速いだけじゃなくて、強い。タイムがいい上に、最後まであきらめない。秋吉とはいつもほんのタッチの差で勝ったり負けたりだ。リレーでも、岡林は一年生の時から第四泳者だった。あの年は弥生高の三年生に自由形専門のもっとタイムのいい先輩がいたんだけど、アンカーは岡林だった。最後に競り合ったら負けないからだよ」
「そうなんだね……」
あの強さは、すごく厳しい練習をしてきたからだと、青木が話していた。
「水泳のセンスがあって速くなる選手もいるけれど、岡林は練習に練習を重ねて心も鍛え上げている」
「私、岡林さんに、ものすごく嫉妬した。彼、私にはいつも優しかったの。だって、私たちはいつも向き合っていればよかったから。でも、彼と岡林さんは違った、向き合うだけじゃなくて、二人で同じ方向を見て戦ってもいた。あんなに厳しくされて、それでも岡林さんが頑張れるのは、心から信頼しているからだと思う。私、岡林さんに負けたの? 私も水泳選手だったらよかったの? 運動部じゃない私には理解できない何かがある気がした」
「それで、うちの水泳部に来たの?」
「選手にはなれないけれど、水泳部の夏を体験してみたくて」
「木下さんとも会いたかった?」
「うん……」
圭美のまぶたがかすかに膨らんだ。
「まだ好きなんだ?」
「マネージャーになった時は、好きだったと思う。でも、今はよくわからない」
「わからない?」
うつむいて話していた圭美が顔を上げた。
「阿佐高の水泳部に入ってみて、びっくりしたんだ。だって、ほかの運動部の三年生はとっくに引退してるでしょ? それなのに、ここだけは三年生がまだ真剣に泳いでいる。最初は理解できなかった。だって、石神君も、堀内君も、あんなに速い秋吉さんだって、大学で水泳はやらないんでしょ?」
「秋吉はともかく、オレのレベルでは、大学では通用しないよ。そもそもこんな夏になってまで勉強もせずに一日中泳いでいて、現役で大学には受からないだろ。浪人して一年も体を動かさなかったら、大学の体育会の練習についていかれないと思う」
「それなのに、一日中泳ぐなんて。選手もだけど、毎日指導している青木先輩の存在も、私には理解できなかった。堀内君とか野波君とか、青木先輩の言うことは聞くでしょ。あの二人、私はずっと別のクラスだけれど、目立つから知ってたよ。一年生の時から無法者だと思っていたんだ」
無法者という言い方はどうかと思ったが、堀内と野波は自由だった。授業には出たり出なかったり。教師の言うことも何一つ聞かない。
「あいつらは、自分の意志でしか行動しないから……。青木先輩に泳がされる以外はね」
「私、二年の学園祭の時に、堀内君が気に入らない同級生の男の子をいきなり殴るのを見たの。相手は剣道部のキャプテンで、堀内君よりもずっと体の大きい人。いつも偉そうにしていて、感じが悪いやつだったからちょっと気持ちよかったけど」
堀内と野波は一年に何度か事件を起こす。学校行事や体育の授業中に、気に入らないやつを立ち上がる気力がなくなるまで痛めつける。衝動なのか、ずっと我慢していた怒りが沸点に達するからなのか、僕にはわからない。あの二人はいつも何かにいらいらしている。そして周囲の制止を振り切って、相手が戦意を失うまで叩きのめす。
「偉そうにしているやつと、ツッパリのまねをしているやつが大嫌いで、ときどき過剰な行動にでるんだ」
「石神君や津村君もだけど、水泳部は部室に寝泊まりしているという噂もあるでしょ」
「ああ……」
僕たちは夏休みにときどき部室に泊まった。練習の後、疲れ果てて、体が鉛のように重く、部室でごろごろしているうちに夜になり、帰るのが面倒になるのだ。
家に帰っても食べて眠るだけだ。朝が来たら、どうせまたプールに来て泳ぐ。ならば、このまま部室で眠ってしまえばいい。食事は学校の近くの定食屋か牛丼屋ですませて、ストレッチの時に敷く毛布にくるまって眠った。
両親は僕の外泊についてはあきらめていた。それに、僕がどこかの繁華街で遊んでいるわけではないことは明らかだった。どう見てもそんな体力は残っていなかったからだ。家にいない時は、ほぼ間違いなくプールにいた。
部室に泊まった夜は、月の光のもとで泳いだ。毎日昼間に泳いでいる同じプールなのに、夜の海で泳いでいるように感じた。
同期の男四人で泊まって泳ぐときは全裸だ。真っ黒に陽焼けした体が、深夜はさらに黒い。
コースロープが張られていない夜のプールでいろいろな泳法で縦横斜め自由に泳ぎまわる僕たちは野生のアザラシのようだった。上半身や脚の黒さのせいで、陽焼けしていない尻だけが月明かりで白く光った。
「部室に泊まってるって、ほんと?」
圭美に訊かれてわれに返った。
「うん……、夏休みに何度かね」
「やっぱり」
「疲れて帰るのがめんどうになるからだけど、ときどきプールから離れたくない日があるんだ。オレたち、毎日学校に通っているより、プールに通っている気持ちのほうが強いんだと思う。家よりも、教室よりも、水の中にいる時間のほうが長いだろ。溶けたカルキ―の匂いをかいでいると気持ちが落ち着くんだ」
水泳部は練習時間が長いので、クラスメイトとの関係は希薄になる。そんな僕たちのことが、圭美の目には珍種の生物に見えていたらしい。
「水泳部って、わけのわからない集団じゃない。行儀は悪いけど、不良というわけじゃない。理解できないから、クラスの女子はみんな近づかないようにしているよ。でも、そんな人たちが、青木先輩の言うことだけは素直に聞いて、統率がとれている。そして、一日に一万メートル以上泳いでる。石神君たちは当たり前だと思っているかもしれないけれど、一万メートルって、一〇キロでしょ。歩くのだっていやだよ。毎日そんなに泳いで、水泳と、水泳部と、仲間をとても大切にしてる。びっくりしたわ。この人たちとひと夏を過ごしてみたいと思ったの」
圭美がちょっと憧れをふくんだまなざしを向ける。気の強さが薄れたその優しい笑顔をたまらなく愛おしく感じた。